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アリ・ババは洞窟に入れるか?
--夢幻幽玄--
(数学セミナー別冊「数学の愉しみ」13号 (1999.6.6), 3-5ページ.)



 「アリ・ババがゴマの洞窟に入ろうとしています。 その入り口には樽が1つあって、樽には4つの穴があいているのですが、 それぞれの穴は樽の中にある4つの壺に続いています。 そしてどの樽にもニシンがそれぞれ1匹ずつ入っています。 ニシンは頭を上にしているものもあれば、下にしているものもあります。 アリ・ババは同時に2つの穴に手を突っ込んで、ニシンの位置を調べた後、 その位置を勝手な方向に変えられます。この操作の後、樽は回り始め、 しばらくして止まりますが、アリ・ババには穴の区別ができなくなります。 このゴマの洞窟は、ニシンが同じ方向に並んでいるときだけ開くのです。 洞窟に入るためにはアリ・ババはどうしたらよいのでしょうか。」
 昨年(1998年) ,文科系数学の講義のテストにこの問題を出してみた。 学生アリ・ババは洞窟に入れるだろうか?ということである。
 学生はまず、「ニシンって何ですか?」と言う。ロシアに住めばわかるが、 魚と言ったら棒のような薫製のニシンしかないのである。 上下がついている棒状のものなら何でもいいが、 回答者に身近なものとしてニシンが選ばれているだけである。
 言い遅れたが、これは60年以上続いたレニングラード(旧ソ連)の数学サークルのノウハウを集めた『数学のひろば』(岩波書店)の中にある問題である。
 さて、問題を考えてみよう。中のニシンの向きはわからない。 まず、隣り合う穴に手を入れて2つとも上に向ける。 次に向かい合う穴に手を入れて下を向いているニシンは上に向ける。 順序はこの逆でもいいが、この操作をして洞窟が開いてしまっているのでなければ、ともかく樽の中のニシンのうち3つは上を向いていて、1つは下を向いている。 しかし、どの穴のニシンが下向きかはわからない。 いわば、これが初期状態である。 何も状況が分からないランダムな初期状態から、ものを考える出発点としての初期状態になったのである。
 しかし,多くの学生はここで(考えることに)疲れてしまう。 ニシンに対する違和感を捨て、抽象的な問題として意識することの方により疲れているのかもしれないが。
 それでも答を要求すると、
「何度も何度も手を突っ込んで、下向きのニシンにぶつかるまでやればよい。」
「1本の手を突っ込んだまま、もう1本の手で他の穴を探って下向きのニシンを探せばいい。」
と言い始め、ひどいのになると
「2人で同時に手を入れて全部上を向ければいい」
と言い出す。
 状況に即して考えるということが面倒になって、問題自身を変えようとするのだろう。 現実の問題であれば、それでもいいだろうし、その方がいいかもしれないが、今問題にしているのはそういうことではない筈だ。
 こうした回答が出るたびに,「3つ以上のニシンに同時に触ってはいけない」とか「試行回数に制限がある」とか「2つのニシンを触ったあとは両手を素早く引き抜かないと樽が回ってけがをする」とか,こちらの方も疲れてしまう.
 なぜこういうことになるのだろうか. 確かに問題にはあからさまに書いてはいないが,これらは文脈から自然に推測される条件である.
 筆者の好きな推理小説では,「書いてあることより書いてないことに注意せよ」というのは有力な謎解きの着眼点である. が,使ってよい「書いてないこと」はあくまでその状況で自然に推測される範囲でないといけない. 何でもありという訳ではない. 密室殺人の最後の謎解きの場面で,壁を通り抜けられる超能力者の存在を探偵だけが知っていたというのでは推理そのものが成り立たない.
 結局は,考えることが嫌だ,考えても解決できないことが嫌だという学生の気持ちから起きているのではないだろうか. 彼らが受けて来た教育は,単純な問題を数多く解くこと,それも少ない選択肢の中から選ぶことであるからだろうか. そして,選択問題でなくても,記憶しているいくつかの選択肢を探して適当に答えにする. 合っていればいいし,間違っていても他の問題で点を取ればいいと済ませてしまう. そんなことじゃ駄目だと言っても,そうしないとセンター試験に点は取れないということらしい.
 ところが本来の数学の試験はこの方法が使えない。 考えて答えを出したとしても合っているかどうか(正しいかどうかでなく模範解答と合っているかどうか)分からないから嫌いになる.
 つまるところ,数学嫌いが問題なのではなく,数学嫌いになっているというか,数学嫌いが当たり前のことと思っている子供たちの心の有り様が問題なのではないだろうか.
 さて,この問題だが,やはり目的意識を持たずに闇雲にやっていては解けるものも解けない. 最終ゴールを考える.それはもちろん4つすべてが揃うことだが, その一歩手前の状態を考える. それからなら間違えようもなく出来てしまう,いわば最終状態を. それが何かが分かれば,解決は目の前だ。 高々5回の操作で扉は開く.
 問題はここにある.この最終状態というものがあるということに。 それがあることに気がつかない.
 落ち着いて考えれば,ゴマの洞窟の壷の中の状態は,廻りさえしなければ,24=16 通りしかない. そのうちの2通り,すべて上かすべて下かがゴールである.
 壷が回るのは目くらまし.それに幻惑されて状態を把握できなくなる. 最終状態というものがあることさえ信じられればできる. そういうものがあるなら,それはいくら廻っても関係のない状態,いわば回転不変な形で表現できる状態である筈で,..... と推理も進んで行く.
 結局,学生アリ・ババがゴマの洞窟の扉を開けることができるかどうかが問題なのではない. 扉を開ける努力をしつづけるように, もしくは開ける努力を続けたいと思わせるように, 学生自身の心の扉が開けられるかどうか. そういう問題なのだろう.





以下はまた,第何案かの原稿の一部である.
うまくいかなかったので止めたのだが,こちらが好みの人もあるかも知れない.


 アリババは、盗賊が盗んだ40個の甕の1つに隠れている。どうやら、隠れ家に着いたらしい。2人の盗賊の声が聞こえる。
「おい、早く扉を開けろよ。この甕を中に入れたら、また残りを運びに行かなくちゃ行けないだぞ。たった4つ、向きを揃えるだけなんだろ。」
「そんなこと言ったって、手を抜くと壷が廻るんだぜ。どの穴のニシンの向きを変えたか分からなくなるから、やり方を思い出さなくちゃいけないんだ。」
「え!誰が廻るようにしたんだ。壷の中のニシンがスイッチだなんて分かるわけないんだから、そんなことまでしなくて良いのに。」
「この前、忍び込んだ奴が居ただろう。盗賊の館に泥棒なんて、ふざけた野郎だってんで、開け方を難しくしたんだ。だから、手を抜くたびに廻るようにしたんだ。おまけに,入るときだけじゃなくて,出るときにも同じ仕掛けを作ったんだぜ。」
「片一方の手を抜かずに、他の穴に別の手を入れて、全部揃えたら良いじゃないか」
「それがな、2つのニシンをぐっと握らないと、ニシンの向きが変わらないし、その後は一旦両手を穴から抜かないと、ニシンは動かなくなるんだ。たった4つのニシンだが、手は2つだからな。」
「お前が、そっちの2つの穴に手を入れて、俺が残りの穴に手を入れて一緒に向きを揃えりゃ良いじゃないかよ。」
「それがな、3つ以上のニシンに同時に触れると、中の警報玉が割れて大きな音がして皆ここに飛び出してくる。大目玉だぜ。」
「それなら、何度も何度も突っ込んで、触るたびに上向けりゃ良いだろうが。」
「それも、駄目なんだ。5回ありゃどんなときにも出来るんだ。が、間違ったら30分待たないと、6回目にまた中で警報がなる。」
「そりゃ面倒だな、俺には扉の開閉係は勤まらんな」
「黙っててくれ。俺はまだ覚えたばかりなんだから」
暫くシーンとしていたと思うと、大きな音がして、扉が開いたようだ。それから、どこかに運ばれて、甕ごと下ろされた。
「重い甕だなあ。さあ、また運びに行こうか」
アリババはあたりに誰もいなくなった様子を確かめて、甕からそっと出た。盗賊の館の倉庫らしい。みな、アリババの奉公先の屋敷に残りの財宝を運びに行ったらしい。逃げるのなら今だ。お役人に知らせなくちゃ。
出口まで来たが、扉が開かない。廻りを探してみると壷が見つかった。底は台から離れないが、ぐるぐる廻るようになっている。壷を廻して見ると、膨らんだ胴のところに、4箇所、等間隔に穴が開いている。ちょうど手を突っ込めるほどの穴で、覗いてみると、ニシンの形の彫刻が見える。どうやらこれが、扉を開ける仕掛けらしい。
さて、アリババは無事に洞窟を抜け出せるだろうか。

与えられた条件の下で、可能か不可能かなのである。 条件を変えて良いなら、それはまた別の問題なのである。 少し考えてもできなければ,問題を変えて済まそうとし,それが駄目ならまた変える.どんなに変えてもできなければ諦める.

現代にはあまりにも多くの手段が用意されていて、あれがだめならこれがあり、 必要ならば専門家を呼んでくればいいということになったりする。

日本の教育システムの中で、この内容を生かせる場所があるだろうか。 指導要領に縛られた学校教育にはどこに置くこともできない。 一見自由な発想を保証するもののように見える総合的な学習の時間 (2002年から実施される)で使ったらどうかとも思うが、 情報・環境・国際・福祉という枠が課されていて、 現場でこれを採用することは難しそうだ。 最低限を保証することが目標の日本の公教育には、個人の自由な成長を許す土壌がない。 個性を伸ばすには隠れキリシタンのように、公には知られないところで 育まねばならない。

そういうこともあって、試みに、昨年大学の講義で使ってみた。 文科系の数学の講義では,普通、数学の素養のない人も興味を持てるような トピックスや歴史を語ることが多く、学生への単位認定も何かを達成したか どうかを測ることにはならない。

「数学のひろば」はそんなに複雑な思考は要らないが、それでも個々人の思考の パターンや様相の組み替えが要求される。 テスト問題として出されたら、学生アリ・ババは洞窟に入れるだろうか。


遊び過ぎで売り物にならないというか,遊びながら,制限字数に抑える芸がないというか,これは没にしたもの. だから,こちらの部分についてのお叱りはご容赦!