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数学教育の危機とは何か
神奈川県高等学校教科研究会数学部会50周年記念誌(1999年), p.135.
数学教育の危機とは何かという題を与えられて,いつにも増して筆が進まない。
言いたいことは沢山あるような気はするのだが,さて,考え始めるとあれもこれもと浮かんで,まとまってくれない。
数学教育の危機を克服するための方策をあれこれ考えることはあっても,それ自身が何かを考えることはなかった。
改まって数学教育の危機とは何かと問われて考えていると,色んな思いが交錯する。
頭の中がカオスのようになってしまう。
そのうち結局,「数学とはなにか」「教育とはなにか」に行き当たってしまう。
やはり,思弁ばかりでは行き詰まる。実践的に考えることにしよう。
アンケートをすれば,数学が嫌いだという子供が増えた。
数学が得意でないという子供が増えた。
数学が役に立つものだと思っている子供は極少ない。
教師の間ですら,数学が役に立つからと,という議論が立てにくいようだ。
大学で数学を教えていての実感では,知識を個別の知識としてしか考えない。
知識の全体像を考えない。
個々の技術も何のためのものかを考えないから,教えられた技術の応用として与えられた問題なら解けても,与えられた問題を解くための技術を見つけられない。
多くは数学だけの問題ではないものの,数学教育の危機は確かにあるようだ。
それも絶望的な程に。
しかし,今述べたことはすべて絶対的な主張ではない。
僕自身,学生時代にはよくそう言って叱られたものだ。
これらはすべて,ある意味では程度の問題であり,相対的な問題なのである。
数学教育の危機を克服するために,数学の面白さを教えるとか,数学の美しさを教えるとかしても,恐らくは無駄だろう。
数学者や科学者の卵を拾いだす役には立つだろうし,それはなされるべきことだ。
しかし,数学教育の危機として感じていることの克服にはならないだろう。
短い文章の中では結論的に言うしかないが,僕は「教育の危機」がまずあって,教育を受ける側にとって,重い勉強を強いる数学が,単にその鉾先に立っているだけなのだと思っている。
そして,「教育の危機」とは何より教育しようとする教育の危うさだと思う。
植木屋の名人が秘訣を訊かれて,「なに,木の育つのを邪魔しないことですよ」と答えたように,ソクラテスの産婆術が言うように,教育とは人が育つのを見守ることであり,過剰にならないように気をつけながら肥えや水をやることなのだ。
踏み切れずにためらっている背を,そっと押してやることなのだ。
生徒の側も教師の側も,がんじがらめに縛りつけていては,伸びていく余地が見つからない。
少子化のおかげで,どの段階の入学試験もずいぶんと広い門になっている。だから,受験のためでなく,普通に数学を教えることはできないだろうか。数学を学ぶことで身につく筈の能力。
物事に対して大局的に全体を把握する能力。
その中で何が問題点であるかを見抜く能力。
そしてその問題を解決する能力,というより問題解決へのアプローチを探す能力。
何が使うことのできる技術で,どんな知識が問題解決の役立ち得るかを考え,そのことを確かめる能力。
まさに,生きる力を養うには,数学を学ぶことは一番役に立つものなのである。
「損するのが分かってても,出さなきゃいけない本て多いでしょう。本屋って,たまたま損するわけじゃあないのよ。本屋が稼ぐっていうのは,売れない本のため。ね,社員のためじゃないの。一億入ったら《ああ,これだけ損が出来る》と思うのが,本屋さんなの」(北村薫)
難しいのは,人の時には限りがあるからだ。
忘れられない少年少女文学全集の宣伝コピーがある。「早く読まないと,大人になっちゃうよ」
短い期間の間にすべてを教えなきゃいけないと思うから,教える側の危機が生まれる。
だから,教え方に強弱や疎密をつけて...というのは瑣末な技術論だ。
人生は難しい。
限られた時を生きるから,何かを選べば何かを捨てねばならない。
数学は悠久で,何も困っているわけではない。人生だから,難しい。
その難しさを生徒とともに悩むこと,それ以外に出来ることがあるのだろうか。
実際に公刊された形は,上のものを少し刈り込んだ(どこをどう刈り込んだかはしらないが)もの.1ページに押さえる必要があったのだそうだ.
それはともかく,例によって,本校の初稿はさらに長いもので,それも一興と思う人がいるかも知れないので,以下に挙げておく.
数学教育の危機とは何かという題を与えられて,いつにも増して筆が進まない。
言いたいことは沢山あるような気はするのだが,さて,考え始めるとあれもこれもと浮かんで,まとまってくれない。
数学教育の危機を克服するための方策をあれこれ考えることはあっても,それ自身が何かを考えることはなかった。
「「数学教育」の危機」なのだろうか,「「数学」教育の危機」なのだろうか,「数学「教育」の危機」なのだろうか,それとも本当は「「数学」の危機」なのだろうか?
どれもが幾分か本当で,だからすっきりした議論ができず,誰の話を聞いても不満が残るのだろう。
改まって数学教育の危機とは何かと問われて考えていると,色んな思いが交錯して,頭の中がカオスのようになってしまう。
そのうち結局,「数学とはなにか」「教育とはなにか」に行き当たってしまう。
思弁ばかりでは行き詰まる。実践的に考えることにしよう。
何が達成されていないから数学教育の危機が来たというのだろうか。
取りあえずでもいいから,何ができたら数学教育は達成されたといったらいいのだろうか。
アンケートをすれば,数学が嫌いだという子供が増えた。
数学が得意でないという子供が増えた。
数学が役に立つものだと思っている子供は極少ない。
教師の間ですら,数学が役に立つからと,という議論が立てにくいようだ。
大学で数学を教えていての実感では,局所的にもものを考えない。
知識を個別の知識としてしか考えない。
知識の全体像を考えない。
個々の技術も何のためのものかを考えないから,教えられた技術の応用として与えられた問題なら解けても,与えられた問題を解くための技術を見つけられない。
多くは数学だけの問題ではないものの,数学教育の危機は確かにあるようだ。絶望的な程に。
しかし,今述べたことはすべて絶対的な主張ではない。
僕自身,学生時代にはよくそう言って叱られたものだ。
これらはすべて,ある意味では程度の問題であり,相対的な問題なのである。
数学教育の危機を克服するために,数学の面白さを教えるとか,数学の美しさを教えるとかしても,恐らくは無駄だろう。
数学者や科学者の卵を拾いだす役には立つだろうし,それはなされるべきことだ。
しかし,数学教育の危機として感じていることの克服にはならないだろう。
短い文章の中では結論的に言うしかないが,僕は「教育の危機」がまずあって,教育を受ける側にとって,重い勉強を強いる数学が,単にその鉾先に立っているだけなのだと思っている。
そして,「教育の危機」とは何より教育しようとする教育の危うさだと思う。
植木屋の名人が秘訣を訊かれて,「なに,木の育つのを邪魔しないことですよ」と答えたというように,ソクラテスが言うように,教育とは人が育つのを見守ることで,過剰にならないように肥えや水をやることなのだ。
踏み切れずにためらっている背を,そっと押してやることなのだ。
生徒の側も教師の側も,がんじがらめに縛りつけていては,伸びていく余地が見つからない。
少子化のおかげで,どの段階の入学試験もずいぶんと広い門になっている。だから,受験のためでなく,普通に数学を教えることはできないだろうか。数学を学ぶことで身につく筈の能力。
物事に対して大局的に全体を把握する能力。
その中で何が問題点であるかを見抜く能力。
そしてその問題を解決する能力,というより問題解決へのアプローチを探す能力。
何が使うことのできる技術で,どんな知識が問題解決の役立ち得るかを考え,そのことを確かめる能力。
まさに,生きる力を養うには,数学を学ぶことは一番役に立つものなのである。
「損するのが分かってても,出さなきゃいけない本て多いでしょう。本屋って,たまたま損するわけじゃあないのよ。本屋が稼ぐっていうのは,売れない本のため。ね,社員のためじゃないの。一億入ったら《ああ,これだけ損が出来る》と思うのが,本屋さんなの」(北村薫)
難しいのは,人の時には限りがあるからだ。
忘れられない少年少女文学全集の宣伝コピーがある。「早く読まないと,大人になっちゃうよ」
短い期間の間にすべてを教えなきゃいけないと思うから,教える側の危機が生まれる。
だから,教え方に強弱や疎密をつけて...というのは瑣末な技術論だ。
人生は難しい。
限られた時を生きるから,何かを選べば何かを捨てねばならない。
数学は悠久で,何も困っているわけではない。人生だから,難しい。
その難しさを生徒とともに悩むこと,それ以外に出来ることがあるのだろうか。