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 人名索引 く


人名索引総目次  かき けこ

クィレン日下誠クジミングスマングチエレス
グッゲンハイマーグッツマーグーデルマングッドマングーテンマッヘル
グートクヌースA.クネーザーM.クネーザーグネップ
クネレークノップグノークペルベルグ熊沢鏡之助
クラクライトマンクライン、フェリックスクライン、モーリスクラヴィウス
クラウゼンJ.G.クラークF.W.クラーククラーククラスノセルスキー
グラスマングラドシュテインクラードニクラトフスキクラーニン
グラムクラメールクーラントグランヴィル
クリークリーヴランドグリーザークリスタルクリストッフェル
グリフィスA.H.クリフォードW.K.クリフォードグリボエドフクリーム
栗本鋤雲グリュンバウムグリュンヴァルドグリーンJ.グリーン
グリーン,ベングリーンバーググリーンヒルクルイロフグルサ
クルーゼイグルディンクルツヴェイルクールノークルル
グレアムグレイグレイヴズグレイシャー グレイス
グレイツァークレイングレゴリウス13世グレゴリー、聖ヴァンサンのJ.グレゴリー
クレプシュグレプナークレメントクレモナクレレ
クレローグレングレンディニング
クロークロウェルクローシュグロタンディエククロネッカー
クロフトンクーロンT.H.グロンウォールグロモフ
クーンH.W.クーンクンマー

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クィレン(Daniel Grey Quillen, 1940.6.27-).
 アメリカ,ニュージャージー,オレンジの生まれ.ハーバード大学卒(1961).R.ボットの下で学位取得(1964).Ph.D.論文は「線形偏微分方程式の過剰決定系の形式的性質」.
 MIT教授.研究の方向性を定めるためにフランスとイギリスに留学.それぞれグロタンディエクアティヤに強い影響を受ける.高次の代数的K理論で,1978年ヘルシンキのICMでフィールズ賞受賞.
 代数トポロジー.単体的対象上のホモロジーの構成.ホモトピー論におけるアダムス予想の解決.このために2つの方法を提案.1つは代数幾何,1つの群のモデュラー表現論.群のコホモロジーと代数的K理論.セール予想(体上の多項式環上の射影加群は自由加群である)をススリンと独立に示す(1976).  [代コ]  トップ

日下誠(Kusaka Makoto, 宝暦13年(1764)--天保10年(1839)6月3日).
初めは矢田喜惣太とも鈴木誠政とも.日下貞八郎誠,字は敬祖,号は五瀬.
 料亭「松源」の出で,鈴木又吉といった.矢田喜惣太と言った頃は,主水河岸(鎌倉河岸に続く細い水路で、現在は鍛冶橋一町目五番地)の呉服所・茶屋四郎次郎の手代をしていたが、茶屋を辞めた後、麻布新町に住み、弟子を取って教える.同居の弟子もあった(例:大原利明(?--1825)).
 初め,経世家の音羽先生・本多利明の弟子となり、さらに算学を志して関流宗統四伝・安島直円の弟子となる.
 後独立して、近くの日ヶ窪に移住し、内弟子も取れるような正式の塾を開いたのである。この地は現在六本木ヒルズのあるあたりの低地のよう(現在地下鉄麻布十番駅から西北西に約二百メートル).塾の立地は低地にあったが、その意気は高く、この時期,関流の達算の三人のうちに数えられていた。
 このとき,名前も日下貞八郎誠と改め、号を五瀬(いつせ)とした.
 東叡山寛永寺の寺侍となったこともあるらしい.
 弟子に内田五観和田寧,白石長忠(1795-1862),長谷川寛,大原利明,御粥安本(尾張藩士,1794-1862.3.4),小出修喜(1797-1865),牛島盛庸(1756-1840),岩井重遠(1804-1878),栗田宜貞,不破直温,五瀬是勝,溝口勝信,木村清太夫,小泉則之など.
 稿本もいくつか残っている.たとえば,『線上累圓術』,『當世塵劫記解』
 安島直円没(寛政十年(1798)四月五日)後,遺言により正統を継ぎ,安島直円の遺稿「不朽算法」を編集,翌年の寛政十一年(1799)にまとめた.出版はされなかったが関流の財産となった. 公刊されなかったのは、程度が高すぎて,出版をしてくれる書肆がなかったから.
 「不朽算法」に日下が書いた序文に
「夫それ,算者さんは西洋より来れるが故に,敷算しきさんするに左行に陳するなり. 其その来ること遠しと雖いえども,尚なお藍の藍あいより青あおきが如し. 我朝わがちょう日々ひびに達算たっさんの士で,奇術きじゅつを著あらわし,豈あに愉快ゆかいならずや. 我師わがし南山なんざん安島先生,関夫人より四伝にして算の蘊奥うんのうをひらき自問自答じもんじとう稿こうに綴つづりて蔵ぞうす...
 寛政十一年巳未五月  関流 五瀬日下誠敬祖識」
とある.  [文2] トップ

クジミン(R.O. ({\cyrb Rodion Ocievich Kuz\cprime{}min}), 1891.11.22--1949.3.24).
 ロシア,ヴィテプスク州リャブィ村に生まれ,ソ連レニングラードに死す.ペトログラード大学卒(1916).ペルミ大学(1918--22),レニングラード工業大学(1922--49),レニングラード大学(1945--)で教授職.
 整数論,解析学.素数分布とゼータ関数論に業績.特に,代数的数α(≠ 0,1)と代数的無理数β に対し,αβが超越数であることを示した(1930).
 定評ある教科書,問題集を書き,優れた教育者でもある.  [モ歴]  トップ

グスマン(Miguel De Guzm\'an Oz\'amiz, 1936.1.12--2004.4.14). スペイン,ムルシア,カルタヘナに生まれ,マドリード州ヘタフェに死す.
 シカゴ大学からカルデロン(Alberto Pedro Calder\'on)の指導で「一般化された等質性を持つ特異積分作用素(Singular Integral Operators with Generalized Homogeneity)」によりPh.D.(1968). マドリード・コンプルテンセ大学教授 
 測度論,積分論,フーリエ解析,幾何,微分幾何,数学史.
  [直8]  トップ

グチエレス,アントニオ(Antonio Gutiérrez Vegara, 1951.5.20-).  スペイン・バレンシア州アリカンテ県オリウエラの生まれ.
 美しい幾何のHPLand of Incaのオーナー.  [幾4]  トップ

グッゲンハイマー(Heinrich Walter Guggenheimer, 1924.7.21-). ドイツ,ニュルンベルクの生まれ.
 微分幾何,トポロジー,代数幾何,凸性.
 チューリヒ工科大学ETH卒(1947),また,B.エックマンとH.ホップの指導で「ケーラー計量を持つ複素解析多様体について(\"Uber komplex-analytische Mannigfaltigkeiten mit K\"ahlerscher Metrik)」により,理学博士(1951). エルサレム・ヘブライ大学講師(1954-56),バル=イラン大学教授(1956-59).1959年にアメリカに移民し,1965年に市民権獲得.
ワシントン州立大学助教授,1年後ミネソタ大学,教授(1962),ニューヨク大学工芸学校教授(1967-1995)
 『微分幾何学』(1963)はエルランゲン・プログラムの観点から書かれた最良の書であると,Robert Hermannが言っている.
 『平面幾何とその群(Plane Geometry and its Groups)』(1967), 『応用できる幾何学:大域的と局所的な凸性(Applicable Geometry: Global and Local Convexity)』(1977)など.   [フ文]  トップ

グッツマー(Karl Friedrich August Gutzmer, 1860.2.2-1924.5.10). ドイツ,シュヴェリーンに生まれ,ハレに死す.
 ドイツの数学者で,ドイツ自然科学者・医学者協会の教育委員会のドレスデン会議(1907)の議長.
 1881年までベルリンのFriedrichswerderscheギムナジウムに学び,ベルリン大学の数学の講義を聞き(1881-1884),1887年にベルリン大学を卒業.ハレ大学から「高次のある偏微分方程式について(Über gewisse partielle Differentialgleichungen höherer Ordnung)」によって哲学博士号取得(1892)
 ベルリン工科大学で教え(1894-),ハレ大学准教授(1895-1899),イェーナ大学教授(1899-1905),カント-ルの後継としてハレ大学教授(1905-1924).大学学長(1914-15),ドイツ数学科学教育委員会議長(1908-1913).
  [クI.附A] トップ

グーデルマン(Christoff Gudermann, 1798.3.28--1852.9.25).
ウィンナーブルクの生まれ.ゲッティンゲン大学卒(1821).ミュンスターで数学教授.ワイエルシュトラスの先生. C.ヤコビと独立に,ベキ級数展開にこだわって,楕円積分や楕円関数を研究.  [伝4],[辞]  トップ

グッドマン(Jacob Eli Goodman, 1933.11.15--2021.10.10). アメリカ,マサチューセッツ州リン(Lynn)に生まれ,カリフォルニア州サンラフェルに死す.
 コロンビア大学から広中平祐の指導で「代数多様体のアフィンな開部分集合とアンプルな因子(Affine Open Subsets of Algebraic Varieties and Ample Divisors)」によりPh.D.取得(1967).  ニューヨーク市立大学シティカレッジ教授,名誉教授.
 R.ポラックとともに雑誌Discrete and Computational Geometryを創刊(1986).
 離散幾何学.多面体の順序型の数の上界を求める,ハドヴィガーの横断性定理を高次元に一般化.
 オルークと共編のHandbook of Discrete and Computational Geometryはよく知られている.
 Harry Dweighter の筆名でパンケーキ・ソートの概念. [天9], [天VI.12]  トップ

グーテンマッヘル(Victor Gutenmacher,Viktor L’vovich Gutenmacher).
1974年にロストフ大学とモスクワ大学から数学の博士号を授与され,モスクワ大学において数学の上級研究員および教授(1969-1988). アメリカに移住し,数学者および上級ソフトウエア技術者として働く. 勤務先は,コンピュータヴィジョン社,オート・トロル・コーポレーション社,ストラクチュラル・ダイナミクス・リサーチ・コーポレーション社,ヴィスタジー社など.BBNテクノロジーズ社の上級数学コンサルタント.Gentle Knowledge社で数学教育.
代数トポロジー,幾何的モデリング,数値計算法,数理経済学,応用数学,ソフトウエア工学,CAD(コンピュータ支援設計).
著書に『直線と曲線 ハンディブック』(N.B. ヴァシーリエフと共著)(2004),『ホモトピー論-幻想の世界から位相幾何学へ-(Homotopic topology)』(フォメンコD.B.フックスと共著,1986,日本語訳は共立出版から).
 [ト文], [直]  トップ

グート、アーサー(Arthur Gut).
チューリヒ工科大学ETHから,Beno Eckmannの指導で,「リー群とリー環の中心拡大のホモロジー論について(Zur Homologietheorie der zentralen Erweiterungen von Gruppen und von Lie-Algebren)」により,Ph.D.取得(1974).
 スイス,チューリヒ・エルリコン州立学校教授. [幾11]  トップ

クヌース、ドナルド(Donald Elvin Knuth, 1938.1.10- ).
 アメリカ,ウィスコンシン州,ミルウォーキーの生まれ.
 情報科学最大のスター。TeXの発明者。カリフォルニア工科大学教授、スタンフォード大学教授。
 日本語の本に、R.L.グレアム、O.パタシュニクとの共著『コンピュータの数学』共立出版、情報科学のバイブル『基本算法1/基礎概念、2/情報構造』、『準数値算法3/乱数、4/算術演算』サイエンス社や 『クヌース先生のドキュメント算法』共立出版がある。もちろん『TeXブック コンピュータによる組版システム』アスキー出版局など、TeX 関連の本も翻訳されている。変わり種だが、『超現実数』海鳴社という本もある。実数の公理系を見直して、新しい数系を作って見せている。無人島に漂着した男女が、石碑に書かれた不思議な文字を解読していくというものである。 [解II.5, 10, 文], [ブ50], [天2], [作付B], [50.47], [天VI.2] トップ

クネーザー,アドルフ(Adolf Kneser, 1862.3.19--1930.1.24).
ドイツ,メッケレンブルク,グリュッソーに生まれ,ブレスラウ(現在ポーランド,ブロツワフ)に死す.プロテスタント教会の牧師だった父は彼が1歳の時に死んでから,母とともにロストックに行き教育を受ける.名付け親に,物理学者で科学史家のJ.C.ポッゲンドルフ.ロストック大学に入学し,音の回折に関する論文を書く. 息子のヘルムートも孫のマルティンも数学者.
 ベルリン大学に移りクロネッカーに学ぶ.ワイエルシュトラスからも影響を受ける.ハイデルベルク大学でも学ぶ. クロネッカーとクンマーの指導でベルリン大学から学位(1884).論文は「代数方程式の既約性とモノドロミー群(Irreduktibilit\"at und Monodromiegruppe algebraischer Gleichungen)」.このあと空間曲線を研究するが,大学時代から広く歴史,文学,哲学に関心. 自然の一般法則と自然の現実性の間の哲学的問題について短いテーゼを書いている.
 マールブルク大学で少し教えた後,ブレスラウ大学で教鞭.1889年にロシアのドルパト大学(現在エストニア,タルトゥ)で応用数学の教授に. 1900年にベルリンの鉱山大学(Bergakademie)の数学教授になる.5年の後ブレスラウに戻り,定年まで勤める.
 著書には,『代数関数論(Zur Theorie der algebraischen Functionen)』(1887), 『楕円関数を収束べき級数の商として表すことの初等的証明(Elementarer Beweis f\"ur die Darstellbarkeit der elliptischen Functionen als Quotienten best\"andig convergenter Potenzreihen)』(1888),『任意の空間曲線の見かけの特異点についての一般定理(Allgemeine S\"atze \"uber die scheinbaren Singularit\"aten beliebiger Raumcurven)』(1889),『変分法講義 (Lehrbruch der Variationsrechnung)』(1900), 『積分方程式と数理物理学への応用(Die Integralgleichungen und ihre Anwendungen in der mathematischen Physik)』(1911).他にも『ホッブスと国家論(Hobbes Und Die Staatsphilosophie)』(1924),『ライプニッツから現在までの最小作用の原理(Das Prinzip der kleinsten Wirkung von Leibniz bis zur Gegenwart)』 (1928).
 微分方程式(特にスツルム=リウヴィル問題),クネザーの定理(ある種の常微分方程式が振動するかどうかの判定条件),4頂点定理. 接触円に関するテイト・クネーザーの定理.  [フ10]  トップ

クネーザー,マルティン(Martin Kneser, 1928.1.21--2004.2.16).

 ドイツ,グライフスヴァルトに生まれ,ゲッティンゲンに死す.
 ベルリン大学からE.シュミットの指導でÜber den Rand von ParallelkörpernによりPh.D.取得(1950).アドルフ・クネーザーは祖父. 
 クネーザーグラフ(1955),クネーザー・ティッツの定理(Jacques Tits), クネーザーの定理(1953-1956), 代数学の基本定理の簡易な証明.二次形式,代数群. [天VI.43]  トップ

クネレー(Horst Knörrer, 1953.7.31-). ドイツ,バイエルン州バイロイトの生まれ.レーゲンスブルク大学とエルランゲン=ニュルンベルク大学で学び,ボン大学からブリースコルンの指導で「2つの2次曲面の交点の孤立特異点(Isolierte Singularitäten von Durchschnitten zweier Quadriken)」によりPh.D.取得(1978).
 ボン大学(-1985),ライデン大学(1980-82).ハビリタシオンをボン大学で仕上げ(1985),ハイゼンベルクフェローに.デュッセルドルフ大学(1986-87),1987年からチューリヒ工科大学教授.
 代数幾何.代数曲線に関する教科書.[解序]トップ

グネップ(Andrei Gnepp ).
(ネップと発音すべきかもしれない) 1992年のアメリカ数学オリンピックの受賞者.ハーヴァード大学.  等周問題. [フ文]  トップ

クノップ、コンラート(Konrad Hermann Theodor Knopp, 1882.7.22-1957.4.20).
 ドイツ、ベルリンに生まれ、フランス、アンシーに死す。
 1901年にローザンヌ大学に学び、1907年ベルリン大学で学位。長崎で教えた後、インド、中国を旅行。1910年ドイツに帰り、画家ゲルトルート・クネスナーと結婚。 中国山東省青島(1897年よりドイツが租借中)の独中アカデミーに行く。 1911年夫妻はドイツに帰国、陸軍士官となり、第1次世界大戦で負傷する。 ベルリン大学で教え(1915)、ケーニヒスベルク大学教授(1915-)、チュービンゲン大学教授(1926-1950)で引退。
 極限概念の拡張、級数論、また複素関数論の本で有名。数学論文誌 Mathematische Zeitschriftの創刊(1918)にかかわり、長く編集に携わる(1934-1952)。  [解III.2, 文] トップ

グノー, シャルル(Charles Fran\c{c}ois Gounod, 1818.6.17--1893.10.18).
フランスの作曲家.ファウストのオペラ化で有名.1870年から1875年まで,戦禍を避けてロンドンに滞在,王立合唱協会の首席指揮者を勤める.その時,シルヴェスターが彼から歌唱のレッスンを受けた. [伝4] トップ

クペルベルグ(Gregory John Kuperberg, 1967.7.4-).
 ポーランドに生まれたが,1968年のポーランド危機によりスウェーデンに移民し,さらに1972年にアメリカに移住し,アラバマ州オーバーンに住む. 大学入学前に3つのコンピュータゲームを作る.ハーヴァード大学(1983-1986)卒業後,カリフォルニア大学バークレイ校からアンドリュー・キャッソンの指導でもとで学び,1991年に「多重線形代数とホップ代数を通した絡み目と3多様体の不変量(Invariants of Links and 3-Manifolds via Multilinear Algebra and Hopf Algebras)」によりPhD取得(1991).その後,同大学,シカゴ大学,イェール大学を経て,カリフォルニア大学デーヴィス校教授.
 幾何的トポロジー,量子代数,量子情報理論,凸幾何学,組合せ論.arXivの維持に尽力.  [フ2] トップ

熊沢鏡之助(Kumazawa Kyonosuke, 1862.8-).
 1880年,東京大学予備門理科卒業.
 1884年6月東京数学会社が東京数学物理学会に改名した時に入会. 1886年の東京大学理学部数学科第2回卒業生は彼と北条時敬のみ.学士授与式は翌年(明治18年10.31)で,同じ日に箕作元八(菊池大麓の弟)も学士授与.
 一高教授の後,陸軍砲工学校の数学担当教授(明治30年7月1日).  [文プ] トップ

クラ(Irwin Kra, 1937.1.5-).
 コロンビア大学からLipman Bersの指導で「共形構造と代数構造(Conformal Structure and Algebraic Structure)」によりPh.D.取得(1966).
 MIT講師(1966-68),ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校に移り,数学科主任教授(1975-81),ブルリ数学部学部長(1991-96),2004年から名誉教授.客員教授として,ヘブライ大学,チリ,サンティアゴのペルージャ大学,東北大学,上海の復旦(フーダン)大学など.今はニューヨークのSetauketに住み,2010年にはノースウェスタン大学でも教えている.
 関数論,群論.
『保型形式とクライン群(Automorphic forms and Kleinian Groups)』(1972), 『テータ定数,リーマン面,モデュラー群.その入門と,一意化定理,分割恒等式,組み合わせ数論への応用(Theta constants, Riemann surfaces and the modular group. An introduction with applications to uniformization theorems, partition identities and combinatorial number theory)』(2001,ファルカシュと共著), 『リーマン面』(1980,2版1992,ファルカシュと共著)など.  [名15] トップ

クライトマン(Daniel J. Kleitman, 1934.10.4-). アメリカ,ニューヨーク,ブルックリンの生まれ.
 コーネル大学卒(1954).ハーヴァード大学で,J.シュウィンガーとR.グラウバーの下で,素粒子物理に関する問題で学位取得(1958年).グラフ理論,組合せ論,離散幾何,表現論,ゲノミクス,ORなど.
 MIT応用数学教授. G.W.Peck( Ronald Graham, Douglas West; George B. Purdy, Paul Erdős, Fan Chung, Daniel Kleitman)の一人,ウィスコンシン州知事だったGeorge Wilbur Peck (1840.9.28--1916.4.16)の名前をもじったもの. ペック・ポセット.クライトマンが単独でPeckの名前で書いた出版物も16ある.  [天18], [天VI.25] トップ

クライン、フェリックス(Felix Christian Klein, 1849.4.25-1925.6.22).
 プロシャ、デュッセルドルフ(現在ドイツ領)に生まれ、ドイツ、ゲッティンゲンに死す。
 1865年ボン大学入学、J.プリュッカーに学び、3年で学位。ボン大学から,J.プリュッカーリプシッツの指導で,Über die Transformation der allgemeinen Gleichung des zweiten Grades zwischen Linien-Koordinaten auf eine kanonische Formにより哲学博士号取得(1868).
 1870年にパリでR.クレプシュS.リーに会う。普仏戦争勃発のためパリを去リ、陸軍の医事勤務につく。ゲッティンゲン大学の講師資格所得(1871)、 エアランゲン大学教授(1872)、ミュンヘン工科大学教授(1875-1880)、ライプツィヒ大学教授(1880-1886)、ゲッティンゲン大学教授(1886-1913)。
 エアランゲン大学での教授就任に際して提出されたのが有名なエルランゲン・プログラムで、幾何学を変換群の不変式論と捉える。教授就任演説そのものは大学における数学の教育の重要性とあり方について述べたもの(管理者の三重大学教育学部紀要論文で紹介).
 E.ベルトラミの研究に基づき、非ユークリッド幾何学の無矛盾性の証明。
 正多面体の対称群。リーマン面の定義。保型関数論におけるポアンカレとの競争も数学史を彩るもの。クラインの壷。
 数学史・数学教育においても大きな足跡を残す。数学の研究組織のモデルをゲッティンゲンで作る。定期的な週ごとのセミナー、数学図書室と読書室の設置など。『数学年報』の編集長を40年近く勤め(1876-)、編集会議を定期的に開き民主的に決定した。ICMI(数学教育国際委員会)初代会長.
日本語に訳されているものも多く,『19世紀の数学(Vorlesungen über die Entwicklung der Mathematik im 19 Jahrhundert)』(1926, 足立恒男+浪川幸彦監訳、石井省吾+渡辺弘訳)共立出版, 『エルランゲン・プログラム』(寺阪英孝+大西正男訳・解説)現代数学の系譜7、共立出版(1970), 『高い立場から見た初等数学(Elementarmathematik vom höheren Standpunkte aus)』(1924, 遠山啓訳)商工出版, 『正20面体と5次方程式(Vorlesungen über das Ikosaeder und die Auflösung der Gleichungen vom 5ten Grade)』(1884)シュプリンガー数学クラシックス(1997,関口次郎訳)などがある。
 他にも『初等幾何の有名な問題(Vorträge über ausgewählte Fragen der Elementargeometrie)』(1895)(1897年にBemanとD.スミスにより英訳Famous Problem of Geometry).  非ユークリッド幾何学講義(Vorlesungen über Nicht-Euklidische Geometrie), Springer-Verlag, Berlin 1928など.
 また,H.ヴェーバーF.W.F.マイヤーとともに行ったEncyclopädie der Mathematischen Wissenschaften(応用を込めた数学の百科事典)は1898年から1935年にかけて,B.G.Teubner出版社から出版され,20000ページを超えるものである.
 ベルトラミ=クライン・モデル,ケイリー・クライン計量,クラインの壺,Klein configuration,クラインの4元群,クライン幾何, クライン2次曲面,クライン群,クライン環,クラインの整数.
 弟子も多い.ビーベルバッハボッチャーボルツァファインフリッケフルトヴェングラーハルナックハスケルA.フルヴィッツカスナーリンデマンオストロフスキー,Julio Rey Pastor,Hermann Rothe,Virgil Snyder,Edward Van Vleck,フォン・ディック,Adolf Weiler,Henry Seely White,Carl Johann Adolf Alexander Witting,Grace Chisholm Youngリッター, Cole Frankなど.  [解0, I.2-3, 5, II.1, 6-7, III. 6, IV.0], [名3-4, 6, 11, 13-19, 23,文], [代12, 14-16, コ], [ワ序, 1, 2, 8], [伝2,3,4,5,6,7,8,9,10], [文3], [フ38], [辞], [作付B], [幾2,6,8,10,11], [ワ著1,2], [基1,13,第5部], [50.11,15,22], [クI,II,III] トップ

クライン、モーリス(Morris Kline, 1908.5.1--1992.6.10).
 ニューヨーク,ブルックリンに生まれ,ブルックリンに死す.ニューヨーク大学正教授(1952),R.クーラント研究所電磁研究部門長(1946-1966),名誉教授(1975)。応用数学者、数学史家、数学思想家。Archive for History of Exact Sciences誌の編集長を長く勤めた。数学教育にも関心が深く,アメリカの数学教育改革運動として有名な``New Math''運動に最初から反対する。
 文献に挙げたもの以外にも、『不確実性の数学-数学の世界の夢と現実 上下』(三村護他訳、紀伊國屋書店),『何のための数学か-数学本来の姿を求めて』(雨宮一郎訳、紀伊國屋書店),『数学教育現代化の失敗,ジョニーは何故足し算ができないか?』(柴田録治監訳,黎明書房)が日本語に訳されている。 [解序, I.2-3, 5, II.1, 6, III.7, IV.0], [ブ50], [幾3,9,10], [50.47] トップ

クラヴィウス(Chiristopher Clavius, 1538.3.25-1612.2.2).
 ドイツ、バンベルグに生まれ、ローマに死す。
 ローマのイエズス会に入会(1555)。天文学・数学者。コレッジョ・ロマーノ数学教授。ヨーロッパ全体に大きな影響力を持っていた。小数点を最初に使う。
 グレゴリウス13世の改暦に指導的役割。ユリウス暦の1582年10月4日の翌日をグレゴリオ暦の1582年10月15日と提案。ヨーロッパ各地で失われた11日を返せという暴動が起こり、普及するのに時間がかかった国もある(例えばイギリスは1752年)。
 『実用算術』(ローマ, 1583). [解I.6, 人], [幾1,2,3,解] トップ

クラウゼン,トーマス(Thomas Klausen, 1801.1.16-1885.5.23).
 デンマーク,シュレズビヒ公国 Sottrup Municipalitに生まれ,ロシア帝国デルプト(現在,エストニア,タルトゥ)に死す.. 11歳まで読書きを知らなかったが,牧師に短期間言語と数学を学び,後は独習する. 1841年にユーリエフ市(デルプト)の大学に招かれる.デルプト天文台長(1865-71).数学および理論天文学.太陽系の安定性,彗星の運動,ABCの電信符号など.
 論文はクレレ誌とペテルブルグ科学アカデミー紀要に発表. ヒポクラテスの月形のこの中心角の比が有理数の場合には,既知の5種以外には平方かできる月形がないことを予想(現在は証明されている).πの値を,小数点以下250桁まで計算(正確なのは248桁まで).
 フォン・シュタウト・クラウゼンの定理(1840).   トップ

クラーク,ジョナス・ギルマン(Jonas Gilman Clark, 1815.2.1--1900.5.23).
 アメリカ,マサチューセッツ州ハバーツトン(Hubbardston)に生まれ,マサチューセッツ州ウスターに死す.
 実業家,友人のスタンフォードに刺激を受けたか,大学を設立.1887年,マサチューセッツ州ウスターにある私立のクラーク大学である.    [伝8] トップ

F.W.クラーク(Francis Willoughby Clarke).
 ウォーリック大学からChristopher Alan RobinsonとLuke Hodgkinの指導で「リー群のループ空間のK理論について(On the K-theory of the Loop Space of a Lie Group)」によりPh.D.取得(1971).
 スウォンジー大学数学講師(1971-1991),上級講師(1991),Reader(1999).その後,EPSRC Collegeに属し,タイ,バンコックのチュラーロンコーン大学,アバディーン大学,エジンバラ大学,ブリストルのハイルブロン数学研究所,など.  [天VI.4] トップ

クラーク(Clarke).
 ライプニッツからの書簡が残っている.相対性,自己同一性などに対するライプニッツの考え方が記されている第3,5書簡が重要. [ワ4] トップ

クラスノセルスキー(Mark Alexandrovich Krasnosel'skii, 1920.4.27--1997.2.13).
 ソ連,ウクライナ,スタロコンスチャチノフに生まれ,モスクワに死す.
 キエフ大学物理・数学部(1938-1942)卒業後,ソ連軍に4年.1948年に科学博士の候補者になり,1950年に博士.キエフのウクライナ科学アカデミーの研究員(1946-1952),ヴォロネズ国立大学教授(1952-1967),モスクワ大学上級科学研究員(1967-1974),モスクワ科学アカデミーの制御科学研究所長(1974-1990),同アカデミー情報通信問題研究所(1990-).
 力学,工学,制御理論に由来する積分方程式,微分方程式,関数方程式の研究.
 1970年代に「数学的娯楽(Mathematical divertissement)」と題した講義をする.[フ27] トップ

グラスマン(Hermann Gunter Grassmann, 1809.4.15-1877.9.26).
 プロシャ、シュテティーン(現在ポーランド領シュチェチン)に生まれ、ドイツ、シュテティーンに死す。
 1831年から死ぬまでシュテティーンのギムナジウムで教鞭(間に2年だけベルリンで教える). ギムナジウム卒業後ベルリン大学で数学を学び、潮汐に関する論文(Theorie der Ebbe und Flut, 1840年)を書いて教師資格.
 ライプニッツ考案の座標を用いない幾何学計算法の建設を目指した論文 Geometrische Analyse で1846年に学会賞.
 広延論 (Ausdehnunglehre) と称する理論に関する2論文(Die lineale Ausdehnunglehre, ein neuer Zweig der Mathematik(1844) と Die Ausdehnunglehre: Vollständig und in strenger Form bearbeitet(1862)を書き,前者を博士論文として提出するも,メビウスは理解できず,クンマーに回したが,かれも検討をせずに拒絶.数学の通常の書きかたではなく,神秘的・抽象的な考察が散在し,神学の論文に見えたものらしい.しかし,19世紀の終わりにはその思想が数学界に広がっていった.
 前者はアフィン空間,後者は計量を持つ空間を扱っていて,外積(äußeres Produktまたはkombinatorisches Produkt)を導入.グラスマン代数に発展.グラスマン座標、グラスマン多様体。エリー・カルタンに強い影響.
 また,、物理学(結晶学、電磁気学、力学など)、生理学(色覚、音声)も研究.色彩論にはグラスマンの法則があある.
 53才のとき、数学に興味を失い、サンスクリットの研究に移行、彼のサンスクリットの辞書は今も広く普及している。『リグ・ヴェーダ』の翻訳および『リグ・ヴェーダ辞典』は高く評価され,テュービンゲン大学から名誉博士号を授与(1876).  [解IV.0-2], [名23], [伝3,7], [幾9,10] トップ

グラドシュテイン(Izrail Solomonovich Gradshteyn,Израиль Соломонович Градштейн, 1899–1958). 関数の積分の大部の表.
 『積分、級数、積の表(Table of Integrals, Series, and Products)』(1962,英訳版1965,リィジクと共著). [解II.4] トップ

クラードニ,エルンスト(Ernst Florens Friedrich Chladni, 1756.11.30-1827.4.3.)  ザクセン,ヴィッテンベルクに生まれ,シレジア,ブレスラウ(現在,ポーランド,ブロツワフ)に死す.
 音響学の父として知られる.固体および気体内の音速の測定.低音管楽器の発明.隕石の起源についての著作あり.
 現在数学ではリサージュ図形と呼ばれているものは,水平な板の上に巻いた砂が振動を与えることによって図形として発見され,クラードニの図形と呼ばれた.実はそれより100年以上も前にR.フックによって発見されている. [パ:ノート,年表],[伝2]  トップ

クラトフスキ,カジミェシュ(Kazimeirz Kuratowski, 1896.2.2-1980.6.18).
 ポーランド,ワルシャワの生まれ.
 グラスゴー大学,ワルシャワ大学卒業.ワルシャワ大学からStefan MazurkiewiczとZygmunt Janiszewskiの指導でPh.D.取得(1921).ワルシャワ大学助教授(1921),教授(1934),ワルシャワ数学研究所長(1934).実変数関数論,数理論理学,トポロジー.順序対の考案.閉包演算子によるトポロジーの定義を提唱.次元論,グラフ理論.
 クラトフスキ・ツォルンの補題,クラトフスキ空間,クラトフスキの定理,クラトフスキの閉包補集合問題など.
 弟子に,サミュエル・アイレンベルグスタニスワフ・ウラム,アンジェイ・モストフスキなど. [名19], [辞], [基4,16]   トップ

クラーニン(Evgenii Dmitrivich Kulanin, 1956.2.29-).
ソ連,ラトビア,リガ(現在ラトビア共和国)の生まれ.リャザンの高校卒(1973),モスクワ大学力学数学部卒(1978),数学の大学院(1983),博士候補(1986).その後幾つかの研究所で働いたのち,モスクワ教育大学情報技術学部数学で働き,2004年からは教授.
 種々の幾何の問題に関する著書がある.幾何教程ではテボーの定理関連で登場. [幾7]トップ

グラム,イェルゲン・ペデルセン(Jørgen Pedersen Gram, 1850.6.27-1916.4.29). デンマークのアクチュアリーで数学者. デンマーク,Nustrup(ハデルスレヴの西18km)に生まれ,コペンハーゲンに死す.死因は自転車との衝突事故による.
   不変式論,整数論(リーマンのゼータ関数の研究も),数値解析,確率論.
 職業としては最初は林業,保険会社.Hafnia保険会社に勤め,1884年自身でSkjold保険会社を設立.Hafnia保険会社の管理職も勤め,デンマーク保険審議会議長(1910-死).
 グラム・シュミットの直交化,グラム行列,グラミアン,グラム点,グラムの定理(1874).[幾10]トップ

クラメール,ガブリエル(Gabriel Cramer, 1704.7.31-1752.1.4).
 スイス、ジュネーヴに生まれ、療養のため南フランスを旅行中,バニョール=シュル=セーズ(Bagnols-sur-Cèze)に死す。
 ヨハン・ベルヌーイの弟子。ジュネーヴ大学教授。
 連立1次方程式のクラメールの解法(1750).クラメールのパラドクス,クラメール・カスティヨンの問題.行列式、代数曲線(Introduction \`a l'analyse des lignes courbes algèbriques,1750)。数学史にも熱意。ヤーコプ・ベルヌーイの全集の編集。[解文], [幾6,7,9-11]トップ

クーラント(Richard Courant, 1888.1.8-1972.1.27).
 ドイツ,上シレジアのルビリニッツに生まれ,アメリカ,ニューヨーク州ニューロシェルに死す.
 ブレスラウ大学に入学後(同級生にテプリッツへリンガー),チューリヒ工科大学とゲッティンゲン大学(1907.11.1-)に学ぶ.  ヒルベルトH.ミンコフスキーのジョイントセミナーに出席. ヒルベルトのもとで学位(「等角写像問題へのディリクレ原理の応用について({\"Uber die Anwendung des Dirichletschen Prinzipes auf die Probleme der konformen Abbildung),1910年取得). 1908年,ヒルベルトの助手になる. 第1次大戦に従軍し負傷,入院中に最初の妻ネリー・ノイマンと離婚.
戦後,1918年12月ゲッティンゲンに戻り,1919年1月22日,ルンゲの娘ネリーナ・ルンゲと結婚.その数ヶ月後 ゲッティンゲン大学私講師に.キリングの後任としてミュンスター大学教授(1920春),数ヶ月後ハンブルクに去ったヘッケの後任としてゲッティンゲン大学教授に. F.クラインの構想を継承し,1922年,ゲッティンゲンに数学研究所を作る.ナチの台頭でアメリカに移住を余儀なくされ,ニューヨーク大学に新数学研究所(所長1953-58)を作る.1964年にクーラント研究所と改称される.
クーラント数,クーラントのミニマックス法,クーラント=フリードリクス=レヴィ(Lewy)条件.
ヒルベルトと共著の『数理物理学の方法 全4巻』(齋藤利弥監訳、丸山滋弥訳)東京図書(1959-62),フリードリクスとの共著『超音速流と衝撃波』(1948)は古典. ロビンズとの啓蒙書『数学とは何か』(日本語訳,森口繁一監訳,岩波書店,1966).A.フルヴィッツ共著の『楕円関数論』(足立恒男+小松啓一訳)シュプリンガー数学クラシックスがある。
弟子にはフェラー,Martin Kruskal(数理物理),フリードリクス,Hans Lewy,フランツ・レリッヒ(Franz Rellich)など.  [伝6,7,8,9,10],[フ序],[辞],[ワ著3],[幾11],[クI.3.3,I附B,III序] トップ

グランヴィル ,アンドリュー・ジェイムズ(Andrew James Granville, 1962-).
 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒(1983) カナダ,キングストンのクイーンズ大学からパウロ・リーベンボイムの指導で,「変化する指数を持つディオファントス方程式(Diophantine Equations with Varying Exponents)」によりPh.D.取得(1987).
 ジョージア大学教授(1991-2002),モントリオール大学教授(2002). 2項係数のページ
 整数論,解析数論.カーマイケル数(絶対擬素数)が無限にあることの証明(1994).   [フ文] トップ

クリー(Victor La Rue Klee, Jr., 1925.9.18-2007.8.17). アメリカ,カリフォルニア州サンフランシスコに生まれ,オハイオ州レイクウッドに死す.
 ヴァージニア大学からマクシェインの指導で「線形空間における凸集合(Convex Sets in Linear Spaces)」によりPh.D.取得(1949).
  アメリカ,ワシントン大学教授.トポロジー,関数解析,グラフ理論.凸性やヒルベルト空間の単位球面などに関する結果がある.美術館の警備問題を出す.
『平面幾何と数論における新旧の未解決問題( Old and New Unsolved Problems in Plane Geometry and Number Theory)』(1991,ワゴンと共著),
 クリー多面体,クリー・ミンティ立方体(George J. Minty),クリーの測度問題.  [天13, 28], [天VI.17,40] トップ

クリーヴランド(Stephen Grover Cleveland, 1837.3.18--1908.6.24).
 アメリカ合衆国,第22代大統領 (1885-1889),24代大統領(1893-1897). 彼を記念してプリンストン大学にはクリーブラント・タワーが1913年に建てられた.プリンストン大学のランドマーク的建物で,ゴシック様式の塔でさらに2つの尖塔が付いている.J.W.アレクサンダーがこの塔に上っている.   [伝9] トップ

グリーザー,ジョルジュ(Georges Glaeser, 1918.11.8-2002.9.).
 フランスの数学者でストラスブールのIREMの所長.
 アンリ・ポアンカレ大学ナンシー1から,ローラン・シュワルツの指導で,「あるテイラー代数の研究(Etude de certaines algebres Tayloriennes)」により,Ph.D.取得(1957).
 グリーザーの合成定理,グリーザーの連続定理 [クII.3.3] トップ

クリスタル,ジョージ(George Chrystal, 1851.3.8-1911.11.3). スコットランド,オールドメルドラムに生まれ,エジンバラに死す.
 アバディーンのグラマースクールとアバディーン大学で教育を受け,1872年にケンブリッジ大学ピーターハウス・カレッジに移り, マクスウェルのもとで学ぶ.1875年にバーンサイドとともにセカンド・ラングラーとして卒業.
 1877年にセント・アンドリューズ大学の数学のレギウス教授職に就く.1879年にエジンバラ大学数学教授.
 教科書:Algebra: An Elementary Text-Book for the Higher Classes of Secondary Schools and for Colleges. (Volumes I & II)は1886年から1999年まで7版を数える. [幾2] トップ

クリストッフェル,エルウィン・ブルノ(Elwin Bruno Christoffel, 1829.11.10-1900.3.15).
 ドイツ、モンシャウ・アーケンに生まれ、フランス、ストラスブールに死す。
 ベルリン大学でディリクレに学ぶ。ストラスブール大学教授('72-92)。微分幾何のクリストッフェルの記号など。藤沢の博士論文を指導. [解II.6], [伝7], [文3], [辞] トップ

グリフィス(Phillip Augustus Griffiths, 1938.10.18-). アメリカ,ノースカロライナ,ローリーの生まれ.  代数幾何学,複素多様体,微分幾何,幾何的関数論,偏微分方程式の幾何.ホッジ理論とモデュライ理論のホッジ構造の変形.
 ウェイクフォレスト大学卒(1959).プリンストン大学からD.C.スペンサーの指導で,「ある等質複素多様体について(On Certain Homogeneous Complex Manifolds)」によりPh.D.取得(1962).
 カリフォルニア大学バークレイ校(1962-1967),プリンストン大学(1967-72),ハーヴァード大学(1972-1983),デューク大学(1983-1991),プリンストン大学高等研究所(1991-)所長(1991-2003).
 『代数幾何と解析幾何の話題(Topics in algebraic and analytic geometry)』(1974,J.ハリスと共著), 『1変数と多変数の複素変数の整正則写像 (Entire holomorphic mappings in one and several complex variables)』(1976) 『代数幾何の原理(Principles of Algebraic Geometry)』(1978,J.ハリスと共著). 『代数曲線上の特殊因子理論入門(An introduction to the theory of special divisors on algebraic curves)』(1980) 『有理ホモトピー論と微分形式(Rational homotopy theory and differential forms)』(1981,J.モーガンと共著) 『代数曲線入門(Introduction to algebraic curves)』(1989) 『滑らかな代数多様体上の代数サイクルの空間の接空間について(On the tangent space to the space of algebraic cycles on a smooth algebraic variety)』(2005,M.グリーンと共著))など.
 グリフィス理論,グリフィス横断性, [フ文], [幾11] トップ

A.H.クリフォード(Alfred Hoblitzelle Clifford, 1908.7.11-1992.12.27).
 カリフォルニア工科大学で,エリック・ベルの指導の下でArithmetic of Ovalにより,Ph.D.取得.プリンストン高等研究所でワイルの助手(1936-38).MIT(1938-42),第2次大戦と朝鮮戦争の時期に従軍.ジョンズ・ホプキンス大学助教授(1945-54).トゥレーヌ(Tulane)大学教授(1955)兼ソフィー・ニューコム・カレッジ数学科長.引退後,彼の遺贈した資金でクリフォード講演が毎年開かれ,また同大学に彼を記念した数学研究用の図書館がある.
 代数学,半群理論の創始者の一人.クリフォードの半群,クリフォード理論など.[ワ2] トップ

W.K.クリフォード(William Kingdom Clifford, 1845.5.4-1879.3.3).
 イギリス、デヴォン、エクスターに生まれ、ポルトガル、マデイラ島に死す。
 幼少より才能を発揮し,15才でロンドンのキングス・カッレッジに送られ,数学だけでなく,古典学,英文学,体操に秀でる.
 18才で,ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学,数学だけでなく雄弁論でも賞を受ける.
 1870年に日蝕観測にイタリアに遠征するが,船が難破し九死に一生を得る.ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ数学力学教授(1871-79).  数学,科学哲学.(ハミルトンにより導入された)四元数quaternionの一般化をし,双4元数biquartenionと呼ぶ.リーマン面が穴の空いた箱と位相的に同値であることを示す. 運動の幾何、楕円空間の平行線、数理物理など。クリフォード代数,クリフォード加群,クリフォード解析,クリフォード・クライン形,.
 23才のとき,科学の発見についての講義を王立研究所で行う.また,ルイス・キャロルほどではないが、童話集 The Littel Poepleも出版している。  死因は過労死らしい.マデイラ島に療養に行ったが,数ヶ月後に死ぬ.ほとんどの著書は死後に出版され,その著作集には,ニュートンコーツについて語った「彼が生きていれば,我々は何かを知り得ただろう」という引用がされた.   [名序, 20-23], [代8, 10, 15, コ], [ワ8], [文1], [伝7], [辞], [幾9] トップ

グリボエドフ(Alexandr Griboedov(Александр Сергеевич Грибоедов), 1795.1.15--1829.2.11).
 ロシア,モスクワに生まれ,イラン,テヘランに死す.
 外交官,劇作家,作曲家.モスクワ大学卒業(1810--1812)後,軽騎兵連隊の将校となる.1816年除隊し,外交官となる.1818年ペルシャのロシア公使の秘書官となり,後にグリジアに転任.若くから作品を書き始め,1816年には喜劇『若い夫婦』がサンクト・ペテルブルグで上演された.その後も戯曲や詩を発表し評判を得たが,詩体の喜劇『智恵の悲しみ』は大成功して,今日でも上演され続けている. 民衆から貴族階級までの実像の描写と人物造形の見事さと機知に富む台詞で知られている.現代でも諺として使われるものも多い.
 1828年に友人のチャヴチャヴァジェ王子の16歳の娘と結婚し,数ヵ月後全権大使としてテヘランに赴任直後に宗教的な暴動でロシア大使館が襲われ,3日後虐殺死体で発見された. 死体はトビリシに移され,聖ダヴィデ修道院に葬られた. 妻は夫の思い出に忠実で,求婚者を退けつつ,30年を生きた.サンクト・ペテルブルグには彼を記念したグリボエドフ運河がある.  [モ歴] トップ

クリーム,フリッツ(Fritz Kliem, 1887.5.15-1945.5.5). シレジア,ボイテン(現在ポーランド,ビトム)に生まれ,ドイツ,Allgäu,フュッセンに死す.
 ブレスラウのギムナジウム卒業(1905.3.18)後,ブレスラウ大学で数学と物理学を学び,1906年の夏学期をミュンヘン大学で過ごす.ブレスラウ大学から Friedrich Otto Rudolf Sturmの指導で,『第 1 レベルから第 4 レベルまでの明確かつ線形に関連する光線構造における対応する光線の交わる線の位置について)(Über Örter von Treffgeraden entsprechender Strahlen in eindeutig und linear verwandten Strahlengebilden erster bis vierter Stufei)』により哲学博士号取得(1909).
 ヒルシュベルク,グローガウ,グリュンベルク,ブレスラウ,カチヴィツェのギムナジウムで教師(1910-1920).ブレスラウの中学(1920-1931),ブレスラウのアイヒェンドルフ高校教師(1931.4.1-).第2次大戦末期高校は南ドイツに疎開.疎開地のフュッセンで終戦の3日前に死す.
 数学史家,アルキメデスアポロニウスを主対象.一般的な科学書や学術的エッセイも出版. [クII.3.2] トップ

栗本鋤雲(Kurimoto Joun, 文政5年3月10日(1822.5.1)-明治30年(1897)3.6). 江戸に生まれ東京に死す.
 父は幕府の典医の喜多村槐園,長兄は幕府医学館考証派の喜多村直寛.
 安積艮斎(寛政3年3月2日(1791.4.4)-万延元年11月21日(1861.1.1))の私塾見山楼を経て,天保14年(1843)昌平坂学問所に入学.嘉永元年(1848)栗本氏の家督を継ぎ,ついで奥詰医師となり,安政年間には医学館で講書を務める.
 安政5年(1858)2月24日,蝦夷地在住を命じられ箱館に赴任,箱館で医学院の建設、薬園経営に尽力. 文久2年(1862)に箱館奉行組頭に任じられ、樺太や南千島の探検を命じられる. 文久3年(1863)探検から戻ると,江戸に戻り,昌平坂学問所の頭取,ついで目付に登用.さらに製鉄所御用掛を経て,外国奉行に昇進し勘定奉行と箱館奉行を兼任. 慶応2年(1866)正月14日には従五位下・安芸守に叙任.
 箱館時代にメルメ・カションと面識,カションが通訳を務めたフランス駐日公使ロッシュとも交わり,幕府とフランスとの橋渡し役として外国奉行になったのである.幕府による製鉄所建設や軍事顧問団招聘などに尽力.
 慶応3年(1867)ナポレオン3世のパリ万国博覧会に、将軍の名代として出席する徳川昭武の補佐として渡仏,日仏,日英の外交交渉(もちろんこの日は幕府のこと)にあたる. 慶応4年大政奉還が伝えられ,昭武一行の帰国だけでなく,ヨーロッパ各地にいた幕府派遣留学生の帰国の世話をする.
 慶応4年5月17日(1868.6.24)に帰国後,新政府から出資の誘いがあったが,謝絶し引退.明治5年(1872)「横浜毎日新聞」に入り、明治6年に「郵便報知新聞」の主筆を務め,以降ジャーナリストとして活躍.  [文1] トップ

グリュンバウム(Branko Gr\"unbaum, 1929.10.2-.)
 ユーゴスラビア(現在クロアチア),オシエクの生まれ.
 ヘブライ大学からA.ドヴォレツキーの指導で「ミンコフスキー空間の幾つかの性質について(On Some Properties of Minkowski Spaces,ヘブライ語)」によりPhD取得(1957).
ヘブライ大学,アメリカ,ワシントン大学シアトル校数学科教授,名誉教授.
 離散幾何学,組合わせ論.タイル貼り.代数幾何,凸多面体など.ヴェン図(Venn diagram)の多集合版
『タイル貼りとパターン(Tilings and Patterns)』(1987,シェパードと共著).
『凸多面体(Convex Polytopes)』(1967)(2003,Volker Kaibel, クリーツィーグラー共編),
  [天13], [名文], [幾9,文], [天VI.17] トップ

グリーン,ジョージ(George Green, 1793.7.14--1841.3.31)
 イギリス,ノッティンガム,スネイントンに生まれ,同地に死す.
 生まれた月日は不祥であるが,7月14日に洗礼を受けている.父は製パン業.1800年に食料価格暴騰のためのイギリスで暴動が起き,グリーン家も襲われている.通常は6才で行く小学校も8才になった暴動の翌年に入学し,家業を助けるため1802年の夏に止める.なぜか当時既に数学に興味を持ち,独学して学び,彼の数学的知識が学校教育の程度を越えていることは周囲に知られていたようだ.家業は大いに繁栄し,数軒の家と土地を取得し,1807年にはその土地に16mの高さの煉瓦製の粉引き場を作り,さらに繁栄したようである.
 グリーンが当時どのような勉強をしていたかは分かっていない.が,後の1819年にケンブリッジのクイーン・カレッジの学生監になるジョン・トプリスが近くに住んでいた.彼は1814年にノッティンガムで,ラプラスの『天体力学』第1巻の英語訳を出版している人物である.グリーンがフランス語で,ラクロアポアソンビオなどのフランス人の仕事にも親しんでいただろうという推測がされている.1823年に近くにあった図書館に通うようになり,Transactions of the Royal Society of London を読んでいたと思われる.
 ある地域文化誌に寄稿した『電磁気理論への数理解析の応用』(An Essay on the Application of Mathematical Analysis to the Theories of Electricity and Magnetism, 1828) は読者には理解されなかったし,反響もなかった.が,この地の貴族であり,自身ケンブリッジで数学を学んだエドワード・ブルームヘッド卿の知遇を得るようになり,さらに3つの論文を書いている.2つは電磁気に関するもので卿がケンブリッジ哲学会に送付し,1833年に出版された.もう1つは流体力学で,卿がフェローだったエジンバラ王立協会誌に掲載された.
 自分の論文の価値を知らないグリーンはブルームヘッド卿の薦めにも長い間同意しなかったが,1829年の父の死後双肩に懸かっていた家業を捨て,1833年10月卿に伴われてケンブリッジに行き,卿の学んだカイウス・カレッジに入学することになる.ときに40才であり,正式ではないが妻があり,子供も6人いた.妻の父が粉ひき場の管理人だったので,家族にとっての経済問題はなかったが.
 大学では数学では問題なくトップクラスだが,ラテン語などの素養がないための苦労はした.それでもJ.シルヴェスターの2位に次いで4位でトリポス(学位試験)に合格している(1837).卒業後も大学に残り,1839年10月31日にはパース・フェローになっている.しかし,その後病を得て1840年5月にはスネイントンの実家に戻り,結局そこで死んでいる.
 業績は,さらに,引力(1833),流体の波(1837),音(1837),光(1837),光の伝播(1839)などがある.しかし,トンプソンがいなければグリーンの業績は埋もれてしまった可能性が強い.彼は1841年3月にケンブリッジの聖ペトロ・カレッジに入学し,グリーンのある論文を引用している論文を読んだ.結局1845年に学位を得るまでグリーンの論文を読むことは出来なかったが,4月に彼のコーチのホプキンスがグリーンの3つの論文のコピーをくれた.その夏パリでリウヴィルスツルムに論文を見せた時の興奮を.その60年後に回顧する文章がある.こうして,グリーンの仕事は世界に知られるようになり,トムソンやマクスウェルの仕事に強い影響を与える.
 名前が残っている,(ベクトル解析の)グリーンの定理,グリーン関数,グリーン核などは電磁気理論,偏微分方程式論などでの基本観念である.また,ポテンシャルという概念の提案者でもある.   [代21] トップ

グリーン,ジョシュア(Joshua Evan Greene).  プリンストン大学からZoltán Szabóの指導で「ドナルドソンの定理,ヘーガード・フレアホモロジーと結び目についての結果(Donaldson's Theorem, Heegaard Floer Homology, and Results on Knots)」によりPh.D.取得(2009).
 ボストンカレッジ教授.
 まだ学部生の時(2002),クネーザーグラフに関するロヴァースの定理のバラニィの証明を劇的に簡単化.   [天VI.43] トップ

グリーン,ベン(Ben Joseph Green, 1977.2.27-).イギリス,ブリストルの生まれ.
 ケンブリッジ大学から,William Timothy Gowersの指導で「算術的組み合わせ論のトピックス(Topics in Arithmetic Combinatorics)」によりPh.D.取得(2003).  ブリストル大学教授(2005.1-2006.9),ケンブリッジ大学教授(2006.9-2013.7),オックスフォード大学教授(2013.8-).
 数論的組み合わせ論.
 テレンス・タオとともに,素数の集合の中に任意の長さの等差数列があることを証明(2004,グリ-ン・タオの定理).
 自然数に関するキャメロン・エルデシュ予想を解決(2003).
  [天VI.11] トップ

グリーンバーグ(Marvin Jay Greenberg)
 コロンビア大学卒.プリンストン大学からS.ラングの指導で,「p進アーベル多様体の有理部分群の副代数構造(Pro-Algebraic Structure of the Rational Subgroup of a P-Adic Abelian Variety)」によりPh.D.取得(1959).
 カリフォルニア大学バークレイ校助教授,ノースイースタン大学准教授,カリフォルニア大学サンタ・クルス校教授(57歳で退職し),名誉教授.
 『代数トポロジー講義(Lectures on algebraic topology)』(1967), 『多変数形式講義(Lectures on forms in many variables)』(1969), 『代数トポロジーの初歩(Algebraic topology: a first course)』(1981,J.R.ハーパーと共著). 『ユークリッド幾何と非ユークリッド幾何,その発展と歴史(Euclidean and non-Euclidean Geometries, Development and History)』(1993)など.   [名文] トップ

グリーンヒル(Alfred George Greenhill, 1847.11.29--1927.2.10). イギリス,ロンドンに生まれ,ロンドンに死す.
 ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ入学(1866).ロンドン,ウーリッジの王立陸軍士官学校の数学教授(1876-1908).
 楕円積分の電磁気学への応用で世界的権威.ICMでも1904年のハイデルベルクから,1924年のトロントまで4回招待講演者.
 ICMIの初代副会長.  [クI付A] トップ

クルイロフ(Aleksei Nikolaevich Krylov, 1863.8.15-1945.10.26)  ロシア,シンビルスコイ(現在ウリヤーノフスカヤ),ヴィスヤーガ村に生まれ,ソ連,レニングラード(現在ロシア,サンクト・ペテルブルグ)に死す.
 A.M.リャープノフの甥.チェビシェフの弟子.海軍大学卒業後(1890),海軍兵学校と海軍大学で数学を教え、後教授(1892-).チェビシェフの積分近似式を用いた合理的な船舶理論(設計,浮揚性,安定性,強度など)を完成.また計算工学,砲術、弾道学,ジャイロスコープの理論など.天体力学の永年方程式の新解法.船舶のモデル実験用水槽や各種機器の製作.数学者の伝記,『勉強の仕方を教える』という立場での教育論,ニュートンのプリンキピアやオイラーの月の運動理論のロシア語訳など、活動は幅広い.著書に『船舶学』『近似理論』など.  [パ:ノート,モ歴] トップ

グルサ(Edouard Jean-Baptiste Goursat, 1858.5.21-1936.11.25.)
 フランス,ロー,ランザクに生まれ,パリに死す.
 エコール・ノルマル・シュペリオール卒業(1881)後,1885年までトゥールーズで教え,その後12年間母校に戻り,1997年から引退までパリ大学教授.解析とその応用をダルブーC.エルミートに学ぶ. 弟子のE.ピカールとジュリアとは長く協力する.
 今日単にコーシーの積分定理と言われるものは,コーシー自身は導関数の連続性も仮定していたが,グルサはその条件を除いた.グルサの問題(境界条件の特徴づけによる偏微分方程式の積分),ピンチャール・グルサの核(積分方程式),グルサの表示(重調和関数),結晶群論.
『解析学教程』全3巻(1900-10)はその後の微積分の教科書の標準となり,日本の教科書にも大きな影響を与えた. [パ13],[クI.3.3]   トップ

クルーゼイ,ミシェル(Michel Crouzeix). レンヌ大学教授.
 関数解析,作用素論
 ポンスレの第2の定理を行列関数の有界性に応用.クルーゼイ予想,クルーゼイ・ラヴィアート元.[幾7]   トップ

グルディン(パウル・ギュルダン,Paul Guldin, 1577.6.12-1643.11.3).
 スイス,サン・ガール(現在のサンクト・ガレン)に生まれ,オーストリア、グラーツに死す.
 始めはHabakkuk Guldinという名前で、十代は金細工師として働いた.ユダヤ系だが、両親はプロテスタントであった。彼は20才のときカトリックに転向し,イエズス会修道院に入る。このときPaulと名前を変えた。
 1609年にイエズス会のローマ学院に送られ、クラヴィウスのもとで学ぶ。後、ローマとグラーツのイエズス会学院で教える。1623年からグラーツに帰る1637年まで、ウィーン大学数学教授.ケプラーと文通するも、宗教に関することだけ。
 業績は4巻にまとまっており、重心の問題、特に地球の重心について、回転体の体積、円錐、円柱、転がる物体など.Pappus–Guldinus theorem(パッポス・グルディンの定理).  [解II.4], [幾7,9] トップ

クルツヴェイル、ヤロスラフ(Jaroslav Kurzweil).
 チェコスロヴァキアの数学者。アカデミーの数学研究所教授。微分方程式論の一般化のためクルツヴァイル積分を導入(リーマン和を使ってペロン積分を定義)。 [解III.5] トップ

クールノー(Antoine Augustin Cournot, 1801.8.28-1877.3.31).
 フランス,オート=ソーヌ県,グレイに生まれ,パリに死す.哲学者で数学者.数理経済学の始祖.
 コレージュ・ド・グレイ(1809-1816)卒業後,4年間弁護士事務所で働く.ラプラスの本を読み,彼と文通をして,大学に入る決心をする.ブザンソンのコレージュ・ロワイヤル(1820-21),エコール・ノルマル・シュペリオール(1821-)に入学するも閉校となり,パリに留まり,ソルボンヌでラクロアアシェットに数学を学ぶ.1823年に 講師となり,1829年に剛体の運動に関する論文で学位.ポアソンに気に入られ,1833年にパリ・アカデミーに職を得る.ジョン・ハーシェルの天文学の教科書をフランス語に翻訳(1834).ポアソンの推薦でリヨン大学の新設の解析学教授に(1834).1835年にはグルノーブル大学の数学教授,後学長.1838年に公教育視学官,『富の理論の数学的原理に関する研究(Recherches sur les principes mathematiques de la theorie des richesses)』を発表,需要と供給の関数,市場の概念を導入,数理経済学を論じた.
 ポアソンとコンドルセと同様,確率論を統計学に適用する.亡くなる年にはほとんど目が見えなくなっていた.   [伝2] トップ

クルル(Wolfgang Krull, 1899.8.26-1971.4.12.)  ドイツ,バーデンバーデンに生まれ,ボンに死す.
 ゲッティンゲン大学でF.クラインのもとで学ぶがエミー・ネーターに強い影響を受ける.フライブルグ大学,エアランゲン大学,ボン大学で教鞭.
 代数学,とくに環論,体の拡大理論.無限次拡大のガロア理論(1928),ネーター環の理論を一般の可換環論に発展.クルル次元.クルル・レマクシュミットの定理.  [代15] トップ

グレアム(Ronald Lewis Graham, 1935.10.31-).
 アメリカ,カリフォルニア州,タフトの生まれ.カリフォルニア大学バークレイ校でPhD取得(1935).ニュー・ジャージー州マレイ・ヒル,ベル研究所ルーセント・テクノロジー.主にグラフ理論.
 エルデシュとの交流やジャグリングする数学者としても有名.  日本語の本に、D.クヌース、O.パタシュニクとの共著『コンピュータの数学』共立出版(1993)、 [天2, 8], [作付B], [天VI.2,11] トップ

グレイ(Jeremy John Gray, 1948.4.25-).
 オックスフォード大学(1966-69)とウォーリック大学に学び,David Herbert FowlerとIan Nicholas Stewartの指導で「線形微分方程式と群論--リーマンからポアンカレまで(Linear Differential Equation and Group Theory- From Riemann to Poincaré)」によりPh.D.取得(1980).
 1974年からオープン大学で働き,1978年に講師になる.2000年からウォーリック大学で数学史の講義をする.
 テレビ番組のThe Story of Mathsシリーズに協力.Archive for History of Exact Sciencesの編集
 著書多数.主に数学史. Ideas of space: Euclidean, non-Euclidean, and relativistic(1979). Linear differential equations and group theory from Riemann to Poincaré(1986). The Geometrical Work of Girard Desargues(1986). Geometry(1999). The Hilbert Challenge(2000). Janos Bolyai, non-Euclidean Geometry and the Nature of Space(2004). Worlds out of Nothing; a course on the history of geometry in the 19th century(2006,2010). Plato’s Ghost: The Modernist Transformation of Mathematics(2008). Henri Poincaré: a scientific biography(2012). Hidden Harmony - Geometric Fantasies. The Rise of Complex Function Theory(2013)など.  [幾2] トップ

グレイヴズ(Lawrence Murray Graves, 1896.8.7-1973).
 シカゴ大学でブリスの指導で,「変分法における独立関数としての導関数(The Derivative as Independent Function in the Calculus of Variations)」によってPh.D.取得(1924).
著書に『実変数関数論(The theory of functions of real variables)』(1956). Bull.of AMSの編集委員. [フ28] トップ

グレイシャー(James Whitbread Lee Glaisher, 1848.11.5-1928.12.7). イギリス,ロンドン西部のルイシャムに生まれ,ケンブリッジに死す.
 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学び,1871年に2位のラングラーとして卒業,同カレッジのフェローになる.同カレッジの部屋で,死ぬまで暮らす.未婚.
 整数論,とくにモデュラー形式.
 数学雑誌Messenger of Mathematics(1872-1929)の編集長.哲学者Ludwig Wittgensteinのチューター.王立天文学会の会長(1886--1888,1901--1903).
 グレイシャーの定理(整数分割に関するもの),グレイシャーの定数. [天VI.34] トップ

グレイス(J.H.Grace).
 A.ヤングとの共著『不変式の代数(The Algebra of Invariants)』Cambridge(1903).  [ワ8] トップ

グレイツァー,サミュエル(Samuel L. Greitzer, 1905.8.10-1988.1.22). ロシアに生まれ,アメリカ,ニュージャージー州メアチェンに死す.
 1906年にアメリカに移住.スタイヴァサント高校卒,ニューヨーク,シティ・カレッジで学士(1927),イェシーバー大学からPh.D.取得.イェシーバー大学,ブルックリン工科大学,コロンビア大学,ラトガス大学で教鞭.
 著書多数,コクセターとの共著あり.
 Joe Richards and Don Crossfield, "Dear Professor Greitzer-Sam Greitzer," MAA(July 2010)    [幾4,7] トップ

クレイン(Daniel A. Klain).
 マサチューセッツ大学ローウェル校.凸幾何学,積分幾何,組合せ論.[天20] トップ

グレゴリウス13世(Gregorius XIII, 1502.1.1-1585.4.10).
 ボローニャ大学法律学教授、駐スペイン教皇特使枢機卿(1565)を経て、ローマ教皇(1572-85)。反宗教改革や教会内部の改革運動を推進した。クラヴィウスの進言により、ユリウス暦をグレゴリウス暦に改める(1582.2.24)。
 インド・日本の布教に尽力し、大友・大村・有馬諸侯の遣欧使節を接見(1585)。コレッジョ・ロマーノ(ローマ学院)とグレゴリウス大学をローマに設立。 [解I.6], [パ1, 年表] トップ

グレゴリー、聖ヴァンサンの(Gregory of St.Vincent=Gregorius Saint-Vincent=Gr\'egoire de Saint-Vincent, 1584.9.8-1667.1.27).
 ベルギー、ブルッヘに生まれ、ゲントに死す。
 イエズス会士。ローマでクラヴィウスに学ぶ。アントワープ、ルーベン、プラハ大学教授。ゲントのイエズス会学院教授。
 1260ページを越す主著の中には多くの話題があり、特に円の平方化の方法(本質的には積分)や1/xの幾何的な積分から対数を与える。 [解I.3, II.4, 文], [幾解] トップ

グレゴリー、ジェームズ(James Gregory, 1638.11-1675.10).
 スコットランド、アバディーンに生まれ、エディンバラに死す。
 パドゥア大学に行き、イタリアの数学者、特にステファノ・デリ・アンジェリやメンゴーリの影響を受け、無限級数の重要性を認識する。収束無限級数を用いて円や双曲線の面積を求める。エディンバラの聖アンドリューズ大学教授(1668)。グレゴリー式反射望遠鏡(2枚の凹面鏡で反射させる形式)の考案(1663)。グレゴリーの級数(逆正接関数の)。級数の「収束」という用語の使い始め。 [解I.3-5, II.4, III.7, 文], [パ:ノート, 年表], [名2], [50.18,25], [天VI.9] トップ

クレプシュ(Rudolf Friedrich Alfred Clebsch, 1833.1.19-1872.11.7. )
 ドイツ,ケーニヒスベルク(現在,ロシア,カリーニングラード)に生まれ,ドイツ,ゲッティンゲンに死す.
 ケーニヒスベルク大学から,Franz Ernst Neumannの指導で,De motu ellipsoidis in fluido incompressibili viribus quibuslibet impulsi(流体力学のもの)により,哲学博士号取得(1854).ハビリタシオンはベルリン大学から.その後,ベルリンのいろんな学校で教えた後ベルリン大学とカールスルーエ工科大学で教え,1863年にはギーセン大学教授.そこでゴルダンと共同研究を始め,アーベル関数論(1866).1868年に急逝したボン大学のプリュッカーの遺稿出版の責任者となったとき,その弟子のF.クラインと知り合い,クラインに師事されるが,リーマンの後継としてゲッティンゲン大学教授として分かれる.軍役を終えたクラインがゲッティンゲンにクレプシュを訪ね,1872年10月にクラインをエルランゲン大学の教授として推薦した1月後に亡くなる.クラインがその後のクレプシュ学派を引き継ぐ形になる.
 Mathematische Annalenの創始者の一人.不変式論,射影幾何学(への不変式論の応用).代数幾何(アーベルのアプローチに戻る).代数曲線の種数を導入.弟子のマックス・ネーターやブリルがその代数曲線の研究を受け継ぐ.
 クレプシュ・ゴルダンの係数.変分法のクレプシュ条件.クレプシュ変換.ゴルダンと共著の『アーベル関数論』(1868)もよく知られている. [代17-18], [ワ2], [伝3,4,6], [辞], [クI.1.5], [クII.3.1]  トップ

グレプナー(Wolfgang Groebner, 1899-1980).
 オーストリア領南チロル、ゴッセンサス(現在はイタリア,ボルツァーノ県ブレンネロ)に生まれ、オーストリア、インスブルックに死す。
 カトリック教会と訣別し、ローマで数学(絶対的に真である唯一のもの)を学ぶ。
 最初グラーツ工科大学で工学を学び,その後ウィーン大学からフルトベングラーの指導で「極小基底の問題への寄稿(Ein Beitrag zum Problem der Minimalbasen)」によりPh.D.取得(1932).その後フルトベングラーの勧めで,ゲッティンゲンのE.ネーターの下で可換代数を研究.
 第2次大戦後、インスブルック大学教授(1947-1970)。カリスマ的な教師で、多くの弟子を育てる。積分表、代数幾何、行列論、物理学の数学的方法、微分方程式などの書籍多数。弟子のBruno Buchbergerが名づけたグレプナー基底で有名になる.
『積分表, I部:不定積分(Integraltafel, erster Teil: unbestimmte Integrale)』(1949, ホフライターと共著).  [解II.4], [幾7,11] トップ

クレメント(Paul Arnold Clement )
 カリフォルニア大学ロサンゼルス校からEdwin Ford Beckenbachの指導で「不曲率曲面上の関数の一般凸性と"大域的な"不等式(Generalized Convexity and Inequalities 'Im Grossen' of Functions of on Surfaces of Negative Curvature)によりPh.D.(1949).
 微分幾何,数論,数値解析.
 双子素数に関するクレメントの定理. [珠文] トップ

クレモナ(Antonio Luigi Gaudenzio Giuseppe Cremona, 1830.12.7-1903.6.10. )  ロンバルディ,パヴィア(現在イタリア領)に生まれ,ローマに死す.

 パヴィア大学(Università degli Studi di Pavia)からF.ブリオスキの指導でPh.D.取得(1853).
 イタリア幾何学派の創始者.ボローニャ,ミラノ,ローマの大学に務める.
 代数幾何,とくに3次元曲面論.クレモナ変換.  [ワ2],[伝5,9],[クII.2.3,3.3] トップ

クレレ(August Leopold Crelle, 1780.3.11-1855.10.6).
 ドイツ、Eichwerder(Wriezenの近く)に生まれ、ベルリンに死す。
『クレレ数学雑誌』を創刊(1826)。アーベルなど若い数学者を庇護。道路計画や、ドイツ初の鉄道建設に従事。 [解III.5, 文], [名人], [伝2,3,4,5,6], [幾2,4] トップ

クレロー,アレクシス・クロード(Alexis Claude Clairaut, 1713.5.7-1765.5.17.)
 フランス、パリに生まれ、パリに死す。  数学者を父(ジャン・バチスト・クレロー)とする早熟の天才。 10才でド・ロピタルの微積分の本を読み、13才で4次の代数曲線に関する論文を科学アカデミーで読み上げ、特別に年齢制限を免除されて18才でパリ科学アカデミーの会員となる。ニュートンの自然哲学を支援するモーペルテュイのグループに属する。
 1736,37年に、地球の子午線を測る科学アカデミーのラップランド遠征隊に参加する。1743年には流体静力学に基づいて、地球の形状(極の方が平らになった球)であることを示しており、その中でポテンシャル論を用いている。
 シャトレ侯爵夫人のプリンキピアのフランス語訳の手助けをし、月の運動について数学的な解明をする。1759年のハリー彗星の接近のときには近日点を計算した。ハリーは1758年に彗星が戻ってくると予言していたが,木星と土星の引力のせいで遅れ,クレローは618日の遅れであるという計算をした.
 三体問題を始め、数学の広い分野の業績がある。空間の解析幾何学の確立、クレローの微分方程式。多変数関数の全微分の概念を作り、微分方程式の一般解と特異解の考え方を導入、線形微分方程式の可積分条件を定め、任意の偶関数のフーリエ展開を与えた。オイラーに先駆したものも多い。
 また、数学教育の改善運動の一環として書かれた、『代数学』(Elements d'algèbre,パリ,1746)や初等幾何学の教科書(Elements de géometrie, 1741)は版を重ねている。
 クレローの定理(多変数の偏微分での対称性),クレローの関係式,チームによる計算を初めて組織,  [解人], [パ19, 年表],[伝1], [幾1,2], [クII.3.3] トップ

グレン(Oliver Edmunds Glenn, 1878-)  ペンシルヴァニア大学からGeorge Hervey Hallett, Sr.の指導で「位数(p^2)qrの抽象群の決定;p,q,rは異なる素数(The Determination of the Abstract Groups of Order (p^2)qr; p,q and r Being Distinct Primes)」によりPh.D.取得(1905),
 ペンシルヴァニア大学教授(1910-28).
 有限群論,不変式論.
 『不変式論(A Treatise on the Theory of Invariants)』(1915).  [ワ8] トップ

グレンディニング,ポール(Paul Glendinning , 1964-).
  ケンブリッジ大学キングス・カレッジからNigel Weissの指導で,「ホモクリニックな分岐(Homoclinic Bifurcations)」によりPh.D.取得(1985). ポスドクの研究をウォーリック大学でした後,ケンブリッジ大学キングス・カレッジに戻りJunior Research Fellowshipに.ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ(Gonville and Caius College)に移り,Director of Studies in Applied Mathematicsに(1987).クイーン・メアリー・カレッジ (ロンドン大学)の講座主任(1996),マンチェスター大学 University of Manchester Institute of Science and Technology (UMIST)の講座主任(2000).2004年にVictoria University of ManchesterとUMISTが合併し,彼は数学科の主任に.マンチェスター大学応用数学教授.
 力学系,分岐理論,低次元写像,準周期強制系など. [50.18] トップ

クロー,マラン,ド・ラ・シャンブル(Marin Cureau de la Chambre , 1594-1669.12.29).
 フランス,ル・マン近くのサン・ジャン・ダセーに生まれ,パリに死す.
 最初ル・マンで医者をして,1630年にパリに移動し,医師で大臣のピエール・セギエと友人となり,のち,ルイ14世のmédecin ordinaireになる.人相学に優れていることで評判をとる.人の性格と情熱を研究,手相や消化についても研究し,著書を出す.光の性質,特に屈折や色についても研究.原色と2次色の可能性を論じる.
 哲学に関する著書も出し,アリストテレスの自然学(フィジカ)の翻訳を出版.1634年にフランス・アカデミー会員となり,1666年の科学アカデミーの創設時の会員となる.1991年に天文学者Eric Walter Elstは小惑星に7126 Cureauという名をつける.
 フェルマとの文通により,数学史にも登場する. [幾7] トップ

クロウェル,リチャード・ヘンリー(Richard Henry Crowell, 1928.4.6-). アメリカ,ペンシルベニア州ノーゼストの生まれ.
 1949年ハーヴァード大学卒,オランダ・アムステルダム大学で大学院(1950-51),プリンストン大学で修士(1953),プリンストン大学から,フォックスの指導で『交代絡み目型の不変量(Invariants of Alternating Link Types)』によりPh.D.取得(1955).
 プリンストン大学研究助手(1955-56),MIT講師(1956-58),ダートマス大学助教授(1958-63),准教授(1963-67),教授(1967-93),名誉教授(1993).
 著書にクロウェル・フォックス Introduction to Knot Theory(1963)(『結び目の理論』(寺坂英孝・野口宏訳)岩波書店,1967),Calculus of vector functions(1962),Calculus With Analytic Geometryなど.
 [天VI.15] トップ

クローシュ(Aleksandr Gennadievich Kurosh, 1908.1.19-1971.5.18).
 ロシア,スモレンスク州,ヤルツェヴォに生まれ,ロシア,モスクワに死す.
 1924年,16才でスモレンスク大学に入学し,アレキサンドロフの指導を受け,28年から大学院で指導を受ける.時に,E.ネーターがモスクワ大学に来て抽象代数の講義をし,それをアレキサンドルフが聴き,帰ってスモレンスクで行った講義をクローシュが聞くことになり,それが代数学への興味を形成したと,後に自身が語っている.
 1929年にモスクワ大学に移動していたアレキサンドロフの助手になり,トポロジーの論文を書く.しかし興味はすでに代数に移っており,O.シュミットの群論のセミナーに参加する.助手(1930),講師(1932),教授(1937).1936年4月22日に無限群に関する研究で学位.1929年にモスクワ大学に創られた高等代数学講座教授に,O.シュミットの後を継いで,1949年に就き,死ぬまでその職にあった.
 群論に関する最初の論文は郡の直積分解に関するもの(1932).自由群,群の自由積の部分群の特徴づけ.クローシュ部分群.
 群,環,体の抽象代数的一般論の定式化とテキストの作成.『群論』の第2版(1952)は,無限群に力点をおいた,現代代数学的な群の理論の教科書として有名で,1955年には英訳され(日本語訳は1961年),世界的に定評がある.群論ばかりでなく他の代数系も取り扱った『代数学教程』(1959)も英語ばかりでなく日本語にも訳されている.
 そのほか,ソ連での圏の理論の推進者でもあった.
 数学教育上,線形代数と多項式代数とを分けて教えるべきだと主張.   [代コ]  トップ

グロタンディエク(Alexander Grothendieck, 1928.3.28-).
 ドイツ,ベルリンの生まれ.父はロシア人でナチに殺される.1944年オランダのゲットーから救出されたとき,栄養失調で,自分の名前も覚えていなかったと言う.オランダ人のグロタンディエクが養子にし,アレキサンダーと名づけた.彼の申請に対し,国際連合は世界市民のパスポートを与える.
 モンペリエ大学卒業後,エコール・ノルマル(1948-49).ナンシー大学(1949-)ではJ.デュドネと関数解析を研究.ブルバキに参加.1953年以降,ブラジル,アメリカなど世界各地を移動し,1959-70年はフランスのIHES教授.興味も代数トポロジーや代数幾何に移る.多くの弟子を育て,IHESを代数幾何のメッカにした.その後もフランスの各地,特に引退時は母校のモンペリエ大学(1973-1988).
 幾何,数論,トポロジー,複素解析を統一することをテーマとし,強力な道具,環境づくりをした.1960年にはスキーム(代数多様体の構造層を,ベキ零元を許し,座標環も1を持つ任意の可換環を許すように拡張したもの)の概念を導入し,ヴェイユ予想を解く.数理論理学との関連も深いトポス理論.リーマンロッホの定理の代数的証明.曲線の基本群の代数的定義.導来関手としての層コホモロジー,エタール・コホモロジー,L関数のコホモロジー解釈,クリスタル・コホモロジーなど.関数解析では位相ベクトル空間のテンソル積,核型空間の研究.
 平和主義者としても先鋭的な活動家である. [代コ], [直序], [伝10], [辞] トップ

クロネッカー(Leopold Kronecker, 1823.12.7-1891.12.29).
 プロシャ、リーグニッツ(現在ポーランド領)に生まれ、ドイツ、ベルリンに死す。
 ベルリン大学教授。クンマーによって数学に導かれ、ベルリンでディリクレの指導で学位論文を書く。主たる業績は方程式論、代数的数論、楕円関数論。
 信念の人。好みに合わない数学を手ひどく非難する。カントールの集合論への敵対者として有名。
  「神は整数を作り給い、その他は人の技である。」
という言葉で知られるが、数学は有限の数、有限の操作のみを扱うべきだという強い思いを持っていた。その思想はポアンカレブラウエルなどの直観主義に受け継がれる。
  F.クラインはとりわけ彼の純粋主義が嫌いだったようで,著書『クライン:19世紀の数学』の中で次のように言っている.
「彼は主として算術と代数学を研究したが,後年,すべての数学研究に対する明確な知的規準を提唱するために,それらを持ち上げた. 哲学的な理由から,整数またはせいぜい有理数だけの存在は認めるが,無理数を完全に追放したいと思っていたクロネッカーによって,ワイエルシュトラス流の関数論は基礎付けが不十分であると考えるような新しい数学の方向性が生まれた.」
しかしそれに続いて「クロネッカーは,自分の哲学を一時的に忘れたからこそ,数学におけるかくも偉大な成果を上げたのだ」というポアンカレの言葉(Acta Mtah. Bd.22に掲載されたもの) を引用している.後半のより肯定的な評価はあまり知られておらず,クロネッカーに対する後世の評価が,前半の記述だけに基づいているようだ.

1880年に,クロネッカーはデデキントに宛てた手紙の中で,「我が最愛なる青春の夢(meinen liebsten Jugendtraum)」(虚2次体上のアーベル体が虚数乗法で得られること)と書いている.これを解決したのが高木類体論である.
 [解III.1], [名1-2, 4], [代コ], [ワ1, 7, 8, 9], [伝3,4,5,6,7,8,9], [文3], [辞], [作付B], [孫数1,3] トップ

クロフトン(Morgan William Crofton, 1826.6.27--1915.5.13). アイルランド,ダブリンに生まれ,イギリス,ブライトンに死す.父はプロテスタントの牧師のウィリアム・クロフトン尊師だったので,プロテスタントとして育ったが,トリニティ・カレッジ在学中にジョン・ヘンリー・ニューマンの影響でローマ・カトリックに改宗.
 ダブリン大学のトリニティ・カレッジで数学を学び,1847年に1等で学位を修得.1848年にトリニティが彼にフェローシップを与えようとしたが,当時英国国教徒でないと受けられなかったが(1873年にその制限は撤廃された),クロフトンは改宗の振りもしなかったので,フェローシップの試験で賞を得たが,フェローシップは受けなかった.
 1849年ゴールウェイのクイーンズ・カレッジの自然哲学の教授になり,1853年に辞職.フランスに渡り,イエズス会が運営するさまざまな教育機関で教鞭. いつかは分からないがイギリスに帰って,ウーリッジの王立陸軍士官学校(the Royal Military Academy)の数学教授だったシルヴェスターと親しくなり,同校の専任講師となる. 1869年にシルヴェスターが軍務での定年の55歳になったので,1870年にクロフトンがその空席を埋め,1884年の退職まで王立陸軍士官学校の数学の教授を勤め,力学と工業数学を教える.著書に『応用数学』の基礎に関する講義(Lectures on the elements of applied mechanics)』(1877),『力学(Tracts on mechanics)』.幾何や演算子法に関する著書もある.マクスウェル理論の枠組みの拡張.幾何的確率論,積分幾何,クロフトンの公式. 1860年代にビュフォンの針について考察し,1868年に『局所確率論』,エンサイクロペディア・ブリタニカ第9版(1875-1889)に長文の確率論の項を執筆(1885).
 1884年に退職した後,アイルランド王立大学の数学に参加(-1898).  [フ19] トップ

グロモフ(Mikhael Leonidovich Gromov, 1943.12.23-). ソ連,ロシア,ボクシトゴルスクの生まれ.ロホリンの弟子. レニングラード大学助教授(1667),同大学から博士号(1969). ニューヨーク州立大学教授(1974),パリ第6大学教授(1981),IHES教授(1982),クーラント研究所兼任(1996-).1991年にフランス国籍取得.
 グロモフ不変量,グロモフのホモトピー原理,シンプレクテック幾何,グロモフ・ハウスドルフ収束,ビショップ・グロモフ不等式,グロモフ・ノルム,グロモフ積,グロモフδ双曲空間,グロモフ=ウィッテン不変量。 [フ27], [50.13] トップ

クーロン(Charles-Augustin de Coulomb, 1736.6.14-1806.8.23).
 フランス,アングレームに生まれ,パリに死す.
 父はモンペリエの役人.一家はパリに移住し,College des Quatre-Nationsで学ぶ.モンペリエ市アカデミーで働き(1757-59),Augustin Danyzyに師事し、数学の教育を受ける.メジエールの陸軍士官学校で学んだ(1759-61)後,イギリス沿岸の地形図作成に従事,1764年にはマルティニーク島へ転属、8年間ブルボン城塞の建設に従事し,石造建築の構造について研究. 風土病にかかり,帰国.その後は大尉として,ラ・ロシェル、大西洋の小島Isle of Aix、シェルブールを歴任.1774年に科学アカデミーの通信会員. その後,磁気コンパス(1777),摩擦の研究(1781)で懸賞1位になり,会員に選出される.1781年にパリに配属されるが,1789年フランス革命が起こり,辞職し,ブロアで引退生活.新しい度量衡の制定のためパリに呼び戻され,1801年アカデミー院長,1802年社会教育長長官.次第に病気が重くなり,死去.
 力学,電磁気学.クーロン力,クーロンの法則,クーロンの摩擦法則.クーロンは電荷の単位. [先], [フ30] トップ

T.H.グロンウォール(Thomas Hakon Gr\"onwall, 1877.1.16--1932.5.9). スウェーデン,ドュルタ・ブルークに生まれ,アメリカ,ニューヨークに死す.
ウプサラ大学(1893-),ストックホルム大学(1894-1898)で学び,ウプサラ大学の学位(1898).ドイツで技師として働き(1902-03),アメリカに移民(1904).鉄鋼関連,ペンシルヴァニア鉄道などで働く.1911年にはシカゴに住み,1912年にアメリカ数学会員になる.プリンストン大学専任講師(1913-14),助教授(1914-15).また民間で働き,ニューヨークのコロンビア大学物理学教室に勤務(1925-),助教授(1927-).晩年は水素とヘリウム原子の波動力学を調べる.
 古典解析,微分方程式,積分方程式,解析数論,複素関数論,微分幾何,数理物理学.グロンウォールの不等式(グロンウォールの補題),グロンウォールの総和法(1932)など
 数学の弟子にJ.W.アレクサンダーなど.  [伝9] トップ

クーン(Stephen Walter Kuhn).
 ルイジアナ州立大学卒,ルイジアナ,サウスウェスタン大学修士.ジョージア大学からJon Frederick Carlsonの指導で「Z_4 x Z_2のモデュラー表現環について(On the Modular Representation Ring of Z_4 x Z_2)」によりPh.D.取得(19790).
 テネシー大学チャタヌーガ校助教授(1978-83)准教授(1983-93)教授(1993-).
 [解III.6, 文] トップ

クーン,ハロルド(Harold William Kuhn, 1925.7.29--). アメリカ,カリフォルニア州サンタモニカの生まれ.
 プリンストン大学からフォックスの指導で,「生成元と関係式によって表される群の部分群定理(Subgroup Theorems for Groups Presented by Generators and Relations)」によりPh.D.取得(1950).
 ペンシルヴァニア大学,プリンストン大学教授.プリンストン大学数学名誉教授。
 ゲーム理論.任務割当問題のハンガリー法.カルーシュ(William Karush)・クーン・タッカー条件,クーン・ポーカー. The Essential John Nashの共同編集.  [伝人] トップ

クンマー(Ernst Eduard Kummer, 1810.1.29-1893.5.14.)
 プロシャ,ブランデンブルグ,ソラウに生まれ,ドイツ,ベルリンに死す.
 ハレ大学(Martin-Luther-Universit\"at Halle-Wittenberg,マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)からH.F.Scherkの指導で,「(De cosinuum et sinuum potestatibus secundum cosinus et sinus arcuum multiplicium evolvendis)」によりPh.D.取得(1831).
 Sorauのギムナジウム(1831-32),リーグニッツ(現在ポーランドのレグニツァ)のギムナジウムで10年間教師をする.この時の生徒にクロネッカーヨアヒムシュタール
 1836年に超幾何級数の論文をクレレ誌に発表,そのコピーをヤコビに送り,そのことからヤコビやディリクレと文通するようになり,高い評価を受ける.1840年ディリクレの妻の従姉妹と結婚するが,妻は1848年に亡くなる.1842年にヤコビとディリクレの強い推薦でブレスラウ大学教授になる.この頃から数論の研究をはじめる.
 ゲッティンゲン大学に移るディリクレの後任としてベルリン大学教授(1855-1883).フェルマの最終定理を解決する(n <=100に対しては証明した)ため,理想数を導入。イデアルの概念を導入して,整数に関する結果を他の整域に拡大.ガウスの超幾何級数の理論を発展させ,微分方程式に応用.
 クンマー拡大,クンマー配位,クンマー合同,クンマー級数,クンマー関数,クンマー環,クンマー和,クンマー多様体.  [解人], [名3, 6], [伝1,2,3,4,5,6,7], [文3], [フ2],[辞],[クI.1.3,I.2.2] トップ


  
  
  
  
  

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