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 人名索引 あい


人名索引総目次  えお  
アアボエアイヴォリーアイグナーアイゼンシュタインアイゼンハルト
アイゼンローアアイデロッテアイトケンアイタイアイレンベルグ
アインシュタインアウグスティヌス,聖アウスランダーアーカート赤松則良
浅野啓三アシェット安島直円アストレリン
アタテュルクアダマールC.C.アダムズJ.C.アダムズアッペル
K.アッペルアティヤアノソフV.I.アーノルド
アピアヌスアブー・アル・ワファーアブダルアブール=ジュード
安倍清明アペリーアーベルアポストルアポロニウス
アマラシングエ荒木村英アラゴ
アリオストアリゴアリストテレス有馬頼徸アリヤバータ
アルヴァレスアル・カーシーアルカルサーディーアルガンアルキメデス
アル・ジェイヤーニアルシナアルツァーE.アルティンM.アルティン
アルトマンアルバートアルファンアル・フワーリズミアル・ムタマン
アレクサンダーA.D.アレクサンドロフ P.S.アレクサンドロフアレンドルファー
アロンアロンホルト アンガーアンティフォン
アンダーソンアンドレーエフアンペールP.P.A.アンリアンリIV世
 
イーウェルイースターフィールド 伊藤俊輔
伊能忠敬 井上馨 イルミンガー
彌永昌吉 岩佐源二岩本義和インフェルト

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アアボエ
(Asger Hartvig Aaboe, 1922.4.26-2007.1.19).
コペンハーゲンに生まれ,アメリカ,コネチカット,ノース・ヘイヴンに死す.
 科学史家で数学者.特に古代バビロニアの天文学の歴史に貢献.
 コペンハーゲン大学で数学と天文学を学び,1957年にブラウン大学から,「On Babylonian Planetary Theories」により科学史のPh.D.取得.指導者はノイゲバウワー.イェール大学科学・医学史学科(1961-1991),教授(1968).
 著書に『古代数学史のエピソード(Episodes from the Early History of Mathematics)』 (1964,2001),『ケンブリッジ古代史』(1991)の中の「メソポタミアの数学,天文学,占星術(Mesopotamian Mathematics, Astronomy, and Astrology)」の章など. [解I.4]トップ

アイヴォリー
(Sir James Ivory, 1765.2.17-1842.9.21).
 スコットランド,ダンディーに生まれ,イギリス,ロンドンに死す.
ダンディー・アカデミーで教育を受け,セント・アンドリューズ大学に14歳で入学,6年間過ごす.牧師になる教育を受けたが,ジョン・ウェストに学び,数学での優秀さを示す. エジンバラ大学で受階のための神学研究を完成しようとしたが,プレイフェアやDugald Stewartらの数学,物理,哲学の授業を受けるうちに計画を変えた.
 卒業後,ダンディー・アカデミーで数学を教えるようになったが,その後すぐ,ダーリントンでリンネル紡績を学んで,自分で紡績工場を始める.14年間働くが,金銭的には成功せず,最後は工場を管財人に取られる.この間の余暇に数学の勉強をし,古代や近代の幾何や,大陸の数学者の解析的方法についても学び,特に ラグランジュラプラスの仕事を独学した.
 楕円の周長を求める論文(1796),3次方程式(1799),ケプラー問題(1802)などをエジンバラ王立協会の会誌に発表.
 工場の解散後,プレイフェアの強い推薦で,グレイト・マーローの王立陸軍大学の数学教授になる(1804). そこで前年に採用されたウィリアム・ウォレスと協力. 1815年に精神状態が悪化し辞職を希望したが説得され,1817年まで勤める.その後はロンドンに住み引退生活を送る.
 1815年に王立協会会員に選ばれる.彗星の軌道に関する業績に対しコプリー・メダル(1814),ロイヤルメダル(1826,1839).1829年に王立協会でベイカー講義「On the theory of astronomical refractions」.
 アイヴォリーとウォレスはフランスの解析学者たちを強く支持,特にラプラスの『天体力学』に対する彼の批判はラプラスからも評価される. エンサイクロペディア・ブリタニカに,「引力」「毛管現象」の項を書く.後年,精神病のせいもあってか,数学者仲間との間に諍いがあった.
 楕円体の引力に関するアイヴォリーの定理 [パ,ノ], [フ30]トップ

アイグナー
(Martin Aigner, 1942.2.28-)
オーストリア,リンツの生まれ. ウィーン大学で(\"Uber Gruppen von Restklassen nach Restpolynomidealen In Dedekindschen Integrit\"atsbereichen)によりPh.D.取得(1965). その後の5年間をアメリカで過ごし,G.C.ロータとR.C.ボーズによって組合せ論を知る. ベルリン自由大学数学科教授(1974-).組合せ論,グラフ理論,離散数学.エルデシュ数は1.著書多数.『組合せ論』(Combinatorial Theory)や,ツィーグラーと共著の『天書の証明(Proofs from THE BOOK)』(1998,2003、2009).Combinatorial Theory (1997),A Course in Enumeration(2007),Discrete Mathematics(2007). [天24, 29],「フ文」トップ

アイゼンシュタイン
(Ferdinand Gotthold Max Eisenstein, 1823.4.16-1852.10.11).
 ドイツ,ベルリンに生れ,ベルリンに死す.
 父の代でユダヤ教徒からプロテスタントに改宗.4人の兄弟は髄膜炎で死に,彼も罹病し,生き残ったが,生涯病弱であった.幼いときから天才を発揮し,
 「6歳のとき,肉を切るのはナイフであってフォークでないことは分からなくても,数学の定理の証明を理解できた」
と自分で書き記している.
 ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムに在籍中からオイラーラグランジュの本を読み微積分を学び,ベルリン大学でディリクレらの講義を聴く.1842年にガウスの『整数論研究』のフランス語訳を買って読み,整数論に魅惑される.1843年ダブリンでハミルトンに会い,アーベルの5次方程式の代数的非可解性の論文を貰う.
 ドイツに戻り,1843年秋ベルリン大学に入学.1744年1月ハミルトンの論文をベルリン・アカデミーにて写し出し,同時に自分も会員になり,自分の2変数の3次形式の論文も提出する.
 2次形式,3次形式,3次剰余の相互法則,素数の平方和などを研究.ガウスの本の内容を深化させたもので,クンマーと競合.論文の査読を担当したクレレの知遇を受け,その紹介で1844年3月アレキサンダー・フォン・フンボルトに会う.1844年6月ゲッティンゲンに行きガウスに会い,絶賛される.
 楕円関数の研究で,ヤコビと不和に.1847年にベルリン大学で,教える資格を得,講義した中にリーマンがいた.  王の軍に彼の住んでいた建物から銃を撃ったものがあり,彼は逮捕され,翌日釈放されたが,元々病弱の彼はその待遇のために急速に弱った.
 ガウスの要請で1851年ゲッティンゲン・アカデミー会員に,1852年にはディリクレの要請でベルリン・アカデミー会員に選出される.彼の健康回復のためシシリー島での休暇のための資金をフンボルトが獲得したのは既に遅く, 肺結核のため29歳で亡くなった.
 アイゼンシュタインとの会話からリーマンがその有名な予想を思いついたという感想がヴェイユにある.  [伝2,3,5] トップ

アイゼンハルト
(Luther Pfahler Eisenhart, 1876.1.13-1965.10.28)
アメリカ,ペンシルヴァニア,ヨークに生れ,ニュージャージー,プリンストンに死す.
ダルブーの影響を受け,1900年に論文「曲面の無限小変形(Infinitesimal Deformation of Surfaces)」で博士号取得(ジョンズ・ホプキンス大学). プリンストン大学講師(1900),教授(1909-45),学部長(1925-33),大学院長(1933).
微分幾何,リーマン幾何の一般化,連続変換群などをテーマの著書も.アメリカ数学会副会長(1914),会長(1931-32),Transactions of the American Mathematical Societyの編集(1917-23)  [ワ8],[伝8]トップ

アイゼンローア
(August Adolf Eisenlohr, 1832.10.6-1902.2.24). ドイツ,マンハイムに生まれ,ハイデルベルクに死す.エジプト学者.
 Anthony Charles Harris (1790–1869) のコレクションのうち,大ハリス・パピルスの翻訳. ラムセス3世葬祭殿近くの墓で発見され1855年にハリスが買い,1872年に大英博物館に寄贈され,パピルス番号9999である.1500行もあって,現在のところ,最長のパピルス.テキストが書かれたのはラムセス4世(在位は紀元前1155-1149年)で,ラムセス3世の統治と寺院への寄進の記録.
 リンド・パピルスを初めて本格的に翻訳.  [ワ8],[伝8], [幾1]トップ

アイタイ
(Mikl\'os Ajtai, 1946.7.2-). ハンガリー第2共和国,ブダペシュトの生まれ.
 エルデシュ数は1.サンホセのIBMアルマデン研究センター所属.ハンガリー科学アカデミー博士候補(1976).
 計算量理論,組合せ論,数理論理学など.
 ソーティングネットワークのアルゴリズムを含む業績に対してクヌース賞受賞(2003).
 「n項の鳩の巣原理の命題論理における証明の長さがnについてのどんな多項式よりも速く増大する」ことの証明.ホヴァタル,N.M.Newborn,セメレディとともに交差補題「n個の頂点とm個の辺を持つグラフを描けば,m>4nであれば,少なくともm3/64n2の交差を持つ」を証明. アイタイ=ドゥヴォーク暗号系(Ajtai-Dwork cryptosystem).[天32]トップ

アイデロッテ(Frank Aydelotte, 1880--1956).
 彼がプリンストン大学高等研究所の所長(1939-1947)だったときに,トランジスタを利用した計算機を作ることを決定した. [伝10] トップ

アイトケン
(Alexander Craig Aitken, 1895.4.1-1967.11.3)
ニュージーランド,ヂュネディンに生れ,スコットランド,エディンバラに死す. ニュージーランド,オタゴ大学在学中に第1次世界大戦に従軍,エジプト,フランスと転戦.ソンムの戦いで負傷,母国に送還され,大学に戻る.卒業後高校で教師.オタゴ大学の新しい教授の薦めで,エディンバラ大学へ留学(1923).ホイッタッカーの下で学位(1925).その後エディンバラ大学に勤め,1935年には統計学の講師(Reader),1945年にはホイッタッカーの後任として教授に.
統計学,数値解析,代数学(対称関数,行列式,不変式論など). アイトケン非線形公式,アイトケン補間,アイトケン近似.  [ワ7], [幾9]トップ

アイレンベルグ
(Samuel Eilenberg, 1913.9.30-1998.1.30).
 ロシア帝国,ワルシャワに生まれ,アメリカ,ニュー・ヨークに死す.
 ワルシャワ大学修士(1934),クラトフスキボルスクの指導で「円周の上への位相写像について(On the Topological Applications of Maps onto a Circle)」により博士(1936).ミシガン大学講師(1940),準教授.インディアナ大学教授(1946).コロンビア大学教授.
 代数トポロジー,(コ)ホモロジー論,ホモロジー代数,圏と関手の理論の創始者の一人.
 スティーンロッドとの共著『代数トポロジーの基礎(Foundations of algebraic topology)』(1952),H.カルタンとの共著『ホモロジー代数』(1956),マクレーンとの『自然同値の一般理論』(1945)はそれぞれ分野を切り開いたもの.
 アイレンベルグ=マクレーン空間K(π,n),アイレンベルグ=ガネア(Ganea)予想,アイレンベルグ=モンゴメリの固定点定理,アイレンベルグ=スティーンロッドの公理,アイレンベルグ=ムーア(J.C.Moore)のスペクトル系列,アイレンベルグ=メイザーのスウィンドル.また計算機理論にも興味を持ち『オートマトン,言語』(1974,1976).  [代コ]  トップ

アインシュタイン
(Albert Einstein, 1879.3.14-1955.4.18).  ドイツ,バーデン・ヴュルテンベルク,ウルムに生まれ,アメリカ,ニュー・ジャージー,プリンストンに死す.
 あまりに有名で,子供のころばかりでなく,大学卒業時までも才能を認知されず,高校教師,ベルンの連邦特許局に勤務しながら,物理を勉強して(チューリヒ連邦工科大学でミンコフスキーに学ぶ),1905年に突然3大論文を発表したこと,ユダヤ人のため,ナチの迫害に遭い,世界中を巡る講演旅行の際アメリカに亡命し,アメリカが原子爆弾を開発するきっかけを作り,後にそれを悔やみ,科学者の平和運動の旗頭になり,イスラエルの大統領就任要請を断り,晩年は比較的静かにプリンストンで暮らしたということなど,山ほど出ているアインシュタインの伝記に詳しく書いてある.
 1. ブラウン運動の理論.微小粒子の不規則な運動を,液体分子の花粉などの比較的大きな粒子への衝突によるものと考える.これにより,原子の存在が確認され,原子の大きさの測定への道を開く.
 2. 光電効果.光の波束が光量子として振る舞う.1921年,この業績でノーベル賞受賞.
 3. 特殊相対性理論.光より速く運動するものはない.光に近づけば質量が増す.どんな観測によっても光速が一定であることを解決.ローレンツ変換不変な理論.
 4.一般相対性理論.光が曲がると予言.センセーションを巻き起こす.一般座標変換不変な理論.リーマン幾何学そのものと言えるほどにテンソル計算を駆使,以降テンソル計算が普及する.
 5. 統一場理論.失敗作なのか,まだ成功の可能性が残っているのか,知らない.
 ボーズ・アインシュタイン統計,アインシュタイン方程式.アインシュタインの規約.
「神は賽子を振らない.」
 [代17],[伝1,5,6,7,8,9,10],[辞] ,[作3],[幾6,7], [ワ著2]  トップ

アウグスティヌス,聖
(Augustinus, St., 354-430)
 前名アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus). ヌミディア(現アルジェリア領)タガステの生まれ.初期キリスト教会最大の教父. [天15]トップ

アウスランダー
(Louis Auslander, 1928.7.12-1997.2.25.)
 アメリカ,ニューヨーク,ブルックリンの生まれ.
 シカゴ大学からチャーンの指導で「フィンスラー空間の曲率理論に(Contribution to the Curvature Theory of Finsler Spaces)」によりPh.D.取得(1954).
 イェール大学,インディアナ大学,パーデュー大学,カリフォルニア大学バークレイ校,イェシヴァ大学,ニューヨ-ク市立大学(1965),教授(1971).
 フィンスラー幾何,solvmanifold(可解群の等質空間である多様体)とnilmanifold(ベキ零群の等質空間である多様体)の幾何,ホモロジー代数,線形代数,環論,多様体上の力学系.  アウスランダー=B. Kostant理論.
論文も著書も多い. [ト文]トップ

アウスランダー,モーリス(Maurice Auslander, 1926.8.3-1994.11.18.)
アメリカ,ニューヨーク,ブルックリンに生まれ,ノルウェー,トロンヘイムに死す.
 コロンビア大学からR.L.テイラーの指導で「群の相対コホモロジー理論と準同型の接続(Relative Cohomology Theory of Groups and Continuations of Homomorphisms)」によりPh.D.取得(1954).

ブランダイス大学教授(1957-1994).
 アウスランダー=Buchsbaumの定理,アウスランダー=Buchsbaumの公式,アウスランダー=Reiten理論,アウスランダー代数. トップ

アーカート(M.L.(Mac) Urquhart, 1902--1966)
 オーストラリアの数学者.タスマニア数学協議会を創設.
 ユークリッド幾何のもっとも初等的な定理を発見. [幾7] トップ

赤松則良
(Akamatsu Noriyoshi, 天保12年11月1日(1841.12.13) -1920(大正9年).9.23). 通称は大三郎.
 幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。
 1847年祖父赤松良則の後を継ぎ赤松姓となる。オランダ語を学び、蕃書調所に勤める。
 安政4年(1857)長崎海軍伝習所に入所
 万延元年(1860)日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行.
 文久元年(1861)に幕府よりアメリカ留学生として選任されるが,南北戦争勃発のためオランダ留学生に変更となり、内田恒次郎・榎本釜次郎・沢太郎左衛門らと共に文久2年(1862年)、長崎を出航してオランダへ向かう。  文久3年(1863)4月にオランダ・ロッテルダムに到着。運用術、砲術、造船学などを学ぶ。
 慶応2年(1866)に完成した開陽丸に乗船してオランダを出航。
 慶応3年(1867)3月26日、徳川幕府瓦解寸前の日本へ帰着。
 明治元年(1868):徳川家の駿河転封、沼津兵学校の一等教授方.後は明治政府に出仕して海軍中将にまで累進。
 明治10年,東京数学会社発足時の社員. [文プ] トップ

浅野啓三
(Keizo Asano, 1910-)
 大阪市立大学教授.代数学.Asano order
 著書に,『行列と行列式』共立出版(1955),永尾汎と共著の『群論』岩波全書(1965),正田健次郎と共著の『代数学I』現代数学4,岩波書店(1952).  [ワ3] トップ

アシェット
(Jean Nicolas Pierre Hachette, 1769.5.6-1834.1.16)
 フランス,アルデンヌ,メジエールに生まれ,パリに死す.
 メジエールの王立工兵学校でモンジュに学ぶ.16歳でランス大学に入学(1785-1787),1888年にメジエールの王立工兵学校の技官となり,モンジュの画法幾何学の講義を助ける.モンジュがパリに行ききりになって(1784.12)からは,教えることもした.
 革命後,技術的なことに関する政府の仕事をする.1794年の公共事業中央学校の設立にメジエールでの経験を生かして参加.1794年11月画法幾何学の助教授となる.一時的にエコール・ノルマルでモンジュの助手として教える.1799年にはエコール・ポリテクニク(公共事業中央学校の後身)の教授となり,同校の雑誌の編集者となる. 1810年からはエコール・ノルマルとパリ大学理学部でも教える.
 王政復古によるエコール・ポリテクニクの組織変えで,退職.1823年にはパリ・アカデミーに選出されたが,ルイ18世が承認しなかった.
 数学的には画法幾何学に関するもので,モンジュの本を編集し,モンジュの仕事の普及に貢献.モンジュとの共同研究で,2次曲面の分類,母線群に関して,たとえば2次曲面の平行な平面による切り口が相似なことなどを示す. 空間曲線の曲率の問題や,アポロニウスの問題の一般化についても研究.機械学や応用力学なども研究し,蒸気エンジンの歴史に関する著書もある.  [伝2,3]トップ

安島直円
(Ajima Naonobu, 享保17年(1732)-寛政10年4月5日(1798.5.20)). 江戸の新庄藩邸に生まれ、同地に死す.
 新庄藩士.本姓は藤原氏で,家系は藤原秀郷流の安島氏.仮名は万蔵,字は伯規,号は南山,諱は直円.安島万蔵や安嶋直円と書かれることもある.
 父は安島庄右衛門清英,江戸常府御会所勤めを経て勘定方となり、江戸藩邸における会計責任者である御勘定頭.
 幼年より和算に親しみ,和算中西流の大家・入江広忠が主催していた入江塾に通う.寛保3年(1743),12歳で元服し,父が数学者としての大成を願って諱を直円と命名.後に関流の家元・山路主住の門下となり、宝暦4年(1754)宝暦暦制定に協力.同じ年に父が亡くなり家督を継いで家禄80石を相続. 宝暦6年(1756)に吟味役兼金元方,12年(1762)に御勘定頭に昇進、3人扶持を加増. 安永元年(1772),山路主住が没するまでは山路の手伝いに専念し,これ以降,数学の研究に邁進したのだろう.
 天明5年(1785)10月に本締手代,11月には郡奉行へと昇進,同6年(1786)には本締役となる.  50歳半ば位までは同門の藤田貞資の方が高名だったが,この頃傍斜術が完成し,接触円関係の著作が集中的になされるようになる.世間では藤田貞資を「名人」と呼んだが,藤田の方は直円を「名人」と呼んだと言われるのもそうした理由からかもしれない.
 円理(円や球に関する算法や理論,一般の曲線)では,円柱の相貫体の体積を2重級数で表す、円弧の長さを求めるのに弦を等分する方法を完成させるなど.幾何学では,三斜三円術(安島‐マルファッティの定理)や四円六斜術(ケイジー(John Casey, 1820.5.12-1891.1.3)の定理)など、円と多角形とが接する際の大きさを求める問題の解法を、ヨーロッパに先駆けて発見.整数方程式・対数・循環小数についても研究.
 師の山路主住が天文方だったこともあって,研究というよりは編暦計算の実務に携わる人のための教科書と見られ るものが4篇『授時暦便蒙』『安子西洋暦考草』『安島先生便蒙之術』『交食蒙求俗解』が残されている.
 死の翌年,遺稿を日下誠が『不朽算法』としてまとめた.
 安島直円編『三角内容三斜術』,補遺は日下誠門人,内田恭嗣編,拾遺は内田恭門人,入沢行篤編:辺の長さが825寸の正三角形の中に整数値の長さの斜線をどう引くかという問題を,次々と解いていったというもの.
 同じメンバー構成での『六円無有竒術』もある.また稿本もいくつか残っている.たとえば,『円内容累円術』(天明4年(1784),寛政3年(1791)),内田恭編『南山先生遺稿弧積術觧』,『算法考草』,『算法考艸圓内交斜容圓術』,『算法考艸三斜之三圓術』,『円柱穿空円術』,『祇園算学解』
 弟子に,日下誠,馬場正督(1777-1843),坂部広胖(1759‐1824.9.16)など.
 安島・マルファッティ点,マルファッティ三角形.
 後に菊池大麓は高く評価し,関孝和と彼とを「和算史上の二大焦点」と読んだ. [文2] トップ

アストレリン
(Andrey V. Astrelin)
 モスクワ大学,計算法研究所(Laboratory of Computing Method)研究員.
 計算機を使った種々の数学を研究.I.サビトフとの共同研究で多面体の体積に対する標準多項式の計算(1996, 1999)やグレプナー基底の計算など,1990年から2002年までに24編の論文がある.  [モ]トップ

アタテュルク,ムスタファ・ケマル(Mustafa Kemal Ataturk, 1881.3.12--1938.11.1)
 トルコ革命の指導者で、トルコ共和国の初代大統領(在任1923.10.29--1938.11.10).
 イスタンブールに国際的に一流の大学を建設しようとして,1933年頃,R.クーラントを招聘したが,クーラントはアメリカに行くことを選んだ.  [伝9]トップ

アダマール
ジャック(Jacques Salomon Hadamard, 1865.12.8-1963.10.17).
 フランス、ベルサイユに生まれ、パリに死す。
 学校教育では数学以外は出来が良く、ギリシャ語とラテン語では優秀だったが、 「7年次までは算数はビリかほとんどビリだった」と1936年に自身が語っている。その後、良い数学の教師が数学と科学に彼の気持ちを向け、エコール・ポリテクニークとエコール・ノルマル・シュペリオールの入学試験までにはそれぞれに1位になった。エコール・ノルマルを選び、J・タヌリとエミール・ピカールのもとで学ぶ。1892年にテイラー級数で定義される関数に関する論文で学位。 ボルドー大学教授(1893)、ソルボンヌの非常勤講師。コレージュ・ド・フランス(1909-1937)、エコール・ポリテクニーク教授を併任。
 政治にも巻きこまれる。ドレフィス事件に積極的に参加。第1次大戦で2人の息子を失う。ナチの台頭と共に左傾化し、1940年にフランスが占領された際アメリカに逃げ、ついでロンドンでイギリス空軍の作戦研究に加わり、1945年にパリに戻る。
 18世紀に予想された素数定理を、ヴァレ・プーサンと独立に複素解析を使って証明する(1896)。テイラー級数で定義された関数(解析関数)と、その特異点の研究。数理物理学の偏微分方程式、適切な(well-posed)初期値問題と境界値問題の概念の導入。グリーン関数の一般化(1932)。函数解析の基礎づけ。「汎関数」という用語の使用。変分学。
 アダマールの誕生100年記念の式典で、ローラン・シュヴァルツは次のように言っている。
 「彼は彼の時代にファンタスティックな影響を与え、今あるあらゆる解析学は直接間接を問わず彼によって形作られたものであると、信じています。」
 日本語の本には『数学における発見の心理』(伏見康治+尾崎辰之助+大塚益日古訳)みすず書房、 『偏微分方程式-コーシー問題と双曲型線形偏微分方程式』現代数学の系譜14(福原+相澤+山中訳・解説)共立出版がある。  [解I.5, III.7, 文], [ト6] , [珠説2], [代コ], [伝5,6,7,8,9], [辞]  トップ

C.C.アダムズ
(Colin Conrad Adams, 1956.10.13-.)
 MITで修士(1978),ウィスコンシン大学マディソン校でJ.W.キャノンの指導で,「リンクの補集合の双曲構造(Hyperbolic Structures on Link Complements)」によりPh.D.取得(1983).ウィリアムズ大学(Williams College)数学教授(1985-).
 結び目理論,双曲3次元多様体.
 著書に『結び目の本.結び目の数学理論への初等的入門 (The Knot Book. An elementary introduction to the mathematical theory of knots)』(1994. 日本語訳あり),『なぜやらないの?結び目の数学理論入門(Why Knot?: An Introduction to the Mathematical Theory of Knots)』(2004)など. また,Mathematical Intelligencer誌にMathematically Bentというコラムを執筆.
 ホロボール充填の技法を使い,最小体積のカスプのある双曲3次元多様体がギースキング多様体に限ることを証明.双曲リンク, [フ文]  トップ

J.C.アダムズ
(John Couch Adams, 1819.6.5-1892.1.21.)
 イギリス,コーンウォール,ラニーストに生まれ,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
 天体力学,数理物理学.ケンブリッジ大学聖ジョン・カレッジに学ぶ.ケンブリッジ大学教授.ケンブリッジ天文台長. 1843年10月に天王星の運動の狂いから海王星の存在を予言し,1845年にケンブリッジ天文台長のG.エアリーに報告したが理解されず,海王星を観測で確認する作業は所員にゆだねられ,時間がかかり先を越された.独立に予言したパリのルヴェリエはベルリン天文台に依頼し,1時間で見つけてくれ(1846年9月23日),10月1日には発見の報道がなされる.
 常微分方程式の数値解析におけるアダムズの解法.ベルヌーイ数の計算,ルジャンドルの多項式の研究.月の永年加速度,近地点の研究(1853).11月流星群(獅子座流星群)の公転軌道決定(1866).[パ23] トップ

アッペル
(Paul Emile Appell, 1855.9.27-1930.10.24. )
 フランス,ストラスブールの生まれ.父祖もアルザスのフランスに忠誠を尽くした家系で,後にドレヒュス事件に関与する背景でもある.
 アンリ・ポアンカレの,ナンシー以来の友人.エコール・ノルマル・シュペリオールに入学(1873),首席で,しかも学位を得て卒業(1876).
 彼が結婚したアメリーは,ベルトランC.エルミートの姪で,エミール・ピカールの従姉妹.3人の娘の1人でボレルと結婚したマルガリットはカミーユ・マルボのペンネームで30作を超える小説を書き, 女性文学者協会 (Soci'et'e des Gens de Lettres) の会長になった.
 1885年にソルボンヌの力学の教授に.科学アカデミー会員に選出(1892).パリ大学理学部長(0903--20),学長(1920--1925).
 最初の論文はシャールの仕事を受け継ぎ微分幾何に関するもの(1876).理論力学,楕円関数,代数関数,解析入門などに著書多数あり.1878年に振り子の解における楕円関数の虚周期の重要性に注目し,物理的考察から楕円関数の2重周期性を導く.モンジュの問題を解くことでボルディン賞を共同受賞(1880).アッペル多項式,アッペル関数,アッペル変換,アッペル微分方程式.[伝5,6,7,8] トップ

K.アッペル
(Kenneth Appel I, 1932.10.8--2013.4.19)
 アメリカ,ニューヨークの生まれ.微分幾何学(アッペル空間),組合わせ論,グラフ理論.ハーケン,コッホ(John A.Koch)と共に4色問題の解決(1976).4色問題解決時はイリノイ大学教授.[名19] トップ

アティヤ,マイケル・フランシス
(Michael Francis Atiyah, 1929.4.22-).
 イギリス,ロンドンの生まれ.父はレバノン人で母はスコットランド人.学校はカイロのヴィクトリア・カレッジとマンチェスター・グラマー・スクールと半々に.兵役後,ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学し,卒業後もフェローに(1954).1955年はプリンストンにいて,帰国後はケンブリッジで(1961年まで),その後オックスフォードに移り,1963年オックスフォード大学サヴィル幾何学教授職に.1969年プリンストン高等研究所教授になり,3年後に帰国,オックスフォードの王立協会研究教授職に.1990年にケンブリッジ,トリニティ学寮長兼,新設のニュートン研究所長に.1966年フィールズ賞受賞.
 トポロジー,複素多様体論,微分方程式など多方面の業績.K理論,アティヤ・シンガーの指数理論,アティヤ・ボットの不動点定理など . [解人], [名20], [代コ],[ワ著1] トップ

アトキン
(Arthur Oliver Lonsdale Atkin, 1925.7.31-2008.12.28). イリノイ州メイウッドに死す.
 ケンブリッジ大学から,リトルウッドの指導の下でPh.D.取得(1952).第2次大戦中は学生の身でブレッチリー・パークで暗号解読の仕事をする.  チルトンのアトラス・コンピュータ・ラボラトリーに勤め(1964‐1970),ダーラム大学(1950-),シカゴのイリノイ大学教授(1970-),イリノイ大学名誉教授.
 整数論,モデュラー関数,分割関数,モンスター群.有限体上の楕円曲線の点の次数や数を求めるスクーフ・エルキーズ・アトキンのアルゴリズム(SEA).アトキンのふるい(ダニエル・J.ベルンシュタインとともに). Atkin-Goldwasser-Kilian-Morain certificates(素数判定法の一種),Atkin–Lehner理論(モデュラー形式の理論) [フ3] トップ

アノソフ
(Dmitrii Viktorovich Anosov, 1936.11.30--).
 ソ連,モスクワの生まれ.モスクワ大学卒(1958).ハルコフ大学,ゴーリキー大学,モスクワ大学(1968--73),ソ連科学アカデミー・スチェクロフ研究所(1961--)に勤務.現在研究所の微分方程式部門の長. ポントリャーギンの指導で博士号取得(1966).アカデミー通信会員(1990),正会員(1992.11).
 微分方程式,微分幾何学,微分トポロジー,力学系.『負曲率の閉リーマン多様体上の測地流』によってソ連国家賞受賞(1976). アノソフ微分同相,アノソフ流などは力学系の安定性理論での基本概念になり,ポアンカレ予想の解決に向かうための基礎的な道具になった.. [モ歴] トップ

V.I.アーノルド
、ヴラディーミル・イーゴレヴィッチ(Vladimir Igorevich Arnol'd, 1937.12.6-2010.6.3).
 ソ連、オデッサに生まれ,フランス,パリに死す.
 コルモゴロフの弟子。20才前のモスクワ大学の学生がヒルベルトの第13問題を(否定的に)解決したというニュースが世界を駆け巡り、彗星のように若き天才が登場する(1957)。28才でモスクワ大学教授に(1965)。モスクワ数学会副会長(1985).レーニン賞(1965),スウェーデン王立アカデミー・クラフォード賞(1982).
 三体問題の安定性(KAM理論)、特異点問題など多彩。訳者がモスクワにいた頃、すでに頭髪が薄くなり掛けていたが、同僚からヂィーマと愛称で呼ばれて親しまれていた。黒板の前で話の合間にふと見せるはにかんだような微笑みに、彼の瑞々しい感性を感じたものだ。
 アーノルド予想,アーノルドの猫,アーノルド拡散,コルモゴロフ・アーノルド・モーザー(KAM)理論,リウヴィル・アーノルドの定理 .
文献
  1. 『古典力学の数学的方法』(安藤韶一+蟹江幸博+丹羽敏雄訳)岩波書店(1980),原書はロシア語(1974)
  2. 『カタストロフ理論』(蟹江幸博訳)現代数学社,原書はロシア語
  3. A.Avez(アヴェ)と共著『古典力学のエルゴード問題』(吉田耕作訳)吉岡書店(1972)、Problemes ergodiques de la mecaniques classique, Gauthier - Villars(1967)
  4. 『常微分方程式』(足立正久+今西英器訳)現代数学社(1981) ,原書はロシア語
  5. 『数理科学のパイオニアたち』(蟹江幸博訳)シュプリンガー・フェアラーク東京(1999) Huygens & Barrow, Newton & Hooke,原書はロシア語
  [解I.5, IV.2], [パ5, 14, 15], [ト文], [代15, 19, コ], [フ序,10,30], [幾9] トップ

アピアヌス、ペトルス
(Petrus Apianus, 1495.4.16-1552.4.21).
 ザクセン、ライプツィッヒに生まれる。
 天文学、地理学者。ライプツィッヒ、ウィーンに学び、インゴルシュタット大学教授。
 1527年に『計算』(Rechnung)を出版、2項展開の係数としてパスカルの三角形の表を印刷。また2項展開に基づく、2乗根-8乗根の記述もある。 トップ

アブー・アル・ワファー
(Abu al-Wafā Muhammad ibn Muhammad ibn Yahya ibn Ismāʿīl al-Būzjānī, 940-997または998). アブル・ワファーや,アブル・ワファー・ブーズジャーニーと引用されることもある.
 イランの東部、ホラーサーン地方のニーシャープール近傍にあるブーズガーン(Buzhgan)で生まれ,バグダードに死す.
 ペルシアの数学者,天文学者.
 ギリシア科学文献の翻訳・注釈を行う.エウクレイデス,アレクサンドリアのディオファントスアル・フワーリズミなどの注釈,特にプトレマイオスの『アルマゲスト』(Kitāb al-Majistī)をアラビア語に翻訳.
 象限儀を考案,多くの三角関数の表を求める方法やタンジェントの概念を導入. [幾5] トップ

アブダル
(Assyr Abdulle).
スイス連邦工科大学ローザンヌ校,計算機数学と数値解析,教授.
ジュネーヴ大学から,G.ヴァンナーハイラーの指導で,直交多項式に基づいたチェビシェフの方法(Chebyshev Methods Based on Orthogonal Polynomials)によりPh.D.取得(2001). プリンストン大学ポスドク(2001-2002),チューリヒ工科大学研究助手(2002-2003),バーゼル大学・数学助教授(2003-2006),エジンバラ大学講師(2007),准教授 (2008) [幾11]  トップ

アブール=ジュード・ムハンマド・イブン・アル=レイシー
(Abū’l-Jūd Muhammad ibn al-Laythī).  10世紀に活躍したイスラムの幾何学者.正7角形や正9角形の作図など.ホーゲンディイクに,「正7角形に関係したアル=ビルーニーの質問へのアブール=ジュードの解答(Abu’l-Jūd‘s Answer to a Question of al-Bīrūnī Concerning the Regular Heptagon)」という論文がある.  [幾6] トップ

安倍清明
(Abe no Seimei, 延喜21年1月11日(921.2.21)-寛弘2年9月26日(1005.10.31). 摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)の生まれ(奈良県桜井市安倍という説あり).墓所は京都嵯峨,渡月橋の近く.
 陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたという.のちに加茂氏と安倍氏は二大陰陽家となる.
 天暦2年(948)に大舎人,天徳4年(960),40歳で天文得業生であった晴明が村上天皇に占いを命ぜられた記録がある.50歳頃,天文博士に.貞元2年(977)に保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現す。
 天元2年(979)ころから花山天皇の信頼を受け,占いや陰陽道の儀式を行った記録があり,花山天皇退位後は,一条天皇や藤原道長の信頼を集めたことが、『御堂関白記』などの日記からわかる.
 陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務める.その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。
 陰陽道に対する需要は院政期以後も高く、陰陽寮(官人陰陽師)の充実に伴って阿倍氏・賀茂氏は複数の流に分立.朝廷に対して陰陽道・天文道・暦道に関する業務を一族として請け負っていた(官司請負制).
 室町時代に入ると安倍氏の嫡流は他の一族を圧倒,公卿に列することのできる家柄へと昇格していく.中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏の宗家土御門家も戦乱の続くなか衰退していく.一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍.
 幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家幸徳井家を再興させて諸国陰陽師を支配させようとしたが,やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立.
 明治5年(1872)に、新政府は陰陽道を迷信として廃止.現代では土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県香美郡物部村(現在の同県香美市)に伝わるいざなぎ流を除いて,暦などに名残をとどめるのみ.  [文2] トップ

アペリー
(Roger Ap\'ery, 1916-1994)
フランス,カーン大学数学力学部教授.整数論.ζ(3) の無理数性を比較的初等的な方法で示した(1978年)ことで有名だが,この証明が出来たときには60才を超えていた.[天6] トップ

アーベル
ニールス・エンリック(Niels Henrik Abel, 1802.8.5-1829.4.6(16)).
 ノルウェー、フィンネイ(スタヴァンゲル近くの島)に生まれ、ノルウェー、フロランドに死す。
 貧しさのために若死にしたと言える。13才で、クリスチャニア(今のオスロ)のカテドラルスクールに入学、ホルムボーの指導で数学に興味を持つ。1821年クリスチャニア大学に入学。大学では殆ど独学だったという。
 1825-27年政府の奨学金で、ドイツ・フランスに留学。クレレ誌の1号はアーベルの7編の論文からなるもの。クレレの奔走でベルリン大学から招かれることになったが、その知らせは遂に彼の死に間に合わなかった、という日本人好みの悲劇のヒーロー。
 5次方程式の代数的不可解性の証明(1824)は有名で、この論文の日本語訳と解説が、守屋美賀雄訳・解説『アーベル・ガロア 群と代数方程式』現代数学の系譜11共立出版(1975)にある。
 アーベルの伝記については、C.A.ビエルクネス 『わが数学者アーベル その生涯と発見』(辻雄一訳、現代数学社),O.オーア『アーベルの生涯-数学に燃える青春の彷徨』(辻雄一訳、東京図書),A.ストゥーブハウブ 『アーベルとその時代 夭折の天才数学者の生涯』(願化孝志訳,シュプリンガー東京) がある。
 楕円関数論,級数論など。 アーベル群、アーベル方程式、アーベル関数、アーベル多様体など多くのものに名を冠されている。
  [解II.6], [解III.0, 2, 4, 6-7],[ト,7,8],[パ序,18,25],[名1,8],[代5,6, 12-22,コ],[伝1,2,3,4,5,6,7,10],[文3],[フ5],[辞], [作5,付B], [幾序,2], [基,13]トップ

アポストル
(Tom Mike Apostol, 1923-). アメリカ,ユタ州ヘルパーの生まれ.
 解析的整数論,
 ワシントン大学から化学工学で学士,数学で修士,カリフォルニア大学バークレイ校からレーマーの指導で「デデキント和とその一般化(A Study of Dedekind Sums and their Generalizations)」によりPh.D.取得(1948).
 カリフォルニア大学バークレイ校,MIT, カリフォルニア工科大学( カリフォルニア州,パサデナ)教授.
 彼の『数学解析』(Mathematical Analysis), Reading, Mass.:Addison-Wesley(1957)は一時期英語による微積分の教科書の標準であったことがある.また『解析数論入門』(Introduction to Analytic Number Theory), Springer(1976) [ト文], [天6], [ル3,5] トップ

アポロニウスペルガの(Apollonius = Apollonios of Perga, 紀元前262(245説あり)-190頃).
 ギリシャ植民地イオニアのペルガ(現在はトルコ領)に生まれ、エジプト、アレキサンドリアに死す。『円錐曲線論』。hyperbola双曲線, ellipse楕円, parabola放物線、という言葉を与え、個々にあった円錐曲線の理論を、円錐の断面として統一した。横座標、縦座標の言葉と共に、彼の2次曲線に関する業績は、後のデカルトフェルマの解析幾何を導いた。アポロニウスの問題(円の接触問題)。
 アルキメデスに続き、ギリシャ語の記数法を改良した(大きな数を表わすため)。天文学者としては、惑星運動の体系として、エウドクソスなどの使用した同心球系に対して、周転円運動系と離心運動系を提唱し、プトレマイオスの『アルマゲスト』を通じて天動説理論の標準として長い間採用された。
 精緻な円錐曲線論に対して、何の役に立つのかという非難を浴びたアポロニウスは、「定理はそれを証明するだけでも価値がある。数学上の多くの事柄を受け入れるのは数学自体のためであって、そのほかのためではないのと同じである」と反論している。  [解I.1],[名2, 12],[直2,7], [作付B], [幾序,1,3-8,10,11] トップ

アマラシングエ
(Indika Shameera Amarasinghe).
 スリランカ,オープン大学自然科学部数学科の純粋数学研究者.実解析,ユークリッド幾何,非ユークリッド幾何.
[幾4] トップ

荒木村英
(Araki Murahide, 寛永17年(1640)-享保3年(1718)7月15日). 江戸に生まれ,江戸に死す.彦四郎と称す.
 元禄の頃江戸南鍋町(現在の銀座みゆき通り風月堂の辺りか)で塾を開く.高原吉種,関孝和のに学ぶと自称.関孝和に師事した証拠はない.
 関孝和の未亡人から借り出し、関の遺稿を自分の門人大高由昌に編集させ,「括要算法」として刊行.算術を知らんのに売名行為はけしからんと建部賢弘が語ったという.
 大高由昌による序文
それ数の道たる、その源、聖人より出いでて、その来きたること遠し。ゆえに理、甚だ向上にして未得、為得の浅識に非ず。然しかも円法・弧矢弦等の奥旨に至りては、すなわち兀々ごつごつ(=一心に努力するさま)として煩わずらわするが如く、悩まするが如く、可非(=可否)を決しがたし. これをもって一法の合えるを見て、万法の則のりとなし、その一に合いて、二に違うことを知らざるなり。算法また邪術夥おおし。察せずんばあるべからず。関氏孝和先師ありて、はじめてその理、明らかに、その道、開けぬ。しかも昔人のいまだ発せざるを発す。愚、荒木村英に頼よって関氏先生の道を得たり。けだしこの術、広く世におこなわれて、衆人とともに邪を闢ひらき正を弁ぜんことを願うなり。然りといえども、理はこれ無量、術もまた限りなし。そのいまだ尽くさざるところは、もって、後の君子を俟つ。爾しか云う。
 時に、宝永己丑(1709)季冬(=12月)中浣(=中旬)、武江(=武蔵国の江戸)住、
 大高由昌,謹みて書す.
 この他に岡張による序と荒木による跋もついている.
 門弟松永良弼がしるした「荒木先生茶談」は和算の初期の歴史を伝える.
 [文2] トップ

アラゴ,フランソア
(Fran\c{c}ois Jean Dominique Arago, 1786.2.26-1853.10.2).
 フランス王国,ピレネー=オリアンタル県ペルピニャン近くの小村エスタジェルに生まれ,フランス帝国パリに死す.
 数学者、物理学者、天文学者,政治家.
 パリのエコール・ポリテクニークに入学(1803年末),ポアソンの推薦でパリ天文台の助手(1804)となり,ラプラスと知り合い,その影響もあってビオとともに子午線弧長の測量に従事.スペイン海賊に監禁されたり色々とあったが,釈放の際にアレクサンダー・フォン・フンボルトから手紙を受け取り,終生の交流が始まる.帰国後アカデミー会員(1809),モンジュの後任としてエコール・ポリテクニークの解析幾何学教授,同時に帝立天文台の天文学者となる.天文台で一般大衆向けの天文学講座を開く(1812-1845).
 ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックとともにAnnales de chemie et de physique(化学物理学年報)を創刊(1816).1820年には電流による鉄の磁化を、1824年には回転磁気(磁針の下で銅の円板を回転させるとその動きが磁針に伝わる現象,アラゴの回転盤)を発見.アラゴ・スポット(点光源からの光を球状の障害物に照射した際に、その影の中心部分に現れる輝点).
 オーギュスタン・ジャン・フレネルエティエンヌ・ルイ・マリュトマス・ヤングに影響を与える.光速度の測定を提案.
 パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬. [伝1] トップ

アリオスト,ルドヴィコ
(Ludovico Ariosto, 1474-1533).
 イタリア, レッジョ ・ エミリアの生まれ. イタリア ・ ルネサンス期最大の詩人. 代表作は騎 士物語詩 『狂乱のオルランド』. また戯曲もいくつかあり, イタリア喜劇の創始者となる. ダランベールラグランジュが愛したことでも知られる. [伝1] トップ

アリゴ,ジアンフランコ
(Gianfranco Arrigo).
 ボローニャ大学数学科.スイスのティチーノ州図書館システム(Sistema bibliotecario ticinese)で多くの数学の啓蒙文書を発表.(ここから参照できるが,イタリア語.) [幾解] トップ

アリストテレス
(Aristotle, Aristoteles, Ἀριστοτέλης,紀元前384-322).
 ギリシャ、マケドニアのスタゲイロスに生まれ、ギリシャ、オイベア、カルキスに死す。
 前367年からプラトンの死まで20年間、アカデミアで学ぶ。アレキサンダー大王の家庭教師(前343)。アテネでリンセリウムを開く(前335年)。アレキサンダー大王の死後(前323)、アテネに反マケドニア感情が強くなり、カルキスに引退、翌年死す。数学への貢献としては論理学の整備、無限に関する考察など。円周率が無理数であることを指摘.
 ルネサンス以降、何かと敵役になっているが、1000年以上学問の到達点であり、彼の業績を踏まえてこそそれを越えることに意味がある。学問全体としてみれば影響力は史上最大か。  [解I.1], [珠訳序], [パ7], [天6], [作付B], [幾I,9] トップ

有馬頼徸
(Yoriyuki Arima, 1714(正徳4).11.25-1783(天明3).11.23).
 久留米藩主(1729,享保14年)。関流数学者の山路主住(1704-1772.12.11)を江戸藩邸に招いて学ぶ. 山路の高弟の藤田貞資を召抱えて関流算学の奥義に達することができた. 山路のところに集積されていた、関孝和建部賢弘松永良弼,久留島義太らの仕事の中から、関流の秘伝と言われていた多くを,『拾璣算法』(明和6, 1769年刊),筆名は豊田文景)として公開・刊行し関流算学を広める.特に点竄術はこの書によって広く利用されるようになった.
 点竄術とは,天元術という中国で発展していた算木を使った代数学を,関孝和が改良した算木を使わない筆算による代数学である。傍書法(未知数を甲乙丙丁などの文字を使って表わす方法)という記号を使う方法を発明したもの. 初め、関自身の唯一の公刊本である『発微算法』(延宝2年(1674)刊)で発表されてはいたが,記述が簡潔過ぎて難解であり,建部の解説書の出てはいたが,一般に広まっていたとは言えない.実は,有馬の著書も比較的高度であり、天明元年(1781)に藤田貞資が公刊した『精要算法』は,叙述形式も堅苦しさを廃し、解説も分かりやすくしたため、一気に藤田の名が高まったということ.
 建部賢弘の導入した連分数の式で π、π2 の近似値を計算。
 写本の『方円奇巧』 [解I.6], [文2] トップ

アリヤバータ
(Aryabhatta, 476-550頃).
 東部インド,クスマプールの生まれ.『アリヤバティヤ(Aryabhatiya)』(499)は天文学・数学を扱った詩形式の書物.10のべき乗の呼び名.10進記数法.平方根と立方根の計算法.等差数列の和.円周率の近似値 3.1416 を得る. [名17] トップ

アルヴァレス
(Juan Carlos \'Alvarez-Paiva).
 ラトガス大学からペトリー(Ted Petrie)とI.M.ゲリファントの指導で「測地線の空間のシンプレクティック幾何(The Simplectic Geometry of Spaces of Geodesics)」によりPh.D.取得(1995).
 ラトガス大学助手(1989-1995),ヴェネゼーラのシモン・ボリヴァー大学助教授(1995-1996),ベルギーのルーヴァン・カトリック大学助教授(1996-1999),非常勤講師(1999-2001),ニューヨーク工科大学准教授(2001-2005),フランスのリール1大学教授(2005-)
  [フ30,文] トップ

アル・カーシー
(Al-Kashii=Ghiyath al'Din Jamshid Mas'ud al'Kashi, 1390-1429.6.22(1436, 1450説あり)).
 現イラン、カーシャーンに生まれ、サマルカンド(現ウズベキスタン共和国領)に死す。
 ティムールの孫ウルグ・ベグ皇太子に庇護される。サマルカンドの天文台に参加。数学・天文学に貢献。10進小数の創始と自認。『算術への鍵』(1427)は広く読まれた初等数学読本で、任意の累乗根の開き方が述べてある。正800335168角形の辺を計算して出した π の小数17桁の近似値は『円について』にある。[解I.4] トップ

アルカルサーディー
(Alkalsadi=Muhammad al-Qalasadi = Abu'l Hasan ibn Ali al Qalasadi, 1412-1486年)。
 スペイン、バスタに生まれ、チュニジア、Bejaに死す。
 スペインのムーア人の町であるバスタがキリスト教徒に占領されると、アフリカに逃げ、イスラム世界を旅行する。著書『グバル科学の秘密』で、塵や砂を撒いて計算するグバル数字によるインド人の計算法の紹介と発展という形で、平方根の逐次近似、代数的記号の使用などが述べられている。これらは、彼以前に知られていたのだが、独立に発見したものとみなされている。アラビア数学最終期の数学者。[解I.2]  トップ

アルガンジャン・ロベール(Jean Robert Argand、1768.7.18-1822.8.13)。
 スイス、ジュネーヴに生まれ、パリに死す。
 アマチュア数学者。1806年にパリで本屋をしながら、複素平面のアイデアを最初に公表(私費出版『幾何学的構成によって虚量を表わす方法についての試論』)。代数学の基本定理の証明、複素数の絶対値の概念の導入(1814)。ガウスもそれ以前に研究していたが、公表したのはアルガンが最初である。埋もれがちな業績が知られるようになった事情は、出版前にアイデアをルジャンドルに話し、ルジャンドルが砲兵学校講師のJ.R.フランセの兄弟に手紙を書いてその方法を述べ、フランセが1813年に『数学雑誌』で方法を述べ、匿名の考案者に名乗るように求め、アルガンが名乗りでて同誌にアルガンの論文が掲載されるという長いいきさつがあった。実際に数学の世界にこのアイデアが認知されるのはやはりガウスの業績を通してである(1830年頃)。
 実はノルウェーの測量技師C.ヴェッセルがベクトル理論の展開の一環として複素数を平面ベクトルと考える幾何学的構成『方程式の解析的表現について』(1799)を書いているが、デンマーク語で書かれていたため、100年程知られないままであった。 [解I.5], [名6], [幾8], [基11] トップ

アルキメデス
シラクサの(Archimedes of Syracuse, 紀元前287頃-212).
 シシリー島、シラクサに生まれ、シラクサに死す。
 父フェイディアスも天文学者で王室と血縁があったらしい。アレキサンドリアに学び、エラトステネス、コノンらエウクレイデスの弟子たちと交流。ラセン式水揚げ機、テコ、滑車、投石機などの発明。日・月・星の運行を示すプラネタリウム模型の設計(この模型はローマ軍の戦利品となったとキケロにある)。浮力の原理を発見したとき、裸で浴場を飛び出したり、ローマ軍と戦う軍師でありながら島に攻め込まれたとき、それを知らず、連行しようとするローマ兵士に地面の上に描いた図を消すなと言って殺されたり、エピソードは豊富。死ぬ直前に描いていた図は何だったのか。
 円周率の近似値、それを求めるための取り尽くし法(積分概念の萌芽)、回転体の体積や表面積、3次方程式の幾何学的解、アルキメデスの公理(エウクレイデスの『原論』の中ではエウドクソスの原理と呼ばれているが後世への影響力からアルキメデスの名で呼ばれるようになった)、アルキメデスの螺線、大きな数(宇宙の砂粒の数)を表わすためのギリシャ数字の記数法と命数法の改良。
 友人のヘラクレイデスの書いた伝記は失われ、後世の著述、とくにプルタルコスの『英雄伝』などで散見。彼はとても熱しやすく集中心が強く、たとえば風呂で従者に洗ったり油を塗られたりしているときにも指で自分の体に図形を描いていたとある。 キケロが紀元前75年に発見したアルキメデスの墓には、彼の遺志により、球に外接する直円柱の図と、その体積比が3:2という式が刻まれていたという。
 「支点を与えてくれれば世界を動かしてみせる。」
 日本人の好きな学者の一人で、現存する著書のほとんどは日本語訳がある。一番有名な『方法』(佐藤徹訳、東海大学出版会)はアレクサンドリアの図書館長だったエラトステネスへの手紙の体裁をとっている.The Method of Mechanical Theorems (Περὶ μηχανικῶν θεωρημάτων πρὸς Ἐρατοσθένη ἔφοδος)と引用されることも多い.
 『科学の名著9アルキメデス』(朝日出版社,1981)の中に『球と円柱について、第1巻』(佐藤徹訳)、『機械学』(佐藤徹復元)、『世界の名著9ギリシャの科学』(中央公論社,1980)の中に「球と円柱について1,2」「浮体について1」など11論文の抄訳(三田博雄訳)がある。
 『円錐と球体について』,『円の計測』,『螺旋について』,『平面の釣合について』,『放物線の求積』,『牛の問題』,『砂の計算』,『補題の書』 [解序, I.3-4, 6, II.4], [パ2,5], [7,10], [名2,17], [天6], [代2,5], [シ付2], [代入2,5], [伝1,7], [微1,2,6,9], [積1], [微基2,4], [微応7], [フ1, 19], [ふ3,4,6], [作付B], [幾序,1-7,9,10], [50,18] トップ

アルシナ,クラウディ,イ・カタラ
(Claudi Alsina i Català)
 バルセロナ大学から,Enric Trillasの指導で,「一般距離空間における積,凸化,完備化の研究への貢献 (Contribución al estudio del producto, convexificación y completación de espacios métricos generalizados)」により,Ph.D.取得(1978).
 スペイン,マヨルカ島のバレアリス諸島大学,カタルーニャ工科大学構造建築学科教授.
[幾7] トップ

アル・ジェイヤーニ
(Ibn Muʿādh al-Jayyānī, Abu Abd Allah Muhammad ibn Muadh Al-Jayyani, 989-1079.) アル・アンダルス(Al-Andalus, スペイン,アンダルシア),コルドヴァに生まれ,アル・アンダルス,ハエン(Jaén)に死す
 知られていることは少ない.コーランの専門家として名のある人と同姓同名だが,同一人物かどうかわからないようだ.1079年7月1日の皆既日食に関する著述があるが,90歳で書いたことになる.
 「球面の未知の弧の書」(The book of unknown arcs of a sphere)は球面三角法の最初の成書ということができるもの.レギオモンタヌスに強い影響. [幾5] トップ

アルツァー
(Horst Alzer)
 ボン大学から Werner Raabの指導で,「高位数の双曲線関数の零点(Die Nullstellen der Hyperbelfunktionen h\"oherer Ordnung)」によりPh.D.取得(1983).
  南アフリカ共和国,ヨハネスブルグ,ウィットウォーターストランド大学数学科. [天16] トップ

アルティン,エミール
(Emil Artin, 1898.3.3-1962.12.20).
 オーストリア,ウィーンに生まれ,ドイツ,ハンブルクに死す.
 ウィーン大学,ライプツィヒ大学に学ぶ.ライプツィヒ大学から,ヘルグロッツヘルダーの指導で,「有限体上の2次体(Quadratische K\"orper im Gebiete der h\"oheren Kongruenzen)」により哲学博士号取得(1921). ハンブルク大学(1923-37, 1958-).
 妻がユダヤ人だったため,ナチの新公職法施行(1937)により,大学を追われ,アメリカに亡命し,ノートルダム大学(1937-38),インディアナ大学(1938-46),プリンストン高等研究所(1946-58)に勤務.現代代数学,代数的整数論,代数トポロジー,ガンマ関数論など.非可換環論,特にアルティン環.
 日本語の本としては,『ガロア理論入門』(訳)東京図書(1974)がある. [珠2.3, 2.8], [天5], [伝7,9], [辞], [幾1] トップ

アルティン,マイクル
(Michael Artin, 1934-).
 父はエミール・アルティンザリスキの指導で,ハーヴァード大学から「エンリケスの曲面について(On Enriques' Surfaces)」によりPh.D.取得(1960).
 マサチューセッツ工科大学教授. 代数幾何学,非可換代数.M.アルティンの代数性定理,アルティン近似定理.
 『代数学(Algebra)』(1991)   [名序,文] トップ

アルトマン
(Benno Artmann).
 ゲッティンゲン大学数学研究所名誉教授.ダームシュタット大学数学教授を退職.
 日本語の本に『数学の創造者-ユークリッド原論の数学』(大家建正訳,シュプリンガー東京)がある. [天序,1] トップ

アルバート
(Abraham Adrian Albert, 1905.11.9-1972.6.6.)
 アメリカ,イリノイ州シカゴに生まれ,シカゴに死す.
 1828年にシカゴ大学からL.E.ディクソンの指導で「代数とその根基と多元体(Algebras and their Radicals and Division Algebras)」によりPh.D.取得. コロンビア大学講師(1929-31),シカゴ大学助教授(1931),教授(1941).アメリカ数学会会長(1965-66)
 E.アルティンE.ネーターH.ハッセH.ワイルに影響を受ける.  現代代数学,特に多元環論,ジョルダン代数の構造,リーマン行列.. [ワ2,3], [伝8]  トップ

アルファン
(Georges Henri Halphen, 1844.10.30--1889.5.23).
 フランス,ルーアンに生まれ,ヴェルサイユに死す.
 エコール・ポリテクニクに入学するも(1862-),普仏戦争で完了せず.戦後エコール・ポリテクニクの助教員となる(1872).シャールの問題を解く(1873).エコール・ポリテクニクの試験官(1884).科学アカデミー会員(1886),リンチェイアカデミー会員(1887).
 ワイエルシュトラスの同意の下に,楕円関数のワイエルシュトラス理論の包括的な解説を出版.
 数え上げ幾何,代数幾何,代数曲線の特異点理論,不変式論,射影微分幾何. [伝4,5]  トップ

アル・フワーリズミ
モハンマド・ベン・ムサ(Mohammed ben Musa Al-Khowarizmi = Mohammed ibn Musa al-Khwarizmi = Abu Ja'far Muhammad ibn Musa al'Khwarizmi, 780?(790?)-850?).
 ペルシャ北部、フワーリズミの生まれ(バグダード生まれという説あり)、没したところは不明。
 数学・天文学・地理学・暦学者。アル・マムーンが、アレクサンドリアの古い図書館に対抗して、バグダードに設立した「知恵の館」の教授団の一人。『アルジャブルの書』の他に、インドの記数法を紹介した『インドの計算法について』も重要(このアラビア語原典は失われている)。数の10進数表記で、 0 を空いている桁に使用するのは彼の功績とも言われる。ほか『インド人の天文表』、『プトレマイオスの弦改訂表抜粋』。  [解I.1] トップ

アル・ムタマン
ユースフ・アル・ムタマン・イブン・フード(Yusuf ibn Ahmad al-Mu'taman ibn Hūd, ?-1085).
 サラゴッサ王国(現在はスペイン北部アラゴン)フード朝の君主(1081-1085).数学者.
 著書に『完全の書』Kitab al-Istikmāl (كتاب الإستكمال), チェヴァの定理はこの中に出ていることが近年の研究で分かった. [幾4]  トップ

アレクサンダー
(James Waddell Alexander, 1888.9.19--1971.9.23)
 アメリカ,ニュージャージー,シーブライトに生れ,プリンストンに死す.
曽曽祖父アーチボルド・アレクサンダー(Archibald Alexander)は,プリンストン神学校の初代教授と校長を,1812年の創立時から1851年に彼が亡くなるまで務めた. プリンストン市のアレクサンダー通りや,大学構内のアレクサンダー・ホールは彼の名を冠したものである.
 プリンストン大学卒(1910),O.ヴェブレンの弟子.1912年パリとボローニャに留学.1915年,学位論文Functions which map the interior of the unit circle upon simple regionsでPh.D.取得.1915年プリンストン大学instructor,1916年lecturer.1917-20年は第1次世界大戦で従軍.1920年助教授,1926年準教授,1928年教授.プリンストン高等研究所創設(1933)に当たりその教授に.
 代数・組み合わせトポロジー,代数幾何.ヴェブレンと共同して,多様体の位相幾何を多面体に拡張.1920年単体複体のホモロジーの位相不変性の証明.ポアンカレのアイデアの厳密化や,代数曲面やクレモナ変換の研究.ジョルダンの曲線定理の拡張を目指して,アレクサンダー双対性,球面上のアレクサンダーの補題を示す.
 アレクサンダーの角付き球面horned sphere(1924).結び目のアレクサンダー多項式(1928).アレクサンダー・スパニア・コホモロジー(1935).コルモゴロフと独立にコホモロジー論の発見(1935).  [ワ8], [伝8,9], [フ26], [辞] トップ

A.D.アレクサンドロフ
(Aleksandr Danilovich Aleksandrov, 1912.8.4-- 1999.7.27).ロシア,リャザン,ヴォルィニ村に生まれ,サンクト・ペテルスブルクに死す.
 父はサンクト・ペテルブルグの中学の校長で母は同校の教師.1929年にレニングラード大学入学,物理学科に進む.1930年から光学研究所で働く.そこでデローネに数学,特に幾何を学び,V.A.フォックから物理を学んだ.この2人の指導でレニングラード大学から,「加法的集合関数と弱収束の幾何理論(Additive Set Functions and the Geometrical Theory of Weak Convergence)」により博士号(1937). 1932年からレニングラード大学物理学研究所に移り,1933年に理論物理で学位取得.
 数学では凸多面体や凸体の混合体積などの内的幾何学を,量子力学では交換関係などで仕事をする.博士の学位は加法的集合関数に関するもの(1937).1937年レニングラード大学幾何学教授,1952年に学長.1964年にノヴォシビルスク大学に移り,ソ連科学アカデミー・シベリア支部数学研究所の幾何部門の長になる(-1986).1986年にレニングラードに戻り,LOMIの幾何ラボの長に.
 山登りが趣味で,50歳の誕生日にはパミール高原に遠征.著書多く,ロバチェフスキー賞(1951)やオイラー賞を受賞. 
 弟子にブラゴ,ペレリマン,ザルガラーポゴレロフなど.   [モ体] トップ

P.S.アレクサンドロフ
(Pavel Sergeevich Aleksandrov, 1896.5.7-- 1982.11.16).ロシア,ボゴロツク(以前のモスクワ州ノギンスク)に生まれ,モスクワに死す.
 医師である父の任地のスモレンスクに育ち,ドニエプル川での水泳を日課に.モスクワ大学後(1913),N.N.ルージンに傾倒.1915年には最初の仕事(非可算ボレル集合は完全集合)をし,華々しく数学界にデヴューするが,続いて取り組んだ連続体仮説はうまくいかず,しばらく数学を離れる.
 ウリゾーンと親しくなり,行動をともすることが多くなり,ドイツやフランスにも同行する.1923年の8月17日,滞在していたブルターニュのル・バッツ村の海で水泳中波に襲われ,ウリゾーンは岩に打付けられて死ぬ.
 モスクワに戻って,仕事に没頭し,翌年はまたオランダに行き,2人で親しくなっていたブラウエルの助けを借りてウリゾーンの仕事の出版をする.ゲッティンゲンに戻ったとき,D.ヒルベルトに一般位相空間論の講義を依頼される.翌年またゲッティンゲンに行ったとき,H.ホップと知り合い,クーラントの勧めで,古典となったアレクサンドロフ・ホップ『トポロジー(Topology)』を書くことになる.
 A.コルモゴロフとも親しくなり,長期の旅行をすることもあった.モスクワ大学教授.    [伝3,6,7,8,9,10] トップ

アレンドルファー
(Carl Bennett Allendoerfer, 1911-1974.)
 微分幾何学者.1937年にプリンストン大学から,T.Y.トーマスの指導で,論文「大域的なリーマン空間の埋め込み(The Embedding of Riemann Spaces in the Large)」によりPh.D.取得.
 ガウス--ボネの定理を,閉じたリーマン多様体へ拡張(1943).   [ト6,文] トップ

アロン
(Noga Alon.)
 イスラエル,テル・アヴィヴ大学教授.グラフ理論,組み合わせ論.   [天27, 29, 32] トップ

アロンホルト
(Siegfried Heinrich Aronhold, 1819.7.16-1884.3.13.)
 ドイツ,アンゲンブルグの生まれ.
 ドイツの多くの大学に勤務.代数形式の不変式論,微分方程式論,楕円関数論. [ワ2, 8]トップ

アンガー
(Peter Ungar, 1963-.)
 ニューヨーク大学から,On the Generalizations of Riemann's Method of Integration by Holmgren and RellichによりPh.D.取得(1958).
 ニューヨーク大学クーラン研究所を退職.組合せ論.   [天9] トップ

アンティフォン
(Antiphon, 紀元前480--411).
 恐らくはギリシャのアテネに生まれ,アテネに死す.
 ソフィストで,雄弁家で政治家.だが,3人のアンティフォンがいたという説もあるが,同じ人だということにして述べておく.
 殺人事件の刑事訴追をしたり,検察や弁護の技術を教えることもした.哲学書も書いたが,すべて断片のみ,しかも他の人物からの引用の中に散見するだけである.
 数学に関しては,円の求積について,円に内接する正多角形の面積を求め,辺の数を倍々にすることによって円の面積との差がなくなって行くという,取りつくし法(搾り出し法とも言う)の原形のような議論をした.これはアリストテレスとその注釈者経由でしか残っていない. アリストテレスは,彼の議論は「線分によっての求積」と言い,幾何に基礎を置いていないといって非難している. シンプリキオスはアンティフォンが実際に求積を行ったと主張していると,誤解しているが,ヒースは,アンティフォンはそうは言っておらず,史上初めて取りつくし法を創案したことの意義を強く擁護している.取りつくし法は,この後,エウドクソスアルキメデスと,厳密化・整備され,実用化されて行く.   トップ

アンダーソン
(Richard Davis Anderson, 1922.2.17--2008.3.4.).
 アメリカ,コネチカット州ハムデンに生まれ,ルイジアナ州バトンルージュに死す.
 1948年にR.L.ムーアの指導で,テキサス大学オースチン校から「連続体の上半連続な集合に関して(Concerning Upper Semi-Continuous Collections of Continua)」によりPh.D.取得.ルイジアナ州立大学教授.
 一般トポロジー,無限次元トポロジー. [伝8] トップ  

アンドレーエフ
(Konstantin Alekseevich Andreev, 1848.3.26-1921.10.29).
 ロシアの幾何学者。ハリコフ大学(1873-98)、モスクワ大学教授(1898-)。解析幾何学の教科書、問題集は広く長い支持を得た。 [解II.6] トップ

アンペール
アンドレ・マリー(Andre Marie Ampere, 1775.1.20(22の説あり)-1836.6.10).
 フランス、リヨンに生まれ,近郊のポレミュー=オー=モン=ドールに育ち、マルセイユに死す。
 富裕な商人の子として生まれ、家庭教師についたほかは独学。神童を謳われ、12才までに知られていたすべての数学を学んだと伝えられている。革命の最中、父は断頭台に死す。リヨンで数学を教える(1796-1801)。ブール・カン・ブレスの国立中学校の物理・化学教師(1801)、同年リヨンのリセの数学教師、エコール・ポリテクニークの数学助講師(1805)、教授(1809-1828)、新設の大学制度の教育総監(1808-死)、パリ大学哲学講師(1819)、パリ大学天文学助教授(1820)、コレージュ・ド・フランスの実験物理学教授(1824-死)、アカデミー会員(1814-)。マルセーユに視察旅行の途次、肺炎で死ぬ。
 電流の磁気作用のアンペールの法則は、1820年デンマークのクリスチァン・エールステッドの実験に刺激され、電気と磁気の統一理論を作ろうとしたものだが、法則を微分方程式の形に昇華したことが重要である。なお、このとき科学アカデミーでのアラゴーによる報告のあと、1週間で完成したという話が伝わっている。電流を測ることも彼の貢献であり、その強さの単位として彼の名前が残っている。日本では、アンペアという音訳が定着している。
 最初の著作は『ゲームの数学理論』(1802)で確率論の先駆的研究。これにより就職が可能になった。接触変換論でのアンペールの変換や偏微分方程式論でのモンジュ--アンペールの方程式に名前を遺している。『解析教程』に述べられた失敗は頭の良い人に有り勝ちな思い込みか。森毅氏の本の題名じゃないけれど「まちがったっていいじゃないか」というものだろう。 [解III.9],[伝1,2,3], [辞] トップ

アンリ,フィリップ
(Philippe P. A. Henry).
 EPFL(ÉCOLE POLYTECHNIQUE FÉDÉRALE DE LAUSANNE)
 「アドリアン・ファン・ルーメンの問題のフランソア・ヴィエートの解(La solution de François Viète au problème d’Adriaan van Roomen)」(2009) [幾6] トップ


アンリIV世
(Henri IV, 1553.12.13-1610.5.14).
 フランス王国,ポー(ピレネー山脈のポー川に沿った町)に生まれ,パリに死す.  父アントワーヌ・ド・ブルボンと母ジャンヌ・ダルブレの間に生まれる.父方からヴァンドーム公の,父方からナバラ王を引き継ぐ.
 1562年のギーズ公のヴァシーの虐殺を契機にユグノー戦争が始まり,カトリック側とユグノー側を行き来する.父が戦死しブルボン家の当主となり,いろいろあって,アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの娘マルグリット・ド・ヴァロアと婚約.1572年8月17日に結婚,その6日後にサン・バルテルミの虐殺が起こる.アンリは幽閉される.1576年にパリの宮廷から脱走し,ユグノー陣営の盟主となる.3アンリの戦いと呼ばれれるさまざまな事件と戦争ののち,1589年8月にンリ3世が暗殺される.その死の床に,アンリが呼ばれ,カトリックへの改宗を勧められ,8月2日の王の死とともに王位を継承し,ブルボン朝が開かれる.
 パリのカトリックの強さから,1593年7月25日カトリックに改宗.1598年ナントの勅令を出し,国教はカトリックだが,プロテスタントにも信教の自由を認める形で,宗教戦争を終結させる.
 1599年マルグリットの離婚が認められ,1600年マリー・ド・メディシスと再婚し,6人の子供を儲け,長男がルイ13世である.
 フランス王として最も人気のあった人で,大アンリ(Henri le Grand)とも良王アンリ(le bon roi Henri)とも呼ばれる.愛人も多数あり,一説には56人以上もあったという.有名なのは,ガブリエル・デストレとアンリエット・ダントレーグである.
 数学との関係は,フランソア・ヴィエートを顧問官としていたことで,スペインの暗号密書を解読させたり,世界中の数学者に挑戦したアドリアン・ファン・ルーメンの問題を解かせたことなどがある. [幾6] トップ

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イーウェル
(John Albert Ewell III, 1928.2.28-2007.7.21). アメリカ,ルイジアナ州ニューウェルトンの生まれ.
 モアハウス大学化学学士(1948),カリフォルニア大学ロサンゼルス校数学修士(1955).カリフォルニア大学ロサンゼルス校から シュトラウスの指導で「固定されたい数の和の集合による集合の決定について(On the Determination of Sets by Sets of Sums of Fixed Order)」によりPh.D.(1966).
 1955-1970の間,サザン大学,カリフォルニア大学ロング・ビーチ校,カナダ,ヨーク大学オンタリオ校で教える.カリフォルニア大学ソノマ校准教授(1970).ノーザン・イリノイ大学(NIU)教授(1973-98),名誉教授.  整数論.     [珠文] トップ

イースターフィールド
(Thomas E. Easterfield.)
 P.ホールの弟子.組合せ論.結婚定理の証明の簡易化.   [天22] トップ

彌永昌吉
(Shokichi Iyanaga, 1906.4.2-2006.6.1).
 東京府に生まれ,東京都に死す.東京府立第四中学校(現 東京都立戸山高等学校)卒業後,第一高等学校入学.その後,東京帝國大学に学ぶ(1935-39).高木貞治の指導で東大から「一般單項化定理に就て」により理学博士号取得(1931).   1931年にフランス国費留学により,ヨーロッパに.ハンブルク大学でE.アルティンに学び,1932年のチューリヒでのICMに参加.C.シュヴァレーH.カルタンと交流.
 1934年に帰国後,東大助教授,アルティンの主イデアル定理の一般化(1939).教授(1942-1967),学習院大学教授(1967-77).
 整数論,特に類体論.
 弟子に,和田秀男,伊藤清,岩沢健吉,河田敬義,東屋五郎,小平邦彦,鈴木通夫,玉河恒夫,竹内外史,小野孝,高須達,佐竹一郎,久賀道郎,古屋茂,岩堀長慶,佐藤幹夫,八杉満利子,伊原康隆,山辺英彦(1923.8.22-1960.11.20)など。
 著書も多く,『幾何学序説』(1974),『数の体系 上下』(1978,79), 『数学の歴史 現代数学はどのようにつくられたか(1979), 『数学者の世界』(1982),、 『ガロアの時代ガロアの数学 第1部,第2部』 シュプリンガー・ジャパン(1999,2002)など.  [伝序] トップ

岩本(湯上)義和
(Yoshikazu Iwamoto(Yugami).)
 大阪理工科大学(現在,近畿大学)卒(1950).卒業後,大阪府立高校教諭を歴任し,現在は引退.π2の無理数性の証明.  [天6] トップ

伊藤博文(俊輔)
(Ito Hirobumi(Shunsuke), 天保12年9月2日(1841.10.16)-明治42年(1909)10.26). 周防国熊毛郡束荷村字野尻(現在は山口県光市束荷字野尻)に生まれ,清黒龍江省ハルビンに死す.
 父十蔵は百姓だったが,長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、その武兵衛が安政元年(1854)に周防国佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵も足軽となり,伊藤姓となる.
 幼名は利助,のち吉田松陰から俊英の俊を与えられ,俊輔とし、さらに春輔と改名.諱は博文,「ハクブン」と有職読みすることもある.号は春畝,滄浪閣主人など.
 松下村塾出身の政治家としてあまりにも有名だが, 『文明開化の数学と物理』との関わりは,長州五傑(Choshu Five)として,長州からのイギリス留学生で,ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジに行ったことだけ.同校にはChoshu Fiveの顕彰碑がある.5人は伊藤,井上聞多,遠藤謹助,山尾庸三,野村弥吉(井上勝).
 横浜出港は5月12日,ロンドン到着は11月4日と半年掛かっているが,翌年3月長州が外国船打ち払いをするという報道を聞き,伊藤と井上の2人は帰国を決意,4月中旬ロンドンを立つ.6月10日横浜に着き,駐日英国総領事エイベル・ガウワーを訪ねると,4カ国の下関襲撃の計画を聞き,自分たちが長州に戻って説得すると説得し,6月18日、英国艦に乗て豊後姫島まで送ってもらう.12日間という期日を貰っていろいろ交渉にあたるが,もちろん説得することはできず,むしろ攘夷志士たちに命を狙われる.
 これ以降はよく知られている通りである.初代内閣総理大臣で,外国で暗殺された最初の日本人? [文1] トップ

伊能忠敬
(Inou Tadataka, 延享2年1月11日(1745.2.11)-文化15年4月13日(1818.5.17)). 上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)に生まれ,江戸八丁堀に死す.
 小関村の名主・小関五郎左衛門家で生まれ,幼名は三治郎.父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現在の横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には入り婿.兄と姉がいた.6歳の時母が死に,家を叔父が継ぐことになり,父は兄と姉を連れ実家に戻るが,三治郎は祖父母のもとに残る.10歳の時に父に引き取られる.父は分家として自立.父の後妻との折り合いが悪かったためとも言われるが,各地を転々としたらしい.寺で半年算盤を習ったり,17歳の頃には佐忠太と名乗って、土浦の医者に医学を教わった記録がある.
 宝暦12年(1762)12月8日に忠敬は佐原村の伊能家のミチと婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ.伊能・神保両家の親戚である平山藤右衛門(ミチの母の兄)が行った土地改良工事の現場監督としての三治郎の仕事ぶりに着目して推薦したということ.結婚に際して,大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった.
 佐原村は天領で,利根川を利用した舟運の中継地として栄えていた.伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたが,当主が長いあいだ不在だったため,事業規模を縮小しており,忠敬に再興が期待された.
 宝暦13年(1763)に長女のイネ(稲),明和3年(1766)には長男の景敬が生まれた.佐原村の名主後見を永沢家とともに勤めるが,明和6年(1769)の祭礼騒動で永沢家と「義絶」,翌年和解したが,2者の1としての立場が強化された.この年の7月次女シノ(篠)が生まれ,また江戸に薪問屋を出したが、翌年に火事にあい、薪7万駄を焼くという損害を出した.
 明和9年(1772),利根川の河岸問屋を公認のものとして,伊能茂左衛門と忠敬の2人が引き受けることになる.この際に色々と問題もあったが,その解決の中で地歩を固めていったようだ.『佐原邑河岸一件』という文書を作る.この後安定した生活.安永3年(1774)に義母のタミが死に,安永7年(1778)に、妻ミチと奥州旅行へと出かけた.妻と一緒に行った唯一の旅行となる.
 安永7年(1778),天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となる.天明元年(1781)名主の藤左衛門が死去すると,代わりに忠敬が36歳で名主となった.
 天明3年(1783)浅間山の噴火などにともなって天明の大飢饉が発生.冬には利根川の堤防に関する国役普請の普請掛りとなり,暮れには妻ミチが死ぬ.地頭の津田氏に度々金を貸したこともあって,、天明3年(1783)9月には津田氏から名字帯刀を許されるようになり、天明4年(1784)名主の役を免ぜられて村方後見の役につく.
 毎年不作が続き,天明5年(1785)に米の値上がりを見越して、関西方面から大量の米を買い入れたが,米相場は翌年の春から夏にかけて下がり続け多額の損失を抱えた.あえて売らず,7月に利根川の大洪水によって佐原村の農業は大損害で日々の暮らしにも困るようになる.貧民救済に努め,買い入れた米を支給することを翌年にも続けた結果,天明7年(1787)5月に起きた江戸での天明の打ちこわしの余波を未然に防ぐことができ,危機を脱したあと,残りの米を売ることで、かなりの利益を得た.
 内縁の妻を迎え,天明6年(1786)に次男秀蔵、天明8年(1788)に三男順次、寛政元年(1769)に三女コト(琴)が生まれたが,妻は寛政2年(1790)に26歳で死去.この頃既に長女イネは結婚して江戸に,長男景敬は成人しており,隠居願いを津田氏に出したが慰留される.
 暦学の興味を持つようになり,本を取り寄せて独学.店の実質は景敬に順次任せるようになる.寛政5年(1793)には、久保木清淵(1762-1829)らとともに、3か月にわたって関西方面への旅に出かけ,旅行記を残こす.各地で測った方位角や、天体観測で求めた緯度などが記されている.
 寛政6年(1794)再び隠居願いを出し,地頭所は12月に受理.家督を長男の景敬に譲り,通称を勘解由として,江戸で暦学の勉強をするための準備にとりかかる.
 寛政7年(1795)50歳の忠敬は江戸へ行き,深川黒江町に家を構えて,高橋至時の弟子となる.『授時暦』については既にある程度の知識があり,『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになる.寛政8年(1796)9月からおよそ1年半の間,至時は改暦作業のため京都に行き,その間は間重富に指導をうける.同年11月に重富から至時にあてた手紙の中で「伊能も後編の推歩がそろそろ出来候。月食も出来候」と記されており、すでに『暦象考成後編』を学んでいたことが分かる.重富を通じて観測機器を購入.自宅に天文台を作り観測.
 江戸に出てから、栄(エイ)という女性を妻にした(1995年に、この人物が女流漢詩人の大崎栄(号は小窓、字は文姫)であることがわかった).
 至時と重富は、寛政9年(1797)に『寛政暦』を完成させたが,至時は満足していなかった.暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要.忠敬は、自らおこなった観測により、黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1分半ということを知っていた。そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば、1度の距離を求められると思い、実際に測量をおこなった。そしてその内容を至時に報告すると、至時からは、両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せないと返答された。そして、正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測ればよいのではないかと提案された.
 寛政4年(1792)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こっていたことを踏まえ,蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た.蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという意図.なかなか認められず.
 そこで,村民から,伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に名字帯刀を許可していただきたいとの箱訴願いをだした.測量を認めてもらう条件としては許可されなかったが,第1次測量の後許可される.
 寛政12年閏4月14日、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下りる.忠敬一行は寛政12年(1800)閏4月19日,自宅から蝦夷へ向けて出発.忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量旅行.21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩に到達.松前半島南端の吉岡に船をつけ,歩いて箱館へ. 5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷測量を始める.最初は間縄を使って距離を丁寧に測っていたが,時間がかかりすぎたため2日目以降は歩測に切り替えた.第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷滞在は117日.11月上旬から測量データを元に地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させ,完成した地図は12月21日に下勘定所に提出.かかった費用はほぼ100両で,受け取った手当は22両2分で,大半を忠敬が負担,現在の金額では1200万くらいか.
 この後,第二次測量(伊豆・東日本東海岸)(享和元年(1801)4月2日から12月7日)を行い,大図・中図・小図を作り,子午線一度の距離は28.2里.
 第三次測量(東北日本海沿岸)(享和2年(1802)6月3日に命を受け,6月11日に出発,10月23日に江戸に戻る)では,下図のみ作成して、享和3年(1803)1月15日に幕府に提出.
 第四次測量(東海・北陸)(享和3年(1803)2月25日-10月7日)までの結果から東日本の地図を,文化元年(1804)に大図69枚、中図3枚、小図1枚から成る「日本東半部沿海地図」としてまとめあげ,9月6日、江戸城大広間でつなぎ合わされて、十一代将軍徳川家斉の上覧を受ける.9月10日,忠敬は小普請組で10人扶持を与えられ,幕臣となる.この年の正月5日に、高橋至時が死去.
 第五次測量(近畿・中国)(文化2年(1805)2月25日-文化3年(1806)11月15日)の地図は文化4年12月に完成. 第六次測量(四国)(文化5年(1808)1月25日-文化6年(1809)1月18日),第七次測量(九州第一次)(文化6年(1809)8月27日-文化8年(1811)5月8日).九州の地図作成中に間宮林蔵の訪問を受け,林蔵に1週間かけて測量技術を教える.後に,林蔵は、忠敬が測り残した蝦夷北西部の測量をおこなう.
 第八次測量(九州第二次)(文化8年(1811)11月25日-文化11年(1814)5月22日).これら遠隔地への往復に内陸部を経由することで,空白地を埋める.
 第九次測量(伊豆諸島)(文化12年(1815)4月27日-文化13年(1816)4月12日)には高齢のため参加せず.第十次測量(江戸府内)(文化12年(1815)2月3日-2月19日,文化13年(1816)8月8日-10月23日)は伊豆諸島の測量と並行して行われた.
 八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業にとりかかる.文化14年(1817)には、間宮林蔵が,忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持参.文政元年(1818)4月13日,弟子たちに見守られながら生涯を終えたが,死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められて,文政4年(1821)7月10日に,景保と、忠敬の孫忠誨ただのりは完成した『大日本沿海輿地全図』を登城して上程した.  [文2] トップ

井上馨
(Inoue Kaoru, 天保6年11月28日(1836.1.16)-大正4年(1915)9.1). 周防国湯田村(山口市湯田温泉)に生まれ,静岡県興津町(現:静岡市清水区)の別荘・長者荘に死す。 幼名は勇吉、通称は聞多(もんた,長州藩主毛利敬親から拝受),諱は惟精(これきよ).
 長州藩士・井上五郎三郎光亨(大組・100石)の次男に生まれ,のち長州藩士・志道家(大組・250石)の養嗣子となるも、のち井上家に復籍.小姓役等を勤める.両家とも毛利元就以前から毛利に仕えた名門の流れを汲み,幕末の志士の中では比較的身分は高い方.
 藩校明倫館に入学した後,江戸で岩屋玄蔵や江川英龍に師事して蘭学を学ぶ.江戸遊学中の文久2年(1862)には御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加するなどの行動をする.
 伊藤俊輔と親しくなるのは文久3年(1863)にイギリス留学してからのこと.長州五傑 Choshu Fiveとして名高い留学のことは伊藤博文の項参照.ただし,その最後の攘夷志士たちに命を狙われるという件だが,伊藤と違って,実際に襲撃を受け,瀕死の重傷を負う. [文1] トップ

イルミンガー
(Hans Irminger, ).
  チューリヒ大学から,Andreas Speiserの指導で,「類体論の純算術的構造論(Beiträge zu einem reinarithmetischen Aufbau der Theorie der Klassenkörper)」により,Ph.D.取得(1947).
 空間5角形.[幾9] トップ

岩佐源二
(Iwasa Genji, ).
慶応2年(1866),菊池大麓と一緒にイギリス留学.留学生の中では最年長の22歳だった.ロンドンではW.V.ロイド邸で英語、算術、ラテン語、ギリシャ語、フランス語の学習.20歳を超えていたので,仲間たちが行った,ユニヴァーシティ・カレッジ・スクールに入学ができなかった.しかし,着いてまもなく大政奉還され,帰国を余儀なくされた.帰国後,静岡学問所教授. [文1] トップ

岩本(湯上)義和
(Yoshikazu Iwamoto(Yugami).)
 大阪理工科大学(現在,近畿大学)卒(1950).卒業後,大阪府立高校教諭を歴任し,現在は引退.π2の無理数性の証明.  [天6] トップ

インフェルト,レオポルト
(Leopold Infeld, 1898.8.20-1968.1.15).
 オーストリア・ハンガリー帝国(現在ポーランド),クラクフに生まれ,ポーランド,ワルシャワに死す.物理学者.
 父は靴屋だったが,子供の頃から科学に興味を持つ.ヤギェウォ大学で,1920年からはベルリン大学で学び,アインシュタインの助手をする. 1921年にヤギェウォ大学で博士号を取り、リヴィウ大学で教える(1930-1933). ユダヤ人差別が激しくなると,1933年にイギリスに移り,その後アメリカ,カナダに移る.
 プリンストン大学で教えながら,アインシュタインに協力(1936-38).トロント大学教授(1939-1950).ワルシャワ大学教授(1950-68).
 ボルン・インフェルト理論(Max Born, 1882.12.11-1970.1.5),アインシュタイン・インフェルト・ホフマン(Banesh Hoffmann, 1906.9.6-1986.8.5)方程式,インフェルト・ハル分解法.
 科学者平和宣言の最初のものであるラッセル=アインシュタイン宣言の署名者11人の一人でもある.
 日本語に訳されたものに,『ガロアの生涯-神々の愛でし人』とアインシュタインとの共著 『物理学はいかに創られたか』,『真実の探求-科学者の生長』がある.
  [ブ50],[ワ人], [辞] トップ


  
  
  
  
  

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