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 人名索引 かき


人名索引総目次  けこ
カーガイカイパーカヴァリエーリガーヴィッツ
ガウスカウフマンカウンツナー
カガンカークウッドカークマン掛谷宗一
カジョリカスティヨンカステルヌーヴォカスナー
ガスリーガセットカゾラティカタラン
カッシーニカッシーラーD.カッツM.カッツS.カッツ
カテラン大修道院長カトナガトナーM.ガードナーカートライト
金田康正カニンガム
カービーカプラノフカプランスキーカプレカルカペリ
カポヴィッチカムケ
カライガライカラツゥバカラテオドリカラビ
ガリレオガリペリンガルカルキンガルシア
カルダーノH.カルタンE.カルタンカルティエ
カルノーカルマールカルマンカレガガロア
川北朝鄰川路太郎川路聖謨
カーン神田孝平カントG.カントールM.カントール
カンポス
 
ギヴェンターリギヴンズ菊池大麓キケロギサン
ギース北尾次郎ギブスギブリン木村駿吉
ギャルヴィンキャロラインキャロル,ルイスキャンディ
ギユーキューネンギュルダン
キリロフキリングキールギルバートキルヒホッフ
ギルマンJ.キングギンディキンキンバーリング



 
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カー,ロイ(Roy Patrick Kerr, 1934.5.16- ).
 ニュージーランド,クローの生まれ.
 ニュージーランド大学カンタベリー・カレッジ(現・カンタベリー大学)を3年で卒業.大学2年次には修士号獲得.20歳まで大学を卒業できないという規定があったため.
 1955年にアーサー・シムズ連合王国奨学生として,ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ博士課程へ進学し、一般相対性理論を研究し,1960年にPh.D.を取得.
 ポスドクとしてアメリカ,ニューヨーク州のシラキュース大学に行ったとき,教授にアインシュタインの同僚だったピーター・バーグマンがいて知遇を得る.教授だったジョシュア・ゴールドバーグの紹介でアメリカ空軍ライト・パターソン空軍基地へ移籍し,アメリカ空軍・航空学研究室一般相対論部門研究員として反重力の研究に従事.A.シュルトの紹介でテキサス大学オースティン校に移り,そこでカー解を発見.准教授(1963-67),教授(1967-71).1971年にニュージーランドへ帰国,母校のカンタベリー大学理学部数学・統計学科教授に就任.カンタベリー大学理学部長(1983-1993)、ハンガリー原子力研究所(KFKI)国際部長を兼任(1991-93) . 現在はニュージーランド王立協会フェロー、カンタベリー大学名誉教授、相対論的天体物理学国際センター(I.C.R.A.Network)招聘教授、I.C.R.A. Networks エフゲニー・ミハイロヴィッチ・リフシッツ学術院長.
 カー計量,一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式の厳密解の一つで、軸対称なブラックホールを表すカー解の発見(1963).電荷を帯びたカー・ニューマン解(1965).カー・ブラックホール.カー・シルド形式.
 ブラックホール唯一性定理(アインシュタインマクスウェル方程式での軸対称定常解は、カー・ニューマン解に限られる)が1971年にBrandon Carterによって示されている.. [50.29]   トップ

ガイ(Richard K. Guy, 1916.9.30-2020.3.9).
 イギリス,ナニータンに生まれ,カナダ,アルバータ州カルガリーに死す. ケンブリッジ大学卒(1938),修士(1941).
 カナダ,カルガリー大学理学部,数学・統計学科教授.グラフ理論,組み合わせ幾何学,数論.
日本語の本に『数論における未解決問題集』(一松信監訳,1983),『幾何学における未解決問題集』(H.T.クロフト,K.J.ファルコナーと共著,秋山仁訳),『数の本』(コンウェイと共著.根上生也訳,2001)(すべてシュプリンガー東京刊),『[数学]じかけのパズル&ゲーム』(E.R.バーレキャンプ,J.H.コンウェイと共著,小谷他訳,HBJ出版局,1992)などがある。 [名17], [天32], [天VI.45]  トップ

カイパー(Nicolaas Hendrik Kuiper, 1920.6.28-1994.12.12).
 オランダ,ロッテルダムに生まれ,ユトレヒトに死す.愛称はニコ.
 微分幾何,微分トポロジー,力学系,統計学.
ライデン自由大学で学位(1946).そのアメリカに渡り,ミシガン大学ではボットS.スメイルに会い,その後プリンストンでチャーンと親交.
 オランダに帰って,WageningenのLandbouwhogeschool(農芸学校)で教鞭,アムステルダム大学教授(1962).フランスIHES所長(1971-1985).引退後も1991年にオランダに戻るまでIHESに滞在.
 弟子に Leo Corsten(1957), Eduard Looijenga(1974), Dirk Siersma(1974), Floris Takens.など
ヒルベルト多様体.可分なヒルベルト空間上の可逆な有界線形変換のなす群が可縮であること.いかなる微分構造も持たない位相多様体の例.異種球面が最小はめ込みを持たないこと.ナッシュ・カイパーの定理,カイパー検定.  [フ27]  トップ

カヴァリエーリボナヴェントゥーラ・フランチェスコ(Bonaventura Francesco Cavalieri, 1598-1647.11.30).
 ハプスブルグ帝国、ミラノ公国、ミラノに生まれ、教皇領ボローニャに死す。
 イエズス会修道師。ガリレオの弟子.ボローニャ大学教授。『不可分量の幾何学』(Geometria indivisibilibus, 1635).カヴァリエーリの原理は,アルキメデスの搾り出し法と近代的な積分論の中間の里程標の位置にある。ルネサンス人らしく多方面に興味を持つ。
 ガリレオは彼を、幾何学においてアルキメデス以来の深さに到達したと評している。 [解I.3, II.4, IV.5], [幾2],[50.25],[I.3.3] トップ

ガーヴィッツレオニード(Leonid Gurvits).
 ニューヨーク市立大学シティカレッジ,計算機科学教授.
 ファン・デル・ヴェルデンのパーマネント予想の証明を劇的に簡易化(2008). [天VI序,24] トップ

ガウスカール・フリードリヒ(Johann Carl Friedrich Gauss, 1777.4.30-1855.2.23).
 ブラウンシュヴァイク公国、ブラウンシュヴァイク(現在ドイツ領)に生まれ、ハノーヴァー、ゲッティンゲン(現在ドイツ領)に死す。
 ゲッティンゲン天文台長(30才)、ゲッティンゲン大学教授(31才)。数学上の伝説は数多く、どれを省くこともできないので、すべて省略。ただし、正17角形の作図可能性の発見は、彼が数学に献身するきっかけでもあり、自分の墓に刻んで欲しいと願ったことだけ(実際には刻まれなかったが)述べておく。
 パトロンのブラウンシュヴァイク公爵がプロシャとの戦争で死ぬまでは、家庭的にも恵まれていたが、その後ゲッティンゲンに移り(1807)、父をなくし、妻を次男のお産でなくし、その子もすぐに死んでいる。その後は家庭的には恵まれなかったと言われる。
 1801年1月1日にG.ピアッツィ(1746.7.16-1826.7.22)によって発見された小惑星ケレスは6週間追跡観測されたが,太陽の位置との関係で見失われてしまった.ガウスはこの軌道を計算するため,3回の観測だけで小惑星の軌道を素早く計算する方法を開発し,発表した(1809).ガウスは自分の計算による予測をゴータ天文台のツァハに送り,1802年1月予測した位置の近くでH.W.M.オルバース(1758.10.11 -1840.3.2) によって発見された.
 1831年以降W.E.ヴェーバーと共同で電気と磁気の研究をし,電磁気通信機を発明した.地球規模での地磁気の測定.
 代数学(代数学の基本定理),整数論,複素関数論,楕円関数論,代数関数論,微分幾何,測地学,天文学,電磁気学など幅広い.創始した概念には,平方剰余,合同式,最小二乗法,誤差論,非ユークリッド幾何,ポテンシャル論,,正規分布.空間曲線のまつわり数を線積分で定義.正多角形の作図可能性.複素数という名前.
 名前のついたものに,ガウス和,ガウスの超幾何関数,ガウスの超幾何微分方程式,ガウス曲率,ガウス方程式,ガウスの基本定理,ガウス写像,ガウス・マニン接続,ガウス・ボネの公式,ガウス核,ガウス過程,ガウス密度,ガウス測度,ガウス積分,ガウス系,ガウス平面,ガウス整数,ガウス記号,ガウスの消去法.ガウス--ザイデル法,ガウスの円の問題,数値積分のガウスの(補間)公式.またガウスは磁束密度の単位でもある.
 日本語の本に『ガウス整数論』(1801)(高橋正仁訳)朝倉書店、『誤差論』(飛田武幸、石川耕春訳)紀伊国屋書店がある。また、ガウスの伝記や業績については、ダニングトン『ガウスの生涯』(銀林浩+小島穀男+田中勇訳)東京図書、G.ギンディキン『ガウスが切り開いた道』(三浦伸夫訳)シュプリンガー・フェアラーク東京、高橋正仁『ガウスの遺産と継承者たち』海鳴社などがある。
 [解I.4-6, II.6, III.0, 3, 8-9, IV.5], [パ年表], [名2, 5-7, 13, 15, 19], [ト6, 8, 文], [珠訳序, 説1.7.2, 3.2.4, 3.4, 3.5.1, 文], [代3, 6, 11, 22, コ], [ブ50], [代入1,4,7],[天7,23],[ワ2, 6, 7],[伝1,2,3,4,5,6,7,8],[文3],[フ2,12,20,23],[辞],[率14],[作2,5,付B],[幾2,4,6-10,答],[基11],[孫数1],[50.6,13,35],[クI.1.3,1.4,2.2,3.1],[クII.3.2,3.3,附I],[天VI.5,10,21,24,32] トップ

カウフマン(Louis Hirsch Kauffman, 1945.2.3-).
 MIT卒業(1966).プリンストン大学からWilliam Browderの指導で「巡回分岐被覆,O(n)作用,超曲面特異点(Cyclic Branched-Covers, O(n)-Actions and Hypersurface Singularities)」によりPh.D.取得(1972).
 サラゴサ大学,アイオワ大学,IHES,パリのポアンカレ研究所,ボローニャ大学,ブラジルのthe Federal University of Pernambuco,ケンブリッジのニュートン研究所などで,客員教授.イリノイ大学シカゴ校教授.
 結び目理論,統計力学,量子論,代数,トポロジー.ブラケット多項式,カウフマン多項式.
 著書に『結び目の数学と物理』培風館(1995)など.  [天VI.15] トップ

カウンツナー(Wolfgang Kaunzner, 1928.7.28-2017.3.10).チェコスロバキア,ザーツに生まれ,ドイツ,レーゲンスブルクに死す.
 数学史家.
 ミュンヘン大学から,Kurt VogelとGeorg Aumannの指導で「エーガーのヨハン・ヴィドマンの算術書:史料とその影響(Das Rechenbuch des Johann Widmann von Eger. Seine Quellen und seine Auswirkungen)」により厳密科学博士取得(1954).レーゲンスブルク応用科学大学教授,1990年に名誉教授.
 中世の代数学が専門.レギオモンタヌス(1980),アル・フワーリズミルドルフ, Adam Riese, Heinrich Schreiber, Johannes Widmannなど.ケプラーの数学書も扱う. [解I.4, 文] トップ

カガン(Veniamin F\"edorovich Kagan(Каган), 1869.3.9-1953.5.8)。 ロシア,シャウリャイ(現在リトアニア共和国)の生まれ.1887年ノヴォシビルスク大学物理・数学部に入学するも大学改革運動に参加し退学.校外生としてキエフ大学を卒業(1892).オデッサ大学(1904-1923),モスクワ大学教授(1923-).
 幾何,テンソル解析.ロバチェフスキーの業績の普及に努力.『幾何学の基礎1,2』(1905-07)で,ユークリッド幾何の公理系の検討.運動群の不変量としての距離概念に基づく点が,後のヒルベルトの公理系とは異なっている. [天7],[天VI.10] トップ

カークウッド(Daniel Kirkwood, 1814.9.27-1895.6.11.)
 アメリカ,メリーランド,ハーフォードハーフォードに生まれ,カリフォルニア,リバーサイドに死す.
 デラウェア大学数学教授(1851-56),インディアナ大学数学教授(1856-65, 1867-86).数学者で天文学者. 小惑星の公転軌道に「カークウッドの間隙」を発見し(1866),木星の摂動によると説明。土星の輪のカッシーニの間隙も土星の衛星の摂動によると説明. [パ24, 年表] トップ

カークマン(Thomas Penyngton Kirkman, 1806.3.31--1895.2.3.)
 イギリス,ランカシャー,ボルトンの生まれ. ダブリン大学卒(1833).教区司祭(1839).ロンドン王立協会会員(1881).
 四元数論,組み合わせ論(カークマンの15人の生徒の問題),射影幾何でのカークマン点.有限幾何の組み合わせ論的扱い.  [列3] トップ

掛谷宗一(Sōichi Kakeya, 1886.1.18--1947.1.9).  広島県深安郡坪生村(現在,福山市坪生町)の生まれ.
 東京帝国大学理科大学卒(1909).東北帝国大学助教授.理学博士(1916),東京文理科大学教授.帝国学士院会員に選定(1934.7.31).東京帝国大学教授兼東京文理科大学教授(1935-1946).統計数理研究所初代所長(1944).
 代数方程式の根に関する掛谷の定理,掛谷の最大関数予想,掛谷の針集合,掛谷の問題,掛谷集合(=ベジコヴィッチ集合),掛谷--エネストレムの定理.
 掛谷の問題の発想が,武士が便所に槍を持って入り,槍が届く範囲を,というのは単なるうわさらしい.
 また,東北大学教授になった林鶴一が私財を投じて刊行した東北数学雑誌(明治四四年発刊)にまつわる掛谷宗一の回想に,
「当時の人達には数学の論文等といふものは,泰西ヨーロッパの大家でなければ書けないもの、われわれも勉強して書けても一生に一つか二つしか書けないものと思はれゐたのでありますが,東北数学雑誌が発刊されて、そこで西洋の学者の間に伍して林博士、藤原博士等が盛んに活躍されてゐるのを見ますと、われわれにも論文が書けるのだといふことが分って来たのでわれわれも論文を書くようになりました」
 がある. [天VI.35] トップ

カジョリ、フロリアン(Florian Cajori, 1859.2.28-1930.8.14).  スイス、サン・エグナムに生まれ、アメリカ、カリフォルニア、バークレイに死す。
 1875年にアメリカ合衆国に移民、チュレーン大学応用数学教授となる。 各地の大学を経て、1918年バークレイの数学史教授になる。
 主な著書に『数学史』(第2版、1919)、『数学記号の歴史』(1928-29)、『ウィリアム・オートレッド--17世紀の偉大な数学教師』(1916), 死後出版の『ニュートンのプリンキピア』(1934)がある。 [解,人索], [ブ50], [クI.2.1,I.3.2] トップ

カスティヨン(Johann Francesco Melchiore Salvemini Castillon, Giovanni Francesco Mauro Melchiorre Salvemini di Castiglione, 1708.1.15--1791.10.11).
  イタリア,トスカーナ州,カスティリオーン・フィボッキに生まれ,ベルリンに死す.
 数学者,天文学者.
 ピサ大学に学び,1729年に博士号取得.無神論者だったため,異端審問を逃れるため,1736年スイスに逃れる.
 ローザンヌで教えている間にカルヴァン主義者になり,1751年オランダ,ユトレヒトに移り,1763年にベルリンに移る.ユトレヒトとベルリンでスコットランドの日記作家ボズウェルに会っており,逸話が残っている.
 1745年に王立協会会員になり,1765年にフリードリヒ大王はベルリン天文台の王室天文官に任じる.ボローニャ,マンハイム,パドゥア,プラハのアカデミー会員になる.1787年,ラグランジュの後を受けベルリンアカデミーの数学部門の長となり,死ぬまでその職にあった.
 円錐曲線,3次方程式,大砲問題,クラメール・カスティヨンの問題.  [幾6,11] トップ

カステルヌーヴォ(Guido Castelnuovo, 1865.8.14--1952.4.27).
 イタリア,ヴェニスに生まれ,ローマに死す.
 パドヴァ大学から,G.ヴェロネーゼの指導で,Ph.D.取得(1886).1888年にEnrico D'Ovidioの助手としてトリノ大学に.
 トリノ大学ではセグレの影響を受け,ブリルやマックス・ネーターとも共同研究.1891年にローマ大学に戻り,その後亡くなったクレモナの後任として教授(-1935).セヴェリエンリケスらとともに代数幾何のイタリア学派を形成.イタリアの統計学やアクチュアリーの基礎付けもし,ジニやカンテリにも影響を及ぼす.
 カステルヌーヴォ曲線,カステルヌーヴォ・マンフォード正規性,カステルヌーヴォの定理,カステルヌーヴォ・デ・フランキスの定理.  [伝8,10], [クIII序] トップ

カスナー,エドワード(Edward Kasner, 1878.4.2-1955.1.7).  アメリカ,ニューヨークに生まれ,同地に死す.
 コロンビア大学から,F.クラインヒルベルトの指導で「反転群の不変式論 2次曲面上の幾何学(The Invariant Theory of the Inversion Group: Geometry upon a Quadric Surface)」により,Ph.D.取得(1899).
 コロンビア大学数学科に採用されたが,科学の学部の一員として採用された初めてのユダヤ人.特任教授(1906),正教授(1910).
 微分幾何. カスナー計量(アインシュタイン方程式の真空解),カスナー多角形.
 もっとも有名なのがgoogolという言葉の提案.散歩中に非常に大きな数を表す良い言葉がないかと甥のミルトン・シロッタ(当時9歳)とその弟のエドウィンにたずね,ミルトンが10100という数とgoogolという名前も提案したもの.これでは有限だというと,それを10の指数とするgoogolplexを提案した.1の後に疲れて書けなくなるまで0を書くというつもりだったらしい. 後の1940年に,James R. Newmanと共著の『数学と想像力(Mathematics and the Imagination)』を書いたときにこの語を紹介し,普及することになった.
 検索サイトのgoogle(グーグル)は命名者ラリー・ペイジのつづり間違いから来たもの.[50.37] トップ

ガスリー兄弟(Francis and Frederick Guthrie).  数学から法律に転向した兄のフランシスが4色問題(どんな地図も4色で塗り分けられること)を数学の問題として定式化し,数学を学んでいた弟のフレデリックを通してその師のド・モルガンに伝えられ,イギリスの数学界に問題が広まっていき,1878年にケイリーがロンドン数学界の会報に公開することで公の認知を得る.  [名19] トップ

ガセット,ホセ・オルテガ・イ(Jos\'e Ortega y Gasset, 1883.5.9-- 1955.10.18).
 スペインの哲学者.彼の著書をワイルの最初の妻ヘレーネ・ヨセフがドイツ語へ翻訳したということ以外に数学との関係は知らない.
『ドン・キホーテをめぐる思索 (Meditaciones del Quijote)』(1914年),『大衆の反逆』 (La rebeli\'on de las masas)(1929年)など.  [伝9] トップ

カゾラティ(Felice Casorati, 1835.12.17--1890.9.11).
 イタリア,パヴィアに生まれ,カステッジオに死す.
 パヴィア大学に建築工学を学び卒業(1856).その後A.ボルドニとF.ブリオスキの助手をするが,すぐに大学の教えることができる助手になる.1858年にはベッティとブリオスキとともに,ゲッティンゲン,ベルリン,パリを訪問.これがイタリアの数学者のヨーロッパの主流との出会いであった.
 クロネッカーワイエルシュトラスと親しくなる.  1859年の帰国後パヴィア大学の解析幾何の特任教授となり,1862年に正教授.1875年にミラノ大学に移り,死ぬまで解析を教える.
 関数論.真性特異点の近くでの解析関数の挙動に関する,カゾラティ・ワイエルシュトラスの定理.カゾラティ行列.
 常微分方程式や数学史の著作あり.
 [伝5] トップ

カタラン,ユージェーヌ・シャルル(Eug\`ene Charles Catalan, 1814.5.30-1894.2.14).
 フランス第1帝政,ブリュージュ(現在ベルギー領ブルッヘ)に生まれ、ベルギー、リエージュに死す。
 激動の時代を生きた.教育はパリで受ける.1830年の革命に遭う.エコール・ポリテクでリウヴィルのクラスにいたが(1833),翌年政治活動のため退学,シャロン=シュル=マルヌ(Ch\^alons-sur-Marne)に職を得る.1838年にパリに戻りサン・バルブ予備学校でスツルムやリウヴィルとともに教鞭.リウヴィルの助けで同じ年エコール・ポリテクで画法幾何を教える.1841年にパリ大学から学位.家庭教師をすることになったロシア人の縁でチェビシェフとの交流がはじまり,50年も続く.政変が続き,定職を持たないまま13年を過ごすことになる.1865年リエージュ大学教授となり,定年の1884年まで勤め,退職後も死ぬまでリエージュに住む.弟子にチェザロC.エルミートなど.
 連分数,画法幾何,数論,組合せ論.『幾何学初歩(Elements de g\'eom\'etrie, 1843)』,『画法幾何学入門(Trait\'e \'el\'ementaire de g\'eom\'etrie descriptive,1850-52)』,『初等幾何の問題と定理(Th\'eor\`emes et probl\`emes de g\'eom\'etrie \'el\'ementaire, 1852)』や,参考書の類も重版されているものが多い.
 カタラン数,カタランの定数,カタランの問題,カタラン予想,カタランの立体(=アルキメデス双対),フィボナッチ数に対するカタランの恒等式,カタラン・メルセンヌ数,カタラン極小曲面(1844).  [フ2], [代入7] トップ

カッシーニジョヴァンニ(Giovanni Domenico Cassini, 1625.6.8-1712.9.14).
 ジェノア共和国(現在はイタリア領)、ペリナルドに生まれ、フランス、パリに死す。
 ジェノアのイエズス会学院で学ぶ。パンツァノ天文台で観測(1648-1669)、1650年にボローニャ大学天文学教授。 彗星の観測(1652-3と1664-5)の詳細の記録を出版。水力学や工学にも興味。特にポー川の治水については貢献。都市の要塞化の監督とか、河川管理に関して教皇に雇われていた。
 1669年、ルイ16世によりパリに招聘。1671年からパリ天文台長。 土星の4つの衛星の観測(1671, 1672, 1684, 1684)、土星の輪の構造、特に隙間を見つけた(1675年、カッシーニの間隙)。木星の大赤点の発見(1665).
 カッシーニの卵形線は、太陽と地球の相対運動の研究の一環として考察したもの。また、地球の経線の長さを測るのでは、長く見積もりすぎて、地球の形を縦長の卵形とみなして失敗(1712年)。24年後、モーペルテュイニュートンの予言に従い、値を修正した。 [解IV.3], [パ24], [直6], [幾7] トップ

カッシーラー,エルンスト(Ernst Cassirer, 1874.7.28-1945.4.13).
 シレジア,ブレスラウ(現在ポーランド領ヴロツワフ)に生まれ,アメリカ,ニューヨークに死す.
 ドイツの哲学者、思想史家。新カント派に属し、“知識の現象学”を基礎にしながら、シンボル=象徴体系としての文化に関する哲学を展開.
 ベルリン大学私講師,ハンブルク大学教授(1919-1933).オックスフォード大学講師(1933-1935),スウェーデン,ヨーテボリ大学教授(1935-1941).アメリカに亡命後,イェール大学(-1943),コロンビア大学(-1945).
 『国家の神話』(1946),『実体概念と関数概念』[ワ著2] トップ

カッツ,シェルダン(Sheldon H. Katz).
プリンストン大学から,R.C.ガニングの指導で,「線形系の変形,因子,曲線上のワイエルシュトラス点(Deformations of Linear Systems, Divisors, and Weierstrass Points on Curves)」によりPh.D.取得(1980).
イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校教授.代数幾何,微分幾何,量子論,多変数複素関数,解析空間,相対論
『ミラー対称性と代数幾何』(1999,D.A.コックスと共著),「数え上げ幾何学と弦理論(Enumerative Geometry and String Theory)」(2006). [フ文] トップ

カッツ,ダーフィト(David Katz, 1884.10.1-1953.2.2). ドイツ,カッセルに生まれ,ノルウェー,ストックホルムに死す.
 実験心理学者,教育心理学.
 ゲッティンゲン大学で数学や自然科学を学び,心理学に転向,Georg Elias Müllerに学ぶ.フッサールの指導で,時間体験に関する心理学の研究で哲学博士号取得(1906). Müllerの助手(1907),色覚に関する研究(1911),ボランティアとして第1次大戦に参加(1914-18),1918年ハノーバー大学で研究,戦後ゲッティンゲン大学で枠外教授(1918),ロストック大学教授(1919),ストックホルム大学心理学教授(1937). [クI附A,附B] トップ

カッツ,マーク(Marc Kac, 1914.8.3--1984.10.26).
 ロシア帝国,ポーランド,クレメネッツ(Krzemieniec)に生まれ,アメリカ,カリフォルニアに死す.誕生当時ユリウス暦が使われていた地域だったので,実際には8月16日に生まれた.
 リヴォフのヤン・カジミェシュ大学に入学しシュタインハウスに学ぶ.1937年に学位.ジョンズ・ホプキンス大学の奨学金に応募し,2年目に採用され,在学中に戦争が起こる.コーネル大学に勤める.講師(1939),助教授(1943;この年に市民権獲得),正教授(1947).年から年まで講師.ニューヨークのロックフェラー大学に転じる(1961).  確率論,統計力学.ファインマン・カッツの経路積分.  『確率論および物理学に関する諸問題』,『確率論,解析学および数論における統計的独立性(Statistical Independence in Probability, Analysis and Number Theory)』(1959)は古典.S.ウラムとの共著『数学と論理学,回顧および将来の展望』.バーコフ賞受賞(1978).アメリカ数学月報にも多数執筆.中でも「太鼓の形を聞くことができるか?(Can One Hear the Shape of a Drum?)」は有名.エルデシュとも共同研究.   [モ歴], [天VI.7] トップ

カテラン大修道院長(abbe Catelan). 17世紀フランスのデカルト主義者. [解II.1] トップ

カトナ(Gyula Y. Katona, 1965.12.4-). ハンガリー,ブダペシュトの生まれ.Gyula O.H. Katonaの息子.
 ハンガリー科学アカデミーから,ロヴァースとAndr\'as Recskiの指導で「グラフとハイパーグラフにおける道とサイクル(Paths and Cycles in Graphs and Hypergraphs)」によりPh.D.取得(1997).ブダペシュト工科大学計算機情報科学科講師.グラフ理論.
 ロシア語と日本語も話せる.  [天18,22], [天VI.25,30] トップ

ガトナー(Shai Gutner). テル・アヴィヴ大学からアロンとYossi Azarの指導で「ネットワークとグラフにおける最適化問題に対するアルゴリズム(Algorithms for Optimization Problems on Networks and Graphs)」によりPh.D.取得(2009).グラフ理論.選択可能性. [天27], [天VI.39] トップ

ガードナー,マーティン(Martin Gardner,1914.10.21-2010.5.22).
 アメリカ,オクラホマ州タルサに生まれ,オクラホマ州ノーマンに死す.
 コラム「数学ゲーム」をサイエンティフィック・アメリカン誌で1956-1981まで連載.著書多数.数学パズル,パラドクス,最新の話題など.彼の著作を読んだことのない数学愛好家はいないだろう.彼の名の付いた小惑星がある.著書のリスト[率25], [50.37], [天VI.31] トップ

カートライト,メアリー・ルーシー(Mary Lucy Cartwright, 1900.12.17-1998.4.3).
 イギリス,ノーサンプシャー,エインホに生まれ,ケンブリッジに死す.
 リーミントン高校(1912-1915),ボスコンのグレイブリー・マナ・スクール(1915-1916),サルスベリーのゴドルフィン校(1916-1919)の後,オックスフォード大学セント・ヒュー・カレッジを第一級の成績で卒業(1923).最終次の講義に出席し主席合格した最初の女性.
 ウスターのアリス・オットリー校とバッキンガムシャーのワイコム・アベイ校で教えた後,哲学博士号を取得するため1928年にオックスフォードに戻る.G.H.ハーディの指導で,The Zeros Of Integral Functions Of Special Types(特別なタイプの整関数の零点について)により哲学博士号取得(1930).実は1928‐29年にハーディがプリンストンに行っていたので,ティッチマーシュに指導を受け,博士論文の主査をリトルウッドがした.しばらくリトルウッドと共同研究をする.
 1930年にYarrow Research Fellowshipを受賞し,ケンブリッジ大学ガートン・カレッジに行き,リトルウッドの講義を受けそこでの未解決問題を解き,カートライトの定理(解析関数の絶対値の最大値の評価).そこで,等角関数に対するアルフォースの技法を使った.
 ガートンカレッジの数学研究の指導教員になり(1936),新しいプロジェクトを始める.第2次大戦中電波の問題でレイダー関連でロンドン数学会へ依頼があり,それに応えてリトルウッドと共同研究をする.周波数が大きくなると挙動がカオス的になることを発見.戦時には現場対応的なことしかなかったが,理論を作るも,数十年重要性が知られず,後にE.N.ローレンツが気象研究でローレンツアトラクタを発見して,重要性が再認識される.
 πの無理数性のエルミートの初等的証明の簡略化(1945).王立協会の最初の女性会員に選出(1947).1949年にガートン・カレッジのミストレス(カレッジ長)に指名され,ケンブリッジ大学の関数論の準教授(1959-68).
 シルヴェスター・メダル受賞,王立協会評議員,ロンドン数学会会長(1961-62).ド・モルガン・メダル(1968),エジンバラ王立協会名誉会員(1969).大英帝国第3等勲爵士(1969)  [50.23] トップ

金田康正(Yasumasa Kanada, 1949.5.23--2020.2.11). 兵庫県たつの市の生まれ.
 東大の情報基盤センターの教授.「πの計算」の世界記録を何度も更新する.
 1981年三好和憲(工学院大学教授, 1946.10.15)と,マチンの公式を主計算にクリンゲンシュテルナの公式を検証計算に用い,πを200万桁求める.
 1982年に田村良明(国立天文台)と,ガウス・ルジャンドルの方法を用いて,πを4194288桁,さらに8388576桁求める.
 1983年に田村,吉野さやか(筑波大学)と,ガウス・ルジャンドルの方法を用いて,πを16777206桁求める.
 1986年に田村と,ガウス・ルジャンドルの方法を用いて,πを3355万4414桁,さらに6710万8839桁求める.
 1987年に田村,久保らと,ガウス・ルジャンドルの方法を主計算に,検証計算にボールウェインの4次の収束公式を使って,πを1億3421万4700桁求める.
 1987年に田村と,ガウス・ルジャンドルの方法を主計算に,検証計算にJ.ボールウェインの4次の収束公式を使って,πを2億0132万6551桁求める.
 1989年に田村と,ガウス・ルジャンドルの方法を主計算に,検証計算にボールウェインの4次の収束公式を使って,πを5億3687万0898桁,さらに10億7374万1799桁求める.この年はチュドノフスキー兄弟との間に激しい競争が繰り返された.
 1995年に高橋大介と,πを32億2122万桁,さらに64億4245万桁求める.
 1997年に高橋大介と,ボールウェインの4次の収束公式を使って,πを171億7986万9184桁,343億5973万8327桁,さらに515億3960万桁求める.
 1999年に高橋大介と,ガウス・ルジャンドルの方法により,πを687億1947万桁,さらに2061億5843万桁求める.
 2002年12月6日に高橋大介と,高野の公式と分割有理数化法により,πを1兆2411億桁求める.  トップ

カニンガム(Frederic Cunningham, Jr., 1933--2011.9.28 ) . ハーバード大学からLynn Harold Loomisの指導で,「バナッハ空間のL1構造(L1-Structure in Banach Spaces)」によりPh.D.取得(1953).
 ブリンモー大学教授.
 直径2の円の内部に任意に小さい面積を持つ単連結な掛谷集合を見つけることが可能であることを示した(1971).  [天VI.35]  トップ

カービー(Robion Cromwell Kirby, 1938.2.25--) . アメリカ,シカゴの生まれ.シカゴ大学でシャーマン・ダイヤーの指導で,「局所平坦な埋め込みを滑らかにする(Smoothing Locally Flat Imbeddings)」によりPh.D.取得(1965)後すぐにUCLAの助教授に. カリフォルニア大学バークレイ校教授.
 低次元トポロジー.エキゾテックR4. カービー・ジーベンマン不変量(類),カービー計算(Kirby calculus),カービー移動(Kirby move).  [フ26],[辞] トップ

カプラノフ(Mikhail M. Kapranov,) .
 モスクワ大学修士(1982). スチェクロフ研究所でPh.D.(1988). Yu.I.マニンの弟子.
 スチェクロフ研究所研究員(1988-90),ノースウエスタン大学助教授(1991-93),准教授(1993-95),教授(1995-99),トロント大学教授(1999-2003),イェール大学教授(2003-).
『判別式,終結式,多次元行列式』(1994, I.M.ゲリファントゼレヴィンスキーと共著), 『高次カテゴリー論(Higher Category Theory)』(1997,Ezra Getzlerと共著),『群と空間の』幾何と力学(Geometry and Dynamics of Groups and Spaces)』(2008).  [フ8] トップ

カプランスキー(Irving Kaplansky, 1917.3.22-) . カナダ,オンタリオ州,トロントの生まれ. トロント大学卒(1938),修士(1940).ハーバード大学で博士号(1941).その指導者はS.マクレーンで,タイトルは「付値を持つ極大な体」Maximal Fields with Valuations.その後ハーバードで教える.1945年からシカゴ大学教授. 1984年の退職後は,カリフォルニア大学バークレイ校の数学研究所Mathematical Sciences Research Instituteの所長になる.
 代数学.環論,群論,体論.クローシュの問題の解決.数論,統計学,組み合わせ論,ゲームの理論,著書多し.
  1. 『無限アーベル群』Infinite Abelian Groups
  2. 『体と環』 Fields and rings (2nd ed, 1972)
  3. 『微分代数入門』 An introduction to differential algebra (1957)
  4. 『可換環』 Commutative rings (1970)
  5. 『リー代数と局所コンパクト群』Lie algebras and locally compact groups (1971).
  [代コ] トップ

カプレカル(Dattathreya Ramchandra Kaprekar , 1905.1.17-1986.1.28.)
 インド,マハラシュトラ州,ダハヌに,ミラノに生まれ,マハラシュトラ,デブラリに死す.
 マハラシュトラ州ターネー(ムンバイの衛星都市)の高校を卒業後,プネーのファーガソン・カレッジで学ぶ.ムンバイ大学で学士(1929).大学院教育は受けなかったが,全キャリア(1930-1962)をナーシクで学校教師.インドで,たくさんの数学に関する著書を出版.
 カプレカル数,自我数(デブラリ数),ハーシャド数(ニーヴン数ともいう),デムロ数などを発見.長く知られていなかったが,M.ガードナーが1975年にサイエンティフィック・アメリカンで紹介したことで知られるようになった.  [50.34] トップ

カペリ(Alfredo Capelli, 1855.8.5-1910.1.28.)
 イタリア,ミラノに生まれ,ナポリに死す.  パレルモ大学,ナポリ大学教授.代数形式論,置換論,代数方程式論,楕円関数論など.代数学講義(1895)は好評.
 カペリの定理.カペリ恒等式. [ワ2] トップ

カポヴィッチ(Michael Kapovich)
 ロシア,ハバロフスクの生まれ.1980年にノヴォシビルスクに移り,ノヴォシビルスク国立大学卒(1985).
ノヴォシビルスク数学研究所からS.L.クルスカルとN.A.グセフスキの指導で,「3次元多様体上の平坦共形構造(Flat conformal structures on 3-manifolds)」によりPh.D.取得(1988).
 1988年にハバロフスクに戻り,3年間応用数学研究所に勤務.
 低次元幾何,低次元トポロジー,クライン群,双曲多様体,有限生成群の表現多様体,幾何的群論,シンプレクティック幾何.
 ユタ大学助教授(1992-2003),カルフォルニア大学デイヴィス校教授(2003).妻Jennifer C. Schultensも同校の数学教授.
 J.ミルソンとの共著多し.   [フ文] トップ

カムケ(Erich Kamke, 1890.8.18-1961.9.28.) ドイツ帝国マリーエンブルク(現在ポーランド,マルボルク)に生まれ,ドイツ,ロッテンブルク・アム・ネッカーに死す.
 ゲッティンゲン大学からランダウの指導で「ウェアリングヒルベルトの定理の一般化(Verallgemeinerungen des Waring-Hilbertschen Satzes)」により哲学博士号取得(1921).
 チュービンゲン大学教授(1926-).
  集合論の本はドイツ語から各国語に翻訳され広く流布する.
 弟子に,Harro Heuser,Wolfgang Walter, Karl Zellerなど. [天15], [天VI.19] トップ

カライ(Gil Kalai, 1955--.)
  イスラエル,テル・アヴィヴの生まれ.
 エルサレム,ヘブライ大学からパールズの指導でPh.D.取得(1983).MITでポスドクを2年間.1985年からヘブライ大学に勤務.
 組合せ論,多面体論,線形プログラミング.凸多面体のハーシュ予想(Warren M. Hirsch).カライの3d予想.W.M.Hirsch予想.
  カーンとともにボルスク予想を反証 [天14], [天VI.18] トップ

ガライ(Tibor Gallai [Grünwald], 1912.7.15--1992.1.2).
 ハンガリー,ブダペシュトに生まれ,同地に死す. ドイツ風ユダヤ名であるグリュンヴァルドを,ガライに改名した.
 ブダペシュト工科大学から,Dénes König(ジュラ・ケーニヒの息子)の指導で,「実根を持つ多項式について」でPh.D.取得(1939).
 エトヴォシュ大学教授.エルデシュとは生涯の友で,共著も多い.
 グラフ理論.組合せ論.W.T.Tutteの定理の簡単な証明(1963).シルヴェスター・ガライの定理(1933),シルヴェスター・ガライの配位,シルヴェスター・ガライのデザイン,ガライ・Edmons分解(Jack Edmonds, 1934-.), [天8, 10, 16], [天VI.11, 13, 20] トップ

カラツゥバ(Anatolii Alekseevich Karatsuba,(1937.1.31--. )
 ソ連,ゴーリキー市の生まれ.モスクワ大学卒業(1959),物理・数学博士(1966),教授(1970).1966年から科学アカデミーにも勤務. 数論,オートマトン論,サイバネティックス.ディリクレの約数の多次元問題での剰余項の評価の改善により,チェビシェフ賞受賞. 大きい桁の数の掛け算の効率を上げるアルゴリズムを発見,特にπの計算速度を上げることに貢献大.  トップ

カラテオドリ(Constantin Caratheodory, 1873.9.13-1950.2.2).
 オスマン・トルコの外交官だった父の任地ベルリンに生まれ、ミュンヘンに死す。
 ギリシャ人.父はベルリン,ストックホルム,ウィーンの大使館の書記を歴任後,1874-75年はコンスタンチノープルで過ごしたあと,1875年にベルギー大使としてブリュッセルに赴任.
 コンスタンチンは1885年からブリュッセルのグラマースクールに通い,数学に興味を持ち始める. 1891-1895年にベルギー陸軍大学で学んだ後、エジプトでダム建設に参加。 1900年にベルリン大学に入学、H.A.シュヴァルツに学び、ゲッティンゲン大学でミンコフスキーの指導で『変分法における不連続な解について(Über die diskontinuierlichen Lösungen in der Variationsrechnung)』によりPh.D.取得(1904)。 ボン大学(1905)、ハノーヴァー大学(1909)、ブレスラウ大学(1910)、ゲッティンゲン大学(1913)、ベルリン大学(1918)。 1920年ギリシャ政府の要請で、スミルナの大学建設に尽力するが、1922年トルコが戦争をしかけ、図書館の本をアテネに移動させる。1924年までアテネ大学に席を置くが、1924年から死ぬまでミュンヘン大学教授。『数学年報』の編集者を長く勤める。
 変分法、関数論、外測度の導入など測度論の公理化、リーマンの写像定理の精密化(カラテオドリの定理)、場の理論への偏微分方程式の応用。熱力学、特殊相対論、幾何光学などにも業績がある。 [解III.6, IV.3, 文], [珠人], [伝6,9,10], [辞]トップ

カラビ(Eugenio Calabi, 1923.5.11-.)
 イタリア,ミラノの生れ.
 プリンストン大学からボホナーの指導で「ケーラー多様体の等長複素解析埋込み(Isometric Complex Analytic Imbedding of K\"ahler Manifolds)」によりPh.D.取得(1950).
 ペンシルヴァニア大学教授(1964-93),名誉教授.
 微分幾何,代数幾何,複素解析.カラビ予想.カラビ・ヤウ多様体. [天6], [天VI.9] トップ

ガリペリン(Grigolii Aleksandrovich Gal'perin)
 コルモゴロフの指導の下にモスクワ大学で学位取得.統計力学. 東イリノイ大学教授. [モ歴]トップ

ガリレオ、ガリレイ(Galileo Galilei, 1564.2.18(15)-1642.1.8).
 イタリア、ピサに生まれ、イタリア、アルチェトリ(フィレンツェの近く)に死す。
 この名前は、聖書に出てくる「ガラリア人」の子孫であることを示すガリレオ家の長男という意味のものである。当時トスカナ地方では長男は家の名を洗礼名として重ねる習慣があった。父は数学者,音楽家.
 天文学・物理学・数学・哲学者。近代力学,実験物理学,天文学の創設者.既存の権威(アリストテレスとキリスト教)に対し,実験または思考実験から得られる事実に基づいて反発・抵抗.
 迫害を受け各地を転々とする。ピサ大学教授('89)、パドゥア大学教授('92)、1609年以降フィレンツェでトスカナ大公の後援を受ける。1611年にリンチェイ・アカデミーに入会.2度の宗教裁判。1637年失明。
 ピサの斜塔での物体の落下の実験や、望遠鏡での観測(月面が滑らかでないこと,天の川が星の集まりであること,木星に衛星があること, 1610)など実験による検証の意義を確立した。振り子の等時性(1583年頃).構造物についての科学的な考察(工学の始祖とも言える).
 望遠鏡として使えるようにするために,レンズの歪みを調べる方法を考案(1609).振り子時計の設計(最晩年).温度計の発明(1593).
 ガリレオの相対性原理.慣性運動.落体の法則(2次式で書けること).加速度の意味.
 宗教裁判に屈服した時にもらした、「それでも地球は回っている」Eppur si muoveという呟きは余りにも有名だが、その小さな声を誰が聞いたのだろう?
  1. 『運動について』De Motu(1590)
  2. 『星界の報告』(山田慶児他訳)岩波文庫 Sidereus nuncius, ヴェニス(1610)
  3. 『浮体論議』 Discuroso intorno alle cose che stanno in sxu l'acqua(1612)
  4. 『太陽黒点論』Istoria e dimostrazione intorno alle macchie solari(1613)
  5. 『偽金鑑識官』Il saggiatore(1623)
  6. 『天文対話 上下(=二大世界体系についての対話)』(青木靖三訳)岩波文庫Dialogo ...... sopra i due messimi Sistemi del Monda(1632)
  7. 『機械学および地上の運動についての2つの科学に関する対話と数学的証明、トスカナ大公の哲学者で第1数学者である、リンチェイ・アカデミー会員ガリレオ・ガリレイ著、ライデン,1638年』(Discorsi e demonstrazioni matematiche, intorno \`{a} due nuove scienze, attenenti alla mecanica & i movimenti locali, del Signor Galileo Galilei Linceo, Filosofo e matematico primario de Serenissimo Grand Duca di Toscana, in Leida M.D.C.XXXVIII). 日本語訳は『新科学対話 (上)(下)』(今野武雄・日田節次訳、岩波文庫、1937)。オランダで出版.
  8. 『賽子ゲームの際の目の出方について』(1655)
日本語での伝記的記述も多い.
  1. 青木靖三 『ガリレオ・ガリレイ』岩波新書576(1965)
  2. Bertolt Brecht(ベルトルト・ブレヒト)『ガリレオの生涯』(岩淵達治訳)岩波文庫 Leben des Galilei
  3. トンマーゾ・カンパネッラ『ガリレオの弁明-ルネサンスを震撼させた宇宙論の是非-』(澤井繁男ほか訳)工作舎
  4. S.Drake『ガリレオの生涯1,2,3』(田中一郎訳)共立出版、Galileo at Work:His Scientific Biography
  5. L.フェルミ+G.ベルナルディニ 『ガリレオ伝』(奥住喜重訳)講談社ブルーバックスB336
  6. エミリオ・セグレ1928-『古典物理学を創った人々-ガリレオからマクスウェルまで』(久保亮五+矢崎裕二訳)みすず書房(1992)、Personaggi e Scoperte Nella Fisica Classica: Dalla caduta dei gravi alle onde elettromagnetiche(1983), by Emilio Segre
[解II.1, II.7, III.3, 文], [パ1-3, 年表], [代1, 12], [ブ50], [代入6], [伝6], [ふ2], [幾1,3,5,7,10,文], [孫数エ], [50.14,27,42,47], [基14] トップ

ガル,ジェイムズ(James Gall, 1808-1895).
 スコットランドの聖職者.多くは宗教書を書くが,天文学に興味を持つ.
 ガル=ピーターズ図法(正積円筒図法の1).1855年にほかの2つの図法と一緒にグラスゴーの会議で発表,正式には1885年にScottish Geographical Magazineで発表(Gall Orthographic Projection).
 1967年にピーターズが再発見し,1973年に新図法として発表.1986年のAmerican Cartographic AssociationでのパンフレットでArthur H. Robinsonがガル=ピーターズ図法という名称を提案.  [フ19] トップ

カルキン,ニール(Neil Calkin).
 整数論における組み合わせ論と確率論的方法.
 ウォータールー大学からIan Peter Gouldenの指導で「和自由集合と測度空間(Sum-Free Sets and Measure Spaces)」によりPh.D.取得(1988).[集合Sが和自由であるとは,x+y=zがSの中に解を持たないこと]
 カーネギーメロン大学,クレムゾン大学教授.
 カルキン・ウィルフの木,カルキン・ウィルフ数列(M.ニューマンが次の数を与える式を発見).  [天VI.19] トップ

ガルシア,アンドリアーノ(Adriano Mario Garsia, 1928.8.20--). 仏領チュニジア,チュニスの生まれ..
 組み合わせ論,表現論,代数幾何.
 スタンフォード大学からCharles Loewnerの指導で「直線の測地円を持つ曲面について(On Surfaces with a Rectilinear Geodesic Circle)」によりPh.D.取得(1957).
 カリフォルニア大学サンディエゴ校教授.
 最適2進探索木(optimal BST)におけるガルシア--ワクス(Wachs)のアルゴリズム.
 弟子は多く,Hélène Barcelo,Sara Billey,Stephen Milne,Jennifer Morse,Michelle L. Wachsなど.  [天VI.34] トップ

カルダーノ、ジェロラモ(Gerolamo Cardano=Hieronymus Cardanus, 1501.9.24-1576.9.21).
 ミラノ公国、パヴィアに生まれ、ローマに死す。
 数学・自然哲学者・医者・占星術師・賭博師。異端の簾で投獄されたり、モラリストとしてマキアヴェッリに反対する本を書いたり。当時としては医者としての名声が最も有名なもので、高位聖職者の結核の治療に成功している。そのためか、晩年異端審問で本を書くことなどの活動を禁じられた時、教皇ピウス5世は年金を支給している。 『アルス・マグナ』が代数のためだけの最初のラテン語の本であるように、確率論(1563)、自伝(1575)など、史上初めてと言われる本を多く出している。自分の死ぬ日を予言し、成就させるために自殺したという説がある。
 タルターリアの許しを得ないまま,『アルス・マグナ(Ars magna de rebus algebraicis)』(1545)に3次方程式の解法を載せたため,ヨーロッパでは長くカルダーノの公式と呼ばれることになる.タルターリアとの間に遺恨を残すことになり,それを弟子のフェラーリが返り討ちをするといった波乱万丈の話がある.
 自伝が日本語に訳されて、海鳴社(『カルダーノ自伝』清瀬卓+澤井茂男訳、後平凡社から再刊(1995))と社会思想社(『わが人生の書』青木靖三+榎本恵美子訳)から出ている(1980)。 [解序, I.1-2, 5, 文], [名5, 8, 文], [ブ50], [フ4], [辞], [率0], [幾5,II,6,8], [クI.1.4,I.1.5,I.2.2,I.3.1] トップ

カルタン、アンリ(Henri Paul Cartan, 1904.7.8-).
  フランス,ナンシーの生まれ.エリー・カルタンの長男.ブルバキ草創期のメンバー.
 エコール・ノルマル・シュプリオール卒業(1926).リール(1929-31),ストラスブール,パリ(1940-69),オルセイ(1970-1975)の各大学で働く.退職(1975)後も活発な活動.
 多変数解析関数論,保型関数論,ポテンシャル論,代数トポロジー,ホモロジー代数(S.アイレンベルグとともに),層の理論,リー群論,代数幾何学,数理論理学.日本人には特に,岡潔の難解な理論を現代的な言葉遣いに言い換えたことが有名.また,エコール・ノルマルでのカルタン・セミナーは最新の結果の普及に貢献.
 日本語の本に『複素関数論』(高橋禮司訳)岩波書店(1965)、Theorie elementaire des fonctions analytiques d'une ou plusieur variables complexes, Paris(1963)がある。 [代コ] トップ

カルタン、エリー(Elie Joseph Cartan, 1869.4.9-1951.5.6).
 フランス、イゼール県、ドロミュー(シャンベリーの近く)に生まれ、パリに死す。
 ドロミューは寒村で、鍛冶屋の子として生まれるが、小学校のとき郡の視学官に認められて給費生として高校まで進学。19才でエコール・ノルマル(1888)に入学、ポアンカレダルブーC.エルミートの講義を聴く。1891年卒業し、教授資格試験を主席で合格。1年の兵役の後、1894年にパリ大学の理学博士になる。 モンペリエ大学(1894-1896)、リヨン大学(1896-1903)、ナンシー大学(1903-1909)、パリ大学(1909-1940、1912年に教授)に勤める。4人の子のうち長男アンリは数学者であり、作曲家のジャンは25才で死に、物理学者のルイは1942年ドイツ軍の捕虜となり15ヶ月のちに処刑された。
 連続群論、とくにリー群・リー環の代数的基礎づけ(1894)、半単純リー環の表現論(1913)、リー環の構造論、複素・実の単純リー環の分類(1914)、微分幾何学(接続(アフィン・射影・共形)の理論、動標構)、トポロジー(リー群のベッティ数の計算)、グラスマン代数を使う外微分形式の理論(1901)、対称空間論(1926)、擬等角写像、相対論とスピノールの理論(1938)など、現代幾何学の最大の源泉の1つである。訳者の学位論文も彼の理論の延長線上にある。
 マウレル・カルタン形式,カルタン接続,カルタン分解,カルタン--アダマール多様体,カルタン整数,カルタン不変数,カルタン対合,カルタン・ケーラーの存在定理,カルタン行列,カルタン射影,カルタン部分代数,カルタン部分群,カルタンテンソルなど.
 日本語の本にE.カルタン『外微分形式の理論-積分不変式-』(矢野健太郎訳、白水社)がある。 [解人], [代19], [ワ2, 5, 7, 8], [作付B] トップ

カルティエ(Pierre Emile Jean Cartier, 1932.6.10--.)
 フランス,アルデンヌ,スダンの生まれ.8歳の時,ドイツ軍の侵攻によりスダンの街が破壊され,エコル・ノルマルに入試準備のために,パリのリセ・サンルイに通う. 1950年にエコル・ノルマルに入学,H.カルタンが数学の教授で,L.シュワルツの講義にも出る.1951年にブルバキに参加,1955年に正規メンバーになる.1958年にパリ大学から「代数幾何における微分と因子(D\'erivations et diviseurs en g\'eom\'etrie alg\'ebrique)」によって学位.指導者はH.カルタンヴェイユ
 Centre national de la recherche scientifique所員(1954-57)プリンストン高等研究所(1957-59),ストラスブール大学理学部教授(1961),IHES(-1982),更にCNRSの研究部長(1974-)を兼任. エコル・ポリテクニク教授(1982-88),エコル・ノルマル教授(1988-)
 カルティエ作用素,カルティエ因子,アーベル多様体と形式群の双対性. [フ22,文] トップ

カルノー,ラザール(Lazare Nicolas Margu\'erite Carnot, 1753.5.13--1823.8.2.).
 フランス,ブルゴーニュ,ノレイに生まれ,プロシャ・サクソニー,マクデブルクに死す.
 神学校を卒業後、王立工兵士官学校入学(1771),ガスパール・モンジュの教えを受ける. 『機械一般に関する試論』(Essai sur les machines en général, 1783)などで知られるようになる.
 1792年4月フランス革命政府がオーストリアへ宣戦,プロイセン軍が国境へ迫り,軍事通のカルノーは各地へ政治委員として派遣.8月前線から呼び戻されて公安委員会の委員となり,徴兵制度の整備、軍需工場の整備、軍制改革を指揮.「勝利の組織者」と称えられる.国民公会の議長(1794).戦略をめぐって同じ公安委員会のサン=ジュストと対立し,ロベスピエール派全体とも対立するようになったおかげで,テルミドールのクーデターではギロチン行きを免れる.
 1795年3月に公安委員会を引退し、元老会議に立候補して当選。10月に総裁政府が発足すると、初代の5総裁の1人に就任した。穏健派として王党派との和解を模索.1797年のクーデターにより,王党派に通じていたとの嫌疑からニュルンベルクへ亡命.亡命中,『無限小算法についての形而上学的考察』(Réflexions sur la metaphysique du calcul infinitésimal)を執筆.
 1799年ブリュメールのクーデター後に帰国。第一統領となったナポレオン・ボナパルトの知遇を受け,1800年には半年間戦争大臣を務め,1802年に護民府議員となる。ナポレオン帝政に対して共和主義者の立場から反対し続けたが、ナポレオンはカルノーに敬意を表し伯爵に叙す.護民府在職中に『位置の幾何学』(Géométrie de position,1803)を発表.カルノーの定理 .
 1807年、護民府廃止とともに政界を引退.その後も対仏大同盟軍の侵攻(1814),ナポレオンの百日天下(内務大臣に),ナポレオンの敗北後はフーシェらと共に臨時政府委員に就任し、抵抗を続けるよう主張したが、大勢は降伏に至り,再度の王政復古によって追放される.
 熱力学の創始者.死後研究が失われたが,ケルヴィン卿によって再発見される.
 晩年はマクデブルクに落ち着き、余生を送る.子孫も有名なので,区別のため大カルノーと呼ばれることがある.長男はカルノーサイクルのニコラ・レオナール・サディ・カルノー (1796 - 1832),次男のラザール・イポリット・カルノー (1801 - 1888) は「カルノー法」で知られる政治家,その子のマリー・フランソワ・サディ・カルノー (1837 - 1894) はフランスの大統領に.孫のマリー・アドルフ・カルノー (1839 - 1920) は化学者で、カルノタイト(カルノー石)を発見. [伝2], [幾4,6,7,11] トップ

カルマール、ラズロー(László Kalmár, 1905.3.27-1796.8.2). ハンガリー,ショモジ県エッデに生まれ,ヘヴェシュ県Gyöngyös市郊外のMátraházaに死す.
 セゲド大学教授.ハンガリーにおける数理論理学と計算機科学の創始者と考えられている.
 ブダペシュト大学に入学する17歳までに父母とも亡くしている.Kürschák(1864.3.14-1933.3.26)とフェイェールらに学ぶ.フェイェールの指導で,エトヴォシュ・ローランド大学からPh.D.取得.
 1927年に卒業後,1929年にゲッティンゲンに行ったときに数理論理学を専攻することに決める.ブダペシュト大学で博士号を得たのちセゲド大学に勤める.
 そのころ,セゲド大学にハールF.リースが着任して,セゲド大学が数学のセンターになって,彼らの研究助手として経歴を始める.1947年に正教授になる. セゲド・サイバネティックス研究所と数理論理学とオートマトン理論のための研究グループを作る.
 初等関数,数論的関数,レジスタマシン.1954年のクワインの有名な論文と同じ内容の論文を1936年に出した(述語論理に関するもの). [ラ序] トップ

カルマン、ルドルフ・エミール(Rudolf (Rudi) Emil Kálmán, 1930.5.19-2016.7.3).
 ハンガリー,ブダペシュトに生まれ,アメリカ,フロリダ州ゲインズビルに死す.
 電気工学者,数学者,発明家.
 カルマン・フィルターの発明,信号処理,制御系で広く使われるアルゴリズムの発明.
 1943年にアメリカに移民.MITで電気工学の学士(1953),修士(1954).博士号はニューヨークのコロンビア大学から(1957).
 ボルチモアの先端技術研究協会 (RIAS)で数学の研究員をした後(1958-1964),スタンフォード大学教授(1964-1971).フロリダ大学で数学的システム論センターの教授兼所長(1971-1992).チューリッヒ工科大学の数学的システム論講座教授兼任(1973‐).
 カルマンフィルタは,制御システム、ナビゲーションシステム、アビオニクス,宇宙空間での車両のデジタルコンピュータで広くで使用される数学的な技術で,雑音があったり信頼できない測定値から信号を取り出すためのもの.測定における誤差を運動そのものの根底にあるランダムさに結び付けるのがアイデア.
 カルマンフィルターのアイデアは最初懐疑的に受け取られ,電気工学系の雑誌ではなく,機械工学系の雑誌で発表することになり,あまり広く伝わらなかった.1960年にNASAのエイムズ研究センターのスタンレー・シュミット(1926.1.12-2015.8.13)を尋ねた際、彼にこのアイディアを話し,アポロ計画に採用されるようになって,広く使われるようになった.
 カルマン分解, カルマン=ブシー・フィルター. [50.37] トップ

カレガ、ジャン・クロード(Jean-Claude Carréga).
 フランス,サント=フォワ=レ=リヨン在住.
 『体論.定木とコンパス(Th\'eorie des corps. La r\`egle et le compas)』,Hermann, Paris 1981.
 [幾5] トップ

ガロア、エヴァリスト(Evarist Galois, 1811.10.25-1832.5.31).
 フランス、パリ郊外のブール・ラ・レーヌに生まれ、パリに死す。
 革命と数学のために生き,女のために死んだ.
 16歳のときルジャンドルの『幾何学原論』で数学にめざめ,2日で読破したと言う.また数日でラグランジュの『数字方程式の解法』を読み,独自の研究に取り組んだと言う.ガロア,リセ在学中のことである.エコール・ポリテクニクの受験に2度失敗し,パリ・アカデミーに提出した論文は,コーシーフーリエにも理解されず,原稿は失われたと言う.
 エコール・ノルマル・シュペリオールに入学するも,急進的共和主義者の「民衆の友」に入会,退学させられる.決闘の直前に友人のシュヴァリエに送った手紙の中で,論文の内容を簡潔に述べている.死後14年経って,リウヴィルがガロアの論文を検討し,再構築して発表するまで,業績は知られなかった.
 代数方程式の解の構造を調べるために置換群を利用し,群の有用性を示した.ガロア群. 群,部分群,正規部分群,体,拡大という用語を導入.
 代数の業績だけが喧伝されるが,任意の代数関数の積分の性質についての論文も書いている.
 彼の伝記については、L.インフェルト『ガロアの生涯-神々の愛でし人』(市井三郎訳)日本評論社(1969)が詳しい。  [解人], [パ人], [珠人], [名8, 17], [代12, 18, 21, コ], [ブ50], [ワ2], [伝1,2,3,4,5,6,7], [フ5,26], [文3], [辞], [作5], [基13] トップ

川北朝鄰(Kawakita Tomochika, 1840.6.15(天保11年5月16日)--1919.8.22(大正8)). 江戸市ヶ谷に生まれ.幼名宗太郎,通称彌十郎,号は有頂,立亭.
 村瀬孝亭,御粥安本,内田五観に算術を学ぶ。江戸市ヶ谷に塾「立算堂」を開き,明治3年に静岡藩学校に入学し,洋学を学ぶ。明治5年,名を朝鄰に改める。
 明治6年に上京し陸軍戸山学校,明治7(1874)年に陸軍士官学校の数学教官となる.
数学書を著した。  明治10年,東京数学会社発足時の社員.明治13年4月,帰国した柳楢悦が社長に戻り,選挙により岡本則録と川北が事務委員に.
 明治13年数理書院,20年に数学協会を興す.弟子の上野清,長沢亀之助らに多数の洋書を翻訳出版させる.
 格拉克(クラーク)述 『幾何学原礎』7冊(首巻、1-6巻)、山本正至・川北朝鄰訳、文林堂(1875-1878).アイザック・トドハンター 『宥克立(ユークリッド)』長沢亀之助訳、川北朝鄰閲、東京数理書院.
 明治15年麹町富士見町に立算堂塾を設立.その後,陸軍を辞し静岡の師範学校などに勤務した後,明治19年陸軍参謀本部陸地測量部で三角測量に従事(-明治41年).
 内田五観から関流宗統第七伝を受け継ぎ,林鶴一に関流宗統第八伝を譲る.
 「三五會誌」は、明治36年 6月23日に第一号が発行され、川北朝鄰編纂主任の発刊の辞に「明治35年 4月12日、学術研究並びに僚友の親睦の目的を以て三五会を組織し、会誌を発行する。誌中記する処は、陸地三角測量の研究を基とし、本邦の地理の景況を記述し、あるいは漫録(随筆)を登載して知識を交換し、道を楽しむ機関とする」とある。
 「測図研究會記事」は明治37年1月1日に、「三五會々報」は、明治39年 3月に、いずれもほぼ同様の趣旨で第一号が発行され、ともに川北朝鄰が発行責任者.
 「洋算発微」(明治5年)、和算史の「数学起源」、和算家の伝記「本朝数学家小伝」,『丁卯雑解集』など
 伝記に『川北朝鄰小伝』(三上義夫編、佐名木和三郎,1941).  [文プ] トップ

川路太郎(Kawaji Taro, 1844-1927). 江戸に生まれ,神戸に死す.
 川路聖謨の嫡孫,川路彰常の息子,子供に詩人の川路柳虹がいる. 寛堂と号す.
 オランダ語を学び,英語はジョン万次郎から、フランス語は横浜語学伝習所で手ほどき.
 慶応2年の幕府派遣のイギリス留学生の取締役を中村敬輔とともに勤める.中に菊池大麓など.太郎,時に23歳,幕府陸軍の歩兵頭並となる.渡航の記録「英航日録」が残っている.
 帰国後貿易商などをするが失敗,明治4(1871)年大蔵省に出仕.同年,岩倉具視の欧米派遣使節団に書記官として参加,帰国後大蔵省外国文書課長.
 1885年英学塾の月山学舎を開き,1893年,福山(誠之館)中学校教師,洲本中学校教師(1899),淡路高等女学校校長,神戸樟蔭女学校校長.1922年に退職して,神戸で隠遁生活.  [文1] トップ

川路聖謨(Kawaji Toshiakira, 享和元年4月25日(1801.6.6)-慶応4年3月15日(1868.4.7)).
 豊後国日田(大分県日田市)に生まれ,江戸に死す.日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ,幼名は弥吉.号は敬斎.幕末きっての名官吏.
 父が江戸に出たあと,文化9年(1812)、12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となり,翌年元服して、弥吉から萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。
 文化14年(1817))、勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に及第。 文政元年(1818年)に勘定奉行所支配勘定出役に採用され、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となる.その後,佐渡奉行、小普請奉行、普請奉行となる.
 老中・水野忠邦時代には小普請奉行、普請奉行として改革に参与した(この頃、名を萬福から聖謨に改めた).江川英龍渡辺崋山らと共に尚歯会に参加し、天保10年(1839年)の蛮社の獄にあやうく連座しかけた。
 水野忠邦の失脚後、奈良奉行に左遷.奈良奉行時代には行方不明となっていた神武天皇陵の捜索を行い、『神武御陵考』を著して朝廷に報告.その後,大阪東町奉行、公事方勘定奉行(嘉永5年,1852),翌嘉永6年(1853年)阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、黒船来航に際し開国を唱える.同年、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンとの交渉を担当し、安政元年(1854)に下田で日露和親条約に調印.この時の主席通訳官が箕作阮甫
 井伊直弼が大老になると,西丸留守居役に左遷,さらに翌年それも免じられ隠居差控を命じられる。文久3年(1863年)に勘定奉行格外国奉行に復帰するも、僅か4ヶ月で辞任.江戸城開城直前に自殺.
 川路太郎の祖父.太郎をイギリスに送り出し,未来を託したのであろう.  [文2] トップ

カーン(Jeff Ned Kahn.)
 オハイオ大学からDwijendra Kumar Ray-Chaudhuriの指導で,「バンドル定理を満たす局所射影的な平面束(Locally Projective-Planar Lattices Which Satisfy The Bundle Theorem)」によりPh.D.取得(1979).
 アメリカ,ニュー・ジャージー州立大学,ラトガス校数学科教授.トポロジー,組合せ論,統計力学.
 カライとともにボルスク予想を反証 [天14], [天VI.18] トップ

神田孝平(Kanda Takahira, 1830.10.31(文政13年9月15日)-1898.7.5(明治31年)).
 美濃国不破郡岩手村(現・岐阜県不破郡垂井町岩手)出身。
 牧善輔・松崎慊堂らに漢学を、杉田成卿・伊東玄朴に蘭学を学ぶ。
 1862年(文久2年)、幕府蕃書調所教授となる。
 1863年(文久3年),幕府は洋書調所の教授たちに外字新聞の翻訳を命令。
 1868年(慶應4年)3月4日開成所頭取.のち,大学南校
 1868年(明治元年)に明治政府に1等訳官として招聘される。
 1871年(明治4年)11月20日に兵庫県令(現在の兵庫県知事)に就任し、1876年(明治9年)9月3日まで務める。
 その間、1870年(明治3年)頃より地租改正を建議するとともに農民の土地売買の自由を唱えるなど当時としては画期的な提案を行い、1873年(明治6年)の地方官会議では議長を務めてその実現に貢献する。
 1873年(明治6年)明六社
 1877年(明治十年)2.6 文部少輔.時に文部卿は空席で、大輔は田中不二麿
 日本初の学会「東京数学会社」(後の数学物理学会)を設立。 初代社長は二人で,もう一人は柳楢悦.1878年5月に柳が洋行で辞任,後任には岡本則録.1880年3月社長を辞任.
 1879年(明治12年)東京学士会院創設.(福澤諭吉の項参照)
 1876年に元老院議官、1890年(明治22年)に貴族院議員に選出。死に際して男爵に叙任される。
 欧米文献の欧米にも積極的で民選論の理論家としても知られる。明六社の一員であり、東京学士会院の会員でもある。養子の乃武は東京外国語学校の初代校長。  [文プ1,2] トップ

カント,イマニュエル(Immanuel Kant, 1724.4.22-1804.2.12.)
   ドイツ,ケーニヒスベルクに生まれ,同地に死す.
 同地の大学を卒業し,勤務する(1755-96).1770年に教授になり,哲学と自然科学を教える.  [名19],[ワ1],[伝1,3,4,6],[ピ序], [ふ6], [ワ著1], [クI序,I.1.1] トップ

カントール、ゲオルク(Georg Ferdinand Ludwig Philipp Cantor, 1845.3.3-1918.1.6).
 ロシア,サンクト・ペテルブルグに生まれ、ドイツ、ハレに死す。
 ベルリン大学から,クンマーワイエルシュトラスの指導でDe aequationibus secundi gradus indeterminatisにより,哲学博士号取得(1867).
 ベルリンの女子高で短期間教鞭をとったあったと,ハレ大学に勤め(1869),特別教授(1872),正教授(1879).
 多くの数学者から、特に師でもあるクロネッカーからも攻撃され、1884年頃から神経疾患。支持した人ももちろん多く、たとえば、デデキント、ワイエルシュトラス、ヒルベルトラッセルツェルメロミッタク・レフラーなど。
 発作後に名案の出ることも。ハレの精神病院で没。ドイツ数学会初代会長(1890)。1897年に第1回国際数学者会議をチューリヒで開催。
 集合論,無理数論,三角関数論,整数論(ゴールドバッハの問題),カントール代数,カントール立方体,カントール関数(=カントールの階段関数,悪魔の階段,カントール・ルベーグ関数),カントール集合,カントール空間,カントールの往復論法,カントールの対角論法,カントール・ベルンシュタインの定理,ハイネ・カントールの定理,カントールの対関数.

 「数学の本質はその自由性にある。」
 日本語の本に『カントール 超限集合論』(功力金二郎訳)数学の系譜8共立出版がある。デデキントとの往復書簡の訳もここにある。 [解序, III.0-1, 3-4, IV.1-2, 文], [天15], [積序], [代入6], [伝4,5,6,7,8,10], [フ26], [辞], [作は], [基9,14-16], [孫数1], [ラ8], [クI.1.2.2,I.1.2.3,I.3.3,I.3.4], [天VI.19] トップ

カントール、モーリッツ(Moritz Benedikt Cantor, 1829.8.23-1920.4.10).
 ドイツ、バーデン、マンハイムに生まれ、ドイツ、ハイデルベルクに死す。
 数学史家。ハイデルベルク大学(1848-1851)で学ぶが、途中ゲッティンゲンでガウスヴェーバーに、ベルリンでディリクレシュタイナーに学ぶ。 ハイデルベルク大学(1853-1913)に勤務。
 始めは数学を研究していたが、あるときボンの会議で、ラムス、シュティーフェルカルダーノについて短い講演をしたのが大変好評で、数学史の研究を進める気持ちになったと、後にカジョリに語っている。 『数学史講義(Vorlesungen \"uber Geschichte der Mathematik)』 は古代から1799年までの数学の歴史書だが、参考資料が豊富で、今も価値を失っていない。 [解I.1, 4], [幾5,6,7], [クI附B] トップ

カンポス,ヴィクトール・アルメイダ(Victor Almeida Campos).
 ブラジル,セアラ国立大学教授.グラフ理論.  [天VI.39] トップ
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ギヴェンターリ(Alexander Givental.).
 V.I.アーノルドの弟子.1987年にモスクワ大学から(Singularities of Solutions of Hamilton-Jacobi Equations in Variational Problems with Inequality Constraint)によって博士号.
 シンプレクティック幾何,特異点理論,位相的弦理論.トーリックなカラビ・ヤウ多様体に対するミラー予想の証明  カリフォルニア大学バークレイ校教授. [フ30,文] トップ

ギヴンズ(James Wallace Givens, Jr.).
 1936年プリンストン大学で,O.ヴェブレンの指導の下,論文Tensor Coordinates of Linear Spaces(線形空間のテンソル座標)によりPh.D.取得.スピノールの代数的扱いについてのヴェブレンの講義の執筆(1935-36).  テネシー大学ノックスヴィル校教授. [ワ8] トップ

菊池大麓(Kikuchi Dairoku, 1855.3.17(安政2年1月29日)--1917(大正6).8.19).
 父は箕作秋坪(文政8年12月8日(1826.1.15)-明治19年(1886)12.3),母つねは箕作阮甫(寛政11年9月7日(1799.10.5) - 文久3年6月17日(1863.8.1))の三女.次男だったため父の実家菊池家の養子となる.幼名は大六.長兄奎吾は兄弟中もっとも嘱望されたが,19歳で水泳中に死に(明治4年隅田川で),動物学者の箕作佳吉と歴史家の箕作元八は弟.

 兄奎吾とともに,6,7歳頃に蕃書調所に入学し、英語を学ぶ.文久四年(1864)八月に開成所と改称,文久5年(1865)句読教授当分助になる.英語以外の勉強が嫌いで,祖父に叱られ,中村敬輔(後に正直と改名)の漢学塾に通う.
 開成所で数学も学んでおり、神田孝平から洋式で算術と代数の初歩も学ぶ.
 慶応2年の幕府派遣のイギリス留学生の最年少者として派遣され,ロンドンの大学予備校で学び,成績優秀であったことが,日本にも伝えられ,瓦版などでも広く知られたという.
 大政奉還を知らされ,明治元年(1868)帰国.帰国後、明治二年一月に開成学校のフランス語学科に入学し、明治三年(1870) 9月には大学南校(前年中に開成学校から改称)の 助教となっている。まだ満15歳である。
 翌10月には英国留学を命じられ、翌11月に英国留学に出発している。今回は大学南校出仕の留学生並という肩書きで、東伏見宮嘉影親王に随行するという立場である。 菊池大麓は2年数ヶ月ぶりに、ロンドンに戻る.
 幼時のエピソードやイギリス留学のことなど,詳しいことは『文明開化の数学と物理』の第1章を見てほしい.子供の時の写真も掲載されている.
 東京大学理学部の日本人初の教授の一人で,その時も最高位の4等教授(後の助教授相当,明治10年6月4日--8月26日),教授(明治10年8月27日--1898年(明治31年)5月1日).日本で初めての数学の教授.
 明治14年に物理学数学及星学科から数学科が独立,数学科の初代教授,同時に理学部長になる.明治19年,帝国大学令により、東京大学は東京帝国大学になり,帝国大学理科大学長になる.
 明治21年に制定された学位令により学長推薦により理学博士になる.同時に理学博士になったのは山川健次郎(物理),伊藤圭介(本草学),矢田部良吉(植物学),長井長義(薬学)).明治22年帝国学士院会員,23年には貴族院勅撰議員(終身).明治29年文部省専門学務局長、30年文部次官、31年5月帝国大学総長(第5代で,数学者で初めての東大総長)(-1912).総長になった時に教授は辞任.明治34年6月2日文部大臣(第18代,数学者では初めてであり,唯一でもある)となり,教科書の国定化(明治35年).
 その後も学習院院長(第8代,1903-04;1年半),京都帝国大学総長(第3代,1908-1912), 帝国学士院院長(第9代, 1909-1917),枢密顧問官(1912),理化学研究所初代所長(1917)など学者としての最高の栄誉を受け続ける.
 管理,政治に移ってからは,数学のことは弟子の藤沢利喜太郎に任せつつ,しばらくは講義もした.
 明治10年,東京数学会社発足時の社員.訳語会でも活躍.mathematicsの訳語について,「数理学」を推す.
 著書に,『論理略説』同盟舎(明15.12),『初等幾何学教科書. 第1巻』文部省編輯局(明22.1),『初等平面三角法教科書』大日本図書(明26.8),『初等幾何学教科書』大日本図書(明27,31),『幾何学講義1,2巻』大日本図書(明30,39),編『幾何学小教科書. 平面部』大日本図書(明32.12),『名流苦心談』中学世界明治三三年新年号(第三巻第一号)新年大付録所収,『日米教育時言』弘道館(大正2),『平面解析幾何学』大日本図書(大正2) など.  [文プ1,3] トップ

キケロ(Marcus Tullius Cicero, 紀元前106.1.3--紀元前43.12.7).
 アルピヌム(ローマ南東約100km)に生まれ,ローマに死す.
 政治家,弁論家,文筆家,哲学者.アテネ,ロードス島,小アジアに遊学(29歳で帰国).弁論と,属州統治の見事さにより出世.31歳で財務官,32歳で元老院議員,37歳で按察官,40歳で法務官(プラエトル),43歳で執政官.祖国の父と呼ばれる基になった英断が,ローマ法に反すると弾劾されてローマを追放され(58年に護民官に就任したクロディウスの弾劾による),翌年キケロ召喚決議により凱旋帰国.その後は2度の三頭政治に反対し,民主政治を守ろうとする.カエサル暗殺の際,暗殺者の方を支持した.カエサルの甥のオクタヴィアヌスを政界に呼び寄せ,アントニウスを弾劾したが,オクタヴィアヌスがアントニウスと組み第2次三頭政治が始まり,アントニウスの放った刺客により暗殺される.
 ラテン語は彼の弁論や著述によって共通語としての骨格を備えて行ったということができ,後のヨーロッパに強い影響を与えている.
 彼が数学史に登場する理由はただ一つ,紀元前75年にシシリー島を訪れ,シラクサの入り口近くで,雑草に覆われたアルキメデスの墓を発見したことによる.その後また失われてしまったので,墓に円柱に内接する球が描かれていたというのは,キケロの報告(それがプルターク英雄伝の中に記載された)ことだけが根拠である.墓を作ったのは,シラクサを陥落させたローマの将軍マルケッルスだったという.   トップ

ギサン(Bernard Gisin, 1954.12.29-).
 ジュネーヴで,スイス・ジャグリング協会で活動.数学,物理,ジャグリングに関するHP運営.  [幾5-7,11] トップ

ギース(\'Etienne Ghys, 1954.12.29-).
 リヨン高等師範学校卒.CNRS,リヨン高等師範学校UMPA主任研究員.
 幾何,トポロジー,力学系.ポアンカレに強く影響を受ける.
 CG数学映画 Dimensions: A walk through mathematics!の共著者.Publ.IHESの編集長.[フ10] トップ

北尾次郎(Kitao Jiro, 嘉永6年7月4日(1853.8.8-明治40年(1907)9.7).
 出雲国松江藩医,村松寛裕の次男として生まれ,幼名を録次郎.1869年,松江藩蘭学者、北尾漸一郎の養嗣子となる。同年開成学校に入学してフランス語を学び、同校が大学南校に改称されると、英語と究理学(物理学)を学んだ.
 1870年2月ドイツへ留学,ギムナジウムを経て,73年にベルリン大学へ. H.フォン・ヘルムホルツG.R.キルヒホッフたちから物理学を,E.E.クンマーたちから数学を学ぶ.ゲッティンゲン大学へ移ってPh.D.を取得. 1883年12月帰国.
 1884年2月に文部省御用掛大学理学部勤務.同年ドイツ滞在中に婚約したベルリン生まれのルイゼ(日本戸籍名留英子)と結婚. 6月東京数学会社が東京数学物理学会に改名した時に入会.
 1885年、東京大学教授.力学や音響学を講義.
 1886年、東京農林学校教授兼帝国大学理科大学教授.
 1888年、海軍大学校教授を兼任
 1890年、帝国大学農科大学教授。
 1892年、農林物理学気象学講座を担当.
 近代数学を流体力学に応用した<過流理論>は欧米でも高く評価され,気象学を統計的なものから数理的なものに変えた最初のもの.
 没後に黒田清輝が描いた肖像画が島根県立美術館に所蔵されている.  [文プ] トップ

ギブス(Josiah Willard Gibbs, 1839.2.11-1903.4.28).
 アメリカ、コネティカット州、ニューヘヴンに生まれ、ニューヘヴンに死す。理論化学・物理学者。エール大学教授。アメリカ初の工学関係の博士。
 コネティカット・アカデミー報告に掲載された「相律」を確立した『不均一系の平衡論』はマクスウェルには認められたものの、長い間認められず、オストヴァルドがドイツ語に訳してから段々認められるようになった。アメリカが科学における発展途上国であった時代の話である。古典統計力学。
 フーリエ級数の収束に関するギブス現象.ギブス・ヘルムホルツ方程式,ギブス・トムソン方程式,ギブス・アルゴリズム,ギブス分布(ボルツマン分布のこと),ギブス自由エネルギー,ギブス・エントロピー,ギブスのH定理,ギブスの不等式,ギブスの補題,ギブス測度,ギブズの相律,ギブズのパラドックス,ギブスサンプリング,ギブス状態,ギブスの熱力学的曲面,ギブスのベクトル表現. [解IV.3, 文], [幾9,文], [クII.1.4,1.5,3.1] トップ

ギブリン(Peter John Giblin, 1943.7.10) イギリス,ダートフォードの生まれ.
 リヴァプール大学数学科名誉教授.
 幾何学,特異点理論.コンピュータビジョン,コンピュータグラフィックス.
 著書に『グラフ,曲面,ホモロジー(Graphs, Surfaces and Homology)』 (1977), 『曲線と特異点(Curves and Singularities)』(1984,J.W.Bruceと共著,このロシア語訳にはV.I.アーノルドが前書きを書いている), 『(Challenging Mathematics)』(1990,I. R. Porteousと共著), 『素数とプログラミング:計算機を使った整数論入門(Primes and Programming: an Introduction to Number Theory with Computing)』(1993)など,多数. [フ文] トップ

木村駿吉(Kimura Shunkichi, 1866.11.12(慶応2年10月6日)-1938.10.6).幕臣・木村芥舟の三男として生まれる.
 帝国大学理科大学物理学科卒(1888.7).大学院で学んだ後第一高等中学校教諭を務め,アメリカに留学(1893.8-1896.7),ハーバードとイェールの大学院.イェール大学から,James P. Pierpontの指導で,Studies on General Spherical FunctionsによりPh.D.取得(1896). 1896年にAnnals of Math, vol10.no.5に On the nabla of quaternionを発表.四元数協会設立に参加.
 帰国後,第二高等学校教授(1896.9-1900.3),このあと海軍に奉職.無線電信調査委員会の委員となり,船舶間の無線電信の開発に従事,1903年三六式無線電信機が正式採用される.日本海海戦での無線使用を可能にして勝利に貢献. [クI.1.4] トップ

ギャルヴィン(Fred(Frederick William ) Galvin, 1936.11.10-.) ミネソタ州セントポールの生まれ.
 ミネソタ大学ミネアポリス校からBjarni Jónssonの指導で「ホーン文Horn Sentences)」によりPh.D.取得(1967).
 アメリカ,カンザス大学数学科教授.組合せ論,グラフ理論,集合論.
 ディニッツ予想の解決.ハイナルとともに,ℵω1が強極限基数であれば,2ω1 <ℵ(21)+となることを証明.この結果を拡張することで,Saharon ShelahはPCF理論を創ることになる. [天26], [天VI.38] トップ

キャロライン,アンスバッハの(Caroline, 1683-1737.11.)
 イギリス国王ジョージ2世妃.有能でない夫を支えて,国政に関与.
 皇太子妃のときに,ライプニッツからニュートンを誹謗する文書を届けられる.  [パ12] トップ

キャンディ,アルバート・ルーサー(Albert Luther Candy).
 1893年カンザス大学でA.M.Studiesを完了.  "A General Theorem Relating to Transversals, and Its Consequences"をAnnals of Mathematics(1896)vol.10-11, p.175-176に発表.ネブラスカ大学リンカーン校から,この論文により,Ellery William Davisの指導でPh.D.取得(1898).ネブラスカ大学リンカーン校から出された数学の最初のPh.D.
 1900年にスタッフとなる.1917年学科主任になり,1935年退職.
 蝶の定理の一般化が上の論文にある. [幾11] トップ

ギユー(Jean Guilloud, 1923--)
 πの計算の世界記録を何回か更新する.
 1959年,マチンの公式を用いて,πを1万6167桁求める.
 主計算にガウスの公式を,C.シュテルマー(Frederik Carl Mulertz Stormer, 1874-1957)の公式を検証計算に用い,1966年にIBM7030を使ってジョエル・フィリャトル(Joelle Filliatre, 1938現在はJ.ゲイ(Gay))とπを25万桁, 1967年にCDC6600を使ってミシェル・ディシャン(Michele Dichampt, 1940.1.24--,現在はギユー夫人)とπを50万桁,1973年にIBM7600を使ってブーイエ(Martine Bouyer)とπを100万1250桁求める.
 1981-82年に,πを200万50桁求める.
  トップ

キューネン,ケネス(Herbert Kenneth Kunen, 1943.8.2-).ニューヨークの生まれ.
 カルテク卒業後,スタンフォード大学からDana Stewart Scottの指導で,Inaccessibility Properties of Cardinals(濃度のアクセス不能性)によってPh.D.取得(1968).
  ウィスコンシン大学数学名誉教授.集合論,集合論的トポロジー,測度論.ループのような非可換な代数系では,Otterという定理証明ソフトのようなものを使って,定理を導いた.
 キューネンの無矛盾性定理(1971).
 日本語に訳されたものに『集合論 独立性証明への案内』(藤田博司訳)日本評論社(2008.1)がある. College PublicationsからThe Foundations of Mathematics(2009)とSet Theory(2011) [基文]   トップ

キリロフ(Aleksandr Aleksandrovich Kirillov, 1936.5.9-).
 ソ連,モスクワの生まれ.モスクワ大学卒(1959).モスクワ大学教授(1965).I.M.ゲリファントの下で,論文『ベキ零群のユニタリ表現』により学位取得(1962).
 代数学,関数解析,群の表現論.ベキ零群の表現の構成の軌道法(キリロフの方法).環論におけるゲリファント・キリロフ次元.著書に『表現論入門』,(A.D.グヴィシェアニとの共著の)『関数解析の定理と問題』がある.
 また,まったく同じ名前の息子があり,彼は無限次元リー環や量子群の表現論の研究者であり,名前の最後にJr.を付けて区別している.  [代コ] トップ

キリング(Wilhelm Karl Joseph Killing, 1847.5.10-1923.2.11.)
 ドイツ,ウェストファリア,ブルバフ(ズィーゲンの近く)に生まれ,ミュンスターに死す.
 ミュンスター大学入学(1865),ベルリン大学に移りクンマーワイエルシュトラスに学び,後者の下で,行列の単因子論を曲面論に応用する論文で学位(1872).  ベルリンとブリオンの学校教師(1868-1882),ワイエルシュトラスの推薦でブラウンズベルクのローマン・カソリックのカレッジで数学教師となり,その10年後にミュンスター大学教授(1892).この間,学界から孤立していたが,重要な仕事はこの時期のもの.
  非ユークリッド幾何の研究のため,S.リーとは独立にリー環を導入.n次元非ユークリッド幾何の導入.単純リー環の分類. リー(変換)群の代数的理論.カルタン部分代数,カルタン行列,ルート系の導入.行列の特性方程式という言葉も彼の発明.論文『有限連続変換群の構成』は里程標.  [ワ2], [伝6,7,9] トップ

キール、ジョン(John Keill, 1671.12.11-1721.8.31).
 スコットランド、エディンバラに生まれ、イギリス、オックスフォードに死す。
 物理・数学者。オックスフォード大学サヴィル天文学教授。ライプニッツの非難に対してニュートンを弁護する論陣を張る。彼の『天文学講義』(1718)は、オランダ語への翻訳(1741)を経由して、志筑忠雄(1760-1806)によって日本語に翻訳され、『暦象新書』(1802)という名で出版され、ニュートン力学の日本への伝播に資す。 [解II.4] トップ

ギルバート,エドガー(Edgar Nelson Gilbert, 1923.7.25-2013.6.15). ニューヨーク市ウッドヘイブンに生まれ,ニュージャージー州バスキング・リッジに死す.
 符号理論,確率論,ランダム幾何的グラフ(RGG)の導入.
 ニューヨーク市立大学クイーンズカレッジを物理で卒業(1943).イリノイ大学アーバナ・シャンペイン校で短期間数学を教えた後,MITのRadiation Laboratoryに移り,レイダーのアンテナを設計(1944-1946).MITからNorman Levinsonの指導で「弛緩振動問題の漸近解(Asymptotic Solution of Relaxation Oscillation Problems)」によりPh.D.取得(1948). その後ベル研究所で研究(-1996).
 符号理論でのギルバート--バルシャモフ(Rom Varshamov)限界, ギルバート--エリオット(E. O. Elliott)模型,ランダムグラフに対するエルデシュレニイ模型を独立に提案.カードのシャフルに関するギルバート--シャノン--リーズ模型.  [天VI.31] トップ

キルヒホッフ(Gustav Robert Kirchhoff, 1824.3.12-1887.10.17).
 プロシャ王国,ケーニヒスベルク(現在ロシア,カリーニングラード)に生まれ,プロシャ王国,ベルリンに死す.ガウス, Franz Ernst Neumannとリシュローの弟子.1847年からベルリン大学の無給講師.後ブレスラウ大学に.1854年にハイデルベルク大学の物理学教授.ブンゼンと同僚になる.1875年ベルリン大学数理物理学講座主任となる.
 トポロジーを使った回路理論や弾性理論に貢献.1854年発表のキルヒホッフの法則はオームの法則の拡張.黒体輻射での業績は量子論の発展に基礎的貢献.また太陽光線のスペクトルの黒線を吸収によるものと解釈し,天文学に新時代を開く.ブンゼンとともにセシウムを発見(1860),ルビジウムを発見(1861).
 キルヒホッフの方程式(理想流体の中の剛体の運動に対する)の解に対する公式.キルヒホッフの法則(電気回路(1849),熱放射(1859),熱化学(1858)に対する3つ),キルヒホッフの応力テンソル,
 もっとも有名な著書は4巻本の『数理物理学講義』(Vorlesungen \"uber mathematische Physik) (1876-94)である.
 弟子にM.ネーターシュレーダーなど. [天24], [伝6], [フ23], [天VI.33] トップ

ギルマン(Daniel Coit Gilman, 1831.7.6-1908.10.13).
 アメリカ,コネチカット州ノジッジに生まれ,同地に死す.
 1876年,ボルティモアに設立されたジョンズ・ホプキンス大学初代学長. 「大数学者と高名なギリシャ語学者を招きなさい.そのような人たちは,普通の住居でも大伽藍でと同じように教えることができ...他の教師たちは彼らについていくだろう」という考えから,シルヴェスターが数学教室に招かれ,アメリカ数学雑誌がこの大学から発行されるようになる.  [伝4,8] トップ

キング,ジョナサン(Jonathan Leo Flagler King).
スタンフォード大学からD.S.オルンシュタインの指導で,「ピンスカー予想の歪積一般化への反例(A Counterexample to a Skew Product Generalization of the Pinsker Conjecture)」によりPh.D.取得(1984).
 フロリダ大学教授.カスプの中のビリヤード.  [フ文] トップ

ギンディキン(Simon Grigorevich Gindikin).
 ピャチェツキーシャピロに指導で博士号.
 ラトガス大学教授.
 表現論,確率論,ハリシュ・チャンドラのc関数に対するギンディキン=カルペレヴィッチの公式.
 日本語にも『ガウスが切り開いた道』がある。  [フ文] トップ

キンバーリング(Clark Kimberling, 1942.11.7-). イリノイ州ヒンズデイルの生まれ.
 イリノイ工科大学からAbe Sklarの指導でAssociative Functions and an Application to Exchangeable Stochastic ProcessesによりPh.D.取得(1970).
 インディアナ州のエヴァンスヴィル大学数学教授(1970-).三角形,整数列,聖歌学.音楽家,作曲家でもある.
 1994年以降,三角形中心の百科を運営.  [幾4,文] トップ


  
  
  
  
  

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