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『微分の基礎 これでわかった!』『微分の応用 これでわかった!』『本格数学練習帳』
『確率で読み解く日常の不思議』『数学の作法』『幾何教程』



 人名索引 まーも


人名索引総目次
マイヤーF.W.F.マイヤーF.C.マイヤーマウレルマウロリクス
マークマクシェインマクスウェルD.マクスウェルI.G.マクドナルド
マクドナルドマグニツキーマグヌスマクラウドマクレーン
マクローリンマシケマチンマッカイ松永良弼
マードックマニンマヌーリマネー=クーツ
マリオットマリツェフマリュマルコフマルコフ(息子)
マルシャンマルファッティマルサスマロウズマン
マンカーズマンツナーマンデルブロマンフォード
 
ミケルミシャチェフ水野忠精水野忠邦ミチエルスキ
箕作奎吾箕作阮甫箕作秋坪箕作大六箕作麟祥
ミッタク・レフラーミトリノヴィッチ ミューアミュラー
ミラーミールミルソンミルナー
三輪桓一郎ミンコフスキーミンディング 
 
E.H.ムーアR.L.ムーアムクォパジャーヤムーニエ村井中漸
 
メイナルダスメシュコフスキーメチウスメナイクモスメネラウス
メビウスG.メルカトルN.メルカトールメルセンヌメルテンス
メレーメンガーメンゴーリメンデルソン
 
モーアモイーズモウズモーガン
M.モースA.P.モースモステラー
モツキンモーデルモーペルテュイ
毛利重能W.D.モリスS.A.モリスモリーン
モルゲンシュテルンモールスモーレー
H.モンゴメリモンジュモンチュクラモンテル




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マイヤー,ヴァルター(Walter J. Mayer).
 1912年にウィーン大学から哲学博士号.リー群論.
 [ワ9] トップ

マイヤー,フリードリヒ・ヴィルヘルム・フランツ(Friedrich Wilhelm Franz Meyer, 1856.9.2-1934.6.11). ドイツ,マグデブルクに生まれ,ケーニヒスベルク(現在はロシア,カリーニングラード)に死す.
 ライプツィヒ大学(1874夏--1875夏)でC.ノイマンに学び,ミュンヘン工科大学でF.クラインに学び(1875/76冬--1877/78冬),1878年5月15日に„Anwendungen der Topologie auf die Gestalten der algebraischen Kurven(代数曲線の形状に対するトポロジーの応用)“で哲学博士号取得. ベルリン大学で,ワイエルシュトラス, クンマークロネッカーに学ぶ(1878--1880).1880年にチュービンゲン大学に教授資格論文Apolarität und rationale Kurven, eine systematische Voruntersuchung zu einer allgemeinen Theorie der linearen Räume(非極性と有理曲線,線形空間の一般論に対する体系的な予備的考察)を提出,1888年まで同大学で教える.この論文の非極性は,Theodor Reyeにより,有理曲線を使った高次元の射影幾何学に展開.
 1888年に,Harz MountainsのClausthal-ZellerfeldのBergakademie(鉱山アカデミー)の講座主任になり,1897年10月にケーニヒスベルク大学教授になり,引退の1927年まで27年間教える.
 ドイツ数学会からの要請で,Bericht über den gegenwärtigen Stand der Invariantentheorie in Jahresberichte der Deutsche Mathematiker-Vereinigung(ドイツ数学会の年次報告における不変式論の現況に関する報告)を書く(1892).  また,H.ヴェーバーF.クラインとともに行ったEncyclopädie der Mathematischen Wissenschaften(応用を込めた数学の百科事典)''は1898年から1935年にかけて,B.G.Teubner出版社から出版され,20000ページを超える.
 H Burkhardtとポテンシャル論に関する著述,G Berkhanと三角形の幾何に関する論文あり. [幾4] トップ

F.C.マイヤー(F.C.Maier).
 サンクト・ペテルスブルク科学アカデミー.``De planetarium stationibus'',Commentarii Academiae Scientiarum Petropolitanae, 2 (1727), pp. 82-90で,正弦や余弦の定義と記号を与えるが,後にオイラーによるものに置き換わる.
 [幾5] トップ

マウレル(Ludwig Maurer, 1859.12.11-1927.1.10). (モーレーと表記されることもある.)
 ドイツ,ミュンヘンに生まれ,同地に死す.
 シュトラスブルク大学から「線形置換の理論について(Zur Theorie der linearen Substitutionen)」により自然哲学博士号取得.行列群のこと.
 チュービンゲン大学教授.
 マウレル・カルタン形式 . [ワ8] トップ

マウロリクス=フランチェスコ・マウロリーコ(Maurolycus=Francesco Maurolico, 1494.9.16-1575.7.22).
 イタリア,シシリー島,メッシナに生まれ,メッシナに死す.司祭.幾何学,数論,光学,力学,天文学など.
アルキメデスアポロニウスパッポスなどのラテン語訳をする.またパッポスの記述から,当時失われていたアポロニウスの『円錐曲線論』第5巻の復元を試みた.失われた古典の復元という形で幾何学への刺激を与えた人物で,彼の死後デカルトの『幾何学』(1637)の出版まで,幾何学の発展は足踏みをしていたという.また,数学帰納法の萌芽も見られるという.secantの表.  [名17] トップ

マーク(Wilhelm Maak, 1912.8.13-1992.6.6).
 ドイツ,ハンブルクに生まれ,ゲッティンゲンに死す.
 ハンブルク大学に入学,ヘッケE.アルティンW.ブラシケシュライアーに,1933年にはコペンハーゲン大学でハラルド・ボーアに学ぶ.  1936年にハンブルク大学から,ヘッケの指導で「抽象的概周期関数(Abstrakte fastperiodische Funktionen)」によりPh.D.取得.
 概周期関数.概周期関数の理論を半群に拡張し.ワイルクロネッカーの等分配定理を非可換群上に拡張(1951).
 ハイデルベルク大学助手(1938),ハンブルク大学で教授資格を得(1939),私講師(1949). ミュンヘン大学でペロンの後任として教授(1951/2),ゲッティンゲン大学教授(1958-1977).
 弟子も多く,Konrad Jacobsなど  [ワ7] トップ

マクシェイン(Edward James McShane, 1904.5.10-1989.6.1). アメリカ,ルイジアナ州ニューオーリンズに生まれ,ヴァージニア州シャーロットヴィルに死す.
 チュレーン大学卒(1925),工学士と理学士になる.ゼネラル・エレクトリック社からの入社要請を断り,学生教師をして修士を得る(1927). シカゴ大学からブリスグレイヴズの指導で「変分法における半連続性と等周問題の絶対最小値(Semi-Continuity in the Calculus of Variations, and Absolute Minima for Isoperimetric Problems」によりPh.D.(1930).
 1932-33年にはゲッティンゲンで過ごし,R.クーラントの2巻本の微積分の教科書を英語に翻訳.またナチがドイツを制圧していくのを実感.
 プリンストン大学(1933-35)の後,1935年秋にヴァージニア大学教授と習い,引退まで過ごす.
 世界各地を訪問し、京都大学にも半年滞在したことがある。アメリカ数学協議会会長(1953-54),アメリカ数学会(1958-59).
 変分法、積分論、制御理論、確率過程。  『積分(Integration)』(1944),『順序を保つ写像と積分過程(Order-Preserving Maps and Integration Processes)』(1953), 『外部弾道学(Exterior Ballistics)』(1953,ケリー(John L. Kelly),F. V. Renoと共著), 『ルベーグ=スティルチェス積分,ボホナー積分,確率積分を含むリーマン型積分(A Riemann-type integral that includes Lebesgue-Stieltjes, Bochner, and stochastic integrals)』(1969), 『確率解析と確率モデル(Stochastic Calculus and Stochastic Models)』(1974)など.
 弟子にクリー,Billy Pettisなど. [解III.5, 文] トップ

マクスウェル,ジェイムズ・クラーク(James Clerk Maxwell, 1831.6.13-1879.11.5).
 スコットランド,エジンバラに生まれ,イングランド,ケンブリッジに死す.
 古典電磁気学,電磁波の存在を理論的に予想し,伝播速度が光の速度と同じであることを示す.土星の環や気体分子運動論・熱力学・統計力学.
 エジンバラ大学入学(1847),偏光による弾性ひずみの観察.ケンブリッジ大学聖ペテロカレッジ(後のピーターハウス)入学(1850),翌学期からトリニティーカレッジに移る.
 マクスウェル分布,マクスウェルの方程式(1864),マクスウェルの悪魔,マクスウェルの関係式,変位電流の導入.
 マリシャルカレッジ(アバディーン)教授(1856),キングス・カレッジ・ロンドン教授(1860-65),ケンブリッジ大学実験物理学の初代教授(1871.3.18).キャヴェンディッシュ研究所設立に貢献,1874年6月16日の開所時に初代所長となる.  [ワ8], [伝2,3,4], [辞], [幾5], [50.18] トップ

マクスウェル,ディール(Delle Maxwell).
 グラフィックデザイン,UIデザイン,技術文書に関するフリーランサー.
 ミネソタ大学,幾何センターで,2本のビデオのアート・ディレクター兼アニメーター.『ノットでない(Not Knot)』(1991), ヴィデオ『アウトサイド・イン(Outside In)』(1994,S.レヴィ,Delle Maxwellと共同監督とアニメーション製作).サーストンのアイデアを実現したもの.
  [名18], [フ12,文] トップ

マクドナルド,イアン・グラント(Ian Grant Macdonald, 1928.10.11--).イギリス,ロンドンの生まれ.
 ケンブリッジ大学ウィンチェスター・カレッジとトリニティ・カレッジで学び,1952年に卒業.マンチェスター大学フィールデン教授(1972)の後,ロンドン大学クイーン・メアリとウェストフィールド・カレッジの教授に(1976).
 対称関数,特殊関数,リー代数,代数的組合せ論. マクドナルド恒等式,マクドナルド多項式,マクドナルド予想.
 『対称関数とホール多項式』(1979)は古典とみなされている.  [フ3] トップ

マクドナルド,ウィリアム・レイ(William Rae MacDonald, 1843-1923)。
The Construction of the Wonderful Canon of Logarithms(2010)は,1888年にネイピアの著書を英訳したもの.
  Dictionary of National Biography, 1885-1900にも項目執筆.数学書も例えば「有限差分法のいくつかの問題について(On Some Problems in the Calculus of Finite Differences)」(1876)がある.「テインとインバネスの間の古い教会墓地の紋章(Heraldry in Some of the Old Churchyards Between Tain and Inverness)」(1903),「スコットランドの紋章(Scottish Armorial Seals)」(1904)などスコットランドの紋章に関する著述がいくつかある. [解文] トップ

マグニツキー(Leontii Filippovich Magnitskii(Леонтий Филиппович Магницкий),1669.7.19-1739.10.30.)  ロシア,トヴェーリ州,オスタシュコフ総主教区の生まれ,モスクワに死す.
 15歳でモスクワのシモノフ修道院に送られ,1694年までスラブ・ギリシャ・ラテン学院で学ぶ. モスクワの貴家の子弟の教師として働き,1701年ピョートル大帝に数学に関する著書を書く許しを得る. また1701年にピョートル大帝がモスクワに航海術の学校を創設し,翌年同校の教師として採用される. お雇い外国人であるスコットランドの数学者H.ファーカーソン(1675頃--179.12.9)の助手として仕事を始め,後には学務主任となる. 1715年からその死まで校長を勤める.1722年には航海術に関する数表『北緯と南緯の表』を編集
 1703年に書いた『算術』はロシアにおける最初の数学の教科書であり,以後半世紀ロシアの標準の教科書となる. ヴラックの対数表のロシア版の編集(1703).1707年のスウェーデンの侵攻を受け,大帝は彼に要塞の研究を命じ,トヴェーリ市の要塞化に従事. [モ歴] トップ

マグヌス(Wilhelm Magnus, 1907.2.5-1990.10.15). ドイツ,ベルリンの生まれ.
 デーンの問に答える形で,1関係群についての論文で,フランクフルト大学で学位(1931).1932年に1関係群に対する『語の問題』が可解であることを示す.フランクフルト大学,ゲッティンゲン大学に勤める.自由群についての研究.1935年に,有限表示を持つ群でその真の商群と同型な例を示す.第2次大戦中はナチの忌避に会い,工場勤務.
 終戦後は,エルディイの推薦で,H.ベイトマンの遺稿の整理を手伝うためにゲッティンゲンを離れる(1948).その結果がH.ベイトマンとエルディイの『高等超越関数 全3巻』と『積分変換表』である.
 その後クーラント研究所に行き,ニューヨーク工科大学教授(1973)になるまで23年間過ごす.  群論,特殊関数論,電磁気学や波動方程式の応用を含む数理物理学.著書は7冊,楕円関数,敷き詰め(非ユークリッド的敷き詰めとその群,1974), 組み合わせ的群論(1966, A.カラス,D.ソリターと共著), 組み合わせ的群論の歴史(1982,B.チャンドラーと共著),数理物理学など. [代コ] トップ

マクラウド(Robert M. McLeod).
 ミシシッピー州立大学で物理と数学の学士,修士とPh.D.はライス大学から.Gerald R. MacLaneの指導で「ある整関数の導関数の零点について(On the Zeros of the Derivatives of Some Entire Functions)」による(1955).
 デューク大学,ベイルートのアメリカ大学,テネシー大学,オハイオ州,ガンビエのケニョン・カレッジ(Kenyon Colledge)教授(1966-1994),名誉教授(2008.1.22).
 ニューメキシコ州立大学に有給休暇で訪れたときに『解析教程』の文献にあるリーマン積分の本(The Generalized Riemann Integral,1980)を準備した。 [解III.5, 文] トップ

マクレーン、ソンダース(Saunders MacLane, 1909.8.4-).
 アメリカ,コネチカット州ノルウィッチに生まれる。 エール大学卒業(1930),シカゴ大学修士(1931),ゲッティンゲン大学博士(1934).1947年よりシカゴ大学教授。論理学,代数学,トポロジーにおける業績とともに普及にも尽力。ホモロジー代数の創始者の一人.
 MAA会長(1951-52),AMS会長(1973-74).教科書も多い.  [代コ] トップ  

マクローリン、コリン(Colin Maclaurin, 1698.2-1746.6.14).
 スコットランド、アージルシャー、キルモデンに生まれ、スコットランド、エジンバラに死す。
 神学を学ぶためグラスゴー大学入学したが、シムソンの影響で数学に転向。1713年に「重力について」という論文でMAを取得。 19才でアバディーン大学のマーシャル・カレッジの数学教授(1717-1725)になる。1719年の休暇中ロンドンを訪ね、ニュートンに会い、王立協会会員に。1722年公職としての許可なく、ポルワース卿の長男の家庭教師として、フランスで過ごし、「物体の衝突について」という論文でフランス科学アカデミーの賞を得る。1924年秋生徒が死に、アバディーンに戻ったが、受入れられず、エディンバラ大学ヘ。同教授(1725-1745)。
 1745年にジャコバイトの反乱(亡命したジェームズ2世の支持者)がエジンバラを襲い、街の防衛に中心的な役割を果たす。街が陥落した後、ヨークに逃亡し、健康を害し、翌年水腫で死んだ。
 高次の曲線の研究が著しい。潮汐の理論によって、1740年にオイラーダニエル・ベルヌーイと共にフランス科学アカデミーの賞を受ける。 1742年の『流率論(A Treatise of Fluxions)』は、バークリーの攻撃に対する反論として出版され、ニュートンの流率論を始めて系統的に述べたもの。ニュートン理論の最初の体系的叙述ということの重要性は他のどの業績よりも著しいものがある。しかし、厳密さを強調するのに幾何的手法を用い、大陸で展開していく微積分の記号・手法を用いなかったため、イギリスの数学の発展に悪い影響を与えてしまった。
 『代数論(A Treatise of Algebra)』(1748)  [解I.1, II.1-2, 6, 10, III.8, 文], [作5], [幾3,9] トップ  

マシケ(Heinrich Maschke, 1853.10.24-1908.3.1).
 ドイツ,ブレスラウ(現在ポーランド,ブロツワフ)に生まれ,アメリカ,イリノイ州,シカゴに死す
 1872年ハイデルベルク大学に入学,ケーニヒスベルガーに学ぶ.ベルリン大学に行く前1年間の兵役.ベルリンではワイエルシュトラスクンマークロネッカーらに学ぶ.1878年に高校教師になるための試験を受けたが,大学で教えるための高度な資格を得たくなり,ゲッティンゲン大学に移り,1880年学位取得,大学のポストを得ることがほとんど不可能なことに気づき,高校教師なることにした.ベルリンのギムナジウムで6年間教えたが,やはり高度な数学に憧れ,サバティカルで,ゲッティンゲンに戻る(1886-87).ベルリンでも友人だったボルツァと再会し,ともにF.クラインと仕事をする.クラインのアイデアに刺激され,最初の論文\"Uber die quatern\"are endliche, lineare Substitutionsgruppe der Borchardt'schen Modulnを1887年に出版.
 1858年にエルミートクロネッカーF.ブリオスキが5次方程式を楕円関数を使って解く方法を発見していたが,1888年にマシケは超楕円関数を使って特殊な6次方程式を解くことができることを示した.そして,ブリオスキがどんな6次方程式もマシケの方程式に帰着することができ,同じように解くことができることを示した.
 ベルリンに戻って,上のことを論文にしたが,1888年12月8日付のクラインへの手紙で,研究を続ける環境にないことを訴えている.1889年にはこれ以上高校教師を続けない決心をする.すでにアメリカに行っていて,この時ジョンズ・ホプキンス大学にいたボルツァと連絡を取り合うが,アメリカでも大学のポストに就くことの難しさを知らされる.さらに別の資格があったほうがよいと考え,教員を続けながら,シャルロッテンブルクの工科学校で電気工学を学ぶ(1889-90).1890年に教員をやめ,ダルムシュタットで専門訓練を受ける.
 1891年にアメリカに渡り,1年間ニュージャージーのWestern Electrical Instrument Companyで働く. 1892年にE.H.ムーアがシカゴ大学数学科を作り,ボルツァが参加していた.ボルツァがムーアにマシケを呼ぶこと説得をする.マシケはムーアと協力してシカゴの数学教室をアメリカ屈指のものに育て上げることになる.
 群論,変換群論.クラインの形式問題,線形変換のなす有限群の完全可約性など. [ワ3], [伝7] トップ

マチン、ジョン(John Machin, 1680-1751.6.9).
 ニュートンの友人。ロンドン大学天文学教授.円周率の計算で有名だが、驚くほど個人データが見当たらない。マチンの公式を提案し,πを100桁計算している(1706年発表). [解I.4-6] トップ

マッカイ(Brendan McKay).
 オーストラリア国立大学計算機科学科教授.3年もコンピュータを働かせて組合わせ論のある定理を証明したことで有名.  [名19] トップ

松永良弼(Matsunaga Yoshisuke, 元禄3年(1690)?-延享元年6月23日(1744.8.1)). 久留米有馬藩の浪人.江戸に出て松本隼人正に仕える.
 元,寺内平八郎良弼.享保元(1716)年の終わりまでには松永姓を名乗る. 通称は平八郎・権平・安右衛門,号は東岡とうこう,龍池,探玄子たんげんし,葆真斎,東溟,源翼など。
 14,5歳頃に荒木村英の塾に入門.既に『括要算法』が出版された(宝永6(1709)年のものを先生本,正徳2(1712)年のものを遺稿本という)後は,荒木によらずその本によっただろう.23,4歳頃荒木が死んでいる(1718)ので,その頃塾を開いて,改名したのだろう.『括要算法』の訂正に努力.『括要算法第三難角術演段圖抄』(享保2(1717)).
 『算法集彙』(正徳4(1714))の中に『角法互堆』などが含まれる.
 後に中根元圭・久留島喜内(義太)との交友があり,ともに建部賢弘らの学説も取り入れて、和算の発展に尽くす.
 享保17(1730)年,陸奥国磐城・平藩主・内藤政樹(1703-1766)に算法指南として仕える.その2年前に,久留義太が使えていたが,2人とも江戸に住んでいた.内藤氏は延享4年(1747)日向延岡藩に転封となり、久留島もそれに従って延岡に赴いたが、宝暦4年(1754)に致仕して江戸に戻った.
 関孝和建部賢弘の大量の草稿類は,松永が内藤家に仕えるようになった後,建部家から内藤家に伝えられ,松永がかなりの程度整理した. 一時期は久留米藩にも仕えている.
 内藤氏には4年ほど仕えているが,その間は改暦関係の著作が多い. 『宿曜算法諺解』(享保17(1732)年4月), 『天学名目鈔正誤』(享保20年(1735)3月), 『天経或問発揮』(享保20年(1735)9月), 『元史四十八正方案考』, 『天経或問要論』(享保20(1735)年)など.
 賢弘の円理を完成したのは松永.『割円十分標』(元文元年(1736)),『弧矢立成法』(元文元年(1736)5月).
 松永が「関流末学」と自称しただけであって,松永は荒木を関流初伝と呼んだことはない.『机前雑記』の中に「荒木先生茶談」があるがそれ以外は失われた.
 その後,ベルヌーイ数の求め方や三角関数の展開なども含むものを書いている. 『太陰率』(元文3年(1738)8月), 『方円算経』(元文4年(1739)閏10月), 『算法綴術章』(元文5年(1740)), 『帰除得商』(元文5年(1740)正月), 『勾股再乗和算法』(寛保2年(1742)11月), 『方円雑算』,『諸方根源』,『梃銀灰吹銀入高并ニ引替の算用』など.
 主著の『方円算経』では,、円周率を小数第51位までを算出したり(うち第49位までは合致),円や多角形などに関する理論をまとめている.
 理論や技巧に傾いて実用を軽んじる和算の風潮を強く批判する書簡を久留島義太に送る.
 [文2] トップ

マードック,アイリス(Jean Iris Murdoch, 1919.7.15-1999.2.8). アイルランド,ダブリンに生まれ,イングランド,オックスフォードに死す.
 哲学者・作家・詩人.
「愛する事を教えてくれたあなた。今度は忘れる事を教えて下さい」という言葉が有名だそうだが,本を書く身にとっては, 「その人生の残りを偉大な書物を材料に凡庸な書物を書くことに費やしたいのか」という作中の人物の言葉が耳に痛いと,トスが言っている.   [名序,文] トップ

マーナガン(Francis Dominic Murnaghan, 1893.8.4-1976.3.24).
 アイルランド,オマーに生まれ,アメリカ,メリーランド州ボルチモアに死す.
 群論,連続体力学への応用(マーナガン状態方程式,バーチ・マーナガン状態方程式(Albert Francis Birch,地質学者))
 ダブリンのユニバーシティ・カレッジを一等級で卒業(1913),ジョンズ・ホプキンズ大学に移り,1916年にHarry Batemanと後にモーレーの指導で,「動く電子による電気力線(The Lines of Electric Force Due to a Moving Electron)]によりPh.D.取得.
 ライス大学講師(1916),ジョンズ・ホプキンズ大学助教授(1918),教授(1928-1949).ブラジル,サンパウロの航空工科大学(1949),1959年にボルチモアに戻り,Marine Engineering Laboratoryの顧問として働く.  ジョンズ・ホプキンズ大学.対称群の表現.
 弟子にEarl CoddingtonやPhilip Hartmanなど. [ワ7] トップ

マニン(Yurii Ivanovich Manin, 1937.2.16-).
 ソ連,シンフェローポリの生まれ.モスクワ大学卒(1958).スチェクロフ数学研究所から,シャファレヴィッチの指導で博士号(1961).モスクワ大学教授(1967).
 代数幾何学,代数群論,代数的整数論.ガウス・マニン接続.有限体上の代数関数体に関するモーデル予想の証明.インスタントンのADHM(Atiyah-Drinfeld-Hitchin-Manin)構成,マニン=マンフォード予想.   [代序, コ] トップ

マヌーリ(Gerrit Mannoury, 1867.5.17--1956.1.30).
 オランダ,Wormorveerに生まれ,アムステルダムに死す.
 数学者で哲学者.  アムステルダムの高校卒業後(1885),会計と力学の教師資格を得,アムステルダムで小学校教師をする.数学については独学,教師をしていたため大学の講義を受けられず,コルトヴェーグから私的に数学を学ぶ.,  アムステルダム大学私講師(1902),教授(1917-37).学生のブラウエルに,哲学的に影響を与える.ブラウエルの「形式主義」や「直観主義」という言葉が最初に現れたのは,マヌーリの『初等数学に関する方法論的かつ哲学的所見(Methodologisches und Philosophisches zur Elementar-Mathematik)』(1909)に対するブラウエルのレヴューの中.
 ウィーン・サークルのオランダ版の中心人物.数学の学位を受けたのは1946年のことで,ブラウエルの推薦による.著書多数.   [伝8] トップ

マネー=クーツ(G.B.Money=Coutts)
   アマチュア数学者.C.J.A.エヴリンと,正確に図を描くことで7円定理を発見.証明はティレルパウエルが楕円関数を使って行った().
 「7円定理と新しい定理群(The Seven Circles Theorem and Other New Theorems)」(1974, C.J.A.Evelyn, ティレルと共著)
 マネー=クーツの定理. [フ29,文] トップ

マリオット(Edme Marriot, 1620頃-1684.5.12.)
 フランス,ディジョンに生まれ,パリに死す.
 1676年気体を研究しボイルの法則を再発見.フランスではマリオットの法則と呼ぶ.盲点の発見や水力学の研究も.   [パ1, 年表] トップ

マリツェフ(Anatolii Ivanovich Mal'tsev, 1909.11.27-1967.7.7).
 ロシア,ミシェロンスキー(現在モスクワ州シャツゥル地区)に生まれ,ソ連,ノヴォシビルスクに死す.
 モスクワ大学卒(1931),物理・数学博士(1941).1930年からモスクワの中学校で教え始め,1932年にはイヴァノフ教育大学の助手になる.毎週モスクワに鉄道で,師のコルモゴロフのもとに通う.最初の出版物は数理論理学のモデル理論で,そのアイデアは後にA.ロビンソンの超準解析で復活する.博士論文の準備の間もモスクワに通い,コルモゴロフから代数の問題を示される.1937年に環の体への埋め込み可能性についての論文を書く.元は,ファン・デル・ヴェルデンの「体に埋めこむことのできない,零因子を持たない環があるか」という問題だった.さらに,半群が群に埋めこまれるための条件を決定.1937年に「有限ランクのねじれのないアーベル群」で学位.さらに1939-41年に,スチェクロフ研究所で博士論文のための研究.1941年博士論文「同型な表示を持つ無限代数と無限群の構造」.
 1944年にイヴァノフ教育大学の教授になる.線形群の研究,特に可解群の研究.のち,リー群や位相代数で論理学と関連あるものの研究.1944年にはリー群の半単純部分群について,1957年には「自由位相代数」を書く.代数とアルゴリズムの理論の統合.
 1960年にノヴォシビルスク数学研究所教授になり,ノヴォシビルスク国立大学の代数とアルゴリズムの学科長になる.シベリア数学会を作った.また世界的に有名な雑誌 Algebra and Logicを作り,編集者になった.  1948年には,教科書『線形代数学入門』を書くが,1962年には英語に,また前年には日本語(『線形代数学1,2』(柴岡泰光訳,数学選書,東京図書,1960,61)に訳され,世界中に大きな影響を与えた.
 1967年,ノヴォシビルスク・トポロジー・コンファレンスの最中に,突然死去する.死の直前にコンファレンスで行った講義は,1955年にリー環の拡張として定義したマリツェフ代数に関するもので,それ以来の研究の進展を述べたものだった.  [代 コ] トップ

マリュ(Etienne Louis Malus, 1775.6.23--1812.2.23.).
 フランス,パリの生まれ.エコール・ポリテクニク卒(1790). G.モンジュの弟子.工兵隊に勤務,母校で教職(1808). 微分幾何,光学(偏光現象の発見) [伝3] トップ

マルコフ(Andrei Andreevich Markov, 1856.6.14-1922.7.20).
 ロシア、リャザニに生まれ、ペトログラードに死す。チェビシェフの弟子。ペテルブルグ大学卒業(1878)、教授(1886-1905)退職後功労教授に。ペテルブルグ科学アカデミー会員(1890)。
 大数の法則、中心極限定理などを従属試行にも拡張。マルコフ過程,マルコフ性,マルコフ連鎖,マルコフ決定過程,マルコフ埋め込み,マルコフ推移関数,隠れマルコフ,モデル,ガウス--マルコフの定理,マルコフ・アルゴリズム,マルコフ・ブランケット,マルコフ情報源,マルコフ行列,マルコフ準同型,マルコフ数,マルコフ分割,マルコフ型ずらし,マルコフの不等式,マルコフ型の確率微分方程式. [解II.6], [パ:ノート, 年表], [代コ], [天13,32], [伝4,10], [辞], [率22] トップ

マルコフ(息子)(Andrei Andreevich Markov, 1903.9.22-1979.10.11).
 同姓同名の確率論で有名なの息子.ロシア,サンクト・ペテルブルグの生まれ.レニングラード大学卒業(1924)後,教授(1936).トポロジー,数理論理学,アルゴリズム論.  [ト附, 文], [代コ] トップ

マルサス(Thomas Robert Malthus, 1766.2.17--1834.12.13).
 イギリス,ドーキング(ロンドンの南)に生まれ,サマセット州,バースに死す. イギリス経済学における〈古典派〉の代表的経済学者、人口学者。ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジで数学を学ぶ.
  『人口論(An Essay on the Principle of Population as it affects the Future Improvement of Society)』(1798, 第2版は1803年)は有名で,大きな影響を与えた.他に『経済学原理(Principles of Political Economy)』(1820). 過剰貯蓄の概念を提唱.   [モ微] トップ

マルシャン(Emile Marchand).  チューリヒ工科大学で,A.フルヴィッツの下で,実変数の代数方程式に関して学位取得(1913).チューリヒ工科大学教授.(1927年に積分論に関する業績あり)   [解III.9] トップ

マルファッティ(Gian Francesco Malfatti, 1731.9.26-1807.10.9).  イタリア,トレント,アラに生まれ,フェラーラに死す.
 ボローニャのサン・フランチェスコ・サヴェリオのカレッジで,ヴィンチェント・リッカティ(ヤコポの息子)に学ぶ.1754年にフェラーラに行き,数学と物理を教える.フェラーラ大学は,1388年から1398年の間フェラーラを治めたアルベルト5世によって建てられたが,1391年に法王ボニファス9世が獲得したので,その年が創設年とされている.コペルニクスも1503年にここで学んだが,現在の建物は16世紀末のもので,その建物の中にフェラーラ大学が1771年に再建され,その時にマルファッティは数学講座の担当として迎えられた.図書館の管理もしたらしい.
 5次方程式やベルヌーイのレムニスケートに関する仕事,三角形の2辺に接し互いに接する3円に関するマルファッティの問題に最初の解を与えた.論文un problema stereotomica(1803)で公表.
 彼よりも前に安島直円も同様な問題を考えていたことが知られ,今では安島・マルファッティの問題ということがある.安島・マルファッティ点,マルファッティ三角形.  [フ29], [幾5] トップ

マロウズ(Colin L. Mallows)
 ロンドン大学から,Florence Nightingale DavidとNorman Lloyd Johnsonの指導で,Some Problems Connected with Distribution Functionsによって,Ph.D.取得(1953).  元コロンビア大学教授.統計学.数学史.LARRY SHEPPとの共著論文が何篇かある.   [幾8] トップ

マン(Henry Berthold Mann, 1905.10.27-2000.2.1.)
 オーストリア,ウィーンに生まれ,アメリカ,アリゾナ州,ツーストンに死す.
 1932年,ウィーン大学から代数的整数論に関して学位取得(指導者はフィリップ・フルトヴェングラー).その後ウィーンで教職にあったが,1938年アメリカに移住.
 最初ニューヨークで数学の家庭教師をして生計を立てる.その後数理統計学に関心を持ち,実験計画法に関する著書を書く(1949).戦争中は軍関係などで教え,戦後1946年にオハイオ州立大学に戻り,助教授(1946-1948),正教授(1948-1964).オハイオ州立大学退職後も,ウィスコンシン大学数学研究センター(1964-1971),アリゾナ大学(1971-1975)でも教授.オハイオ州立大学数学科名誉教授.代数学,整数論,数理統計学. [珠序, 訳序, 2.3, 8] トップ

マンカーズ(James Raymond Munkres, 1930.8.18-)   ネブラスカ・ウェズレーヤン大学NWU卒.ミシガン大学からモイーズの指導で「三角形分割定理のいくつかの応用(Some Applications of Triangulation Theorems)」によりPh.D.取得(1956). 
 ミシガン大学,プリンストン大学ののちMIT.現在MIT名誉教授.
 トポロジー.マンカーズ割り当てアルゴリズム=クーン-マンカーズ・アルゴリズム(1957).
教科書多し. 『初等線形代数(Elementary Linear Algebra)』(1964). 『初等微分トポロジー(Elementary Differential Topology)』(1966), 『トポロジー初歩(Topology: A First Cource)』(1974), 『代数トポロジー初歩(Elements of Algebraic Topology)』(1984), 『多様体上の解析(Analysis on Manifolds)』(1990, 1997), 『トポロジー(Topology)』(1999,2000),  [ト文] トップ

マンツナー(Tamara Macushla Munzner) 
 スタンフォード大学コンピュータ・サイエンス修士(1986-1991),Ph.D(1995-2000).
 幾何センター,新人(1991-92),上級技術スタッフ(1992-95).シリコン・グラフィックスのパートタイムコンサルタント(1996-98),コンパック・システム・リサーチ・センター研究員(2000-2002).  ブリティッシュ・コロンビア大学理学部コンピュータ・サイエンス助教授(2002.7-2007.8),准教授(2007.8-).
 ヴィデオ『アウトサイド・イン(Outside In)』(1994,S.レヴィ,Delle Maxwellと共同監督とアニメーション製作).サーストンのアイデアを実現したもの.
  [名18], [フ12,文] トップ

マンテル(W. Mantel) グラフ理論.  [天16] トップ

マンデルブロ,ブノア(Beno\^{\i}t B. Mandelbroit, 1924.11.20-2010.10.14)
 ポーランド,ワルシャワの生まれ.アダマールの弟子.ニューヨークで働く.幾何と応用数学.フラクタル幾何で有名.
 主著に『フラクタル幾何学』(広中平祐監訳)日経サイエンス(1985). [黄2], [伝7]  トップ

マンフォード(David Bryant Mumford, 1937.6.11-)
 イギリス,ウェスト・サセックス,ワースの生まれ.父親のウィリアムはタンザニアで実験的な学校を始め,国連のための仕事をした.
 ハーヴァード大学で学び,1961年にザリスキの指導で「任意種数の曲線に対するモデュライ・スキームの存在(Existence of the Moduli Scheme for Curves of Any Genus)」によりPh.D.取得.ザリスキの下で,広中平祐マイケル・アルティンなど同門.
 ハーヴァード大学教授(1967-),ブラウン大学教授(1996-).フィールズ賞受賞(1974).
 幾何的不変式論,リーマン面のモジュライ空間上のコホモロジー類の森田・マンフォード類,マンフォード・テイト群,安定曲線による曲線のモジュライ空間のコンパクト化(トロイダルコンパクト化),トーリック幾何学,カステルヌオヴォ・マンフォード正則数,ドリーニュ・-マンフォード・スタック,ヒルベルト・マンフォード判定法,ホロックス・マンフォード曲面,マニン・マンフォード予想,マンフォードの一意化など.
 著書も多く, Lectures on Curves on Algebraic Surfaces (1964,George Bergmanと共著), Geometric Invariant Theory(1965), The red book of varieties and schemes(1967,1974), Abelian Varieties(1970, 1974), Algebraic Geometry I: Complex Projective Varieties(1975), Tata Lectures on Theta (Part I 1982, Part II 1983, Part III 1991), Filtering, Segmentation and Depth(1993), ndra's Pearls: The Vision of Felix Klein(2002) など.   [幾1] トップ
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ミケル,オーギュスト(Auguste Miquel, 1816-?). フランス,タルヌ県アルビの生まれ.1838年にナントゥアの数学助教授,コレージュ・ド・カストルの数学教授(1844-1846),バニョール・シュル・セーズとル・ヴィガンのコレージュでも教職.若い時にバカロレアのためにパリに数年いて,その時にリウヴィルとの関わりを持つが,それ以外は南フランスで過ごす.
 リウヴィル誌に数篇,初等幾何に関する論文(1836-38),例えば「幾何学の定理(Théorèmes de Géométrie,1838)」,「円周と球面の交差に関する定理(Théorèmes sur les Intersections des cercles et des sphères,1838)」と著書Mémoire de géométrie(1844-46).
 ミケルの定理,ミケル円,ミケル点,ミケルの5角形定理など.  [幾1,4-5,解] トップ

ミシャチェフ(Nikolai M. Mishachev ). スタンフォード大学とリペツク工科大学教授.
 『h原理入門(Introduction to the h-principle)』(2002,エリアシュベルグと共著).   [フ文] トップ

水野忠精(Mizuno Tadakiyo, 天保3年12月16日(1833.2.5)-明治17年(1884)5月8日). 水野忠邦の長男で,忠邦が失脚したあと家督を継ぐ.遠江浜松藩から出羽山形藩に移封.寺社奉行,若年寄などを歴任したあと,文久2年(1862)3月15日に老中となる.元治元年(1864)6月18日老中首座になる.
 慶應元年(1865)11月19日に,水野が駐日イギリス公使ハリー・パークスに、「...貴国都府とふへ生徒三四十名、人物相選あいえらび、取締之とりしまりの士官相添あいそえ差遣さしつかわし候間そうろうあいだ、右之者共ものどもへ政事せいじ兵制へいせい其他そのほか士官しかん之心得こころうべき学科伝習相頼あいたのみ申度もうしたく存候ぞんじそうろう...」と依頼し、イギリス側から十人ほどなら良いという意向を示されたので、翌慶應2年2月10日に正式に依頼し、イギリス政府の承諾を得た.
 4月ころに幕臣の中から留学生を公募し、選抜試験を神田一ツ橋門外にあった開成所で行い,12名を選抜.辞令は慶應2年8月8日に発令.9月初めに,川路聖謨の嫡孫川路太郎23歳と、儒者中村敬輔35歳が留学生取締として発令され,一行14人は10月25日横浜港を上海に向けて出港した.中に箕作大六がいたことが数学との関わり.
 慶応2年(1866)6月19日老中御役御免. [文1] トップ

水野忠邦(Mizuno Tadakuni, 寛政6年6月23日(1794.7.19)-嘉永4年2月10日(1851.3.12)). 唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれ,文化2年(1805)に唐津藩の世子になり,文化9年(1812)に父・忠光の隠居にともない家督相続して藩主に.老中になるため,25万3,000石の唐津(名目6万石)から実封15万3,000石(名目6万石)の浜松藩への転封を自ら願い出て実現,同年中に寺社奉行になる.
 文政8年(1825)に大坂城代,文政9年(1826)に京都所司代,文政11年(1828)に西の丸老中,天保5年(1834)に本丸老中に,天保8年(1837)に勝手御用掛を兼ね,天保10年(1839)に老中首座となる.
 天保9年(1838)の暮れ,江戸湾防備体制の不備を感じ,目付鳥居耀蔵と代官江川英龍に江戸湾見分を命じたことが,蕃社の獄へ発展.
 天保12年(1841)閏1月に大御所・家斉が薨去し,幕政改革に反対してきた家斉旧側近を罷免して,「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」をスローガンに天保の改革に着手.
 天保14年(1843)9月に上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭い,鳥居が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたため,閏9月13日に老中を罷免される.
 弘化元年(1844)5月,江戸城本丸が火災により焼失.再建費用を集められなかった土井利位の代わりに,6月21日に老中首座に再任されるが,前のように励むこともなく,弘化2年(1845)2月老中を辞職.後任の首座・阿部正弘らにより,9月2日に隠居蟄居のうえ,1万石没収.息子の忠精が藩主に.11月30日に出羽国山形5万石に転封.嘉永4年(1851)2月10日の死去後、5日目にやっと謹慎が解かれる.
 天保期の前半は大飢饉,百姓一揆や都市への下層民流入による打ち壊し,大塩平八郎の乱(天保8年)、阿片戦争やモリソン号事件(天保8年)などの対外的事件も多く,50年も将軍だった家斉が退位はしたが,西の丸に入り大御所となって,彼が死ぬ天保12年(1841)まで,幕政改革は進まなかった.家斉政権の最初は田沼意次を罷免して松平定信を老中首座に任命し,寛政の改革を行わせたが,長期政権ゆえの腐敗が進行していた.12年になって始まった天保の改革は急ぎすぎでもあり過激でもあって,反対派も多く庶民の怨みも買った. [文2] トップ

ミチエルスキ(Jan Mycielski, 1932-).
 アメリカ,ロス・アラモス教授.公理的集合論,グラフ理論.決定性公理(Axiom of determinacy)とZFを仮定すると,実数に関する可算選択公理が成り立ち,すべての実数の集合がルベーグ可測でベール性を満たす(ので,選択公理が成り立たない)ことを示した.  [天32] トップ

箕作奎吾(Mitsukuri Keigo, 嘉永5年1月26日(1852)-明治4年6月14日(1871)).
 江戸津山藩邸で生まれ,江戸,隅田川で死す.箕作阮甫の孫,箕作秋坪の長男.母は阮甫の二女,常. 弟に,大六,佳吉,元八.家督は元八が継ぐ.
 中村正直に入門(後に大六も).3歳弟の大六とともに,6,7歳頃に蕃書調所に入学し、英語を学ぶ.文久4年(1864)八月に蕃書調所は開成所と改称,句読教授になる.
  慶応2年(1866),大六と一緒に,軍事伝修・政治・兵制等諸学術を研究する目的でイギリス留学.「英行日記」を残す.
 大政奉還を知らされ,明治元年(1868)帰国.帰国後、開成学校に奉職、明治2年11月大学南校中助教、3年大助教、同年8月には少博士となった。
 明治4年の春に病を得て退官し、父秋坪が明治になって作った三叉学舎の手伝いをしていたが、6月14日に隅田川で遊泳中に心臓麻痺で溺死した。同世代の箕作一族の中でも学才や声望は抜きんでていたという。  [文1] トップ

箕作阮甫(Mitsukuri Genpo, 寛政11年9月7日(1799.10.5)-文久3年6月17日(1863.8.1)). 名は貞一、虔儒.字は痒西、号は紫川、逢谷.
 津山藩医箕作貞固(三代丈庵)の第三子として西新町(現在の岡山県津山市西新町)に生まれる。 医家としての箕作は、阮甫の曾祖父貞辨(初代丈庵)からで、西新町に住み開業.父貞固の代になり天明2年10月24日(1782.11.28)津山藩主松平家の「御医師並」に召し出されて十人扶持をもって町医者から藩医に取り立てられる.
 阮甫は4歳で父をなくし、12歳で兄豊順をなくし,家督を相続.藩の永田敬蔵(桐陰),小島廣厚(天楽)から儒学を学ぶ一方、文化13年(1816年)には京都に出て、竹中文輔のもとで3年間医術習得にはげむ.
 文政2年(1819)に修業を終えて京都から帰り、本町三丁目で開業、翌年大村とゐ(登井)と結婚.やがて高50石御小姓組御匙代にすすみ、文政6年(1823)には、藩主の供で江戸に行き、宇田川玄真の門に入りに蘭語を学び,以後洋学の研鑚を重ねる。
 広く蘭書の翻訳を行い、天保十年(1839) には幕府天文方の翻訳局(蕃書和解御用)に迎えられる。
 ペリー来航の嘉永六年(1851) にはアメリカ大統領の国書の翻訳を担当したり、ロシア使節プチャーチンとの対露交渉団の主席通訳官として長崎に赴いたりなど、外交上の功績も著しい。安政三年(1856) 九月に蕃書調所が開校すると首席教授となって,幕臣となる.
 日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ,『外科必読』,『産科簡明』,『和蘭文典』,『八紘通誌』,『水蒸船説略』,『西征紀行』など訳述書は99部160冊余り.医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲.
 息子はなく,長女さきは呉黄石に嫁し,四女しん(ちま)の婿,省吾を養子にする.省吾の死後,次女つねの婿,秋坪を養子にする. 菊池大麓の祖父.
 [文1] トップ

箕作秋坪(Mitsukuri Shuhei, 文政8年12月8日(1826.1.15)-明治19年(1886)12.3). 名は矩、通称文蔵.
備中国上砦部村(上房郡北房町)の教諭所都講菊池士郎(文理)の次男として生まれたが,13歳の時に父を喪い,津山藩の儒者稲垣茂松に引き取られ る.
 江戸に出て阮甫に弟子入りし、後に3女つねの婿となり,養子となった。  阮甫は秋坪の教育を緒方洪庵に委託.
 母多美が文久3年7月に作州勝山で病死したのに相前後して,恩師緒方洪庵,養父阮甫,妻「つね」の死去と不幸が続き、省吾の未亡人で「つね」の妹「しん(ちま)」を継室に迎える.
 長男圭吾は早く死んだので,4男元吉が後を継ぐ.次男大六は菊池家を継ぐ.ほかに3男の佳吉がいる.
 阮甫の養子になって一旦は江戸で医師としての仕事をはじめるが,外交問題を処理するため秋坪も幕臣,蕃書調所の教授手伝いとなり、文久元年(1861)には福澤諭吉らと遣欧使節に随行,慶應2年(1866)には樺太の国境確定交渉のためロシアに派遣され、幕末の外交交渉に活躍.
 新政府には仕えず,英学塾「三叉学舎」を開設、東郷平八郎、原敬、平沼麒一郎,大槻文彦らが入門し、福沢諭吉の慶應義塾と並ぶ洋学塾の双璧と云われる.
 明六社に参加、森有礼のあと社長に就任.専修学校(専修大学の前身)の開設に協力.東京師範学校摂理(1874-1877)、教育博物館長(1879.1-1881.7,1885.6-1886.3)などを歴任。
 明治19年すべての職を辞した直後,腸チフスにて死去.
 岸田吟香をヘボンに紹介.  [文1] トップ

箕作麟祥(Mitsukuri Rinsho, 弘化3年7月29日(1846.9.19) -明治30年(1897)11.29).
 江戸に生まれ,東京に死す.
  幼名は貞一郎,麟祥は「あきよし」と読む.父は箕作省吾,祖父は箕作阮甫
 藤森天山・安積艮斎に漢学を、家と蕃書調所で蘭学を,ジョン万次郎について英学を学ぶ.1861年(文久元年)に15歳の若さで蕃書調所の英学教授手伝並出役. 文久4年(1864) には祖父の阮甫が亡くなり,箕作家を継ぐ.亡くなった時,男爵を追贈されるので,彼の系統を箕作男爵家という.12月には開成所(8月に改称)の教授見習いとなる.
 元治元年(1864)には外国奉行支配翻訳御用頭取となり、福澤諭吉,福地源一郎らとともに、英文外交文書の翻訳に従事.蘭,英,仏,独語を解する.
 慶応3年(1867)ナポレオン3世のパリ万国博覧会に、将軍の名代として出席する徳川昭武に翻訳方頭取として随行.その後徳川昭武,渋沢栄一らとともにフランスに留学.その際,ロンドンに行き,従兄弟の菊池大六に会う.
 大政奉還を知って帰国後の明治元年(1868),明治新政府の下で、開成所御用掛から兵庫県御用掛となって新設の神戸洋学校教授に着任.時の兵庫県令・伊藤博文(伊藤俊輔)は、騎馬で出迎え歓迎を表した. 明治2年(1869)には東京に戻り、外国官(現・外務省)翻訳御用掛となるが、外交官を好まず、同年大学南校の大学中博士に転じる.同年,私塾・共学社を開く.
 明治2年(1869)参議・副島種臣からフランス刑法典の翻訳を命じられ、翌明治3年(1870)には制度取調局長官(後の司法卿)江藤新平からフランス民法典(ナポレオン法典)の翻訳を命じられ,長年にわたり法典の翻訳、編纂に携わる.
 明治4年(1871)に文部省が設置されると,文部省、司法省兼勤.学制の起草・制定では起草委員長ともいうべき地位にあった.
 日本で初めて「権利」「義務」という訳語を用い,5年間をかけてフランスの諸法典を全訳した『仏蘭西法律書』(1874)は、日本における法律学の基礎を築く.このことから日本における「法律の元祖」と評されることがある. またフランスのモロー・ド・ジョンネの統計学の本を翻訳した日本初の「統計学」の本を出版(1874).
 明治6年(1873)翻訳局長.ボアソナードが来日し,以降彼の下で法典の編纂に従事. 明治10年(1877)には民法編纂委員.その後も 会社条例,破産法,商法の編纂委員になる.
 民法典論争では実施断行を主張したが,旧民法典(ボアソナード民法典)の施行延期が決まった後は、法典調査会の主査委員に任命され、新民法典の編纂に積極的に関わる.
 明治6年に,森有礼,福澤諭吉,加藤弘之,西周,西村茂樹,津田真道,中村正直,杉亨二らと明六社を創る.東京学士院会員(明治13.2.15).
 和仏法律学校(現・法政大学)の初代校長(1889-死).
 門人に、中江兆民、岸本辰雄、大井憲太郎、宮城浩蔵、周布公平ら.  [文1] トップ

ミッタク・レフラー(Gosta Magnus Mittag-Leffler, 1846.3.16- 1927.7.7).
 スウェーデン、ストックホルムに生まれ、ストックホルムに死す。ウプサラ大学卒業(1872)。ベルリンでワイエルシュトラスの講義を受ける(1875)。ヘルシンキ大学教授(1877-1881)、ストックホルム大学教授(1881-)になって、 ソーニャ・コヴァレフスカヤ(1850.1.15-1891.2.10)を招く。
 有理形関数論、関数の一般論。カントールの集合論を用いた最初の人の一人。数学雑誌「アクタ・マテマティカActa Mathematica」の創刊(1882)、45年間主編集者を勤める。
 名前はノルウェー語ではイェスタという音に近いという.     [解III.1, 9],[代],[伝3,4,5,6,8,9],[辞] トップ

ミトリノヴィッチ(Dragoslav S. Mitrinovi\'{c}).  ユーゴスラヴィア,電気大学教授.  『解析的不等式(Analytic inequalities)』(1970,ヴァシッチと共著), 『平均と不等式(Means and their inequalities)』(1988,P.S.ブレン,ヴァシッチと共著)など.  [天16] トップ

ミューア,(Thomas Muir, 1844.8.25-1934.3.21).
 スコットランド,サウス・ラナークシャイア,ストーンバイアズに生まれ,南アフリカ,ロンデボシュに死す.
 グラスゴー大学で学ぶうち,後にケルヴィン卿となるトムソンの忠告により,古典から数学に転向. 卒業後,セント・アンドリューズ大学tutor(1868),グラスゴー大学助手(1871),1874-1892年にはグラスゴー高校で教える. 1892年に南アフリカに行き,ケープ大学で教える.  
『行列式の理論(Treatise on the theory of determinants)』(1882), 『行列式の歴史(History of determinants)』(1890), 『歴史的発展の順序での行列式論,第I-IV巻(Theory of Determinants in the Historical Order of Development)』(1906, 1020, 1923;Dover版1960), 『行列式の歴史への貢献(Contributions to the history of determinant)』(1930).  [解人], [ワ7] トップ

ミュラー,(Reinhold Heinrich Robert Müller ,1857.5.11-1939.3.4). ドイツ,ドレスデンに生まれ,ダルムシュタットに死す.
 ドレスデンの王立サクソン・ポリテクニクで土木工学を学ぶ(1874).ライプツィヒ大学で数学と物理を学び(1877-),教職資格(1879)を得,ライプツィヒ大学から,F.クラインとWilhelm Scheibnerの指導で,Über eine ein-zweideutige Verwandtschaft(1対他の関係について)により,哲学博士号取得(1883).
 画法幾何学,理論運動学
 ドレスデンのギムナジウム,ブラウンシュヴァイヒのカルロ・ヴィルヘルム工科大学の画法幾何学教授(1884).ウィーン工科大学画法幾何学と運動学教授(1907).ダルムシュタット工科大学(1911-1928),名誉教授.
 画法幾何や運動学などの著書がある. [幾7,解] トップ

ミラー,(George Abram Miller,1863.7.31-1951.2.10).
 アメリカ,ペンシルヴァニア州リンヴィルに生まれ,イリノイ州アーバナに死す.かなり苦学している.1892年にカンバーランド大学からPh.D.取得.翌年ミシガンダイクで講師.
 1895-97年にヨーロッパに渡り,ライプツィヒではリーと,パリではジョルダンの群論の講義を聞き,帰国後コーネル大学助教授(1897-1901).スタンフォード大学教授(1901),イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校教授(1906).
 論文数は800を超す.著書に,Finite Collineation Groups,Determinants (1892); Historical introduction to mathematical literature (1916),またブリッチフェルトL.E.ディクソンとの共著『有限群の理論と応用』(1916)などがある.数学史にもThe founder of group theory, Primary facts in the history of mathematicsやSome thoughts on modern mathematical researchなどの論文がある. [ワ1] トップ

ミール(George Joseph Miel).
 パリに生まれる。
 イリノイ大学卒(1964),イリノイ大学応用数学修士(1966).ワイオミング大学からJohn Hawley Rowlandの指導で「ア・ポステリオリな誤差限界(On a Posteriori Error Bounds)」によりPh.D.(1976)。  アポロ宇宙計画に従事。ラス・ヴェガスのネヴァダ大学助教授(1978-1985), 計算数学教授(1991-2006),数理科学の名誉教授(2006). Aerospace Corp.の上級システム・エンジニア(1985-88),ヒューズ研究所(Hughes Research Laboratories)研究員(1988-91).
 [解I.4], [幾3] トップ

ミルソン(John James Millson, 1946- ).
 カナダ,オンタリオ州,キングストンの生まれ.
 1964年にMITに入学し,1966-67年にはパリに行きL.シュワルツの講義を受け,MITに戻って1968年に卒業.1968年の秋にバークレイの大学院に進み,チャーンとJ.H.シモンズの指導で「低曲率多様体のチャーン=シモンズ類(Chern-Simons Invariants of Constant Curvature Manifolds)」によりPh.D.取得(1973)(4k-1次元球面のチャーン=シモンズ類の計算).
 プリンストン高等研究所に1年行き,イェール大学助教授(1947-1978),トロント大学准教授(1979),UCLA准教授(1980). メリーランド大学教授(1989).
 カポヴィッチとの共著多し(17篇以上). [フ文] トップ

ミルナー(John Willard Milnor, 1931.2.20- .)
 アメリカ,ニュージャージー,オレンジの生まれ.
 プリンストン大学卒(1951).フォックスの弟子.絡み目に関する研究で学位(1954).プリンストン大学教授(1960),現在ニューヨーク大学ストーニー・ブルック校教授.7次元の異種球面の発見などでフィールズ賞(1962).代数幾何で考案されたトッド多項式を用いて7次元の球面上に28もの異なる微分構造の存在を示す.
 微分トポロジー,K理論,代数トポロジー,特異点理論.位相群の分類空間の構成.スティーンロッド代数,ホップ代数,特性類とその数理物理との関係の研究.フェンケルの定理の拡張であるファレイ・ミルナーの定理(1950).
 明快な微分トポロジーの教科書を多く書き,指導的な役割を果たす.
 日本語の本には『モース理論』吉岡書店,『微分トポロジー講義』シュプリンガーフェアラーク東京などがある.  [名序, 5, 21,文], [ト序, 6], [代コ], [フ19], [作付B], [幾2] トップ

三輪桓一郎(Miwa Kan-ichiro, (文久元年3月12日)1861.4.21-1920(大正9)2.1). 武蔵国豊島郡江戸の生まれ.
 外務省でフランス人などからフランス語を履修、東京開成学校の仏語の学生を経て東京大学仏語物理学科に編入。
 1880年7月,東京大学仏語物理学科第3期卒業.
 1881年(明治14年) - 東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の設立者の一人となる。東京大学御用係となり,助教授,同大学理学部数学教室で微分学および積分学を教える。東大数学のスタッフは菊池藤沢のみ.
 1882年までに東京数学会社の社員.1885年4名の特別委員の1人に.
 1885年(明治18年) - 東京物理学校維持同盟員.
 1894年(明治27年) - 東京物理学校の幹事.
 1900年,学習院教授だった三輪が京大教授に.
 1904年(明治37) 第3回ICM(ハイデルベルク)に出席.
 1914年(大正3年)8月 , 東京物理学校主事.
 『中等物理教科書』金港堂書籍、1896年(明治29年)3月 文部省検定済『幾何学教科書』(平面・立体),金港堂書籍(1903.2.28), 岸高丈夫著、三輪桓一郎校閲、『物理實驗教科書』金港堂書籍(1908.5), 『新撰幾何学教科書』金港堂書籍(1914).  [文3] トップ

ミンコフスキー(Hermann Minkowski, 1864.6.22-1909.1.12.)
 ロシア帝国,アレオクタス(現在リトアニア,カウナス)に生まれ,ドイツ,ゲッティンゲンに死す.
 1872年家族とともにドイツ,ケーニヒスベルクに移住.ケーニヒスベルク大学に入学後,ベルリン大学でも学び,1885年ケーニヒスベルク大学で学位を受ける.ボン大学(1885-1894),ケーニヒスベルク大学(1894-1896),チューリヒ連邦工科大学(1896-1902,このときの弟子にアインシュタインがいる),ゲッティンゲン大学(1902-死)で教鞭.
 整数論,とくに整係数の2次形式論.これの発展としての「数の幾何学」Geometrie der Zahlen(1896),「ディオファントス近似」Diophantische Approximationen (1907).この発展として,一般次元の空間の幾何的性質を考察し(凸体の理論),やがてH.A.ローレンツやアインシュタインの理論を非ユークリッド空間の中で時空を一体として考えることが自然であることに気づき,4次元の時空連続体の概念を得る(『空間と時間』Raum und Zeit (1907) ). 電気力学の4次元的に取り扱う(『運動する物体の電磁過程論の基礎』Zwei Abhandlungen \"uber die Grundgleichungen der Elektrodynamik (1909)).
 ミンコフスキー空間,ミンコフスキー計量.   [代7, 15], [天13], [ワ7], [伝5,6,9], [フ19], [辞], [ワ著1] トップ
ミンディング(Ernst Ferdinand Adolf Minding 1806.1.11(旧暦1805.12.30)--1885.5.13(旧暦5.1)Фердинанд Готлибович Миндинг).
 プロシャ王国,カリシュ(現在ポーランド領)に生まれ,ロシア帝国リヴォニア行政区ドルパト(現在エストニア,タルトゥー)に死す.
 ドルパト大学教授(1843),学部長.微分幾何.
 ほとんど独学で,学校の教師をしているときに,ハレ大学で聴講しながら,De valore intergralium duplicium quam proxime inveniendo(2重積分のできるだけ近い値を求めるために)によって博士号取得(1829). 1864年にロシア市民権を得,同じ年にサンクトペテルスブルク・アカデミー会員に選出. 曲面の幾何にガウスの方法を使った最初の数学者の一人.
 線織面,可展面,回転面,測地曲率の不変性,擬球面の測地線,曲面の折り曲げ.定曲率曲面の測地三角形.非ユークリッド幾何学のE.ベルトラミの立場を推進.ガウス--ボネの定理,ガウス・コダッチの方程式,代数関数,連分数,解析力学など. [幾7] トップ

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E.H.ムーア(Eliakim Hastings Moore, 1862.1.26-1932.12.30).
 アメリカ,オハイオ,マリエッタに生まれ,イリノイ,シカゴに死す.
 父のデイヴィド・ヘイスティングスはメソジスト派の聖職者で,息子に高い教育を施す.ウッドワード高校(1876-1879)で,イェール大学入学準備中のある夏休みに,シンシナチ天文台の助手として働き,その台長の影響で,大学では天文学と数学を学ぶようになる.
 イェール大学(1879-1883),博士号をH.A.ニュートンの指導下で1885年に取得後,ドイツに留学,ゲッティンゲン(主にドイツ語)とベルリンではクロネッカーワイエルシュトラスの講義に出る(1885-86).そこで学んだ数学教育のシステムをアメリカに持ち込むことで,アメリカの数学の発展に大きな寄与をする.アメリカ国内で数学者を生産できるようになった.
 ノースウェスタン大学講師(1886-87),イェール大学チュ-ター(1887-89),ノースウェスタン大学助教授(1889-92)の後,シカゴ大学創立時(1892)に学長の.W.Rハーパーに抜擢され,数学教室の主任代理になる.実は助教授時代にハーパーに,ニューヨークのショトーカの職に招かれたが,そこでは低レベルの教育しかできないことと,自身が研究に集中したということでムーアはこの申し出を断っている.
 シカゴ大学の創立に際し,たまたまアメリカにいたF.クラインの2人の弟子ボルツァマシケを採用し,3人で新しい数学研究と数学者養成のシステムを作り上げた. 30人の博士を出したが,有名な人にL.E.ディクソン,ジョージ・バーコフ,O.ヴェブレン,A.ペル・ホィーラーなどがいる.ヴェブレンの弟子だったR.L.ムーアにも強い影響を与え,彼はテキサス大学で多くの研究者を育てた.
 彼自身の研究は3つの時期に分かれる.1892から1900までは代数と群論.有限体がガロア体であることを証明(1893).有限単純群の無限系列の研究.
 1900年頃は幾何学の基礎の問題に関心.D.ヒルベルトの公理の独立性を吟味し,1902年の「幾何学の射影的公理についてOn the projective axioms of geometry」で,その冗長性を示す.ヒルベルトの点,直線,平面という無定義述語を使う流儀ではなく,未定義な量としてだけの意味で点を使って展開.
 1906年からは解析の基礎に関心が移り,異常積分の理論を研究し,ボレルルベーグの積分論の前駆となる.半順序集合の収束の概念(ムーア・スミスの収束)  他にも代数幾何,数論,積分方程式など.
 1893年にアメリカで最初のICMの組織者となり,その紀要の出版のための費用を求め,ニューヨーク数学会に接近,会はその受諾とともに,アメリカ数学会に発展的解消.副会長(1898-1890),会長(1901-1902).アメリカ数学会のTransaction誌の編集委員(1899-1907).    [伝7,8,9] トップ

R.L.ムーア(Robert Lee Moore, 1882.11.14-1974.10.4).
 アメリカ,テキサス州ダラスに生まれ,テキサス州オースティンに死す.
テキサス大学でハルステッドディクソンに学ぶ.O.ヴェブレンの指導で,論文「幾何に対する計量仮説の集合 (Sets of Metrical Hypotheses for Geometry)」によりプリンストン大学でPh.D(1905).
テネシー大学(1905-),プリンストン大学(1906-),ノースウェスタン大学(1908-),ペンシルヴァニア大学教授(1911-),テキサス大学助教授(1920-),正教授(1923-51).
『点集合論の基礎』(1932).ムーア平面,ムーアの道路空間.ムーア空間,ムーア空間予想.
点集合論的ポロジーでよりも教育法で有名で,多くの研究者を育てた. アンダーソンビングルーディンワイバーンR.L.ワイルダーなど.テキサス大学の物理,数学,天文学教室の建物はムーア・ホールという.
   [伝8] トップ

ムクォパジャーヤ,シアマダス(Syamadas Mukhopadhyaya, 1866.7.22-1937.5.8).
 インド,西ベンガル,フーリー区,ハリパルに生まれ,カルカッタに死す.
 フーリー大学卒,カルカッタのプレジデンシー・カレッジ修士,カルカッタ大学Ph.D.(1910).バンガシ・カレッジの後カルカッタのベツネ・カレッジ(女子大,現在カルカッタ大学に統合)で教鞭,数学,英文学,哲学を教える.1932年カルカッタ数学会会長になり,在職中に心臓病死.
 平面幾何のムクォパジャーヤの定理(1909):4頂点定理(「平面の凸な単純閉曲線は少なくとも4つの局所最大点を持つ」を曲率関数に応用したもの)とその類似な「アフィン平面の凸な単純閉曲線は少なくとも6つのアフィンな頂点を持つ」 [フ10] トップ

ムーニエ,ジャン=バプティスト・ド・ラ・プラス(Jean Baptiste Marie Charles Meusnier de la Place, 1754.6.19--1793.6.13). フランス,アンドル=エ=ロワール県,トゥールに生まれ,マインツ・カステルに死す.
 フランスの幾何学者,工学者,将軍(フランス革命戦争で,マインツ包囲戦で負傷し,そのために死す).
 王立工学校(École Royale du Génie)に勤めていた時,曲面の曲率と曲率半径に関するムーニエの定理.螺旋面(helicoid)の研究.
 ラヴォアジェともに水の分解と水素の製造の研究. 1784年に、飛行船の計画を科学アカデミーに提案,アンリ・ジファールの着想に影響. [幾7] トップ

村井中漸(Murai Chuuzen, 宝永5年(1708)-寛政9年2月24日(1797)). 肥後の生まれ.邨井漸ともいう.名は漸,字は中州、中漸,号は平柯,邱壑,痴道人.京都の儒医.原田秀箇を名乗る.書画も巧み.
 中根彦循の弟子,中根派の算学家.有馬頼徸に知遇.
 「開商点兵算法」(明和7年,1770;藤原松三郎は明和2年としている),「算学系統」 (明和8年,1771),「算法童子問」(天明4年,1784;1781年序),[道徳経] : 晋右軍王羲之書(寳暦7, 1757), など
 弟子に伊佐慎吾(寛延元年(1748)~文政2年(1819))など.  [ふ3] トップ
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メイナルダス(G\"unter Meinardus, 1926-2007.6.11).
 整数論。有限次代数体の整数のそこの整数への分割問題。近似理論,スプラインの理論,非線形問題.
 ゲッティンゲン大学からC.L.ジーゲルの指導で「実2次数体の分割問題について(\"Uber das Partitionenproblem eines reellquadratischen Zahlk\"orpers)」により自然科学博士(1953). ハンブルク大学から教授資格(1959).クラウスタール工科大学,エアランゲン・ニュルンベルク大学,ジーゲン大学,マンハイム大学.
 『関数の近似:理論と数値的方法(Approximation of Functions: Theory and Numerical Methods)』(1967). [解III.9, 文] トップ

メシュコフスキー(Herbert Meshchkowski, 1909-.).
 元ベルリン自由大学教授.ヒルベルト空間論,集合論,数理論理学,数学思想,数学史. [天7] トップ

メチウス、アドリアヌス(Adrianus Metius, 1571.12.3-1635).
 オランダ、アルクマールに生まれ、フリジア、フラネカー(現在オランダ領)に死す。オランダの地図制作者・軍事技術者でアルクマール市長を務めたこともあるアドリアン・アントーニッツ(Adriaen Anthonisz=Adriaan Metsue, 1543-1620.11.20)の第2子として生まれる。結婚は2度したが、子供はない。
 1589年フラネカー大学に入学、1594年からライデン大学で学ぶ。ルドルフ・スネリウス(スネリウスの父)とファン・ケーレンに数学を学ぶ。ティコ・ブラーエの元で働いたこともある。1595年オランダに帰り、軍事技術に関し父の助手。1598年以降その死まで、フラネカー大学教授。国際的な知名度があり、1629年にはデカルトが聴講していたという記録もある。
 π の近似値として、 3+15/106 <π< 3+ 17/120 という評価の小数部分の分母・分子それぞれの平均をとって 3+16/113=355/113 という値を得た(5世紀中国の祖冲之がこの値を得ている)。この値はアドリアンの数と呼ばれている。父が彼の結果をそのパンフレット(1584)に書いたので、誤ってこれを父の業績としているものもある。 [解I.4, 6],[フ1],[幾8] トップ

メナイクモス(Menaechmus, Μέναιχμος, 紀元前380-320). チェルソネソス・スラキカ(現在トルコ領ガリポリ半島),アロペコネソスの生まれ.
 プラトンの友人であり,円錐曲線の発見と倍積問題の放物線と双曲線を使う解法で有名.
 円錐曲線の仕事はエラトステネスのエピグラムの中で知られているだけで,この仕事を補完した弟のディノストラトスもプロクロスの書いたもので知られているだけ.プロクロスはエウドクソスの弟子であるとも書いている. プルタルコスには,プラトンが機械的な道具を使ったメナイクモスの倍積問題の解法は気に入らないと言ったと書かれている.
 彼はまたアレクサンダー大王の家庭教師だったと言われているが,それは次の逸話による.あるとき,幾何学を理解する近道はないかと尋ねられ,「おお,王よ.国々を旅するとき,王のための道と市民のための道もありますが,幾何学においてはすべての者にとってのただ1つの道しかありません」と答えた.これがストバエオスのこととされる話もあり,メナイクモスがアレクサンダーの教師であったかどうかも定かなことではない. [幾3] トップ

メネラウス,アレクサンドリアの(Menelaus of Alexandria, 70年頃-130頃). 多分アレクサンドリアに生まれ,恐らくはローマに死す.(根拠:パッポスプロクロスが彼のことをアレクサンドリアのメネラウスと呼んでいる.)プルタークが,彼と妻のルキウスとのローマで行われた会話を記録していて,多くはローマで暮らしたものと考えられている.  天文学者で数学者.
 プトレマイオスがアルマゲストの中で,メネラウスが98年1月14日に行った天体観測に言及している.その観測にはスピカとさそり座のβ星の月による蝕(数日離れている)が含まれていて,分点の歳差の確認のために引用している.
 10世紀のアラブの記録に,メネラウスの著書のアラブ語訳が数点記載されている.『幾何の初歩』とか『三角形の書』といったものもあり,立方体の倍積問題のアルキタス(BC428頃-350頃)の解法も含まれている.力学に関する著書もあったと考えられている.
 平面上のメネラウスの定理は彼以前に知られていたが,その球面上の対応物が,球面三角法に関する著述Sphaericaの第3巻にあり,そのことから,平面上のものも球面上のものもメネラウスの定理と呼ばれるようになった.
 著書のうちSphaericaはアラビア語に訳されたものが現存しており,16世紀にFrancesco Maurolico(1494-1575)によって翻訳されている. [解I.4, 6],[フ1], [三], [幾4-5] トップ

メビウス(August Ferdinand Mobius, 1790.11.17-1868.9.26)
 サクソニのシュールフォルテ(現在ドイツ領)に生まれ,ドイツ,ライプツィッヒに死す.母はマルティン・ルターの子孫.
 ある時期ガウスの指導で天文学を勉強し,1816年からプライセンブルグ天文台で自発的に観測を指導し,1818年に台長になる.ライプツィッヒ大学教授.トポロジー,高次元幾何,整数論.メビウスの帯,メビウス関数.重心座標の導入.  [パ附1, 年表], [名序, 11-18, 22-23], [ワ2],[伝2,3,6],[文3],[フ8,10,11,14,19,25],[辞], [作付B],[幾6,7,9,11] トップ

メルカトル,ゲラルドゥス(Gerardus Mercator, 1512.3.5-1594.12.2).
 本名はゲラルト・デ・クレメル(Gerard De Kremer).メルカトルはラテン語で商人を意味する.
 神聖ローマ帝国,ハプスブルク・フランドル伯爵領、ルペルモンテ(現在ベルギー領)に生まれ、神聖ローマ帝国,ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国、デュイスブルク(現在ドイツ領)に死す。
 ルーヴェン大学(現ルーヴェン・カトリック大学)でヘンマ・フリシウスから幾何学、天文学、地理学を学ぶ。卒業するとすぐに地球儀、日時計、アストロラーベなど科学機器製作、地図や海図の彫版にも手を染める。地図製作者としての名声は高かったが,主な収入は種々の数学機械の作成から得られたものだった.
 1538年に出した初めての世界地図で,南北アメリカの区別,アジアとアメリカを別大陸として描く.1569年の世界地図が彼の名前を確立した. 世界地図帳を作るというアイデアを持ち,作成に努力したが,完成を待たずに死ぬが,息子のル・モンドによって翌1595年に実現し,彼の遺志により表題がアトラスと付けられた.以降,地図帳をアトラスというようになった.
 地図製作者であることから.1544年に異端を疑われ投獄された.数ヶ月後,友人のお陰で釈放されたが,同時に捕らえられた人は処刑されたという. 1552年ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の招きでデュイスブルクに移住し生涯を送る.
 メルカトル図法は特に航海者に受け入れられた. [フ19] トップ

メルカトール(Nicolaus Mercator=Kaufmann, 1619(20?)-1687).
 デンマーク、ホルシュタイン、エィチン(現在ドイツ領)に生まれ、フランス、ヴェルサイユに死す。
 ロストク大学(1632-1641)で学位取得後、ライデンに少し居た後、ロストク大学教授(1642-1648)、コペンハーゲン大学教授(1648-1654)。この頃数学の本を多数出版。ペストで大学が閉鎖されたため大学を止める。
その後パリに移り(1655-57),さらに1657年にイギリスのサセックスで第10代ノーサンバランド伯アルジャーノン・パーシーの息子ジョスリン・パーシーの数学の家庭教師となり,その後ロンドンで数学の個人教授(1658-82).
 航海用振り子時計の製作で(チャールズII世の航海用クロノメーターのデザインをする)、王立協会会員(1666)。『対数術(Logarithmo-technica)』(1668.9)の中で「自然対数」という言葉を使う.気圧の測定。1682年ヴェルサイユ宮殿の噴水の設計のためフランスに移住。
 サン・ヴァンサンのグレゴリーとは独立にメルカトールの級数を発見(1668).
地図製作で有名な人とは別人。[解I.3-4, II.6, III.5, 文] トップ

メルセンヌ,マラン(Marin Mersenne, 1588.9.8-1648.9.1).
 フランス、メーヌ州オワゼに生まれ,パリに死す.
 ル・マン校で文法を専攻,16歳の頃ラ・フレッシュにある王立学院に入学.ここはイエズス会士の教育機関で,ルネ・デカルトも2年後輩として入学.その後パリ大学で神学を学び、1614年から1618年の間はヌヴェールで哲学と神学を教えた。
 聖職者・科学思想家・科学の組織者。デカルトの弟子、ミニミット(ミニム)派の修道士。
 メルセンヌ・アカデミーを作り、数学・自然科学の交流・連絡役。修道院の客間で話し合いの場を持つだけでなく,文通によるものが大きい.ガリレイの思想をフランスに紹介。修道院で直接の交流をした人にはエティエンヌおよびブレーズ・パスカル父子,ジラール・デザルグジル・ド・ロベルヴァルなど.それ以外の場所や文通などでの人々には,ガリレイ以外に,フェルマルネ・デカルトホイヘンストリチェリなど.
 メルセンヌ数,メルセンヌ素数。12平均律の確立.[解II.1, 7, IV.4, 文], [名1], [珠説1.7.4, 2.2.6], [幾4,7] トップ

メルテンス(Franz Carl Josef Mertens, 1840.3.20-1927.3.5).
 プロシャ、ポーセン、シュローダ(現在ポーランド領)に生まれ、オーストリア、ウィーンに死す。
 ベルリン大学からクロネッカークンマーに指導でDe functione potentiali duarum ellipsoidium homogenearumによりPh.D.取得(1865).
 クラカウ大学、グラーツ大学、ウィーン大学(1894-1911),退職後も名誉教授として講義を続ける。
 解析的整数論、代数学、ディリクレの定理の初等的証明。素数分布に関するメルテンスの仮説(1897),メルテンスの定理.メルテンス関数,マイセル・メルテンス定数。
 弟子にフィッシャー,Eduard Helly,Tonio Rellaなど. [解III.2] トップ

メレー(Hughes Charles Robert M\’eray, 1835.11.12-1911.2.2).
 フランス、ソーヌ=エ=ロワール県シャロン・シュル・ソーヌに生まれ、ディジョンに死す。
 エコールノルマル卒業後、サン・クエンティンのリセで教え(1857-1859)、後7年間生地に隠遁。リヨン大学(1866)、ディジョン大学教授(1867-)。無理数の算術的理論を始めて出版する(1869)。ワイエルシュトラスにもデデキントにも影響されず、ラグランジュの考察を厳密化する形でなされた。[解III.0-1, 文] トップ

メンガー(Karl Menger, 1902.1.13--1985.10.5).
 オーストリア,ウィーンに生まれ,アメリカ,イリノイ州ハイランドパークに死す.
 ウィーンのドブリンガー・ギムナジウムで学ぶ(1913-1920).同級生にパウリがいる.
 1920年にウィーン大学の物理に入ったが,講師になってきたハーンの講義を聞き転向.1924年にウィーン大学からハーンの指導で「点集合の次元について(\"Uber die Dimensionalit\"at von Punktmengen)」により哲学博士号取得.ウリゾーンとは独立に位相空間の次元の定義をしたもの.肺病を病んで1年以上サナトリウムに.
 1925年L.E.J.ブラウエルに招かれアムステルダム大学へ. 1927年にハーンに招かれウィーン大学の幾何学教授に(ケーニヒスベルク大学に移ったライデマイスターの後任).ハーヴァード大学とライス大学の客員教授(1930-31).1937年にオーストリアの政治状況のためにウィーン大学を辞任し,アメリカのノートルダム大学教授(1937-46).シカゴのイリノイ工科大学教授(1946-71).
 その後興味が広がり,双曲幾何,確率幾何,関数環など.メンガーのスポンジ,ケイリー・メンガー行列式.サンクトペテルブルクのパラドックスの部分的解決は経済学の効用理論に応用.モルゲンシュテルンとともにゲーム理論の発展に寄与.   [伝8,10], [辞], [幾10] トップ

メンゴーリ、ピエトロ(Pietro Mengoli, 1626-1686).
 イタリア、ボローニャに生まれ、ボローニャに死す。
 ボローニャ大学でカヴァリエーリに数学を学び、1650年には哲学の学位を、1653年には法律の学位を得る。 カヴァリエーリの死後、ボローニャ大学教授、算術(1648-1649)、力学(1649-1668)、数学(1668-1686)の教授。更に、1660年以降、ボロ-ニャの教区司祭。
 調和級数が収束せず、符号を交互に変えれば log 2 に収束し、三角数の逆数の和が収束することなどを示すが、これらはそれぞれ後の人の業績として知られている。 また、無限級数に関する本(1650)、無限に関する本(1659)、π/2 の無限積展開を含む円についての本(1672)を出版。 また、天文学、大気の屈折、音楽理論(1670)についても本を出版。  トップ

メンデルソン(Elliott Mendelson, 1931-).
 コーネル大学から,John Barkley Rosser(アロンゾ・チャーチの弟子)の指導でThe Independence of the Axiom of Choice(選択公理の独立性)により,Ph.D.取得(1955).
 ニューヨ-ク市立大学クイーンズ校とニューヨーク市立大学大学院センター数学教授.30年以上教える.
 論理学,数学哲学,解析学,ゲーム理論,数学解析に関する著書がある.著書 Introduction to Mathematical Logic(2009)には定評.    [基文] トップ
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モーア(Ernst Max Mohr,1910.4.20-1989.5.16). ドイツ,ヴュッテンブルク,エーベルスバッハ・アン・デル・フィリスに生まれ,ベルリンに死す.
 チュービンゲン大学,ミュンヘン大学に学ぶ.カラテオドリペロン,ティーツェの講義を聞く.
 ゲッティンゲン大学からワイルの指導で,『複素群の表現とそのもとで既約な指標について』 (Die Darstellungen der Komplexgruppe und die Charakteristiken der irreduziblen unter diesen), により自然哲学博士号取得(1993).
 1933年夏,ゲッティンゲンでF.K.シュミットの助手に.ワイルが1934年にゲッティンゲンを去ってから,ハッセの助手になりたがったが事情が許さず.1934年11月1日付けでブレスラウ工科大学のフェローに.1942年プラハのドイツ・チャールズ大学の特別教授.1944年5月12日にプラハのベラネク・ホテルでゲシュタポに逮捕される.10月24日に人民法廷で公判.Haftanstalt Meseritz強制収容所に送られ,1944年12月18日にはPl\"otzenseeに送られたが,処刑の数日前にソ連軍の侵攻により救出.
 1946年1月1日ベルリン工科大学の純粋及び応用数学講座の教授に.
 スツルムリウヴィル問題.
 弟子にJ\"org Michael Willsなど.   [ワ2] トップ

モイーズ(Edwin Evariste Moise, 1918.12.22--1998.12.18.)
 アメリカ,ルイジアナ州ニューオリンズに生まれ,ニューヨークに死す.
 テキサス大学オースティン校からR.L.ムーアの指導で「分割不能な平面連続体で,その非退化な各部分連続体に同相なもの(An Indecomposable Plane Continuum Which Is Homeomorphic to Each of Its Non-Degenerate Subcontinua)」によりPh.D.取得(1947).
ミシガン大学,ハーヴァード大学(1960-71),クイーンズ・カレッジ(1971-87) .引退後19世紀イギリス詩の研究を始める.ハーヴァード在職中の60年代後半にベトナム戦争反対の立場を表明.
 低次元トポロジー,幾何学,3次元多様体. 擬弧(pseudo-arc)(1948)
著書多し.『進んだ立場から見た初等幾何(Elementary Geometry from an Advanced Standpoint)』(1963), 『数体系入門(The Number Systems of Elementary Mathematics; Counting, Measurement, and Coordinates) 』(1966,日本語訳あり), 『2次元と3次元の幾何的トポロジー(Geometric Topology in Dimensions 2 and 3)』(1977)など.
 [伝8], [ル2,5] トップ

モウズ(David John Moews)
 ハーヴァード大学卒(1989),カリフォルニア大学バークレイ校からE.R.バーレカンプの指導で「碁に関係したある組み合わせゲームについて(On Some Combinatorial Games Connected with Go)」によりPh.D.取得(1993).
 多面体,鋏合同.   [フ文] トップ

モーガン(John Willard Morgan, 1946.3.21-)
 アメリカ,フィラデルフィアの生まれ.
ライス大学卒(1968),ライス大学からM.L.カーティスの指導で「安定接ホモトピー同値(Stable Tangential Homotopy Equivalences)」によりPh.D.取得(1969).
コロンビア大学,ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校教授.
 Gang Tianと協力してグリゴリ・ペレリマンのポアンカレ予想の証明をチェックした(2006).
『有理ホモトピー論と微分形式(Rational homotopy theory and differential forms)』(1981,P.A.グリフィスと共著), 『滑らかな4次元多様体と複素曲面(Smooth four-manifolds and complex surfaces)』(1994,R.フリードマンと共著), 『サイバーグ・ウィッテン理論とトポロジー(The Seiberg-Witten equations and applications to the topology of smooth four-manifolds)』(1996,日本語訳あり), 『リッチ流とポアンカレ予想(Ricci Flow and the Poincar\'e Conjecture)』(2007,Gang Tianと共著),   [ト文] トップ

モース,アンソニー(Anthony Perry Morse, 1911-1984)
 ブラウン大学からC.R.アダムズの指導で「変分の収束と関連する話題(Convergence in Variation and Related Topics)」によりPh.D.取得(1937).
 測度論,数学の基礎.
 ケリー(John L. Kelly)とともにモース=ケリー集合論,モース=サードの定理,フェデラー=モース理論(1943).   [ト文] トップ

モース,マーストン(Harold Calvin Marston Morse, 1892.3.24-1977.6.22)
 アメリカ,メイン,ウォーターヴィルに生まれ,プリンストンに死す.
ハーバード大学で修士(1915)、Ph.D(1917),G.バーコフの弟子. 第一次世界大戦の軍役の後,コーネル,ブラウン,ハーバード大学を経て,プリンストン高等研究所(1935-62). 数理物理の諸問題への応用を視野に,大域的変分法を開拓した(モース理論).ヒルベルト学派の結果の上に,微分方程式の大域的でトポロジー的な研究を構築した. [ト2, 6], [先], [モト], [伝8,9], [辞] トップ

モステラー,フレデリック(Charles Frederick Mosteller, 1916.12.24-2006.7.23). アメリカ,ウェスト・ヴァージニア州クラークスバーグに生まれ,ヴァージニア州アーリントンに死す.
 父親William Roy Mostellerは高速道路の建設に携わった.
 統計学者.ペンシルヴァニア州ピッツバーグ近くで成長し,カーネギー工科大学卒で修士も同校で取得。1939年にはプリンストン大学に移り,1946年にSamuel Stanley Wilks(1906.6.17--1964.5.7)とJohn Wilder Tukey(1915.6.16--2000.7.26)の指導で「いくつかの有用な非能率統計学について(On some useful inefficient statistics)」によりPh.D.取得.
 第2次大戦中はニューヨーク市のWilksのStatistical Research Groupに属す.1946年にハーヴァード大学のDepartment of Social Relationsに雇われ,1951年に終身在職権を得る.Department of Statisticsを作り,初代学科長(1957–1969, 1973, 1975-1977).1977-1981にはDepartment of Biostatistics at the Harvard School of Public Healthで,後1980年代にはDepartment of Health Policy and Managementの学科長.ハーヴァードのロースクールや政府のハーヴァード・ケネディ・スクールでも教える.1987年に講義をすることはやめたが,その後も2003年までハーヴァード大学での仕事や出版を続ける.その後アーリントンに移って子供たちの近くで暮らす.
 50冊を越す著書,350篇を越す論文.統計学の教育には大きな貢献.Janellen Huttenlocher, Persi Diaconis, Stephen Fienberg,Ward Edwardsなど弟子も多い.  [率序] トップ

モツキン,テオドール(Theodore Samuel Motzkin, 1908.3.26-1970.12.15)
 ドイツ,ベルリンに生れ,アメリカ,カリフォルニア州,ロスアンジェルスに死す.
 父のレオはロシアからベルリンに移住し,30歳を過ぎてからクロネッカーの弟子となって数学を学ぶが,博士論文に取り掛かってから,シオニスト運動に進み,数学を止める.
 テオドールは幼時から数学の才能を認められ,13歳から大学教育を受ける.ゲッティンゲン,パリ,ベルリン大学で学び,ベルリン大学の卒業論文をI.シューアの下で,代数構造について書く.博士論文を書くためにバーゼル大学に行き,オストロフスキーとともに研究,線形プログラミングに関する論文を書く.
 イエルサレムのヘブライ大学(1935-)に,第2次大戦中留まる.1948年にアメリカに移民し,代数学,特にユークリッド環でない主イデアル環の発見など.カリフォルニア工科大学数値解析の教授(1950). ウォルシュ(J. L. Walsh)と共同研究.代数学,チェビシェフ多項式,ラムゼイ理論. [天8, 29] トップ

モーデル(Louis Joel Mordell, 1888.1.28-1972.3.12.)  アメリカ,ペンシルヴァニア,フィラデルフィアに生まれ,イギリス,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
 ケンブリッジ大学出身。G.H.ハーディの後任としてケンブリッジ大学教授(1945). ダヴェンポートとともに数の幾何を創始した。モーデル予想(1922, Q上定義された種数≧2の代数曲線上の有理点は有限個.)。モーデルの問題,モーデル曲線,モーデル方程式,モーデル・ラング予想,モーデル・ヴェイユ群,モーデル・ヴェイユ格子.エルデシュ・モーデルの不等式.   [名3], [フ3], [幾7] トップ

モーペルテュイ(Pierre Louis Moreau de Maupertuis, 1698.9.28(7.17?) - 1759.7.27.)
 フランス,サン・マローに生まれ,スイス,バーゼルに死す.
 宗教的教育を受け,陸軍に勤務しながら科学研究をする.パリ科学アカデミー会員(1731).
 ニュートンの重力理論をフランスに普及するのに貢献.ニュートンの予言に従い,地球が極で扁平な球体であることを証明するため,子午線測定のためのラップランド遠征隊を指揮(1736-37).1度の長さを測る.カッシーニの誤りを正した.
 この遠征で名声を博したモーペルテュイは,フリードリヒ大王にベルリンに招かれる。プロシャ軍とともに戦いに出,捕虜になる(1741).ベルリン科学アカデミー会員(1741),会長(1745-53).
 著書も多く,数学,地理学,天文学,宇宙論など.彼の名前を不朽にしたモーペルテュイの原理=最小作用の原理を最初に述べたのは1744年で,1750年の『宇宙論試論』(Essai de cosmologie)で発表した.ここで彼はこの原理を神の存在証明に結びつけようとした.  [パ附1, 年表],[伝プ1] トップ

毛利重能(Mouri Shigeyshi)  通称は勘兵衛.豊臣秀吉に仕え出羽守となり、明に留学して算術を学ぶ.また,池田輝政に仕えたという説がある.大坂の陣では同姓の誼で毛利勝永の部隊にいたというが不詳.後世に,逸話が拡大しただけという可能性もある.
 京都に算学の塾を開き多くの弟子を教えたという.
 著書『割算書』(元和8年(1622)刊行)の奥付に,「摂津国武庫郡瓦林から京都へ移り住み、“割算の天下一”という名(割算天下一指南の看板)の下に塾を開いた」とある.また,同書に、割り算の起源としてキリスト教の逸話が引用されているが,イタリア人宣教師カルロ・スピノラ(Carlo Spinola、1564-1622)から学んだものという説がある.
 また,『割算書』の中に,『算用記』が難解という記述がある.同書には算盤による計算法や,体積の算出や金利計算、測量の方法があり,割り算以外では毛利のものより少し早い公刊の算術書であり,『割算書』は『算用記』の改訂増補版であるとも言われる.
 弟子に「毛利の三子」と呼ばれる吉田光由,今村知商ともあき(1591?~1668),高原吉種など.
 兵庫県西宮の熊野神社には彼を祀る算学神社がある.彼の記念碑もあり,数学に関する唯一の神社である.8月8日にはそろばん祭が執り行われる。 [作2] トップ

モリス,シド(Sidney Allen Morris)
 南オーストラリア・フリンダーズ大学からIgor Kluvanekの指導で「位相群の多様体(Varieties of Topological Groups)」によりPh.D.取得(1970).
 オーストラリア,バララット大学情報教授(-2010),名誉教授.ラ・トローブ大学非常勤教授.アメリカ,イギリス,オーストラリアの多くの大学を歴任.バララット大学では学部長,学長も務めた.
 情報科学,位相群,リー群,トポロジー,位相ベクトル空間,ばなっは空間,幾何など.
 著書に『副リー群のリー理論(The Lie Theory of Connected Pro-Lie Groups)』(2007, Karl H.Homannと共著), 『コンパクト群の構造(The Structure of Compact Groups: A Primer for the Student - A Handbook for the Expert)』(2006), 『ポントリャーギン双対性と局所コンパクトアーベル群の構造(Pontryagin Duality and the Structure of Locally Compact Abelian Groups)』(1977),  『抽象代数と有名な不可能性問題(Abstract Algebra and Famous Impossibilities)』(1991,A.ジョーンズK.ピアソンと共著).   [名文] トップ

モリス(Walter D. Morris Jr.)
 アメリカ,ジョージ・メイスン大学数学科教授.凸幾何学,グラフ理論,離散数学.   [天21] トップ

モリーン,テオドール(Theodor Molien={\cyrr Fedor Eduardovich Molin}), 1861-1941.)
 ロシア帝国ラトヴィア,リガに生まれ,ソ連トムスクに死す.
 エストニアのデルプト大学(現在タルトゥ大学)卒(1893).1884-85年にはライプツィヒ大学に留学.F.クラインの講義を聞く.クラインの示唆で楕円関数の線形変換の研究を始める.帰国後Ueber die lineare Transformation der elliptischen Functionenによりデルプト大学から修士(1885).
 デルプト大学講師(1885-1900).この間時折ドイツに行き,高次の複素数に興味を持ち,博士論文¥"Uber Systeme h\"oherer komplexer Zahlenに結実,論文はMath.Ann.に掲載(1891).フロベニウスリーの関心を引く.
 シベリアのトムスクに移り,トムスク工科大学(1900-17),トムスク大学教授(1917).
 多元数論,群論,楕円関数論,多元環論,射影幾何,代数方程式,数学史.C上の有限次元代数の理論を作り,有限群の群環に応用し,表現の完全可約性を示す.モリーン級数.
 チェスを好み,プロとも交流.   [名3], [ワ2] トップ

モルゲンシュテルン,オスカー(Oskar Morgenstern, 1902.1.24--1977.7.26)
 ドイツ,ザクセン州ゲルリッツに生まれ,アメリカ,ニュージャージー州プリンストンに死す.
 フォン・ノイマンとの共著『ゲームの理論と経済行動』(1944).   [伝10] トップ

モールス(Samuel Finley Breese Morse, 1791.4.27-1872.4.2)
   アメリカ,マサチューセッツ州チャールズタウンに生まれ,ニューヨークに死す.
 画家、発明家。モールス電信機を発明し,モールス符号を作る.
 父はイギリス移民のカルヴァン主義の牧師で、「アメリカ地理学の父」と称されるジュディディア・モールス(1761-1826).
 イェール大学で宗教哲学,数学,電気について学ぶ。画家として生計.ニューヨーク大学の美術教授.  [代入3] トップ

モーレー(Frank Morley, 1860.9.9-1937.10.17)
 イギリス,サフォーク,ウッドブリッジに生まれ,アメリカ,メリーランド州,バルチモアに死す.  1879年にケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学.病気で1年遅れ,1884年に卒業したが,フェローになれる見込みもなく,1887年までバース・カレッジで数学教師をする. この間,ようやく健康が回復し,1887年にアメリカ,ペンシルヴァニア州ハーヴァーフォード大学のクエーカー・カレッジの講師となり,翌年教授に昇進.カレッジの同僚とではなく,近くのブリン・モー大学の数学者で,ケンブリッジ出身のスコットやハークネスと仕事をした.ハークネスと共著の『解析関数論』は,当時のアメリカでは珍しい高等数学の教科書だった.
 1900年からジョンズ・ホプキンス大学教授,多くの学生を育てた.幾何と代数に業績を残した.教科書も多いが,有名なのは,三角形に関するモーレーの定理.
 チェスが得意で,現役の世界チャンピオンのラスカーを負かしたこともある.   [直8], [幾4] トップ

H.モンゴメリ(Hugh Lowell Montgomery, 1944.8.26-.) アメリカ,インディアナ州マンシーの生まれ.
 ケンブリッジ大学からダヴェンポートの指導で「乗法的整数論の話題(Topics in Multiplicative Number Theory)」によりPh.D.取得(1972.8.26-).
 ミシガン大学アンナーバー校教授.
解析的整数論,素数分布,数学解析,フーリエ解析,確率論など.リーマンのゼータ関数の非自明な零点の間隔に注目,ウランのエネルギー準位の間隔に似ていることがダイソンとの会話の中で気づく.
 I.ニーヴンH.S.ツッカーマンとの共著『数論入門,第3版』(An Introduction to the Theory of Numbers, 1991) 『乗法的整数論I: 古典的理論(Multiplicative number theory. I. Classical theory)』(2007, ヴォーガンと共著).
 モンゴメリの対相関予想(Montgomery's pair correlation conjecture),大きい篩法.   [名序, 2,文] トップ

モンチュクラ(Jean Etienne Montucula, 1725.9.5--1799.12.18)
 フランス,リヨンに生まれ,ヴェルサイユに死す.父はリヨンの商人.リヨンのイエズス会の学校に学ぶ.1745年祖母の死を切っ掛けにトゥールーズに行き,そこの学校を終了した後パリに移る.ディドロダランベール,J.ラランドと親交.書店主のジョンベールとの交際から,数学史の本を出すようになる.新聞ガゼット・ド・パリで働くことで生計.
 『円積問題探究史』Histoire des recherches sur la quadrature du cercle(1754)の名声により,ベルリン・アカデミーの通信会員になる.『数学史』Histoire des mathematiques(1775).1巻は古代から1700年まで,2巻は17世紀の数学を扱う.1761年からはドーフィネ地方の長官,1764-1765年は香料諸島で天文官.王宮の主席事務官(1766-89),1775年に数学の王立監督官.1789年の革命で財産を失う.1799年に数学史の新版を出版.懸案の18世紀を扱う第3,4巻は死後の出版に.ソフィー・ジェルマンがそのアルキメデスの死の記述を読んで感激し数学を学ぶ決心をしたのは有名.   [列2] トップ

モンテル(Paul Antoine Aristide Montel, 1876.4.29-1975.1.22).
 フランス、ニースに生まれ、パリに死す。
 ニースのリセの後、エコールノルマル入学(1894)。 その後幾つかのリセで教えていたが、友人の勧めで発奮して学位取得(1907)。大学に勤めるようになったのは42才のときで、パリ大学。複素関数論、正規族の概念を導入して、リーマンの写像定理とかアダマールの有限次の整関数の特徴づけなどを整理する。多項式の係数と零点の分布の関連を調べる。 [解III.9] トップ


  
  
  
  
  

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