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『数学用語英和辞典 新訂版』



 人名索引 なーの


人名索引総目次
S.R.ナイトナーイン
長岡半太郎中川銓吉中川将行中根元圭中根彦循
中村正直中山正ナゲル(フォン・)ナゲル
ナスィールナッシュナザロフナポレオン
ナンイー
ニーウェンティイトニーヴンニグリニコマコス,ゲラサのニコメデス
ニモニューカムニュートンH.A.ニュートンニューボーン
ニューマンM.ニューマンニリー
 
ヌグ
 
ネイピアネヴィルネスビットE.ネーターM.ネーター
ネッカーネットネルセットネルセンネルルンド
 
ノイゲバウワーC.ノイマンフォン・ノイマンネリー・ノイマンノージック
ノースノタリノートンノーベル



 
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S.R.ナイト(Samuel Ratcliff Knight, )
 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
 主にH.S.ホールとの共著で代数に関する多くの著書 Algebra for beginners(1895),Algebra for colleges and schools(1927), Algebra for matriculation(1911), Elementary algebra(1885), Higher Algebra. Macmilian(1891), Elementary Trigonometry(1906)など  [クI.2.1] トップ

ナーイン,ポール・J .(Paul J. Nahin, 1940.11.26--). アメリカ,カリフォルニア州バークレイの生まれ.
 カリフォルニア州ブリー・オリンダ高校卒(1958),スタンフォード大学卒(1962),カリフォルニア工科大学修士(1963),カリフォルニア大学アーバイン校で電子工学のPh.D.取得(1972).ハーベイマッド大学,Naval Postgraduate Schoolで教え,その後30年近くニュー・ハンプシャー大学とヴァージニア大学で,確率論とその応用について教え,現在はニュー・ハンプシャー大学名誉教授.
 著書多数,多くはプリンストン大学出版会から出ている.日本語に訳されたものだけでも『虚数の話』(好田順治訳)青土社(2000),『ちょっと手ごわい確率パズル』(松浦俊輔訳)青土社(2002) ,『オイラー博士の素敵な数式』(小山信也訳)日本評論社(2008), 『最大値と最小値の数学 上下』(細川尋史訳)シュプリンガー東京(2010),『オリヴァー・ヘヴィサイド―ヴィクトリア朝における電気の天才 その時代と業績と生涯』(高野善永訳)青土社(2012) ,『0と1の話 ブール代数とシャノン理論』(松浦俊輔訳)青土社(2013),『確率で読み解く日常の不思議』(2016)などがある. [率] トップ

長岡半太郎(Nagaoka Hantaro, 慶応元年6月28日(1865.8.19)-1950.12.11). 大村藩(現・長崎県大村市)の藩士長岡治三郎の一人息子として生まれる. 妻は箕作麟祥の三女・操子.
 幼少期には大村藩藩校五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学ぶ. 長岡家は1874(明治7)年に上京し、半太郎は本郷区湯島小学校に入学.共立学校から東京英語学校(東京大学予備門)に進学。父治三郎の転勤などに伴い、大阪英語学校(大阪専門学校)に転校後、東京大学予備門に再入学.
 1882(明治15)年9月に東京大学理学部(1886年から帝国大学理科大学)に進学。在学中、1年休学している。教授山川健次郎や、イギリス人教師ノットのもとで物理を学ぶ.
 東京大学物理学数学星学科第2回卒業生(1887)であり,同期のうち物理関係は北尾次郎田中舘愛橘,数学では北条時敬熊沢鏡之助
 大学院に進学し,1890(明治23)年に助教授.ドイツに留学し、ルートヴィッヒ・ボルツマンのもとで学ぶ(1893-96).帰国後教授になり,1926(大正15)年に60歳で定年退職.
 初代大阪帝国大学総長(1931-1934),貴族院議員(帝国学士院会員議員)(1934-47),帝国学士院13代院長(1939.3-1948.6),日本学術振興会理事長(1939-1947).
 1884年6月東京数学会社が東京数学物理学会に改名した時に入会.1918(大正7)年4月の年会の午餐会の席上で、委員長だった長岡が「今や会員は全国に散在する有様となったから会名を日本数学物理学会とするのが相応しい」と提案,1919(大正8)年1月, 東京数学物理学会は日本数学物理学会と改称.
 東京帝国大学に講座制(1894).応用数学講座は菊池大麓の兼担だったが、1897年に菊池が文部省に移ると長岡が第三講座を引き継ぐ.この講座は1899年に物理学科に移管され、理論物理学講座となった。
 1939(昭和14)年,ノーベル賞委員会に湯川秀樹への授賞を推薦,10年後の1949(昭和24)年に湯川は日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞.  [文プ] トップ

中川銓吉(Nakagawa Senkichi, ).
 東京帝国大学数学科,第15期卒業(1998). 高木貞治に少し遅れ,1901年に幾何学研究のためドイツ留学.自教授帰国後,菊池大麓の担当していた講座(幾何学)を担当し助教授(明治37.11.25-大正3.4.26),1914年に教授(大正3.4.27-昭和12.3.31)になる.後に第5講座となる. 東大数理にある立体模型は彼が購入したものらしい.
 1904年,第3回ICM(ハイデルベルク)に出席.
 1910年,直線上の非調和比を基に平面上の非ユークリッド幾何を構成.
 中川銓吉・竹内端三 『新撰解析幾何学教科書 平面之部、立体之部』富山房(1921.7.16), 中川銓吉・竹内端三 『新撰解析幾何学教科書』再訂増補, 富山房(1926),『新編女子代数』,『新編女子幾何』,『改訂女学校用最新幾何 平面之部』冨山房(昭4),『最新算術代数 基本課程用』冨山房(昭8),『平面解析幾何学』冨山房(昭12).  [文3] トップ

中川将行(Nakagawa Masayuki, -1898). 旧名は錠蔵.
 昌平黌素読吟味に甲科で及第。開成所仏学世話心得・小筒組差図役下役並などを勤める.陸軍伝習隊で陸軍練兵を習う.
 沼津兵学校の2期生.  海軍兵学校教官・海軍大学校教官・海軍水路大技師など. 明治4年,沼津兵学校の同期生,荒川重平(嘉永4-昭和8)とともに海軍兵学寮に出仕.(7月14日の廃藩置県に伴い,兵学校を退校して海軍に入りたいと勝海舟に嘆願したという) 日本の近代数学教育に貢献する.多くの数学書を著す以外にも『泰西世説』のような文芸書も翻訳.荒川との共著『幾何問題解式』は、我が国最初の左起横書の数学書といわれる.
 明治10年,東京数学会社発足時の社員.
 1880(明治13)年、<訳語会>を設立。中川が算術訳語の草案を作って、一語ずつ議論して決めていくという方式をとることになった。 mathematicsの訳語については菊池大麓が「数理学」を推したし, 「算学」を推したものもあった。数理学に賛成したのは川北朝鄰だけで、結局中川の 「本社名の如きすでに数学と冠するゆえ」という意見が決め手となって、採決した結果、出席者一二名のうち九名の賛成で「数学」に決まった.
 中川将行は雑誌に次々と論説を書いて、会社の目的を論じ、「数学効用論」を展開する。
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中根元圭(Nakane Genkei, 寛文2年(1662)-享保18年9月2日(1733.10.9)). 近江国浅井郡に生まれ,江戸に死す.
 名は璋,通称は丈右衛門,字は有定,元圭または元珪,号は律襲または律聚. 京都の白山町に住み,銀座の役人であって,白山先生と呼ばれていた。
 和算家,天文家であり,漢学や音楽理論に通じる.元は田中由真の門人であり、早くから『新撰古暦便覧』『三正俗解』『授時暦図解発揮』などの著作がある。
 享保6年(1721)に建部賢弘の推薦で,改暦の相談をするために江戸に招かれたのは既に60歳になってのことである.
 天文書などの有用な書に限り洋書の輸入を認めるよう徳川吉宗に進言した。これが享保5年(1720)に禁書の令が緩められたきっかけとされるが、年号の矛盾から,進言は享保2年(1717)とする説もある.
 享保11年(1726)に『暦算全書』の訓訳を命じられ、享保18年(1733)72歳の時に完成したが、この歳に没している。
 この間,吉宗の命により伊豆下田で地球から太陽・月までの距離を測定し,その結果を「日月高測」(享保17年(1732)12月)にまとめる。この時71歳. 
 音楽理論にもすぐれ,雅楽・俗楽それぞれの音階の関係を考察し,1オクターヴを12乗根に開いた十二平均律を『律原発揮』として著す.
 暦に関する著作が多く, 『古暦便覧』(貞享2年(1685),享保17年(1732)),『七乗冪演式』(元禄4年(1691)), 『律原發揮』(元禄5年(1692)), 『天文圖解發揮』(元禄6年(1693),刊行は1739), 『授時暦圖解發揮』(寶永4年(1707)), 『皇和通暦』 (正徳4年(1714)),『暦算全書』(訓点) (享保18年(1733)).
 『皇和通暦』は「日本長暦」の値を使い、幾らかの改変を試み、附録に古暦の数表や解説をつけた長暦.「皇和通暦」を基に、内務省地理局が『三正総覧』(明治13年(1880))を編纂発行したが、内容は「日本長暦」に史実によるわずかの修正を加えただけのものであった。
 江戸に出たあと,2歳年下の建部賢弘の弟子となって算学を学ぶ.また, 日本橋北堺町で「算術指南」の塾を開き,門人を育てていた久留島喜内(義太)の評判を聞いて元圭が訪れた際に,建部の重厚さとは異なる、久留島の奔放ながらあふれる才気に感じ入って,息子の彦循(1701‐1761)を弟子入りさせている.その時か別の時かわからないが,松永良弼も久留島を訪れていて,そこから元圭と3人の交遊が始まったらしい.
 算学の著書に, 『七乗冪演式』(元禄4年(1691)), 『八線表算法解義』(享保12年(1727)), 『竿頭算法』(元文3年(1738)), 『拾玉 勘者御伽雙紙』(寛保3年(1743))など.
 弟子に中根彦循山路主住,大島喜侍など.  [文2] トップ

中根彦循(Nakane Genjun,元禄14年(1701)-宝暦11年8月21日(1761)). 京都に生まれ,京都に死す.名は卞,通称は保(安)之丞,号は法舳.  中根元圭は父.京都の人.父について江戸に行き,建部賢弘,久留島義太に学ぶ.のち京都に戻り,算学を教える.
 『開方盈肭術かいほうえいじくじゅつ』,『竿頭算法』(元文3年,1738)には虫食い算あり,『拾玉 勘者御伽雙紙』(寛保3年,1743)には小町算.
 [ふ5] トップ

中村正直(Nakamura Masanao, 1832.6.24(天保3年5月26日)-1891(明治24年)6.7).
幼名は訓太郎,通称は敬太郎,敬輔,号は敬宇.
 16歳で昌平坂学問所に入学,若くから秀才をうたわれる.漢学者で,箕作兄弟なども教えていた.佐藤一斎に儒学を、箕作圭吾に英語を、桂川甫周に蘭学を学ぶ.安政二年(1855) に23歳の若さで昌平坂学問所の教授方,1862年には佐藤を継ぎ、三十歳の若さで儒官(御儒学)に大抜擢.
 慶応2年幕府派遣イギリス留学に際し,川路太郎とともに留学生取締,幕府陸軍の歩兵頭並となる.時に35歳, 同行14人中最年少は12歳の箕作大六
 帰国後は徳川家達を追い静岡へ移住,静岡学問所の一級教授と漢学部長.明治4年にスマイルズの自伝を翻訳公刊した『西国立志編』は明治初期のベストセラー.また,ジョン・スチュアート・ミル著On Libertyの翻訳『自由之理』もベストセラーで「自由民権運動のバイブル」となる.
 明治5年,小石川に洋学を教える私塾「同人社」を開校.
 明治6年に,森有礼,福澤諭吉,加藤弘之,西周,西村茂樹,津田真道,箕作秋坪,杉亨二,箕作麟祥らと明六社を創る.  明治12年に東京学士会院創設の一員となる.明治10年に東京女子師範(お茶の水女子大の前身)の初代綜理、明治14年には東京大学教授となって漢文学・支那哲学を講じる。
 明治六大教育家の一人.その由来は1907年(明治40)に「近世の教育に功績ある故教育家の代表者」として顕彰されたことから.ほかの5人は,大木喬任,森有礼,近藤真琴,新島襄,福澤諭吉.  [文1] トップ

中山正(Nakayama Tadashi, 1912.7.26-1964.6.5)
 東京に生まれ,名古屋に死す.東京大学卒 (1935). 名古屋大学教授 (1944-).1941年に大阪大学から,「フロベニウス代数について(On frobeniusean algebras)」で博士号取得.指導者は高木貞治と正田建次郎.
  代数学, 特に群論, 環論, 多元環論, ホモロジー 代数など. 著書も多い.
 中山の補題,中山代数(generalized uniserial algebra),中山予想.弟子に永田雅宜など. [ワ3] トップ

ナゲル(Trygve Nagell, 1895.7.13-1988.1.24).
 ノルウェー,オスロに生まれ,スウェーデンのウプサラに死す.
 オスロ大学卒業(1920),博士(1926). オスロ大学の教員となり,助教授(1930-31).スウェーデンのウプサラ大学教授(1931-1962).
 整数論,抽象代数.特に,不定方程式,代数的数,環論に業績.
 ナゲル・ルッツの定理(楕円曲線のディオファントス幾何に関するもの),ラマヌジャン・ナゲル方程式(2^n-7=x^2で,nとxが自然数である解はn=3,4,5,7,15の時だけ存在,(n,x)=(3,1),(4,3),(5,5),(7,11),(15,181) ;1948年にナゲルが証明).
文献
  1. 『数論入門』(Introduction to Number Theory, 第2版,Chelsea, New York, 1964)
 [珠訳序, 文] トップ

ナザロフ(Alexander Ilyich Nazarov)
 サンクトペテルスブルク大学からN.N.ウラルツェヴァの指導で,「放物方程式の解に対する最大ノルムとヘルダーノルムの評価(Estimates of Maximum and H\"older Norms for Solutions of Parabolic Equations)」により学位(1988).
 サンクトペテルスブルク大学数学力学部教授.偏微分方程式,  『非線形偏微分方程式と関連する話題(Nonlinear Partial Differential Equations and Related Topics)』(2010,ウラルツェヴァと共著).  [フ文] トップ

ナスィール・アル=ディン・アル=トゥースィー(Nasir al-Din al-Tusi, 1201.2.17-1274.6.25(26))
ホラーサーン,トゥース(現在イラン領メシェドの近く)に生まれ,Kadhimain (near Baghdad now in Iraq) 本名はMuhammad ibn Muhammad ibn al-Hasan al-Tusiだが,生前からもいろんな名前で呼ばれた.Muhaqqiq-i Tusi(学識者トゥースィー)やKhwaja-yi TusiやKhwaja NasirやUstād-i Bashar(人類の師) など.
 シーア派を代表するペルシャ人神学者.イブン・スィーナーら系譜に連なる逍遥学派の中興の祖と目される哲学者で,数学者で天文学者.13世紀のイスラーム世界を代表する大学者.
 チンギスハンによってホラーサーンは滅ぼされ,結局イルハン朝フレグのもとで働くことになる.フレグはトゥーシーのために1259年、マラーガに天文台を建てた.天文学の進歩に貢献したマラーガの天文学者の最初の一人.『イルハン天文表』を作成(1272).『ナースィルの倫理学』
 トゥースィーの対円 (Tusi-couple)  [幾1] トップ

ナッシュ,ジョン・フォーブス,ジュニア(John Forbes Nash, Jr, 1928.6.13-.)
 アメリカ,コウェストバージニア州ブルーフィールドの生まれ.
 17歳の時、カーネギー工科大学(現在カーネギーメロン大学)にジョージ・ウェスティングハウス奨学生として入学,初め化学を学ぶ.数学に転向し,また国際経済学を学ぶ.同大学で修士を出て(1948),プリンストンに移り,タッカーの指導で,論文『非協力ゲーム(Non-cooperative Games)』でPh.D.取得(1950).MITのムーア講師(1951).いろいろあったが,現在はプリンストン大学上級数学研究員.
 ゲーム理論,代数幾何学,微分幾何学,偏微分方程式.彼の研究には市場経済学,進化生物学,計算理論,人工知能などへの応用がある.ノーベル経済学賞受賞(1994).映画『ビューティフル・マインド』のモデル.統合失調症で入退院を繰り返すが(1959-1970),1980年代後半に回復. 
 ナッシュ均衡,ナッシュ埋め込み定理(どんな抽象リーマン多様体もユークリッド空間のある部分多様体に等長埋込みされる). [フ27]  トップ

ナーバー(Henri Adrien Naber, 1867.9.11-1944.6.27). オランダ,ズヴォレに生まれ,ドイツ,ノルトライン=ヴェストファーレン州ゾーストに死す.
 1886年からアムステルダム大学で数学と物理学を,ファン・デル・ワールスとコルトヴェーグに学ぶ.
.  ハールレムの数学と物理学の教師.ピュタゴラスの定理の新証明.[幾1]  トップ

ナポレオン(Napoleon I, Bonaparte, 1769.8.15-1821.5.5.)
 コルシカ島に生まれ,セント・ヘレナ島に死す.
 1800年第1コンスル,1804年フランス皇帝.ライプニッツルイ14世に提案したフランスのエジブト征服を実行.
 1809年にローマに侵攻した時,ヴァチカンの宝物殿に眠っていた古代ギリシャの稿本を発見. 
 幾何にナポレオンの定理がある.[解人], [パ11, 人], [伝1,2,3,4,5], [直,序], [シ4,附], [幾2,4,7,8,11], [孫数2]  トップ

ナンイー(Ollie Nanyes)
 テキサス大学オースチン校からCameron McAllan Gordonの指導で「真の結び目は局所的に結ばれていないことと,シューベルトの橋数定理の新しい証明(Proper Knots are Locally Unknotted and New Proof of the Schubert's Bridge Number Theorem)」によりPh.D.取得(1991).[この橋数は1950年代にHorst Schubertによって最初に研究されたもの]
 イリノイ州ピーオリアのBradley University准教授,教授.
 結び目理論.ボロメオの輪が自明でないことを,フォックスの方法を用いて示す.[天VI.15]  トップ


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ニーウェンティイト、ベルナルト(Bernard Nieuwentijt, 1654-1718).
 オランダの医者・幾何学者。微積分法に対する批判者. [解II.1] トップ

ニーヴン(Ivan Morton Niven, 1915.10.25-1999.5.9.)
 カナダ,バンクーバーに生まれ,アメリカ,オレゴン州ユージーンに死す.
 シカゴ大学からディクソンの指導で「ウェアリングの問題(A Waring Problem)」によりPh.D.取得(1938).
 オレゴン州立大学教授.『アメリカ数学月報』の編集.
 加法的整数論.
 ニーヴン数(各桁の数の和で割り切れる数=ハーシャッド数),ニーヴン定数,ニーヴンの定理(sinθ (0≦θ≦90 )が有理数になるのはθ=0, 30, 90の時だけ).
 H.S.ツッカーマンとの共著『数論入門,第3版』(An Introduction to the Theory of Numbers, 1972:1991年版はH.モンゴメリとも共著)がある. [名序, 2, 文], [珠説3.10], [天6], [天VI.4,8] トップ

ニグリ(Paul Niggli, 1888.6.26-1953.1.13).
 スイス,アールガウ州ツォフィンゲンに生まれ,チューリヒに死す.
 結晶学者,X線結晶学の指導者.チューリヒのスイス連邦工科大学とチューリヒ大学に学び,博士号取得.
 1920年にInstitut f\"ur Mineralogie und Petrographieの主任科学者になる.1935年には弟子のWerner Nowackiと共同で73の3次元算術的結晶類(シンモルフィック空間群)を決定.
 1919年の著書Geometrishe Kristillographie des Diskontinuumsはワイル『古典群』にも引用.
 月面の地形にドルスム・ニグリがある. [ワ2] トップ

ニコマコス,ゲラサの(Nicomachus of Gerasa, 60年頃-120年頃).
 ローマ帝国,シリア属州,ゲラサ(パレスティナ)の生まれ.
 その『算術入門』は初めて算術を幾何とは独立の教科として著したもの. 以降1000年以上にも亘って,算術の標準的な教科書となる。ギリシャ数字でなく,アラビア数字を使っている.  [名2], [珠説3.9], [幾1] トップ

ニコメデス(Nicomedes, 紀元前300年頃-240年頃).
 ギリシャで生まれる。
 角の三等分問題と倍積問題を解くために、コンコイドを発見。ヒッピアスの発見した円積曲線(名前はライプニッツが付けた)で円積問題を解く。
 ニコメデスのコンコイド  [解II.1.1], [直6], [幾I,3,6,7] トップ

ニモ(Alexander Nimmo, 1783--1832.1.20).
 スコットランド,ファイフシャーで生まれ,アイルランド,ダブリンで死す.
 セント・アンドリュース大学に入学,エジンバラ大学卒業.土木技師として,橋,道路,鉄道建設に従事.さまざまな雑誌に科学記事を執筆.W.ハミルトンの友人.    [列3] トップ

ニューカム、ウィリアム(William Newcomb, -1999.5.29).
 天文学者サイモン・ニューカムの弟の孫.
 理論物理学者.カリフォルニア大学ローレンス・リバモア国立研究所(1955-),1971年以来特任教授.
 ニューカムのパラドクスで有名. [率25] 
トップ

ニュートン、アイザック(Isaac Newton, 1642.12.25-1727.3.20(ユリウス暦)).
 イギリス、リンカーンシャー、ウールスソープに生まれ、ロンドンに死す。
 ガリレオ・ガリレイの死んだ年に生まれる。生まれる前に父が死に、母は再婚し、祖母に育てられる。グランサムのグラマースクールでの評価は「怠け者で、注意力散漫」というものだった。義父が死に,農夫にしようと呼び戻したアイザックに才能を見つけた叔父が、その母校のケンブリッジ・トリニティカレッジに入学させる(1661.6)。2年まではアリストテレス哲学に拘束されたが、3年次からは自由ができ、デカルト、ガッセンディ、ボイルヴィエートウォリスを読み、ついにバローに出会うことによって才能が開花する。 1665年の夏,ペストの大流行で大学が閉鎖、2年弱故郷で研究にいそしむ(驚異の年)。
 ケンブリッジ大学2代目ルーカス教授(1669-1701)、国会議員(1689-1705)、造幣局監督官(1696)長官(1699)、王立協会会員(1672)会長(1703-死)。数学以外にも『光学』(1704)、反射望遠鏡(1668)。
 「巨人たちの肩に乗っているだけ」という謙虚さとフックライプニッツとの論争で見せる傲慢さと! 人というものは...
 ニュートン法,ニュートン・ラフソン法.
 [解序, I.1-5, II.1-2, 4, 6, III.2-3, 7], [パ序, 1-13, 15-19, 22, 24-31, 附1-2, ノート], [名2-3], [代12], [ブ50], [直7], [代入2,7], [ワ2], [文1], [伝1,2,3,4,6], [フ1,10,29,30,序], [率序0], [作3-5,付B,あ], [幾序,3-8,10], [基1,12,15], [50.10,11,15,16,17,22,24,25,27,28,30,34,37,40,43,48], [クI.1.5,I.3.1,I.3.3,I.3.4] トップ

H.A.ニュートン(Hubert Anson Newton, 1830.3.15--1896)  アメリカの天文学者で数学者.イェール大学で,M.シャールのもとで修士(1850).すぐに同大学で教鞭.流星に関する研究はあるも,アメリカ数学界の基礎を形成.弟子にE.H.ムーア [伝7], ] トップ


ニューボーン,モンティ(Monroe ``Monty'' Newborn, 1938.5.21-).
 1967年にオハイオ州立大学から電気工学のPh.D.取得.コロンビア大学電気工学・コンピュータ科学教授(1967-75),モントリオールのマギル大学コンピュータ科学教授(1975).コンピュータ・チェス協会会長(1983-86).Ostrichというコンピュータ・チェス・プログラムの共同制作者.
 グラフ理論.
 アイタイホヴァタルセメレディとともに交差補題「n個の頂点とm個の辺を持つグラフを描けば,m>4nであれば,少なくともm3/64n2の交差を持つ」を証明.   [天14], [天VI.45] トップ

ニューマン(Maxwell Herman Alexander Newman, 1897.2.7--1984.2.22).
 イギリス,ロンドン,チェルシーに生まれ,コンバートン(ケンブリッジの近く)に死す.
 ケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジ入学(1908).トライポスの1等を取ったあと第1次大戦勃発で学業中断し,軍関係の仕事をする.この頃名前をNeumannからNewmanに変える.戦争が済んで1919年にカレッジに戻り.1921年に卒業し,1923年にフェローになる.
 1922-23年にウィーン大学に行き,ライデマイスターから強い影響を受ける.1927年にケンブリッジ大学の講師に.1928-9年と1937-8年にプリンストンに行きJ.W.アレクサンダーと共同研究.ケンブリッジでは数学の基礎についての講義をし,それがチューリングの有名な論文「計算可能な数と,決定疑問文問題への応用(On Computable Numbers, with an application to the Entscheidungsproblem)」に刺激を与えた.
 第2次大戦が始まり,暗号に関する仕事に従事する(1942年).戦後,モーデルの後任としてマンチェスター大学の数学のフィールデン教授職に.3年後チューリングを上級講師に任命.
 位相幾何学者.コンピュータによるメルセンヌ素数探索を最初に行った.
 数学以外にも多彩な才能.素晴らしいピアニストでチェスも強かった.  [伝8] トップ

ニューマン,モシェ(Moshe Newman).
 イスラエルのラマト・ガンにあるバル=イラン大学
 有理数を整列させる具体的な方法を与えるカルキンウィルフの列で,次の数を与える式を発見.
 可解群   [天VI.19] トップ

ニリー(A. Nilli).
 ノガ・アロンの仮名で,解説記事や独創性が低いと思ったときに用いる.名前は娘から借用.娘は『天書の証明』出版時には歴史を学ぶ学生とのこと.『天書の証明』第14章に掲載された写真はアロンが該当する論文を書いた頃の娘の写真だということである.  [天14], [天VI.18] トップ
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ヌグ(Ting Fai Ng).
 プリンストン大学から,P.A.グリフィスとR.M.ゴレスキの指導で,「代数多様体の幾何(Geometry of Algebraic Varieties)」によりPh.D.取得(2004).
ペンシルヴァニア大学.等周問題.  [フ文] トップ
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ネイピア、ジョン(John Napier of Merchiston, 1550-1617.4.4). ラテン語名はIoannes Neper(イオアネス・ネペール).
 スコットランド、エディンバラ、マーキストン城に生まれ、同地に死す。
 マーキストン男爵。 聖アンドリューズ大学中退後ヨーロッパを遍歴。帰郷後(1571)、軍務につきながら研究。対数、球面三角法のネイピアの法則。
 対数表『素晴らしき対数法則の記述(Mirifici logarithmorum canonis descriptio)』が1614年にエジンバラで出版.
 対数を使った計算機の他発明も多い。ネイピアの骨(乗除のための道具),ネイピアの棒. [解I.3, 文], [作付B],[幾5],[クI.1.5,3.1],[クII.3.2] トップ

ネヴィル(Eric Harold Neville, 1889--1961).
ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ卒で,1909年の数学トライポスの2席のラングラー.G.H.ハーディの依頼で,マドラスにいたラマヌジャンを,ケンブリッジにくるように説得に行く.  [伝9] トップ

ネスビット(Cecil James Nesbitt, 1912-2001). カナダ,オンタリオの生まれ.トロント大学とプリンストン高等研究所で学ぶ.
 トロント大学から1937年に,R.ブラウワーの指導で,「代数の正則表現について(On the Regular Representations of Algebras)」によりPh.D.取得.モデュラー表現論の初期に大きな貢献.
 ミシガン大学で保険数学を教える(1938-1980).ブラウワー・ネスビットの定理,シュエット・ネスビットの公式(包除原理の確率論版,Donald R. Schuette).
 [ワ文],[辞 ] トップ

ネーター,エミー(Amalie Emmy Noether, 1882.3.23-1935.4.14.)
 ドイツ,バヴァリア,エアランゲンに生まれ,アメリカ,ペンシルヴァニア,ブリン・モーBryn Mawrに死す.
 父はエアランゲン大学数学教授マックス・ネーター(19世紀代数幾何の指導者の一人).1903-04年にはゲッティンゲンで,ヒルベルトF.クラインミンコフスキーの講義を聞き,1904年にエアランゲンに戻りゴルダンの下で学位(1907).
 ヒルベルトの基底定理(1888)に対して,あくまでゴルダンは不変式を構成する立場をとり,ネーターも331個の共変形式をリストするという仕事であった.が,次第にヒルベルトの抽象的なアプローチに変わっていく.
 女性であることとユダヤ人であることから,公的な職につくことがむずかしく,各地を点々とする.1915年にヒルベルトとクラインがゲッティンゲンに招き,ヒルベルトの名の下にネーターが講義をするという形態をとることもあった. 1919年に不変式論からイデアル論に転換し,抽象代数学の根幹を作り上げた.準素イデアルの導入. 1924年ゲッティンゲンにきたファン・デル・ヴェルデンはアムステルダムに戻ってネーターの仕事を中心に『現代代数学』を書き,抽象代数学が広まる.
 1927年からはH.ハッセR.ブラウワーとともに非可換環論を研究.力学系の保存法則に関するネーターの定理.
 1933年にナチの迫害にあい,アメリカに亡命し,ブリン・モー女子大の客員教授となる.
 ワイル
「代数学に対する彼女の意義は論文だけから推し量れない.彼女はひとを鼓舞する大きな力を持っていて,彼女の示唆は弟子や共同研究者の仕事の中で初めて形をとるのである.」
と書いている.
 ネーター環,ネーター加群,ネーター空間,ネータースキーム,ネーターの定理,ネーター帰納法(=整疎帰納法),ネーターの正規化定理,ラスカー・ネーターの定理,ネーターの問題. [代6, 9, 11-12, 18, コ], [ワ2,8,9],[伝5,6,8,10],[辞],[50.22] トップ

ネーター,マックス(Max Noether, 1844.9.24-1921.12.13.)
 ドイツ,バーデン,マンハイムに生まれ,ドイツ,バヴァリア,エルランゲンに死す.
 代数幾何と代数関数論.19世紀の最も優れた数学者の一人と言われる.
 14歳でポリオに罹る.独学で高等数学を学び,ハイデルベルク大学入学(1865).ギーセン大学でクレプシュと物理の仕事をしたが,ゴルダンとアーベル関数論で仕事(1866).ギーセンでは当時私講師だったブリル(Alexander von Brill)と友人になり,共同研究をする.
 ハイデルベルク大学からヘッセキルヒホッフの指導で天文学により哲学博士号を取得し(1868), ハイデルベルク大学からケーニヒスベルガーの指導で,『多くの有理曲線を持つ曲面について(Über Flächen, welche Schaaren rationaler Curven besitzen)』によりハビリタシオン取得後(1870),ハイデルベルク大学私講師(1870),特別教授(1874),エルランゲン大学特別教授(1875),正教授(1888.4.16).エルランゲンで,代数幾何という分野を作ったと言って良い.
 1880年にイーダ・アマリア・カウフマンと結婚,2年後に長女のアマリア誕生.長男アルフレッド(1883),次男フリッツ(1884),三男ギュスタフ・ロベルト(1889-1928).フリッツとその子ゴットフリートも数学者.
 ブリル・ネーター理論,クレモナ群,ネーター不等式,代数曲面の有理性の判定条件(ネーターの定理),有名なマックス・ネーターの定理はいくつかある.曲面に対するリーマンロッホの定理(1886).
 弟子にはEmanuel Lasker,William Osgood,Hans Reichenbachなど. [伝4,8,9],[辞],[50.22] トップ

ネッカー,ルイス・アルバート,ド・ソシュール(Louis Albert Necker de Saussure, 1786.4.10-1861.11.20). スイス,ジュネーヴに生まれ,スコットランド,スカイ島,ポートリーに死す.
 ジュネーヴで教育を受けた後,スコットランドのエジンバラ大学に派遣され,科学を学ぶ(1806-1808).
 結晶学者で地理学者.錯視のネッカーの立方体で有名.のち,スコットランド,スカイ島のポートリーに移住し,登山と天文学に興味を移す.オーロラの研究,氷河学者James Forbesの探検に同行(1843,1845).エジンバラ王立協会の名誉会員.
 [50.39] トップ

ネット(Eugen Otto Erwin Netto, 1848.6.30-1919.5.13). ハレで生まれて,ギーセンで死す.
 ベルリン大学から,ワイエルシュトラスクンマーの指導で,De transformatione aequationis yn=R(x) , designante R(x) functionem integram rationalem variabilis x , in aequationem η2=R1(ξ)により哲学博士号取得(1870).
 シュトラスブルク大学准教授(1879),ベルリン大学准教授(1882),ギーセン大学教授(1888-1913).
 群論.シローの定理の新証明.M.カントールの数学史の18世紀の項(組み合わせ論,確率論,級数,虚数)の執筆(1908).カントールの写像(単位区間と単位正方形との全単射写像)の非連続性の証明.
 数学百科事典の中の「組み合わせ論,一変数有理関数,多変数有理関数」の項執筆,『組み合わせ論教科書』(1901),『代数学講義 1,2巻』(1896,1900)など.
 ル・ヴァヴァサーとともに代数学の基本定理の証明を100ほど集めた論文を書く(1907).  [クI.2.1],[天VI.21] トップ

ネルセット(Syvert P. N\orsett, 1944-).
 ノルウェーに生まれる。 オスロ大学で修士(1969),論文は「硬い系の数値解(The numerical solution of stiff systems)」. スコットランドのダンディー大学でジャック・ランベルトの指導で学「常微分方程式の数値解(Numerical solution of ordinary differential equations)」によりPh.D.(1976).
 ノルウェー、トロンハイムのノルウェイ自然科学工学大学(Norges teknisk-naturvitenskapelige universitet)数理科学教室数値解析の助教授(1970.8.1-1986.8.1),教授(1986.8.1)。
 常微分方程式の数値解,近似理論,コンピュータ・サイエンス. [解II.9, 文] トップ

ネルセン(Roger Bain Nelsen).
 デューク大学からG. Trevor (George) Williamsの指導で「几帳面でない顧客の予約の流れ(Appointment Streams with Unpunctual Customers)]によりPh.D.取得(1969).
 スペイン,アルメリア大学,サンパウロ大学教授.
 Proof without words; four squares with constant area, Math.Mag.77(2004) [幾2,7] トップ

ネルルンド(Niels Erik Nørlund, 1885.10.26-1981.7.4). デンマーク,Slagelseに生まれ,コペンハーゲンに死す.
 コペンハーゲン大学からBidrag til de lineare differentialligningers Theori(線形微分方程式論)により博士号(1910).ルンド大学教授(1921-22),コペンハーゲン大学教授(1922-1956),測地研究所所長(1928-55),コペンハーゲン大学学長(1933-34).
 階乗級数,オイラー多項式,ベルヌーイ多項式,差分法.
 差分法講義(1924)で初めて,差分方程式の複素関数解を議論.超幾何方程式の対数解.
 弟子にGeorg Rasch.
 ネルルンド・ライス積分 [クI.3.3] トップ
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ノイゲバウワー(Otto Eduard Neugebauer, 1899.5.26--1990.2.19).
 オーストリア,インスブルックに生まれ,アメリカ,ニュージャージー州プリンストンに死す.
 高校で数学が好きだったのだが,試験を受けるのを避けるために1917年にオーストリア軍に入隊し,1818年に戦争が終ったときイタリア軍の捕虜となる.捕虜収容所ではL.ヴィットゲンシュタインと一緒だった.
 解放後グラーツ大学の電気工学科に入学(1919),ミュンヘン大学に移る(1921).ゲッティンゲン大学(1922-24)では,クーラントランダウE.ネーターのもとで数学を学ぶ. H.ボーア,P.S.アレクサンドロフらと親しくなる.
 コペンハーゲン大学(1922-24)ではボーアと概周期関数を共同研究, エジプト数学史に関心が移る. 学位論文はエジプトの単位分数に関すること(指導はクーラントヒルベルトで,「エジプトの分数計算の基礎(Die Grundlagen der \"agyptischen Bruchrechnung)」による(1926)).リンドパピルスの表の数学的検討をしたもの.これにより教授資格を得,私講師となる.
 1927年からゲッティンゲンで古代数学史の講義をする.その時の弟子にファン・デル・ヴェルデン.1927年にバビロニア数学に関する最初の論文を書き,60進法の起源を論じる.
 1929年に数理科学の歴史に関する雑誌Quellen und Studien zur Geschichte der Mathematik, Astronomie und Physik (QS)を,シュプリンガー社から創刊.この中でエジプトの算術と幾何の計算技術に関する論文を書き続ける.モスクワパピルスは幾何に関しては重要で,1928年にはレニングラードにモスクワパピルスの研究に訪問.
 シュプリンガー出版社を説得して,レヴュー誌Zentralblatt f\”ur Matematik und ihre Grenzgebieteを創刊(1931).
 1933年にヒットラーが首相になり,新政府への忠誠を求められ,拒否したため職を離れる. ボーアに招かれ,コペンハーゲン大学教授に(1934.1). 1936年にディオファントス方程式を使って,テキストの日付を特定し解析をする方法に関する論文.1935-37年間に,『数学的楔形文字テキスト(Mathematische Keilschrift-Texte (MKT))』の集大成を発表.
 1939年にZentralblattがナチに接収され,アメリカのブラウン大学数学科に移動し,1940年にMathematical Reviewsを創刊. アメリカ市民権を得,残りの経歴のほとんどはブラウン大学で. ブラウン大学に数学史の講座ができ初代教授に(1947).1950年からプリンストンの高等研究所所員になったが,ブラウン定年後の1988年には研究所に移る.
 1945年の『楔形文字の数学テキスト(Mathematical Cuneiform Texts)』(アッシリア学者のザックスと共著)はバビロニア数学に関する英語での標準になっている.
 ギリシャ・ローマ数学にも関心を持ち,バビロニア天文学の影響を見て取る. 
 『古代の精密科学(The Exact Sciences in Antiquity)』(1957, 日本語訳(1984)あり),『天文学の楔形文字テキスト(Astronomical Cuneiform Texts)』(1956), 『アル・フワーリズミの天文表(The Astronomical Tables of al-Khwarizmi)』(1962), 『エチオピアの天文学と計算(Ethiopic Astronomy and Computus)』(1979), 『古代の数理天文学の歴史(A History of Ancient Mathematical Astronomy)』(1975)など.   [伝8,10], [モ歴], [幾1] トップ

ノイマン,カール(Carl Gottfried Neumann, 1832.5.7-1925.3.27).
 ドイツ,ケーニヒスベルク(現在ロシア,カリーニングラード)に生まれ,ドイツ,ライプツィヒに死す.
 父はケーニヒスベルク大学物理学教授のフランツ・ノイマンで,母はベッセルの義妹.
 ケーニヒスベルク大学からリシュローヘッセの指導で,1856年にDe problemate quodam mechanico, quod ad primam classem integralium ultraellipticorum revocaturにより哲学博士号取得.
 ハビリタシオンはハレ大学に提出し,1858年に資格取得.ハレ大学私講師(1858),員外教授(1863),バーゼル大学教授(1863),チュ-ビンゲン大学教授(1865-68),ライプツィヒ大学教授(1868-1911).就任演説に「力学のガリレオニュートン理論の原理について」.
 数理物理学,ポテンシャル論,電気力学,偏微分方程式,リーマン面.1860年代にディリクレの原理と対数ポテンシャル(彼の命名)を研究した際の逐次近似法を使い,1890年にE.ピカールが偏微分方程式の解の存在証明をする. 偏微分方程式の境界値問題の一種であるノイマン問題は彼の名にちなむもの.
 マテマティッシュ・アナレン創刊時の編集委員としての仕事も重要.弟子も多く,レフシェッツは孫弟子に当たる.  [伝6] トップ

ノイマン,ネリー(Nelly Neumann).
 クーラントがブレスラウ大学で会ったとき,既にその大学で博士となり,ギムナジウムの教師になるための試験用の論文を書いていた. 哲学博士号はブレスラウ大学から,Friedrich Otto Rudolf の指導で,「光束上の2次の面網とその相関関係(\"Uber das Fl\"achennetz 2. Ordnung und seine korrelative Beziehung auf einen Strahlenb\"undel)」により1909年に取得.
 クーラントの最初の妻.1912年に結婚,1916年2月16日に離婚した後,エッセンで数学の教師をしていたが,第2次大戦中にアウシュヴィッツで亡くなっている.  [伝9] トップ

ノージック(Robert Nozick, 1938.11.16-2002.1.23).  
 アメリカ,ニューヨーク,ブルックリンに生まれ,マサチューセッツ州ケンブリッジに死す.
 ハーバード大学哲学教授.コロンビア大学卒(1959).プリンストン大学からカール・ヘンペルの指導でPh.D.取得(1963).
 分析哲学,自由主義,自由至上主義,自然権的リバタリアニズム.
 日本語に訳された著書に『アナーキー・国家・ユートピア――国家の正当性とその限界』(木鐸社,1985),『考えることを考える(上・下)』(青土社, 1997),『生のなかの螺旋――自己と人生のダイアローグ』(青土社, 1993年)などがある.
 ニューカムの問題や囚人のジレンマなどの普及に貢献. [率25] トップ

ノタリ(Vittoria Notari Cuzzer, 1894.4.17-1976.7.18). イタリア,レッジョ・エミリアに生まれ,ローマに死す.
 数学史.
 師範学校を出て高校教師に.ボローニヤ大学の大学院で学ぶ.F.エンリケスによって始められた数学教育改革に協力. [解I.1, 文] トップ

ノース,ロイ(Roy D. North).
 コロラド大学コロラドスプリングス校に在学中,π2/6とΣn1/n2の106までの和に奇妙なずれの周期性を発見(1988). [天VI.9] トップ

ノートン,サイモン(Simon Phillips Norton, 1952.2.28-). 国際数学オリンピックで,1967年から1969年までの3年間出場し毎年金メダル獲得,1968年以外は特別賞受賞.特に1969年には100%の解答で,一位の成績を収める.
 ケンブリッジ大学から,コンウェイの指導で「Fとそのほかの単純群(F and Other Simple Groups)」により,Ph.D.取得(1976). その中で,原田=ノートン群と呼ばれる有限単純群を構成した(その位数は214・36・56・7・11・19).
 コンウェイとともにモンスター群と数論におけるj-不変量(=j-関数)との関係(モンストラス・ムーンシャイン)を発見し,いくつかの予想をしたが,それはコンウェイの弟子であるRichard Borcherdsによって解決.
 有限群のアトラスの著者の一人.
 コンウェイのライフゲームで初期の発見.ゲームSnortを発明.  [50.30] トップ

ノーベル,アルフレッド(Alfred Nobel, 1833.10.21-1896.12.10).
 スウェーデン,ストックホルムに生まれ,イタリア,サンレモに死す. なおスウェーデン語ではノーベルのアクセントはベに置かれ、ノベールとなる。
 知人の化学者アスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero)が発明した爆薬のニトログリセリンを、初めて実用化することに成功。さらにこれを改良し、安全に使えるようにしたダイナマイトを発明した。
 工事現場での岩盤の破壊など、作業の効率化用として作ったが、戦争で人を殺す爆弾として使われていることを悲しみ、遺言に、ダイナマイトの発明や油田開発で得た莫大な財産を運用して、科学などに貢献した人に賞金を与えるよう言い残したものが、ノーベル賞である。
 1896年12月7日、サンレモで脳溢血で倒れるが,その1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。生涯独身であり、子供はいなかった。駆けつけた親類は間に合わず、死の床にも召使がいただけだったという。  [伝6,7],[辞] トップ


  
  
  
  
  

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