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『数学用語英和辞典 新訂版』



 人名索引 さし


人名索引総目次 すせそ
サーサイクスザイデルザイデンザイフェルト
サヴィル
坂井英太郎ザカリアスザギエザクス佐久間象山
サーストンザックスサーティサード
佐藤幹夫サニアサビトフサービト・イブン・クッラサボー
サマヴィルサメルソンサーモン
サラサザランキエヴィッツザリスキザルガラーサルナク
ザレンバ沢山勇三郎
サンスセルナサンダースサンディファーサンティラナ
 
シェイクスピアシェイニンジェイミスンジェイムズシェップ
ジェニューイジェノッチG.C.シェパードシェファーズ
ジエリージェルゴンヌシェルバッハシェルピンスキジェルマン
ジェロベンコシェーンハルトシェーンフリースシェーンベルク
ジーゲルシドラーシナイジニ
シピオーネ・ダル・フェロシファー渋川春海ジーベンマンシーボルト
シマックシムソン志村五郎シーモアジーモン
ジャーヴァジャウェット釈圓通シャークジャクソン
ジャコブソンシャゼルシャノンシャトレ侯爵夫人シャープ
シャファレヴィッチシャプレーシャリルシャールシャンクス,ダニエル
シャンクス,ウィリアムジャンセンシャンポリオン シューア
シュヴァイカルトシュヴァリエシュヴァリエ・ド・メレK.H.A.シュヴァルツシュヴァレー
シュウィンガージュコーフスキーシュースミス朱世傑A.シュタイナー
シュタイナーシュタイニッツシュタインハルトシュタインハウスシュタンピオーエン
シュティーフェルシュテッケルシュテフェンシュトゥーディシュトラウス
シュトラセンシュトルツシュナイダーシュニレルマンシュパイザー
シュピースシュービンシューブリンクシュペヒトシュペルナー
シューベルトシューマッハE.シュミットシュミット,ヨーゼフO.シュミット
シュライアーシュラムシュリイヴァーシュルマンシュレーダー
シュレーディンガーシュレーフリシュレーミルヒA.シュワルツR.シュワルツ
ジョイアル正田健次郎ジョリーショウルズ徐光啓
ジョルダンジョンキエールA.ジョーンズW.ジョーンズジョンソン
シラードジラールシルヴァーマンシルヴェスターシールズ
ジールバーガーシロージーン,アル
シンガー秦九韶E.H.シンプソンシンプソンシンプリキオス



 
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サー (Chih-Han Sah, 1934-1997.7.22)
 北京に生まれ,ストーニーブルックに死す. プリンストン大学からO.T.オメラの指導でPh,D,取得(1959).
ペンシルヴァニア大学,ニューヨーク大学ストーニーブルック校教授.
 有限群,K理論,多面体,ヒルベルトの第3問題,鋏合同.  [フ文] トップ

サイクス( M. F. Sykes)
 イギリス,ロンドン,キングス・カレッジ,ホイートストーン物理学研究所.
 強磁性体の臨界現象,イジングモデルやハイゼンベルグモデルの臨界性,2次元のパーコレーションの臨界確率など.  [50.36] トップ

ザイデル (Phillip Ludwig von Seidel, 1821.10.24-1896.8.13.)
ドイツ、ツヴァイブリュッケンに生まれ、ミュンヘンに死す。
 ベルリン大学でディリクレに、ケーニヒスベルク大学でベッセルヤコビに学ぶ。 学位はミュンヘン大学で取得(1846)、54年以降同大学教授。 星の光度と光の収差理論で有名。今日の光学器械の設計に基本的役割。 レンズを5収差を係数とするザイデル和と数学的に同一視する。 非一様収束の概念、ガウス--ザイデルの反復法。
 弟子にはシュトゥーディブラウンミュールなど [解III.4] トップ

ザイデル,レイムンド (Raimund G. Seidel.) オーストリア,グラーツの生まれ.
 理論計算機科学,計算機科学.
 グラーツ工科大学で,Hermann Maurerに学び,カナダ,ブリティッシュコロンビア大学からDavid G. Kirkpatrickの指導で理学修士(1981).コーネル大学からJohn Russell Gilbertの指導でOutput-Size Sensitive Algorithms for Constructive Problems in Computational GeometryによりPh.D.取得(1987).
 カリフォルニア大学,バークレイ校で教えた後,ドイツ,ザールラント大学に移る(1994).
 ランダム・アルゴリズムにおける後向き解析を発明し,有限次元の問題で線形時間で実行される線形計画法を調べる.弟子のCecilia R. Aragonとともにトリープ・データ構造を考案(1989).  [天VI.序,2] トップ

ザイデン (Philip Edward Seiden, 1934.12.25--20014.21.)
アメリカ,ニューヨーク、トロイの生まれ.
 シカゴ大学からMA(1956),物理でPh.D(1960).IBMの研究部門に勤務(1960-1997),プリンストン大学非常勤講師(関節疾患病院のコンサルタント).
 シュルマンとともに,星形成のパーコレーションモデル,コンウェイのライフゲームのセルオートマトン,熱力学の相転移などの研究.  [50.26] トップ

ザイフェルト(Karl Johannes Herbert Seifert, 1907.5.27-1996.10.1).
 ザクソン,ベルンシュタットに生まれ,アメリカ,ニュー・ジャージー,プリンストンに死す.
 父の転勤でザクソンのバウツェンに移り,初等教育はその地で受ける.成績は良かったが特に数学的才能を発揮することはなかったと言う.1926年にドレスデン工業大学の数学物理学科に入学. 1927年に,私講師であったW.トレルファールのトポロジーの講義を聴いて,この分野に強い関心を持ち,20歳年上のこの教師と長い友人となる.当時のドイツの習慣で,1928-29学期はゲッティンゲン大学で学ぶ, 当時トポロジー分野の世界的な指導者だったH.ホップが私講師をしており,P.S.アレクサンドロフも滞在していた.1929年の夏にドレスデンに帰り,トレルファールの家に住むようになる.1930年6月17日に教師資格試験に合格,既に書き上げていた3次元閉多様体についての論文で,1月後に学位を得る.
 博士論文準備のための奨学金をドレスデン工業大学から受け,それを使ってライプツィヒ大学に行き,ファン・デル・ヴェルデンの指導を受ける.週末ごとにドレスデンに帰り,トレルファールの指導も受ける. 1932年2月1日に論文「3次元ファイバー空間のトポロジー」を提出し,3月3日の口頭試問によって学位を受ける.今日のものとはいくぶん違うが「ファイバー空間」の最初の定義を与えた. この時期の共同作業から,トレルファールの講義ノートを元にした有名な『トポロジー講義』Lehrbuch der Topologie(1934)が生まれる.
 教授資格のための論文は「連続ベクトル場」(1934)である.1934年の終わりには母校の枠外の教授になる.
 1933年からナチは公職からユダヤ系の人々を追放した.その結果空いたハイデルベク大学の数学教授になることを命令され,1936年に教授となる.これもトレルファールとの共著である『大域変分法』(1938)は難解であったモース理論の教科書である.当時のドイツの政治状況からは危険をともなう,本の題辞にケプラーの「今日,数学の本を書くことは非常に難しい」という引用を置くことを,2人の職を賭して主張した.
 戦争中はドイツ空軍附属の空気力学研究所で軍事活動をする.おかげで,他では続けられなかっただろう数学の研究が出来た.テーマは微分方程式になったが.
 戦後は,占領軍に忌避されずに済み,戦後閉鎖されていたハイデルベルク大学が 再開されると同時に数学の教授となる(1946-75). トレルファールとの共同研究を再開すべく,彼をハイデルベルクに招くことには成功するが,1849-49の冬学期にM.モースの招きでプリンストンを訪れ,帰国する前にトレルファールが死んだために実現せず.1949年結婚.
 結び目のホモロジー不変量の計算のためザイフェルト曲面を考案.ファイバー空間を用いて,3次元閉多様体の同相問題を研究.  [代コ] トップ

サヴィル(Sir Henry Savile, 1549--1622)
  イングランドの学者.エリザベス1世のギリシア語と数学の教師をつとめ, オックスフォード大学マートン・学寮長(マートンカレッジは1264年に創立されたオックスフォード大学の学寮の1つで,本来は教区牧師の養成が目的であった.付属図書館は14世紀末にできたもので, 英国で最も古い部類に属し, 多くの稀覯本を収集している.),イートン校長(1596)を歴任.
  1619年オックスフォード大学に幾何学と天文学の講座を創設.初代のサヴィル幾何学教授はヘンリー・ブリッグスで,ジョン・ウォリス(1649--1703),エドモンド・ハリー(1704),H.スミス(1860-1883),J.シルヴェスター(1883),G.H.ハーディティッチマーシュ(1931),M.アティヤ(1963) など, サヴィル天文学教授にはJ.キールクリストファー・レン(1661-73)などがいる. トップ

坂井英太郎(Sakai Eitaro, ).
 東京帝国大学理科大学物理学科卒業(1895),翌年から山口高等学校教授.1898年藤沢利喜太郎に招かれて理科大学数学科助教授(1898.8.11-1904.5.2),教授(1904.5.3-1932.3.31).
 専門は解析学で,微分積分学や解析学特論を担当.1913年に理学博士, 1932(昭和7)年に停年退職するまで,藤沢の後をうけて長い間教室主任の仕事を引受けた. 坂井は勧められたが外国には留学しなかった.
 『解析幾何学』東京共立社(昭和9),『高等解析特論』東京共立社(昭和11),『微分積分学 上下』東京共立社(昭和12),『微分積分学演習 1,2,3』東京共立社(昭和10,21,21),『微分方程式初歩: 附變分法』(輓近高等数学講座 13.D, 14.D)共立社 (1929) ,『変分法』共立出版(1946).」  [文3] トップ

ザカリアス(Heinrich Wilhelm Max Zacharias, 1873.5.5-1962.5.2.) ベルリンの生まれ.
 ベルリン大学に学ぶ(1894-1897).1898年に教職の試験に合格しベルリンで高校教師.ロストック大学から『3次曲面上の27本の直線と4次の平面曲線の28本の2重接線との関係について(Über die Beziehung zwischen den 27 Geraden auf einer Fläche 3. Ordnung und den 28 Doppeltangenten einer ebenen Kurve 4. Ordnung)』により学位取得(1903).
 数理科学百科事典に初等幾何学の項を執筆.幾何学,算術,三角法,代数に関する高校教科書執筆(1920年代と30年代).非ユークリッド幾何学と射影幾何学の入門書や,G.デザルグに関する本も. [クI附B],[クII附A] トップ

ザギエ,ドン(Don Bernard Zagier, 1951.6.29-.)
 ドイツ,ハイデルベルクの生れ.MITで物理と数学の両方を卒業(1968),ボン大学からF.ヒルツェブルフの指導で,『共変ポントリャーギン類と軌道空間への応用(Equivariant Pontrjagin Classes and Applications to Orbit Spaces)』によりPh.D.取得(1972).24歳の時にボン大学教授(1976),ボンのマックス・プランク研究所(1984),メリーランド大学(1979-90),九州大学,ユトレヒト大学でも教授.現在,マックス・プランク研究所理事.コレージュ・ド・フランス教授.代数幾何,数論,トポロジー,数理物理.

 フェルマの定理の1文による証明とか,
(6803298487826435051217540/411340519227716149383203, 411340519227716149383203/21666555693714761309610, 224403517704336969924557513090674863160948472041/8912332268928859588025535178967163570016480830)  によって,157が合同数である,とかいったちょっと不思議な仕事もある.

 ヒルツェブルフとヒルベルトのモデュラー曲面の研究.バーチ・スウィナートン=ダイアー予想に関係したグロス=ザギエ公式(1986),ヘルグロッツ=ザギエ関数(1975).  日本語の本に,『数論入門』(片山孝次訳,岩波書店)がある.弟子にコンツェヴィッチ,Svetlana Katok,Joseph Oesterlé,Maryna Viazovskaなど.  [名3], [珠説2.2.3,文], [天4], [天VI.4,9] トップ

ザクス (Joseph Zaks, 1940-2018.)
 イスラエル,ハイファ,ハイファ大学教授.ワシントン大学で,B.グリュンバウムの指導で,On minimal complexes and decompositions of EnによりPh.D.取得(1968).
 トポロジー,グラフ理論.ハイファ大学.  [天12], [天VI.16] トップ

佐久間象山(Sakuma Shozan, 文化8年2月28日(1811.3.22)-元治元年7月11日(1864.8.12)). 信濃埴科郡松代字浦町で生まれ,京都三条木屋町に死す.
 幼名は啓之助,通称は修理,諱は国忠.のちに啓ひらき,字は子迪してき,後に子明しめい,号は象山.
 14歳で藩儒の竹内錫命に詩文を学び,16歳で佐藤一斎門下の鎌原桐山に経書を学び,町田源左衛門正喜に会田流の和算を学び,水練を河野左盛から学ぶ.剣はおそらく卜伝流の達人だった父から学んだか,剣は不要と学ばなかったか. 文政11年(1828)、父の側右筆・佐久間一学国善の隠居に伴い,家督を継ぐ.
 天保4年(1833)11月に江戸に出て,佐藤一斎に詩文・朱子学を学び,山田方谷と共に「二傑」と称される.
 天保10年(1839)には江戸で私塾「象山書院」またの名を「五柳精舎」を開き,儒学を教える.天保13年(1842),松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降,幸貫から洋学研究の担当者に指名され,象山は江川英龍の下で兵学を学ぶが,江川の教育法とは合わず,砲術・高島流の下曽根信敦から文書を借り独学する.幸貫に『海防八策』を献上.大砲の鋳造に成功.
 弘化3年(1846)1月,内田五観を訪問し,西洋学術の基礎にあるものとして詳証学(数学のオランダ語)を聞く.
 嘉永2年(1849)に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図.嘉永6年(1853)のペリー来航の際も,象山は視察として浦賀の地を訪れている.
 嘉永7年(1854),再び来航したペリー艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企てた事件に連座して伝馬町に入獄.更にその後は文久2年(1862)まで松代で蟄居.
 元治元年(1864),象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いたが,7月11日に三条木屋町で河上彦斎らの手にかかり暗殺される.
 鋭すぎる洞察力,有り余る行動力,和漢洋の広い学識,時代を見通し世界を見渡す見識,大きな影響力,そのすべてが強すぎる自負心のため何度も挫折するが,最後には京都まで行き一瞬に消えた.
 弟子に松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、坂本龍馬など.勝海舟の妹、順と嘉永5年(1852)に結婚.  [文2] トップ

サーストン,ウィリアム (William Thurston, 1946.10.30-2012.8.21)
 アメリカ,ワシントンに生まれる。ニュー・カレッジ卒業(1967),カリフォルニア大学バークレイ校でM.W.ハーシュの指導で,論文「円周バンドルである3次元多様体の葉層(Foliations of Three-Manifolds which are Circle Bundles)」によりPh.D.取得(1972).プリンストン大学,MIT,カリフォルニア大学バークレイ校,カリフォルニア大学デーヴィス校,コーネル大学教授。MSRI所長(1992-96).
  トポロジー,特に葉層構造,低次元トポロジー.1982年にフィールズ賞授賞。
 日本語の本に『3次元幾何学とトポロジー』(小島定吉監訳,培風館,1998)(Three-Dimensional Geometry and Topology, vol.1, Princeton Univ. Press, 1997)がある.  [名17-18], [ト附], [フ12], [50.13] トップ

ザックス(Abraham Joseph Sachs, 1914.12.11-1983.4.22.) アメリカ,ボルチモアに生まれ,ロードアイランド州プロビデンスに死す.
 ジョンズ・ホプキンス大学からアッシリア学のPh.D.取得(1939).ノイゲバウワーがシカゴの東洋研究所に出かけた時に彼と会い,共同研究が始まり,バビロニア天文学や数学の楔形文字のテキストの翻訳を行う.1945年の『楔形文字の数学テキスト(Mathematical Cuneiform Texts)』はバビロニア数学に関する英語での標準になっている.
 ジョンズ・ホプキンス大学アッシリア学教授(1948).1952年にロックフェラー奨学金を得て,大英博物館のバビロニア天文日誌の研究に従事. [幾1] トップ

サーティ(Thomas L. Saaty, 1926- .) イラン,モースルの生まれ.
 コロンビア・ユニオンカレッジ卒(1948),アメリカ・カトリック大学(CUA)で修士(1949).イェール大学からC.E.ヒレの指導で「ベッセル・トリコミ方程式について(On the Bessel Tricomi Equation)」によりPh.D.取得(1953).
  ピッツバーグ大学特別教授で,ビジネス大学院で教える.その前はウォートン・スクール(The Wharton School of the University of Pennsylvania)で統計学とORの教授(1969-79).その前は色々な政府機関で働く.
 発明家で,建築家で,階層分析法(AHP)の主要な理論家.OR,軍備管理,軍縮,都市設計などに業績.
 数学,OR, 意思決定に関して35を超える著書と,350を超える論文がある.
 数学に関する著書には『現代の数学I-III(Lectures on Modern Mathematics)』(1964-1965, 日本語訳あり),『非線形数学(Nonlinear Mathematics)』(1964),『有限グラフとネットワーク(Finite Graphs and Networks)』(1965,R. Busackerと共著,日本語訳あり), 『整数における最適化と関連する極値問題(Optimization in Integers and Related Extremal Problems)』(1970),『4色問題:攻撃と征服(The Four-Color Problem; Assaults and Conquest)』(1977, Paul Chester Kainenと共著)など. [ト文] トップ

サード(Arthur Sard, 1909.7.28-1980.)
 アメリカ,ニューヨークの生まれ.ハーヴァード大学でモースの指導により論文「関数の臨界値の測度(The Measure of the Critical Values of Functions)」でPh.D.取得(1936).
 カリフォルニア大学教授.複素関数論,近似関数,微分可能関数の作用素.サードの定理.   [ト序, 2-4, 文] トップ

佐藤幹夫(1928.4.18--2023.1.9)
  東京都の生まれ.
 東京大学数学科卒,物理を朝永振一郎に学ぶ.高校数学教師を勤める.境界値として1変数の超関数(hyperfunction)の理論を完成後,学界に復帰.大坂大学教授,京都大学数理解析研究所教授,所長.
 多変数の超関数を層係数の相対コホモロジーの元として表わす.可積分系,ソリトン方程式,無限次元グラスマン多様体,D加群,ホロノミック量子場,佐藤・テイト予想,概均質ベクトル空間など. 柏原正樹,河合隆裕,三輪哲二,神保道夫ら弟子を共同研究をすることで育て,佐藤スクールと呼ばれる. トップ

サニア,アキレ(Achille Sannia, 1822.4.14-1892.8.2) イタリア,カンポバッソに生まれ.ナポリに死す.イタリア王国の上院議員.電気工学の学校設立(1871).
 ナポリ大学幾何学教授(1865-).射影幾何学,初等幾何学.
 1869年にエンリコ・ドヴィディオと共著で,学校教育での幾何の教科書を書く.
[クII.3.3] トップ

サビトフ,イジャッド・ハコビッチ(Idjad K. Sabitov; Иджад Хакович Сабитов, 1937.12.15.) ロシア,モスクワ州ボスクレセンニクの生まれ.タジキスタン共和国ドゥシャンベのタジキスタン国立大学卒業(1959)後,2年間助手.
 モスクワ大学からN.V.エフィモフの指導で「無限小の曲げの理論でのダルブー曲面(Darboux Surfaces in the Theory of Infinitesimal Bendings)」により博士号(1965).
 モスクワ国立大学数学力学科教授(2005).
 多面体論.鍛冶屋のふいごの仮説の証明(R.コナリーA.ウォルツとともに)   [天11], [フ文], [幾10], [天VI.14] トップ

サービト・イブン・クッラ(Al-Ṣābiʾ Thābit ibn Qurra al-Ḥarrānī, 826-901.2.18). メソポタミア北部のハッラーン(現在トルコ領)に生まれ,バグダードに死す.
 当時ハッラーンはギリシャ系文化の中心地.富裕なジャッファル・ムハンマド・イブン・ムーサー・イブン・シャーキルに招かれ,バグダードの「知恵の館」に学ぶ.晩年は,アッバース朝のカリフ,ムゥタディドに仕える.
  数学、天文学、占星術、魔術、工学、医学、哲学に通じ,母語はシリア語だがギリシア語にも堪能で,バグダードで翻訳家として活動し、アポロニウスアルキメデスエウクレイデスプトレマイオスの著書などをアラビア語に翻訳.特に,フナイン・イブン・イスハークによってアラビア語訳されたエウクレイデスの『原論』の改訂とプトレマイオスの『アルマゲスト』,『ゲオグラフィア』,『シュンタクシス』の再書.翻訳家養成学校を創り,優れた翻訳家を輩出.
 『友愛数の定義についての書』で,友愛数の組を求める数式を与える. 『代数問題についての正しい幾何学解』で、方程式に幾何学的証明を与える. 当時は直角二等辺三角形にのみ適用されていたピュタゴラスの定理をすべての三角形に適用できるように一般化.球面三角法,平行線公準の証明,アルキメデスの放物線の求積法などの研究.アルキメデスの翻訳の中で,彼の正7角形の作図を与えている(このことは20世紀に発見されたが元の書物は失われた).
 歳差運動を分点の秤動で説明する「トレピダチオ説」 の提唱と言われるが,テオンによるプトレマイオスの注釈書の中で言及ありという.恒星年を高精度で求めたと,コペルニクスが書いている.    [幾1,3,6] トップ

サボー(Sándor Szabó)
  ハンガリー,ペーチ大学数学情報研究所教授,ブダペシュト工科・経済大学解析学科上級講師.
 群論,タイル張り.
『代数学とタイル貼り:幾何の役に立つ準同型(Algebra and tiling:Homomorphisms in the Service of Geometry) 』(1994, スタインと共著). 『群を部分集合に分割する(Factoring Groups into Subsets)』(2009,A.T.サンズと共著), 『Topics in Factorization of Abelian Groups(2005.4)』 [フ文], [天VI.22] トップ

サマヴィル,メアリ(Mary Fairfax Greig Somerville, 1780.12.26--1872.11.29.)
 スコットランド,ロクスバーグシャー,ジェドバーグに生まれ,イタリア,ナポリに死す.
 独学で数学のみならず広く自然科学を学ぶ.1831年にラプラスの『天体力学』の改訂版.『自然科学の相互関係について(The connection of the physical sciences)』は版を重ねる.
『物理地理学(Physical geography)』(1848)は定版の教科書となり,20世紀初頭まで使用された.
 イギリスの学者たち,G.エアリージョン・ハーシェルウィリアム・ハーシェル,G.ピーコック,C.バベッジらと,また 大陸の学者たち,例えば,ラプラス,D.F.アラゴーA.フンボルトなどとの交流・文通でも有名.   [伝1,2] トップ

サメルソン,ハンス(Hans Samelson, 1916.3.3-2005.9.22)
 ドイツ,シュトラスブルク(現在フランス,ストラスブール)に生まれ,アメリカ,カリフォルニア州パロ・アルトに死す.
 両親は小児科医.ドイツ,ブレスラウで幼年期を過ごし,ブレスラウ大学に入学.両親の助けで,ナチから逃れるために,1936年チューリヒに逃れ,そこでH.ホップに学び,1940年にスイス連邦工科大学から,「群多様体のトポロジーについての寄稿(Beitr\"age zur Topologie der Gruppen-Mannigfaltigkeiten)」により,博士号取得.
 1940年にプリンストンの高等研究所からポストを提示され,アメリカに移住.第2次大戦の6ヶ月前だったせいで,市民権を得るのに数年かかった.
 ワイオミング大学(1942-1943),シラキューズ大学(1943-1946),ミシガン大学(1946-1960),スタンフォード大学(1960-1986).  微分幾何,微分トポロジー,リー群論.モース理論,対称空間,コンパクト群のベッティ数.ボット・サメルソン多様体.   [ワ文] トップ

サーモン(George Salmon, 1819.9.25-1904.1.22.)
 アイルランド,コークに生まれ,ダブリンに死す.
 ダブリンのトリニティカレッジに入学し(1833),数学と古典を学び,数学の学位を得て卒業(1838).当時,同校では英国教会員には学位やフェローになるための制約があり,1841年に提供されたフェローになるためにアイルランドの教会の聖職に就いた.1844年に聖職者の娘と結婚し,4人の息子と2人の娘を生む.
 トリニティカレッジの数学(1846)および神学教授(1866).1841年当時同校にはハミルトンなどがいて活発で,綜合幾何が主流だったが,サーモンは代数幾何に転向する.ケイリーシルヴェスターなどと親交.
 不変式論,射影幾何,線織面.代数曲面の正規特異点の概念.ケイリーとの文通の中で,3次曲面上の27本の直線の存在を発見(存在はケイリーで,27本を数えあげたのがサーモン).
 4冊の教科書:  A treatise on conic sections「円錐曲線論」 (1848),  A treatise on higher plane curves「高次」平面曲線論(1852), Lessons introductory to the modern higher algebra「現代高等代数学への入門的講義」(1859)  A treatise on the analytic geometry of three dimensions「3次元の解析幾何学」 (1862). は特に有名で,あらゆるヨーロッパ言語に翻訳され,大きな影響を与えた.     [ワ2], [伝4], [フ17], [クII.3.1] トップ

サラサアルフォンス・アントン・ドゥ(Alphonse Antonio de Sarasa, 1618-1667).
 フランドル,ニーウポールトに生まれ,ベルギー,ブリュッセルに死す.
 聖ヴァンサンのグレゴリーの弟子。イエズス会士。
 アントワープとブリュッセルで学術的な地位にあったらしい.
 対数を,双曲線下の面積と理解.
『メルセンヌが提出した問題の解答(Solutio Problematis a Mersenno Propositi)』(1649) .  [解I.3, 文] トップ

ザランキエヴィッツ(Kazimierz Zarankiewicz, 1902.5.2-1959.9.5.)
 ポーランド,チェツトチョヴァに生まれ,イギリス,ロンドンに死す.
 ワルシャワ大学で,点集合論をテーマにPhD取得(1923).ワルシャワ工科大学教授(1937年に推薦されるが戦時のため停滞.1948年に正式に教授に).ドイツの占領下(1944-45)では,地下大学で教える.アメリカにわたって,ハーヴァード大学などでも教鞭.トポロジー,グラフ理論,整数論,複素関数論.シェルピンスキクラトフスキとも共同研究.
 ポーランドの数学オリンピックのチームの指導(1949-1957).当時会長だった国際宇宙飛行士連合の第10回コングレスの際にロンドンで客死.   [天21], [天VI.28] トップ

ザリスキ(Oscar Zariski, 1899.4.24--1986.7.4).
 ロシア帝国,白ロシア,コブリンに生まれ,アメリカ,マサチューセッツ州ブルックリンに死す.
 キエフ大学に入学するが,数学を取れず,哲学に回る.ロシア革命前夜の混乱を避け,イタリアに行き,ピサ大学,ローマ大学に学ぶ.カステルヌーヴォエンリケスに学ぶ.
 ドイツ学派(E.ネーターファン・デル・ヴェルデン)との接触でイタリア学派の厳密さの軽視に堪え切れず,レフシェッツの助けもあって,アメリカに行き,ジョンズ・ホプキンス大学に勤務(1927).アメリカの諸大学で教え,最後にハーヴァード大学教授(1947ー69).
 代数幾何学.代数曲面の特異点の解消.ザリスキ開集合,ザリスキ位相,ザリスキの問題,ザリスキ環.
 弟子にテイト広中など.    [先],[伝7,8,9,10], [辞] トップ

サルナク(Peter Clive Sarnak, 1953.12.8-).
 南アフリカ,ヨハネスブルグの生まれ.ウィトウォーターズランド大学卒(1974),スタンフォード大学からP.J.コーエンの指導でPrime Geodesic TheoremsによりPh.D.取得(1980).
 解析的整数論.
 クーラント研究所,スタンフォード大学,プリンストン大学教授(2002-).現在プリンストン高等研究所とクーラント研究所を兼務.  [天4], [天VI.4] トップ

ザルガラー(Victor Abramovich Zalgaller, 1920.12.25-).
 ロシア,ノヴゴロド州パルフィノの生まれ. レニングラード大学でA.D.アレクサンドロフのもとで「有界な曲率の2次元多様体(2-dimensional Manifolds of Bounded Curvature)」により理学博士(1963).A.D.アレクサンドロフとレオニート・カントロヴィチとともに レニングラード大学とスチェクロフ数学研究所のレニングラード分局で働く.1999年にイスラエルに移民.
 幾何学,最適化問題,多面体、動的計画法、等周不等式、微分幾何学. ジョンソンの立体が全部で92種類であること(ジョンソンが与えたものだけであること)をコンピュータによって証明(1969),ザルガラーの多面体とも呼ばれる.
 ブラゴとの共著『幾何の不等式(Geometric Inequalities)』(1988).  [フ文] トップ

ザレンバ(Stanisław Krystyn Zaremba, 1903.8.15-1990.1.14). ポーランド,クラクフに生まれ,ウェールズ,アベリストウィス(Aberystwyth)に死す.父親のStanisław Zaremba(1863-1942)も数学者.  クラクフにあるヤギェウォ大学と(1921-24, 1926-29),パリ大学(1924-26)で学ぶ.パリ第4大学ソルボンヌ校からダルブーピカールの指導でSur un probleme concernant l'etat calorifique d'un corps solide homogene indefiniによりPh.D.取得(1889).
 1936年からヤギェウォ大学助教授.タジキスタン,イギリス,ウェールズ,アメリカ,カナダで講師をする.
 イギリス,ウェールズのYr Hen Ysgol(アル・ヘーン・アスコル)大学の教授.
  low-discrepancyな数列,low-discrepancyな点集合,その数値積分の擬モンテカルロ法への応用. Hlawka・ザレンバの公式.
 シェーンベルクからの手紙の中にコーシーの補題の証明の誤りとそれを訂正したものがある [天11], [フ文], [天VI.14] 
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沢山勇三郎(Yuzaburo Sawayama, 1860-1936).
 萩藩士に家に生まれる.明治9年16歳で萩の塾の算術助教授になる.やまぎ知見高等中学の教頭だった谷田部梅吉に注目され,明治14年に谷田部が東京物理学講習所(明治16年に東京物理学校に改称)所長になったとき,沢山を教員として推薦.沢山はその後,萩中学,山口中学などの講師をしながら,中等教員検定試験(算術・第数・幾何)に合格.明治21年に上京,東京物理学校講師に.その後,第一高等中学校,陸軍幼年学校,陸軍士官学校でも教え,明治34年から昭和10年まで,東京物理学校で教える.
  初等幾何学の大家.フォイエルバッハの定理の30通りの証明を発表.テボーの第3問題の解決.
 『沢山勇三郎全集』(岩波書店,1938).   [幾7]  
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サンスセルナ,イエス・マリア(Jesús María Sanz Serna, 1953.6.12-). スペイン,バリャドリッドの生まれ.応用数学,幾何学的積分論.
 コレギオ・サンホセ卒業後,バリャドリッド大学で学ぶ(1970-1975).バリャドリッド大学数学科から,Antonio Pérez Gómezの指導で,ESPACIOS DE SUCESIONES EN ESPACIOS VECTORIALES TOPOLOGICOS(位相線形空間における点列の空間)により,Ph.D.取得(1977).1975年以降バリャドリッド大学で教える.
 テーマを数値解析に変え,スコットランドのDundee大学の数値解析講座で修士課程(1978-79).Ron Mitchell, Jack Lambert, Roger Fletcher, Alistair Watson, David Griffithsらに学ぶ.
 1981年バスクのビルバオ大学で定職に就くが,1982年にバリャドリッド大学の正教授になる. バリャドリッド大学学長(1998-2006).
 著書にNumerical Hamiltonian Problems(数値的ハミルトン問題)(1994).   [幾7]  
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サンダース,ダニエル(Daniel P. Sanders, 1969.7.12-).
 ジョージア工科大学からR.トーマスの指導で「高々4の幅の樹木グラフに対する線形アルゴリズム(Linear Algorithms for Graphs of Tree-Width at Most Four)」により学位(1993).
 プリンストン大学数学科助教授(97-98),ルネサンス・テクノロジー社(98-).コロンビア大学客員教授.
 4色定理の新証明の共著者(R.トーマスロバートソンダニエル・P・サンダースポール・シーモア)の1人.(A new proof of the four-colour theorem,Electron. Res. Announc. Amer. Math. Soc. 2 (1996), 17-25.). 
 世界的なグラフ理論のホームページ(http://www.graphtheory.com/resources.htm) の管理. [名19], [天27], [天VI.39] トップ

サンディファー,エド(Ed Sandifer).  西コネチカット州立大学ダンベリー校数学教授.
 34回ボストン・マラソンを走る.オイラー協会幹事.How Euler Did It - The Euler Archive
  [幾6] トップ

サンティラナ(Giorgio Diaz de Santillana,1902--1974).
 イタリア,ローマに生まれ,アメリカ,マサチューセッツ州べヴァリーに死す.
 MIT教授,科学哲学者で科学史家.   [伝10] トップ

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シェイクスピア,ウィリアム(William Shakespear, 1564.4.26(洗礼日)--1616.4.23).
 イギリス,ストラットフォード・アポン・エイヴォンの生れ.4月23日とされている誕生日は後の創作であるらしい. 劇作家,詩人.エリザベス朝のみならず,史上最も高名な英文学の作家.
 生涯についてはほとんど記録がないが,若くして結婚し2人の娘があったという. 1585年前後にロンドンに出たといわれ,1592年には史劇『ヘンリー六世』三部作(1590-92年)『リチャード三世』などの作家として知られ,1594年には劇団の中心人物となって,グローブ座の株仲間にもなった.役者をしたこともある.1612年頃故郷に隠退.友人と酒席で飲み過ぎ,熱を発したのが死因と言われている.
 四大悲劇『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』(1595)『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』(1599)など,ほとんどすべての作品の日本語訳. 詩人としては,物語詩『ヴィーナスとアドーニス』(1593)『十四行詩』(1594)など. 人間観察眼と内面の心理描写は、後の哲学や,心理学,精神分析学への影響が大.  [モ歴], [孫数] トップ

シェイニン,オスカー(Oscar Sheynin, 1925.11.29--).
 モスクワの生まれ.1932-42に10年制の高校に学ぶ.モスクワ測地学大学卒(1951),測地工科大学で測地学を教え,速報誌『天文学と測地学』の副編集者.6年間,モスクワのプレハノフ国立経済学研究所の講師.1959年にモスクワ大学力学科卒で,誤差論に関する博士論文が通る.1991年5月にドイツに移住(最初はケルンで,後ベルリン).
 科学史を専門にする.確率論,統計学,天文学など.聖書やタルムードにおける統計概念に言及.著書多数.[率0] トップ

ジェイミスン(Robert Edward Jamison, II, -2006.5.5).
 南カロライナ州,クレムソン大学数理科学科教授.
 クレムソン大学学士(1970),ワシントン大学修士(1973),同大学からV. クリーの指導で「凸性の一般論(A General Theory of Convexity)」によりPh.D.取得(1974).
 凸体の理論,有限幾何学,グラフ理論.[天9], [天VI.12] トップ

ジェイムズ,イアン・マッケンジー(Ioan Mackenzie James, 1928.5.23--).
 イギリス,サリー州,クロイドンの生まれ.
 ロンドン,セントポール校に学び,オックスフォード大学クイーンズ・カレッジに進学.J.H.C.ホワイトヘッドの下で,「代数トポロジーにおけるいくつかの問題」でPh.D.取得(1953).
 純粋数学のReader(1957--1969),セントジョンズ・カレッジの上級研究フェロー(1959--1969).オックスフォード大学のサヴィル幾何学教授職(1970--1995),名誉教授.ロンドン数学会会長(1984).
 トポロジー,特にホモトピー論.ジェイムズ埋込み,ジェイムズ被約積.
 著書も専門の「トポロジーと一様性」(1999)以外に,Remarkableシリーズが4冊(2002-2010),「アスペルガーの偉人たち」(2005),「ユダヤ人数学者と物理学者の世紀 Driven to Innovate: A Century of Jewish Mathematicians and Physicists, Peter Lang Oxford, 2009.」がある.そのうちRemarkable Mathematicians『数学者列伝』は管理者が翻訳した. [伝],[辞], [作付B] トップ

シェイル,ロン(Ron(Ronald) Shail).
 イギリス,サリー大学名誉教授.
 レスターの定理(不等辺三角形に対して,2つのフェルマ点と九点円と外心が同一円上にある)やテボーの定理などの初等的証明. [幾7] トップ

シェップ(Adolf Schepp, 1837-1905.3.9).
 ドイツ数学者.多くの数学書をドイツ語に翻訳.
 ディニの本をドイツ語に翻訳。[解文] トップ

ジェニューイ,フランソア(Francois Genuys,1927.8.26--).
 1658年にマチンの公式により,IBM704を使って$\pi$を1万桁計算する.1959年にはフランス原子力庁で1万5367桁計算. トップ

ジェノッチ(Angelo Genocchi, 1817.3.5-1889.3.7). イタリア,ピアチェンツァに生まれ,トリノに死す.
 ピアチェンツァ大学で法律を学ぶ.  トリノ大学教授。
 整数論,ジェノッチ数
ペアノが彼の助手をしていたとき、事故に遭い、その代わりにペアノが微積分の講義をまとめた教科書が文献にジェノッチ--ペアノとあるものである。[解IV-3, 文] トップ

シェパード(Geoffrey Colin Shephard).   ケンブリッジ大学からトッド(John Arthur Todd)の指導で「正則複素多面体(Regular Complex Polytopes)」によりPh.D.取得(1954).
 イギリス,イースト・アングリア大学数学科教授.タイル貼り.
 複素鏡映群の分類.
 シェパードの問題,シェパード=トッドの定理.
『タイル貼りとパターン(Tilings and Patterns)』(1987,グリュンバウムと共著). 『凸多面体と上界予想(Convex polytopes and the upper bound conjecture)』(1971,Peter McMullenと共著)
  [名10], [幾9,文] トップ

シェファーズ(Georg Scheffers, 1866.11.21-1945.8.12).
 ドイツ,アルテンドルフ(ホルツミンデン近郊)に生まれ,ベルリンに死す.
 ライプツィヒ大学で学び(1884-1888),リーの指導で平面接触変換に関する博士論文(Bestimmung einer Classe von Berührungstransformationsgruppen des dreifach ausgedehnten Raumes)で学位取得(1890).
 ダルムシュタット工科大学私講師(1896),教授(1890).シャルロッテンブルク工科大学(ベルリン工科大学)教授(1907-1935 引退).
 リーがライプツィヒ大学にいたとき(1886-1896)強い影響を受け,1903年にはアーベルの定理に関する論文.微分幾何,具体的な曲線や曲面の性質を研究.多くの教科書を書き,リーの仕事の編集をした.   [伝5], [クI.3.3], [クII.2.4] トップ

ジエリー,カルマン(Győry Kálmán, 1940.2.23-). 北ハンガリー,オーズド(Ózd)の生まれ.
 ハンガリー,デブレツェン大学からトゥラーンの指導で「ディオファントス方程式論への寄与(Contributions to the Theory of Diophantine Equations)」によりPh.D.取得(1966).
 デブレツェン大学教授.  [天VI.3] トップ

ジェルゴンヌ(Joseph Diaz Gergonne, 1771.6.19-1859.5.4). フランス,ナンシーに生まれ,モンペリエに死す.
 コレージュ・ド・ナンシーで教育を受け,卒業後は家庭教師をしていた.歴史に翻弄される.  フランス革命(1789)に対し,ルイ16世の権力回復のために外国が軍事介入したことに対応するため,1971年にフランス陸軍の大尉として登録され,主な戦いはプロイセン軍とのヴァルミーの戦い(1792.9.20).そのあと市民生活に戻ったが,1794年にスペインが侵攻したのデ招集され,1795年に彼の連隊がニームに送られた. この際に,きっぱりと退役を決意し,新設のエコル・サントラルの「超越数学」講座に就く.これも新設のエコル・ポリテクニクの校長モンジュの影響を受ける.
 1810年にジェルゴンヌ誌(Annales de Gergonne)創刊.正式名はAnnales de math\'ematiques pures et appliqu\'ees(純粋および応用数学年報).雑誌のテーマは幾何学で,22年以上継続.自分の論文を出すために作ったが,多くの数学者の論文が掲載された.例えば, ポンスレシュタイナープリュッカーM.シャール,ブリアンソン,デュパン,ラメガロアが含まれる.
 1816年にモンペリエ大学天文学教授になり,1830年に学長になったが,その際に雑誌をやめることにした.月報は1832年まで続けた.学長になる前,「7月革命が起こり,反乱学生たちが彼のクラスで口笛を吹き始めたとき,口笛の音響効果で講義を始めたことにより彼らの共感を回復した」というエピソードがある.
 射影幾何,アポロニウスの問題(3円に接する円を見つける).ジェルゴンヌ三角形,ジェルゴンヌ点.  [伝2,3,4],[三],[幾4,7,8,10,11] トップ

シェルバッハ,カール・ハインリヒ(Karl Heinrich Schellbach, 1805.12.25-1892.5.29). ドイツ,アイスレーベンに生まれ,ベルリンに死す.
 ハレ大学で数学、物理学,哲学を学ぶ.イェーナ・フリードリヒ・シラー大学から博士号取得(1834).フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム教授.
 「マルファッティ問題の1つの解(Eine L\"osung der Malfattischen Aufgabe)」, J. Reine Angew. Math. (Crelle) 45 (1853) 91--92. 
 弟子にアイゼンシュタインネットなど.数学教育学者としても著名. [幾5],[クI.3.3] トップ

シェルピンスキ(Wac\'law Sierpi\'nski, 1882.8.20-1969.5.14).
 ポーランド、ワルシャワに生まれ、ワルシャワに死す。
 クラクフにあるヤギェウォ大学からスタニスラフ・ザレンバとヴォロノイの指導でPh.D.取得(1906).  ワルシャワ、クラカウ、ルヴォフ(1908-14)、モスクワ大学(1915-1918)で教え、ワルシャワ大学教授(1918-)として生涯を終える。
 集合論、点集合論、トポロジー、整数論。
 シェルピンスキ三角形,シェルピンスキ曲線,シェルピンスキ絨毯,シェルピンスキ数(k×2n+1が任意の自然数nに対して素数にならないようなkのこと.シェルピンスキ数は無限に存在する.k=78557はシェルピンスキ数だが,これより小さいものは見つかっていない.可能性があるのはあと5つ(これは時とともに減っていくだろうが)),シェルピンスキの問題,シェルピンスキのゲーム.
 今も有力な雑誌である『数学の基礎 Fundamenta Mathematica』を創刊した。
 『一般トポロジー入門(Introduction to General Topology)』(1934),『一般トポロジー(General Topology)』(1952) . 日本語の本には『ピュタゴラスの三角形』(銀林浩訳)東京図書(1993)がある。[解IV.1, 5], [ブ50], [伝7], [フ2], [辞] トップ

ジェルマン,マリー=ソフィー(Marie-Sophie Germain, 1776.4.1--1831.6.27).
フランス,パリに生れ,パリに死す.
絹商人の娘で,家はサロンの呈.13歳のときアルキメデスがローマ兵によって殺されたことを知り,数学者になることを決意.学問を志し,ラテン語やギリシャ語は教えることができるほどに.親が寝静まってから,毛布にくるまってニュートンオイラーを読む.エコル・ポリテクニクの講義ノートで勉強.ラグランジュの解析の講義の終わりの論文提出の課題がでて,彼女は1年前に死んだ学生の名前(ル・ブラン)を使って論文を提出した.後に正体を知ったラグランジュは驚き,パリの科学者の何人かは彼女の勉学の手助けをした. 1797年までにはラプラスの『太陽系解説』を読破した.
ルジャンドルの「数の理論について」(Essai sur le Theorie des Nombres)(1798)が出版されると,問題について手紙の遣り取りが起こる.ルジャンドルの本の2版には彼女の結果も載せられる.
1801年にガウスの『整数論研究』が出版されると,そこにある演習問題を解き,ガウスに送る.ル・ブラン氏名義の手紙の交換が始まる. 1806年にフランス軍がガウスの故郷ブラウンズウィックを占領すると,アルキメデスの運命を思い,ガウスの安全を占領軍の将軍に依頼する.それによって,ガウスに正体が分かる.
フェルマ予想に対するソフィー・ジェルマンの定理は,1840年のクンマーの結果が出るまでは最良のものだった.
1808年にドイツの物理学者エルンスト・クラドニがパリを訪れ,クラドニの図形を描く実演をして,パリ科学アカデミーが「弾性面の振動の数学理論を定式化し,それが経験的な証拠とどのように符合するかを示せ」という懸賞問題を出す.彼女だけがそれに応じ,受賞者なしを2回続け,3度目にも彼女だけが応じ「特別金賞メダル」を得た.後にフーリエの援助でこの論文が出版されたが(1821),ポアソンのより広汎な著書が出版され,そこでは彼女の仕事が言及されなかった.
 晩年に乳癌に罹ったが,さらにリブリというイタリア人のいかさま師の悪事に心ならずも荷担したような形になってしまう.実質的な仕事をともなう,史上最初の女性数学者だったと言えるだろう.  [伝1,2,3], [辞] トップ

ジェロベンコ(Dmitrii Petrovich Zhelobenko, 1934-).
 ロシアの数学者.リー群の表現論.複素半単純リー群に対するペイリー・ウィーナー型定理の証明(1963).コンパクト群の表現論に関する包括的な教科書(1970)も有名.  [代コ] トップ

シェーンハルト(Erich Schönhardt, 1891.6.25-1979.11.29). ドイツ,シュツットガルトに生まれ,同地に死す.
 シュツットガルト大学に学び,チュービンゲン大学に移って,Eberhard-Karls-Universität Tübingenからマウレルの指導で「超楕円の場合のショットキー群について(Über die Schottkysche Gruppe im hyperelliptischen Falle)」によりPh.D.取得(1920).
 1930年代には同学部のナチ党の指導者で,カムケがユダヤ人女性と結婚したことを非難し退職に追い込む.
 1936年にシュツットガルト大学にもどり,学部長(1939-1942)
 シェーンハルト多面体(頂点を追加しないでは四面体に分割できない多面体:1928). [天VI.40] トップ

シェーンフリース(Arthur Moritz Schoenflies, 1853.4.17-1928.5.27).
 ドイツ,ランヅベルグ・アン・デル・ヴァルテ(現在,ポーランド,Gorzow)に生まれ,ドイツ,フランクフルト・アン・マインに死す.
 ベルリン大学に学ぶ(1870-75).教師にはクンマーワイエルシュトラス.1877年に学位を取得し,翌年ベルリン市内の学校で教えるようになり,1880年にはアルザスのコルマー(Colmar)に教えに行く.
 1884年にゲッティンゲン大学から教授資格を授与.F.クラインが作ったゲッティンゲン応用数学の講座の教授となる(1892).1899年ケーニヒスベルク大学教授,1911年にフランクフルトの社会・経済学アカデミーの教授になる.このアカデミーは1914年に大学になり,教授(1914-22),学長(1920-21).
 最初は幾何と運動学を研究.クラインの示唆により,群論的方法を使って,E.S.フョードロフと独立に空間結晶群の分類(1890-91).『結晶系および結晶構造』(1891).フョードロフと細かい間違いについての意見の交換があり,1923年には分類に関する決定本を出版.
 1895年頃から,興味が集合論とトポロジーに移る.ハウスドルフの本(1914)が出るまでの重要な文献を沢山書いている.正方形の次元の位相不変性を証明.創業者ゆえの間違いやギャップは,L.E.J.ブラウエルによって調べられより深い研究へと導いた.
 運動学,射影幾何学,画法幾何学,解析幾何学,微積分などの教科書も書いている.プリュッカー全集の編集(1895). [代コ], [伝8], [フ26], [クI.3.4], [クII.2.4]   トップ

シェーンベルク(Isaac Jacob Schoenberg, 1903.4.21-1990.2.21).
 ルーマニア,ガラッツの生まれ.I.シューアランダウの弟子.最後はウィスコンシン大学教授.解析的整数論,関数解析,実関数論.ベルンシュタイン・シェーンベルク作用素.スプライン曲線を命名する(1946).  [天11], [フ24,文], [天VI.14] トップ

ジーゲル,カール(Carl Ludwig Siegel, 1896.12.31-1981.4.4).
 ドイツ,ベルリンに生まれ,ゲッティンゲンに死す.
 ベルリン大学天文学科入学(1915).フロベニウスの講義を聞き数学を志す.1919年ゲッティンゲン大学に移り,ランダウの指導で「代数的数の近似(Approximation algebraischer Zahlen)」により哲学博士号を得る(1920).
 フランクフルト大学(1922-1937),ゲッティンゲン大学(1938-1940,1951-59,退官後も67まで講義する),プリンストン大学(1940-1951)教授.整数論(ディオファントス方程式,2次形式,L関数,ゼータ関数),複素関数論,保型関数論,天体力学(三体問題).
 ジーゲル円板,トゥエ・ジーゲル・ロスの定理(1958),ミンコフスキー・ジーゲル質量公式,ランダウ・ジーゲルのテータ関数,ジーゲルの公式,リーマン・ジーゲルの公式,ジーゲル上半平面,ジーゲル数,ジーゲル・ヴェイユの公式,ジーゲルの放物部分群.

文献
  1. 『天体力学講義』(Lectures on Celesetial Mechanics, Springer, 1951. 第2版はJ.モーザーと共著1971),
  2. 『複素多変数解析関数』(Analytic functions of several complex variables), Princeton Univ.Press, 1950.
  3. 『複素関数論の話題』(Topics in Complex Function Theory), Vol. I, II, Wiley-Interscience, New York, 1969, 1971.
 弟子も多く,J.モーザー,マイヤー(Wilhelm Erwin Otto Maier),シュナイダーメイナルダスなど. [パ年表], [名15], [伝9]   トップ

シドラー(Jean-Pierre Sydler, 1921-1988)
 スイス,ヌーシャテルに生まれ,チューリヒに死す.
 チューリヒ工科大学(ETH)卒業(1943)後,「n次元空間に付随する超2次曲面と直線(Des hyperquadriques et droites associ\'ees de l'espace \`a n dimensions)」(1946)によりPh.D.取得(1947). 1950年からETHの図書館に勤務し,余暇に数学の論文を書く. 1960年に鋏合同に関する仕事で,デンマーク科学アカデミーから賞を受ける. 1963年にETHの図書館長(-1986)になり,オートメーション利用のパイオニアになる.
ヒルベルトの第3問題(『3次元ユークリッド空間の多面体の同値性のための必要十分条件』(Conditions n\'ecessaires et suffisantes pour l'equivalence des poly\`edre de le'espace euclidien \`a trois dimension)(1965).  [フ文], [幾4] トップ

シナイ(Yakov Grigorievich Sinai, 1935.9.21-.)
 ソ連,モスクワの生まれ.
 モスクワ大学卒業(1957),コルモゴロフの指導で博士号(1960). 後教授(1971-).1960年よりランダウ理論物理研究所にも勤務.プリンストン大学教授(1993-).
 エルゴード理論,力学系,統計物理学,確率論.初めて意味のあるモデルでエルゴード定理を証明(シナイのビリヤード)
 非常に快活な好漢である.師のコルモゴロフの言葉として,「良く走らないものは良い数学を創れない」と言いながら,冬は毎日走るスキーをやっているのだと語った.管理者もスキーをモスクワ大学の学生課のような所から借り出してやってみたが,長続きはしなかった.^=^!
 コルモゴロフ・シナイ・エントロピー,シナイのビリヤード,シナイのランダムウォーク,シナイ・ルエル・ボウエン測度. [パ年表, ノート] トップ

ジニ,コッラド(Corrado Gini, 1884.5.23--1965.3.13.)
 イタリア,モッタ・ディ・リヴェンツァに生まれ,ローマに死す.
 統計学者,人口統計学者、社会学者.
 カリアリ大学の統計学教授(1910)、パドヴァ大学教授(1913),ローマ大学教授(1925).
 Il sesso dal punto di vista statistico(1908)で、統計学的観点から新生児の男女比を扱う.
 ジニの係数,ジニの集中度係数,ジニ指数(社会における所得分配の不平等さを測る指標).    トップ

シピオーネ・ダル・フェロ(Scipione dal Ferro, 1465.2.6-1526.11.5).
 イタリア、ボローニャに生まれ、ボローニャに死す。
 ボローニャ大学教授、3次方程式の代数解を最初に発見した人。死の直前、弟子のフィオル(Antonio Maria Fior=Froridus)に伝えた。 フィオルはこの秘密の式のおかげで、数学の公開試合で連戦連勝であり、 タルターリアにも試合をしかけた。 期日(1535.2.12)が迫ったタルターリアがフィオルの側に秘密の解法があることを聞き、懸命に解法を考えついに8日前、3次方程式の一般の解を発見した。
 ダル・フェロは x3+ax=b (a,b>0) の形の方程式しか解いていなかったが、それを知らないタルターリアは x3=ax+b (a,b>0) の形の方程式も解いたのである。負の数の概念がなかったため、この2つの型の方程式はまったく別のものと理解されていた。
 1543年にカルダーノと共にダル・フェロの養子のアンニバーレ・デッラ・ナーヴェをボローニャに訪れたフェラーリが、ダル・フェロの手書きのノートの中に公式を見たという報告がある。[解I.1] トップ

シファー(Menahem Max Schiffer, 1911-1997.11.11).
 ドイツ,ベルリンの生まれ.
 1930年にボン大学に入学し、物理学を学ぶ.後ベルリンのフンボルト大学に行き,マックス・フォン・ラウエ、エルヴィン・シュレーディンガー、ウォルター・ネルンスト、エアハルト・シュミットイサイ・シューアビーベルバッハに学ぶ.
 ナチに追われ,1934年にイスラエルに移住し,イェルサレムのヘブライ大学に学び,1939年にヘブライ大学から,マイケル・フェケテ(Michel Fekete)の下で,「共形表現と一葉関数(Conformal Representation and Univalent Functions)」によってPh.D.取得.
 スタンフォード大学教授,名誉教授.スタンフォード大学にはヨーロッパから多くの人が集まってきていた.例えば,ポーヤ,チャールズ・レヴナー(Loewner, 1893.5.29-1968.1.8),ステファン・バーグマンガボール・セゲー
 不変式論,シファー微分方程式,シファー変分法.
 ポール・ガラベディアン(Garabedian,1927.8.2-2010.5.13)とビーベルバッハ予想を研究し,n=4の場合に証明(1955).D.C.スペンサーとの共著Functions on Finite Riemann Surfaces, Princeton Univ. Press(1954)「有限リーマン面上の関数」や一般相対性理論に関するものなど,著書多数. [ワ10] トップ

渋川春海(Shibukawa Harumi, 寛永16年閏11月3日(1639.12.27)-正徳5年10月6日(1715.11.1)). 京都四条室町に生まれ,江戸麻布に死す.
 江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。慶安5年(1652年)父の死により二世安井算哲となるが,若年のため安井家は一世算哲の養子・二世算知が継いで、算哲は保井(後に改字)姓を名乗った。これより、秋冬は江戸に、春夏は京に住んだ。
 万治2年(1659)に21歳で幕府より禄を受け、御城碁に初出仕、この後、安井家は算知,知哲,春知などとともに御城碁に出仕.御城碁には天和3年(1684)まで17局を勤めたが,本因坊道悦とは勝ったり負けたりだが,本因坊道策になってからは本因坊家には勝っていない.
 数学・暦法を池田昌意(今村知商の孫弟子,弟子に春海のほか中西流算学の流祖の中西正好)に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、和漢の書および垂加神道を山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学ぶ.
 当時は貞観4年(862)に唐よりもたらされた宣明暦を用いていたため,かなりの誤差が生じていた。そこで中国の授時暦(元げんの至元18年(1281)から実施され,明みんでも大統暦だいとうれきと名を変えて明の滅びる崇禎17年(1644)までの364年間に渡って使用されたもの)に基づいて中国や四国の各地の緯度・経度を計測した結果を元に,万治2年(1659)に改暦を願い出た。
 もちろん,簡単に採用されるはずもなかったが,算哲は碁など通じて知り合った保科正之や徳川光圀などの後援も取り付け,陰陽道の支配の土御門家に近づくなどの努力をした.また,当時の暦は,月食・日食の予報が2日ほど遅れていたので,これを正確にすることが採用に役立つと考え,寛文10年(1670)32歳頃から,天体を日夜観測し、食の予報の正確さを期した新暦の作成に向かい,何回かは通用の暦より正確な食の予報をしたことから,採用される機運が高まってくる.改暦の必要性は認められるようになっていた. ところが、延宝3年(1675)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報に失敗し,申請は却下された.
 失敗の原因を研究していくうちに、中国と日本には里差(経度差のこと)があり、「地方時」(時差のこと)が発生してしまうことに気づいた。そこで、授時暦に通じていた朱子学者の中村惕斎の協力を得ながら、自己の観測データを元にして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成し,天和3年(1683)に朝廷に対し,改暦を請う上表書である請革暦表を提出した.
 しかし,、京都所司代・稲葉正往の家臣であった谷宜貞が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの大統暦採用の詔勅が貞享元年(1684)3月3日に出された. 春海は「地方時」の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張し,暦道の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ,詔勅は10月に撤回され,3度目の上表によって翌年より貞享暦(詔により大和暦を改称)が実施されることになった. 大和暦は授時暦の定数を若干改変し、里差の補正をしたものである.
 この功により貞享元年12月1日(1685.1.5)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられて,碁方は辞した.以降、天文方は世襲となる.のち正徳元年(1711)に息子の渋川昔尹に譲るが,その4年後の正徳5年4月4日に昔尹が急死し,衝撃を受けて10月6日に後を追った.このあとの渋川家はむしろ守旧派の役割しか果たさない.唯一の例外が高橋至時の次男の景佑が養子に入って蘭学を進めた時だが、それもその後継は蘭学の天文方独占の方向に働き,蘭学の広がりを阻害する.世襲の弊害の典型例である.
 さて,貞享3年(1686年),春海は幕府の命令で京都より家族とともに江戸麻布に移り住み,元禄2年(1689年)に本所に天文台の建設が認められる. 元禄3年(1690)、52歳の時、日本で最初の地球儀(直径25センチメートル)を造り,元禄10年(1697)1697年にも直径33センチメートルの地球儀を作る.
 元禄5年(1692)に幕府から武士身分が認められたことにより,(それまでは剃髪していたが)蓄髪して助左衛門と名乗り,元禄15年(1702)に渋川に改姓した.先祖が河内国渋川郡を領していたことによる.
 元禄16年(1703)、天文台は更に駿河台に移される.著書に天文暦学では『日本長暦』『三暦考』『貞享暦書』『天文瓊統』,神道においては『瓊矛拾遺』.また地球儀をはじめ,天球儀・渾天儀・百刻環(赤道型日時計)などの天文機器を作成.
 関孝和が同時期に改暦を考えており,内容が晴海のものよりも優れていたことが知られているが,それは今になって知られているということであり,暦の決定権が朝廷にあり,まだしも現実的な対応をする幕府にある程度の権利が移るのは,貞享暦制定とその経緯によるものであって,関が企図していたことも公的には知られていなかっただろう.元の黄鼎の『天文大成管窺輯要』(1652年刊)の数学的理解も天体観測のあり方も観測結果の反映のさせ方も関のものが優れているようだが,実現するための政治力は算哲には遠く及ばなかったと思われる.もしもこの時期に算哲がいなくて,関が自分で改暦にこぎつけていたとしたら,算哲よりもはるかに苦労を強いられていただろうし,その後の算学の研究が同じように進められてはいなかったかもしれない.  [文2] トップ

ジーベンマン(Laurent Carl Siebenmann, 1939-.).
 カナダ,トロントの生まれ.トロント大学卒業後,プリンストン大学で,ミルナーの指導で,「6次元以上の開多様体の境界を見つけるための障害(The Obstruction to Finding a Boundary for an Open Manifold of Dimension Greater than Five)」によりPh.D.取得(1965).
 パリ第11大学(L'universit\'e Paris-Sud, Orsay),オルセイ校で数年教授をした後,CNRSで,研究主任.   低次元トポロジー.エキゾテックR4カービー・ジーベンマン不変量(類)  [フ26]  トップ

シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796.2.17-1866.10.18). 神聖ローマ帝国、ヴュルツブルク司教領、ヴュルツブルクに生まれ,バイエルン王国、ミュンヘンに死す.
 1823年6月に来日、長崎の出島のオランダ商館医となる。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)教育を行う。たとえば,高野長英,高良斎(鳴滝塾塾頭、蘭語論文多数提出),二宮敬作,伊東玄朴(後に将軍、幕府の医官),小関三英,伊藤圭介(尾張出身の本草学者、後に東京大学教授),美馬順三(阿波,1795-1825,塾頭,コレラで死亡),石井宗謙(岡山で開業、後徳川家侍医),湊長安(江戸で開業),平井海蔵(三河),岡研介(周防),加来佐一郎(豊後)らなど.
 高野長英が「貴方の仕事は何かと」尋ねたところ,シーボルトは「私はコンデンスポンデーヴォルデ」と答えたと渡辺崋山が書き残している.これは「情報探索官」という意味を持ち,シーボルトが日本の国情を探索する任務を持っていたことがわかる.
 1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究,地理や植生、気候や天文などを調査.将軍徳川家斉に謁見.江戸において最上徳内や高橋作衛左門景保,桂川甫賢,大槻玄沢,宇田川榕菴,岩崎潅園,間宮林蔵、、葛飾北斎らと交友. 徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図(伊能図)を与えられた。 日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネをもうける.
  1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。帰国3年後に再来日する予定だったが,それができなくなったということ。
 1830年オランダに帰着,翌年には蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託される. オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。日本学の祖として名声が高まる.
 1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請.
 1858年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除.1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となり,1862年に官職を辞して帰国 [文2] トップ

シマック(Rudolf Schimmack, 1881-1912).
 ゲッティンゲン大学から,ヒルベルトの指導で,『ベクトル加法についての公理的研究(Axiomatische Untersuchungen über die Vektoraddition)』により哲学博士号取得(1908).
 F.クラインの助手となり,その『高等学校における数学教育に関する講義』( Vorträge über den mathematischen Unterricht an höheren Schulen),第I部,『数学教育の組織から』(Von der Organisation des mathematischen Unterrichts) Leipzig 1907を編集し,この本は「クライン・シマック」として引用される. [クI.3.2,3.3,付A,付B], [クII.3.4] トップ

シムソン(Robert Simson, 1687.10.14-1768.10.1).
 スコットランド,アールシャー,ウェスト・キルブライドに生まれ,グラスゴーに死す.
 17人兄弟(成人したのは6人)の長男.14歳の1702年3月3日にグラスゴー大学に入学.当時は古典と東洋語と植物学に秀でていた. 父親は息子に聖職につくことを期待したが,神学の議論が要領を得ず思弁的なことに満足できなくなる. 気晴らしに東洋哲学の本を見,そこで真偽を示すことができる主張を発見,しかしまだ不満で,結局数学とユークリッドの『原論』にたどり着く.数学教授のロバート・シンクレアの講義がなかったので,独学. 1710年にシンクレア教授の辞任に伴い,教授職を提供されたが,すぐには受け入れず,ロンドンへ遊学.エドモンド・ハリーウィリアム・ジョーンズ,ハンフリー・ディットンらと親交.1711年11月10日にグラスゴー大学の教授会に呼ばれ,教授審査のために,2つの幾何の問題を解くことになったが,それを解き,数学的能力を示すと同時に,ロンドンでの友人の推薦を受け,11月19日に採用が決まる.
 ハリーの勧めで,古代ギリシャの幾何学に関心.ユークリッドの不定命題(ポリズム)に関する論文が1723年に王立協会哲学紀要に載る.アポロニウスの『円錐曲線について』,また失われていた『平面の軌跡(Loci Plani)』を1749年に復元し,さらに不定命題や対数に関する著作が死後の1776年に出版される.さらにユークリッドの『原論』の復原にも努力し,1-6巻,11,12巻に対する彼の版は以降の標準となった.この仕事は長く掛かり,70もの異なる版がある.最初に出版されたのは1756年にグラスゴーでだが,その後,イギリスだけでなく,フランスやアメリカなどでも出版されるようになる.彼の講義はラテン語で行われ,原論も最初はラテン語で書かれたが,後に英語に書き直された.幾何学者としての名声は高かった.
 当時,代数や無限小解析などが生まれていたが,議論は常に幾何学を使うようにした.ニュートンもプリンキピアを書くときは同じ立場にたった.
 πの計算のために逆正接関数の級数展開を用いる論文もある.フィボナッチ数列の比が黄金比に近づくことを示した
 講義はうまかったと言い,M.スチュアートマクローリンなど,弟子も多い.1761年に辞任,弟子のジェイムズ・ウィリアムソンを後継にする.死後,16冊の研究日誌が出版される.
 有名なシムソン線は彼の著作には見当たらず,この定理はシムソンのものだという伝聞をポンスレジェルゴンヌ誌に書いたことによる.この定理はW.ウォレスによるもの.  [直7,8], [三], [幾1,4,7] トップ

志村五郎(Shimura Goro, 1930.2.23-2019.5.3).
 静岡県浜松の生まれ.東大卒.東京大学講師を経て,大阪大学教授(1961).プリンストン大学教授(1964).代数学,整数論,保型関数,代数幾何学.アーベル多様体の代数幾何の高次元化,谷山・志村予想はフェルマの最終定理の証明のために大きな役割を果たした. [名3] トップ

シーモア,ポール(Paul D. Seymour, 1950.7.26-). イギリス,デヴォン州プリマスの生まれ.
 オックスフォード大学からAubrey William Ingletonの指導でMatroids, Hypergraphs and the Max-Flow Min-Cut TheoremによりPh.D.取得(1975).  プリンストン大学数学科教授.グラフ理論.
 4色定理の新証明の共著者(R.トーマスロバートソンダニエル・P・サンダースポール・シーモア)の1人.(A new proof of the four-colour theorem,Electron. Res. Announc. Amer. Math. Soc. 2 (1996), 17-25.).
 ロバートソン・シーモアの定理.
 ロバートソンR.トーマスと弟子のMaria Chudnovskyとともに強完全グラフ定理の証明(2006). [名19], [天27], [天VI.39] トップ

ジーモン,マックス(Maximilian Simon, 1844.6.8-1918.1.15). ポーランド,Kołobrzeg(ドイツ名Kolberg)に生まれ,ストラスブルクに死す.
 ベルリン大学からワイエルシュトラスクンマーの指導で, De relationibus inter constantes duarum linearum secundi ordinis, ut sit polygonum alteri inscriptum circumscriptum alteriにより哲学博士号取得(1867).
 ベルリンで(1868-1871),ストラスブルクで数学の教師(1871-1912).ストラスブルク大学の名誉教授に.
 数学史,ユークリッドなど古代数学史.19世紀の初等幾何,非ユークリッド幾何,解析幾何などの教科書あり.  [クI.1.2.1,3.1,3.3,附B], [クII.3.2] トップ

ジャーヴァ(Joseph Leonide Gerver).
 カリフォルニア大学バークレイ校からDonald Erik Sarasonの指導で「三角級数の近似(Approximations of Trigonometric Series)」によりPh.D.取得(1975). サージ・ラングの弟子。
 ニュージャージー州立大学ラトガス校数学教授。
 四色問題.リーマンの関数がπで微分可能であることを示した.動くソファー問題の解(1992).[解III.9], [名序, 19] トップ

ジャウェット(Benjamin Jowett, 1817.4.15-1893.10.1).
 ロンドン,キャンバーウェルに生まれ,オックスフォードに死す. オックスフォード大学ベイリオル学寮長.神学者.ギリシャ語教授.プラトンの共和国やアリストテレスの政治の翻訳. ベイリオル・カレッジのチューターとして学生の有名人に,学寮長としても大物で,イギリスの大学改革に貢献.ヘンリー・スミスをベイリオルに採用した. [列]  トップ

釈圓通(Shaku Entsu, 宝暦4年(1754)-天保5年(1834)).
 元鳥取藩士,天台宗の僧侶となり,文化の末寛永寺の招きで江戸に下り,増上寺内に住む.仏教的宇宙論を提唱.無外子は号.
 『仏国暦象編』文化7年(1810), 『梵暦策進』文化7年(1810),『須弥山儀銘并序和解 上下』 文化10年(1813)序
 内田五観の暦学の師だが,実際の師というより,釈円通が所有することを許された暦学関係の書物を読ませてもらうという関係だったようである.五観は『崇禎暦書』を読んで,瑪得瑪弟加(『崇禎暦書』巻九一「比例規解」),詳証学の語を知る.
 内田五観の『古今算鑑』に次のような題言を寄せている.
 嘗聞大千世界有古今筭鑑今也刻成一覽便識大千世界不宜無斯書也葢須彌絶頂測量日月星辰之行度不周山上補立天柱地維之折缺最上巧夫貫通斯書則瞿曇氏之明女媧氏之智亦可以企及也矧於尋常之數盡術窮理乎斯書一出則打破大千世界數學家之邪見金剛鎚哉思敬之功無量老衲復不能德焉敢書詹言遺之
 天保三壬辰春
 無外子釈圓通識并書
 時歳七十有八

(嘗て大千世界に古今算鑑のあるを聞く.今や刻,成り,一覧してすなわち大千世界に、よろしくこの書無くべからざるを識るなり。なんぞ須弥(山)絶頂,日月星辰の行度を測量し,不周(=崑崙山の西北にあるという山)山上、天柱(天を支えているという柱)地維(大地を維持すると考えられたつな)の折缺を補立せんや。最上の功,それ,この書を貫通せば、すなわち瞿曇(くどん)氏の明、女媧氏の智、また以って企て及ぶべし.いわんや尋常の数において,術を尽くし,理を窮めんや.この書、ひとたび出れば、すなわち大千世界、数学家の邪見を打破する金剛鎚ならんや.思敬の功,無量,老衲また徳(めぐ)むことあたわず.いずくんぞあえて詹言を書し,これを遺さんや.)
 [文2] トップ

シャーク,ピーター(Peter Scherk,1910.9.2-1985.6.6). ドイツ,ベルリンに生まれ,
 ベルリン大学とゲッティンゲン大学で学び,ゲッティンゲンからヘルグロッツフェンケルの指導で「実の4次空間閉曲線(\"Uber reelle geschlossene Raumkurven vierter Ordnung)」により理学博士(Dr.rerum naturalium)(1936).
 ランダウの個人的な研究助手になる.ランダウとヘイルブロンとの共著論文(1936)で,ゴールドバッハ予想の部分的解決(あらゆる数は3つの素数の和に書ける).
 ナチによるユダヤ人排撃により,プラハ大学で働き,プラハのドイツ大学でも名誉客員フェロー.1939年に伯父の住むニューヨクに行く.
 1940年にイェール大学の名誉研究フェローになり,インディアナ大学助手(1941-43)など不定期な職を転々. カナダ,サスカチュワン大学(U of S)の講師(1943),教授(1955). ペンシルヴァニア大学に1年間客員をした後,トロント大学の教授となる(1959-76).退職後も,非常勤として教える.
 微分幾何,代数学,整数論.
 大伯父のH.F. Scherkはシャーク曲面に名を残し,息子のジョンも数学者. [珠文] トップ

ジャクソン(Dunham Jackson, 1888.7.24-1946.11.46).
 ミネソタ大学教授。近似関数論。周期的連続関数の三角多項式による近似や,補間三角多項式を調べる.『フーリエ級数と直交多項式』[解III.9] トップ

ジャコブソン(Nathan Jacobson, 1910.10.5-1999.12.5.).
 ポーランド,ワルシャワに生まれ,アメリカ,コネチカット州ハムデンに死す.7歳のとき,家族でアメリカに移住.最初アラバマ,ついでミシシッピ,最後にジョージアに住む.
アラバマ大学卒業(1930)後,プリンストン大学に移り,ウェダーバーンの指導で「非可換多項式と巡回代数(Non-commutative Polynomials and Cyclic Algebras)」によりPh.D.を得る(1934).
 その後アメリカ中の大学を転々とする.高等研究所(1934-35),ブリン・モー大学(1935-36).プリンストンでエミー・ネーターの講義を聴いたが,ブリン・モーに移る前の1935年の春に彼女は亡くなっている. ディクソンのいたシカゴ大学(1936-37),北カロライナ大学チャペルヒル校(1937-43),ザリスキのいたジョンズ・ホプキンス大学(1941-).イェール大学 (1947),教授(1949),隠退(1981).アカデミー会員,アメリカ数学会長.
 環論. ジャコブソン根基は有名. リー代数, ジョルダン代数,ジャコブソン・ブルバキの定理,ジャコブソン予想,ジャコブソンの密度定理など.
 代数に関して幅広く多くの著書がある.
  1. The theory of rings (1943)「環論」
  2. Lectures in abstract algebra (1951-64) 3巻「抽象代数講義」
  3. Lie algebras (1962)「リー代数」
  4. Exceptional Lie algebras (1971)「例外型リー代数」
  5. Structure and representations of Jordan algebras (1968)「ジョルダン代数の構造と表現」
  6. PI-algebras : an introduction (1975)「PI代数:序論」
 弟子も多い.例えば,カーティス(Charles Curtis),George Seligman,Craig Huneke,Georgia Benkart,John Faulknerなど.  [ワ3,8], [代コ], [伝8], [辞], [天VI.22] トップ

シャゼル(Bernard Chazelle, 1955.11.5-).
 エール大学でDavid P. Dobkinの指導で計算機科学のPhD取得(1980).プリンストン大学計算機学科教授.
 計算幾何学,グラフ理論.象に乗るのが趣味.[天32], [天VI.45] トップ

シャノン,クロード・エルウッド(Claude Elwood Shannon, 1916.4.30-2001.2.24).
 アメリカ,ミシガン州,ゲイロードに生まれ,マサチューセッツ州,メドフォードに死す.
 1936年ミシガン大学を数学と電気工学の学位をとって卒業.MITでは電気工学で修士,数学でPhD(1940年)を取得.MITからFrank Lauren Hitchcockの指導でAn Algebra for Theoretical GeneticsによりPh.D.取得(1940).
 1941-72年ベル研究所に所属.1956年からはMIT教授.1948年情報理論を基礎づける論文(A mathematical theory of communication) を発表.ネットワーク,定常確率過,グラフ理論,人工知能,オートマトンなどを研究.
  カードのシャフルに関するギルバート--シャノン--リーズ模型.シャノン=ハートレーの定理(Ralph Vinton Lyon Hartley),ナイキスト=シャノンの標本化定理(Harry Nyquist).  [天30], [50.33], [天VI.31,37,42] トップ

シャトレ侯爵夫人(Marquise de Chatelet, Gabriell-Emile le Tonnelier de Breteuil, 1706.12.17-1749.9.10).
 パリの生まれ。リュネヴィユのロレーヌ公の宮殿で、分娩の際、夫とヴォルテールと当時の恋人の見守る中で死ぬ。
 モーペルテュイA.クレローの弟子.
 知識人のサロンを運営.プリンキピアをフランス語に訳し(1745)、ニュートン理論のフランスへの普及に貢献。後、ライプニッツの哲学に傾倒し、『自然学原理』(1740)を発表。 [解文] トップ

シャープ(Abraham Sharp, 1651(53?)-1742.7.18)
 イギリスの数学者で天文学者.三角関数表の計算.ニュートンの補間法と同じ方法を使ったと思われる.逆正接関数の級数展開に,1/√3を代入して,π を72桁まで計算(1699). [名2] トップ

シャファレヴィッチ(Igor' Rostislavovich Shafarevich, 1923.6.3-).
 ソ連(現在はウクライナ),ジトーミルの生まれ.
 10代で教科書よりも巨匠たちの仕事に触れることを好み,15才でヒルベルトの『整数論報告(Zahlbericht)』を読む.
 1939年,17才で検定試験でモスクワ大学卒業資格を得る.19才で物理・数学修士(1942),21才でスチェクロフ数学研究所からデローネの指導で「有限拡大に関する研究(Investigations on Finite Extensions)」により物理・数学博士(1946).
 1943年から現在までスチェクロフ数学研究所で働き,准教授(1946),同研究所代数部門部長(1960--1991).
 モスクワ大学で教鞭(1944-75),1953年には教授.75年にモスクワ大学を解任されたのは,ソルジェニツィンをリーダーとする反体制運動グループの活動家だったため.
 弟子にはユーリ・マニン,A.N.パルシン,I.ドルガチェフ,S.Y.アラケロフ,A.I.コストリキン,A.チューリン,B.モイシェゾンなど多数いる.
 代数学,代数幾何学,代数的整数論.可解群Gに関するガロアの逆問題(Gをガロア群とするガロア拡大があるか.1954).シャファレヴィッチの相互法則(1950),ハッセ・シャファレヴィッチの公式.K3曲面.シャファレヴィッチ予想(ファルティングスはこれを示すことでモーデル予想を証明した).テイト・シャファレヴィッチ群,ゴロド・シャファレヴィッチ不等式.
文献
  1. 『代数幾何の基礎』Basic Algebraic Geometry(1972).
  2. 『整数論』Number Theory, with Z.I.Borevich(1964, 第3版は1985).日本語訳は,ボレヴィッチ+シャファレヴィッチ『整数論 上下』(佐々木義雄訳)数学叢書14,19吉岡書店(上1971.8.15,下1972.10.15)
  3. 『幾何学と群』 Geometry and Groups, with V.V.Nikulin(1983).日本語訳は,『幾何学と群』(V.V.ニクリンと共著,根上生也訳)シュプリンガー・フェアラーク東京.
  4. 『代数学の基礎概念』Basic Notions of Algebra(1986).日本語訳は,『代数学とは何か』(蟹江幸博訳)シュプリンガー・フェアラーク東京(2001).
    この本のために履歴を頂いたが,そこには,ロシア科学アカデミー会員で,ロンドン王立協会,アメリカ合衆国科学アカデミー,国立リンツェイアカデミー,ドイツ・レオポルド科学アカデミーの外国人会員であることと,1929年にレーニン章を授賞したことがあり,さらに,男女の2子と,4人のお孫さんに,1人の女の曾孫がおられることが書いてあった.
  5. 『代数学講義』Discources of Algebra(1986).日本語訳は,『代数入門』(蟹江幸博訳)日本評論社(2009.8.15).
 [代6, コ], [作付B], [天VI.11]  トップ

シャプレー(Lloyd Stowell Shapley, 1923.6.2-.).  アメリカ,マサチューセッツ,ケンブリッジの生まれ.プリンストン大学でタッカーの指導で「加法的集合関数と非加法的集合関数(Additive and Non-Additive Set Functions)」により,PhD取得(1953).
アメリカ,カリフォルニア大学ロスアンジェルス校数学・経済学科名誉教授.集合論,ゲーム理論,数理経済学,プログラミング.
 シャプレー値,オーマン=シャプレー・プライシング、ハーサニ=シャプレー解,ボンダレーヴァ=シャプレー定理,シャプレー=シューピック投票力指数,ゲイル=シャプレー・アルゴリズム. [天26], [天VI.38] トップ

シャリル(Micha Sharir, 1950.6.8-). イスラエル,テル・アヴィヴの生まれ.
 イスラエル,テル・アヴィヴ大学からAldo Joram Lazarの指導で「バナッハ空間の間の端作用素(Extreme Operators Between Banach Spaces)」によりPh.D.取得(1976).
 テル・アヴィヴ大学計算機科学科教授.計算幾何学,組合わせ幾何学,アルゴリズム,ロボット工学. [天32], [天VI.45] トップ

シャール,ミシェル(Michel Flor\'eal Chasles, 1793.11.15-1880.12.18). パリ近郊シャルトル,エペルノンに生まれ,パリに死す.誕生時の名前はフロエアル(Flo\'eal)であったが,16才の誕生日に改名.幾何学及び数学史.
 エコル・ポリテクニク入学(1812).在学中の1814年初,ナポレオンが対露戦に敗北,パリ防衛戦に参戦.後復学し卒業.材木商だった父の望みで商業に従事するも,数学と歴史への興味に戻る.最初の著作は,ユークリッドの失われた3巻に射影に関した記述があることを述べた著作『幾何学における方法の起源と発展の歴史的概観』(Apercu historique sur l'origine et le developpement des methodes en geometrie)(1837)で, 1841年からエコル・ポリテクニクの教授になり,測地学,力学,天文学を教える.弟子にダルブーH.A.ニュートン
1846年から彼のために特設されたソルボンヌの高等幾何学教授(終身)になるが,1851年までは母校でも講義を続ける. 『幾何学教程』(Trait\'e de g\'eom\'etrie)(1852)と『円錐曲線講義』(Trait\'e des sections coniques)(1852)を書き,非調和比,束(pencil)などの概念を使って,座標を使わない総合射影幾何学を作り上げる.
 円錐曲線の数えあげでも有名.説明しておこう.  「5つの円錐曲線(=楕円,双曲線,放物線)が与えられたとき,それらすべてに接する円錐曲線はいくつあるか?」 という問題である. この問題を最初に考えたのはシュタイナーで,そのような円錐曲線が7736本あるという彼の結果が19世紀の初めに出版された. それから数十年後,ド・ジョンキエールはシュタイナーの計算を繰り返し,3264本という結果を得た.しかし,シュタイナーの評判の高さから,ジョンキエールは敢えて自分の仕事を公表しなかった.シャールもジョンキエールを信用しなかったこともあった. 1864年にシャールによって3264本が正しい答であることを確認した.   [伝4,5],[直7],[フ17, 28,序],[幾序,4,8,11],[クIII.2.5] トップ

シャンクス,ダニエル(Daniel Shanks, 1917.1.17-1996.9.6).
 アメリカ,シカゴに生まれ,メリーランドに死す. 息子のオリヴァー(Oliver)は,ウィリアム・シャンクスとは血族ではないと証言している.
 シカゴ大学物理学科卒(1937).この2件の間はメリーランド州アバディーン性能試験場と海軍測量部The Naval Ordnance Laboratory (NOL)で働く.この間に物理学者としてより数学者として働くようになる. 大学院での数学教育を受けてはいないが, メリーランド大学カレッジパーク校から「発散級数とゆっくり収束する級数の非線形変換(Nonlinear Transformations of Divergent and Slowly Convergent Sequences)」によりPh.D.(1954).
 以降も海軍測量部とDavid Taylor Model Basinの海軍船舶研究発展研究所に勤め(-1976),1年間国立標準技術研究所NBSに勤め,非常勤教授としてメリーランド大学に移る.
 数値解析,整数論.黒体輻射,弾道学,恒等式,エプシュタイン・ゼータ関数.
 レンチJr.とともに,IBM7090を用いて,πを10万265桁まで計算(1962).  『整数論における解決および未解決問題(Solved and Unsolved Problems in Number Theory)』(1978).g(x)をxとxより大きな最小の素数との間にある合成数の数とする時,log p(g)~√gと予想する(1964).
 NSW数を定義(位相幾何学者のM.H.A.ニューマンとヒュー・ウィリアムズの3人).この数は指数が平方数である有限単純群があるかという問題に関連して定義された.NSW素数の探索も行われている.
 マンと共に,素数を,関連する数のある2項係数の整除性による特徴付けをした(1972).オイラー擬素数を提案(1962).レンチと共に双子素数と関連したブルン定数Bを計算(1974),B=1.90216054...他にも素数の存在に関する幾つかの数値を計算している.
 高速の素因数分解法の開発,Shanks' square forms factorization,シャンクス変換(数列の収束の促進法)  [解I.4, 文] トップ

シャンクス,ウィリアム(William Shanks, 1812.1.25--1882). イギリス,ノーサンバーランド,コーセンサイドに生まれ,ダーラム,ホートン・ル・スプリングに死す.
 ダーラム近郊の採炭エリアのホートン・ル・スプリングで寄宿学校を経営. 1873年にπを707桁計算したと発表.手計算では最高の桁数だが,1944年になって,ファーガソン(D.F.Ferguson, 1889- )が528桁目に間違いがあることを指摘. シャンクスが使った式はマチンの公式
          π/4 = 4 tan-1(1/5) - tan-1(1/239).    
ファーガソンの式は
      π/4 = 3 tan-1(1/4) + tan-1(1/20) + tan-1(1/1985).

 しかし,間違いが起きたのは,tan-1(1/5)の値の531桁目が間違っていた所為だったと言う.
 シャンクスはまた自然対数の底eとオイラーの定数γも多くの桁,計算した.60000までの素数表を発表.2と3と5と10の自然対数を137桁計算し,60までのm に対し212m+1の計算をした.
 彼は毎朝πの新しい桁を計算し,午後は午前中の計算をチェックするのが日課だったという.  [モ歴], [クI.3.4]  トップ

ジャンセン(Jeannette C. M. Janssen).
 アメリカ,ペンシルヴァニア,リーハイ大学からEdward Ferdinand Assmus, Jr.の指導で「偶と奇のラテン方陣(Even and Odd Latin Squares)」によりPh.D.取得(1993).その後カナダとイギリスに行き,現在カナダ,ノバスコシア州,ハリファックス,ダルハウジー大学数学統計学部教授.グラフ理論.
 長方形に対するディニッツの問題を解く(1992). [天26], [天VI.38] トップ

シャンポリオン(Jean-Fran\c{c}ois Shampollion, 1790.12.23--1832.3.4.).
 フランス,ロト県フィジャックに生まれ,パリに死す.幼時から語学の才能を発揮し,ヨーロッパ語以外にも東洋語や古代の言葉に関心.1809年グルノーブル大学歴史学教授となる. 先行するT.ヤングを抜いて,ロゼッタ・ストーンの解読に成功し,古代エジプト象形文字の分野を開拓.  [モ幾] トップ

シューア,イサイ(Issai Schur, 1875.1.10-1941.1.10.)
 ベラロシア,モギリョフに生まれ,パレスチナ,イェルサレムに死す.
 13歳でラトヴィアに行き,1894年ベルリン大学に入学し,フロベニウスに学ぶ.ボン大学,ベルリン大学教授(1913).1939年ナチの迫害のためパレスチナに亡命.表現論,数論,ガロア理論,有限群論,行列論,直交関数系理論.シューアの補題,シューア関数,シューア多項式.  [珠説3.10], [代9], [天3], [ワ序,2,3,4,5,7,8,9], [伝5], [天VI.1,3]  トップ

シュヴァイカルト(Ferdinand Karl Schweikart, 1780.2.28-1857.8.17)
 ヘッセン=カッセル(現在ドイツヘッセン州)エアバッハ・イム・オーデンヴァルトに生まれ,プロシャ,ケーニヒスベルクに死す.
 法学者で,非ユークリッド幾何学の発見の前にastral geometryを展開.
 1796年にマールブルク大学に入学し,数学教授J.K.F. Hauffの講義に出席.1798年にイェーナ大学から,法学博士号取得.エアバッハで数年弁護士をした後,ホーエンローエ・インゲルフィンゲンの最年少の王子の教師(1803-1807).ギーセン大学(1809-1812),ハルキウ大学(1812-1816),マールブルク大学(1816-1821),ケーニヒスベルク大学(1821-)で法理学教授.
 1807年にDie Theorie der Parallellinien, nebst dem Vorschlage ihrer Verbannung aus der Geometrie(平行線の理論と幾何学からの追放の提言)を出版.1818年にガウスに,その学生のゲルリンクを通して,astral geometry(そこでは三角形の内角の和が180ºよりも小さい)について手紙を書く.
  [クII.3.2] トップ

シュヴァリエ,オーギュスト(August Chevalier, 1809-1869.)
 ガロアの友人で,ガロアが決闘に赴く前夜に彼に残した手紙にガロア理論のエッセンスが書かれていた.  [ワ2]  トップ

シュヴァルツ,ヘルマン・アマンダス(Karl Herman Amandus Schwarz, 1843.1.25-1921.11.30).
 ポーランド、ヘルムスドルフ(現在ドイツ領)に生まれ、ドイツ,ベルリンに死す。
 初めベルリン工科大学で化学を学んだが、クンマーワイエルシュトラスの影響で数学に転向。1861年のワイエルシュトラスの積分法の講義でとった彼のノートが残っている.
 クンマーワイエルシュトラスの指導で,De superficiebus in planum explicabilibus primorum septem ordinumにより,ベルリン大学からPh.D.を取得(1864).ハレ大学(1867),チューリヒ大学(1875),ゲッティンゲン大学(1875)の後,ワイエルシュトラスの後任としてベルリン大学教授(1892-1917).クンマーの娘と結婚。結婚以来数学以外にも関心が出来、消防団の団長をしたり地方鉄道の駅長を助けて列車のドアを閉めることもした。
 等角写像、変分学、超幾何級数、偏微分方程式。共形写像論.変分法,極小曲面論.ディリクレの問題の解決のために考案した交代法.1885年,与えられた極小曲面が本当に極小の面積を持つかという問題を解決.このアイデアがE.ピカールの微分方程式の解の存在証明に影響.
 大学初年級で有名なものには,シュヴァルツ微分,コーシー=シュヴァルツの不等式,曲面の面積が内接する多面体の表面積の極限と定義してはいけないという反例を与えたことで知られる.
 他に名前のついた概念に,加法的シュヴァルツ法,シュヴァルツの交代法,シュヴァルツの補題,シュヴァルツリスト(=シュヴァルツの表),シュヴァルツの極小曲面,シュヴァルツの積分可能条件,シュヴァルツの積分公式,シュヴァルツ・クリストッフェル写像,シュヴァルツ・アルフォース・ピックの定理,シュヴァルツの鏡像原理,シュヴァルツの三角形,シュヴァルツの三角形関数(=シュヴァルツのs関数)など.
 弟子に,フェイェール,Richard Fuchs,Gerhard Hessenberg,ケーベ,Leon Lichtenstein, マシケレマクエルンスト・ツェルメロなど.  [解III.4-5, IV.1-4, 文], [名15], [天16, 18, 21, 29, 30], [ワ8], [伝7], [文3], [フ10], [幾7,解], [天VI.20,25,28,41,42] トップ

シュヴァレー(Claude Chevalley, 1909.2.11-1984.6.28.)
 南アフリカ共和国,トランヴァール,ヨハネスブルグに生まれ,フランス,パリに死す.
 パリのエコール・ノルマル・シュペリオール卒業.パリ大学理学部教授.ブルバキ創設メンバーの一人.
 代数学,トポロジー,整数論.有限単純群の系列であるシュヴァレー群の発見,A.ヴェイユとともにアデールとイデールの理論の創始.リー群論,等質空間のコホモロジー理論など業績も多い.8元数の新しい構成法.ジョルダン・シュヴァレー分解,シュヴァレー基底,シュヴァレーの複素化,付値に関するシュヴァレーの手織りなど.
 東北大学に客員としていたことがある.
  1. 『リー群論』Theory of Lie Groups
  2. 『リー環論』Theory of Lie Algebras
  3. 『代数学の基礎概念』Fundamental Concepts of Algebra
  4. 『代数群』
  5. 『スピノルの代数理論』The Algebraic Theory of Spinors, Columbia Univ.Press(1954).
  [代11, コ], [ワ文], [天VI.22] トップ

シュウィンガー,ジュリアン(Julian Seymour Schwinger, 1918.2.12-1994.7.16)
 アメリカ,ニューヨーク市に生まれ,カリフォルニア州ロサンゼルスに死す.
 QEDの繰り込み理論で,ファインマン朝永振一郎とともにノーベル賞受賞(1965).
 ニューヨーク市立大学卒,Ph.D.はコロンビア大学から(1939).
 職歴:カリフォルニア大学バークレイ校,パデュー大学.第2次大戦中はMITの放射線研究所でレーダーの開発.戦後はハーバード大学(1945-74),カリフォルニア大学ロサンゼルス校(1972-死).
 シュウインガー極限,シュウインガー・ダイソン方程式,ラリタ・シュウィンガー方程式,リップマン・シュウィンガー方程式 [ワ著2], [50.24] トップ

ジュコーフスキー(Nikolai Egorevich Zhukovskii, 1847.1.17-1921.3.17.)
 ロシア,オレホヴォ村の生まれ.
 モスクワ大学卒業(1868).モスクワ高等工業学校教授,モスクワ大学客員教授.航空理論,空気力学,水理学,水路学,力学,数学,天文学など.複素関数論を流体力学に応用.解析関数の境界についてジュコーフスキーの定理と呼ばれるものがある.
 レーニンは彼をロシア航空理論の父と呼んでいる.  [パ附1, 年表] トップ

シュースミス(Edward Shoesmith),論文にEddie とも署名.
 バッキンガム大学統計学,確率論教授.
 Shoesmith, E (1986). "Huygens' solution to the gambler's ruin problem". Historia Math 13,また共著で Statistics for Business and Economicsがある. .  [率0] トップ

朱世傑(Zhu Shijie, Tshu shi Kih, 字は漢卿、号は松庭。中世中国、宋・元代の人。生没年に1208-1303,1249--1314,1260--1320,1270--1330と諸説あり))。
 官に仕えず国内を巡りながら数学を学び研究する。天元術(算木を使って高次方程式を解く方法)も論じている『算学啓蒙Suanxue qimeng』(1298)、4変数の未知数を持つ方程式系(非線形も)論じる『四元玉鑑Siyuan yujian』(1303)。[解I.2, 文], [孫数2] トップ

シュタイナー,アントーニオ(Antonio Steiner)。
 チューリヒ大学からRolf Herman Nevanlinnaの指導で「第1種アーベル積分の直接構成(Eine direkte Konstruktion der Abelschen Integrale erster Gattung)」によりPh.D.取得(1950). [幾解] トップ

シュタイナー,ヤーコプ(Jakob Steiner, 1796.3.18-1863.4.1)。
 スイス,ウッツェンシュトルフに生まれ,ベルンに死す.
 14歳になるまで読み書きを習わず,両親の反対を押し切って18才で学校教育を受けることに. 1814年11月イヴェルドンのペスタロッチ学校に入学. ハイデルベルク大学とベルリン大学で学ぶ.1821年Ruprecht-Karls-Universität Heidelbergから哲学博士号取得.クレレ誌の初期の寄稿者.1834年にベルリン大学教授に任命され,その死まで職に留まる.
 射影幾何の発展に貢献(シュタイナーの定理,シュタイナー曲面,シュタイナーのローマン曲面).ユークリッド幾何の作図に関するポンスレ・シュタイナーの定理.シュタイナーのデルトイド,シュタイナーの円,シュタイナーの三角形,シュタイナーのポリズム,シュタイナーの垂心線.代数と解析が嫌いだったという.  [直7,8],[微9],[伝3,5],[フ17,29], [幾序,1,2,4-11,解], [クII.1.5,2.2,2.5,3.3] トップ

シュタイニッツ,エルンスト(Ernst Steinitz, 1871.6.13--1928.9.29).
  ドイツ,シレジア,ラウラヒュッテ(現在ポーランド,シェミャノヴィツェ・シロンスキェ)に生まれ,ドイツ,キールに死す.
 ブレスラウのフリードリヒ・ギムナジウムで学ぶ間,17歳でピアノソナタを書いたが,音楽より数学を選び,ブレスラウ大学に入学(1890).1年後ベルリン大学に行き,フロベニウスクロネッカー,M. プランクらの講義を聞く.2年後ブレスラウ大学に戻り,J.ロザネスのもとで論文「配位n_3の構成について(¥”Uber die Construktion der Configurationen n_3 )」によって博士号取得(1894).これには正則2部グラフに対するケーニヒの定理(1923)の証明も含まれる.
 ベルリンのシャルロッテンブルクのテクニシェ・ホッホシューレの私講師(1897).当時博士論文を準備中でベルリンにいたシューアランダウと知り合う. ホッホシューレには10年前からクルト・ヘンゼルがいて,親しくなる. ヘンゼルの祖母は有名なフェリクス・メンデルスゾーンの長姉で,彼女自身ピアニストで作曲家であり,ヘンゼルの家では音楽の夕べがよくあり,シュタイニッツは楽しんだという. 1897年にドイツ数学会に参加し,テプリッツと親しくなり,2人で音楽を演奏することも多かったという.
 ブレスラウ工科大学教授(1910),キールのクリスティアン・アルブレヒツ大学教授(1920).キール大学での研究セミナーをテプリッツとH.ハッセの3人で指導.
 論文「体の代数的理論(Algebraische Theorie der K\"orper)」(クレレ誌(1910), 167-309)は重要で,体の抽象的定義を初めて定義し,素体,完全体,体の拡大の超越次数などを定義する. 多面体に関するものは『多面体論講義(Vorlesungen \"uber die Theorie der Polyeder)』として,彼の死後ラーデマッヘルによって出版(1934).
 ほかに,加群の理論,条件収束級数,シュタイニッツの交換補題(1913),シュタイニッツ数(超自然数)  [フ21] トップ

シュタインハウス,フーゴ(Władysław Hugo Dionizy Steinhaus, 1887.1.14-1972.2.25)。
 オーストリア・ハンガリー帝国ガリシア,ヤスウォ(Jasło)(現在ポーランド領)に生まれ,ポーランド,ヴロツワフ(Wrocław)に死す.
ヒルベルトの下でゲッティンゲンの学位取得. ルヴォフ大学(1920-41),ヴロツワフ大学 (1945-61), ノートルダム大学(1961-62),サセックス大学(1966)教授.
数理解析,確率論,統計学.バナッハ=シュタインハウスの定理.シュタインハウス=モーザーの多角形記法. 「数学スナップショット」(日本語訳,遠山啓訳,紀伊國屋書)(1938). デュードニー・シュタインハウスの定理.  [伝10], [辞], [幾4,5,9,10], [率0] トップ

シュタインハルト(Fritz Robert Steinhardt)。
 1951年にコロンビア大学から,Edgar Raymond Lorchの指導で「距離関数と凸体の極系列について(On Distance Functions, and on Polar Series of Convex Bodies)」によりPh.D.取得.
 ランダウGrundlagen der Analysisの英訳(1951). [ラ] トップ

シュタンピオーエン(Jan Jansz de Jonge Stampioen, 1610-1690)。
 オランダ、ロッテルダムに生まれ、ハーグに死す。
 ロッテルダムで数学を教えていたが、1638年にハーグに移り、ウィリアム王子の家庭教師となる。 2年後王子は父の王位を継承しオランダを議会制国家にする。 ハーグにいる間は印刷屋を開業し、自分の数学的著述を印刷する。『代数学』(1639).
 ファン・スホーテンのサインの表に自身の球面三角法を付加した。 1633年デカルトを公開の試合で退け、さらに3次式の解について2度の試合をする。1644年、ホイヘンスとその弟の家庭教師となる。  [幾5,8] トップ

シュティーフェル(Michael Stifel=Styfil,Stieffel, 1487-1567.4.19).
 ドイツ、エスリンゲン・アム・ネッカーに生まれ、ドイツ、イェーナに死す。
 イェーナ大学教授(1559)。最初アウグスティヌス派の司祭だったが,ルターの宗教改革の初期の支持者となる.
 ヨーロッパで最初に負の数を使い始めた一人。ベキの分数指数、ゼロ指数、また「指数exponent」という用語の導入。イタリア式の p(プラス)、m(マイナス)の記号でなく、 +,- の記号の普及に尽力。
 『算術全書(Arithmetica Integra)』(1544)で、分数の割り算を分数の掛け算の逆演算として定式化、また、2次方程式の多様な数値例を見掛け上1つの形式に統一する。パスカルの三角形もこの本に載っている。この時期ドイツで 代数学の教科書が何冊か書かれるが、アピアヌスの本にもパスカルの三角形は印刷されている。[解I.2-3, 文], [幾II], [クI.3.1] トップ

シュテッケル(Paul Gustav Samuel Stäckel, 1862.8.20-1919.12.12).  プロイセン,ベルリンに生まれ,ドイツ,ハイデルベルグに死す.
 ベルリン大学から,クロネッカーとJulius Weingartenの指導で,『曲面上の点の運動について(Über die Bewegung eines Punktes auf einer Fläche)』により,哲学博士号取得(1885).変数分離によるa href="jinmeih1.htm#Hamilton">ハミルトン・ヤコビ方程式の積分についてハビリタシオンを1891年に取得後,ハレ大学に勤務.キール大学,カールスルーエ大学,ハイデルベルグ大学などの教授.
 [クI3.1,附B], [クII3.2,3.3] トップ

シュテフェン(Klaus Steffen, 1945.1.8-).  ドイツ,ベンスハイムの生まれ.
 ミュンスター大学(1963-67),マインツ大学(1967-)で学ぶ. マインツ大学から, Stefan Hildebrandtの指導で,『与えられたエッジ曲線を持つ定平曲率を持つ曲面の存在定理(Existenzsätze für Flächen konstanter mittlerer Krümmung mit vorgegebener Randkurve)』によりPh.D.取得(1971).
 ボン大学助手(1971),ハビリタシオン取得(1973).ケルン大学に勤めた後,デュッセルドルフ大学正教授(1976). デュッセルドルフ大学数学研究所教授.ジャバラ運動を持つ曲面の例(シュテフェン多面体). [天11], [フ25], [天VI.14] トップ

シュトゥーディ(Christoph Hugo Eduard Study, 1862.5.23-1930.1.6).
 ドイツ,コーブルクに生まれ,ボンに死す.1880年からドイツ各地の大学で学び,1884年ミュンヘン大学から学位を取得.1885年にライプツィッヒ大学数学講師になり,そこでゴルダンから強い影響.しかし,一般に彼は独学の人で,独特の感覚を持っていた.1888年マールブルグ大学に移る.1893年渡米し,ジョン・ホプキンス大学を基地に色々な大学で教える.1894年ドイツに戻り,ゲッティンゲン大学の特別教授.1897年グライフスヴァルト大学教授,1904年ボン大学教授(1903年10月に死んだリフシッツの後任).ボン大学引退(1927)の3年後,ガンで死す.
 複素数の幾何,超複素数,球面三角法.シューベルトの数え上げ幾何の基本原理を,セヴェリと独立に再定式化. 不変式論では記号の発展で貢献.座標によらない幾何の定理の証明を模索.J.L.クーリッジ(ボン大学での弟子)とともに,楕円空間における直線の研究.
 「力学の幾何(Geometrie der Dynamen)」(1903)で,ユークリッド運動学と剛体の力学を論じる.単純群の幾何的構成.「積分不変式」という言葉を導入(1905).
 蝶の収集家としても有名.  [ワ2], [伝5,7], [クI.3.2,附B], [クII附A] トップ  

シュトラウス(Ernst Gabor Straus, 1922.2.25-1983.7.12). ドイツ,ミュンヘンに生まれ,アメリカ,ロサンゼルスに死す.
 エルデシュの共同研究者だけでなく,アインシュタインの助手でもあった. 多くの人と共同研究.上記以外にもベラ・ボロバシュ,リチャード・ベルマン,R.L.グレアムG. セケレシュ,Sarvadaman Chowla,L.ロヴァース,Carl Bernard Pomeranceなど.
 コロンビア大学からFrancis Joseph Murrayとアインシュタインの指導で「統一場理論における幾つかの結果(Some Results in Unified Field Theory)」によりPh.D.(1950).
 カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授.ユークリッド的ラムゼイ理論と解析関数の算術的性質など.  [天29], [天VI.41] トップ  

シュトラセン(Volker Strassen, 1936.4.29- ). ドイツ,デュッセルドルフ・ゲレスハイムの生まれ.
 ゲッティンゲン大学から,Konrad Jacobsの指導で「誤り計量と情報(Messfehler und Information)」によりPh.D.(1962).
 カリフォルニア大学バークレイ校統計学科,エアランゲン=ニュルンベルク大学,チューリヒ大学応用数学研究所教授(1968),コンスタンツ大学教授(1988),退職(1998).
 確率論(局所時のシュトラセンの法則,シュトラセン問題),代数の計算法(シュトラセン・ニュートンの算法),線形計画法など.シュトラセンの不変性原理,重複対数のシュトラセンの法則.
 1969年からアルゴリズムの解析に研究を移す.1969年に一般の連立1次方程式を解くのにガウスの算法が最適でないこと,最小の労力で解く算法を示した.
 1968年にFFT(高速フーリエ変換)を用いて大きい整数の積を素早く計算する方法を発見.1971年にはシェーンハーゲ(Sch"onhage)とともにこの方法を改良したものを出版.シェーンハーゲ・シュトラセン算法. 後に,リチャード・クランドル(Richard E.Crandall)によってメルセンヌ素数の探索に利用された.πの計算にも利用されている.ソロヴェイ( Robert M. Solovay)・シュトラセン素数判定法.
 [モ歴] トップ  

シュトルツ、オットー(Otto Stolz, 1842.5.3-1906.10.25).
 オーストリア、ハルに生まれ、インスブルックに死す。
 インスブルック大学で学んだ後,ウィーン大学に移り,幾何学に関する論文でPh.D.取得(1864). ウィーン大学私講師(1864-69).1869-1871年間にドイツ留学する奨学金を得る.初めベルリン大学で,ワイエルシュトラスクンマークロネッカーの講義に出,次にゲッティンゲン大学でF.クラインクレプシュの講義に出る. F.クラインの友人となり,二人の間の書簡が多く残っている.
 1872年7月にインスブルック大学教授になる.
 ワイエルシュトラスの講義を聴き,微積分学の基礎に関する著述.積分論,多変数関数の微分可能性の概念を示す.微積分学の歴史,とくにボルツァーノについて.シュトルツ=チェザロの定理.[解II.1, III.1, IV.3, 5], [クII.2.5] トップ

シュナイダー(Theodor Schneider, 1911.5.7-1988.)
 ドイツ,フランクフルト・アム・マインの生まれ.フランクフルト大学卒.ゲッティンゲン大学,エアランゲン大学,フライブルグ大学に勤務.
 整数論,代数学.C.L.ジーゲルの弟子.超越数論.ヒルベルトの第7問題(種々の数の超越性の証明),とくに 2√2を含む超越性の証明:A.O.ゲリフォントの結果(1934)の別証(1935).ある種の関数の特殊値として超越数を表現(1935-41).1982年にドイツ数学会でジーゲルの数論の業績に関する講演. [名4] トップ  

シュニレルマン(Lev Genrikhovich Shnirelman 1905.1.2 (15?) -1938.9.24.)
 ベロロシア,ゴメルに生まれ,ソ連,モスクワに死す.
 モスクワ大学に16歳で入学し,1925年卒業.ヒンチンN.N.ルージンウリゾーンに学ぶ.1934年以後モスクワ大学および科学アカデミー研究所に勤務.整数論,代数学,トポロジー,変分法の位相的方法.閉測地線に関するポアンカレの問題を解く(リュステルニク・シュニレルマンの定理).ゴールドバッハの予想の解法に本質的な進展(任意の自然数は20個以下の素数の和に書けることを証明).  [珠訳序,第2章, 3.1, 説2.1, 文], [フ20], [天VI.43] トップ

シュパイザー(Angreas Speiser, 1885.6.10-1970.10.12).
 スイス,バーゼルの生まれ.チューリヒ大学教授(1917),バーゼル大学教授(1949-).
 代数学,整数論,群論,リーマン面.数学史(オイラーリーマンなど).
 ガロア・コホモロジーのヒルベルト・シュパイザーの定理.
 『有限位数の群の理論』Die Theorie der Gruppen von endlicher Ordnung(第3版, 1937) は有限群に関する定本の1つ. オイラー全集編集長.  [代コ], [ワ1, 2] トップ

シュピース(O.Spiess). 数学史家.
『レオンハルト・オイラー、18世紀思想史への寄与(Leonhard Euler, Ein Beitrag zur Geistesgeschichte des XVIII. Jahrhunderts)』(1929),
『数学者ベルヌーイ(Die Mathematiker Bernoulli : Gedenkrede gehalten an der am 21.Januar 1948 veranstalteten Feier bei Anlass der 200. Wiederkehr von Johann Bernouillis Todestag)』(1948). [解II.8, 10] トップ

シュービン(Mikhail A. Shubin, 1944-).
モスクワ大学で,M.ヴィシクの下で「パラメータに依存する行列関数の分解とウィーナーホップ方程式」という論文で博士号取得(1969).修士は1966年.理学博士号はLOMIで取得(1981).モスクワ大学(1969--1990),MIT(1991--1992),ノース・イースタン大学教授(1992-).
 微分方程式,幾何解析,数理物理.
 ノヴィコフ=シュービン不変量. トップ

シューブリンク,ゲルト(Gert Schubring, 1907.9.22-1985.2.19)
 ビーレフェルト大学からMichael Otteの指導で,「数学教育における遺伝原理(Das genetische Prinzip in der Mathematik-Didaktik)」により理学博士号取得(1977).
 厳密な解析の歴史と 19 世紀の数学教育学校の歴史、および数学教育におけるいわゆる遺伝的手法 (数学史のオリエンテーション) に関心.ヨハン・フリードリッヒ・シュルツ、オーギュスタン=ルイ・コーシーピーター・グスタフ・ルジューヌ・ディリクレカール・ワイエルシュトラスベルナルト・ボルツァーノヘルマン・グラスマンフェリックス・クラインカスパー・ヴェッセルなどに関する出版.  [クI序, 3.4], [クII.3.3], [クIII序, 1.2],   トップ

シュペヒト(Wilhelm Specht, 1907.9.22-1985.2.19)
 ドイツ,バーデン=ヴュルテンベルク州ラシュタットの生まれ.
 ベルリン大学からI.シューアの指導で,「対称群の1つの一般化(Eine Verallgemeinerung der symmetrischen Gruppe)」により,Ph.D.取得(1932).
 エアランゲン大学教授.
 代数幾何学,群論,有限群の表現論.シュペヒト加群,行列のユニタリ同値に対するシュペヒト条件. [ワ4] トップ

シュペルナー(Emanuel Sperner, 1905.12.9-1980.12.17).
 ドイツ,ナイセ(現在ポーランド,ニサ)近くのWaltdorf(現在はPrusinowice)に生まれ,ロイフェン(ザルツブルク市の地区)に死す.
 ハンブルグ大学で,O.シュライアーW.ブラシケの指導で,「次元数と領域の不変性に関する新しい証明」により,Ph.D.取得(1928).  ケーニヒスベルク,ストラスブール,フライベルク,ボン,ハンブルクの各大学に勤務.代数学,組み合わせ論,一般トポロジー.
 集合の鎖や反対鎖に関するシュペルナーの定理や次元の不変性の組み合わせ論的証明に使えるシュペルナーの定理は『天書の証明』にも載っている.シュペルナーの補題はブラウエルの固定点定理の組み合わせ論でのアナローグ.シュペルナー彩色.
 O.シュライアーとの共著にEinführung in die Analytische Geometrie und Algebra(解析幾何学と代数入門)2巻(1931, 1935)とVorlesungen über Matrizen(行列講義)(1932) がある.  [天18, 21, 22], [幾10], [天VI.22,25,28,30] トップ

シューベルト,ヘルマン(Hermann Cäsar Hannibal Schubert, 1848.5.22-1911.7.20) プロイセン,ブランデンブルク,ポツダムに生まれ,ハンブルクに死す.
 数え上げ幾何学の創始者のひとり,
 ベルリン大学からDe Anglosaxonum arte metricaにより哲学博士号取得(1867).その後ハレ大学に移り2つ目のテーゼZur Theorie der Charakteristiken(1870).
 ツォイテンによって提起された問題を解決し王立デンマーク科学アカデミーの金メダルを受賞(1874).
 シューベルト計算,シューベルト多項式,シューベルト多様体,シューベルト・サイクル,シューベルト・セル.
 ヒルデスハイムのアンドレヌム実科ギムナジウムで教鞭(1872).その生徒だったA.フルヴィッツF.クラインの下で学べるようにした.
 4年後ヨハネウム学院(ハンブルグで一番古い学校で,20年前にはメビウスも教鞭をとっていた)に移り,1887年に教授.1905年に体調を崩し始め,1908年に退職.
  Sammlung Schubertという教科書のシリーズを編集し,第1巻のArithmetik und Algebraを書く.後にNiedere Analysisを書き,対数表や三角関数表を含む数表も編集.[クI.3.2] トップ

シューマッハ,クリスティアン・ハインリヒ(Christian Heinrich Schumacher, 1780.9.3-1850.12.28)
 ドイツ,ホルシュタイン,ブラムシュテートに生まれ,ハンブルク=アルトナに死す.
 キール大学,イェーナ大学,コペンハーゲン大学,ゲッティンゲン大学で学び,タルトゥ大学(現エストニア)講師(1805-).ドイツに戻った後,コペンハーゲンとゲッティンゲンで天文学と測地学を学ぶ.ゲッティンゲンではガウスに学ぶ.1808年からハンブルクでJohann Georg Repsoldと新しい星表のための観測.コペンハーゲン大学天文学助教授(1810-13),教授(1815-).マンハイム天文台長(1813-15).ホルシュタインの測量を指揮(1817-).1821年アルトナに移り,私設天文台を建設,天文暦(Ephemerides)の編集と、1821年に創刊した天文雑誌『アストロノミシェ・ナハリヒテン(Astronomische Nachrichten)』の編集(31巻まで).  [幾7] トップ

シュミット,エルハルト(Erhard Schmidt, 1876.1.13-1959.12.6.)
ドイツ,デルプト(現在はエストニア,タルトゥー)に生まれ,ドイツ,ベルリンに死す. ドイツの諸大学で学び、教える.ゲッティンゲン大学からヒルベルトの指導で「任意の関数を指示された系に展開すること(Entwickelung willk\"urlicher Funktionen nach Systemen vorgeschriebener)」より博士号(1905).ドイツ数学研究所初代所長.
 主な関心は関数解析、とくに積分方程式論とヒルベルト空間.ヒルベルト空間論にユークリッド幾何の概念を移築.グラム・シュミットの直交化で有名(このプロセス自身はすでにラプラスが示している).  [ト付D.5], [ワ1], [伝8,10], [作5] トップ

シュミット,ヨーゼフ(Josef Schmid, 1925.5.31-2013.6.27)
 オーストリア,フォアアールベルク州フェルトキルヒに死す.
 インスブルック大学から博士号取得(1952),同大学講師.2年間プリンストン大学のタッカーのもとで,同時に E.アルティンにも師事. フライブルク大学(スイス)臨時教授(1965),数学正教授(1967),数学自然科学学部学部長(1973-1974),1990年に退職し,名誉教授.後任はエルンスト・ルー(Ernst Ruh).
 微分幾何、代数幾何、代数的トポロジー,ホモロジー代数.
 マクレーンが『ホモロジー』(1963)を書いた時に準備の支援をした.  [幾1] トップ

シュミット,オットー(Otto Shmidt(=Schmidt)= Отто Юльевич Шмидт), 1891.9.30-1956.9.7.)
ロシア帝国,モギリョフの生まれ.キエフ大学卒業(1913).キエフ大学(1916-20),モスクワ林業大学(1920-23),モスクワ大学(1923-51)で教鞭.北極研究所とソ連地球物理学研究所の創始者で初代所長.ソ連科学アカデミー副総裁(1939-1942).数学ばかりでなく,宇宙発生論や地球生成論にも貢献.
 数学では主に群論に貢献.クルルレマク・シュミットの定理.『群の抽象理論』(1916).無限作用素群の直交展開.モスクワ大学の群論セミナーを主宰.  [代16]  トップ

シュライアー(Otto Schreier, 1901.3.3-1929.6.2).
オーストリア,ウィーンに生まれ,ドイツ,ハンブルクに死す.1920年ウィーン大学に入学し,1923年11月8日に群拡大の理論で学位取得.その後28才で病死するまでハンブルク大学に在職. 彼の急死のため,後の講義をシュペルナーが引き継ぎ,線形代数と幾何学の教科書を共著として出版.
 フルトヴェングラーライデマイスターの影響を強く受ける.連続群や結び目群の研究など.   [珠訳序], [ワ8], [幾10] トップ

シュラム,オーデッド(Oded Schramm, 1961.12.10-2008.9.1). イスラエル,イェルサレムに生まれ,アメリカ,ワシントン州のギュイエ峰に単独登山中に死亡.
 ヘブライ大学を数学とコンピュータ・サイエンスで卒業(1886),カライの指導で修士(1987).アメリカに移り,プリンストン大学でサーストンの指導でPh.D.(1990).論文は「2次元物体を指定された組み合わせでパックすることと,その等角写像と擬等角写像の構成への応用(Packing Two-Dimensional Bodies With Prescribed Combinatorics And Applications To The Construction of Conformal and Quasi-Conformal Mappings)」.
 カリフォルニア大学サンジエゴ校で2年間働いた後,イスラエルのレホヴォトにあるワイツマン科学研究所の研究員(1992-1999).その後,ワシントン州レドモンドのマイクロソフト研究所の理論グループに所属. 離散モデルと連続スケーリング極限で゙,モデルの数が共形不変量となるものがテーマ. グラフ理論,特に確率論を使うもの.SLE(Schramm-Loewner evolution),円充填.離散共形幾何.グロモフ双曲空間の埋め込み,パーコレーション,ケイリー・グラフ上の調和関数など.受賞多数.   [天14], [フ21], [天VI.18] トップ

シュリイヴァー(Alexander (Lex) Schrijver, 1948.5.4-). オランダ,アムステルダムの生まれ.
 数学,計算機科学.アムステルダム大学離散数学・最適化教授.CWI(Centrum Wiskunde & Informatica)のフェロー.
 アムステルダム自由大学からPieter Cornelis Baayenの指導で,Matroids and Linking SystemsによりPh.D.取得(1977).
 ガーヴィッツによるファン・デル・ヴェルデンのパーマネント予想の証明の解説(M.ローランと共著,2010). [天VI.24,37] トップ

シュルマン(Lawrence S. Schulman, 1941.11.21-). アメリカ,ニュージャージー州ニューアークの生まれ.
 経路積分,量子測定理論,統計力学.経路積分にトポロジーを導入.銀河の形態から時間の矢までの広いトピックに貢献.ボルツマンの脳でも.
 最初は地域の学校で学んだが,ユダヤ人教育に移行し,ニューヨークのイェシバー大学を卒業(1963).プリンストン大学から,Arthur Wightmanの指導で,「スピンに対する経路積分(A path integral for spin)」によりPh.D.取得.
 ブルーミントンのインディアナ大学助教授を経て,1970年にNATOのポスドク奨学金でハイファのTechnion-Israel Institute of Technologyへ. 助教授になったが,数年後インディアナ大学を辞任したのは数年後,教授として.1985年にアメリカに戻り,クラークソン大学の物理学科主任となる.Technionは1988年に教授として辞任.1991年以降,主任は辞めるが,クラークソン大学に物理の教授として在任.
 息子のレオナード・シュルマンはカルテクのコンピュータ・サイエンスの教授.
 ザイデンとともに,星形成のパーコレーションモデル,コンウェイのライフゲームのセルオートマトン,熱力学の相転移などの研究.  [50.36] トップ

シュレーダー(Friedrich Wilhelm Karl Ernst Schröder, 1841.11.25-1902.6.16).
 ドイツ,マンハイムに生まれ,カールスルーエに死す.
 ハイデルベルク大学でO.ヘッセキルヒホッフに学び,ケーニヒスベルク大学でフランツ・ノイマンに学ぶ.G.ブールグラスマンの影響を受け,数理論理学を展開.集合論,とくに順序数や順序集合の理論,束論.
 1890年の著書Vorlesungen über die Algebra der Logikで,集合の「含む」「含まれる」という概念と⊂,⊃ の記号を導入.論理代数,アルゴリズム論はタルスキの仕事に発展.カントールベルンシュタイン・シュレーダーの定理。  [天15], [基14] トップ

シュレーディンガー,エルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー(Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger, 1887.8.12-1961.1.4).
 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンに生まれ,オーストリア,ウィーンに死す.
 ウィーン大学入学(1906),助手(1911).第1次大戦従軍(1914-1918),イェーナ大学助手(1920),シュトゥットガルト大学准教授(1920.9),ブレスラウ大学教授(1921),ラウエの後任として チューリッヒ大学(1921-27),このときチューリヒには,デバイワイルがいた. プランクの後任として,フンボルト大学ベルリン大学教授(1927-1933).ヒトラーの政権掌握により,ユダヤ人学者の迫害に抗議して辞任. オックスフォード大学フェロー(1933),1934年にプリンストンで講義,終身のポスト提供されたが拒否.エジンバラ大学に向かう予定も,ビザの遅れから断念. オーストリアのグラーツ大学教授(1936).1938年にナチのオーストリア併合により,解任される.イタリアに移住した後,ベルギーに移りゲント大学教授.1939年第二次世界大戦開戦により,アイルランド自由国首相の招聘で,ダブリン高等研究所に勤務.1948年にアイルランドの市民権獲得.1955年定年退職.大戦後の1956年にオーストリアに帰国し,ウィーン大学で教授に.
 波動力学,シュレーディンガー方程式,シュレーディンガーの猫(1935),シュレーディンガー描像 [ワ著2], [孫数1], [50.17] トップ

シュレーフリ(Ludwig Schl\"afli, 1814.1.15-1895.3.20.).
 スイス,ベルン,グラスヴィルに生まれ,ベルンに死す.ベルリン大学卒業,後教授(1853).初め神学を学び,後数学に転向.語学に優れ,サンスクリットを話すこともできた.
 スイスのトゥーンで学校の数学教師をしながら,高等数学を独学していた. 1843年にシュタイナーヤコビディリクレボルチャルトがローマに旅したとき通訳を務め,その際,ディリクレが毎日レッスンをしてくれ,彼らの数学に大いに啓発されたという.
 関数論(楕円関数,等角写像,球関数など),偏微分方程式のほか,幾何や代数でも.射影幾何,多様体概念の萌芽(1852).ベッセル関数やルジャンドル関数の積分表示.複素半単純リー環のシュレーフリ図形(ディンキン図形の前身).また4次元ユークリッド空間の中の3次元球面が非ユークリッド(楕円)幾何のモデルであることを示す. [名17, 23], [幾11]  トップ

シュレーミルヒ,オスカー(Oscar (Oskar) Xavier Schlömilch, 1823.4.13--1901.2.7). ドイツ・ヴァイマルに生まれ,ドレスデンに死す.
 イェーナ大学,ベルリン大学,ウィーン大学で数学と物理を学ぶ.イェーナ大学から『テイラーの定理(Theorema taylorianum)』により哲学博士後取得(1844).ドレスデン工科大学教授(1849).
 数学解析,シュレーミルヒ関数(ベッセル関数の一種).
 サム・ロイドが発明した2分割パズルに関する著書(1868)あり.微積分から解析幾何まで数多くの教科書がある.
 シュレーミルヒ級数,シュレーミルヒ剰余項,シュレーミルヒ方程式. [クI.3.3]  トップ

シュワルツ,アルベルト(Albert Solomonovich Schwarz, 1934.1.24--).
 ソ連,カザンの生まれ.カリフォルニア大学デーヴィス校教授. モース理論のパイオニアの一人,「多様体manifoldのループ空間が多様体にはならず軌道体orbifoldになることを指摘し,初期のボットモースの仕事の間違いを正した.
 4次元ユークリッド空間の局所化される古典的ゲージ理論の解であるようなインスタントンの発見(ベラヴィン,ポリヤコフ,チュプキンと共著).
 トポロジカルな場の量子論の最初の例を作る.非可換幾何でもいくつかの例を作る.1997年の共著論文「マスター方程式の幾何と場の量子論」のAKSZモデル(M.アレクサンドロフ,M.コンツェヴィッチ,彼,O.ザブロンスキー)は有名.
 場の量子論が多様体の不変量を作リ得ることを彼が示したことから,ウィッテンはそのような理論を位相的場の量子論と呼ぶようになり,ジョーンズ多項式がチャーン・シモンズ的場の量子論から導かれることも予言している(1987).
 トポロジー,圏論,関数解析,変分法,数理物理学.
 著書に『物理学者のためのトポロジー』(1996),『場の量子論とトポロジー』(1989,1993) ,『場の量子論の数学的基礎』(1975)など.  [フ2]  トップ

シュワルツ,リチャード(Richard Evan Schwartz, 1966.8.11--).
 アメリカ,ロスアンジェルスの生まれ.UCLA修士(1966).プリンストン大学で,サーストンの指導で,「ある無限生成ショットキー群の極限集合について(The Limit Sets Of Some Infinitely Generated Schottky Groups)」により,Ph.D.取得(1991).メリーランド大学カレッジパーク校教授(2001-2005),ブラウン大学教授(2005-).
 トポロジー,デーン手術,ビリヤードなど.  [フ序,2, 29]  トップ

ジョイアル(André Joyal, 1943.2.25-).
 カナダ,ケベック州ドラモンビルの生まれ.
 ケベック大学モントリオール校の数学科教授.代数,数理論理学,組合せ論,トポロジー,情報理論,経済数学.特に,カテゴリー論.
 Myles Tierneyとともにグロタンディエクガロア理論の一般化.クリプケ--ジョイアル・セマンティクス.  [天24], [天VI.33]  トップ

正田健次郎(Kenjiro Shoda, 1902.2.25-1977.3.20.).
 群馬県の生まれ. 東京大学卒(1925).エミー・ネーターに学ぶ.大阪大学教授(1933-),総長(1954-58).武蔵大学学長.今上天皇の皇后の叔父で,日本における数学の地位向上にも貢献.
 代数学.日本の近代代数学研究の草分け.
 [ワ3]  トップ  

ジョリー,カルマン(Kálmán Győry).
 ハンガリーのデブレツェン大学の前身のKossuth Lajos University (KLTE)卒(1964). デブレツェン大学から,トゥラーンの指導で「ディオファントス方程式論への寄与(Contributions to the Theory of Diophantine Equations)」により,Ph.D.取得(1966).デブレツェン大学助手,助教授,准教授(1964-85),教授(1988-2010),名誉教授(2010).理学部長(1993-98),学長(2001-2002).
   トップ  

ショウルズ(John Scholes, 1948.4.24-2019.2.18). イギリス,ロイヤル・レミントン・スパで育つ.
 Leamington College for Boysで学んだあと(1906-66),マンチェスター大学で学び(1966-1969),理学士号を得る.
 プログラミング言語APLの展開に貢献.direct functionsの設計とimplementをする.  音楽,文学,詩などにも興味.ダブリンのジョイス協会に属す.  [天6], [天VI序,9]  トップ

徐光啓(嘉靖41年3月21日(1562.4.24)--崇禎6年10月7日(1633.11.8)). 字は子先.中国(明),上海に生まれ,北京に死す.
 1597年の郷試に首席で合格.1599年に南京に行きマテオ・リッチに学び始め,1603年にジョアン・ダ・ロシャ(羅如望, João da Rocha)の手で洗礼を受け、キリスト教徒となる.洗礼名はPaulo. 進士に及第し、翰林院庶吉士となる.天文学・地理・物理・水利・暦数などについてのマテオ・リッチの口授を翻訳・筆記・公刊をした.とくに1607年に刊行した『幾何原本』はユークリッドのストイケイアの前半6巻分の翻訳であり,幾何という言葉を導入したもの.
 リッチの死後1623年に礼部右侍郎になるが,宦官勢力に弾劾され野に下る.明朝第17代崇禎帝が即位した翌年の1628年に返り咲き,左侍郎になり,のち尚書に昇進.元代に作られた郭守敬の授時暦が合わなくなってきてたので,改暦を任される.イエズス会士アダム・シャール(湯若望)の協力によって『崇禎暦書』を刊行,後,清の征服後,1644年10月に「時憲暦」として全国に公布される.
 また,『農政全書』は日本に大きな影響を与えた.   [幾訳序] トップ

ジョルダン、カミーユ(Marie Ennemond Camile Jordan, 1838.1.5-1922.1.22).
 フランス、リヨンで生まれ、イタリア、ミラノで死す。
 エコール・ポリテクニクと鉱山学校卒業.エコール・ポリテクニクとコレージュ・ド・フランスで働く.
 数論,関数論,幾何学,トポロジー.  群論およびガロア理論最初の教科書(1870)。『解析教程』全3巻(1882-87).弟子のS.リーF.クラインにより発展された連続群の概念の萌芽.「置換論(Trait\'e des substitutions)」(1890).
 ジョルダン・シュヴァレー分解, ジョルダン・ヘルダーの定理、ジョルダンの標準形、ジョルダン行列、ジョルダンの閉曲線定理、ジョルダン曲線、ジョルダン測度,ジョルダン加群,ジョルダン準同型.またジョルダン代数のPascual Jordanと間違わないように. [解IV.1], [名答19.6, 19.10], [代6, 9-10, 12-14, 16, コ], [ワ2], [伝2,4,5,6,7,8,9], [フ24,26], [作付B], [幾10] トップ  

ジョンキエール(Ernest Jean Philippe Fauque de Jonqui\`eres, 1820.7.3-1901.8.12). フランス,カルパントラに生まれ,(グラース近くの)ムーサン・サルトゥーに死す.
 海軍将校で,余暇に数学を研究した.
 1835年にブレストの海軍学校(エコール・ナヴァール)に入学.卒業後,36年間フランス海軍に所属.1841年に大尉になり,海軍評議会に属すとき(1848-50).パリに住み,ポンスレM.シャールの仕事に親しむ.海軍の仕事で外国を歴訪,航海中に数学を研究.
 1862年に4次の平面曲線についての研究で科学アカデミーのグランプリ受賞.
 1865年に軍艦の艦長となり,インドシナに送られ,サイゴンで最初の農業と工業の展示会を行う任務だった(サイゴンは1859年にフランスに占領され,1862年にヴェトナム皇帝トゥ・ドクから政権を委譲さていた).サイゴンの都市改革に重要な役割を果たす.
 帰国後,海軍評議会に勤務し,1874.12.17に少将に,1979.10.1に中将になり,1885年に退役する.1884.3.24には,フランス学士院会員に選ばれている.
 シャールに高等数学の手ほどきを受けて以来,幾何学が主な興味対象.最初のころはシャールとポンスレの仕事の拡張.『純粋数学雑感(M\'elanges de g\'eom\'etrie pure)』 (1856)の最後の章に,マクローリンの曲線の論文の翻訳.
 1859年に双有理変換を導入(これはのちにクレモナによって研究されたもの). 曲線束,代数曲線,代数曲面を研究した.サーモンケイリークレモナの仕事と関連したもの. シューベルトの『数え上げ幾何(Abz\"ahlende Geometrie)』に関連した結果もある. 方程式論やディオファントス方程式や素数分布にも関心.また,多面体に対するオイラーの公式F+V=E+2をすでにデカルトが知っていたことを発見した.
   [フ17]  トップ

ジョーンズ、アーサー(Arthur Jones, 1934.12.27-2006.1.22.).
 オーストラリア,メルボルンの生まれ,メルボルン大学からに「行列の固有値と固有ベクトルの自動計算(Automatic computation of the latent roots and vectors of Matrices) 」より修士,Thomas Cherryの指導で「微分方程式の周期解(Periodic solutions of differential equations)」によりPh.D.(1960).
 カリフォルニア大学バークレイ校にポスドクのフェローとして行き,帰国後オーストラリア国立大学(Australian National University;ANU)講師. ラ・トローブ大学上級講師(1967),准教授(1991),1995年に病気のため退職.
オーストラリア,ラ・トローブ大学数学・統計学校のホームページになぜ数学を学ぶのかという論説があった.
 『抽象代数と有名な不可能性問題(Abstract Algebra and Famous Impossibilities)』(1991,S.A.モリスK.ピアソンと共著), 『カオス:数学的入門(Chaos: a mathematical introduction)』(2003, Valentina Draganと共著)
   [名4, 文] トップ

ジョーンズ、ウィリアム(William Jones, 1675-1749.7.3).
 ウェールズ、アングレシーに生まれ、イギリス、ロンドンに死す。
 ニュートンを含め17世紀の多くの数学者との手紙に資料価値。王立協会員(1711)。 円周率をπεριφερια からπと書いた人(1706年。普及するのはオイラーの著作(1737)以降)。 [解I.4, 文] トップ

ジョンソン(Roger Arthur Johnson, 1890-1954).  マサチューセッツ州ガードナーの生まれ.ハーヴァード大学から,J. L. Coolidgeの指導で,An Analytic Treatment of the Conic as an Element of Space of Three DimensionsによってPh.D.取得(1913).ハンター・カレッジのブルックリン分校数学教室に就職(1926).同校は後にブルックリン・カレッジになった.1947年から主任となり,1952年の退職まで務める.
 一番引用される著書はModern Geometry - An Elementary Treatise on the Geometry of the Triangle and the Circle (Houghton Mifflin, 1929).
 Advanced Euclidean Geometry (Modern Geometry), Dover, 1960.アメリカ数学月報に論文を寄稿. 。 [幾7] トップ

シラード,レオ(Leo Szilard, 1898.2.11--1964.5.30).
 ハンガリー,ブダペシュトに生まれ,アメリカ,カリフォルニア州ラホヤ(La Jolla)に死す.ハンガリー名はシラールド・レオー(Szil\'ard Le\'o)である
 アインシュタインを通じ,ルーズベルト大統領への進言によって原子爆弾開発のきっかけを作った人物として知られる.
 ベルリン大学からラウエの指導で,系の変数のゆらぎへの熱力学第二法則の拡張に関する論文で博士号を取得(1922).ラウエの助手(1925),私講師(1927).ナチの台頭で,最初ウィーンに逃げ,オックスフォード大学クラレンドン研究所 (Clarendon Laboratory) の常勤研究員,開戦前にニューヨークに行き,流浪の教授に.コロンビア大学,シカゴ大学,ソーク研究所(1964.2)で落ちつく.
 熱統計力学、原子核物理学、分子生物学.シラードのエンジンの思考実験, 核連鎖反応の概念の創出,シラード=チャルマーズ効果, 核分裂における二次中性子の確認など.X線センサー素子,電子顕微鏡,線形加速器,サイクロトロン,ベータトロンなどに関する特許. [伝10] トップ

ジラール,アルベール(Albert Girard, 1595-1632.12.8.)
 フランス,サン・ミイール(St Mihiel)に生まれ,オランダ,ライデンに死す.フランスから宗教上の理由でオランダに亡命.ライデン大学教授.
 代数学の基本定理を初めて述べ,0, √-1, 負の指数の公然とした使用.球面三角形の面積を求める.sin , cos, tan という省略記号を初めて使う(1626).フェルマの定理を推測(1632).  [名1, 5, 13, 17], [珠2.1], [幾5] トップ

シルヴァーマン(Joseph H. Silverman, 1955.3.27-.) アメリカ,ニューヨークの生まれ.
 ブラウン大学卒(1977),ハーヴァード大学からテイトの指導で「楕円曲線上のネロン=テイトの高さ(The Neron-Tate Height on Elliptic Curves)」によりPh.D.取得(1982).
ブラウン大学数学教授.代数幾何.

 『力学系の算術(The arithmetic of dynamical systems)』(2007), 『ディオファントス幾何入門(Diophantine geometry. An introduction)』(2000,M.Hindryと共著), 『楕円曲線の算術に関する新しい話題(Advanced topics in the arithmetic of elliptic curves)』(1994), 『楕円曲線の有理点(Rational points on elliptic curves)』(1992,J.テイトと共著,日本語訳『楕円曲線論入門』(1995)あり), 『楕円曲線の算術(The arithmetic of elliptic curves)』(1986)  『モデュラー形式とフェルマの最終定理(Modular Forms and Fermat's Last Theorem)』(1997, コーネルスティーヴンスと共同編集). .
 [名序,文] トップ

シルヴェスター(James Joseph Sylvester, 1814.9.3-1897.3.15.)
 イギリス,ロンドンに生まれ,ロンドンに死す.
 ケンブリッジ大学卒業(1837).弁護士でもある.保険会社に勤めたこともあり(1845-55),ウーリィッジ陸軍大学校教授(1855-69). 1877年にジョンズ・ホプキンス大学教授となり,1878年にAmerican Journal of Mathematicsを創刊. 目が不自由でもあり,イギリスに帰ってオックスフォード大学教授に(1892).
 数論.代数.ケイリーと共に行列の理論を作る.1851年に3次方程式の判別式を発見.判別式,不変式,共変式,交換子などの用語を発明.
 弟子の中にフローレンス・ナイティンゲールがいたこともあり,女性の教育に関して進んだ意見を持っていたらしい.
 チェビシェフ・シルヴェスターの定数,エルミート・シルヴェスターの定理,シルヴェスター行列,シルヴェスター数,シルヴェスターの判定法,シルヴェスターの行列式定理,シルヴェスターの消去法,シルヴェスターの4点問題,シルヴェスターの慣性律,退化次数のシルヴェスター則,シルヴェスターの直線問題,シルヴェスターのランク不等式,シルヴェスター数列,シルヴェスター・ガライの配位.  [天3, 8, 10, 24], [ワ2], [文1], [伝3,4,5,6,7,8,10], [辞], [作付B], [天VI.3,11,13,33], [クII.3.1]  トップ

シールズ(Allen Lowell Shields, 1927-1989.2.16).
 アメリカ合衆国に生れ,ミシガン州,アナーバーに死す。ニューヨーク市立大学を卒業後,M.I.T. でW.フルヴィッツの指導で学位取得(1952).私的には当時パリとMITに半々にいたRaphael Salemの指導を受ける.
 初めトゥレーン大学に勤め,関数開析に親しみ位相半群の研究をする. 1955年にアナーバー大学教授に.
 関数開析,作用素論,測度論,複素関数論など.  トップ

ジールバーガー,ドロン(Doron Zeilberger, 1950.7.2-).イスラエル、ハイファの生まれ.
 組み合わせ論.超幾何恒等式,
 ワイツマン科学研究所からHarry Dymの指導で「離散解析関数論における新しいアプローチと結果(New Approaches and Results in the Theory of Discrete Analytic Functions)」によりPh.D.取得(1976).
 ラトガス大学数学教授,理事.ウィルフとともにスティール賞受賞(1998).
 交代符号行列予想の最初の証明.Manuel Kauers,Koutschanとともにq-TSPP予想の証明(2011),ウィルフ--ジールバーガー対(WN対).   [天VI.34]  トップ

シロー(Peter Ludvig Mejdell Sylow,1832.12.12-1918.9.7).
 ノルウェー、クリスチャニア(今のオスロ)に生まれ、同地に死す。
 ハルデンの高校教師(1858-1898),クリスチャニア大学の代理講師(1862-)でガロア理論の講義をする. クリスチャニア大学教授(1898-)。1894年にコペンハーゲン大学名誉博士.
 解析関数論,変換群論.シロー群,シローの定理(1872).
 弟子のリーとともに8年かけてアーベル全集の編集。[解文], [伝] トップ

ジーン,アル(Al Jean,Alfred Ernest Jean III, 1961.1.9-) . アメリカ,ミシガン州ファーミントン・ヒルズの生まれ.現在はカルフォルニア州ロスアンジェルス.在住.
 子供のころ数学の競技会で頭角を現し,16歳でハーバード大学に入学を許可され,数学専攻.1981年卒業.同窓のマイク・レイスとともに,テレビの作家やプロデューサーとなる.
 種々の番組制作に携わるが,『シンプソンズ』では,レイスとともにシーズン3と4のショーランナーをはじめ,総指揮を執ったシーズンは全部で9回.制作,脚本は放送開始時から携わる.数学出身であるためか,シンプソンズのいろいろなところに数学がちりばめられている. [50.37] トップ

シンガー(Isadore Manual Singer, 1924.5.4-).
 アメリカ,デトロイトの生まれ.MIT教授.微分幾何,スペクトル幾何,複素多様体論,群論,K理論,バナッハ環.楕円型微分作用素のアティヤ・ジンガー指数理論.リーマンロッホの定理の高次元化.無限リー群.η関数.大域解析学. [解人], [ト人] トップ

秦九韶(Qin Jiushao, 1202(?)-1261).
   四川,資陽県の生まれ.字は道古.父が南宋の首都臨安に赴任した時に,太史局に通って数学,暦学,天文学を学ぶ.父に従い,四川に戻る.県尉に任じられてから,順調に昇進し,1244年に建康府通判.母の服喪を理由に一旦官を辞したとき,『数書九章(Shùshū Jiǔzhāng)』(1247)を書く.1254年に沿江制置司参議に任じられるが,政争に巻き込まれ,1260年に広東・梅州の知州に左遷,間もなく病死.
 中国剰余定理,ヘロンの公式など [幾2] トップ

シンプソン、エドワード・ヒュー(Edward Hugh Simpson, 1922.12.10--2019.2.5). 北アイルランド出身.
 バス勲爵士コンパニオン(CB).第2次大戦中暗号解読の部隊にいて,数理統計学を研究するに至る.
 ケンブリッジの卒業後の学生としてThe Interpretation of Interaction in Contingency Tablesを1946年に書く.彼のtutorのモーリス・バートレットがかれの結果を引用したいから論文にしてくれと頼まれて書いたという.政府関係機関に勤務.
 シンプソンのパラドクスで有名(1951).  [率0], [50.19] トップ

シンプソン、トーマス(Thomas Simpson, 1710.8.20-1761.5.14).
   イギリス、ライチェスターシャー、マーケット・ボスワースに生まれ、同地に死す。
 ウーリッジ陸軍大学校教授。ロンドン王立協会会員(1746)。数値積分のシンプソン則以外はド・モアヴル流の確率論。πの計算.
 『流率の教理と応用』(The Doctrine and Application of Fluxions, 1750) . [解II.6, III.5, 文], [率23], [幾4] トップ

シンプリキオス(Simplicius, 490頃-560頃).
 アナトリア(現在トルコ領)南部の,シリシアに生まれ、恐らくはギリシャ,アテネに死す。アナトリアは紀元前1世紀からローマの属州.アレキサンドリアに行き,アモニウスの下で哲学を学ぶ.アモニウス自身はプロクロスとエウトキオスの弟子で,アルキメデスの『球と円柱について』の第1巻の注釈をした.またアリストテレスを批判的な考察する仕事が多く,後にシンプリキオスもアリストテレスに関する広範な注釈書を書いている.
 その後アテネに行き,新プラトン主義のダマスキオスの下で学ぶ.ダマスキオスは520年頃から,529年にキリスト教信者のローマ皇帝ユスティニアスが閉鎖するまでのプラトンのアカデミアの長であった. ダマスキオスとともにアテネを追放され,文化を高く評価するペルシャ王の下に行く.532年のローマとペルシャの停戦後にアテネに戻ることが可能になったが,講義することは許されなかったようで,そのため彼の著述は講義調ではなく,アリストテレスの著述に詳細な注釈を加えている.数学史的には,その注釈の中で言及した数学者たちの業績が重要で,彼の著書によってしか残っていないものが少なくない.
 エウドクソスの同心球に関する詳細な考察もその1つである.また,今は失われているエウデムスの『幾何学の歴史』から長文の引用をしている.その中にヒポクラテスの月形の議論や,アンティフォンの円の方形化の努力などが含まれている.また,ユークリッド『原論』の注釈もあり,アラビア語に翻訳されたために失われずに済んでいる.その中には,シンプリキオス自身の平行線の公理の証明に向けた努力は書かれていないが,彼がそういう努力をしたことはアラビア語の文献の中に見られる.  トップ


  
  
  
  
  

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