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 人名索引 や-よ、わ


人名索引総目次
A.ヤグロムI.ヤグロムヤコブスタールヤコビ
矢田部良吉矢田堀景蔵山川健次郎柳楢悦山路主住
A.ヤングG.S.ヤングJ.W.ヤングT.ヤング
ユークリッドユシュケヴィッチユートゥシャスユール
ヨアヒムシュタール吉江琢児吉田光由ヨストC.ヨーダー
 
ワイエルシュトラスワイバーンワイリーH.ワイルワイルズ
ワイルダーワゴンワースワーズワース
和田寧渡辺崋山G.ワナー



 
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や-よ


ヤグロム,アキヴァ(Akiva Moiseevich Yaglom, 1921.3.6-. ).
 ソヴィエト,ハリコフの生まれ.イサークと兄弟.
 スヴェルドロフスク大学卒(1942).モスクワ大学教授(1964).関数解析,確率論,情報理論,応用数学.イサークとの共著で多数の著書がある. [天6] トップ

ヤグロム,イサーク(Isaak Moiseevich Yaglom, 1921.3.6-. ).
 ソヴィエト,ハリコフの生まれ.アキーヴァと兄弟.
 スヴェルドロフスク大学卒(1942).モスクワ大学,モスクワ教育大学の後,教育科学アカデミー学校教育及び教育工学研究所で働く.代数,幾何などの著書多数. [天6] トップ

ヤコブスタール(Ernst Erich Jacobsthal, 1882.10.16-1965.2.6).
 ドイツ,ベルリンに生まれ,バーデン=ヴュッテンベルク,イーバーリンゲンに死す.医者の家系に生まれる.
 ベルリン大学で,フロベニウスH.シュヴァルツシューアに学び,フロベニウスとシューアの指導で論文「2次剰余理論の公式の応用(Anwendung einer Formel aus der Theorie der quadratischen Reste)」によりPh.D.取得(1906).ここで,4n+1の形の素数が2つの平方数の和であることを証明.
ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム・ギムナジウムの教師(1909),ベルリン工科大学(1922).ナチが政権をとって,大学から追われ,1939年の夏に,兄パウルのいるイギリスに行く途中にノルウェイのM.デーンのいるトロンドハイム大学に寄って(デーンはブルンの代理をしていた),そのまま滞在.第2次対戦が勃発し,イギリスに行きにくくなる. 1940年4月9日にノルウェイが占領される.1943年1月まではトロンドハイムにいたが,いよいよ命も危なくなり,当時ブルンと共同研究していたチェコの数学者パウル・クーンも同じような状況だったので,スウェーデン国境を越えようとしたが,雪が多くてできず,オスローの難民組織と連絡を取り,ウプサラへの国境まで行った.終戦後,トロンドハイムに戻り,その後ノルウェイ工科大学に職を得,ノルウェイ市民となった.
 戦後西ベルリンに自由大学ができてから,1957年まで毎夏,講義に招待される.1957年の訪問の際,心臓病を発症.70歳の時ベルリン自由大学の最初の名誉市民となる.
 1957年の秋から講義もできなくなり,ノルウェイの気候が体調に合わないので,1958年の秋にドイツの最南端の湖の畔であるイーバーリンゲンに移住し,晩年を過ごす.
 ヤコブスタール数列,ヤコブスタール数,ヤコブスタール和,ヤコブスタール・リュカ数.  [フ2] トップ

ヤコビ(Carl Gustav Jacob Jacobi, 1804.12.10-1851.2.18).
 プロイセン、ポツダム(現在ドイツ領)に生まれ、プロイセン、ベルリンに死す。
 ユダヤ人銀行家の家に生まれ、ベルリン大学卒業後、教授資格取得のためキリスト教に改宗。ケーニヒスベルク大学に招かれ(1826)、教授(1832)に。1843年健康上職を辞し、イタリヤヘ。1844年帰国後ベルリン大学教授。
 力学(こまの運動),微分幾何(楕円体の測地線),線形代数学,整数論,変分法,微分方程式論,楕円関数論など.ヤコビのテータ関数。ヤコビアン(ヤコビ行列式)、ハミルトン・ヤコビの方程式,ヤコビの恒等式,ヤコビ積分,アーベル・ヤコビの定理,ヤコビ多様体,ヤコビの公式,ヤコビの固有値アルゴリズム,ヤコビ場,ヤコビ形式,ヤコビ群,ヤコビ法,ヤコビ場,ヤコビ多項式,カラテオドリ・ヤコビ・リーの定理. 数学教授法としてのセミナー形式を考案。
 『楕円関数論の新しい基礎(Fundamenta nova theoriae functionum ellipticarum)』(1829,日本語訳あり),ボルチャルトの『テータ級数の性質から導かれる楕円関数論(Theorie der elliptischen Functionen aue der EIgenshaften der Thetareihen abgeleitet)』はヤコビの1835/36年の講義をまとめたもの.
 ヤコビの死後もケーニヒス大学では彼の弟子である,ボルチャルト,ハイネザイデル,リイヘロート(F.Richelot, 1808-1875)が研究集団を作り,80年代頃までテータ関数,楕円関数,それらの拡張を通じて関数論の精力的な研究がなされる.
   [解I.0-2, 4, II.1-3, 5-8, 10, IV.0, 3-5, 文], [パ4, 附1, 年表], [名17, 19, 附D], [珠2.1, 3.1, 説3.7], [代19], [ワ1,2,6], [代入7], [文3], [伝1,2,3,4,5,7], [フ3,28,序], [辞], [幾9,11] トップ

矢田部良吉(Yatabe Ryokichi, 1851.10.13(嘉永4年9月19日)-1899(明治32年)8.8).
 伊豆国韮山(現在は静岡県伊豆の国市)に生まれ,鎌倉沖に死す(遊泳中の事故).植物学者、詩人.
 1869年(明治2年) - 開成学校教官.
 1871年(明治4年) - 米国に渡り、翌年コーネル大学で植物学を学ぶ。
 明治10年東京大学発足時の理学部の日本人の教授は4等教授の菊池大麓と5等教授の彼(植物学)だけで,教授補が山川健次郎,古賀護太郎、山岡次郎のみ.ちなみに文学部に四等教授で外山正一(捨八を改名)、法学部に五等教授で井上良一がいるだけである。
 1888年(明治21年),学位令が制定され,菊池大麓(数学),山川健次郎(物理),伊藤圭介(本草学),長井長義(薬学)らとともに理学博士となる.
 東京植物学会を設立、ローマ字論者でもあった.
 詩人でもあり,外山正一,井上良一とともに『新体詩抄』を上梓.  [文1] トップ

矢田堀景蔵(Yatabori Keizo, 1829.10.8(天保3年9月15日)-1891.1.15(明治24年)). 矢田堀鴻,号は函陵.幕府小普請方、荒井精兵衛の三男.小普請方、矢田堀又蔵の養子となる。
 勝海舟の書いた墓碑銘に「弱冠にして昌平学校生徒となり、学業日に進み、田辺太一、塚本恒甫と時に三才子の称あり」という言葉がある.
 嘉永5年(1852年)甲府徽典館の学頭となる.嘉永6年の黒船来航時は甲府にいた.長崎海軍伝習所の開所(安政2年,1855)時,筆頭格で伝習生となる.
 2年後,築地に軍艦教授所ができ,その教授頭に.長崎から江戸へ,日本人の初の海将,観光丸を館長として指揮.
 文久元年(1861年)、軍艦奉行・木村芥舟によって、軍艦頭取に.鳥羽・伏見の戦いのあと海軍総裁に就任,幕府最後の海軍総裁.
 明治維新後,徳川家に従って静岡に移り,沼津兵学校校長.のち,新政府にも出仕.明治10年,東京数学会社発足時の社員.  [文プ] トップ

山川健次郎(Yamakawa Kenjiro, 嘉永7年閏7月17日(1854.9.9) - 昭和6年1931.6.26).
 会津藩国家老・山川尚江重固の三男.万延元年(1860),父の重固が没し、兄・大蔵(後の山川浩)が家督.妹捨松はアメリカに留学し,帰国後同行した津田梅子の女子英学塾(後の津田塾大学)を応援,大山巌と結婚し,鹿鳴館の花形にも.
 会津白虎隊,唯一の生き残り.若松城開城後、猪苗代に謹慎の後、越後に脱走、長州藩士・奥平謙輔の書生となる。
 明治4年(1871)に 斗南藩再興のあと、アメリカへの国費留学生に選抜され渡米し,明治8年(1875),イェール大学で物理学の学位を取得し帰国.
 明治9年(1876)に東京開成学校(翌年、東京大学に改編)教授補になり、アメリカ人ピーター・ベーダー(ピーテェル・ベダル)の助手.
 明治10年東京大学開学の時の日本人教授陣は,理学部には4等教授が菊池大麓,5等教授が矢田部良吉,教授補が古賀護太郎,山岡次郎,山川健次郎の5人だけで,ほかの学部も文学部四等教授外山正一,法学部五等教授井上良一のみ.
 明治12年(1879),日本人として初の物理学教授に.
 1888年(明治21年),学位令が制定され,菊池大麓(数学),伊藤圭介(本草学, 1803.2.18-1901.1.20),矢田部良吉(植物学),長井長義(薬学, 1845.7.24-1929.2.10)らとともに理学博士となる.
 明治10年,東京数学会社発足時の社員.東京大学総長,文部大臣.
 1883(明治16)年6月「物理学訳語(字)会」設立の発起人,ほかに田中舘愛橘,田中正平(1862.6.12-1945.10.16).会頭は菊池大麓.1885(明治18)年7月29日の第62回の会が最終で,その後,4名の特別委員(山川,山口鋭之助(1862.3.9-1945.3.4),村岡範為馳(1853-1929.4.19),難波正(1859.5.14-1920);後に山川,山口,藤沢三輪)に原稿作り,校正,印刷すべての仕事を全面的に委嘱.さらに20数回の委員会を開催して,印刷は1887(明治20)年10月に着手し,完成したのが1年2ヵ月後の1888(明治21)年12月であった.
 明治34年(1901),48歳で第5代東京帝国大学総長となり,東京学士会院会員に任命. 明治38年(1905),日露戦争後の戸水事件のため,東大総長を辞任。大正2年(1913年) 5月9日,再び東京帝国大学の第9代総長となり,大正9年(1920)に東京帝国大学の総長を退任。その間,1914.8.19-1915.6.15の間,澤柳事件の後の京都帝国大学の総長を兼任.
 明治44年(1911)4月1日,九州帝国大学の初代総長.旧制武蔵高等学校2代校長(1925年4月-1931年6月)も.  [文プ,1] トップ

柳楢悦(Yanagi Narayoshi, 1832.10.8(天保3年9月15日)-1891.1.15(明治24年)).
 江戸(現、東京)生まれ。津藩の下級武士・柳惣五郎の長男。
 嘉納治朗作希芝(嘉納治五郎の父)の娘を後妻としている.

 津藩の算学者である村田恒光に学ぶ.
 安政元年(1855年) - 長崎海軍伝習所1期生
 明治3年(1870年) - 海軍に出仕,明治5年(1872年)大佐に.
 明治9年(1876年) - 水路局長  明治10年(1877年) 日本初の学会「東京数学会社」(後の数学物理学会)設立.初代社長は神田孝平と二人. 1878年5月に洋行のため辞めその後任に岡本則録,1880年5月に社長復帰.1882年6月の総会で社長廃止が決まり,7月に脱会.
 長崎海軍伝習所,沼津兵学校,海軍兵学寮関係で参加人々との代表格.それらには矢田堀景蔵,中牟田倉之助(1837.3.30-1916.3.30),塚本明毅赤松則良中川将行,荒川重平(1851-1933)など.彼らは江戸期の算学の伝統とは無縁.
 明治13年(1880年) - 海軍少将
 明治21年(1888年) - 予備役編入、元老院議官
 明治23年(1890年) - 貴族院議員
 明治24年(1891年) - 肺炎のため没。青山霊園に埋葬
 著書・訳書に,航海或問(ピラール著) ,量地括要(全2巻)
 美術評論家の柳宗悦は三男。デザイナーの柳宗理、美術史家の柳宗玄、園芸評論家の柳宗民は孫。  [文プ] トップ

山路主住(Yamaji Nushizumi, 宝永元年(1704)-安永元年12月11日(1773.1.3)).
 幼名は久次郎,字は君樹,通称は弥左衛門,号は君樹,連貝軒,聽雨.

 享保9年(1724)正月28日,松前主馬組御徒へ召し出され,享保18年(1733)2月2日支配勘定に.
 享保18年(1733)に死んだ師の中根元圭が、徳川吉宗の側近として西洋暦による改暦を目論んでいたこともあり、宝暦の改暦では、天文方西川正休・渋川則休の手伝をすることになり,上京(1750-1757)している.
 元文3年(1738)に松前主馬が大目付となり,元文4年(1739)8月13日御留守居瀧川播磨守組小普請入りを命ぜられる.
 延享元年(1744)には松前主馬組の小普請役となり,改暦の準備にかかる. 改暦の命が延享3年(1746)10月に出る. 寛延元年(1748)8月,渋川則休(六蔵)と西川正休(忠次郎)を補佐する補暦御用手伝となり,三人扶持を受け,寛延二年(1749)には,五人扶持を受ける.
 寛延3年(1750),渋川と西川に従って上京し改暦のことに従うも,仙洞御崩御のため江戸に帰る.
寶暦元年(1751),再び渋川と西川に従って上京.
寶暦3年(1753),小普請組に入れられ(この前年,西川が解任), 宝暦4年(1754)に宝暦暦ができるが,西洋暦が取り上げられることはなく,貞享暦の改変に留まった. 寶暦5年(1755),関東秋分測量のため7月江戸に帰り,9月渋川圖書と共に京都に行き,10月関東冬至測量のため江戸に帰る(暦の確認の観測ではある).こうして,『宝暦甲戊暦』が出来る. 寶暦6年(1756),渋川圖書と共に京都に行き,7年に勤めを果たして江戸に帰る.
 改暦後は、非難の声が高く,編暦の研究のため,宝暦十二年(1762)に藤田貞資を招聘して,山路の作暦観測の手伝いとするが,藤田は明和4年(1767)に眼病と称して天文方手伝いを辞し,翌年(1768)久留米藩主・有馬頼徸に召し抱えられる.弟子の安島直円は継続して編暦研究の手伝いをしたようである.
 宝暦9年(1759),関算前伝「弧背詳解」の序文を書く.
 宝暦10年(1760),息子の山路之徽,暦作測量御用手伝となる.
 明和元年(1764)に天文方になり,御蔵米百俵を給され,扶持は前と同じ五人扶持.席次は渋川圖書の次席.
 改暦後も息子の山路之徽や仙台藩の門人の戸板保佑らと共に西洋暦を研究し、崇禎暦書による西洋暦を完成.この暦は天文方の山路家・吉田家などで検証.しかし,寛政の改暦では、麻田剛立らによる暦象考成後編による西洋暦の方が優れていたため採用されなかった.
 関流の算学を初め中根元圭に学ぶが、元圭が京都に帰ってしまったので、元圭の推薦で、久留島義太(1696?--宝暦7年11月29日(1758.1.9)の門人となる。その後、久留島が日向延岡に行くことになり、松永良弼を紹介されたが,久留島が日向に向かった延享4年に松永は没している. 荒木村英松永良弼に学んだ後、中根元圭,久留島義太(1696?--1757)らに学ぶ。  循環小数の研究あり.
 延享4年(1747)関流の五段階の免許制度を確立(見題免許、隠題免許、伏題免許、別伝免許、印可免許とし,各免許で添える算書を定める).
 弟子に,藤田貞資安島直円有馬頼徸,松永貞辰(1751-1795;明和7年(1770)年に伏題免許),船山輔之(明和7年(1770)11月28日に免許を受ける),戸板保佑,石井雅穎,粟田安之など.
 息子の山路之徽(1729--1778)が,船山輔之には安永5年(1776)に,戸板保佑には安永6年(1777)に関流の印可免許を授けている.

 ●関流草稿の行方
 関孝和建部賢弘の大量の草稿類は,松永良弼が内藤政樹(1703-1766;平たいら藩から延岡藩へ)に仕えるようになった後,建部家から内藤家に伝えられ,松永がかなりの程度整理した.
 それを山路主住が継承したが,宝暦の改暦の際に失敗した天文方西川正休を補佐していた(実際には無能な上司で,山路たち実務家の言うことが理解できず言うことも聞かなかったらしい)ことで罰せられ,山路主住の持っていた関流の暦算書をすべて提出させられる.戸板保佑がそれを筆写.『関訂書』などの関の天文暦学関係の仕事はこの中にあり,存在知られるようになったのは第2次大戦後のこと.

 仙台藩士・戸板(多々良)保佑(1708--1784)は19歳で中西流の青木長由から印可を受け,その後天文暦学を仙台藩の天文生遠藤盛俊に学び,24歳で(1731年)皆伝を受け,藩の天文生となる. 宝暦三年(1753)藩命を奉じて京都に上り,土御門泰邦の暦学の弟子.京都にいた山路主住について関流算学を学ぶ. 安永七年(1777)に山路之徽から関流の免許を受ける. 関算四伝書511冊(伊達家が預かり公開され,成立は1780(安永九)年),天文四伝書400冊(1782(天明二)年,土御門家が死蔵)を筆写・編纂.  [文2] トップ

ヤング,アルフレッド(Alfred Young, 1873.4.16-1940.12.15.)
 イギリス,ランカシャー,ウィドネスに生まれ,エセックス,バードブルックに死す.リヴァプールの富裕な商人の長男として生まれる.
 1892年ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学.学生時代はボートで活躍.ケンブリッジ大学セルウィン・カレッジ講師(1901-05),フェロー(1905-),後に会計になる. 1908年,ヘイスティングスのキリスト教会の助任司祭となり,結婚.1910年,エセックス,バードブルックの主任司祭となり,生涯ケンブリッジから25マイル西のこの地に住む.
 1926年にケンブリッジでの講義を始める.
 群論,群の表現論.ヤング図形(1900),ヤング対称子.フロベニウスI.シューアワイルなどと刺激し合って,群の表現論が出来上がって行く.
 グレイスとの共著『不変式の代数(The Algebra of Invariants)』Cambridge(1903).  [名19], [ワ2,4] トップ

ヤング,ゲイル(Gail Sellers Young, Jr., 1915.10.3--1999.8.29.)
アメリカ,イリノイ州シカゴに生れ,ニューヨーク州ピークスキルに死す.
テキサス大学オースティン校からR.L.ムーアの指導で「ある連結領域の外部境界について(Concerning the Outer Boundaries of Certain Connected Domains)」によりPh.D.取得(1942).
 ミシガン大学,チュレーン大学(Tulane University),ロチェスター大学.一般トポロジー.  [伝8] トップ

ヤング,ジョン・W.(John Wesley Young, 1879.11.17--1932.2.17.)
アメリカ,オハイオ,コロンバスの生れ.射影幾何の公理的基礎づけ.コーネル大学で群論に関する研究で博士号(1904).ダートマス大学教授.姉はE.H.ムーアの妻.著書に『代数と幾何の基本概念』,O.ヴェブレンとの共著『射影幾何学』(1910-18)(1巻だけが共著で,2巻はヴェブレン単独).  [伝2,7,8] トップ

ヤング,トーマス(Thomas Young, 1773.6.13--1829.5.10.)
 1801年王立協会の自然学の教授になる.開業医であり,物理学者であり,エジプトの象形文字の解読に貢献した,ロゼッタ・ストーンの解読でシャンポリオンと競争. 視覚の研究から光の研究に進み,ヤングの干渉実験など光の波動説を支持.弾性体力学におけるヤング率,またエネルギーの概念を提唱.. [モ幾] トップ

ヤンデル(Benjamin H. Yandell, -2003). カリフォルニア,パサデナに死す(53歳).
スタンフォード大学の後,数学研究の道に進まず,詩を書き,テレビ修理工になる.カルテクの物理の大学院生にもなった.
 『名誉のクラス ヒルベルトの問題とその解決者(The honors class: Hilbert's problems and their solvers)』(2001)など.  なくなるときに2冊の執筆予定あり. a href="jinmeih3.htm#von_Neumann">フォン・ノイマンの伝記とソリトンに関するもので,アティヤに執筆を勧められていた.
 [フ文] トップ

ユークリッド=エウクレイデス、アレキサンドリアの(Eucleides = Euclid of Alexandria = Ευκλεδησ, 紀元前 330?-275?(365?-300?)).
 エジプト、アレキサンドリアの生まれ。
 プラトンのアカデミアに学ぶ。 単に『原論』と言えば彼の『幾何学原論(Στοιχεία, ストイケイア)』のこと。 古代ギリシャ数学の集大成であるばかりでなく、その後2000年間の数学のあり方、数学教育のあり方に最大級の影響を及ぼした作品である。 結果がオリジナルでないという非難をする人もあるが、叙述の仕方こそが彼の業績であり、そのことが最も大きな影響を与えたものである。 また、幾何学以外にも著作は多い。『補助論』『図形分割論』『光学』など残っているものもあるが(ハイベアの著作中に見いだされる)、『焦面』『不定命題』『円錐曲線(アポロニウスの結果をまとめたものらしい)』『間違った結論について(詭弁論か?)』『音楽理論』『諸現象(天文学)』など失われたものが多い。
 アレキサンドリアでプトレマイオス1世(2世という説あり)に「幾何学に王道はない」と言った言葉は数学者にとっては誇りであるが. [解I.1, 4, 6, II.1, III.1, IV.1-2, 4], [パ12, 31, 附2, ノート], [名序, 1, 3, 6-7, 9-17, 20, 23, 附C, 文], [ト序, 1-3, 5-7, 附D.5], [珠説2.2.1-2, 文], [代3-6, 12-17, 19, 21-22, コ], [ブ50], [代入序1,2,4,5], [黄2,3,訳], [ワ8,10], [天1,4,7,15], [伝1,2,3,4,5,6,8], [作1-3,付AB], [幾序,1-11], [基1], [50.27,36,42] トップ

ユシュケヴィッチ(Adolf-Andrei Pavlovich Yushkevich, 1906.7.15 -1993.7.17).
 ウクライナ,オデッサに生れ,ロシア,モスクワに死す.ソ連の数学史研究の第1人者.
モスクワ大学物理数学部で,エゴロフやN.N.ルージンに学び(-1929),1930年からモスクワ高等工業学校で教え,1940年に教授となり,1941年に数学部長になる.1945年から自然科学技術史研究所にも採用される.1946年から始まるジダーノフ批判から,ソ連の生活から西洋や国際主義の痕跡を消し去ろうとするもの.そのため学校からは追われたが,研究所の地位は保った.
 世界的な数学史家となっており,18世紀のロシア数学を中心に,1929年から300を超す論文がある.特にオイラーに関する世界的権威になった. モスクワ大学から,D.E.エゴロフ(1869-1931)の指導でPh.D. [天6] トップ

ユートゥシャス,アスカロンの(Eutocius of Ascalon, 480頃--540頃). アスカロンはイスラエルの沿岸の都市.
 アルキメデスのいくつかの著述とアポロニウスの『円錐曲線論』に注釈をつけた.
 [幾3] トップ

ユール(George Udny Yule, 1871.2.18--1851.6.265). スコットランド,イースト・ロージアン,モアハムに生まれ,イングランド,ケンブリッジに死す.
 16歳でユニバーシティ・カレッジ,ロンドンに入学、工学を学ぶ。K.ピアソンのもとで学ぶ.1912年にケンブリッジに移り,統計学の講座を創る.M.S.バートレットはかれを導師と呼んだ.
 ユール分布.シンプソンより早く,シンプソンのパラドックスに言及.  [率0] トップ

ヨアヒムシュタール(Ferdinand Joachimsthal, 1818.3.9--1861.4.5).
 プロシャ・シレジア,ゴルトベルク(現在,ポーランド,ズロトリヤ)に生まれ,ドイツ,ブレスラウ(現在,ポーランド,ヴロツワフ)に死す.
 リーグニッツのギムナジウムでクンマーに学び,1836年にベルリン大学に入学しディリクレシュタイナーに学び,1838年にケーニヒスベルク大学に移りベッセルヤコビに学んだ.ハレ大学に移って1840年に学位取得.
 1844年からベルリンの王立実業学校で,1848年からベルリンの王立フランス・コレージュで教え,1852年に教授になる.同時に1845年からベルリン大学でも教える.そこでの講義は解析幾何,微積分,曲面論,変分法,統計学,解析力学などで,教え方には定評.円錐曲線の法線や2次曲面に関する研究がある.   [伝3,4] トップ

吉江琢児(Yoshie Takuji, 1874-1947). 山形県出身.
 第三高等中学校時代には河合十太郎に学ぶ.同級に高木,1級上に林がいた. 東京帝国大学数学科,第14期卒業(1997).同期は高木貞治林鶴一
 高木の翌年,1899年に解析学研究のためドイツ留学.最初はベルリン,それからゲッティンゲン.F.クラインヒルベルトのもとで微分方程式論を研究.留学中の1900年に助教授に任じられ(明治33.6.14-明治42.5.2),帰国後1909年に第四講座(微分方程式)の教授(明治42.5.3-昭和10.3.31).
 大正4年東宮御学問所御用掛.
 『微分方程式論』(共立出版) ,『初等第一階偏微分方程式』裳華房(昭和22),  [文3] トップ

吉田光由(Yoshida Mitsuyoshi, 慶長3年(1598)-寛文12年11月21日(1673.1.8)). 京都の豪商・角倉了以の孫.
 『割算書』(1622)で有名な毛利重能に師事し,今村知商ともあき(1591?~1668),高原吉種とともに「毛利の三子」と呼ばれる.のち,叔父の角倉素庵(了以の長男, 1571.6.27-1632.8.7)のもとで程大位『算法統宗』の研究を行い、それをもとに『塵劫記』を出版した.1627年(寛永4年)に4巻本,1629年(寛永6年)頃に5巻本,1631年(寛永8年)に3巻本.
 イタリア人宣教師カルロ・スピノラ(Carlo Spinola、1564-1622)が毛利重能,百川治兵衛,角倉素案,吉田光由を教えただろうと言われ, 『算法統宗』はスピノラから吉田光由に渡ったという説もある.
 1635年(寛永12年)に細川忠利に招かれ熊本へ行き,1641年(寛永18年)3月に細川忠利の死により帰京.
 1641年(寛永18年)11月『新編塵劫記』刊行,12の遺題,遺題継承の初め.
 『古暦便覧』慶安元年(1648)刊. 弟子に横川玄悦. [文2], [ふ3] トップ

ヨスト,オイゲン(Eugen Jost).
 スイスの画家,2014 年にはエリ・マヨールと共著でプリンストン大学から『美しい幾何学(Beautiful Geometry)』を出版している(日本語訳は丸善出版から).Alles ist Zahl: Mit Motiven von Eugen Jost(2008) という本もある.
 [幾1] トップ

ヨーダー,カラ(Cara Yoder Matzen).
 アメリカ数学オリンピックの受賞者.ウィリアムズ・カレッジで学び,各種高校などの教師を経て,エスコパル・ハイスクール数学教師(2005-2006),ハワイ大学ホノルル・コミュニティーカレッジ講師(2006).
等周問題. [フ文] トップ
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ワイエルシュトラス(Karl Theodor Wilhelm Weierstrass, 1815.10.31-1897.2.19).
 バヴァリア(現在ドイツ領)、ヴェストファーレン、オステンフェルデに生まれ、ドイツ、ベルリンに死す。
 ドイツのクローネ中学('42)、ブラウンシュヴァイクのローマ・カトリック校の講師('48)。このとき、アーベル関数論をクレレ誌に発表('54)。クンマーの推薦により、ベルリン王立工科大学教授('56)、同時にベルリン大学助教授。のち教授。S.リーミンコフスキーカントールミッタク・レフラーH.シュヴァルツI.L.フックスソーニャ・コヴァレフスカヤなど弟子多数。1850年以降目まいに悩まされ健康に優れず、1861-1894年の間は車椅子から離れられなかった。
 実解析以外には、複素関数論の基礎づけ、整関数や無限積で定義される関数の研究、楕円関数・代数関数・アーベル関数論、変分法の不連続な解の研究、線形代数の2次形式論や単因子論、複素数体のみが実数体の可換な代数拡大であることの証明(ガウスが1831年に約束して果たせなかったこと、1872年)など。あまり業績を公表せず、弟子のノートから作られた講義録によるものが多い。 [解序, II.1, 6, III.0-1, 3-7, 9, IV.1, 3, 文], [名3, 15, 附E], [ト2], [代3, 17], [天19], [伝3,4,5,6,7,9], [文3], [辞], [作付B], [幾2], [ワ著1] トップ

ワイツェンベック(Roland R. Weitzenb\"ock, 1885.5.26-1955.7.24).  オーストリア,クレムスミュンスターに生まれ,オランダ,ヘルダーラント州Zelhem村に死す.
 1902-1904年にメードリンクのHTLで学び,オーストリア陸軍大尉だった.その後ウィーン大学で学び, 1910年に(Zum System von 3 Strahlenkomplexen im 4-dimensionalen)によりPh.D.取得.それから,ボン大学とゲッティンゲン大学に学び,後者で\"Uber einige spezielle Kollineationen des R4により教授資格を得る.
 (第一次世界大戦での兵役の後)1912年にグラーツ大学で私講師,プラハのカール・フェルディナンド大学で数学教授(1918),アムステルダム大学で数学教授(1923-45).ドイツの将校だったことにより,戦後告発されたが,後に戦時中にもユダヤ人やマルクス主義者に友人のあったことから,財産没収が解除.
 不変式論,微分不変式.1828年9月にアインシュタインと統一場理論について文通.
 弟子にDaniel Edwin Rutherford,George Francois Cornelis Griss (1898-1953)など. [ワ2,4,8] トップ

ワイバーン(Gordon Thomas Whyburn, 1904.1.7--1969.9.8).
 アメリカ,テキサス州ルーイスヴィル(Lewisville)に生まれ,ヴァージニア州シャーロッツヴィルに死す.
 テキサス大学に入学し化学で学士(1925).1920年からR.L.ムーアがテキサス大学助教授になり,初年級で微積分を教えていたときにワイバーンの数学能力に気がつき,誘って数学の道に.共同研究することもあり,トポロジーに進む.修士号も化学で受けたが(1926),その時数学に進むことを決意.数学界で発表するようになる.
 数学でPh.D.を1927年に取得.その後テキサス大学助教授(adjunct professor)に(1927-1929).1929年にグッケンハイム奨学金で妻とともにヨーロッパに行き,ウィーンでハーンと,ワルシャワに行きクラトフスキシェルピンスキと会う.
 アメリカに戻って,ジョンズ・ホプキンス大学の数学助教授になり,ヴァージニア大学教授に(1933).
 『解析トポロジー(Analytic Topology)』(1942),『位相解析(Topological analysis)』 (1958),『力学トポロジー(Dynamic Topology)』(1979,E.デューナと共著).   [伝8] トップ

ワイリー,シャウン(Shaun Wylie, 1913.1.17--2009.10.2).
 イギリス,オックスフォードに生まれ,ケンブリッジに死す.
プリンストンに行きレフシェッツタッカーのもとでトポロジーを研究し,そこでチューリングに会う.1937年にプリンストン大学からレフシェッツの指導で「一般の複体における双対性と交差(Duality and Intersection in General Complexes)」によりPh.D.取得.
 イギリスにもどりケンブリッジのトリニティホールのフェローになる.第2次大戦中はドイツ海軍の暗号解読に活躍.戦後はJ.F.アダムズ,M.ケリー(Gregory Maxwell (Max) Kelly),W.タット(William Tutte),C.ジーマン,Crispin Nash-WilliamsなどのPh.D.の指導.P.ヒルトンと『ホモロジー論』(1960)を出版.   [伝8] トップ

ワイル,ヘルマン(Hermann Klaus Hugo Weyl, 1885.11.9-1955.12.8.)
 ドイツ,エルムズホルン(ハンブルクの近く)に生まれ,スイス,チューリヒに死す.もちろんヴァイルというのが原音に近いのだが,あまりにもワイルという名が人口に膾炙しているので,
 ゲッティンゲン大学卒(1908),D.ヒルベルトの弟子.ゲッティンゲン大学(無給講師1908-13, 教授1930-33)とチューリヒ工科大学教授(1913-30)の後,アメリカに亡命.プリンストン大学高等研究所教授(1933-51).
 リーマン面の概念の確立,特殊関数の級数理論,加法的整数論,微分方程式論,積分方程式論,微分作用素のスペクトル理論,連続群の幾何と表現論,微分幾何と群論の物理学への応用(量子力学と相対性理論).
 ワイル和,ワイル・テンソル(ワイル曲率),ワイルの概周期関数,ペーター・ワイルの定理,ワイルの指標公式,ワイル群,ワイル領域(Weyl chamber),(正準交換関係の)ワイル形(Weyl form),(数の幾何における)ワイルの規準(Weyl's criterion)など. マヨラナ・ワイル・テンソル,シューア・ワイルの相対性,ワイル代数,ガンマ行列のワイル基底,ワイル方程式(相対論的波動方程式),ワイル・フェルミオン,ワイル・ゲージ,ワイル重力,ワイル積分,ワイル・ルイス・パパペトロウ座標,ワイル加群,ワイル・スピノール,ワイル和,ワイル変換,コンパクトリー群のワイルベクトル,ワイル・スカウテンの定理,ワイル不等式,ワイルのユニタリ・トリック.

「私の仕事はいつも真実と美を結びつけようとするものだったが,どちらか一方を選ばなければならないときには,普通,美の方を選んで来た.」

 論文以外の著作を挙げておく.これらはどれも国内にある.
  1. Die Idee der Riemannschen Flache, Teubner, Leipzig, Berlin, 1913. 原著改訂第3版(1955) .『リーマン面』(田村二郎訳)岩波書店(1974)
  2. Raum, Zeit, Materie,Springer-Verlag, Berlin, Heiderberg, 1918. 原著第5版(1923).『空間、時間、物質』(菅原正夫訳,東海大学出版会,1973.内山龍雄訳,講談社,1973)
  3. Das Kontinuum : Kritische Untersuchungen uber die Grundlagen der Analysis, Verlag von Veit(1918). 『連続体 解析学の基礎についての批判的研究』(田中尚夫,渕野 訳)日本評論社(2016.2.16)
  4. Mathematische Analyse des Raumproblems, Springer-Verlag, Berlin(1923).
  5. Was ist Materie? : zwei Aufsatze zur Naturphilosophie, Springer-Verlag, Berlin(1924).
  6. Die heutige Erkenntnislage in der Mathematik, Sonderdrucke des Symposion ; Hft. 3, Weltkreis(1926).
  7. Natur, Geist, Gott, Handbuch der Philosophie ; Abt. 2, R. Oldenbourg, Munchen(1927).
  8. Philosophie der Mathematik und Naturwissenschfte,R. Oldenbourg, Munchen, Berlin, 1927. 『数学と自然科学の哲学』(菅原正夫+下村寅太郎+森繁雄訳)岩波書店(1959).著者自身が監修した英訳本があり,日本訳はそれを底本にしたもの.
  9. Gruppentheorie und Quantenmechanik ,H.Hirzel, Leipzig, 1928. 原著第2版(1931). 『群論と量子力学』(山内恭彦訳)裳華房(1932).
  10. The open world : three lectures on the metaphysical implications of science, Yale Univ. Press, New Haven, Conn.(1932).
  11. Elementary Theory of Invariants, Mineographed Notes, University of Pennsylvania Press, Philadelphia(1934).
  12. The Structure and Representation of Continuous Groups, Lecture Notes, Inst. Adv. Stud., Princeton(1935).
  13. Mind and nature, William J. Cooper Foundation lectures, Princeton Univ.(1935--36).
  14. The Classical Groups: Their Invariants and Representations , Princeton University Press(1939, 1946)の増補第2版(1953)『古典群:不変式と表現』(蟹江幸博訳,シュプリンガー東京,2004.11)
  15. Algebraic Number Theory, Ann. MAth. Stud. 1, Princeton Univ. Press(1940).
  16. Meromorphic Functions and Analytic Curves, Ann. MAth. Stud. 12, Princeton Univ. Press(1943), with Joachim. Weyl.
  17. Geometry of Numbers, Mineographed Notes, Princeton Univ.(1950), with C.L.Siegel and K.Mahler.
  18. Symmetry, Princeton Univ. Press, New Jergy, 1952.『シンメトリー : 美と生命の文法』(遠山啓訳,紀伊國屋書店,1957).
  19. Mind and Nature: Selected Writing on Philosophy, Mathematics and Physics, Princeton Univ. Press by Hermann Weyl, ed. by Peter Pesic(2009) 『精神と自然』(ピーター・ペジック編,岡村浩訳)ちくま学芸文庫(2014.10.10)、
  20. The mathematical heritage of Hermann Weyl(ヘルマン・ワイルの数学的遺産), ed. by R.O. Wells, Jr., Proceedings of symposia in pure mathematics, vol. 48, American Mathematical Society, Providence(1988)
ワイルの数学とその意味を知りたいのなら,まずは日本語に翻訳された著書と,上の表の最後の論文集を見ればよい.  [名3, 9-10, 17,文], [代序, 1, 17, 19, コ],[ワ],[伝4,5,6,7,8,9,10],[ワ著],[50.40]トップ

ワイルズ,アンドリュー(Andrew John Wiles, 1953.4.11-.)
 イギリス,ケンブリッジの生まれ.父はオックスフォード大学の神学教授で,1952-55年にケンブリッジ大学のリドリーホール付きの牧師として働いており,その時に彼は生まれた.ケンブリッジのキングズ・カレッジスクールとレイズスクールに学ぶ.
 1971年オックスフォード大学マートン・カレッジに入学,1974に学士号を取得し,ケンブリッジ大学クレア・カレッジからジョン・ コーツの指導で「相互則とバーチ・スウィナートン=ダイアー予想(Reciprocity Laws and the Conjecture of Birch and Swinnerton-Dyer)」によりPh.D. 取得(1979).
 1981年に高等研究所に1年いた後プリンストン大学教授.1985-86年にはグッゲンハイム奨学金でIHESとエコル・ノルマルに滞在. オックスフォード大学王立協会研究教授(1988-90)のあと,プリンストン大学に戻っている.
 フェルマの最終定理の証明。
 「... 10歳だったある日町の図書館で数学の本を見つけこの問題の歴史を知った.10歳だった私にも問題の意味は分かった.そのときから,解こうと努力してきた.なんという挑戦,なんと美しい問題だったか.これがフェルマの最終定理であった.」
と語っている.大人になってその夢を追い続けることのできる幸せを語り,実際に解けた喜びを語っている.
 フライセールリベットの努力で,フェルマの最終定理の証明が,半安定楕円曲線に対する志村谷山予想の証明に帰着していた.ワイルズはこの予想の証明を1993年に発表したが,ギャップを指摘され,1994年9月19日にギャップを克服するアイデアを得たという.ギャップのあった論文とギャップを埋めた論文(リチャード・テイラーと共著)は1995年に発表.
 岩澤理論の主予想の証明(Qの場合はB.メイザーと協力して(1984),全実数体に対しては1990年に).  [名3] トップ

ワイルダー(Raymond Louis Wilder, 1896.11.3--1982.7.7).
アメリカ,マサチューセッツ州パーマー(Palmer) に生まれ,カリフォルニア州,サンタ・バーバラに死す.
 テキサス大学オースティン校からR.L.ムーアの指導で「連続曲線に関して(Concerning Continuous Curves)」によりPh.D.取得(1923).シェーンフリースプログラムに関するもの.
 オハイオ州立大学助手(1924),ミシガン大学アンナーバー校助教授(1926),准教授(1929),教授(1935-),71歳で引退後,カリフォルニア大学サンタバーバラ校で非常勤など.
 トポロジー.『多様体のトポロジー(Topology of Manifolds)』(1949).アイレンベルグ(圏論)やスティーンロッドとも共同研究.後,哲学や人類学にも関心.    [伝8] トップ

ワゴン(Stanley Wagon).
 カナダ,モントリオールの生まれ.
 モントリオールのマギル大学卒(1971).  ミネソタのダートマス大学からJ.E.Baumgartnerの指導で,「飽和イデアルの分解(Decompositions of Saturated Ideals)」によりPh.D. 取得(1975).
 アメリカ,マサチューセッツ州ノーサンプトンのスミス大学の1つのポストを妻のJoan Huchinsonとシェアする. ミネソタ州,マカリスター大学数学・計算機学科教授(1990).
 数論,数値解析,数学パズル,マテマテカの大学教育での利用法など,興味は多岐にわたる.アメリカ数学月報の名編集者としても名高い. 日本語の本に『Mathematica現代数学探求』(植野他訳,シュプリンガー・フェアラーク東京), 『Mathematicaで見える現代数学(Mathematica in Action: Problem Solving Through Visualization and Computation)』(1991,1993,2010;長岡亮介他訳,ブレーン出版)などがある.
 その他『バナッハ・タルスキのパラドクス(The Banach-Tarski Paradox)』 (1985), 『自転車はどっちへ行った? その他おもしろ数学ミステリー』(Which way did the bicycle go? And other intriguing mathematical mysteries)』(1996,コンハウザー,a href="jinmeia3.htm#Velleman">D.ヴェルマンと共著), 『平面幾何と数論における新旧の未解決問題( Old and New Unsolved Problems in Plane Geometry and Number Theory)』(1991,クリーと共著), 『計算機整数論教程(A Course in Computational Number Theory)』(2000,David Bressoudと共著)など.  [珠文], [天4] トップ

ワース(B. Wirth).
 Mathematisches Institut, Universität Zu Köln, D-50931 Köln, Germany  [天27] トップ

ワーズワース(William Wordsworth, 1770--1850. ).
 イギリスの湖水地方に住み自然を歌った英国の詩人. 桂冠詩人(1843). ハミルトンと交友があり,ハミルトンは自分の赤ん坊にワーズワースの「霊魂不滅を思う(Ode on Intimations of Immortality)」を朗読して聞かせていたという.ハミルトンに詩を見せられ,「論理的な能力には, 作家であれ批評家であれ, 若く未経験な者がかつて夢見たよりも, 詩を扱うのにずっと多くのことができます.」と答えたという.それでも生涯の大半を文学サークルの中で活動した. [伝3] トップ

和田寧(Wada Yasushi, 天明7年(1787)-天保11(1840)年9月18日).
 通称豊之進,字は子永,号は算学,円象.
 はじめ香山直五郎政明といい,播州三日月藩森氏に仕えた.後,故あって浪人し,江戸に出て三緑山増上寺の寺侍になる.土御門家の算学棟梁となる.
 算学は初め宮城流,後日下誠門下に入る.
 安島直円の円理の術を発展させ,円理豁術(最初は区分求積で定積分を行うことで,のち多重積分に)に(1817年頃完成).「円理諸表」は定積分の公式集に当たる.
 算学で生活することは難しく,売卜することでやっと生活するほど.
 弟子に,細井寧雄,牛島盛庸など.また,「円理諸表」を受けるために,同門の弟弟子たち,内田五観,白石長忠,小出修喜,栗田宜貞,小泉則之などが入門した.  [文2] トップ

渡辺崋山(Watanabe Kazan, 寛政5年9月16日(1793.10.20)-天保12年10月11日(1841.11.23)). 江戸・麹町の田原藩邸に生まれ,三河国田原の池ノ原屋敷に死す.
 通称は登のぼり,のぼる,諱は定静さだやす,号ははじめ華山で,35歳ころに崋山と改めた.号は他にも全楽堂,寓画堂など.
 父渡辺定通は上士だったが,養子だったため家禄が削られ,27石.藩の財政難もあり、実収入は12石.貧しく,得意の絵を売って生計を助ける.
 鷹見星皐から儒学を学び,18歳のときに昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学ぶ.佐藤信淵から農学を学ぶ.
 絵については,最初、大叔父の平山文鏡,ついで白川芝山から,しかし,付届けができないことから破門.文化6年(崋山17歳)には金子金陵に師事.画力が向上.初午灯篭の絵を描く内職で絵を速く描く技術を身につけたという.さらに谷文晁にも師事.
 天保3年(1832)5月,田原藩の年寄役末席(家老職).尚歯会に参加し、飢饉の対策について話し合い,『救荒二物考』を上梓.高野長英小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍などと交流.会に出たことがある藤田東湖が彼を「蘭学にて大施主」と評している.天保9年(1838)の春分の日に,内田五観にロシア算術書『算学釈書』を贈る.
 尚歯会ではモリソン号事件への幕府の対応を議論していく中で,『慎機論』を書いたことが,蕃社の獄の調べの中で見つかり,幕政批判で有罪となり、国元田原で蟄居.
 『西洋事情書』『全楽堂日録』『日光紀行』 [文2] トップ


  
  
  
  
  

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