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『文明開化の数学と物理』 『代数入門』 『微分の基礎 これでわかった!』『微分の応用 これでわかった!』『本格数学練習帳』
『確率で読み解く日常の不思議』『数学の作法』『幾何教程』



 人名索引 う


人名索引総目次  あい えお  
  
ヴァイナーヴァイスバッハヴァシッチN.B. ヴァシーリエフヴァゾニュイ
ヴァーベルクヴァリニョンヴァルサーヴァルトフォーゲルヴァレ・プーサン
ヴァン・オーベルヴァンツェルヴァンディヴァーヴァンデルモンド
E.ヴァンナーG.ヴァンナー
ヴィアンノウィーヴァーヴィヴィアーニヴィエートヴィエトリス
ウィグナーヴィジングヴィットウィップルヴィトルヴィウス
ウィーナーヴィノグラードフウィルキンスウィルクスB.M.ウィルソン
C.ウィルソンE.B.ウィルソンJ.ウィルソンK.G.ウィルソンR. J. ウィルソン
W. ウィルソンヴィルティンガーウィルフォードウィントナーE.B.ヴィンベルグ
ウェアリングヴェイユヴェガウェストフォールヴェシオ
ウェダーバーンヴェッセルH.ヴェーバーW.E.ヴェーバーヴェヒトマン
O.ヴェブレンT.ヴェブレンヴェル・エックウェルシンガーヴェルズル
ウェルナーヴェルマンヴェロネーゼヴェンツェル
ヴォイクトヴォーガンウォリスウォールウォールマン
ウォルツヴォルテールA.H.ウォーレスW.ウォレスヴォロノイ
宇田川玄真内田五観ウマル・ハイヤームヴュスト
ヴラックウラムウーリーウリゾーン

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ヴァイナー,ジョエル・ラリー(Joel Larry Weiner).
カリフォルニア大学ロサンゼルス校からN.グロスマン( Nathaniel Grossman)の指導で「曲がった多様体におけるガウス写像(The Gauss Map in Curved Manifolds)」によりPh.D.取得(1971).
 ハワイ大学マノア校教授.引退.
 微分幾何学,空間曲線. [フ文] トップ

ヴァイスバッハ(Bernulf Weissbach).
フリードリヒ・シラー大学イェーナ校からW.E.O.マイヤー(Maier)の指導で「定曲率空間の単体体積(Simplexinhalte in Raumen Konstanter Kr\"ummung)」により自然科学博士(1967).   ドイツ,オットー・フォン・グェリッケ工科大学. [天14] トップ

ヴァシッチ(Petar M. Vasi\’c).
  ユーゴスラヴィア,電気工学研究所,教授.
 『解析的不等式(Analytic inequalities)』(1970,D.S.ミトリノヴィッチと共著), 『平均と不等式(Means and their inequalities)』(1988,P.S.ブレン,D.S.ミトリノヴィッチと共著)など.  [天16] トップ

N.B. ヴァシーリエフ(Nikolai Borisovich Vasil'ev,1941-1998.5.28).
 モスクワ大学力学数学部(1957-62). モスクワ大学教授. 大学院の後,モスクワ大学のA.N.ベロゼルスキー物理化学的生物学研究所で,生物学における数学的方法の分野に従事,I.M.ゲリファントに率いられたグループに参加.
 I.M.ゲリファントとI.G.ペトロフスキーと共に,国立数学通信学校の創立に貢献,青少年向けの国内数学雑誌『クヴァント』の創設者の一人で,『クヴァント・テスト』の出版ディレクター.
 著書に『直線と曲線 ハンディブック』(グーテンマッヘルと共著)(2004),[直] トップ

ヴァゾニュイ(Andrew Vazsonyi).
 エルデシュが若いときからのハンガリーの友達.エルデシュ数は1.ブダペシュト大学からPh.D.
 サンフランシスコ大学の McLaren School of Business.7冊の教科書.
 どちらのドアにキャディラックがあるか? (モンティ・ホールとポール・エルデシュとモンテ・カルロ),純粋数学とWeiszfeldアルゴリズムエルデシュと√2,   [天21] トップ

ヴァーベルク、デイル(Dale E. Varberg).
 アメリカ,ミネソタ大学ミネアポリス校からRobert Horton Cameronの指導で,Some Radon Nikodym Derivatives Associated with Stochastic Processes(確率過程に付随したあるラドン・ニコディムの導関数)により,Ph.D.取得(1959).ミネソタ州,Hamline University数学科.  すべて共著だが,Convex Functions(1973.12.14),Calculus with Analytic Geometry(1984.4),Plane Trigonometry: A Problem Solving Approach(1988.8),Precalculus Mathematics: A Problem Solving Approach(1988.8),College Algebra(1988.11),Algebra and Trigonometry With Analytic Geometry: A Problem-Solving Approach(1989.1),Plane Trigonometry(1989.4),Faces of Mathematics 2e 82(1989.11.16),Applied Calculus for Management, Social, and Life Sciences(1991.2),College Algebra: A Problem Solving Approach (4th Edition)(1991.11.1),Precalculus: A Graphing Approach(1994.10.5),Algebra and Trigonometry: A Graphing Approach(1995.10.17),Calculus: AND PH Grade Assist Student Quick Start Guide, Student Solution Manual Package(2004.11.8),Calculus Early Transcendentals(2006.5),Calculus (9th Edition)(2006.2.28),Calculus with Differential Equations (9th Edition)(2006.4.10),Calculus with Student Study Pack PKG(2006.8.22),Calculus Early Transcendentals with Mymathlab(2008.6)
 単著にはAlgebra and Trigonometry: Students Solutions Manual(1995.11.13),Algebra and Trigonometry: A Problem Solving Approach (4th Edition)(1991.11.18),CDLS SSP Wrap Calculus(2006.2.28),  [幾9] トップ

ヴァリニョン、ピエール(Pierre Varignon, 1654-1722.12.23).
 フランス、ノルマンディー、カーンに生まれ、パリに死す。
 カーン大学でMAを受け(1682)、翌年聖職者に。ユークリッドデカルトの幾何学を読み、数学に。パリ、コレージュ・マザラン数学教授(1688)、コレージュ・ロワイヤルの数学教授(1704)。ベルヌーイのフランスでの親友と呼ばれる。
 ライプニッツ流の微積分学をフランス・科学アカデミー(1688年に会員に)に定着。級数の収束を確かめることの重要性に注意するも,具体的方法には至らず.
 力の平行四辺形による力の合成(1688)、力のモーメントの概念,ヴァリニョンの平行四辺形.マノメーターの発明(1704).
 対数螺線の用語。『学術論叢』の編集。 [解II.7],[幾9] トップ

ヴァルサー,ハンス(Hans Walser,1944-). スイス,Rheineckの生まれ.
 バーゼル大学数学研究所.
 著書の『黄金分割』『シンメトリー』は世界中で読まれている.  
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ヴァルトフォーゲル(Jörg Waldvogel).
チューリヒ工科大学ETHから,Eduard L. Stiefelの指導で, 「空間3体問題に対するバーコフ正則化の一般化(Die Verallgemeinerung der Birkhoff-Regularisierung für das räumliche Dreikörperproblem)」により自然科学博士号取得(1966).
 Seminar for Applied Math., ETH  
[幾11] トップ

ヴァレ・プーサン,ドゥ・ラ・,(Charles Jean Gustave Nicolas de la Vallee Poussin, 1866.8.14-1962.3.2.)
 ベルギー,ルーヴァンに生まれ,ルーヴァンに死す.
ルーヴァン大学教授(1897).1896年にアダマールと異なる方法で素数定理を証明.微分方程式やリーマンのゼータ関数の理論でも貢献.『解析教程』は有名. [珠説2.2.3], [伝7] トップ

ヴァン・オーベル(Henricus Hubertus van Aubel, 1830.11.20--1906.2.3). マースリヒトに生まれ,アントワープに死す.アントワープ王立アテネウム数学教師.
 ナポレオンの定理の四角形への拡張のようなヴァン・オーベル定理(任意の四辺形の各辺上に正方形を描くとき,それぞれの中心を結ぶ四角形の対角線は直交し,長さが等しい).
 [幾8] トップ

ヴァンツェル,ピエール・ローラン(Pierre Laurent Wantzel, 1814.6.5--1848.5.21). フランス,パリに生まれ,パリに死す.
 1837年の “Recherches sur les moyens de reconnaître si un Problème de Géométrie peut se résoudre avec la règle et le compas(定木とコンパスで解くことができるかどうかを知るための方法について)”,リウヴィル誌 1 (2): 366–372から始まる論文で,古代からの重要な作図問題をいくつか解決した.1.倍積問題,2.角の三等分,3.正n角形の作図(nが2と互いに異なるフェルマ―素数以外の素因数をもつ場合.).
 1841年からÉcole des Ponts et Chaussées(国立土木学校)の応用数学の教授.1843年にはエコール・ポリテクニクの入学試験を担当し,パリや近くの町の学校で数学や物理を教えた.
 しかし,彼の業績は長く世に知られなかった. グラフ理論のJ.Petersenが1871年の学位論文の中で触れてはいるが,あまり普及しなかった.論文が出た後80年以上たって,カジョリがこの論文について述べたおかげで,段々と広く知られるようになった.  [幾8] トップ

ヴァンディヴァー(Harry Schultz Vandiver, 1882.10.21--1973.1.9).
 アメリカ,ペンシルヴァニア州フィラデルフィアに生まれ,テキサス州オースティンに死す.
 ペンシルヴァニア大学から名誉理学博士(1945).テキサス大学教授(1924-1966).1952年に計算機を用いて,2000以下の素数に対してフェルマの最終定理を確かめる.ヴァンディヴァー予想.整数論,K理論.
 [伝8,9] トップ

ヴァンデルモンド(Alexandre-Th\'eophile Vandermonde, 1735.2.28--1796.1.1).  フランス,パリに生まれ,パリに死す.
 音楽家(ヴァイオリニスト),数学者,化学者.ベズーモンジュラヴォアジェと働く.
 ヴァンデルモンドの行列式,ヴァンデルモンドの行列,ヴァンデルモンドの恒等式.数学に関与したのは1770年近辺だけ.「方程式の解についての考察(M\'emoire sur la r\'esolution des \'equations)」 (1771)では対称関数と円分方程式を,Remarques sur des probl\`emes de situation (1771)ではナイト・ツアーや結び目をトポロジー的に扱う.
 ファンデルモンドと書かれることも多い.  [天30],[積12],[伝1],[幾8,9] トップ

ヴァンナー,エルンスト (Ernst Wanner).
 チューリヒ工科大学ETHから,ワイルとArthur Hirschの指導で「基礎不変型の完全系(Volle Systeme von Grundinvariantentypen)」により博士号取得(1926) .
 ワイルの『古典群』にはR.Wannerと引用されているが, [ワ7] トップ

ヴァンナー,ゲルハルト(Gerhard Wanner, 1942-). オーストリア,チロル,ゼーフェルトの生まれ.
 インスブルック大学に学ぶ。グレプナーロクスの弟子。1965年インスブルック大学からグレプナーの指導でEin Beitrag zur numerischen Behandlung von Randwertproblemen gew\"ohnlicher DifferentialgleichungenによりPh.D.(1965).
 スイス、ジュネーブ大学教授。数値解析.『解析教程』の著者。 『幾何教程』を書くことになった動機はケプラー法則を導くことになる数値解析への興味からか. [解II.7, 9], [パ13, 27], [名2], [ト序, 2, 文], [珠説2.0, 2.3, 文], [ブ50], [フ文], [作付B], [幾5] トップ

ヴィアンノ,(Xavier G\'{e}rard Viennot, 1866.8.14-1962.3.2.)
 フランス,ボルドー大学,数学研究センター.組合せ論. [天23] トップ

ウィーヴァー,(C. Weaver)
 イリノイ大学CBEラボ.
 円柱の裏返し [フ文] トップ

ヴィヴィアーニ、ヴィンチェンツィオ(Vincenzio Viviani, 1622.4.5-1703.9.22).
 イタリア、フィレンツェに生まれ、フィレンツェに死す。
 1639年からアルチェトリの別荘で異端審問の後のガリレオ・ガリレイとその死(1642.1.8)まで同居し、時にトリチェリとともに失明した師を助け、気圧の実験やサイクロイドの研究に従事する。トリチェリの死(1647)後、フィレンツェアカデミーの教授。パリ科学アカデミーの外国人会員になり(1642)、その年金でガリレオの記念館をフィレンツェに創る。ガリレイの伝記を書き、最初のガリレイの著作集を編集(1655-56)。1666年フランスのルイ14世とポーランドのヨハン2世が招くが、フィレンツェの大公が彼を失わないために彼の数学者に任命。
 ヴィヴィアーニの曲線。サイクロイドの接線の決定(彼が最初ではないが)。 アポロニウスの『円錐曲線論』の第5巻(極大・極小問題の考察)の復元。 ボレリと共に、大砲の音と光の差の観察から、音速を350m/sと測定(1660)。最初のガッセンディの音速の測定値は478m/sで、現在の値は 0゜で331.29m/sである。  [解II.4], [率0] トップ

ヴィエート、フランソア(Francois Viete = Franciscus Vieta, 1540-1603.12.13).
 フランス、フォントネィ・ル・コントに生まれ、パリに死す。
 法律を学ぶためポアチエ大学で学び(1556-1560)、卒業後数学を研究し始める。1564年頃からユグノー派の貴族婦人の法律顧問となり、夫人の娘の家庭教師となりラ・ロシェルで過ごす。 1570年パリに行き、シャルル9世、アンリ3世の顧問官。ブルターニュ最高法院(1589)、パリ最高法院、ツール最高法院の裁判官を歴任。聖バルテルミの虐殺後のユグノーの迫害に、1584年からアンリ4世の即位(1589)まで、ボーヴォアール・シュル・メールに逃れる。この期間に数学研究に専心し、代数学の諸業績を得た。スペイン戦争中は、暗号解読に当たる。スペイン国王フェリペ2世は、暗号がすべて解かれるのは悪魔の技であるとローマ法王に異端の旨告訴する。
 グレゴリウス13世の改暦に際し、暦が正確でないと激しく非難し、その論争で晩年は過ごしよいものではなかった。
 文字使用について、彼は未知数に対しては子音を、既知の定数に対しては母音を使った。アルファベットの前の方の文字を定数に、後ろの方の文字を未知数に当てるようになったのはデカルトによる。
 根と係数の関係はヴィエートの公式と呼ばれる. [解I.1-2, 4-5], [名8], [代入3,6], [黄5], [作2,3,5], [幾序,1-6,II,8] トップ

ヴィエトリス、レオポルド(Leopold Vietoris, 1891.6.4-2002.4.9).
 オーストリア、ラドケルスベルクに生まれ,スイス,インスブルックに死す.
 ウィーン大学卒業.G.R.フォン・エッシェリヒとヴィルティンガーの指導で論文「連続集合(Stetige Mengen)」によりウィーン大学から学位取得(1920). インスブルック大学教授(1939-)。ブラウエルから強い影響を受ける.
 ホモロジー代数におけるマイヤー=ヴィエトリスの完全系列,ヴィエトリス位相,ヴィエトリス・ホモロジー,ヴィエトリス=ビーグル写像定理,ヴィエトリス=リップス複体.   [解I.4],[伝8] トップ

ウィグナー (Eugene Paul Wigner, 1902.11.17--1995.1.1).
 ハンガリー,ブダペシュトに生まれ,アメリカ,ニュージャージー州プリンストンに死す.ハンガリー名はWigner Jen\'o P\'al.

 11歳で小児結核に罹り,オーストリアのブライテンシュタインのサナトリウムに送られ,その6週間後に診断が間違っていて,結核でなかったと告げられる.その6週間の間数学の問題を考え続けたという.1915年ブダペシュトのルーテル・ギムナジウムに入学し,1級下のフォン・ノイマンに出会う.1919年3月に共産主義者がハンガリーを支配したとき,彼はギムナジウムにいて,一家はオーストリアに逃げた.1919年11月に共産主義者が打倒されると一家はブダペシュトに戻る.卒業のときの感想:フォン・ノイマンは私がよい科学者である以上によい数学者である.しかし,僕の方が物理はよく知っている.
 親の希望でブダペシュト工科大学で,ついでベルリン工科大学で化学工学を学ぶ.自分の時間で数学と物理を学ぶ.ベルリン大学のコロキウムに出席し,プランクやアインシュタインを知る.化学工学で学位を取り,ベルリン大学に就職するが愉しまず,ハイゼンベルクの論文を読み,それを2電子の場合に拡張する論文を書く.3以上に拡張するためフォン・ノイマンに訊くと,シューアの論文を紹介される.
 結晶学への興味から,ヴェーバーの代数学講義を読んでいたので,シューアの論文を問題なく読むことができ,対称群の表現論に進む.それこそがフォン・ノイマンが示唆したことで,これにより,量子力学への群論の応用という有名な論文を書くことになる.n電子の場合の論文を1926年11月26日付けのZeitschrift der Physikに発表する.
 1927年にヒルベルトの助手になるよう招かれ,量子力学の保存量の考えを発展させようとするが,ヒルベルトをあまり会うことができず,結局ベルリンに戻る.
 1930年から1933年までプリンストンで過ごす.1933年にナチが政権を取り,彼のベルリンでの職が消滅する.1936年から1938年にウィスコンシン大学にいた以外は,プリンストン大学に勤める.1934年に妹がプリンストンに来たときたまたま来ていたディラックと知り合い1937年に結婚する.
 ローレンツ群のユニタリ既約表現を作る.第2次大戦中はマンハッタン計画に参加.1963年ノーベル物理学賞受賞.   [伝10] トップ

ヴィジング(Vadim G. Vizing).
 ウクライナ,食物工学オデッサ国立アカデミー,応用数学科. [天26] トップ

ヴィット (Ernst Witt, 1911.6.26-1991.7.3).
 ドイツ,バルト諸島,アルセン(現在デンマーク,アルス)に生まれ,ハンブルクに死す.
 生後すぐに中国で暮らし,9才でヨーロッパに戻る.フライブルクとゲッティンゲン大学に学び,E.ネーターの下でリーマンロッホの定理に関する論文で学位.ゲッティンゲン大学でH.ハッセの(合同関数体とp進数に関する)セミナーに出席(同時期にO.タイヒミュラーとL.シュミットLudwig Schmid).L.シュミットとはヴィット・ベクトル計算について共同研究.
 E.アルティンがアメリカに追放された後任として,ハンブルク大学教授(1937-79).
  代数学.環論のヴィット環.調和代数のヴィット類.p進数の理論でのヴィット・ベクトル,ヴィット群.リー代数の表現でのバーコフ・ヴィットの定理, ブルバキ=ヴィットの不動点定理. 2次形式主な関心.他にマシュー群や代数関数体の研究. [ワ2], [天5] トップ

ウィップル(Fred Lawrence Whipple, 1906.11.5-.).
 アメリカ,アイオワ,レッド・オークの生まれ。
 ハーヴァード大学天文学教授(1945-)。スミソニアン天体物理天文台長(1955-).「氷で出来た彗星モデル」,アイスランドが小惑星の衝突で出来たという説.太陽系の起源についての説.
 『地球・月・惑星』(1941) .  [パ23] トップ

ヴィトルヴィウス(Marcus Pollio Vitruvius, 紀元前1世紀のローマの人)。
 アウグスティヌス大帝により建築長官に任ぜられ、土木軍事機械の設計もする。『建築十書』(De Archtectura Libri Decem)は現存する最古の建築理論書であり、建築術、土木技術、築城術、兵器などの技術とその原理を述べている。
 πの値として25/8(=3.125)を使った. [解II.7] トップ

ウィーナー(Norbert Wiener,1894.11.26--1964.3.18).
 アメリカ,ミズーリ州コロンビアに生まれ,スウェーデン,ストックホルムに死す.
 イディッシュ語研究などで知られるのポーランド系ユダヤ人言語学者である父親レオ(Leo Wiener, 1862--1939)による英才教育もあって,神童ととして有名.9歳でアイヤー・ハイスクールに入学、1906年に卒業した。さらに,11歳でタフツ・カレッジに入学、14歳のときに数学で学位を取得し、ハーバード大学の大学院に入学。ハーバード大学では動物学を専攻したが、翌年コーネル大学大学院に移籍し、哲学を専攻した。その翌年再びハーバード大学に戻り、哲学を続けた。1912年、18歳のときに、数理論理学に関する論文によりハーバード大学よりPh.D.を授与された後,ケンブリッジ大学(イギリス)に留学し、バートランド・ラッセルの下で学ぶ。 その際,G.H.ハーディの数学の講義に感銘を受けたらしい。1914年には、ゲッティンゲンに行き(ドイツ)でD.ヒルベルトランダウの下に学ぶ。その後ケンブリッジに戻り、再びアメリカに戻った.
ハーバード大学で哲学講座の講師を務めた(1915--1916)後,ゼネラル・エレクトリックで働いたり、百科事典『エンサイクロペディア・アメリカーナ』の編集執筆者として働いた後、メリーランド州のアバディーン性能試験場で弾道学に関する仕事に就いた。戦争が終わるまでメリーランドで過ごした後、1919年、24歳のときに、マサチューセッツ工科大学(MIT)数学科の講師の職を得た。その後様々なことがあったが,MITで働く.
 ブラウン運動,フーリエ積分、調和解析、ディリクレ問題、タウバー型定理など.第二次世界大戦中の射撃制御装置に関する研究は、通信理論への関心を総合し、サイバネティックスを定式化.
 ウィーナー空間,ウィーナー測度,ウィーナー積分,ウィーナー過程,ウィーナー境界,ウィーナー方程式,ウィーナー・フィルター,ウィーナー汎関数, 伊藤・ウィーナー展開,ペイリー・ウィーナーの定理,ウィーナー・ホップ分解, ウィーナー・ヒンチンの定理(=ヒンチン・コルモゴロフの定理).
 著書はむしろ少ないくらいだが,日本語に翻訳された数書は広く読まれ,強い影響を与えた.
『サイバネティックス 第2版』(岩波書店), 『人間機械論』,『神童から俗人へ』 , 『サイバネティックスはいかにして生まれたか』 , 『科学と神』, 『発明』(みすず書房).
 J.フォン・ノイマンと比較されて語られることも多い.  [伝7,8,9,10], [幾9] トップ

ヴィノグラードフ、イヴァン・マトヴェーエヴィッチ(Ivan Matveevich Vinogradov, 1891.9.14- 1983.3.20).
ロシア,ミロリューブ村(現在プシコフ県ベリカルク)に生まれ,モスクワに死す.
ペテルブルグ大学卒業(1914).レニングラード大学教授などを経て,ソ連科学アカデミー・スチェクロフ研究所所長(1932).解析的整数論.ウェアリングの問題やゴールドバッハの問題などに大きな貢献(十分大きな奇数は3個以下の素数の和に書けることを証明).
日本語の本としては,『整数論入門』(三瓶与右衛門+山中健訳)共立全書517(1969)がある. [珠訳序, 2.1-2, 3.1, 説3.11] トップ

ヴィーフェリッヒ(Arthur Josef Alwin Wieferich, 1884.4.27-1954.9.15). ウェストアリア,ミュンスターの生まれ.
 ミュンスター大学で学ぶ(1903-1909).1907年にデーンの整数論の講義を受けている. 彼の論文は学生の時の5篇のみ.卒業してからは論文を書いておらず,中学の教師としてドイツ各地を廻る.
 整数論,ヴィーフェリッヒの定理,ヴィーフェリッヒ素数,ヴィーフェリッヒ対.  [珠3,文] トップ

ウィルキンス(David R. Wilkins).
  アイルランド,ダブリン,トリニティ・カレッジ数学科講師.数学史. [名21] トップ

ウィルクス(Allan Reeve Wilks).
 プリンストン大学から,Peter Bloomfieldの指導で, `Optimal Design of Observation Times for Continuous Time Series'により,Ph.D.取得(1981). [幾8] トップ

ウィルソン,カーティス(Curtis Alan Wilson, 1921.8.8--2012.8.24). アメリカ,ロサンゼルスに生まれ,ミシガン州Petoskeyに死す.
 アメリカ,メリーランド州アナポリスのセント・ジョンズ・カレッジ名誉教授.学部長を2期.
 天文学史.ケプラー,ニュートン,ジュレマイア・ホロックス,ジョゼフ・ドランブル,オイラーに関する論文あり.  ケプラーの法則の導出や,誰が最初にケプラーの法則と呼んだのかという考察がある.  [幾5] トップ

E.B.ウィルソン、エドウィン・ビッドウェル(Edwin Bidwell Wilson, 1879.4.25-1964.12.28).
 アメリカ、コネチカット州、ハートフォードに生まれ、マサチューセッツ州、ブルックリンに死す。
 ギブスの弟子で、ギブスの講義に基づきベクトル解析の教科書を書き、1912年にアメリカ最初の高等微積分学の本を書く。航空学、確率論、統計学、確率分布など。後にJ.ネイマン(1894-1981)により再発見された信頼区間の概念の研究。 [解文], [幾9] トップ

ウィルソン、ジョン(John Wilson, 1741.8.6-1793.10.18.)
 イギリス,ウェストモアランド,アップルランドに生まれ,ウェストモアランド,ケンダルに死す.
 ウェアリングの弟子.p が素数なら 1+(p-1)! は p で割り切れるという定理で有名. ウェアリングが『代数的考察』(1770)の中で最初に出版したもの.逆定理はラグランジュによる(1773).  [珠説1.7.2-4] トップ

ウィルソン、ケネス(Kenneth Geddes Wilson, 1936.6.8-2013.6.15)
 アメリカ,マサチューセッツ州ウォルサムに生まれ,メイン州に死す.父親はハーヴァード大学の化学者E.ブライト・ウィルソンで,母親も物理学者.
 16歳でハーヴァード・カレッジに入学,カルテクからゲル=マンの指導でPh.D.取得後(1961),ポスドクをハーヴァード大学とCERNで過ごす.1963年にコーネル大学物理学科に就職し,1970年正教授.
 1985年に繰り込み群を使った臨界現象の研究で,ノーベル物理学賞受賞.相転移,ウィルソンループ.統計力学,固体物理(近藤効果の解明),場の量子論,作用素積展開.ハドロン内部のクォークの閉じ込め,カイラル対称性など.  [50.35] トップ

ウィルソン、バートラム・マーティン(Bertram Martin Wilson.)
 G.H.ハーディらとラマヌジャンの全集の編集.  [幾文] トップ

ウィルソン,ロビン・ジェイムズ(Robin James Wilson, 1943.12.5-). 連合王国の首相ハロルド・ウィルソン(1916.3.11-1995.5.24)の息子.
  北ロンドン,ハンプステッドのユニヴァーシティ・カレッジ卒,オックスフォード大学バリオル・カレッジから学士,ペンシルヴァニア大学から修士,1965-68に在籍し,1968年にペンシルヴァニア大学からNesmith Cornett Ankenyの指導で,「大きな篩の代数的数体への拡張(An Extension of the Large Sieve to Algebraic Number Fields)」によりPh.D.取得.
 エルデシュ数は1.イギリス,ミルトン・キーンズ,オープン大学(日本の放送大学のモデルになった,放送による大学教育.1969年発足)数学科名誉教授. グラフ理論,特に彩色問題.イギリス数学史,グラフ理論と組合せ論の歴史.ルイス・キャロルの数学的業績の研究.数独や4色問題に関する著書あり.   [天24], [伝序,付] トップ

ウィルソン,ウッドロー(Woodrow Wilson, 1856.12.28--1924.2.3). アメリカ,バージニア州スタントンで生まれ,ワシントンD.C.に死す.
 アメリカ合衆国第28代大統領(在任1913-21年)で,国際連盟の創設に尽力した功績により1919年にノーベル平和賞を受賞.彼がプリンストン大学学長(1902.6.9)のとき,大学改革をする.友人のファインを理学部長にした.大統領としてよりも学長としてのほうが成功したとさえ言われる.   [列8] トップ

ヴィルティンガー、ヴィルヘルム(Wilhelm Wirtinger, 1865.7.15- 1945.1.15).
 オーストリア,イップス・アン・デル・ドナウ(Ybbs an der Donau)に生まれ,同地に死す。
 F.クラインの影響を強く受ける.ウィーン大学教授。関数論(ヴィルティンガーの不等式)。アーベル関数の存在の十分条件を一般テータ関数を用いて証明した(必要条件はリーマン).  [解II.10],[伝9] トップ

ウィルフォード(John Noble Wilford, 1933.10.4-).
 1965年にウォール・ストリート・ジャーナルに入社,レポーターになり,2年後医学系のレポーターになる.1965年にニューヨーク・タイムズに移り,科学レポーターになり,1975-79年には科学ニュースの編集長になる.
 『製図製作者(The Mapmakers)』(改訂版2001), 『コロンブスのミステリアスな生涯:人,神話,伝説の探求(The Mysterious History of Columbus: An Exploration of the Man, the Myth, the Legacy)』(1991). 『恐竜の謎(Riddle of the Dinosaur)』(1987)など   [フ文] トップ

ウィルヘルミナ女王(Wilhelmina Helena Pauline Maria of Orange-Nassau, 1880--1962.).
 オランダ女王ウィルヘルミナ一世,在位は1890--1948年.
 L.E.J.ブラウエルをオランダの獅子勲爵士に任じた.  [伝8] トップ

ウィントナー(Aurel Frederick Wintner, 1903.4.8-1958.1.15.)
 ハンガリー,ブダペストに生まれ,アメリカに死す.
 ライプツィッヒ大学で学ぶ.1929年にヒルベルト空間論の基礎づけをし,1930年にヘルダーの娘と結婚し,同年アメリカで職を得,以降死ぬまでアメリカに住む.
 ヒルベルト空間論,古典解析学,確率論,解析的整数論.『天体力学の解析的基礎』(1941)は有名.  [パ6] トップ  

E.B.ヴィンベルグ(Ernest Borisovich Vinberg)
 E.B.ディンキンとI.ピャチェツキー=シャピロの下で,モスクワ大学で学位(1962).モスクワ大学教授.モスクワ独立大学教授.V.カッツなど多数の弟子を育てる.
 位相群,リー群,代数群,微分幾何.モスクワ数学会賞(1963),アレクサンダー・フォン・フンボルト賞(1997).    [モ] トップ

ウェアリング (Edward Waring, 1734-1798.8.15.)
イギリス,シュロップシャー,オールド・ヒース(シュルーズベリの近く)に生まれ,シュロップシャー,ポンツベリに死す.
ケンブリッジ大学卒業(1757),ロンドン,ケンブリッジ,ハンチントンの病院で医師.1760年からケンブリッジのルーカス数学教授職.1770年まで医者としても働く.
数論,代数学,代数曲線論,級数論.コーシーの比テストの発見(1762),対称式を基本対称式で表わすこと(1762).ウェアリングの問題(1770).ウィルソンの定理の証明(1770). [珠序, 訳序, 3.1, 説0, 3.10, 文], [伝5,6], [辞] トップ

ヴェイユ、アンドレ(Andre Abraham Weil, 1906.5.6--1998.8.6).
 フランス、パリに生まれ,アメリカ,ニュージャージー,プリンストンに死す。
 1928年にパリ大学から「デイオファンタス方程式について(On Diophantine Equations)」によって学位.指導者はアダマールピカール.  ブルバキ創世期のメンバー。パリ、ローマ、ゲッティンゲンに学び、インドのアリガル・ムスリム大学(1930-1932)、フランスのストラスブール大学(1933-40)、ブラジルのサンパウロ大学(1945-47)、アメリカのシカゴ大学(1947-58)で教え、1958年以後はプリンストン大学に勤務。引退後も、プリンストンに暮らした。
 主たる興味は整数論に根ざすものだが、位相群上の積分論(1940)、一様空間の導入(1940)、有限体上の函数体についてのリーマン予想の証明(1941)、『代数幾何学の基礎』(1946)、アーベル多様体の代数幾何的理論(1948)、ケーラー多様体論(1958)など多彩。名前のついた概念も、ヴェイユ群、ヴェイユ数、ヴェイユのL関数、ヴェイユ予想、ヴェイユ領域、ヴェイユ測度、ボレル・ヴェイユ・ボットの定理,チャーン=ヴェイユ理論,モーデル=ヴェイユ群の多くを数え、20世紀数学最大のヒーローの一人である。
 数学の関係者以外にはシモーヌ・ヴェイユ(1909.2.3-1943.8.25)の兄と言う方がわかりやすい。 空集合の記号φは彼の考案になる。
 何度か来日して日本人のファンも多く、著書の多くが日本語に翻訳されている。『アンドレ・ヴェイユ自伝: ある数学者の修業時代』(稲葉延子訳)シュプリンガー・フェアラーク東京、 『数論 歴史からのアプローチ』(足立恒雄+三宅克哉訳)日本評論社、 『科学の創造-著作集自註』(杉浦光夫訳)日本評論社(1983)、 『初学者のための整数論』(片山孝次+田中茂+丹羽敏雄+長岡一昭訳)現代数学社など。  [解I.1], [パ訳あ], [代コ], [ワ文], [伝7,10] トップ

ヴェガ(Georg Freiherr von Vega, 1754.3.23-1802.9.26).
 スロヴェニア,リュビリャーナ,ザゴリッツァに生まれ,オーストリア,ウィーンに死す.ゲオルグはユーリイのドイツ語名.ユーリイの父親は貧農で6歳のときに亡くなった.
 リュビリャーナの学校に19歳まで通った後,造船技師になった.1780年に軍籍に入り,ウィーンの砲兵学校の数学教授になる.砲兵学校に解析学の講義を導入した.講義を基に4冊本の教科書Vorlesungen uber die Mathematik (1782, 1784, 1788, 1800)を出版,これには三角関数表が載っていた.
 砲兵学の本も書いたが,対数関数や三角関数表の著者として有名で,最初の対数表は1783年に出版され,完成版Thesaurus logarithmorum completusは1794年に出版されたが,長い間使われ続け,1924年には第90版が出版された.また,400031までの素数表を発表(1797).
 πを140桁計算した結果は1789年の論文で発表された.136桁までが正しく,長く記録になっていた.
 軍人としていくつかの戦争に従軍した.1788年にはベルグラードの近くでトルコと戦い,革命期にフランスと戦った.1802年9月に彼の失踪が報告され,捜索され,ウィーン近くのダニューブ川で遺体として発見された.公式には事故とされているが,殺害されたという疑いも持たれている.   トップ

ウェストフォール(Richard S.Westfall, 1924-).
 アメリカの歴史家・科学史家。イェール大学卒業.インディアナ大学・科学史教授(1963-)。
 日本語の本に『アイザック・ニュートンI, II』(田中一郎ほか訳)平凡社(1993)がある.  [解I.4] トップ

ヴェシオ(Ernest Vessoit, 1865.3.8--1952.10.17).
 フランス,マルセイユに生まれ,フランス,サヴォア,ラ・ボーシュに死す.
 父は小学校教師.マルセイユのリセ卒業後,パリのエコル・ノルマル・シュぺりオールに入学.入学試験ではアダマールの次の成績で合格し,入学後は同じクラスだった.卒業後はリヨンで教師になる(1887).
 線形変換群と,線形微分方程式の解空間上への作用に関する論文で学位(1892).その後,リール,トゥールーズ,リヨン,パリ(1910)の各大学で教える.母校の校長を引退(1935)まで勤める.
 連続群を微分方程式の研究に適用し,ドラック(1902)やカルタン(1907)の理論を拡張(ピカール・ヴェシオ理論). ヴォルテラフレドホルムの研究を偏微分方程式論に拡張.  [代18]  トップ

ウェダーバーン,ジョセフ(Joseph Henry Maclagan Wedderburn, 1882.2.2-1948.10.9.)
 スコットランド,アンガス,フォーファーに生まれ,アメリカ,ニュー・ジャージー,プリンストンに死す.
 エジンバラ大学卒業(1903).1908年にエジンバラ大学からクリスタル(George Chrystal, 1851.3.8-1911.11.3)の指導で「超複素数について(On Hypercomplex Numbers)」により理学博士号取得.
 ドイツに留学後,プリンストン大学(1905),教授(1908),名誉教授(1945).多元環論,体論,半群論,行列論などに今も引用されるウェダーバーンの定理がある.有限体が可換であることを,有限射影幾何の構造を調べることから導く.半単純代数の分類.Annals of Mathematicsの編集長として,雑誌の権威を高める. 
 弟子にジャコブソン,Merrill Flood,Ernst Snapperなど  [代10-12, 16], [天5], [ワ2, 3, 9, 10], [伝8] トップ

ヴェッセル(Caspar Wessel, 1745.6.8-1818.3.25.)
 ノルウェー,イオンスルードの生まれ.測量技師.ベクトル理論の展開の一環として複素数を平面ベクトルと考える幾何学的構成『方程式の解析的表現について』(1799)を書く.アルガンより9年も前に1797年にこの内容をデンマーク科学アカデミーで発表するが、デンマーク語で書かれていたため、100年程知られないままであった。   [名6], [基11] トップ 

H.ヴェーバー(Heinrich Martin Weber, 1842.5.5-1913.5.17.)
 ドイツ,ハイデルベルクに生まれ,ドイツ,シュトラスブルク(現在フランス領)に死す.
 父は歴史家.ハイデルベルク大学に入学(1860-63).途中ライプツィヒ大学でも学ぶ.大学教授資格を得るための研究に,ケーニヒスベルク大学に行き,F.ノイマンとリシュローに学ぶ.死後10年を経ても同地にはヤコビの影響が強く残り,ヴェーバーの数学のスタイルを決めた.1866年にハイデルベルク大学に勤めて以来,チューリヒのポリテクニク,ケーニヒスベルク大学,シャルロッテンブルグ高等工業学校,マールブルグ大学,ゲッティンゲン大学を経て,1895年シュトラスブルグ大学教授に.
 代数学,整数論,解析,数理物理など幅広い.『代数学教程』 Lehrbuch der Algebra (I(1894, 1898), II(1896, 1899), III(1891, 1908))はその後数世代の代数学の基本教科書になる.デデキントとの共著『1変数代数関数論』(1882).アーベルの定理の一般化.絶対アーベル体は円分体というクロネッカーの定理の証明.虚数乗法で解析と数論との結合の有効性を示す.
 『数理物理学における偏微分方程式』(1900-1901)は本質的にリーマンとの共著.ヴェーバーの微分方程式. 3巻本の『初等数学百科』(1906-1907)の編集執筆. また,F.クラインF.W.F.マイヤーとともに行ったEncyclopädie der Mathematischen Wissenschaften(応用を込めた数学の百科事典)''は1898年から1935年にかけて,B.G.Teubner出版社から出版され,20000ページを超えるものである.  [代コ], [伝5,6], [文3] トップ

W.E.ヴェーバー(Wilhelm Eduard Weber, 1802.10.24-1891.7.23)
 ザクセン(現在ドイツ領),ヴィッテンベルクに生まれ,ドイツ,ゲッティンゲンに死す.
 ハレ大学卒(1822),博士号取得(1826)後,ハレ大学で教鞭.ゲッティンゲン大学物理学講座教授(1831),6年間ガウスと磁気に関する共同研究.精密な磁気計などを発明.
 1837年にヴィクトリア女王が即位し,その叔父がハノーヴァーの支配者となる.彼に忠誠を誓わず,大学を逐われる,所謂ゲッティンゲンの7教授事件に連座.職がないままゲッティンゲンにいたが,1843年にライプツィヒ大学物理学教授に.
 1848年にゲッティンゲンに復帰し,1855年に彼とディリクレが天文台の臨時台長となる.  1855年の電荷の電気力学的単位と静電単位の比に関する仕事は重要で,マクスウェルの光の電磁理論に本質的な寄与をしたが,ヴェーバー自身は,自身の得た値が光速度に近いという事実に気づかなかった.電気力学や物質の電気的構造に関して大きな貢献.  [モ歴],[伝2,5,6] トップ

ヴェヒトマン(G.C.H.Vechtmann)
 1843年にゲッティンゲン大学に提出した,Diss. inaug. phil. de curvis lemniscataeという,レムニスケートに関する学位論文がある.  [幾7] トップ

ヴェブレン,オズワルド(Oswald Veblen, 1880.6.24-1960.8.10)
 アメリカ,アイオワ,デコラーに生まれ,メイン,ブルックリンに死す.
 アイオワ大学卒業(894)後,1年間図書館助手をしてから,ハーヴァード大学,ついでシカゴ大学に学ぶ. シカゴでは,ボルツァ, マシケE.H.ムーア,3人の指導を受け,論文「幾何学の公理系」で学位取得(1903).また,デューイの哲学のコースもとっている.
 プリンストン大学で数学を教える(1905-1932).1928-29の年度には,G.H.ハーディとの交換でオックスフォード大学で教鞭.1932年からはプリンストン高等研究所設立に参画し,自身も教授となる.アメリカ数学会副会長(1915),会長(1923-24).
 彼のトポロジーの研究により,同地はトポロジーの世界的センターとなった.  J.W.ヤングとの共著『射影幾何学Projective geometry』(1910-18)で射影幾何学の公理化を行い(1巻だけが共著で,2巻はヴェブレン単独),Analysis Situs (1922,位置解析学)はトポロジーの基礎概念のついての最初のテキストである. アインシュタインの一般相対性理論が発表されたあと,微分幾何に関心を移す.The invariants of quadratic differential forms(1927, 2次微分形式の不変量)はリーマン幾何を系統的に扱い,弟子のJ.H.C.ホワイトヘッドと共著のThe foundations of differential geometry(1933, 微分幾何の基礎)では可微分多様体の最初の定義を与えている.Projective relativity theory(1933, 射影的相対論)では電子のスピンの表現に使うスピノールを扱っている.
 弟子も多く,J.W.アレクサンダー, H. Roy Brahana, アロンゾ・チャーチ, Philip Franklin, Harold Hotelling, Howard H. Mitchell, R.L.ムーア, J.H.C.ホワイトヘッドなど. [ワ7, 8],[列2,6,7,8,9,10] トップ

ヴェブレン,ソースティン (Thorstein Bunde Veblen, 1857.7.30--1929.8.3. )
1892年から1906年まではシカゴ大学に在職.O.ヴェブレンの叔父. 主著は日本語にも訳されている『有閑階級の理論』岩波文庫(The Theory of Leisure Class: An Economic Study in the Evolution of Institution, 1899).     [伝8] トップ

ヴェル・エック,ポール・ルイ(Paul Louis ver Eecke, 1867.2.13-1959.10.14). ベルギー,メーナンに生まれ,フランドル,アントワープ,ベルヘムに死す.
 鉱山技師で,数学史家.数学の原典のフランス語への翻訳が多数.
 アルキメデス全集(1921),アポロニウスの『円錐曲線』(1923),ディオファントスの「算術6章と多角数の章(les six livres d’arithmétique et le livre des nombres polygones)」(1926),ビテュニアのテオドシオスのビテュニアの『球面幾何学(Les Sphériques)』 (1927),パッポスのLa Collection mathématique(1933),ユークリッドの『オプティカとカトプトリカ ( l’Optique et la Catoptrique)』 (1938),フィボナッチの「平方数の書(Livre des nombres carrés)」 (1952)など.
 [幾3,6,9,解,文] トップ

ウェルシンガー,ジャン=イーヴ(Jean-Yves Welschinger, 1974.10.11-. )
 シュトラスブール大学から,V. カーラモフのもとで学位(2000). CNRS研究員(2003),現在はリヨン大学カミーユ・ジョルダン研究所所属.
 代数幾何,シンプレクティック幾何(フレアー・ホモロジー,シンプレクティック場の理論,グロモフ・ウィッテン不変量) .5つの円錐曲線すべてに接する円錐曲線は3264本ある(M.シャール(1864)による)が,そのうち少なくとも32本が実曲線であることを示した(2005).  [フ17] トップ

ヴェルズル,(Emo Welzl. )
 スイス,チューリヒ大学,理論計算機科学研究所教授.計算機科学,組合わせ論的アルゴリズム,計算幾何学など.   [天32] トップ

ウェルナー,ウェンデリン,(Wendelin Werner, 1968.9.23-) ドイツ,ケルンの生まれ.11歳の時フランス国籍取得.1982年には子役として,映画La Passante du Sans-Souciに出演.
 ヴェルサイユのリセ・オーシュ卒業後,エコル・ノルマル・シュペリオールで学ぶ(1987-1991).パリ第6大学ピエールとマリー・キュリー大学から,Jean-François Le Gallの指導で「平面ブラウン運動のいくつかの性質(Quelques propriétés du mouvement brownien plan)」によりPh.D.取得(1982). CNRS研究員(1991-1997),ケンブリッジ大学で2年間のライプニッツ奨学生.オルセーのパリ11大学教授(1997-2013),うち2005-2013では,エコル・ノルマル・シュペリオールで教える.現在チューリヒのETH教授.
 自己回避乱歩,ブラウン運動,シュラム・レヴナー発展,など確率論と数理物理学.
 2006年のマドリッドのICMでフィールズ賞受賞.確率レヴナー(Loewner)発展,2次元ブラウン運動の幾何,共形場理論における貢献が授賞理由.   [50.35] トップ

ヴェルマン,(Daniel J. Velleman. )
ウィスコンシン大学マディソン校からK.クネン(Kunen)とルーディンの指導で,「(Morasses, Diamond, and Forcing)」によりPh.D.取得(1980).  アマースト大学数学科主任.
『自転車はどっちへ行った? その他おもしろ数学ミステリー』(Which way did the bicycle go? And other intriguing mathematical mysteries)』(1996,コンハウザーワゴンと共著),『数学の哲学(Philosophies of Mathematics)』(2001,A.L.ジョージと共著), 『どうやって解くか:構造的アプローチ(How to Prove It: A Structured Approach)』(2006),   [フ文] トップ

ヴェロネーゼ,(Giuseppe Veronese, 1854.5.7-1917.7.17.)
 イタリア,キオッジアに生まれ,イタリア,パドゥアに死す.
 パドゥア大学教授(1881-).高次元射影幾何学,曲面の双有理変換,ヴェロネーゼ写像,ヴェロネーゼ平面,ヴェロネーゼ多様体など.形式的級数の体の導入.幾何を含む多くの教科書の作者でもある.  [名18, 23] トップ

ヴェンツェル,グレゴール(Gregor Wentzel, 1898.2.17--1978.8.12)
 ドイツ帝国デュッセルドルフに生まれ,スイス,アスコナに死す.
 1916年にフライブルク大学で数学と物理を学び始め,1917-18は第1次世界大戦に従軍.戦後フライブルク大学に戻り,1919年にグライフスヴァルト大学に移り,1920年にはルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンに移って, Arnold Sommerfeldのもとで学び,1921年に博士号,1922年に教授資格を得て私講師になる.1926年にライプツィヒ大学に特別教授(助教授に相当)として招かれる.1926年に他の二人と独立にWKB近似を展開.1928年にはチューリヒ大学で,シュレーディンガーの後任として,理論物理の正教授.同じ年にパウリがETH Zurichにやってきて,二人で,チューリヒを理論物理のセンターとしての名声を確立.1948年にシカゴ大学教授に.1970年に退職後,スイスのアスコナに移る.
 Wentzel–Kramers–Brillouin(WKB)近似.著書に Einführung in die Quantentheorie der Wellenfelder(場の量子論), Franz Deuticke, 1943, 1946など. 詳細な伝記もある. [50.17] トップ

ヴォイクト,マルギット(Margit Voigt)
 ドイツ,テューリンゲン,イルメナウ工科大学から,Rainer BodendiekとHansjoachim Waltherの指導でÜber die chromatische Zahl einer speziellen Klasse unendlicher Graphen(特別なクラスの無限グラフの彩色数について)により,Ph.D.取得(1992).
 ドレスデン大学応用科学部教授.OR,グラフ理論,組合わせ論.  [天27] トップ

ヴォーガン、ボブ(Robert Charles "Bob" Vaughan, 1945.3.24-).
 ロンドン大学からT.エスターマンの指導で「数を平方数,立方数,4乗数の和,また素数ベキの和として表現することについて(On the Representation of Numbers as Sums of Squares, Cubes and Fourth Powers and as Sums of Powers of Primes)」によりPh.D.(1970).
 解析的数論,ウェアリングの問題,ゴールドバッハの問題,リーマンのゼータ関数,ディリクレのL関数,ディオファントス近似,滑らかな数(大きい素因数を持たない整数のこと).
 ペンシルヴァニア州立大学教授(1999-),王立協会フェロー(1990-).
 『ハーディリトルウッドの方法(The Hardy-Littlewood Method)』(第2版1997), 『乗法的整数論I. 古典理論(Multiplicative number theory I. Classical theory)』(2007, H.モンゴメリと共著).
 ヴォーガンの恒等式.弟子にはウーリーなど.   [珠文] トップ

ウォリス、ジョン(John Wallis, 1616.11.23-1703.10.28).
 イギリス、ケント、アシュフォードに生まれ、オックスフォードに死す。 オートレッドの弟子.ニュートン以前の最も影響力のあったイギリス人数学者。
 ケンブリッジのエマニュエル・カレッジ(1632-1637)で学びBAを取得。英国国教会の牧師としてヨークシャーとエセックスで過ごす(1640-1643)。 チャールズ1世と議会との内乱(1642-52)の際、王党派の暗号を解読する。チャールズ1世の処刑に反対する署名をしたにもかかわらず(1648)、議会派への貢献を認めたクロムウェルにより、オックスフォード大学サヴィル幾何学教授(1649-終身)に任ぜられる。 こののち本格的に数学の研究を始め、1655年の『無限算術』(Arithmetiac infinitorum)の出版後国際的な科学者として知られる。
 ガリレオの弟子のトリチェリ(1608-47)の影響を受け、ニュートンに強い影響を与える。不可分量に対して、デカルトの代数解析的手法を応用し、また始めて円錐曲線を座標を使い2次曲線として考察した(『円錐曲線論』(Tractatus de sectionibus conics, 1651)。 曲線の求長については「最初にサイクロイド,次にシッソイドについての2つの論文」(Tractatus duo, prior de cycloide, posterior de cissoide, 1659)の中で述べられている.
 無限大の記号∞,連分数,補間法などの用語を導入。 ロンドン王立協会の創立者(1660)。数学以外にも、『力学』(1669)、宗教書、語源学、英語の文法書(1653) 、論理学(1687)などの本を出している。 [解I.2, 5-6, II.10, III.2, 7, 9], [幾6,7,8], [50.27] トップ

ウォール(Charles Terens Clegg Wall, 1936.12.14-.)   イギリス,ブリストルの生まれ.マルボロー・カレッジと,ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ.フランク・アダムスとクリストファー・ジーマンの指導で,「コボルディズムにおける代数的様相(Algebraic aspects of cobordism)」によりPh.D.取得(1959).トリニティ・カレッジのフェロー(1959-1964). リヴァプール大学教授(1965-1999),現在名誉教授.ロンドン数学会会長(1978-1980).
 代数的トポロジー,多様体論,幾何的トポロジー,手術理論,障害理論,特異点理論,特に微分可能写像や代数多様体の孤立特異点.
 著書にSurgery on Compact Manifolds(1970),A geometric introduction to topology(1972),The Geometry of Topological Stability(1989,A.du Plessisと共著),Singular Points of Plane Curves(2004).
 ウォール群,ウォール不変量,ウォール予想(有限生成群はaccessible)はM.J.Dunwoodyによって有限表示群に対しては解決(1985).弟子にA.キャッソンなど. [ト附,文] トップ

ウォールマン(Henry Wallman, 1915.1.24--1992).
 1937年にプリンストン大学からレフシェッツの指導で「束と位相空間(Lattices and Topological Spaces)」によりPh.D.取得.
 MITに勤め,その後スウェーデン,イェーテボリのチャルマーズ工科大学電気工学教授(1948).
 束論,次元論,トポロジー,電気回路デザイン.ウォールマン・コンパクト化(1938)(正規空間の場合はストーンチェック・コンパクト化と同じになる).W.フルヴィッツとともに次元論に関する著書を刊行.  [伝8] トップ

ウォルツ(Anke Walz.)
 女性数学者.ベルリン工科大学で修士,ニューヨーク州,イタカ,コーネル大学でR.コネリーのもとで,論文「ふいごの仮説について(On the Bellows Conjecture)」によりPh.D. 取得(2000). カッツタウン大学助教授(2002).
 多面体論.鍛冶屋のふいごの仮説の証明( I.サビトフR.コネリーとともに) Defending Einstein(2006)の共著者の一人. [天11] トップ

ヴォルテラ(Vito Volterra, 1860.5.3-1940.10.11).
 教皇領アンコナ(現在イタリア領)に生まれ、ローマに死す。
 2才のとき父が死に、母とフィレンツェに移住。大変貧しかったが、幼少時から才能を発揮したので、後援者がいて、勉強を続ける。フィレンツェ大学の後、ピサ高等師範学校に移りベッティのもとで学び、1882年に学位。ピサ大学力学教授(1883-1892)、トリノ大学力学教授(1893-)、E.ベルトラミの後継者としてローマ大学数理物理学教授(1900-1931)。1922年からイタリアはファシスト政権が出来、これに反対運動をし、1930年議会で反対の発言をし、政権への忠誠の誓いを拒んだので、翌年公職から追放される。その後はパリなど外国に住むことが多かった。
 偏微分方程式論、特に円柱波の方程式論(1890年代)、ヴォルテラ型の積分方程式を含む積分方程式の理論(1930)、フェルフルスト方程式を研究し、食う者--食われる者の方程式を提案。 [解III.9] トップ

ヴォルテール(Voltaire,本名= Francois Marie Arouet, 1694.11.24-1778.5.30.)
 パリに生まれ,パリに死す.詩人,劇作家,哲学者,歴史家.フリードリヒ大王の宮廷でオイラーを追い出した罪は,ニュートンの名声を大陸に伝えた功績で帳消しになるわけではないが.  [解人], [パ1],[伝1] トップ

A.H.ウォーレス(Andrew Hugh Wallace, 1926-2008.1.18). スコットランド,エジンバラに生まれ,ギリシャ,クレタ島,ハニアに死す.
 エジンバラ大学数学物理学科卒(1946),セントアンドリューズ大学からによりPh.D.取得(1949).
 1959年にアメリカに移住しインディアナ大学教授,ペンシルヴァニア大学教授(1965-86),名誉教授
トポロジスト.コンパクト多様体上の好適な関数の存在や,低次元多様体論.トポロジーの啓蒙書も出版している.日本語の本に『位相数学入門』(河野伊三郎訳)共立全書522(1971)がある.   [ト文] トップ

W.ウォレス(William Wallace, 1768.9.23-1843.4.28)
 スコットランド,ディザートDysartに生まれ,エジンバラに死す.  皮革工場主の父親が基礎的な算術を教えてくれたほかは,16歳以降正式に教育を受けていない.16歳になって一家はエジンバラに移住し,彼は数学を独習する.故郷で製本業の見習いをしていたので,本屋のために働いたり,数学を教えたりして生活の資を得る.もぐりでエジンバラ大学の数学の講義に出席し,プレイフェアに激励される.
 1794年にパース・アカデミーで数学の教師になり,エジンバラ王立協会紀要に投稿したり,エンサイクロペディア・ブリタニカの原稿を書く.1803年にグレート・マーローの王立陸軍大学の教授になり,1819年にエジンバラ大学の数学教授になる.ユークリッドを教える教科書を,前任のレスリーの本からプレイフェアのものに変えたことが物議を呼ぶ.後に微積分に関する文章でも,イギリスで,ニュートンの記法からライプニッツ流の記法に変えた最初の人.
 数学以外にもパンタグラフ(写図器,縮図器)を発明.天文学の論文も書く.健康を害して1835年に退職するも,その後健康を持ち直し,数冊の幾何の著書を書く.
 ウォレス・シムソン線.   [直7,8], [フ22], [幾7] トップ

ヴォロノイ(Georgy Fedseevich Voronoy, 1868.4.28-1908.11.20).
   ロシア(現在ウクライナ),ポルタヴァ・グベルニヤ,ジューラフカに生まれ,ポーランド,ワルシャワに死す.
 サンクトペテルブルグ大学卒(1889),卒論はベルヌーイ数に関するもの.修士(1894)は既約な3次方程式の根に付随した代数的整数に関するもの. サンクトペテルスブルク国立大学からマルコフの指導で「連分数のアルゴリズムの一般化について (Ob odnom obobshchenii algorifma nepreryvnykh drobei)」によりPh.D.取得(1896).
 ワルシャワ大学教授(1894-).代数的整数論,数の幾何.
 ヴォロノイ図,ヴォロノイ領域,ヴォロノイ境界,ヴォロノイ点,ヴォロノイ敷詰め,ヴォロノイ反復,離散ヴォロノイ図.  [モ]  トップ

宇田川玄真(Udagawa Genshin, 明和6年12月28日(1770.1.24)- 天保5年12月4日(1835.1.2)). 伊勢の国に生まれ,
 本姓は安岡,名は璘,字は玄真,号は榛斎.養父は宇田川玄随、養子に宇田川榕菴。
 若くして杉田玄白の私塾・天真楼,その弟子大槻玄沢の私塾・芝蘭堂で学び芝蘭堂四天王筆頭と称された。一時杉田玄白の娘と結婚、養子となったが離縁される.
 寛政9年(1798)津山藩医で芝蘭堂の高弟宇田川玄随が亡くなると養子に入り,津山藩の江戸藩邸詰めの蘭方医となり,私塾・風雲堂を開く.
 弟子に吉田長淑、藤井方亭、坪井信道、佐藤信淵、緒方洪庵、川本幸民、箕作阮甫、飯沼慾斎、青地林宗など.
 改暦に悩む幕府から,天文台の蘭書(西洋の学術書)翻訳員として招聘され和蘭書籍和解御用方としてフランスのノエル・ショメールが編纂した百科事典の翻訳に携わる.
 蘭学の発展に尽くし,杉田伯元,4代目桂川甫周,稲村三伯,橋本宗吉,山村才助,馬場佐十郎,伊東玄朴などとも交流.
 また,日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』の編纂にも参加.蜂蜜酒とその製法を紹介.オランダ解剖学書を次々と訳し亜欧堂田善に解剖図を依頼して独自の解剖学訳書『和蘭内景医範提網』を刊行。ほかにも『遠西医範』,『新訂増補和蘭薬鏡』,『遠西医方名物考』,『内外要論』など. [文1] トップ

内田五観(Uchida Itsumi, 文化2年(1805)-明治15年(1882)3.29). 江戸に生まれ東京に死す.
 幕臣宮城弥一郎の次男として生まれる.父は御家人で,藤村権左衛門組の御小人.幼名は弥太郎,日下誠に入門するまでに内田家の養子に.
 諱は恭、後に観(よくみ),字は思敬,号は観斎(KWANSAY と署名することもあった),宇宙堂主人,東曈軒.
 住居は, 文政9年(1826)の和田寧への入門帳への記載では四谷忍原横町.同地に営んだ家塾には門弟数百人を数えたと言う.
 弘化三年(1846)から五年の間のどこかでは「麻布六本木通り飯倉河町、五鴻様御屋敷裏門キワ小路入る見附」に.文久元年(1861)刊の切絵図に、内田弥太郎の家として載っている。嘉永7年(1854)には深川八幡旅所前に住んだという記録もある.
 関流宗統6伝.しかし,単に和算家というより懐の広い「数理科学者」で、洋学も修め、数学、物理学、天文学、暦学、測量術、兵学等広い領域を高度なレベルで理解、著述、教育し、その膝下から俊才を輩出.
 和算の師は日下誠和田寧,阿蘭陀語の師は高野長英,暦学の師は釈圓通
 文政3年(1820)正月:武州大宮の氷川神社に算額を奉納.署名は内田恭思敬.
 文政5年(1822):日下の塾を引き継ぎ,瑪得瑪第加塾を開く.家塾を名を詳証館とも言う.
 文政5年(1822):『神壁算法解義』には内田恭識於瑪得瑪弟加塾という署名がある.
 文政5年(1822):神奈川県の寒川明神社の算額を奉納.ソディの6球連鎖の定理
 文政9年(1826)4月:和田寧に入門し,円理の術(1817年頃完成)を伝授される.
 文政9年(1826)8月:明屋敷番伊賀ノ者である内田家の家督を継ぐ.
 文政10年(1827)4月18日:和田寧から円理豁術を伝授.のち円理豁術(最初は区分求積で定積分を行うことで,のち多重積分に)を発展させ,普及させる.
 天保2年(1831):前年に長崎から江戸に出て,麹町貝坂で医業を開いた高野長英に蘭学を学ぶために入門.
 天保3年(1832):『古今算鑑』 (東細菌蔵梓),楕円の弧長の計算もある. 題言は釈圓通
 天保5年(1834):『日本高山直立一覧』,富士山の高さを測量し、3475.7mの値を得る.
 天保5年?:宇宙堂主人編『自長崎至暹羅航海路推算』:長崎よりシャムにいたる航海路推算で、球面三角法によって航海途中の場所の経緯度、次の港までの方位角、距離が書かれたもので,図解もある.
 天保6年(1835)『新星発秘』:ここには五観が特に気に入っていたボーデ則が書かれている.
 年代不詳の稿本が残っている.たとえば,『弧術変換』,『験温管略説』, 『豁術草』,『算法考草側円系』,『宇宙堂側圓初問』, 『新考較極術並不壺一周通術』,『専術考草日踏暦理』,『弧術変源前集』,『円内累円術後編』,『管窺孤度捷法付録』,『地球真形径度略説高卑測法新編』:
 ?『新考太陽高孤捷法』附録(写本):瑪得瑪弟加塾の北極高度を35度41分として、球面三角法によって、24節気の日の太陽視高度他の計算過程を示している.
 天保7年(1834)『観斉暦策』:
 天保8年(1837):モリソン号事件のあと,官民ともに外国船の直接的脅威に備える機運が高まる.
  天保9年10月5日の尚歯会の例会に、五観と奥村喜三郎は二人で制作した測量器具「経緯儀」を持参した。
 天保9年(1836)『救荒二物考』刊.上州の門人から聞いた,早生そばと馬鈴薯の栽培法や調理法を高野長英が口述,内田五観が文章化,跋文を書き,渡辺崋山が挿絵を描く.尚歯会の製作と言うべきもの.尚歯会については江川英龍の項参照.

 天保9年(1838):渡辺崋山からロシア算術書の翻訳『算学釈語』の稿本を貰う(この写本の現物に「証證館」の印がある).
 文化8年(1811)に,ロシアの海軍士官であるゴローニン(1776--1831,『日本幽囚記』の著者)に,大黒屋光太夫が持ち帰ったロシア語の算術書(1784年版,エカチェリーナ2世の命で作成)を持参し,取調べの足立信頭と馬場貞由が内容の説明を聞き,翻訳したもの.内容自体は四則演算と比例計算程度だが、高度な数学の基礎であることが伺える.内田の評「浅近の者と雖も西洋諸州の推算皆然り」

 天保9年(1838):鳥居耀蔵と平行して,江川太郎左衛門英龍が備場新設用地の調査のため江戸湾見分を命じられたのが12月 8日.崋山に測量技術者の推薦を依頼し.内田と奥村喜三郎を推挙したのが天保9年12月23日.
天保10年(1839)1月3日 江川が内田の支配筋である松下内匠頭乗譲から内諾を得る.1月7日 江川が内田・奥村付き添いの正式願書を勘定奉行に提出. 1月8日,勘定奉行により二人の測量付き添いを差し止め. 1月9日,鳥居、江川が江戸を出発.鳥居側の測量技師は小笠原貢蔵. 1月19日,水野忠邦の名で内田の測量付き添いの内諾.1月21日 奥村喜三郎の測量付き添いが許可.天保10年1月29日に内田と奥村は江戸を出発し,2月3日に測量に合流する。 だが,鳥居の抗議により,2月7日奥村の帰府を命ぜられる.理由は奥村喜三郎が増上寺御霊屋代官で不浄な寺侍だとでもしたのだろうか.内田の補助に,崋山の下役である田原藩士、上田喜作が従者としてついたという話もある. 測量を完成し,内田が江戸に帰るのが4月1日.測量器具も伊能忠敬由来のものもあっただろうし,華山から貸された写真鏡・遠目鏡を含んだ進んだ技術のものがあったことも大きかったのだろう.このときのことを五観は明治四年正月の拝命の記に「相豆房総四箇国要地巡察並びに測量勤仕」したと述べている。
 当時、三浦半島の備場は、浦賀近郊の観音崎と平根山の2カ所にあり、兵員は90人、浦賀奉行が管轄していた。 浦賀・房総・三崎・城ヶ島・小田原・伊豆東海岸など江戸湾沿海の検分を終えた鳥居と江川には、江戸湾防備改革案を立案し、それを報告する任務が残っていた.江川は、崋山から『諸国建地草図』1冊と『西洋事情書』2冊の著書を贈られ、それを参考にして江戸湾防備に関する復命書をまとめ、勘定所へ提出した。江川の復命書の方が鳥居のものより、より革新的で優劣は歴然だったという. これが鳥居の怒りを誘発し、蕃社の獄への引き金になった。
 このとし,5月14日崋山召還,17日小関三英自殺,18日逃走中の高野長英自首.鳥居の告発状には内田の名前があるが,五観は何の責任も問われていない.
 弘化1年(1844) 高野長英脱獄,その後2年間,家を見つけて住まわせたり,翻訳仕事を回したり,自身の家に匿ったりした.
 弘化2年(1845),五観の詳証学が外部に流出.
 弘化3年(1846)1月,佐久間象山,内田五観を訪問,詳証学を聞く.
 弘化3年中に,五観のために高野長英が『遜謨児ソンムル四星編』『星学略記』を翻訳.
 嘉永1年(1848) 高野長英, 宇和島へ.また五観は「四月ヨリ毎年夏相州浦賀詰西洋砲術取建並海岸切処測量心得異船渡来之節万端可致取扱旨勤仕」
 嘉永3年(1850),五観の甥である宮城信四郎の世話で高野長英は青山に居を構え,そこで10月末に捕吏に襲われる.公式記録では,喉を突いて自殺しようとしたところをとりおさえられたが,傷が重くて,役所に連行された後死亡となっている.捕縛の際の暴行によるものと推測されている.
 信四郎は遠島,五観の実家である宮城家は断絶.長英の長女は五観の養女格になっていた.
 安政2年(1855):弟子の高橋義泰訳『新訳弧三角術』(Pibo Steenstra, Grondbeginsels der manskunst, 1780)の序文に
泰西往古有大学師祖秘闥護刺私者発明三角八線之術歓喜雀躍而謝供牡牛一百以祭云
 (西欧の古代において,大学者の祖であるピタゴラスなる者がいた.彼は三角比の術を発明して欣喜雀躍し,感謝のために牡牛一百頭を供えて神を祭ったといわれている)
と書いている.
 安政2年(1855):弟子の桑本正明編『算法尖円豁通』の序に
泰西古聖。密列天(ミレテン)之太列斯(タレス)。沙莫斯(サモス)之袐闥護剌私(ピータゴラス)。皆善講述此學。 為所裨益生徒之第一関。爾後厄勒祭亜(ギリシア)大學師。 巴拉多(パラト)。亜利斯多(アリスト)。亦以為世教之関鏠也。 而歴山大王(ゴロートアレキサンデル)。殊感穪此學之偉勲。
 (ヨーロッパ古代の聖人,ミレトスのタレス,サモスのピュタゴラスは,皆この学問[数学]をよく講述し,生徒が第一に学ぶべき事への貢献をなした.その後,ギリシアの 大学者であるプラトンアリストテレスもまた,世の教育の鍵となるべきものを与えた.アレクサンダー大王はことのほか,この学問の偉大さを嘆賞したのである)

以富國強兵.即非脩此學[=数学]者.不能奏奇効也.

内和能利国.外不畏戦能護国.故国力百倍于他日
 (国内はまとまって国の利となり,外に向かっては戦を恐れず国を護る.よって,国力はいずれ百倍ともなる)

 安政3年(1856)11月,大日本総国御軍政改正調に. これに任じられる前に,大久保忠寛の諮問に答える形で五観が『詳証学入式条目』を書き,詳証学の目的と階梯を述べている.
 明治2年(1869):陰陽寮が廃止されて大学校天文暦道局が設置されると、
 明治3年(1870): 大学出仕天文暦道御用係と星学局御用係に.星学局督務などを務めたが、太陽暦への改暦によって天文局は廃止.

 明治4年(1871)『拝命の記』
 彼以外の最後の幕府天文方であった渋川敬典など9人の履歴書が併記されている.
 『彗星真言』1本しか残っていない稿本で,成立年代は,明治5年(1872)旧暦6月28日以前であることしかわからない.1846年に発見された海王星の軌道が書かれている.
 内務省で度量衡の統一にかかわる. 国立科学博物館の3本の「物差し」は、この度量衡法の改正にあたって、長さの参考にされたものです。この享保尺、折衷尺、又四郎尺の3本は、五観が所蔵したもの.
 『英蘭会話訳語』ガラタマ 口授 ; 川本[清次郎],内田[弥太郎] 訳 ; 無尽蔵主人 補削校定 ; 外山[正一] 訂
 正弦,微分積分などの用語を初めて使う.幾何学には「度学」または「度数学」,数学には「詳証学」を使っていたが,それらはオランダ語meetkundeとからの直訳.  明治10年,東京数学会社発足時の社員.
 弟子は数百人に及び,林鶴一『和算研究集録上下巻』には特に優秀だった51人の名が記載されている.たとえば,川北朝鄰,桑本正明(津和野藩士,1830-1863),志野知卿(紀州藩士),剣持章行(上州の人,1790-1871,遊歴算家,『約術新編』),法道寺善(広島の人,遊歴算家,1820-1868,『観新考算変』安政7年(1860)刊),石黒信之(『交式斜乗生尅補義』),藤岡有貞(松江の人,『算法円理通』弘化3年(1846)),牛島盛庸(『続算学小筌』天保3年(1832),『鄒理円線一致術』),小松鈍斎,梅園立介,松本和助,北本栗(加賀藩士,1832-1886),高橋卯之助(義泰,佐倉藩士,1833-1902),赤松小三郎(上田藩士, 1831-1867),西田金吾明則(岩国藩士,1828-1906),久保田年菜(但馬豊岡の人),手島喜次郎清春(川越藩士),宮沢熊五郎一利(川越藩士, 1821-1908),恵川景之(伊勢松阪の人,『弧三角捷法解』天保13年刊),竹内修敬(名古屋の人),小松鈍齋(遊歴算家)など.
   [文プ1,2] トップ

ウマル(オマル)・ハイヤーム(Omar Khayyajm =Omar Alkhaijama; Abu al-Fath `Umar bn Ibrahim al-Khyyam, 1048.5.15-1131.12.14(1040頃-1123年説あり)).
 ペルシャ、ホラサン州、ネイシャプール(現在イラン領)に生まれ、同地に死す。
 セルジュク・トルコ帝国の人。天文学・気象学・数学者・詩人。
 ルバイヤートの作者。日本語訳はいろいろあるが、岩波文庫の『ルバイヤート』(小川亮作訳)を挙げておく。ルバイヤートとは4行詩のことで、折りに触れて、ペルシャへの思いと共に、無神論的唯物主義者として、時のイスラムの宗教的束縛に反抗し、人間的な悩みを純粋な憂愁にまで濾過し、感情と理性の混淆した独自の美の世界を作り上げた。生前は公表されることなく、友人たちの間でのみ読まれていたという。世界的に知られるようになったのは、1859年にエドワード・フィッツジェラルドが英訳、自費出版したものを、ラファエル前派の詩人たちが強く薦めたことからである。日本へもこの英訳からの翻訳が多くなされていたが、1949年に小川亮作氏がペルシャ語の原典から翻訳した。
 ハイヤームとは天幕作りという意味。エスファハンの天文台長(1076)。1074年マリク・シャー(1072-1092在位)の命で、暦の改正に当たり、グレゴリウス暦より精確なジャラリー暦を作るが、閏年の決め方が煩雑なため後世には用いれなかった。1年の長さを365.24219858156日と測定。1年の長さは少しずつだが短くなっており、この時代での測定としては驚異的な精確さである。
 3次方程式を含めた分類と解の理論(双曲線と円との交点を使って3次方程式を幾何学的に解く)。 ユークリッド『原論』の難点に関する論文。パスカルの三角形。インド算法による、平方根と立方根の求め方とその精度を調べる。恒星表。 [解I.2], [名9] トップ

ヴュスト(Thierry Vust)
ジュネーヴ大学からAndr\'e Haefligerの指導で「簡約代数群の共変量(Covariants de groupes alg\'ebriques r\'eductifs)」によりPh.D.取得(1974).
 ジュネーヴ大学数学教授.
 M.シャールは5つの与えられた円錐曲線に接する円錐曲線は3264本あることを示した(1864)が,1997年に,ロンガトニョリヴュストが,3264本の接円錐曲線のすべてが実曲線であるような,5つの楕円の族を1つ発見した. [フ17] トップ

ヴラック(Adriaan Vlacq, 1600-1667.4.8)
 オランダ,ゴーダに生まれ,ハーグに死す.書店主,出版者,数学者.
 1632年にロンドンで書店を開業.1642年チャールズ1世が議会と衝突し,内乱状態になり,パリに移動し,パリで出版業を再開,その6年後にハーグに戻り,書店と出版業を再開.
 H.ブリッグスの始めた1から10万までの10進対数の表を完成し出版(Arithmetica logarithmica, 1629).ブリッグズの元の表には1から2万までと9万から10万までしかなく,ヴラックは7万個の値を追加した. 三角関数表の編集出版(1633).これらの数表は出版後急速にヨーロッパ全土に普及した.ブリッグスの著書を含む多くの数学書を出版.   [モ歴] トップ

ウラム(Stanislaw Marcin Ulam, 1909.4.3-1984.5.13.)
 オーストリア帝国,ポーランド,レンベルグ(現在ウクライナ,リヴォフ)に生まれ,アメリカ,ニュー・メキシコ,サンタ・フェに死す.水爆製造に関与.モンテ・カルロ法の考案.トポロジー.関数解析,確率論,集合論,数理物理学.ボルスク・ウラムの定理.   [天14,伝] トップ

ウーリー(Trevor D. Wooley, 1964-.)
 ケンブリッジ大学卒(1987).ロンドン大学インペリアル・カレッジからヴォーガンの指導で「連立加法方程式とウェアリングの問題(On Simultaneous Additive Equations and Waring's Problem)」によりPh.D.(1990).
 ミシガン大学助教授(1991-95),准教授(1995-98),教授(1998-2007),ブリストル大学教授(2007-).  
 解析的整数論,ディオファントス方程式,ディオファントスの問題,調和解析, ハーディリトルウッドの円周法,ウェアリングの問題.  [珠文] トップ

ウリゾーン(パーヴェル・サミュイロヴィッチ・ウルィソーン Pavel Samuilovich Urysohn, 1898.2.3--1924.8.17.)
 ウクライナ,オデッサに生まれ,フランス,バッツ・スュル・メールに死す.
 P.S.アレクサンドロフと一緒に水浴中,岩礁に打ちつけられて死亡.
 ウリゾーンの補題.
 ロシア語ではУрысонウルィソーンと言うべきであるが, 学界へのデヴューがドイツ語での論文だったため,ドイツ語綴りUrysohnとその読みのウリゾーンという名前で知られている.   [伝8,10] トップ


  
  
  
  
  

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