Human Indexes of my Books on Mathematics; e o in Japanese MyBookのホーム
『解析教程』.『微分トポロジー講義』 『数理解析のパイオニアたち』 『数学名所案内』 『数論の3つの真珠』 『代数学とは何か』
『黄金分割』 『天書の証明』 『数学の最先端 21世紀への挑戦3』 『シンメトリー』 『微分のはなし』 『古典群:不変式と表現』 『直線と曲線 ハンディブック』
『数学者列伝』 『面積・体積・トポロジー』 『微分のはなし』 『積分と微分のはなし』 『文明開化の数学と物理』 『代数入門』
『微分の基礎 これでわかった!』『微分の応用 これでわかった!』『本格数学練習帳』『確率で読み解く日常の不思議』『数学の作法』『幾何教程』
『孫サイ数』 『実解析の助け舟』 『数学,それは宇宙の言葉』 『数学用語英和辞典 新訂版』



 人名索引 えお


人名索引総目次  あい 
エアリーエヴァリットエヴァンス
エウクレイデスエウデモスエウドクソスC.J.A.エヴリン
江川英龍エグリエゴリチェフエスターマン
エッサムエッシャーエッジワースエッソンエップル
A.W.F.エドワーズエネストロームエービエビングハウス
D.エプシュタインP.エプシュタインエープリエーム
エラトステネスエリアシュベルグエリオットエリゴーンエリッソン
エルショルツエールステッドエルストロットエルデーイ
エルデシュエルミートエレグァルシュ
エンゲルエンツェンスベルガーエンリケス
 
オーアオイラー欧陽修オヴシエンコ
大久保忠寛大隈重信緒方洪庵岡本則録荻生徂徠
奥村喜三郎オークリーオザナム
オスカル2世オスターマンオーステルホフオストログラツキーオストロフスキー
小関三英オッペンハイマーオデーナルオドムオートレッド
小野友五郎オバーンオフォードオーブリー
オマル・ハイヤームオームM.オームオルークオルコック
オールズオールダスオルデンブルグオールトオレーム

トップへ 


エアリー(George Biddell Airy, 1801.7.27--1892.1.2.)
 イギリス,ノーサンバーランド,アルンウィックに生まれ,イギリス,グリニッジに死す.
 天文学者,地球物理学者.ケンブリッジ大学卒,ルーカス数学教授(1826),プルミア天文学教授(1828-36).王立天文台長(1835--81).グリニッジ天文台の再構成,グリニッジ標準時の決定.炭坑の中の重力測定から地球の質量を決定.
 エアリー関数 [伝3], [50.25]   トップ

エヴァリット(William Norrie (William) Everitt, 1924.6.10-2011.7.17). イギリス,バーミントンに生まれ,同地に死す.
 バーミントン大学で電子工学を学ぶ(1944卒).徴兵され,1947年に脊椎を骨折.回復し,1949年にオックスフォードのベリオールカレッジに入学,数学を学ぶ.チューターはJacobus Stephanus de Wet.プリンストン大学で理論物理学を学び,素粒子とスピンの関係の研究でPh.D.取得(1940).
 ケープタウン大学とプレトリア大学で教え,1947年にオックスフォードのベリオールカレッジ.
 修士を得た後 ,ティッチマーシュに指導を受け,「4階の微分方程式に関連した固有関数展開(Eigenfunction Expansions Associated with Fourth-Order Differential Equations)」により哲学博士号取得(1955).ティッチマーシュの『2』
 セント・アンドリューズ大学,ダンディー大学では20年間バクスター数学教授職(-1982),バーミントン大学数学科主任(1982-1989).その後も2009年9月までhonorary Senior Research Fellow.
 エジンバラ数学会会長(1970). [天VI.4]   トップ

エヴァンス(Trevor Evans).  1960年にオックスフォード大学から,ヒグマンホールの指導でConferred by Board of the Faculty of Physical Sciences based recommendation on 12 publications judged of considerable interest to the abstract algebraist. Word problem, embedding, decidabilityにより,理学博士号取得(1960).
 アメリカ,アトランタ,エモリー大学数学・計算機学科教授.組合せ論.語の問題.
 1992年にMAAにトレヴォーエヴァンス賞が制定.  [天25], [天VI.36]   トップ

エウクレイデス、アレキサンドリアの ===> ユークリッド

エウデモス、ロードスの (Eudemus of Rhodes,紀元前 350頃-290頃.)
)  ギリシャ,ロードス島の生まれ.最初の主要な数学史家と考えられている.シンプリキオスによれば,ダマスがエウデモスの伝記を書いたということだが,その伝記の痕跡は残っていない.
 ボエトスという名の兄弟がいたことと,アリストテレスに学んだことは知られているが,それ以外には何にも知られていない..アリストテレスがアッソスにいたときに学んだという説が有力である.死の直前にアリストテレスが後継者としてレスボスのテオフラストスを選んだため,アテネを離れ,故郷のロードス島に戻って一派をなしたものらしい.アリストテレスの有名な著書『エウデモス』は彼とは別人のキプロスのエウデモスという哲学者にちなむもの.アリストテレスの倫理学の講義をまとめた『エウデモス倫理学』で有名.
 プロクロスによれば『角について』という数学書を書いたというが現存していない.数学史に関しては『算術の歴史』(ポルフュリオスの文章の中に引用があるだけ),『幾何学の歴史』,『天文学の歴史』というそれぞれ2冊以上からなる著書がある.
 ユークリッド以前のギリシャ数学の歴史についてはこの『幾何学の歴史』が原典であるものが多い.例えば,ヒポクラテスの月形の求積は,後世この書からの抜書きによって今日知られているだけである.この書が失われたのはパッポス以前だという説もあるが,ハイベアは,パッポスとエウトキオスはこの『幾何の歴史』を開きながら著述をしたと主張している.
 『天文学の歴史』も後に多く引用されて重要.この書も失われたが,この書からの引用によって,タレスの日食の予言や,天体のエウドクソスの同心球系理論が今日に知られるのである(シンプリキオス参照).また,アナクシマンドロスが,天体が相対的に同じ位置にあること,地球が宇宙の中心を動くこと,月は太陽の光を反射して光ること,月食の説明,(夏冬)至点の間の時間と(春秋)点の間の時間が異なることを発見した,という記述もこの本にある.
 それら以外にも多くの仕事がある.アリストテレスの仕事の多くは,彼のとった講義ノートからの再現によって残った.アリストテレスの『物理学』を注釈したシンプリキオスはエウデモスのノートを参考にしたという.また論理学に関する著書,ロードス島の動物に関するもの,民話を集めたもの,神学史の著書も多い.  トップ

エウドクソス、クニドスの (Eudoxus of Cnidus,Εὔδοξος ὁ Κνίδιος、紀元前 408頃-355頃.)
 小アジア、クニドス(現在トルコ領)に生まれ,同地に死す.
 アルキュタスに数学を学び,プラトンのアカデミアで雄弁術と哲学を学ぶ.数学者,天文学者,医者,地理学者,雄弁家.エジプトに1年の旅をした後,クニドスでアカデミアと競う学校を作る.
 太陽中心の惑星の運動論(同心球形).本質的に現代の無理数論と同等な,通約(不)可能性に関する比例論(ユークリッド『原論』の5,6,12は彼の説を整理したものと言う).取り尽くし法を完成し,それを用いて角錐の体積を決定.    [幾1,2,3], [クI.3.3], [クII.3.2] トップ

C.J.A.エヴリン(C.J.A.Evelyn)
   アマチュア数学者.マネー=クーツと,正確に図を描くことで7円定理を発見.証明はティレルパウエルが楕円関数を使って行った(1971).
 「7円定理と新しい定理群(The Seven Circles Theorem and Other New Theorems)」(1974, マネー=クーツ, ティレルと共著) [フ29,文] トップ

江川英龍(Egawa Hidetatsu, 享和元年5月13日(1801.6.23)-安政2年1月16日(1855.3.4)). 伊豆,韮山の生まれ.幼名は芳次郎,邦次郎.36代江川太郎左衛門.号は九淵,坦庵.代々,伊豆韮山代官.
 父・英毅が長命だった為に英龍が代官職を継いだのは天保6年(1835),35歳の時とやや遅い。学問を佐藤一斎、書を市川米庵、詩は大窪詩仏、絵を大国士豊や谷文晁、剣術を岡田吉利(初代岡田十松)に学ぶ.神道無念流免許皆伝で岡田十松の撃剣館四天王の一人に数えられ、同門の友人で,後に代官所手代となる斎藤弥九郎は、江戸三剣客の1人.
 多くの事蹟は韮山代官としての自覚から来ることだった.二宮尊徳を招聘して農地の改良.嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進.砲術もその一環.
 文化年間以降、日本近海に外国船がしばしば現れ、天保8年(1837)にはモリソン号事件が起こる. 文政8年(1825)に出された異国船打払令に基づき,イギリス軍艦と誤認してし薩摩藩と浦賀奉行が砲撃したが,同船にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉ら7人が乗っていた.翌年に評定所記録方・芳賀市三郎が、モリソン号の渡来に関する風説と、この船に打ち払い令を適用することを強く主張した評定所一座の答申案をひそかに持ち出し、尚歯会の同志たちに示す。再来するモリソン号に幕府が撃退策を持って臨むという可能性を憂慮した渡辺崋山は『慎機論』を,高野長英は『戊戌夢物語』著す.
 
韮山代官の管轄地には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持った.
 幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂の紹介で,紀州藩儒官遠藤泰通(勝助,霍州,1789-1851)が設立した尚歯会に参加する.
 尚歯とは敬老のことであり,尚歯会とは本来最高齢の主人を含む7人の高齢者が招かれ、あるいは集まり、詩賦、あるいは和歌を作る、音楽歌舞の遊宴であって,もとは845年、唐の白居易が催した故事が起源.日本でも貞観19年(877)に南淵年名がその山荘で行ったものが最初で,藤原在衡による粟田山荘のもの(969),藤原宗忠による白河山荘のもの(1131),藤原清輔による白河の宝荘厳院のもの(1172),賀茂茂重によるもの(1182)などと古くからあり,江戸時代には長寿の祝いの会として多くの例が記録にも残っている.
 遠藤が設立したものは敬老を隠れ蓑にした集会で,当初は天保の大飢饉などの相次ぐ飢饉対策を講ずるために結成された.遠藤勝助『救荒便覧』(前集(天保4年),後集(天保7年),続集(天保8年)).
 『救荒二物考』(天保7年(1836))は,上州の門人から聞いた,早生そばと馬鈴薯の栽培法や調理法を高野長英が口述,内田五観が文章化,跋文を書き,渡辺崋山が挿絵を書いたというもの.
 参加者は上述の人以外には小関三英、幡崎鼎など. 尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図り、英龍は彼らの中にあって積極的に知識の吸収を行った。そうした中で英龍と同様に自藩(三河国田原藩)に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かす道を模索した。
 幕府内の蘭学を嫌う目付・鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きに目をつけ,天保10年(1839)に鳥居は冤罪をでっち上げ、崋山・長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやった(蛮社の獄).しかし英龍は彼を高く評価する水野忠邦に庇われ、罪に落とされずに済んだ.
 尚歯会そのものは僅かの期間で消滅したが、その思想や遺志は江川や川路などの幸運にも生き残ったメンバーによって伝えられ、幕末の日本において勝海舟や佐久間象山など進歩派に大きな影響を及ぼすことになる。
 英龍は
渡辺崋山らの遺志を継いで長崎へと赴いて高島秋帆に弟子入り,以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努めた. 砲術の弟子は多く,佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(後の木戸孝允)など.今も,韮山代官屋敷に行けば,大量の門人帳が残っていて,見ることができる.
 水野忠邦の失脚後に老中となった阿部正弘にも評価され、正弘の命で台場を築造し,反射炉も作った。ロシア使節プチャーチン一行への対処の差配に加え、爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図したが,勘定吟味役にもなり,あまりの激務に体調を崩して病死.享年は満53歳である.
 福澤諭吉が『自伝』で英雄として取り上げており、江川家江戸屋敷が幕府瓦解後、柏木忠俊の配慮で福澤に払い下げられて慶應義塾舎となった.
 国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目してパン(堅パン)を焼き,日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれる. [文2] トップ

エグリ(Herbert Egli).
 チューリヒ工科大学ETHからBeno Eckmannの指導で,Picard-Kategorien und funktorielle Determinantentheorie(ピカール・カテゴリーとファンクター行列式論)によりPh.D.取得(1975).
 コンピュータ科学,λ解析. [幾7,解] トップ

エゴリチェフ(Georgy Petrovich Egorychev, Георгий Петрович Егорычев,1938-).
 ウラル州立大学卒業後,中学の数学教師に(1960).  ファリクマンと独立に,ファン・デル・ヴェルデンのパーマネント予想の解決(1981).
 シベリア州立大学数学・基礎情報学研究所教授. [天VI.24] トップ

エスターマン(Theodor Estermann, 1902.2.5-1991.11.29).ドイツ,ノイブランデンブルクに生まれ,ロンドンに死す
 ゲッティンゲンでヒルベルトランダウに少し学んだ後,ホームシックで両親のいるハンブルグに移る.
ハンブルク大学からラーデマッヘルの指導で「測度概念のカラテオドリミンコフスキーの一般化について(\"Uber Carath\'eodorys und Minkowskis Verallgemeinerungen des Laengenbegriffs)」により理学博士(1925).
 ロンドン大学教授(1965-69),名誉教授.プリングスハイムの孫のタマラと1936年に結婚.
 解析的整数論,測度論,凸体,クルースターマン和,ウェアリングの問題,篩理論.エスターマン測度.
 弟子にK.R.ロスヴォーガン,Heini Halberstamなど.  [珠文] トップ

エッサム(John W. Essam)
イギリス,ロンドン,ウェストフィールド・カレッジ.ロンドン大学応用数学教授.
 パーコレーションの臨界確率.抵抗ネットワーク,ポリマー・ネットワーク,イジングモデル,ポッツモデル,グラフ理論,非対称排他過程.  [50.36] トップ

エッシャー,マウリッツ・コルネリス(Maurits Cornelis Escher, 1898.6.17--1972.3.27.)
 オランダ,レーワルデンに生まれ,バールン(Baarn)に死す.
 画家,版画家.建築不可能な構造物や、無限を有限のなかに閉じ込めたもの、平面を次々と変化するパターンで埋め尽くしたものなどの作品は,数学的にも興味深い.
 代表作に,『メタモルフォーシスI』『昼と夜』『循環』『凸面と凹面』(1955年)『物見の塔』(1958年)『円の極限IV』(1960年)『上昇と下降』(1960年)『滝』(1961年)など.
 彼の作品に影響を受けたペンローズの階段がある.  [率0] トップ

エッジワース(Maria Edgeworth, 1767--1849.)
 19世紀アイルランドの女流小説家. ハミルトンと交友.
 [伝3] トップ

エッソン(William Esson, 1838--1916.8.28.)
 スコットランド、ダンディーに生まれ、イングランド、アビントンに死す。 オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ出身で、マートン・カレッジのフェローになる。
 シルヴェスターの代理教授の後、その死後にサヴィル幾何学教授を継承する。彼の後継はG.H.ハーディ.A.G.V.ハーコート(Harcourt)とともに化学の問題を研究。化学変化率の数学.  [伝8] トップ

エップル,モーリッツ(Moritz Epple, 1960.5.7--)
テュービンゲン大学で数学,哲学,物理学を学ぶ.物理で学士(1987),数理物理で,Burkhard KümmererとManfred Wolffの指導で,「2x2行列上の非可換定常過程の一クラス(A Class of Non-Commutative Stationary Processes over the 2x2 Matrices)」によりPh.D.取得(1991).マインツ大学の自然科学・数学史の助手(1991).マインツ大学からハビリタシオンを「結び目理論の起源--現代的数学理論の状況と構成(Die Entstehung der Knotentheorie -- Kontexte und Konstruktionen einer modernen mathematischen Theorie)」で取得(1998).
 シュトゥットガルト大学の自然科学と工学部の歴史学科主任(2001-2003).フランクフルト大学教授(2003-).
 ブラウエルや,第2次大戦中のドイツの応用数学研究についての論文がある.  [天VI.15] トップ

A.W.F.エドワーズ(Anthony William Fairbank Edwards, 1935.10.4--)
イギリス,ロンドンの生まれ.統計学者で,遺伝学者で進化論生物学者.ロナルド・フィッシャーの弟子で,時にフィッシャーのエドワーズと呼ばれる.
 ケンブリッジ大学ゴンヴィル・カイウス・カレッジのLife Fellowで,生物計量学の教授として退官.,理学博士号と文学博士号をあわせ持つ.
 系統学の定量的方法の先駆者,フィッシャーの尤度の概念を推進.エドワーズ・ヴェン図など純粋数学の業績もある.
 著書に`Likelihood(尤度)’(1972, 1992),`Foundations of Mathematical Genetics(数理遺伝学の基礎)'(1977),`Pascal's Arithmetical Triangle: The Story of a Mathematical Idea(パスカルの算術三角形)'(1987),など,また遺伝学の歴史やヴェン図に関するものもある.  [率0] トップ

エネストローム(Gustav Enestr\"om, 1852.9.5--1923.6.10.)
 スウェーデン,ノールの生まれ. ウプサラ大学卒(1870).スウェーデン最大の図書館長. 数学史,数理統計.オイラーを初め膨大な数学史資料を収集.  [伝5], [クI付B] トップ

エービ,クリスティアン(Christian Aebi)
 スイス,ジュネーヴのコレージュ・カルヴァン教授.初等幾何,整数論.  [幾4-6] トップ

エビングハウス(Heinz-Dieter Ebbinghaus, 1939.2.22-)
 ドイツ,ヴェストファーレン地域Hemerの生まれ.アルベルト・ルートヴィヒ・フライブルク大学数学・物理学部教授.
 著書多数.Jörg Flumと共著のFinite Model Theory(有限モデル理論.2007).Jörg FlumとWolfgang Thomasと共著のEinführung in die mathematische Logik(数理論理学入門, 1978)はドイツ語圏での数理論理学の標準的教科書で5版を重ねる.
 Ernst Zermelo: An Approach to His Life and Work(エルンスト・ツェルメロ.生涯と業績への1つのアプローチ)2007.
 日本語訳されているのは,彼が編者の『数 上下』(成木勇夫訳),シュプリンガー東京(2004.11),丸善出版(2012.9)  [作付B], [天VI.21] トップ

エプシュタイン,デイヴィッド(David Epstein)
 離散幾何,計算幾何,グラフアルゴリズム.
 スタンフォード大学を数学で卒業後,コロンビア大学計算機科学科から修士(1985.5)とPh.D.(1989.5).  カリフォルニア大学アーバイン校情報及び計算機科学教室助教授(1990-1994),准教授(1994-1998),教授(1998-2002).計算機科学科教授(2003-),特別教授(2020-),Center for Algorithms and Theory of Computation所長.  [天VI.13] トップ

エプシュタイン(Paul Epstein, 1871.7.24--1939.8.11)
 ドイツ,フランクフルト・アム・マインに生まれ,同地に死す.
 シュトラスブルク大学からクリストッフェルの指導で,『長楕円積分の指導法について(Zur Lehre von den hyperelliptischen Integralen)』により自然科学博士号取得(1895).シュトラスブルク大学私講師(1895-1918).第1次大戦後,シュトラスブルグがドイツ帝国からフランスに移管したので,フランクフルトに戻る.フランクフルト大学に勤め(1919-),後正教授となるも,ナチが政権を取って失職.年齢もあって海外に職を求められず,ゲシュタポの拷問を恐れ服毒自殺した.
 エプシュタイン・ゼータ関数.
 初等数学百科事典第4版の編集(1922). [クI附] トップ

エープリ,アルフレッド(Alfred Aeppli, 1928--2008)
 スイス,チューリヒに生まれ,アメリカ,ミネソタに死す. チューリヒ工科大学から,Beno EckmannとH.ホップの指導で,「実および複素多様体の変形(Modifikation von reelen und komplexen Mannigfaltigkeiten)」によりPh.D.取得(1956).
 ソディの定理の高次元化のゴセットの定理の一般化を再発見し(1937),その円版がデカルトによって示されていたことを発見(1960).  [幾8] トップ

エーム,ジャン・ルイ(Jean-Louis AYME)
 サン=ドニ・ド・ラ・レユニオンIREM数学教授(レユニオン島はフランス海外県,マダガスカル島の東にある).
 初等幾何,射影幾何,「沢山テボーの定理」,エームの定理.  [幾7] トップ

エラトステネス,キュレネの(Eratosthenes of Cyrene, 紀元前276-紀元前196頃.)
 北アフリカ,キュレネ(現在リビア,シャハット)に生まれ,エジプト,アレキサンドリアに死す.父はアグラオス.
 キュレネ,アテネで学ぶ.アルキメデスからの書簡が最近までベイルートの聖ヨセフ大学の図書館にあったが紛失した.しかし写真は残っている.
 プトレマイオス1世から4世まで仕える.アレキサンドリアの図書館(ムセイオンと呼ばれるミューズの神殿の中にあった)の第3代館長(紀元前245-紀元前204,ゼノドトスの死後引き継ぐ).あらゆる学問に通暁していたといわれる.主著は『プラトニクス』Platonicusプラトン哲学の基礎にある数学を論じたもの)と『地理学』(Geographike).年代学,天文学,文献学,哲学,音楽,数学,数理地理学.
 素数を求めるためのエラトステネスの篩.倍積問題(体積が倍の立方体の作図問題)を解くため機械的な道具を作る. 子午線の円弧,太陽までの距離と月までの距離を測定.ナイルの氾濫の理由の解明. [珠説2.2.6, 3.11, 文], [代入4], [ふ4], [幾3,5,9], [クI.1.3] トップ

エリアシュベルグ(Yakov Matveevich Eliashberg, 1946.12.11-.)
 ソ連,レニングラードの生まれ.V.A.ロホリンの指導でレニングラード大学から「滑らかな写像の特異点の手術(Surgery of Singularities of Smooth Mappings)」により博士号(1972).コミ共和国のスィクティフカル国立大で教鞭(1972-1979),ソフトウェア部門の長として工場で働く(1980-1987).1988年にアメリカに移住.スタンフォード大学教授(1989).
 微分幾何,シンプレクティック幾何,大域解析学,多様体と胞腹体,多変数解析.
『h原理入門(Introduction to the h-principle)』(2002,ミシャチェフと共著).  [パノ],[先],[フ文] トップ

エリオット,デイヴィッド(David Elliott).
 オーストラリア,アデレイド大学から,Renfrey Burnard Pottsの指導で,「Applications of Chebyshev Polynomials in Numerical Analysis(数値解析におけるチェビシェフ多項式の応用)」により,Ph.D.取得(1961).
 タスマニア大学教授.アーカートの定理.  [幾7] トップ

エリゴーン、ピエール(Pierre Herigone, 1580-1643).
 フランスに生まれ、パリに死す。元バスクの人で、パリで教師をしていたこと以外ほとんど分かっていない。
 業績としてはフランス語とラテン語で書いた6巻本の初等数学の概説書『数学教程』(Cursus mathematicus) があり、数学記号や論理記号を一通り考案したのだが、現在はどれも使われていない。しかし、記号表現を貫徹したことで種々の定理を簡潔に表現できることを示した功績は大きい。 タルターリアとは独立に、組み合わせの数(2項係数)を正確に与えた。 1642年の上記書の『補足』では、フェルマの最大最小値を求める方法の普及に貢献した。
 当時重要な問題であった経度決定の方法について、懸賞に応募したJ.B.モラン(1583.2.23-1656.11.6)の月の運動から経度を決定する方法が実用的かどうかを判定する委員会に、エチエンヌ・パスカル(1588.5.2-1651.9.24)、ミドルジュ(1585-1647.7)らとともに参加し、モランとの論争に巻き込まれる。 [美97]  トップ

エリッソン(William John Ellison, 1943-)
 ケンブリッジ大学からJ. W. S. (John William Scott) Casselsの指導で「ウェアリングの問題とヒルベルトの第17問題(Waring's and Hilbert's 17th Problems)」によりPh.D.(1970).
ミシガン大学(1969-70),ボルドー大学,I.M.S.,物理ラボ所属.
ウェアリングの問題
 『素数(Les nombres premiers)』(1975,1985年英訳,Fern Ellisonと共著)  [珠文]  トップ

エルショルツ(Christian Elsholtz)
 ダルムシュタット工科大学から修士(1996),Wolfgang Karl Schwarzの指導でSums of k Unit FractionsによりPh.D.取得(1998).ハビリタシオンはClausthal工科大学から(2002).
 ロンドン大学ロイヤルホロウェイ講師(2003-2006),上級講師(2006-2009),リーダー(2009-2010).  グラーツ工科大学准教授(2010-).
 整数論,ふるい法など.[天VI.1] トップ

エールステッド(Hans Christian Oersted, 1777.8.14--1851.3.9.)
 デンマーク,ランゲランド島,ルードコーヴィングに生まれ,コペンハーゲンに死す. コペンハーゲン大学卒業,後教授.物理学者で化学者.電流の磁化作用の発見,流体や気体の圧縮性の研究,アルミニウムの分離に成功. [伝2] トップ

エルストロット(Jürgen Elstrodt, 1940.4.8-). ドイツ,ニーダーザクセン州オスナブリュックの生まれ.
 ドイツ,ミュンスター大学卒.ミュンスター大学からWalter Roelckeの指導で,「第2種フックス群の下での双曲面の保形形式の固有値問題について(Über das Eigenwertproblem der automorphen Formen in der hyperbolischen Ebene bei Fuchsschen Gruppen zweiter Art」によりPh.D.取得(1970).  ミュンスター大学に勤め(1974-),同数学科教授(1976-).
 解析学,数論.数学史,特にディリクレの伝記(2005). [天19], [天VI.序,26] トップ

エルデーイ アルトゥール(Arthur Erdélyi, 1908.10.2--1977.12.12.)
 ハンガリー,ブダペシュトに生まれ,スコットランド,エジンバラに死す.
 ユダヤ人であるため大学教育を受けにくかったので,現在のチェコのブルノに行き電気工学の学位を得て帰る.自力で数学研究を続け,最初の論文は1930年に,1936年の終わりには18編,翌年には11編の論文.ドイツがチェコや周辺諸国を征服していたので,国外に逃げることになる. 超幾何関数の専門家だったホイッタッカーと連絡を取り,金を送ってもらい,スコットランドのエジンバラに行く.2年後エジンバラ大学数学の講師になる. 1947年にハリー・ベイトマンが死んだ後,その遺稿を整理する人を探すよう頼まれたホイッタッカーはエルデーイを推薦.1947年にイギリスの市民権を得た後,カルテク(カリフォルニア工科大学)に旅し,客員教授になる. 1948年にエジンバラに一旦戻るが,1949年には辞めてカルテクの教授になる.1964年にはエジンバラの教授になり,その死まで勤める.
 特殊関数,特に直交多項式,超幾何関数.  [伝9] トップ

エルデシュ、ポール(Paul Erdős , 1913.3.26-1996.9.20).
 ハンガリー,ブダペストに生まれ,ポーランド,ワルシャワに死す.
 ブダペスト大学学卒業.ハンガリー以外の2つの国の大学で同時に学ぶ.ナチズムのこともあるが,世界各地の大学に勤めたり,放浪の旅をしながら,行く先々の数学者と共同研究をする.直接共同論文を書いた人がエルデシュ数1を持ち,エルデシュ数 n の人と共同研究をするとn+1のエルデシュ数が得られる,という数学者の間のジョークがある.ジョークではあっても,少ないエルデシュ数を持ちたいと思う数学者は少なくない.
 エルデシュがいない今,エルデシュ数1の数は増えない.しかし,その人たちが生きている以上,エルデシュ数が2の数学者の数は増えるかも知れない. それらのエルデシュ数を管理するプロジェクトがある.そのに行けば,年代順のリストもアルファベット順のリストも見ることができる.管理しているJerry Grossmanがオークランド大学を退職したため,アドレスが変わってホームページで続けられている.
 数論,集合論,確率論,解析学,グラフ理論など.ベルトランの公準や素数定理の初等的解法で有名.美しい証明に厭くことなき執念を持つ.よい定理には美しく自然で簡明な証明が必ずある.それは『天書(The Book)』に書かれている,というのが口癖だったという.その天書で自分に見える部分を書こうというアイデアを実現している途中で死んだので,アイグナーツィーグラーが遺志をついで完成したのが『天書の証明』(Proof of The Book) である.
 最近伝記が日本語に翻訳された. エルデシュ・モーデルの不等式,エルデシュ・ハイルブロン予想(Hans Heilbronn,1964;1994年に解決). コープランド--エルデシュ定数,エルデシュ--トゥラーン予想,エルデシュ・ファーバー・ロヴァース予想,エルデシュ--フックスの定理,エルデシュ・グレアムの問題,エルデシュ・カッツの定理,エルデシュ・コーラドー型定理,エルデシュ賞,エルデシュの問題,エルデシュ・セケレシュの定理,エルデシュ・シュトラウス予想(1948)などエルデシュの名を冠するものは多い.
文献(エルデシュの論文は山ほどある.僕の著訳書の中で触れられているものだけにしておく)
  1. チェビシェフの定理の証明」(Beweis eines Satzes von Tschebyschef), Acta Sci. Math. (Szeged) 5(1930-32), 194-198.
  2. シルヴェスターシューアの定理」(A theorem of Sylvester and Schur), J. London Math. Soc. 9 (1934), 282-288.
  3. 「幾何学における1つの組み合わせ問題」(A combinatorial problem in geometry), Compositio Math. (1935), 463-470. G. セケレシュと共著.
  4. 「級数 Σ 1/p について」(\"Uber die Reihe Σ 1/p ), Mathematica, Zutphen B, 7 (1938), 1-2.
  5. 「実根しか持たない多項式について」(On polynomials with only real roots), Annals Math. 40 (1939), 537-548. T.グリュンワルドと共著.
  6. 「問題4065 --- 3点共線性」(Problem 4065 --- Three point collinearity), Amer. Math. Monthly, 51 (1944), 169-171.
  7. リトルウッドオフォードの補題について」(On a lemma of Littlewood and Offord), Bulletin Amer. Math. Soc. 51 (1945), 898-902.
  8. 「グラフ理論におけるいくつかの注意」(Some remarks on the theory of graphs), Bulletin Amer. Math. Soc., 53 (1947), 292-294.
  9. 「ある組み合わせの問題」(On a combinatorial problem), Proc. Kon. Ned. Akad. Wetensch., 51 (1948), 1277-1279. N. G. ド・ブラウンと共著.
  10. 「素数定理の初等的な証明に導く初等整数論の新しい方法について」(On a new method in elementary number theory which leads to an elementary proof of the prime number theorem), Proc. Nat. Acad. Sci. U.S.A., 35 (1949), 374-384.
  11. ディオファントス方程式について」(On a diophantine equation), J. London Math. Soc. }{\bf 26} (1951), 176-178.
  12. 「グラフ理論と確率」(Graph theory and probability), Canadian J. Math., 11 (1959), 34-38.
  13. 「ランダムグラフの発展」(On the evolution of random graphs), Magyar Tud. Akad. Mat. Kut. Int. K\"ozl., 5 (1960), 17-61. A.レニイと共著.
  14. 「有限集合の系に対する交差定理」(Intersection theorems for systems of finite sets), Quart. J.\ Math. (Oxford), Ser. (2), 12 (1961), 313-320. C.コー,R. ラドーと共著.
  15. 「ある組み合わせ問題 I」(On a combinatorial problem I), Nordisk Math. Tidskrift, 11 (1963), 5-10.
  16. 「連続体仮説に関連した補間問題」(An interpolation problem associated with the continuum hypothesis), Michigan Math. J. 11 (1964), 9-10.
  17. 「グラフ理論のある問題について」(On a problem of graph theory, Studia Sci. Math. Hungar. 1 (1966), 215-235. A.レニイV. ソスと共著.(友情定理の証明)
  18. トゥラーンのグラフ定理について」(On the graph theorem of Tur'an)(ハンガリー語), Math. Fiz. Lapok, 21 (1970), 249-251.
  19. 「交差数問題」(Crossing number problems), Amer. Math. Monthly, 80(1973), 52-58. R. K.ガイと共著.
  20. 「グラフにおける選択可能性」(Choosability in graphs), Proc. West Coast Conference on Combinatorics, Graph Theory and Computing, Congressus Numerantium, 26 (1979), 125-157. A. L.ルービンH.テイラーと共著.
  21. 「d次元ユークリッド空間における n 点の間の最大角」(The greatest angle among n points in the d-dimensional Euclidean space), Annals of Discrete Mathematics 17 (1983), 275-283. Z. フュレディと共著.
 [珠訳序,2.3, 説2.2.4-5],[天0,1,2,3,8,9,13, 15-18, 21,22, 26,27,29, 31,32],[伝7,9],[幾7],[50.21],[天VI序1-3,11,12,17,19,20,23,25,28,30,38,39,41,43,44,45] トップ

エルミート、シャルル(Charles Hermite, 1822.12.24-1901.1.14).
 フランス、ロレーヌ、ディユーズに生まれ、パリに死す。
 右足が不自由なためにエコール・ポリテクニクを中退するも、後に母校で教えるようになり(1848-76)、さらにエコール・ノルマル(1869)、ソルボンヌの教授(1870)。
 e が超越数であることの証明(1873)、楕円関数を5次方程式に応用。2次形式の整数論。エルミート多項式、エルミート微分方程式、エルミート内積、エルミート行列、エルミート形式など名前を冠した数学的対象も多い。中学生のとき、アーベルの業績を知らずに、5次方程式の不可解性の証明にチャレンジしたという。[解II. 5-6], [名2, 4], [代10, 15, 17-19], [天6], [伝1,3,4,5,6,7], [辞], [クI.3.4], [天VI.8] トップ

エレグァルシュ(Yves Hellegouarch).
 フランス,カン大学, SDAD(離散構造とディオファントス解析)教授.フェルマ曲線と楕円曲線の関連を指摘し,フェルマの最終定理解決への道筋をつける.  [名3] トップ

エンゲル(Friedrich Engel, 1861.12.26-1941.9.29.)
 ドイツ,ルガウに生まれ,ギーセンに死す. ライプツィヒ大学とベルリン大学に学び,ライプツィヒから接触変換に関する研究で学位(1883).ライプツィヒでF.クラインに学び,彼の推薦で,S.リーに協力すべくクリスチャニアに赴く.後クラインの後任となったリーとの協力はライプツィヒ大学でも継続する.グラスヴァルド大学教授(1904),ギーセン大学教授(1913-31).非ユークリッド幾何学.ロバチェフスキーの理論の翻訳と普及.微分幾何学,連続群論.離散群,偏微分方程式,プァッフ方程式.リー・エンゲルの定理.
 著書にリーとの共著『変換群論 全3巻』Theorie der Transformationsgruppen (1888-93) があり,非ユークリッド幾何学の歴史に関する2冊の本をP.シュテッケルとともに書く.リーの全集(6巻,1922-1937)とグラスマン全集の編集.  [代コ], [ワ2, 8], [伝5], [クII.3.2] トップ

エンツェンスベルガー(Hans Magnus Enzensberger, 1929.11.11-). シュヴァーベン地方のカウフボイレンの生まれ.エアランゲン,フライベルク,ハンブルク,ソルボンヌの大学で文学と哲学を学び,1955年にクレメンス・ブレンターノの詩をテーマにした論文で博士号を取得.ブレヒト以後の重要な社会派詩人と言われる.現代社会への文明批判.作家,詩人,批評家,翻訳家.
 数学に関連しては,Der Zahlenteufel(1997)『数の悪魔』(晶文社,2000,丘沢静也訳)と Zugbrücke außer Betrieb: Die Mathematik im Jenseits der Kultur(1999) 『数学者は城の中?』(上がったきりの跳ね橋-数学は文化の外に?,渡辺正訳)日本評論社(2003)とがある. [幾1] トップ

エンリケス,フェデリゴ(Federigo Enriques, 1871.1.5--1946.6.14.)
 イタリア,トスカナ公国,リヴォルノに生まれ,ローマに死す.
 1891年にスクオラ・ノルマーレ・ディ・ピサからベッティG.カステルヌーヴォの指導で代数幾何の話題でラウレア取得.
 代数幾何のイタリア学派の終わりの始まりを,厳密な証明の必要性に対するエンリケスの尊大な姿勢が示している.エンリケスは
「我々貴族には証明など必要ない.証明は君たち平民のためにある」
と言ったという.
 トリノ大学射影幾何と画法幾何教授,ボローニャ大学射影幾何と画法幾何教授、ローマ大学高度幾何教授.  [伝8,9,10],[辞],[クI.1.3,3.4],[クII.3.2,3.3,付A] トップ
トップへ 



オーア,オイシュタイン (Öystein Ore, 1899.10.7-1968.8.13)
 ノルウェー,オスロの生まれ.オスロ大学卒業(1924),同大学教授(1926-28).アメリカに渡り,エール大学教授(1929-45).その後ノルウェーに帰る.数理論理学,グラフ理論(4色問題),トポロジー,代数学,整数論,数学史.
 日本語の本には『やさしくくわしいグラフ理論入門』(大石泰彦訳)日本評論社(1993),『アーベルの生涯-数学に燃える青春の彷徨』(辻雄一訳)東京図書(1974),『カルダノの生涯-悪徳数学者の栄光と悲惨』(安藤洋美訳)東京図書(1978)がある.ドーヴァー版の『アルス・マグナ』に前書き.  [名8], [率0] トップ

オイラー、レオンハルト(Leonhard Euler, 1707.4.15-1783.9.18).
 スイス、バーゼルに生まれ、ロシア、サンクト・ペテルブルグに死す。
 ヨハン・ベルヌーイの弟子。ペテルブルグ(27-41)、ベルリン(41-66)、ペテルブルグ(66-83)のアカデミーに。66年に全盲となるも、死ぬまで活発な研究を続ける。朴訥な人柄で、子供は13人。赤ん坊を抱え、子供を足元で遊ばせながら数学をしたと言われている。天王星の軌道計算の途中,孫を呼びにやり,お茶をすすりながら話をしているとき、突然「死ぬよ」と周りに告げ,穏やかに「生きることと,計算することを止めた」という。
 数学史上最大の多作家。解析学,代数学,整数論,確率論,複素関数論,変分法.ケーニヒスベルクの橋を一筆書きする問題や凸多面体の面・辺・頂点の数の関係式(オイラー標数)で、グラフ理論とトポロジーの祖となる。オイラー類,オイラー定数,オイラー方程式.
 天文学(日蝕の計算,月の新理論),航海学(船のローリングやピッチングの理論),流体動力学(気球の飛行計算),屈折光学(レンズの理論).
 フランスの物理学者アラゴー(は、オイラーを「解析学の化身」と称え、
 「人が息をするように、鷲が空を舞うように、オイラーは計算をした」
と言っている。

文献
  1. 『同じ種類の無限の曲線についての論文への補遺』( Additamentum ad dissertationem de infinitis curvis eiusdem generis), 『ペテルブルグ・アカデミー紀要』7(1734/5), 1740, p.184-200.『全集』22, p.57-75. オイラーの例では y2=ax のようにパラメータを含んで、無限個の曲線を1度に表わし、a に関して微分も積分もできるという状況を表わしている。それは本書の程度を越えているが、変数を括弧に入れた関数の記号 f(x) の初出文献として引用されている。
  2. 『同じ種類の無限の曲線、または同じ種類の無限の曲線に関する方程式を見つける方法について』( De infinitis curvis eiusdem generis seu methodus inveniendi aequationes pro infinitis curvis eiusdem generis),『ペテルブルグ・アカデミー紀要』7(1734/5), p.174-179, 180-183. 『全集』7, p.36-56.
  3. 『級数の和に関する普遍的な方法再論』(Methodus universalis series summandi ulterius promota), 『ペテルブルグ・アカデミー紀要』8(1736), p.147-158.『全集』24, p.124-137.
  4. 『力学、または解析的科学によって記述された運動、その補遺と注釈』(Mechanica, sive motus scientia analytice exposita: instar supplementi ad commentar), 『ペテルブルグ・アカデミー紀要』(1736). 『全集』Ser.2, vol.I-II.
  5. 『円の求積を数で近似する色々な方法』(De variis modis circuli quadraturam numeris proxime exprimendi), 『ペテルブルグ・アカデミー紀要』9(1737), p.222-236.『全集』14, p.245-259.
  6. 『連分数論』(De fractionbus continuis dissertatio), 『ペテルブルグ・アカデミー紀要』9(1737), p.98-137.『全集』14, p.187-215.
  7. 『2乗の逆数の和』(De summis serierum reciprocarum), 『ペテルブルグ・アカデミー紀要』7(1734/5), 1740, p.123-134.『全集』14, p.73-86.
  8. 『自然数のベキの逆数の級数の和について、また同じ和がまったく異なった源から導かれることについての論文』(De summis serierum reciprocarum ex potestatibus numerorum naturalium ortarum dissertatio altera in qua eaedem summationes ex fonte maxime diverso derivantur), Miscellanea Berolinensia, 7(1743), p.172-192.『全集』14, p.138-155.
  9. 『高次の微分方程式の積分について』(De integratione aequationum differentialium altiorum graduum), Miscellanea Berolinensia, 7(1743), p.173-242.『全集』22, p.108-149. またオイラーからヨハン・ベルヌーイへの1739年9月15日の手紙も参照のこと。
  10. 『発明の方法』 (Methodus inveniendi)(1744).
  11. 『最大または最小を持つ曲線を見つける方法、または広い意味で理解される等周問題の解法』(Methodus inveniendi lineas curvas maximi minimive proprietate gaudentes sive solutio problematis isoperimetrici latissimo sensu accepti), Lausannae & Genevae(1744),『全集』(カラテオドリの序文あり)24, p.1-308.
  12. 『無限解析入門』(Introductio in analysin infinitorum), 第1巻, Lausanne 1748, 『全集』8. 仏訳(1785,1796)、独訳(1788,1885)、英訳(ブラントン訳,1988)
  13. 『楕円の求長に関する検討』(Animadversiones in rectificationem ellipsis), Opuscula varii argumenti, 2(1750), p.121-166;『全集』20. p.21-55.
  14. 『高次の微分方程式の方法再論』(Methodus aequationes differentiales altiorum graduum integrandi ulterius promota), 『新・ペテルブルグ・アカデミー紀要』3(1750), p.3-35;『全集』22, p.181-213.
  15. 『負の数と虚数の対数に関するライプニッツ氏とベルヌーイ氏の論争について』(De la controverse entre Mrs. Leibniz et Bernoulli sur les logarithmes des nombres negatifs et imaginaires),『ベルリン科学アカデミー会報』5(1751), p.139-179. 『全集』17. p.195-232.
  16. 『微分法、およびその有限解析と級数論への応用』(Institutiones calculi differentialis cum eius vsu in analysi finitorum ac doctrina serierum),『ペテルブルグ・アカデミー紀要』(1755)。『全集』10
  17. 『流体の運動の一般原理』(Principes generaux du mouvement des fluides),『ベルリン科学アカデミー会報』11 (1755), p.274-315; 『全集』第II集12, p.54-91.
  18. 『積分法 I』(Institutionum Calculi Integralis), 第1巻(1768)。『全集』11
  19. 『積分法 II』(Institutionum Calculi Integralis), 第2巻(1769)。『全集』12
  20. 『2重積分の公式について』(De formulis integrabilius duplicatis),『新・ペテルブルグ・アカデミー紀要』14 (1769):I,1770, p.72-103;『全集』17. p.289-315.
  21. 『代数の完全入門』(Vollstandige Anleitung zur Algebra), von Hrn. Leonhard Euler, St. Petersburg, gedruckt bey der Kays. Acad. der Wissenshaften, 1770.『全集』1.
  22. 『全集』(Opera omnia), 4シリーズで80巻以上。数学の業績は第 I 集の中にある。Teubner出版社、ライプツィッヒとベルリン、後に Fussli出版社、チューリヒ。
 [解文, I.0-6, II.1-2, 4-10, III.0, 3, 7-8, IV.4-5, 文], [パ4, 21-22, 24], [名序, 1-3, 5-6, 15-19, 21, 附E], [ト序, 6, 文], [珠訳序, 2.2, 説1.5-7, 3.2.1-3, 3.11],[代2-3, 8, 11, 15, 17, 19, 21-22],[黄5],[代入1,2,3,4,5,7],[天1,2,6,7,8,10,11,19,27,32],[ワ11],[伝1,2,3,4,5,610],[フ3,13,20,24,序],[辞], [ふ6],[作3,4,付B], [幾序,2-11,解],[ワ著1],[50.2,5,9,16,18,22,30,32,384],[クI.1.3,1.4,1.5,2.2,3.1,3.2,3.3,3.4],[クII.1.4,2.1,2.3,3.1,附1],[天VI序,1,2,5,9-11,13,14,26,32,34,39,45],[基11,12,15] トップ

欧陽修(Ouyoushu, Ouyang Xiu, Ou-yang Hsiu, 1007.6.21-1072.7.23). 綿州(現在の四川省綿陽市)に生まれ,潁州(安徽省)に死す.
 北宋仁宗から神宗期の政治家,詩人・文学者,歴史学者.字は永叔,号は醉翁,六一居士,謚号は文忠.唐宋八大家の一人.
 王安石の新法を早くから支持していたが,新法実施後は逆に強力な反対派の1人に,特に青苗法に対してきびしい.嘉祐2年(1057)の科挙の監督をして、蘇軾を見いだす.
 散文では韓愈に倣い,古文復興運動をすすめ,詩では,晩唐の絢爛たる文体を避け,盛唐期の威風を残した無駄のない質実剛健なもの.
 江戸期には欧蘇と称し,蘇軾とともに,名文家の代表とされた.  [文2] トップ

オヴシエンコ(Valentin Yu. Ovsienko). モスクワ大学からA.A.キリロフの指導で学位(1989).
 エクス=マルセーユ大学,クロード・ベルナール=リヨン1大学,表現論,
 『射影微分幾何学の今昔 シュヴァルツ微分から微分同相群のコホモロジーまで(Projective differential geometry, old and new: from Schwarzian derivative to cohomology of diffeomorphism groups\/})』(2005,タバチニコフと共著),『幾何と物理における軌道法:A.A.キリロフ記念号(The Orbit Method in Geometry and Physics: In Honor of A.A. Kirillov)』(2003,A.A.キリロフ,C.デュヴァル,L.グィユーと共著).
 射影微分幾何,離散可積分系,代数的組合せ論,ベクトル場のリー環と微分同相群のコホモロジー,次数付き可換代数  [フ文] トップ

大久保忠寛(Ookubo Tadahiro, 文化14年11月29日(1818.1.5)-明治21年(1888)7月31日). 旗本の大久保忠尚の子として江戸に生まれ,東京に死す.
 幼名は市三郎,諱は12歳で三四郎忠正,31歳で忠寛に,慶応元年(1865)2月11日、隠居して剃髪し,一翁と号す.
 徳川家斉の小姓,天保13年(1842)に家督相続.嘉永7年(1854)2月老中・阿部正弘の登用で七番組徒頭.ペリー来航に際し,幕臣に広く意見を求め,意見書を出した勝海舟に注目,阿部に登用を勧め,以降勝との交友を深める. 安政元年(1854)5月9日,目付・海防掛に任じられる.
 安政3年(1856)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取(安政3年(1856)11月20日-)などを歴任し、駿府町奉行・京都町奉行なども務めた.
 安政3年(1856),大久保の諮問に答える形で内田五観が『詳証学入式条目』を書き,詳証学の目的と階梯を述べている.
 安政の大獄には反対の立場で失脚,井伊直弼暗殺後,江戸城無血開城にも貢献.その後,徳川家達に従って駿河に移住し、駿府藩の藩政を担当.また,東京府の第5代知事なども勤めたが,新政府とはある程度の距離を保った.  [文2] トップ

大隈重信(Ōkuma Shigenobu, 天保9年2月16日(1838.3.11) - 大正11年(192)1.10). 佐賀藩肥前国佐賀城下会所小路(現在,佐賀市水ヶ江)に生まれ,東京,早稲田に死す.
 父は佐賀藩士の大隈信保,知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士.幼名は八太郎.の長男
 参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・11・14・29代)、農商務大臣(第13代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任.早稲田大学の創設者で初代総長.
 7歳で藩校弘道館で『葉隠』に基づく儒教教育を受け,枝吉神陽から国学を学び、安政3年(1856)佐賀藩蘭学寮に転じ,文久元年(1861)蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた. 慶応元年(1865)、長崎の五島町の佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)で、副島種臣(1828.10.17-1905.1.31)と共に学生監督となって,フルベッキに英語を学ぶ.  [文3] トップ

緒方洪庵(Ogata Koan, 文化7年7月14日(1810.8.13)-文久3年6月10日(1863.7.25)). 備中国足守藩に生まれ,江戸の医学所頭取役宅に死す. 諱は惟章(これあき),または章(あきら),字は公裁、号は洪庵,適々斎,華陰.
 足守藩下級藩士・緒方瀬左衛門の三男として生まれる.8歳のとき天然痘にかかる.
 文政8年(1825)大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂に出る.
 天保2年(1831)江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。天保7年(1836)、長崎へ遊学しオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学ぶ.
 天保9年(1838)春、大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業し,同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く.
 弘化2年(1845)過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し適塾を移転.
 嘉永2年11月7日(1849.12.21)、その6日前に京に赴き佐賀藩が輸入した種痘を得、古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める.
 安政5年4月24日(1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し牛痘種痘を免許制とした.
 万延元年(1860)には門人の箕作秋坪から英蘭辞書二冊を購入し英語学習も開始.
 文久2年(1862),江戸幕府奥医師および西洋学問所頭取となり、江戸に移住.
 弟子が多く,例えば,福澤諭吉箕作秋坪,大鳥圭介、橋本左内、村田蔵六(大村益次郎),長与専斎、佐野常民、杉亨二,高松凌雲,手塚良仙(良庵),池田謙斎,箕作佳吉など.
 扶氏経験遺訓(安政4) 3 冊 付 Hufeland, Christoph Wilhelm (1762-1836) Enchiridion medicum. 2e [druk] 1838. 日本最初の病理学書『病学通論』を著す.安政5年(1858)のコレラ流行に際しては『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を出版し医師に配布.  [文1] トップ

岡本則録(Okamoto Norifumi, 1847.12.7(弘化4年10月30日)ー1931(昭和6)).
 和算家,長谷川弘(1810--1887)の弟子.
 明治10年(1877年) 日本初の学会「東京数学会社」(後の数学物理学会)設立.初代社長は神田孝平柳楢悦. 1878年5月に柳は洋行のため辞めその後任の社長に.
 内田五観の死後,その顕彰碑を作るという話が出て,会社としても協力して若干の金を贈りたいと、社長の岡本が提案し賛成されたが,実際には碑は建てられなかった.
 訳語会でも活躍,彼の提案で決まった訳語も多い.例えばunitの「単位」,axiomの「公理」,mathematicsの「数学」など.
 訳書に『幾何初歩』4冊(1876),『査氏微分積分学』(1883年) .遠藤利貞や三上義夫の和算史の研究に助力.蔵書を東北大学に寄付.昭和7年(1932)に約7,500点を収録した『日本学士院蔵 和算図書目録』を編集.
 :砲工学校の数学担当陸軍教授(明治22年10月1日-明治23年7月17日),大阪師範学校長,学習院学監,松山中学校長,成城小学校長など.
 彼は江戸期の和算から明治になって洋算に転じた人は多く教育に携わることになる.「東京数学会社」に集った1つのグループの代表であった.それらの中の関口開、市郷弘義、上野継光らは学校の教師に,川北朝鄰などは教師の傍ら出版に取り組んだ.旧幕時代から数学の塾を開いていた内田五観福田理軒,またその弟子たちも多く,創立集会に出席した中の和算関係者は83名だった.  [文プ2] トップ

荻生徂徠(Ogyu Sorai, 寛文66年2月16日(1666.3.21)-享保13年1月19日(1728.2.28)). 名は双松なべまつ,字は茂卿しげのり,通称は総右衛門,号は徂徠,蘐園.江戸に生まれ,江戸に死す.父は将軍綱吉の侍医・荻生景明,弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓.
 儒学者・思想家・文献学者.朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派)を確立.経世論の初め.柳沢吉保や8代将軍徳川吉宗への政治的助言者.日本思想史のなかで政治と宗教道徳の分離を推し進めた意義.
  『水神童に復す』(『徂徠集』[初刊は元文五(1740)年]所収.水神童とは熊本藩の人で水足博泉(1707--32),16歳のとき徂徠からその天才ぶりを誉められている.)の中で
今の数学者流を観るに、種々の奇巧を設けて,以ってその精微を誇る.その実は世に用無し
と批判し,さらに, 円周率をどれほどの精度で求めたとて,正しいものは得られず,役に立たぬほどの微細さを競うのみ,ということが述べられている.  [文2] トップ

奥村喜三郎(Okumura Kizsaburo, ). 名は増貤ますのぶ,字は伯保,号は城山. 暦算家,測量家.江戸の生まれ.増上寺御霊屋領代官
 蘭学を高野長英に,和算を丸山良玄,本多利明に,測量を伊能忠敬に学ぶ.
  天保9年10月5日の尚歯会の例会に、内田五観と奥村は二人で制作した測量器具「経緯儀」を持参した。 伊能忠敬の測量隊に参加し測量の実務能力もある.
 鳥居耀蔵と平行して,江戸湾見分を命じられた江川太郎左衛門英龍が,崋山に測量技術者の推薦を依頼し.内田と奥村喜三郎を推挙したのが天保9年12月23日. 最初は勘定奉行によって許可されなかったが,後水野忠邦の名で,参加を認められ,江戸を出発したのが天保10年1月29日.だが,奥村は途中から帰される.
 奥村の『量地弧度算法』天保7(1836)年に,内田五観の序文があり,観斎内田先生著の『照海鏡』に城山奥村先生訂がある.『廻船宝富久呂』天保10(1839)年,『経緯儀用法図説』
 [文2] トップ

オークリー(Cletus Odia Oakley, 1990?-1990.11.12).
 イリノイ大学アーバナ=シャンペーン校からRobert Daniel Carmichaelの指導で「導関数の絶対値を含む微分方程式(Differential Equations Containing Absolute Values of Derivatives)」によりPh.D.取得(1929). ミシガン州チェルシーの老人福祉施設で,アルツハイマーにて死亡.
 ブラウン大学(1929-1934),ハーヴァーフォード大学(1934),数学科主任(1942-64).
 15冊の教科書,内7冊はアレンドルファーとの共著で,"Principles of Mathematics" と "Fundamentals of Freshman Mathematics"がある.モーレーの定理に関する論文  [幾4] トップ

オザナム、ジャック(Jacques Ozanam, 1640-1717.4.3).
 フランス、ブレス、ブーリニューに生まれ、パリに死す。
 父親に聖職につくよう強要され神学を学ぶも、数学と科学に惹かれ独学し、父の死後、神学を学ぶのを止め数学の教師となる。リヨンで教えているときは貧乏教師だったが、パリに出て大いに成功した。
 レクリエーション数学の元祖として、『数学と物理的レクリエーション』4巻(1694)は版を重ね、今日にいたるまで、面白い数学に関する本の種本になっている。そのほか、解析学、地図製作、軍事技術などに関する本も書いている。

16枚の絵札を並べて、各行と各列にスーツも絵柄も1つずつになるように並べなさい。
 トップ

オスカル2世(Oskar II, 1829.1.21--1907.)
 スウェーデン王(在位:1872--1907),ノルウェー王(在位:1872--1905).スウェーデン・ノルウェー併合期(1814--1905)の王で,数学を学び,新設のアクタ誌を後援. 60歳の誕生日(1889.1.21)を記念し,4つのテーマに関する数学の懸賞コンテストを行う.ミッタク・レフラーが企画し,審査委員は他にC.エルミートワイエルシュトラス.審査委員に選ばれなかったクロネッカーが不満を表明.最優秀論文にポアンカレが受賞. [伝]   トップ

オスターマン(Alexander Ostermann, 1960.8.7-). オ―ストリア,インスブルックの生まれ.
 グラマースクール(Akademisches Gymnasium Innsbruck)(1970-1978),1978年に大学入学資格,徴兵(1978-79),インスブルック大学magistra(1984).  インスブルック大学から,Peter Kaps(G.ヴァンナーの弟子)の指導で,「Über die Wahl geeigneter Approximationen an die Jacobimatrix bei linear-impliziten Runge-Kutta Verfahren(線形陰的ルンゲ・クッタ法におけるヤコビ行列の適切な近似の選択について)」により,自然科学博士号取得(1988).
 著書にM. Oberguggenbergerとの共著『Analysis für Informatiker(コンピュータ科学者のための解析学)』(2005),第2版(2009),その英訳Analysis for Computer Scientists. Springer-Verlag, London (2011) ,またG.ヴァンナーとの共著『 Geometry by Its History(幾何教程)』(2012). [幾序,7,文] トップ

オーステルホフ(Luitzen Johannes Oosterhoff, 1907.4.6-1974.7.20). オランダ,レーワルデンに生まれ,ライデンに死す.
 ライデン大学で化学を学ぶ.1937年に卒業後,パタビア石油会社に勤務.戦後はアムステルダムのシェル研究所に. クラマース(Kramers)の指導でRestricted free rotation and cyclic molecules(制限自由回転と環状分子)により博士号(1949). ライデン大学の正教授(1967),1971年までシェルの顧問.オランダ王立芸術科学アカデミー会員に(1963).チューリヒ大学から名誉博士号(1974). 
 幾何との関わりは立体の構造.五角形定理.[幾10]   トップ

オストログラツキー(Mikhail Vasilevich Ostrogradski, 1801.9.24--1862.1.1.).
 ウクライナ,パシェンナヤ(現在ポルタヴァ州)に生まれ,ポルタヴァに死す.
 ポルタヴァの中学,ハリコフ大学で学ぶも,反宗教的な立場のせいで大学の卒業を認められず,パリに留学.帰国(1828)後,ペテルブルグに定住し,海軍兵学校,運輸技術大学,高等工業学校,高等師範学校で教える.ブニャコフスキーチェビシェフとともにペテルブルグ学派の創始者.
 微積分法,解析力学,代数学,幾何学,確率論,整数論,数理物理学,微分方程式,弾道学など.体積分を境界の面積分に変えるガウス・オストログラツキーの公式.熱伝導のフーリエの方程式を底面が直角2等辺三角形である角柱の場合に解く.  [伝6],[辞] トップ

オストロフスキー(Alexander Markovich Ostrowski, 1893.9.25-1986.11.20).
 ウクライナ,キエフに生まれ,スイス,ルガノ,モンタニョーラに死す.
 父がキエフの商人であったので,小学校の後,キエフの商業学校に入る.彼が15才のとき,数学教師が彼の才能を認め,キエフ大学のグラーヴェ(1863.9.6-1939.12.19)に紹介し,そのセミナーの正式なメンバーとなる.グラーヴェの指導の下,ガロア体に関する結果を得る.商業学校卒業後,グラーヴェの強い推薦にも拘らず,大学に進学することができなかった.そこで,ランダウヘンゼルに手紙を書き,双方からドイツへの招待を受ける.ヘンゼルの招きを受け,1912年マールブルグ大学に入学,ヘンゼルの指導を受ける.順調に行っていたが,第1次世界大戦が勃発,敵性外国人とみなされる.ヘンゼルの奔走により,追放は免れたが,行動は制限され,図書館の利用だけが許される.戦争の間,図書館で数学雑誌を読みふけり,これが却って良かったと,後になって書いている.
 1918年に終戦になり,ドイツ各地を巡り,ゲッティンゲンに至る.  F.クラインヒルベルト,ランダウの影響を受ける. ゲッティンゲン大学から,ランダウF.クラインの指導で,『ディリクレ級数と代数的微分方程式について(Ueber Dirichletsche Reihen und algebraische Differentialgleichungen)』により哲学博士号取得(1920). ,学位を取得(1922).Mathematische Zeitschrift に載った学位論文はヒルベルトの第18問題を解く基になる.
 1920年ハンブルク大学でヘッケの助手になり,多項式環上の加群について研究.1922年に教授資格を得,23年からゲッティンゲンで講義資格を得る.ロックフェラー奨学生になって,192-26年にはイギリス各地の大学を訪れる.バーゼル大学教授(1929-58)になるまでゲッティンゲンを再訪せず.
 第2次大戦中は中立国のスイスにいたお蔭で,あまり辛いことはなかったが,ドイツの出版社とはうまくいかず,そのためバーゼルの出版社であるBirkhauser社と関係を持つことになり,後に同社が世界有数の数学書出版社になる原因になる.
 1949年にユングの弟子で精神分析家のマーガレット・サクスと結婚.夫人の内助よろしく,その後は穏やかに,そして数学に専心したと言う.
 業績は多く,記録されるべき出版物だけでも275ほどある.量だけでなく,幅も広く,質も高い.代数学(固有値の近似解,ガロア理論),整数論(ウェアリングの問題,ディオファントス方程式),実関数論,微分方程式,函数解析,関数論(共形写像),幾何学,トポロジー,変分法,数値解析など. [代7]、[辞]、[クI.2.2]、[天VI.22] トップ

小関三英(Ozeki Sanei, 天明7年6月11日(1787.7.25)-天保10年5月17日(1839.6.27)). 出羽国鶴岡に生まれ,江戸に死す.(「こせきさんえい」とも言う)
 幼名は弁助,名は好義,通称は良蔵,号は鶴斎,鶴洲,篤斎など
 江戸で蘭医吉田長淑(1779-1824)・馬場佐十郎に蘭学を学ぶ.コンスブルフの内科書を和訳して『泰西内科集成』を上梓.シーボルトに学んだと言われていたが,その根拠はないらしい.
 天保3年(1832)和泉国岸和田藩医となり,天保5年(1833)幕府の天文方阿蘭陀書籍和解御用となる.このころ渡辺崋山高野長英と親交をもち、尚歯会に参加、歴史や地理を講じる.蛮社の獄の際、崋山の入牢などを聞いて自害.崋山に『耶蘇伝』を口訳したことなどから連坐を恐れたものらしいが,その必要はなかったのではないかと思われる.
 リンデン著『那波列翁伝』の,『新撰地誌』,『西医原病略』,『輿地誌』など.
 [文2] トップ

オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer, 1904.4.22-1967.2.18). アメリカ,ニューヨークに生まれ,ニュージャージー州プリンストンに死す.
 ハーバード大学を化学で3年で最優等で卒業後(1925),ケンブリッジ大学に留学,、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学ぶ.ニールス・ボーアと出会い理論物理学に転向,ゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得した。マックス・ボルンと共同研究で,分子を量子力学的に扱う「ボルン・オッペンハイマー近似」.1929年にカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授になり,1936年に教授.
 1930年代には,トルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界(中性子が縮退した星(中性子星)の質量の上限)(<白色矮星におけるチャンドラセカール限界).  1942年から,マンハッタン計画を主導.1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長になり,原爆製造研究チームを主導.
 1947年プリンストン高等研究所所長.1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職.
 陽電子の予知、トンネル効果の発見.
 弟子も多い. [50.24] トップ

オデーナル(Boris Odehnal).
 ウィーン工科大学からHelmut Pottmannの指導で「線叢に対する幾何的最適化法(Geometric Optimization Methods for Line Congruences)」により工学博士号取得(2002).
 ウィーン工科大学助教授.   [幾4]   トップ

オドム(George Odom).
 黄金比の作図が知られている. [黄7]   トップ

オートレッド、ウィリアム(William Oughtred, 1574.3.5-1660.6.30).
 イギリス、バッキンガムシャー、イートンに生まれ、サレイ、アルバニーに死す。
 イートン校からケンブリッジのキングズ・カレッジに(1592)、3年後フェローになり、3年後B.A.を、4年後(1600)M.A.を取得する。1603年以降監督教会の牧師となり、1610年以降アルバニーの教区牧師となる。当時イートンやケンブリッジでも数学を教えることが少なく、独学で勉強する。
 計算尺の発明(1630,1632)で有名(現在の形の計算尺は1850年、フランスの陸軍士官アメデー・マンハイムの設計による)。 現在の加減乗の記号、小数、比例の記号、不等号などの工夫、特に掛け算の × は現在でもそのまま用いられている。円周率ではなく円周そのものにだが、π を使用する。 弟子に、ジョン・ウォリスクリストファー・レン、リチャード・デラメインなど。
ニュートンが「彼の判断は信頼がおける」と評したという.
文献
  1. 『数学の鍵』(Clavius mathematicae, ロンドン,1631).
  2. 『算術と規則』 (Arithmeticae in numeris et institutio, ロンドン,1631).
  3. 『円周率と水準器』 (The cirles of proportion and horizontal instrument, ロンドン,1632){この訳は自信ない}
  4. 『三角法』 (Trigonometrica, 1657).
   トップ

小野友五郎(Ono Tomogoro, 文化14年10月23日(1817.12.1) - 明治31年(1898)10.29).
 笠間藩士小守宗次の三男として生まれ,同藩の小野柳五郎の養子となり、家督を継ぐ。同藩の算学者甲斐駒蔵に入門し和算を学ぶ.江戸詰めとなった際に長谷川弘に入門.
 嘉永5年(1852年)、師の甲斐とともに『量地図説』を著す。同年幕府天文方出仕となり、勤務の傍ら江川英龍に砲術や軍学・オランダ語を学んだ。オランダの航海術書を翻訳し『渡海新編』4巻として幕府に提出.
 安政2年(1855年)8月、測量・航海術および蘭語への精通を買われ、老中阿部正弘からの直命により、長崎に設置された幕府の海軍伝習所に入学。
 測量術の実践を16箇月の間学び、修了。江戸へ戻った後は築地の軍艦操練所教授方となる。
 万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換のための使節派遣の護衛および航海訓練として軍艦奉行木村芥舟を提督とする咸臨丸も派遣されることになった。小野も、同僚で海軍伝習所の同窓生であった艦長勝麟太郎(海舟)を補佐する測量方兼運用方(航海長)となって、アメリカ合衆国へ航海.
 軍艦奉行に対し、国産蒸気船の建造を具申し,万延2年(1861年、同年文久に改元)正月、小型蒸気軍艦の建造が許可,主任に任命された。
 同年7月、軍艦頭取となり、正式に幕臣となる。異国船防備のため江戸湾測量を行う。小野が咸臨丸艦長に任ぜられ、小笠原諸島の測量を行う.ジョン万次郎は航海士として同船.
 元治元年(1864年)6月には勘定吟味役に昇進。幕府主宰の横須賀製鉄所設立に関与。同年の第一次長州征伐および翌々年の第二次長州征伐で幕府陸軍動員にあたり、動員・補給計画に携わる。慶応三年(1867),小栗忠順の命により,軍艦購入のためアメリカに渡り,ワシントンで大統領にも会う.
 ストーンウォール号帰国後、勘定奉行並に昇進。名を内膳正と改める。新将軍徳川慶喜に仕え、京坂を往復するが、大政奉還後は江戸へ戻る.
 鳥羽・伏見の戦前の経緯から、小野が主戦派の首魁と目され、「重罪・厳科の処、格別の寛典を以て死一等を宥められ」永預(禁固)の刑を受ける。入獄中に、小野らが購入したストーンウォール号が到着。所有権は明治新政府に移管した。6月、徳川家の駿府藩への移封が決定された際、出獄を赦される。
 出獄後はしばらく自宅謹慎となるが、製塩技術の改良に興味.明治3年(1870年)正月、海軍省から出仕要請を受けるが、固辞。同年4月、民部省への出仕に応じ、准十二等。翌月准十等に任用。同省が手がけていた鉄道建設のための測量業務に従事。以後は海軍畑から離れ、民生方面へ業務に情熱を注ぐ。工部省発足後は同省へ移り、引きつづき鉄道業務に携わる.
 明治9年(1876年)には内務卿大久保利通に対し、中央天文台設置を建言。直ちに実現はしなかったものの、後に海軍の観象台と合わせ、東京天文台(現:国立天文台)に発展する。明治10年(1877年)1月退官し、家督を養子熊次郎に譲って隠居となる。東京数学会社発足時の社員.
 千葉県大堀村(現:君津市)の塩田跡地を借り受け、官許の下,製塩事業を開始、明治12年(1879年)竣工、翌年から試験操業を開始した。  明治23年(1890年)には旧幕臣栗本鋤雲らとともに、文部大臣芳川顕正に対し、漢字制限の提案を行っている。明治26年(1893年)には尋常小学校用の教科書『新撰洋算初歩』を編纂。
 [文プ] トップ

オバーン(T. H. O'Beirne).
 数学パズルの本『パズルとパラドクス』(1965)で有名. [天20] トップ

オフォード(Albert Cyril Offord, 1906.6.9-200.6.4). ロンドンに生まれ,オックスフォードに死す.
 ロンドン大学からLancelot Stephen Bosanquetの指導でThe Summability Of SeriesによりPh.D.取得(1932).ケンブリッジ大学からG.H.ハーディの指導でThe Theory Of Trigonometric IntegralsによりPh.D.取得(1936).
 ウェールズのバンガー大学(Bangor University)(1940-42),ニューカッスル・アポン・タインのキングスカレッジ(1942-48,1945に教授).ロンドン大学バークベック・カレッジ教授(1948-66).ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの最初の数学教授(1966-76).ロンドン大学インペリアル・カレッジ数学科名誉教授.整数論.リトルウッド,またエルデシュとの共同研究.
 リトルウッド・オフォードの問題,リトルウッド・オフォードの補題. [天18], [天VI.25] トップ

オーブリー(John Aubrey, 1626.3.12--1697.6.7). イギリス,ウィルトシャー,キングトン・セント・ミカエル(マームズベリー近郊)に生まれ,オックスフォードに死す.
 好古家で自然哲学者で作家.『名士小伝(Brief Lives)』の作者.考古学のパイオニアで,イギリスの数多くの巨石遺構を記録(スト-ンヘンジにはオーブリー穴を発見).
 マームズベリーのグラマースクールでロバート・ラティマーに学び,そのかつての教え子のトマス・ホッブスと出会う.後,ホッブスの伝記を書く.
 オックスフォード大学トリニティ・カレッジに進学(1642),内戦で中断したが,1646年にはミドル・テンプル(ロンドンのシティにある法曹院)に入学.
 主著『名士小伝』はオックスフォード大学のAnthony Wood(1632-1695)の伝記集編纂のための素材として集め始めたもの.フランシス・ベーコン、ロバート・ボイル、トーマス・ブラウン、ジョン・ディー、サー・ウォルター・ローリー、アイザック・バローエドモンド・ハリー、ベン・ジョンソン、トマス・ホッブズ、ウィリアム・シェイクスピアなどが扱われている.
 [50.27] トップ

オーム(Georg Simon Ohm, 1789.3.16--1854.7.6).
 バヴァリア(現在ドイツ領),エアランゲンに生まれ,ドイツ,バヴァリア,ミュンヘンに死す.
 エアランゲン大学で学位(1811)取得後,私講師に.バンベルグの学校教師(1812-1817),ケルンのイエズス会ギムナジウム教師(1817-1825)のときの弟子にディリクレがいる.ニュールンベルク工科大学物理学教授(1833),ミュンヘン大学物理学員外教授(1849),後正教授(1952).
 抵抗の概念を発見,オームの法則.ドイツでは長く彼の著作の数学的厳密性が理解されず,不遇だった. 『ガルヴァニーニ電池Die Galvanische Kette』(1827).   [列], [フ23] トップ  

オーム,マルティン(Martin Ohm, 1792.5.6--1872.4.1).
 バヴァリア(現在ドイツ領),エアランゲンに生まれ,ドイツ,ベルリンに死す.物理学者のオームの弟.
 エアランゲン大学からKarl Christian von Langsdorfの指導で,De elevatione serierum infinitarum secundi ordinis ad potestatem exponentis indeterminatiにより哲学博士取得(1811).
 トルン・ギムナジウム数学・物理学教授(1817),ベルリン大学教授(1839).建築学院(1824-1831),砲兵学校(1833-1852),軍学校(1826-1849)で講義をする.
 黄金分割の名前を考案,ab(a,b複素数)の理論.教科書『数学の完全に統一的な体系の試み』9巻本.ベルリン(1822-1852).
 弟子には,クリストッフェルバックマンハイネリプシッツ,ポッホハンマー(Pochhammer)などがいる. [クI.1.4] トップ

オルーク(Joseph O'Rourke).
 アメリカ,マサチューセッツ,ノーサンプトン,スミス・カレッジ,計算機科学科教授(1988-) .
 計算幾何学.最小境界箱
 グッドマン,Csaba Tóthと共編のHandbook of Discrete and Computational Geometry(第3版,2017)はよく知られている.『美術館定理とアルゴリズム(Art Gallery Theorems and Algorithms)』(1987).  [天28], [天VI.40] トップ

オルコック(Lara Alcock).
 ウォーリック大学卒,修士,さらにAdrian Paul Simpsonの指導でCategories, definitions and mathematics: Student reasoning about objects in analysisによりPh.D.取得(2001).
 アメリカのラトガス大学助教授の後イギリスに戻り,エセックス大学でTFをした後,2007年にラフバラー大学に移り,数学教育のreader,現在,数学教育センター長.
 センター員のマーク・ホッズ(Mark Hodds)とマシュー・イングリス(Matthew Inglis)とともに  『数学の基礎』の付録を書く. [基序] トップ

オールズ (Carl Douglas Olds,1912.5.11-1979)).
 ニュージーランド,ワンガヌイに生まれ,
スタンフォード大学からJ.V.ウスペンスキーの指導で「整数の平方を奇数個の平方の和としての表現の数(On the Number of Representations of the Square of an Integer as the Sum of an Odd Number of Squares)」によりPh.D.取得(1943).
 スタンフォード大学専任講師(1935-40),パーデュー大学助教授(1940-45),カリフォルニア大学サンホセ校(1945-引退).
 『連分数(Continued fractions)』(1963)は古典. 『数の幾何(Geometry of numbers)』(2000,A.ラックスとD.ダヴィドフと共著)はオールズの1973年の120ページのAMマンスリーの記事に基づいて書かれたもの. [フ文] トップ

オールダス(David John Aldous, 1952.7.13-). イギリス,デヴォン州エクセターの生まれ.
 確率論,とくに,交換可能性,弱収束,マルコフ鎖のミクシング時間.
 ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ入学(1970).ケンブリッジ大学からDavid John Haldane Garlingの指導でTwo Topics in Probability TheoryによりPh.D.取得(1977). カリフォルニア大学バークレー校(1979-),コーネル大学(2004-2010).
 与えられたグラフの一様全域木を生成するアルゴリズムの発見. [天VI.31] トップ

オルデンブルグ(Henry Oldenburg, 1618頃-1677).
 ブレーメン生まれのドイツ人。1653年外交官としてロンドンへ。ボイルに強く影響を受ける。王立協会幹事として、国内外の科学者と文通。Philosophical Transactions を創刊・編集して、ロンドンを中心とする国際的科学情報網を確立する。[解文], [パ1, 6, 8] トップ

オールト,フランス(Frans Oort, 1935.7.17-).
 オランダ,ブッシャムの生まれ.
 ライデン大学(1952-1958),論文は楕円曲線に関するもの. W.T.ファン・エストのもとで,Reducible and Multiple Algebraic Curvesによりライデン大学からPh.D. (1961).パリのセールやピサのA.アンドレオッティのもとでも学ぶ.
 アムステルダム大学(1961-),教授(1967).ユトレヒト大学教授(1977-2000).2008年にコロンビア大学名誉教授.ポンスレの閉包定理,またJ.S.バッハの音楽の数学的様相についての研究もある.代数幾何に関する諸著の編集.
弟子にレンストラなど.  [フ文] トップ

オレーム、ニコル(Nicole Oresme=Nicole d' Oresme, 1323頃-1382.7.11).
 フランス、ノルマンディー、アルマーニュに生まれ、リジューに死す。
 ナヴァル学寮長、後リジューの司教。アリストテレスの翻訳。スコラ哲学者。
 デカルトより前に座標幾何を導入し、関数のグラフの概念を述べた本を出版。この本は100年以上も何度も再版され、デカルトが影響を受けた可能性がある。 コペルニクスより200年も前に地動説を唱えているが、晩年にはアリストテレスに回帰している。 分数の指数を初めて使い、無限級数を扱った。光の反射、光の速度など光の性質を論じた。

文献
  1. 『比例の比例について』 (De proportionibus proportionum), 1360頃.
  2. 『比例算法』 (Algorismus proportionum).
  3. 『形相の緯度について』 (Tractatus de latitudinibus formarum), 1482-1515の間に4回版を重ねたことが知られている.次の著書の要約.
  4. 『動力と測定の図形化について』 (Tractatus de figuratione potentiarum et mensurarum).
[解III.2] トップ


  
  
  
  
  

トップ