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 人名索引 は


人名索引総目次     
バイエルハイゼンベルクハイティングハイネハイネン
ハイベアハイラー
B.パウエルM.パウエルパウリバウワーハウスドルフ
芳賀市三郎パクパークスハクスリーバーグマン
バークリー司教ハーケンバーコフパーシヴァルバシェ・ド・メジリアク
ハーシェルハーシェル,ジョンバジミールハーシュバース
パースパスカル、ブレーズパスカル,エルネストパスクァーレハスケル
ハーストバストンパーセヴァル長谷川寛
パタシュニクパチオーリ蜂須賀茂韶バックハッジャ
ハッセハーツホーンハットンハーツホーンパッポス
G.H.ハーディハーディハドヴィガーC.バートンバナッハ
ハーパーパパキリアコプロスパパンパブロフバプティスト
バベッジハミルトンハメル林鶴一パラモノヴァ
ハリーハリオットハリス テッド・ハリスM.ハリファックス
ハールパールハルステッドバルタザールハルチ
バルテルハルナックパルパーンパルビエパルマンティエ
ハルモスパーレットD.F.バローバロー
ハーンバンコフバーンサイド
ハーンチェスバンチョフハンドパンルヴェ



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バイエル,オトマー(Othmar Baier, 1905.11.16-1980.4.2).
 ドイツ,バイエルン州アウクスブルクに生まれ,ミュンヘンに死す.
 ミュンヘン工科大学から,Josef LenseとSebastian Finsterwalderの指導で,「ダルブー線が三角網を作る曲面について(Über die Flächen, auf welchen die Darbouxschen Linien Dreiecknetze bilden)」により,工学博士号取得(1931).
 カールスルーエ工科大学助手(1931-32),ミュンヘン工科大学(-1937),シュツットガルト大学(1945),准教授(1945),教授(1952).ミュンヘン工科大学,フランク・レベル幾何学研究所所長(1960-1971).   [幾3] トップ

ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg, 1901.12.5-1976.2.1).
 ドイツ,ヴュルツブルグに生まれ,ミュンヘンに死す.父はミュンヘン大学の中世および近代ギリシャ語の教授.
 ギムナジウムでは多方面に才能を認められていたが,卒業後ワイルの『空間・時間・物質』を読んで数学に興味を持ち,ミュンヘン大学で数学を学ぼうとするが,ゾンマーフェルトの下で物理を学ぶ.同級にパウリがいて,生涯の友人となる.学生時代既に,異常ゼーマン効果を説明する論文(1921).1922年夏,ゲッティンゲン大学で行われたボーア祭に出席,ボーアに強い印象を与える.博士論文は,流体力学の乱流に関するもので,ミュンヘン大学から(1923).
 ゲッティンゲン大学でM.ボルンの助手(1923-24).ロックフェラー奨学金で,コペンハーゲンの理論物理研究所ニールス・ボーアの下で研究(1924-25).
「私は,ゾンマーフェルトからは楽観主義を,ゲッティンゲンからは数学を,ボーアからは物理を学んだ.」
 1925年ゲッティンゲンに戻るが,枯草熱に罹り,療養のために行ったヘルゴランド島で,量子力学の端緒を得た.行列力学と呼ばれるものだが,彼自身は量子化された確率振幅を対象とし,それが非可換環をなすことを示した.ゲッティンゲンのボルンとヨルダン(Pascule Jordan, 1902-1980)が行列代数をなすことに気がつき,3人で共同して行列力学に纏め上げ,1926年に発表.これにより,ノーベル賞受賞(1932).1926年にはシュレーディンガーが波動力学を発表し,理論の同等性をも示したが,その後フォン・ノイマンにより数学的基礎が確立された.
 1926年コペンハーゲン大学講師になり,水素分子H2がオルト水素とパラ水素の2状態で存在することを予想(2つの原子のスピンが揃うか逆向きかという違い).1929年に実際に確かめられる.
   1927年不確定性原理を発表.因果律概念に変革をもたらす.ボーアが相補性原理を提唱し,いわゆる量子力学のコペンハーゲン解釈が生まれる.
 ライプツィヒ大学教授(1927-41).1928年,強磁性を解明(電子間の交換相互作用という観点で).1929年パウリとともに量子電気力学を展開.1932年中性子が発見されると,T.D.イワネンコと独立に,陽子と中性子からなるという原子核構造を提唱.宇宙線理論.場の量子論の適用限界.散乱行列理論.超伝導理論.中間子の多重発生理論.素粒子の統一場理論.
 ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所長(1942-45).戦争中は原子エネルギー計画に従事するが,原爆製造には成功せず.戦後,取り調べのため,8ヶ月間イギリスに抑留.1946年に帰国.カイザー・ヴィルヘルム協会の業務を引き継ぎ,ゲッティンゲンのマックス・プランク協会設立に協力.1946年マックス・プランク物理学研究所長.1958年に研究所はミュンヘンに移動,1970年まで所長.
 ハイゼンベルク代数.
文献
  1. 『量子論の物理的基礎』Die Physikalischen Prinzipien der Quantentheoriek(1930).
  2. 『自然科学的世界像』 Wandlungen in den Grundlagen der Naturwissenshaft(1935, 1973).
  3. 『原子核の物理』Die Physik der Atomkerne (1943).
  4. 『現代物理学の思想』Physik und Philosophie(1958).日本語訳は,みすず書房(河野伊三郎・富山小太郎訳).
  5. 『部分と全体』 Der Teil und das Ganze(1969).日本語訳は,みすず書房(山崎和男訳).

伝記
  1. E.ハイゼンベルク『ハイゼンベルクの追憶-非政治的人間の政治的生涯-』(山崎和男訳)みすず書房
  2. デヴィッド・C・キャシディ『不確定性 ハイゼンベルクの科学と生涯』(金子務ほか)白揚社(1998.5.15) Uncertainty:The Life and Science of Werner Heisenberg by Divid C. Cassidy(1992)
 [代18], [50.17,23] トップ

ハイネ(Heinrich Eduard Heine, 1821.3.16-1881.10.21).
 ドイツ、ベルリンに生まれ、ハレに死す。
 ベルリン大学とゲッティンゲン大学で学ぶ.ベルリン大学からEnno Heeren DirksenとMartin Ohmの指導で「(De aequationibus nonnullis differentialibus)」によりPh.D.取得(1842).
 ワイエルシュトラスの弟子.ボン大学,ハレ大学教授。ポテンシャル論,偏微分方程式,特殊関数論(円柱関数は彼の命名)。
 一様連続の定式化、ハイネ・ボレルの定理,ハイネ・カントールの定理,ハイネの恒等式,マーラー・ハイネの公式.  [解I.6, II.6, III.0-1, IV.1-2], [微5] トップ

ハイティング(Arend Heyting, 1898.5.9--1980.7.9).
 オランダ,アムステルダムに生まれ,スイス,ルガノに死す.
 アムステルダム大学入学し,ブラウエルに学ぶ.1925年に論文「射影幾何の直観主義的公理(Intuitionistische axiomatieks der projektieve meetkunde)」で学位.その後中学の教師に.任地の近くのミュンスター大学のハインリヒ・シュトルツの好意でその図書室を利用できるようになる. 1936年にアムステルダム大学私講師になり,教授(1948-68).直観主義的代数(1941),直観主義的ヒルベルト空間(1950).『直観主義』(1956,2版1966).
ハイティング代数(ブール代数の一般化), ハイティング算術,   [伝8],[辞] トップ

ハイネン,フランツ(Franz Heinen).
 Über Systeme von Kraeften, deren Intensitaeten sich wie die n. Potenzen der Entfernungen gebenener Punkte von einem Central-Punkte verhalten: in Beziehung auf Punkte, für welche die Summe der n. Entfernungspotenzen ein Maximum oder Minimum ist, ベデカー出版(1834)で,フェルマ点がシンプソンが定義した線分の最小性を与える点であることを示した.   [幾4] トップ

ハイベア(Johan Ludvig Heiberg, 1854.11.27-1928.1.4).
 デンマークの古典文献学者・科学史家。コペンハーゲンの高校の校長(1884-95),コペンハーゲン大学古典言語学教授(1898-1924)。
 アルキメデスエウクレイデスの全集、アポロニウスプトレマイオスのテキストの編纂。特にアルキメデスの『方法』の古写本をコンスタンティノープルで発見したことで有名。 [解文], [名文], [幾2,3,9,文] トップ

ハイラー(Ernst Hairer, 1949-).
 オーストリア、チロル、Naudersに生まれる。
 インスブルック大学に学び、G.ヴァンナーのもとで学位(1972)。現在、スイス、ジュネーブ大学教授。数値解析.日本語の本に『解析教程』がある. [解II.9], [パ13, 27], [名2], [ト序, 2, 文], [珠説2.0, 2.3, 文], [ブ50], [作付B], [幾解] トップ

パウエル,バーデン(Baden Powell, 1796.8.22-1860.6.11).  イギリス,ロンドン,ケンジントンに死す.
 数学者で,英国教会司祭.王立地理学会
 オックスフォード,サヴィル幾何学教授(1827-1860).初代のヘンリー・ブリッグス(1919-31),ジョン・ウォリス(1649--1703),エドモンド・ハリー(1704-42)以降,彼までは余り有力な数学者が就かなかったが,彼が現職で亡くなった後,ヘンリー・スミス(1861-83),シルヴェスター(1883-94),エッソン(1897-1916),ハーディ(1919-31),ティッチマルシュ(1931-63),アティヤ(1963-69),イアン・ジェイムズ(1970-95),リチャード・テイラー(1995-96),ナイジェル・ヒッチン(1997-現在)と続いている.  [伝5] トップ

パウエル(M.Powell).
ティレルとともにマネー=クーツの定理の証明(1971).  [フ29,文] トップ

パウリ,ヴォルフガング・エルンスト(Wolfgang Ernst Pauli, 1900.4.25-1958.12.15).
 オーストリア,ウィーンに生まれ,スイス,チューリヒ,ロートクロイツ病院に死す.
 ウィーンのドブリンガー・ギムナジウムに入学し、1918年に優秀な成績で卒業.その後2か月で,アインシュタインの一般相対性理論に関する論文を発表.ミュンヘン大学に入学し,アルノルト・ゾンマーフェルトの下で研究をし,水素分子イオンの量子論に関する学位論文で博士号を取得(1921年7月).ゾンマーフェルトの依頼で, Encyklopaedie der mathematischen Wissenschaften(『数理科学百科事典』)の相対性理論の記事(237ページ)を書き,のち独立した成書となって出版,相対性理論の標準的教科書になる.
 ゲッティンゲン大学でマックス・ボルンの助手として1年間過ごした後,コペンハーゲン大学の理論物理学研究所(後のニールス・ボーア研究所)に滞在.ハンブルク大学講師(1923-28).量子力学の現代的理論の構築,特に、排他律(パウリの排律)や非相対論的スピン理論の定式化.
 1928年チューリヒ連邦工科大学の理論物理学教授.1931年ニュートリノ仮説を提唱.1931年にミシガン大学の客員教授として渡米し、1935年にはプリンストン高等研究所に滞在.その縁で,1938年のドイツによるオーストリア併合によってドイツ市民となるが,ナチスの台頭により身の危険を感じ,1940年にアメリカに移住し,プリンストン大学理論物理学教授.戦後1948年にアメリカに帰化したが,その後チューリヒに戻り障害を送る.
 1926年ハイゼンベルクが行列力学を発表,パウリはこれを用いて水素原子のスペクトルを理論的に導く.1927年パウリはスピン演算子の基底としてパウリ行列を導入,スピンの非相対論的理論に解を与える.1930年放射性同位元素の原子核崩壊の観測を行い,ニュートリノを予言(1934年にフェルミが自分の理論の中に取り入れ,1959年に実験的に確認). 1940年るスピン統計定理の証明を行ない,半整数のスピンを持つ粒子はフェルミオンであり、整数スピンを持つ粒子はボソンであることを示す.
 ノーベル賞受賞(1945). [50.17] トップ

バウワー(Thomas Bauer).
 エアランゲン・ニュルンベルク大学でバースの指導で「クンマー曲面上の線形系(Linearsysteme auf Kummerfl\"achen)」によってPh.D.取得(1993).エアランゲン・ニュルンベルク大学でのハビリタシオンシュリフト「代数曲面上のスシャドリ定数(Seshadri constants on algebraic surfaces)」(1998).
 マールブルクのフィリップス大学教授.代数幾何.
バースとの共著論文『ポンスレの定理』 Expos. Math. 14(1996), 125--144. [フ] トップ

ハウスドルフ,フェリクス(Felix Hausdorff, 1869.11.8-1942.1.26).
 ドイツ、ブレスラウ(現在ポーランド領)に生まれ、ボンに死す。
 ライプツィヒ大学卒業(1891)後ライプツィヒ大学に勤め、後ボン大学へ(1910-13, 1921-1935)。グライフスヴァルト大学(1913-21).途中ゲッティンゲンに招かれたが、断っている。ユダヤ教の信仰のためナチの迫害に遭い、収容所に送られることを拒み,妻と妻の姉妹とともに自殺。
 点集合論,位相空間論,連続群論,関数解析,整数論.ハウスドルフの近傍公理.距離空間の定式化.半順序集合の導入.
 ハウスドルフ空間,ハウスドルフ分離公理,ハウスドルフ次元(1919).
  1. 『(点)集合論の基礎』Grundzuge der Mengenlehre (1914).

 ポール・モングレ(Paul Mongr\'e)という筆名で警句集,詩集,戯曲などを執筆.戯曲 『 医師の体面』 (Der Arzt seiner Ehre, 1904)は実際に公演され,しかも100回を数えるほどの上演回数がある.優れたピアニストでもあり,歌曲の作曲までした.彼はニーチェに従い, 科学は常に揺れ動く基盤の上 に立つものであると信じていた.  [解IV.1-2, 文], [ト附A, D.2], [名15, 附C], [珠説3.10], [代14], [伝5,6,7,8,9,10], [辞] トップ

芳賀市三郎(Haga Ichisaburo, ). 旗本で,尚歯会にいたときは評定所記録方を勤めていた.天保9年(1838)の尚歯会のある例会に出席していた芳賀が、会が終わった内輪の雑談の中で、オランダから予告されたモリソン号渡来の際に老中(指導的役割は水野忠邦)が採ろうとした対策の内容を漏らした. 無条件打ち払いという方針を危惧した渡辺崋山は『慎機論』を、高野長英は『戊戌夢物語』を書くことになる。
 代替り巡見使として北関東を廻ったときの記録「天保巡見日記」(天保8年(1837))には,「官事私事之紛冗、高山、大川、神祠、仏刹、郡村之貧富、土壌之肥痩、地利之形勢、人気之厚薄、草木之生枯、時気之陰晴、旦暮之塞喧」とあり,例えば,武州十郡(旛羅、大里、賀美、横見、比企、男衾、那賀、秩父、那賀、児玉)については「人気、我経歴する処、纔わずかに十郡、一二之差別あり、凡およそ旛羅、大里、榛沢、横見、比企郡之辺、利根荒川添、平場沃壌之人気は不直にして、骨折ずして利潤を貪る之工夫に長じ、俗にいふ横着之生気もの多かるべし。沃土之民は才ならず、逸すればなり.是を治る,威信を専らにして朴直にみちびく工夫専要なるべし.法令ゆるくすべからず。」,常陸三郡(筑波、新治、河内)については,「人気淳朴じゅんぼくに見へて、片意地強く、人情に薄し、子間引きする悪弊ありて、俗にいふ位くらいこと好きといふ風情なり.処により不同ありといへども,是を治るに実儀を示し,厚く孝悌之道を教にし,威を以て感激せしむべし」などとなる.  [文2] トップ

パク(Igor M. Pak).
 ハーヴァード大学からA.A.キリロフとP.W.ディアコニスの指導で,「群上の乱歩:強一様時間アプローチ(Random Walks on Groups: Strong Uniform Time Approach)」によりPh.D.取得(1997).
 ミネソタ大学,MIT,UCLA教授. 
 離散幾何,多面体,数え上げ組み合わせ論,群上の確率と計算. [フ文] トップ

パークス,ハリー・スミス(Sir Harry Smith Parkes, 1828.2.24-1885.3.22). イングランド,スタッフォードシャー,ブロクスウィッチに生まれ,清,北京に死す.
 1841年に2人の姉を頼って清しんのマカオに赴き中国語を学びながら公的な仕事に従事.1840年勃発のアヘン戦争を目撃、1842年のコーンウォリス号上での南京条約調印にも立ち会う.
 1843年広東領事館に採用され,1844年廈門の領事館通訳となる(領事はラザフォード・オールコック).1854年廈門領事,1855年,全権委員として英・シャム条約締結.1856年、広東領事としてアロー号事件に介入.1860年9月英仏連合軍の北京侵攻にあたり全権大使エルギン伯の補佐官兼通訳,交渉中に清軍に拉致され翌10月まで北京で投獄される. 日本公使に転任していたオールコックに認められ、1864年に上海領事.
 1865年(慶応元年),前年の四国艦隊下関砲撃事件での行動が英国政府の意に沿わず解任されたオールコックの後任公使として横浜に赴任.幕閣が第一次長州征討で江戸を留守のため,パークスは仏・蘭とともに連合艦隊(米国は代理公使のみの派遣)を兵庫沖に派遣し、威圧的に幕府・朝廷と交渉.その後は幕末史の中で大きな活躍.
 数学との関連は,慶應元年(1865)11月19日に,水野忠精から「...貴国都府とふへ生徒三四十名、人物相選あいえらび、取締之とりしまりの士官相添あいそえ差遣さしつかわし候間そうろうあいだ、右之者共ものどもへ政事せいじ兵制へいせい其他そのほか士官しかん之心得こころうべき学科伝習相頼あいたのみ申度もうしたく存候ぞんじそうろう...」と依頼され,イギリス政府の承諾を得て,慶應2年幕府派遣留学を実現させたことで.中に箕作大六がいたこと.
 1883年(明治16年)7月,清国公使となって離日,1884年からは駐韓公使を兼任.1885年,北京でマラリアのために57歳で亡くなる.  [文1] トップ

ハクスリー(Thomas Henry Huxley, 1825.5.4-1895.6.29).
 西ロンドン,イーリングに生まれ,イギリス東サセックス州イーストボーン(Eastbourne)に死す.
 生物学者,博物学者.20歳でロンドン大学で医学士になる.解剖学と生理学で主席.毛の内部のハクスリー層の発見(1845).
 トレス海峡の測量に出かけるラトルスネーク号に外科医として乗船.海の無脊椎動物の研究,ヒドロ虫綱(Hydorzoa).1850年に帰国し,王立協会のフェローに.名目上海軍省の外科医助手として雇用される.尾虫類(オタマボヤ類)の分類や有頭軟体動物の分類.
 1854年7月海軍省を止め,王立鉱山学校(後にインペリアル・カレッジ・ロンドンになる)の講師,1855年英国地質調査所の博物学者になる.
 1859年にダーウィンが『種の起源』を出版,それを強く支持し,「ダーウィンのブルドッグ」と呼ばれる.R.オーウェンとの論争で,人とゴリラの骨格を比較し,それを示す有名な挿絵を持つ著書『自然界における』人間の位置についての証拠を出版(1863).
 古生物学の研究,特に化石魚,化石爬虫類など.王立協会事務局長(1871-1880),総裁(1881-1885).1888年に王立協会からコプリー勲章授与.枢密委員(1892).新設されたロンドン教育委員会の委員(1870).
   「何かについてのすべて,すべてについての何かを学ぼうとせよ」
 [伝5,6] トップ

バーグマン(Stefan Bergman, 1895.5.5--1977.6.6).
 ロシア帝国ポーランド立憲王国チェストコーヴァに生まれ,アメリカ,カリフォルニア州パロアルトに死す.
ベルリン大学で,フォン・ミーゼスの指導で学位(1921).ユダヤ人であることから,1933年にベルリン大学を追われ,転々と移住する.最初はロシア(-1939),パリ,そしてアメリカ.スタンフォード大学教授.
 複素解析,バーグマン核,バーグマン計量,バーグマン射影,バーグマン空間. 妻の意志により,アメリカ数学会にステファン・バーグマン賞が設けられる.  [辞]  トップ

バークリー司教(George Berkeley, 1685.3.12-1753.1.14).
 アイルランド、トマスタウン近くのディザート城に生まれ、イギリス、オックスフォードに死す。
 アメリカ・インディアンへの布教活動も資金難で失敗。アイルランド、クロインの(英国国教会の)監督。「存在とは知覚なり。」
 数学理論や自然法則は合目的的に創り出された体系であることを主張。数学から唯物論を追放する目的で。
 『解析者』(1734)で、ニュートンライプニッツ理論を攻撃し、大論争を引き起こす(『解析教程』第II章第1節参照)。 ド・モアブルテイラーマクローリンラグランジュヤコブ・ベルヌーイヨハン・ベルヌーイなどが論争に加わり、微積分学の論理的基礎づけに対する関心を高めた功績は大きい。 とくに、マクローリンは反論のためにニュートンの方法の厳密な構成を行った。

  「しかし、速度の速度、その速度、そのまた速度、またその速度、またまたその速度などなどというのは、私が間違っているのでなければ、すべての人間の理解を越えてしまっています。 精神がこの捉え難いアイデアを解析し追及すればするほど、それはまごつき狼狽えることになり.....」『解析者』

  「......我が時代の解析者は有限の量の差を考えるだけでは満足しません。 彼らはさらにその差の差を考え、最初の差の差の差を考えます。 そしてさらに無限にまで
 つまり彼らは認識できる最小の量よりさらに無限に小さい量を考えます。 その無限に小さい量よりもさらに無限に小さな量を、そしてその上これまでの無限小量よりもさらに無限に小さい量を考え、終わりも限界もないのです。......もう告白するしかありませんが、無限に小さい量を心に描くことは ......私の能力を超えています。 しかし、そのような無限に小さい量の、それよりさらに無限に小さい一部、だから結局それを無限倍したとしても最も微細な有限の量にまでなることもできない、そんなものを想像するということは、どんな人にとってもそれこそ無限に困難なことだろうと、私は思うのです。.....」『解析者』

  「そして、この流率とは何だろうか?  無限小の増分の速度。 そして、これら同じ無限小の増分の速度とは何なんだろうか?  これらは有限の量でもなく、無限に小さい量でもなく、無でもない。 こんなものなら、過ぎ去った量の幽霊と呼んではいけないというのだろうか? 」『解析者』
 「存在とは知覚なり。」

文献
  1. 『解析者』(The Analyst), 1734. [II.1-2]
 [解II.1-2] トップ

ハーケン(Wolfgang R.G. Haken, 1928.6.21-).
 ドイツ,ベルリンの生まれ.アメリカの数学者.
 キール大学卒業.イリノイ大学教授.トポロジー(ハーケン多様体),離散数学,サイバネティックス.アッペル,コッホ(John A.Koch)と共に4色問題の解決(1976). [名19], [天26]  トップ

バーコフ(George David Birkhoff, 1884.3.21--1944.11.12).
 アメリカ,ミシガン州オーヴェルアイセルに生まれ,マサチューセッツ州ケンブリッジに死す.
 シカゴ大学でPh.D.(1907).指導者はE.H.ムーアだったが,強く影響を受けたのは会ったことのないポアンカレである.プリンストン大学教授(1911-12),ハーヴァード大学助教授(1912-21),正教授(1921-1932), パーキンス教授職(1932-44).
 4色問題,力学系,エルゴード理論,整数論,リーマンヒルベルト問題,ユークリッド幾何の公理化など. 染色多項式(1912),ポアンカレの最終幾何定理の証明(1913),個別エルゴード定理(1931),シュヴァルツシルド幾何がアインシュタインの場の方程式の唯一の球対称な解であることを示す(1923). バーコフ・ヴィットの定理.
弟子にモースストーンホイットニーなど.ガレット・バーコフは息子.  [伝6,7,8,9],[辞], [幾2]  トップ

パーシヴァル(Colin Andrew Percival, 1982-).
 カナダのサイモン・フレイザー大学(1998年入学)で数学を学ぶ.1996年にPiHexのコードを書き,1998.3.21にPiHexプロジェクトを立ち上げ,$\pi$の2進数展開の計算の記録を作る.2005年現在,オックスフォード大学計算機科学の博士課程在学中で,2004年1月からFreeBSDのデベロッパを務める.  [モ歴] トップ

バシェ・ド・メジリアク(Claude Gaspar Bachet de Meziriac, 1581.10.9-1638.2.26. )
 フランス,ブール・ガン・ブレスに生まれ,同地に死す.
 1621年に彼が出版したディオファントスの『算術』のラテン語訳の余白の少なさがフェルマの死後の論争の原因である. 1次不定方程式の再発見(``Problemes plaisants et delectables qui se font par les nombres'').バシェ方程式,バシェ曲線.  [名3] トップ

ハーシェル,ウィリアム(Frederick William Herschel, 1738.11.15-1822.8.25)
 ドイツ,ハノーヴァに生まれ,イギリス,スローに死す.
 当時ハノーヴァはイギリス統治下にあり,父は軍の音楽師だった.イギリスに渡り,楽士として名をあげる.1772年ごろから天文学に興味を持ち,ハノーヴァから妹のカロリンを連れ帰り観測を始める.1775年大型の反射望遠鏡を完成する.1781年3月13日に偶然に天王星を発見.最初は彗星と考えられていたが,1年後に惑星であると確認される.天王星の衛星を2個発見(1787).1789年には土星の衛星2個を発見,土星の自転周期を測定.さらに800個以上の2重星を発見し,その内の多くが連星であることを示し,恒星界でもニュートンの万有引力の法則が成り立つことを示す.  [パ23, 年表] トップ

ハーシェル,ジョン(John Frederick William Herschel, 1792.3.7--1871.5.11.
 イギリス,バッキンガムシャー,スローに生まれ,ケント州,ホークハーストに死す. ウィリアム・ハーシェルの一人息子.王立協会のフェロー(1813).
 2102個の連星の目録,1707個の星雲と星団の目録,南半球の星図の作成.アストロメーターの発明.NGCとして知られる星雲星団総目録の作成.『天文学の概要(Outlines of Astronomy)』(1849) はその後数10年間天文学の標準的教科書となる.  [文1], [列3,4] トップ

バジミール(Frederick Bagemihl, 1920-.)
 ウィスコンシン大学数学科.多面体.  [天12] トップ

ハーシュ(Morris William Hirsch, 1933.7.28-.)
 アメリカの数学者.カリフォルニア大学教授.トポロジー,群論.
 日本語に訳されているものに,S.スメイルとの共著『力学系入門』(田村一郎+水谷忠良+新井紀久子訳)岩波書店(1976),『微分トポロジー』(松本尭生訳)丸善出版(2012)がある.  [ト2, 文], [フ27], [微文], [積文] トップ

バース(Wolf P. Barth,1942-)
  ゲッティンゲン大学で,レンメルトとグラウエルトの指導で,「複素コンパクト多様体におけるある固有な解析集合(Einige Eigenschaften analytischer Mengen in kompakten komplexen Mannigfaltigkeiten)」により博士号取得(1967).エアランゲン・ニュルンベルク大学教授.
代数幾何.
 バース曲面.ベクトル側に関する彼の仕事はインスタントンのADHM(Atiyah-Drinfeld-Hitchin-Manin)構成に重要な役割.
 著書に『解析集合の孤立特異点での局所コホモロジー(Lokale Cohomologie bei isolierten Singularit\"aten analytischer Mengen)』(1971), 『コンパクト複素曲面(Compact Coplex surfaces)』(2004, K.Hulek, C.Peters, A. van de Venと共著). バウワーとの共著論文『ポンスレの定理』 Expos. Math. 14(1996), 125--144.   [フ文] トップ

パース(Benjamin Peirce, 1809.4.4-1880.10.6.)
 アメリカ,マサチューセッツ州,セーレムに生まれ,マサチューセッツ州,ケンブリッジに死す.天文学者,数学者,哲学者.ハーバード・カレッジ卒業(1829),ハーバード・カレッジに勤め,1833年より教授.
 海王星と月の運動の表,多くの彗星の軌道計算など.数学では主に環論.ベキ零元,ベキ等元,環のテンソル積の概念を導入.パース分解.息子のチャールズ・パース(1839.9.10-1914.4.19)との共同研究が多い.  [名15],[ワ2,3] トップ

パスカル、ブレーズ(Blaise Pascal, 1623.6.19-1662.8.19).
 フランス、オーベルジュ、クレルモン(現在クレルモン・フェラン)に生まれ、パリに死す。
 父エチエンヌ・パスカル(1588.5.2-1651.9.24、リマソン(蝸牛線)の発見者。命名はロベルヴァルによる)は裕福な家系で、息子の教育のためパリに移住(1631)。
 父に伴われ、メルセンヌ・アカデミーに参加。 ジラール・デザルグに会い、その射影幾何学を発展させたのは、アポロニウスの理論の拡張でもある(パスカルの定理=神秘6角形の定理『円錐曲線私論』(1640))。
 実用面での発明も多く、今も普通に使われている手押し一輪車も彼の発明。パスカル式車輪(=手回し計算機,1640)も人気があり、8台が現存している。 1646年末にトリチェリの真空実験の噂を聞き、流体の静力学について考察。特に空気を流体として考察する点が新しく、高度による気圧の差を予言(『液体の平衡に関する大実験談』)。
 サイコロ賭博の賭金分配に関する問題に与えたパスカルの解が論争を呼び、1654年7月29日-10月27日までフェルマと文通して意見を交換する中で確率論が成立する。1658年の春の一夜激しい歯痛に悩まされ眠れぬパスカルは、サイクロイドに関するメルセンヌの未解決問題を考察することを思いつき、夜明けまでに問題を解いたときには歯痛が治まっていたという。この時解いた問題はすでに初等的には解けない問題で、本質的には三角関数の微積分が必要な問題であった。しかし彼は自分流の代数言語を作りだし、それによって式を書かずに答えを得ている。パスカルの言語はとりわけ明晰で、代数記号法の使用をなぜ拒むか分からぬときでさえその力業には感嘆するばかりだと、ブルバキも書いている。天才にしか使えないものでなく、凡人にも使えるようにするために記号が考案されたときが、微積分の成立ということになる。
 ポール・ロワイヤルに入ってイエズス会と論争。 『パンセ』。体の弱かった彼が40才前まで生きられたのは、それでも考える葦だったためかもしれない。
 日本語では人文書院の『パスカル全集』、教文館の『パスカル著作集』、中央公論社の『パスカル』世界の名著24があり、科学論文を含めてほとんどの著述が翻訳されている。また『パンセ』筑摩世界文学大系の他にも種々の文庫本が出版されている。   [解I.1-2, 4], [パ序, 10-11, 年表], [珠説2.5], [黄5], [代入2,7], [天2, 23], [フ2,18], [三], [ふ2], [率25], [作付B], [幾7,11], [50.27,33] トップ

パスカル、エルネスト(Ernesto Pascal, 1865.2.7-1940.1.25). イタリア,ナポリの生まれ.先祖はフランス人.
 ナポリ大学に学び,1887年にLaureaの学位を得る.その後2年間,ピサ大学とゲッティンゲン大学で学び,F.クラインと接触.
 帰国後、パヴィア大学で無限小解析の教授に,1907年にはナポリ大学教授になり,応用解析研究所(Istituto per le Applicazioni del Calcolo)を作る.
 微分方程式の数値解をグラフ化する機械を設計,Abdank-AbakanowiczやRoberto Marcolongoが実現(?).
 リンチェイ・アカデミー会員.著書多数.弟子にRenato Caccioppoli,Ljubomir Tschakaloffなど. [ワ2,8] トップ

パスクァーレ(Luigi di Pasquale). イタリアの数学史家.タルターリアの研究.  [解I.1, 文] トップ

ハスケル(Mellen Woodman Haskell, 1863.3.17-1948.1.15). アメリカ,マサチューセッツ州セイラムに生まれ,カリフォルニア州バークレイに死す.
 ハーバード大学卒(1883),修士(1885).ハーバード大学からParker Traveling Fellowshipを受け,1885年から1889年まで,ライプツィヒ大学とゲッティンゲン大学で数学を学ぶ.
 ゲッティンゲン大学から,F.クラインの指導で,「射影的な意味で多重に平面に覆いかぶさる..曲線について(Über die zu der Kurve (…..) im projektiven Sinne gehörende mehrfache Überdeckung der Ebene)」 により,Ph.D.取得(1890).
 ミシガン大学講師(1889),カリフォルニア大学バークレイ校助教授(1890),准教授(1894),正教授(1906).1909年に講座主任(-1933引退)
 F.クラインのエルランゲンプログラムの英訳(Bull. New York Math. Soc., 1893)..  [幾11, 文] トップ

ハースト(Thomas Archer Hirst, 1830.4.22-- 1891.2.16.)
 イギリスの日記作家.多くの人に会った記録が残っている.

 亡くなる少し前のガウスを訪問した時には

 「会ってみると彼は,自分に満足した男らしい表情をした尊敬すべき老人であった. 彼には驚くほどの力の雰囲気が漂っているし,彼のどの言葉を聞いても,苦もなく誰もが自然に男らしい力の存在を感じるだろう. 80歳くらいだが,彼の周りに老齢の跡は見受けられない. 眼鏡もなしで読むこともでき,...言葉を交わす前からまったくくつろいだ気分になった.」

40歳後半のディリクレを1853年に訪問し,彼のことを,かなり背が高く,ひょろっとした見掛けで,灰色になりかかった口髭と髯があり,いく分嗄れ声でかなり耳が遠い,と描写している.さらに 講義に出席して

素材の豊かさとそれへの明晰な洞察において,ディリクレが凌駕されることはあり得なかった. 話し手として彼は生来の利点を持っていなかった. 彼に流暢さというものはなかったが,それでも明晰な眼と理解がそれを不要なものにしていた. 努力しなくてもそのうち彼のたどたどしい話し方は気にならなくなる. 奇妙なことだが,彼は決して聴衆を見ない. 我々に背を向けることになる黒板を使わないとき,彼は我々に向かって置かれた高い教卓に向かって座り,眼鏡を額の上に乗せ,両手で頬杖を突き,そして完全に両手で眼を覆っていないとき,眼はほとんど閉じたままである. 彼はノートを使わない. 両手の内側に仮想的な計算が見え,それを我々に語ってみせる. 我々もまた,あたかもそれが見えるように,理解するのだ. 私はそうした講義が好きだ.

1857年にミッタク・レフラーを訪問した後では

 「彼は気持ちがよく話好きで小柄な人で, 私はすぐに本当に気持ちが楽になった.彼の中に私が見た欠点は時々意味なくくすくす笑い出すことくらいだった.」

シルヴェスターについて, 1859年に「彼は過度なほど友好的で,一緒に住みたいと言い,ウーリッジに行って彼と住まないかと頼んだり,など」と書いているが,それからまもなく 「彼は私のあらゆる行動と言葉を誤解し,交際することなど不可能なほどである」ことがわかったと書いている.

ケイリーのことを次のように述べている.

「彼の頭のなんと素晴らしいことか.単に丸いというだけでなく,回転楕円体で,その最長の直径が,両目,いやむしろ両耳を結ぶ直線と平行になっている. 彼は決して椅子にまっすぐ座らず,尻をその端に乗せ,一方の肘を椅子のシートについて,もう一方の腕は後ろに投げ出していた. さらに,彼は鋭い目をした非凡な人物であり,生まれつき親切で,と同時に気が弱く,謙虚で,控えめな人だと私は思う. 話をするときはしばしば目をつむり,見えない本を読むように話す. その話し方も素晴らしいので,彼を理解するために聞く方の知性を磨く必要があった.」

ケイリーとシルヴェスターについてのリウヴィルのコメントを紹介している.

「ケイリーの作品に関する彼の意見を聞いてある種の満足を覚えた. 彼は彼らの能力は認めるのだが,彼らの強情なまでの不明瞭さには不満を述べている. 彼は,シルヴェスターとケイリーがこの点...つまり厳密で明快であることが彼らの目には退屈であることと等価であると考えることに関して,ある程度コーシーの弟子であると考えている. 困難を克服し,決然とした堅実な歩みで彼らの領域を行進するより,むしろ彼らは跳びはねたりとんぼ返りをしたりするのだ. そうすることで彼らは自分たちのテーマに関して素早く十分な観察ができるが,他の者には明らかに彼らの頭が上を向いてくれた方が見やすい,ということなのかもしれない.」
  [伝2,3,4] トップ

バストン(V. J. D. Baston)
 イギリス,サザンプトン大学数学科教授.多面体.
 ロンドン大学から,「ユークリッド空間の多面体のいくつかの性質(Some Properties of Polyhedra in Euclidian Space)」により,Ph.D.取得(1961).  [天12] トップ

パーセヴァル(Marc-Antoine Parseval des Ch\hat{e}nes, 1755.4.27-1836.8.16)
 フランス,ロゼール・オ・サリンに生れ,パリに死す.
 貴族階級の生まれで,フランス革命時,ルイ16世の国外逃亡に従ったが,果たせず,パリに連れ戻され,監獄に入っていた(1792年).その後も王党派として活動,ナポレオンからも逮捕命令が出され国外に逃げ,後にパリに戻る.
 論文は5篇のみ,1798, 1799, 1801, 1803, 1804年にアカデミーに提出されたが,1806年に初めて,一括して出版された.
 実関数論,数理物理学.フーリエ級数論.パーセヴァルの等式. [ワ7] トップ

長谷川寛(Hasegawa Hiroshi, ). 私塾「数学道場」
 『算法新書』文政13年(1830)刊. 『算法求積通考』5巻,天保15年(1844)刊,長谷川寛閲,内田久命編:
 弟子に,長谷川弘(1810--1887),山口和,千葉胤秀,秋田義一など.  [文2] トップ

パタシュニク,オーレン(Oren Patashnik, 1954-)

 イェール大学卒業後(1976),スタンフォードの大学院に進み,クヌースに師事.
 情報科学.クヌースらと共著の本(『コンピュータの数学』共立出版, 1993)を書いているときスタンフォード大学の博士課程在学中であった.
 ベル研究所に勤務している1980年にQubicというボードゲームが最初のゲーム者に必勝法があることを証明した.1500時間もの計算時間を使ったこの証明が,計算機支援証明の著名な例とされている. 1985年に,レスリー・ランポート(LaTeXの作成者)と BibTeXを作成する.
  Institute for Defense Analyses (IDA)の研究者.  [天2], [作付B] トップ

パチオーリ(Luca Pacioli(ルカ・ディ・ボルゴ(Luca di Borgo)ともフラ・ルカ(Fra Luca)とも呼ばれる)1445-1517.)
 イタリア,サンセポルクロに生まれ,同地に死す.数学者で修道士.商業算術の重要性が増していたイタリアの各都市,特にヴェネツィアで豪商の子弟の家庭教師をする. 1494年出版の『算術,幾何,比および比例大全(Summa de arithmetica, geometrica, proportionalita)』(1487年までに書き上げられていた)は西欧ではフィボナッチの『算盤の書』(1202年)以来の本格的な数学の教科書とされている.複式簿記の父とも言われる.
 未刊の書『定量について(De viribus quantitatis)』には,デューラーより早く魔方陣が描かれている. 正多角形,正多面体,黄金分割の値などを扱った『神聖分割について(Da Divina Proportione)』(1509年)はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたと言われている説明図の素晴らしさでも知られている. ユークリッド 『原論』のイタリア語版出版(1509).   [名17], [幾9,11] トップ

蜂須賀茂韶(Hachisuka Motchiaki, 弘化3年8月8日(1846.9.28)-1918.2.10 ).
 阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主.第13代藩主・蜂須賀斉裕(第11代将軍・徳川家斉の22男)の次男。
 侯爵,文部大臣、東京府知事、貴族院議長を歴任.
 1872年(明治5年)、イギリス・オックスフォード大学に留学中,明治7年3月に,官費留学生の一斉帰国の命令のために帰国を余儀なくされた菊池大麓のケンブリッジ在学中の費用を援助.
 後に,彼が松方第2次内閣の文部大臣になったとき(明治29年9月28日)、菊池は文部省専門学務局長になって仕える.    [文1] トップ

バック(Robert Creighton Buck, 1920.8.30-1998.2.1). アメリカ,オハイオ州シンシナチに生まれ,ウィスコンシンに死す.
 1942年にシンシナチ大学で修士、後ハーバード大学からDavid Vernon WidderとRalph Philip Boas, Jr.の指導で「指数型の関数に対する一意性,補間,特徴づけ定理(Uniqueness, Interpolation and Characterization Theorems for Functions of Exponential Type)」によりPh.D.取得(1948).
 ブラウン大学(1947-50)を経て、ウィスコンシン大学准教授(1950),教授(1054). AMS(アメリカ数学会)とMAA(アメリカ数学協会)の双方で活躍。「応用数学の友」を自称しているという。ピアニストとしても優れ,SFも数篇書いている.
 ボアズ=バック多項式(Boas-Buck polynomial).
 「バビロンのシャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes in Babylon)」 AMM(1980)  [解II.5, 文] トップ

ハッジャ(Mowaffaq Hajja, 1946-).
 パレスティナ,トゥルカーム行政区アッティルの生まれ.トルコ,アンカラ中西工業大学理学部卒(1972.8),ミネソタ大学Ph.D.候補(1975.6),インディアナ州,パデュー大学からTzuong-Tsieng Mohの指導で,Rationality Properties Of Metacyclic Automorphism Groups(メタサイクリック・自己同型群の有理性)により,Ph.D.取得(1978).
 1973年から,ミネソタ大学,パデュー大学,ミシガン大学に勤めた後,ヨルダンのヤームーク大学助教授(1980.9-1985.2),准教授(1985.2-1986.9),クウェート大学准教授(1986.9-1990.7),ヤームーク大学准教授(1990.9-1992.5),教授(1992.5-1997.9),オマーンの女子教育大教授・講座主任(1997.9-1998.9),アラブ首長国連邦のシャールジャ・アメリカ大学(1998.9-2000.9),シャールジャ大学(2000.9-2001.9),ヤームーク大学教授・講座主任(2001.9-2003.8),ヤームーク大学教授(2003.9-2007.8),ヨルダン,Al Mushaqqaのジャーマン・ヨルダン大学教授(2006.9-2007.8),ヤームーク大学教授(2007.9-2014.9),ジャーマン・ヨルダン大学教授(2014.9-現在).
 抽象代数,幾何,グラフィックス.ヒンジ定理,   [幾7] トップ

ハッセ(Helmut Hasse, 1898.8.25-1979.12.26).
 ドイツ,カッセルに生まれ,アーレンスブルク(ハンブルクの近く)に死す.父は判事で母はミルウォーキー生まれのアメリカ人.15才のとき父の転勤でベルリンに行き,フィヒテ・ギムナジウムで2年間学び,第1次大戦勃発で,海軍関係に応募する.
 キール大学で学び(1917/18),テプリッツの講義に出た.海軍除隊後はゲッティンゲン大学に入学し,ランダウヒルベルトネーターヘッセに学ぶ.ヘッセの影響を強く受け,数ヶ月後にハンブルク大学に移ったヘッセを追おうとしたが果たせず,1920年マールブルグ大学に移り,ヘンゼルの下で研究する.ヘンゼルのp進数の理論の影響で,1920年10月今日ハッセ原理として知られる2次形式に関する「局所・大域原理」を発見,翌年学位論文.
 1922年キール大学講師.この時代,ハンブルクのE.アルティンヘッケオストロフスキーシュライアーらと密接に交流.類体論に関するH.ヴェーバーの仕事を拡張する.類体論の総合報告は有名.1925年ハレ大学教授.局所体上の中心的単純代数に関する基本定理を得る.ハッセのζ関数とハッセ予想.
 1930年ヘンゼル引退の後継として,マールブルグ大学教授になる.この時代,R.ブラウワーE.ネーターと,単純代数(ハッセ・ブラウワー・ネーターの定理)や代数的数体のブラウワー群に関する共同研究をする.また,楕円曲線に関する研究や,ベーアとともに位相体についての研究を始める.
 1933年ナチが政権をとり,大学にも影響が出始める.ワイルがゲッティンゲンの教授から追放され,ナチに許容可能とみなされたハッセに要請があり,ワイルの奨めもあって,1934年ゲッティンゲン大学教授になる.しかし,ユダヤ人数学者との交流関係のせいもあり,逆にナチに影響を与えようとして失敗する.1939年から45年までは,ゲッティンゲンを去り,海軍務に復帰し,ベルリンで弾道学の問題に従事する.戦後ゲッティンゲンに復帰するも,1945年9月イギリスの占領軍に教授権を剥奪され,研究職を示されたが拒絶し,1946年ベルリンに移り,アカデミーの研究職に就く.1949年東ベルリンのフンボルト大学教授に.アーベル代数的数体の算術的性質の決定.局所的方法に基づく代数的整数論の初めての成書を出版.ハンブルク大学教授(1950-66引退).50年間クレレ雑誌の編集.  [代7, 11, 15], [ワ9], [伝7] トップ

ハットン(Charles Hutton, 1737.8.14-1823.1.27). イングランド,ニューカッスル・アポン・タインに生まれ,ロンドンに死す.
 英国国教会の聖職者イヴィソンが保有したジェズモンドの学校で教育を受ける.1時期炭鉱で働いたが,イヴィソンの推薦でジェズモンドの学校を引き受け,その後生徒数も増えストークスホールに移る. そこで教えながら,夕方にはニューカッスルの学校で数学を学ぶ.1760年には結婚し,ニューカッスルで大規模に教育を始める.
 1764年に最初の著書を出してから,著書多し.『数表(Mathematical Tables)』(1785)と『数学辞典(Mathematical and Philosophical Dictionary)』(1795, 1815)が有名.ハットンの公式を使ってπの計算を行う. [積12]  トップ

ハーツホーン(Robin Hartshorne(Robert Cope Hartshorne), 1938.3.15-.)
 プリンストン大学から,J.C.ムーアとザリスキの指導で「ヒルベルトスキームの連結性(Connectedness of the Hilbert Scheme)」によりPh.D.取得(1963).
 ハーヴァード大学を経て,1970年代からカリフォルニア大学バークレー校教授.代数幾何学.
 ハーツホーン予想(接束が豊富な非特異射影多様体は射影空間)の解決は森重文のフィールズ賞受賞理由の1つ.ハーツホーン楕円.
 著書に『射影幾何学の基礎(Foundations of Projective Geometry,)』(1967) , 『代数幾何学(Algebraic Geometry)』(1977,日本語訳あり), 『P^3の曲線族とツォイテンの定理(Families of Curves in P^3 and Zeuthen's Problem)』(1977), 『幾何学:ユークリッドとその後(Geometry: Euclid and Beyond)』(2000,日本語訳(『現代数学から見たユークリッド原論Ⅰ,Ⅱ』)あり), 『変形理論(Deformation theory)』(2010).   [名3, 文], [幾1,2] トップ

パッポス、アレキサンドリアの(Pappos = Pappus of Alexandria, 290年頃-350年頃)。
 エジプト、アレキサンドリアの生まれ。
 数学集成 (Sinagoge)8巻のうち、1,2巻は失われる。7巻の『解析のトポス』に、デカルトが解答を与えたパッポスの問題が載っている。パッポスはその問題をヘラクレイトスによるとしている.
 Pappus–Guldinus theorem(パッポス・グルディンの定理),パッポスの重心定理ともいう. [解I.1], [名文], [代10-11, コ], [フ18], [三], [幾序,2-11] トップ

G.H.ハーディ (Godfrey Harold Hardy, 1877.2.7-1947.12.1.)
 イギリス,サレイ,クランレイに生まれ,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
 ケンブリッジ大学トリニティ校卒.最初に数学に開眼したのはラヴによる講義のおかげだと述懐. トリニティ校で講義(1906-19),オックスフォード大学サヴィル教授(1919-31),ケンブリッジ大学(1931-42).整数論(ディオファントス近似,素数分布,リーマンのゼータ関数,ウェアリングの問題など),関数論(フーリエ級数,発散級数の和など). リトルウッドとの共同研究が多く,ラマヌジャンを援助したことでも知られる.彼の数学に対する考え方ははっきりしている.
「数学者のパターンは,画家や詩人と同様,美しくなければならないし,アイデアは,色や言葉と同様,調和した適合がなければならない. 美こそが最初のテストであり,醜い数学に恒久的な場などないのだ。」
 日本語の本に『ある数学者の生涯と弁明』(柳生孝昭訳)シュプリンガー数学クラブ,E.M.ライトとの共著『数論入門I,II』(示野信一+矢神毅訳)シュプリンガー数学クラシックスがある.
 ハーディ=ヴァインベルク(Wilhelm Weinberg)の法則(血縁集団と稀少疾患の遺伝的伝播の研究で広く用いられ,集団遺伝学の基本法則). [名2, 5, 文], [珠訳序, 3.1, 説3.10-11, 文], [黄5] , [天2, 4, 16], [ブ50], [伝4,8,9,10,エ], [フ序,3], [ル3,4], [50.25,41]  トップ

ハーディ(Oliver Hardy, 1892.1.18-1957.8.7).
 アメリカ、ジョージア、アトランタに生まれ、ハリウッドに死す。
 死因は中風・卒中。の映画俳優・喜劇役者。小映画館主から1913年映画界に入り、悪役など脇役をしていたが、26年ローレルとコンビを組んで喜劇映画の1時代を作った。日本では余り知られていない。ローレル、スタンの項参照。 [解II.8] トップ

ハドヴィガー(Hugo Hadwiger, 1908.12.23-1981.10.29).
ドイツ,カールスルーエに生まれ,スイス,ベルンに死す.
 ベルン大学に入学し,同大学で学位を取り(1936),その後40年以上ベルン大学数学教授.
 幾何学,組合せ論,暗号理論.保険数学,
 ハドヴィガー=フィンスラー不等式,積分幾何でのハドヴィガーの定理,グラフ理論でのハドヴィガー予想,組み合わせ幾何でのハドヴィガー予想,ハドヴィガー=ネルソンの問題.空間充填のヒル四面体の高次元版を発見 著書多数.エルデシュ数は2. [天7],[ル5] トップ

バートン,キャサリン(Catharine Barton=Catharine Conduitt, 1679-1746.)
 ニュートンの異父妹の娘.晩年のニュートンの世話をする.彼女から有名なリンゴの話を聞き,ヨーロッパに広めたヴォルテールはニュートンの名声は「無限小解析や重力ではなく彼の姪の美しさ」のおかげであると書いている.
 ニュートンの弟子で初代大蔵卿であるモンタギュ・ハリファックス卿の女中頭を,彼女は長い間勤めている. ニュートンの造幣局長官の職はM.ハリファックス卿に負う.またかなりの額のニュートンの遺産を受け継いでもいる.   [パ1, ノート] トップ

バナッハ,ステファン(Stefan Banach, 1892.3.30-1945.8.31.)
 オーストリア・ハンガリー,クラクフ(現在ポーランド領)に生まれ,ウクライナ,リヴォフに死す.
 リヴォフ工科大学卒業(1914),学位(1920).リヴォフ工科大学教授(1924),リヴォフ大学(1927). 第2次大戦中はナチのリヴォフ占領下に苦しみ,戦後クラクフの大学に移動しようとしたが肺ガンのため病死.
 現代的関数解析の創始者.位相線形空間論,測度論,積分論,直交級数など.バナッハ空間は1920年の学位論文に現れ,フレシェが名づけたもの. バナッハ環,ハーン・バナッハの定理,バナッハ・シュタインハウスの定理,バナッハの不動点定理,バナッハ・タルスキの定理など.   [代5, 8],[伝7,10],[ル5],[幾9,10],[50.ピa] トップ

ハーパー(William Rainey Harper, 1856.7.26-1906.1.10)  オハイオ州ニューコンコードに生まれ,シカゴに死す.癌だった.
 早熟の天才として知られる.20歳で博士過程まで終了(イェール大学).1891年39歳のとき,ジョン・D.ロックフェラーはシカゴ大学創設を助力するために彼を選び,その後すぐ初代学長に選任.シカゴ大学出版会設立.この時代のアメリカの指導的な学者であった.
 数学に関しては,1892年にE.H.ムーアを数学科の主任に抜擢,ムーアの推薦により,オスカル・ボルツァとハインリヒ・マシケを教授に任命し,アメリカ数学界におけるシカゴ大学の基礎を作った.  [伝7,8] トップ

パパキリアコプロス(Christos Domitriou Papakyriakopoulos, 1914.6.29-1976.6.29.)
 ギリシャ,アテネ,カランドリに生まれ,アメリカ,プリンストンに死す.
 アテネ大学入学(1932).ナチスドイツが1941年に侵略してきて政情不安定な中,アテネ大学で独学して,基本予想に関する論文を書き,カラテオドリの推薦で1943年に博士号を得る.
 R.フォックスにデーンの補題を証明したと手紙を書き,証明は不完全だったものの,関心をひいたフォックスがプリンストンに招く(1948).その後プリンストン高等研究所教授になる.  1957年に改めてデーンの補題を証明した(同年独立に本間龍雄も証明).O.ヴェブレン幾何学賞の最初の受賞者となる. ほかにもループ定理,球面定理などを証明し,ポアンカレ予想を攻撃し続けたことで有名.   [ト文] トップ

パパン(Dennis Papin, 1647.8.22-1712).
 フランス、ブロアに生まれ、イギリス、ロンドンに死す。
 物理学者。パリで医学を学び、ホイヘンスを助けて空気ポンプを改良。1675年以降イギリスでボイルの実験を助ける。マールブルグ大学教授(1688-1707)。圧力鍋(パパンの鍋 1681)の発明、蒸気力による外輪船の建造(1707)。  [解II.1] トップ

パブロフ(Olek Ivanovich Pavlov)  オハイオ大学でアルハンゲリスキーの下で学位(1999).集合論的トポロジー.  [モ幾] トップ

バプティスト(Peter Baptist ).
 ドイツ連邦共和国バイエルン州のバイロイトのギムナジウムとホルフェルトの総合学校教師をしたあと, バイロイト大学数学・数学教育教授(1994-).
 Bayerische Julius-Maximilians-Universität Würzburg(ビュルツブルク大学)からJosef Stoerの指導でÜber das Konvergenzverhalten gewisser Update-Verfahren zur Minimierung einer reellwertigen Funktion bei nichtperfekter SchrittlängenbestimmungによりPh.D.取得(1976)と教授資格を得る.エルランゲン大学とドレスデン工科大学で教授資格.
 最適化理論,初等幾何,数学史,数学教育など.  [幾4] トップ

バベッジ(Charles Babbage, 1791.12.26-1871.10.18).  イギリス, ロンドンに生まれ, ロンドンに死す.
 世界で初めて「プログラム可能」な計算機を考案した[2]。「コンピュータの父」と言われることもある.階差機関(difference engine)の再発明(1822).
 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学(1810.10),ライプニッツラグランジュシンプソンらの著作を読む. ジョン・ハーシェルやジョージ・ピーコックらと解析協会を作り,大陸の数学の教科書を英訳する.1812年にケンブリッジ大学ピーターハウス・カレッジに移る.   [伝4], [50.27] トップ

ハミルトン,ウィリアム・ローワン(William Rowan Hamilton, 1805.8.3-1865.9.2).
 アイルランド、ダブリンに生まれ、ダブリンに死す。
 数学・物理学・天文学者。幼時から天才を謳われ、'20年頃『プリンキピア』を読み、'22年ラプラスの『天体力学』の誤りを訂正。このころ、アイルランドの天文学者は、「この若者はこの時代の第一の数学者に、なるだろうとは言わない。現にそうなのである。」と絶賛している。ダブリンのトリニティ・カレッジ在学中にダンシング天文台長になる(1827)。
 四元数、ベクトル解析、ハミルトン・ヤコビの方程式。ベクトルの命名.ハミルトン経路(二十面体計算,グラフ理論).  [解IV.0, 3, 文], [パ序, 14, ノート, 年表], [名19, 21], [代8, コ], [天5], [ワ2], [伝1,2,3,4,5], [辞], [作付B], [幾5,9,文], [基11] トップ

ハメル,ゲオルク(Georg Hamel, 1877.9.12-1954.10.4).
 ドイツ,ラインラント,デュレンに生まれ,バヴァリア,ランツフート(現在ドイツ,バイエルン州ランツフート)に死す.
 アーヘンのライン=ヴェストファーレン・ホッホシューレで2年学んだ後,ベルリン大学に入学(1897),H.シュヴァルツL.I.フックスフロベニウス,プランクに学ぶ. 1900年にゲッティンゲンに行き,ヒルベルトとF.クラインの講義を聞く. 博士論文『最短直線のある幾何について(\"Uber die Geometrien, in denen die Geraden die K\"urzesten sind, 1901)』の指導はヒルベルト(ヒルベルトの第4問題を扱ったもの).F.クラインの助手(1901-1902).1902年秋にカールスルーエ工科大学でカール・ホインの助手になり,同大学のハビリタシオン・テーシスを提出. ブリュン工科大学がカール・ヘルマーの後任の力学の教授を探していていろいろあったが1905年10月3日に教授に. アーヘンのライン=ヴェストファーレン・ホッホシューレの力学の教授になり(1912.10.1),ベルリンのシャルロッテブルクの工科大学の数学と力学の教授(1919).
 関数論,コーシーの関数方程式の不連続解,有理力学の公理的構成,Kryha暗号機械のためのキー空間のサイズを調べる.
 ハメル基底(の存在証明に選択公理を整列可能定理の形で使う).
 『初等力学(Elementare Mechanik)』(1912)など.   [フ19] トップ

林鶴一(Tsuruichi Hayashi, 1873(明治6).6.13-1935(昭和10).10.4).
 徳島の生まれ。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)、第三高等学校を経て、東京帝国大学では数学科,第14期卒業(1998).同期は高木貞治吉江琢児
 後京都帝国大学理工科大学の助教授,辞して松山中学校教師や東京高等師範学校の講師.検定教科書を通して菊池大麓藤沢利喜太郎の教育思想とは異なる思想を提案.
 1911年新設の東北帝国大学理科大学に教授として招かれる.
 東北数学雑誌を創刊。和算史家として有名で,関孝和の「解伏題之法」に世界最初の行列式の理論が含まれていることを発見.
 円の面積の 1/n (n>=3) の月形を定木とコンパスで切りとれないことを証明。
 日本中等教育数学会(現日本数学教育学会)を設立.  [解I.6, 文], [文1,3] トップ

パラモノヴァ,イリーナ 旧姓シチェポチキナ(Irina M. Paramonova, 1953.5.16--. Shchepochkina).
 ソ連,モスクワの生まれ.モスクワ大学卒.A.A.キリロフの指導で,ベキ零リー群の表現論に関する論文で学位(1980).アレクサンドル・パラモノフと結婚(1981).モスクワ独立大学助教授(1993),モスクワ開いた教育研究所助教授(2001).
 表現論,リー群,リー環,リー超環の理論.     [モ] トップ

ハリー、エドモンド(Edmund Halley, 1656.11.8-1742.1.14).
 イギリス、ハッガーストーン、ショレーディッチ(ロンドンの近く)に生まれ、グリニッジに死す。
 オックスフォード大学サヴィル幾何学教授(1704)、王立天文学者(1720)。自身すぐれた数学者でもあり、ハリー彗星(1682年に来た彗星)が76年後に再帰することを予言するなどの業績もあるが、ニュートンにプリンキピアを出版する気を起こさせたことが人類にとっての最大の貢献だったと言えるかもしれない。
 不完全だったアポロニウスの『円錐曲線論』のラテン語訳(1-5巻のみ、1537)を、新発見のアラビア語訳から全巻を復元出版(1710)。 [解I.4, II.2, 文], [パ3-4, 17, 19, 21, 24, ノート, 年表],[伝1],[幾3,5,解] トップ

ハリオット、トーマス(Thomas Harriot, 1560-1621.7.12).
 イギリス、オックスフォードに生まれ、ロンドンに死す。
 数学・天文学・地理学者。ウォルター・レーリー卿のブレイン(1580-1598)。 イギリスの代数学の基礎を与える。方程式の書き方など、代数記号の簡素化はヴィエートを通して普及。不等号の考案者。望遠鏡で月・太陽の黒点の観察、太陽の自転周期を求める。スネル以前に光の屈折を発見。 [解I.1] トップ

ハリス,ジョー(Joseph Daniel Harris, 1951-)
 ハーヴァード大学からP.A.グリフィスの指導で,「射影多様体の幾何種数の限界(A Bound on the Geometric Genus of Projective Varieties)」によりPh.D.取得(1978).
 1980年代はブラウン大学で,1988年からはハーヴァード大学教授,主任(2002-2005).
 『代数幾何と解析幾何の話題(Topics in algebraic and analytic geometry)』(1974,P.A.グリフィスと共著), 『代数幾何の原理(Principles of Algebraic Geometry)』(1978,P.A.グリフィスと共著), 『表現論,第1課程(Representation Theory, A First Course)』(1991,W.フルトンと共著), 『代数幾何,第1課程(Algebraic Geometry:, A First Course)』(1995). 『スキームの幾何(The Geometry of Schemes)』(2000,D.アイゼンバッドと共著)など.    [フ文], [幾11] トップ

ハリス,テッド(Theodore Edward Harriss, 1919.1.11-2005.11.3)アメリカ,フィラデルフィアの生まれ.
 1939年テキサス大学卒.で,1946年にプリストン大学修士.プリンストン大学からSamuel Stanley Wilks(1906.6.17--1964.5.7)の指導で,「ベルヌーイ乗法過程に関するいくつかの定理(Some Theorems on the Bernoullian Multiplicative Process)」によりPh.D.取得(1947).
 1647年Rand研究所に就職し,1659年からは数学部門を指導.南カリフォルニア大学の数学と電気工学の教授(1965-1989).
 確率過程(ハリス過程,ハリス連鎖,分岐過程,接触過程),統計力学におけるハリスの等式,パーコレーション理論.  [50.35] トップ

ハリファックス伯,モンタギュー(Earl of Halifax, Charles Montague, 1661-1717.5.19.)
 イギリス,ノーサンプトンシャー,ホートンの生まれ.
 ニュートンの弟子.市民戦争(1642-46, 1648-52)から1688年の名誉革命までの内戦でイギリスの経済は機器に危機に瀕しており,立て直しのために置かれた初代大蔵卿になる.イギリス銀行の創立者でもあり,国王不在時の国の指導者であった.貨幣の質を高めるためニュートンを造幣局の監事(1696),ついで長官(1699)に任命.王立協会会長(1695-98).   [パ17, ノート, 年表] トップ

ハール,アルフレッド(Alfr\'ed Haar, 1885.10.11--1933.3.16).
 ハンガリー,ブダペシュトに生まれ,セゲドに死す.
 1904年にドイツに行き,ヒルベルトの指導で,学位論文「直交関数系の理論」(Zur Theorie der orthogonalen Funktionensysteme)を書き学位(1909).ゲッティンゲンで私講師(-1912),その後ハンガリーに戻る. F.リースと共に,セゲド大学を数学のセンターにする.
 ハール測度,ハール変換,ハール・ウェーブレット.   [伝9], [ワ7,8],[辞] トップ

パール (Raymond Pearl, 1879.6.3-1940.11.17).
 生物学者.生物老化学の創始者の一人.
 ダートマス大学卒(1899).ミシガン大学から動物学のPh.D.(1902). 1906年にロンドンのユニバーシティカレッジで K.ピアソンのもとで学ぶ.この間に生物統計学を知り,生物学,優生学の問題に適用する.
 ほとんどの経歴はジョンズ・ホプキンス大学で.1926年に雑誌The Quarterly Review of Biologyを創刊.
 『1790年以来の合衆国の人口増大率とその数学的表現について(On the rate of the growth of the population of the United States since 1790 and its mathematical representation)』Proceedings of the National Academy of Science of the USA, {\bf 6}(1920), 275-288. (リードと共著).この論文でロジスティック方程式が再発見された.
 [解文]    トップ

ハルステッド,ジョージ・ブルース(George Bruce Halsted, 1853.11.23--1922.3.16.)
 アメリカ,ニュージャージー州ニューアークに生まれ,ニューヨークに死す.
 シルヴェスターの指導で論文「双対論理に対する基礎(Basis for a Dual Logic)」によりジョンズ・ホプキンス大学から学位取得(1879).
 テキサス大学教授.学生のR.L.ムーアにヒルベルトの『幾何学の基礎』を調べさせ,公理の1つが余分であることを知ると,それをE.H.ムーアに知らせた.彼も同じことを発見していたが,論法の良さを認め,R.L.ムーアの名前でAMマンスリーに発表することになる.     [伝4,8] トップ

バルタザール(M.Balthasart )
 バルタザール図法(Balthasart projection,1935)は正積円筒図法(cylindrical equal-area projection)の1つ.     [フ19] トップ

ハルチ,フリードリヒ・オットー(Friedrich Otto Hultsch, 1833.7.22-1906.4.6). ドイツ,ドレスデンに生まれ,同地に死す.
 古典文献学者で数学史家.ライプツィヒで教育.ライプツィヒ,ツヴィッカウ,ドレスデンで教職.
 『Griechische und römische metrologie(ギリシャとローマの計量)』(1862,1882),『Scriptores metrologici graeci et romani(ギリシャとローマの著述家の計量学)』(1864-66),ヘロンの幾何学と空間幾何学の批評編集(1864),パッポスの数学選集(1875-78)など     [幾9] トップ

バルテル,カジミエール(Kazimierz W\|{}adys\|{}aw Bartel, 1882.3.3--1941.7.26))
 オーストリア・ハンガリー帝国ルヴフに生まれ,ポーランド,ルヴフに死す.
 ルヴフ工科大学の数学教授の後,1926年から30年の間に3度ポーランドの首相を務める.1941年にルヴフに傀儡政権を作ったヒムラーの命令を拒み,ブリジキ監獄で銃殺される.   [伝10] トップ

ハルト,アンデルス(Anders Hald, 1913.7.3--2007.11.11)
 デンマークの統計学者.コペンハーゲン大学教授(1960--1982).統計学と,確率論史,統計学史に関する著者多数.    [率0] トップ

ハルナック(Carl Gustav Axel von Harnack, 1851.5.7--1888.4.3)
 エストニア,タルトゥに生まれ,ドレスデンに死す.父のテオドシウスはタルトゥ大学の神学教授(タルトゥはエストニアの大学都市).
 エアランゲン大学から,F.クラインの指導で,「 3次曲線の幾何に対する楕円関数の応用について(\"Uber die Verwertung der elliptischen Funktionen f\"ur die Geometrie der Kurven 3. Grades)」により哲学博士(1875)
 ポテンシャル論,実代数幾何.
 ハルナックの不等式,ハルナックの原理,ハルナックの曲線定理    [フ30] トップ

パルパーン(Benjamin Rigler Halpern).

 カリフォルニア大学ロサンゼルス校からR.F.アレンズ(Arens)の指導で, 「外向き写像に対する固定点定理(Fixed Point Theorems for Outward Maps)」によりPh.D.(1965).
 インディアナ大学,カリフォルニア大学バークレイ校教授.
 微分幾何,微分トポロジー.
 ハルパーン・マイヤー・ピラミッド,円柱の裏返し.    [フ文] トップ

パルビエ(Joseph Emile Barbier, 1839.3.18-1889.1.28. ).
 フランス,パ・ド・カレ,サン・イレール・コテに生れ, ロアール,サン・ジェネに死す.
 エコル・ノルマル・シュペリオール入学(1857)以来,数学の能力で有名.卒業後ニースのリセで教えるが,初等教育の数学に意味を覚えず,ルヴェリエの招きでパリ天文台に就職.多少の狂気と宗教活動で捕らえられ,のちベルトランに救われる.
 多面体論,積分幾何,数論などビュフォンの針の問題を積分を用いずに証明する(1860).  [天20] トップ

パルマンティエ(Marc Parmentier).
 フランスの数学者,数学史家, シャルル・ド・ゴール大学リール第3校(Charles de Gaulle Lille III)所属.
 ライプニッツの数学出版物の翻訳とコメント,ジョン・ロックの再評価.
 シャルル・ド・ゴール リール第3大学理工学部.
『ライプニッツ-ロック:数学的陰謀:人間悟性論に関する新しい試論(Leibniz-Locke : une intrigue philosophique : Les Nouveaux Essais sur l'entendement humain)』(2008.11).   [解II.1] トップ

ハルモス(Paul Richard Halmos, 1916.3.3-2006.10.2).
 ハンガリー,ブダペシュトに生まれ,カリフォルニア州,ロス・ガトスに死す.
19歳でイリノイ大学アーバナ・シャンペイン校卒業後(1934),哲学で学位を目指したが,修士の口頭試験に落ちた後,数学に転向. Joseph Leo Doobの指導の下,「ある確率変換の不変量:賭け必勝法の数学的理論(Invariants of Certain Stochastic Transformations: The Mathematical Theory of Gambling Systems)」によってPh.D.取得(1938).
 その後,財政的保証なく高等研究所に行くも,6ヶ月後フォン・ノイマンのもとで働くようになる. 研究所滞在中に『有限次元ベクトル空間(Finite Dimensional Vector Spaces)』を書き,評判を確立する.
 シラキュース大学,シカゴ大学(1946-60),ミシガン大学,カリフォルニア大学サンタ・クララ校(1977),ハワイ大学,インディアナ大学(-1985). 退職後,亡くなるまで,サンタクララ大学 (Santa Clara University,カトリック系の私立大学)に属す.
 実変数関数論,関数解析.組合せ論.
 『測度論(Measure Theory)』(1950),『エルゴード理論(Lectures on Ergodic Theory)』(1956),『有限次元ベクトル空間』『ヒルベルト空間(Introduction to Hilbert Space and the Theory of Spectral Multiplicity)』(1951,日本語訳あり),『素朴集合論(Naive Set Theory)』(1960,日本語訳あり),Algebraic Logic(1962), Lectures on Boolean Algebras(1963)などの標準的な教科書も多数ある.
 問題集もA Hilbert Space Problem Book(1967),Problems for Mathematicians, Young and Old(1991), Linear Algebra Problem Book(1996)がある.
 アメリカでも数学の論文の書き方が問題になってきたのか、学会誌に掲載された『数学の論文の書き方(How to read mathematics,How to write mathematics,How to speak mathematics)』は翻訳される前から多くの人々に読まれている。
 また,数学者の歴史としては 『数学者になりたかった(I Want to Be a Mathematician)』(1985)や『私の写真集(I Have a Photographic Memory)』(1987)などが面白い
 ハルモスの記号(証明終わりの印に,qedではなく,墓標の形■(ユニコードでU+220Eとすると正しい形が出る).tombstoneとかhalmosとよばれる.自伝の中で,この記号が彼の発明ではないことを述べているが,数学書の中で一貫して使い始めたのは彼が最初.   [解IV.4], [天22] トップ

パーレット(Beresford Neill Parlett).
 スタンフォード大学からフォーサイス(George Elmer Forsythe)の指導で「I.行列のバンドルとその小行列式の線形依存性,II.行列の固有値問題へのラゲールの方法の応用(I. Bundles of Matrices and the Linear Indepence of Their Minors; II. Applications of Laguerre's Method to the Matrix Eigenvalue Problem)」によりPh.D.取得(1962),
 カリフォルニア大学バークレイ校数学教授,名誉教授。
 『対称な固有値問題(The symmetric eigenvalue problem)』(1980,1998). [解III.8] トップ

バロー,デイヴィッド・フランシス(David Francis Barrow, 1888.11.14-1970).
 アメリカ,ジョージア州アセンズの生まれ.父デイヴィッド・クレンショ-・バロー,ジュニアも数学者で,ジョージア大学学長(1906-25).ジョージア大学卒業後ハーヴァード大学で学び,1913年にPh.D. 取得.
 テキサス大学で2年間教えた後,ニューヘイヴンのシェフィールド科学学校で教える.アメリカ陸軍で短期の軍務の後,1920年にジョージア大学に.1923年に正教授となる.
 バローの不等式(1937).エルデシュ・モーデルの不等式の証明のためにアメリカ数学月報で提案されたものへの解答として.後にモーデルによって簡単化された. [幾7] トップ

バロー(Isaac Barrow, 1630.10-1677.5.4).
 ロンドンに生まれ、ロンドンに死す。イギリスの聖職者・数学・物理学者。
 初めチャーターハウス校で,後にフェルステッド校で学ぶ.その時の教師マーティン・ホルビーチは清教徒で,以前10年間ジョン・ウォリスのもとで学んだ人だった.フェルステッド校でギリシャ語,ヘブライ語,ラテン語と論理学を学ぶ. ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで古典語と数学を学び, 1648年に学位を取り,1652年にはギリシャ語の教授ジェイムズ・ダポートのもとで修士になる.並行して数学を学ぶ. そののちギリシャ語教授候補となるも,1655年に独立協会派の迫害で逐われ,フランス,イタリア,コンスタンティノープルまで4年ほど旅した.海賊に捕まったりした冒険旅行だったらしい.フランスではロベルヴァルと,フィレンツェではヴィヴィアーニと仕事をした.
 1660年にケンブリッジ大学のギリシャ語のレギウス教授職に就き, 1662年からグレシャム・カレッジの幾何学の教授となり,1664年に初代ルーカス教授(1664)(Lucasian Professorship of Mathematics,ヘンリー・ルーカス(1610頃--1663.7)によって1663年に設置)となる。1669年にこの職を弟子のニュートンに譲ってからは神学に。
 微積分学の先駆者.微分と積分が逆演算であることの幾何的証明.正割関数secantの積分(メルカトル図法での赤道から任意以前までの距離の計算に必要だった). 『ユークリッド原論』の完全版を作り,1655年にラテン語で,1660年に英語で出版.1664,1665,1666年に行った講義録が1683年にLectiones Mathematicaeの名で出版. 1669年に『光学と幾何(Lectiones Opticae et Geometricae)』(1674年に校訂版を出版),1675年にアポロニウスの『円錐曲線論Conics』の最初の4章についての詳細な注釈本を出版.
 幾何学講義(Lectiones Geometricae)のM.Childによる英訳(1735)  [解I.2, 4, II.4, 文], [パ序, 5, 7, 9-12, 15, ノート, 年表], [代入2], [ブ50], [幾2,10] トップ

ハーン,ハンス(Hans Hahn, 1879.9.27--1934.7.24).
 オーストリア,ウィーンに生まれ,ウィーンに死す.
 ウィーン工科大学の学生のとき,親友4人組と言われる友人ポール・エーレンフェスト,ハインリヒ・ティーツェ,ヘルグロッツを持つ.
 シュトラスブール,ミュンヘン,ゲッティンゲンで学んだ後,1905年にウィーン大学で教職につき,1921年に数学の教授になる.1905-06期には,インスブルック大学でシュトルツの代わりをする.
 関数解析,トポロジー,集合論,変分法(ワイエルシュトラスのアイデアを発展させたもの),実解析,order theory.  ハーン=バナッハの定理,一様有界性原理などはバナッハやシュタインハウスとは独立に定式化したもの。 ハーン分解,ハーン埋め込み,ハーン多項式, ハーン=コルモゴロフの定理, ハーン=マズルケヴィッチの定理, ヴィタリ=ハーン=サックスの定理,ヘリンガー=ハーンの定理.
弟子にゲーデルなど.
 1920年代に,フランクやフォン・ミーゼスらとウィーンの科学者や哲学者の集まり(Vienna Circle of Logical Positivists)に加わる.  [伝10],[辞] トップ

バンコフ(Leon Bankoff, 1908.12.13-1997.2.16). アメリカ,ニューヨークに生まれ,ロサンゼルスに死す.歯科医にして数学者.
 ニューヨーク市立大学ののちニューヨーク大学で歯科学を学ぶ.ロサンゼルスに移り,南カリフォルニア大学で教えながら資格を得,60年以上ビバリーヒルズで歯科医を営む.
 ピアノとギターもでき,エスペラント語も流暢で詩を書き,計算機技術にも関心.(高次元を含め)平らな幾何学の専門家でもある.1940年以来,多くの論文を共著で書き,エルデシュとも共著論文がある.1968年から1981年までPi Mu Epsilon誌の問題部門の編集者.300ものトップの問題の責任者だった.モーレーの3分割問題,アルキメデスのアルベロスなど.その中にバンコフの円の発見がある(アルキメデスの双子の円と同等).  [幾7,11] トップ

バーンサイド(William Snow Burnside, 1852.7.2-1927.8.21.)
 イギリス,ロンドンに生まれ,ロンドン,西ウィッカムに死す.
 ケンブリッジ大学ペンブローク・カレッジ卒(1875).教師にはストークスJ.C.アダムズマクスウェルケイリー
 しばらくケンブリッジで教えていたときは楕円関数論を研究.グリニッジ王立海軍大学数学教授になって(1885-1919)のときには,複素変数を使って流体力学を研究.1次分数変換の群を扱うようになり,1894年以降は群論に専念.
 『有限位数の群の理論』The Theory of Groups of Finite Order(1897) は,初めて英語で書かれた群論の教科書で,大きな影響を持つ.
 フロベニウスが発展させた群表現と指標の理論に接し,指標理論を使うようになる.最大の業績は「位数 pm qn を持つ群が可解であること」.(先行研究:n=0の場合はシロー(1872),n=1の場合はフロベニウス(1895),n=2の場合はジョルダン(1898). バーンサイド予想「有限位数の群は可解である」に取り組んだが果たせずこれは,1962年にトンプソンとファイトが300ページを越す論文で証明している.  『有限位数の群の理論』The Theory of Groups of Finite Orderの第2版(1911) ,(日本語訳は『有限群論』伊藤昇, 吉岡昭子訳・解説,現代数学の系譜 9,共立出版,1970)は,フロベニウス理論をとリ入れ,始めて群を抽象代数的に取り扱ったもので,今日でも広く読まれている古典になっている.元の位数がある固定された値である場合の群の有限性を問うバーンサイドの問題は有名で,現在も研究されている.
 後になって確率論に転じ,『確率論』は死後出版されている.スコットランドの自然と釣りを愛し,母校ペンブローク・カレッジからの誘いを断り,グリニッジに留まることにしたという.  [代10, 17, コ], [天23], [ワ1,2,3], [伝4], [辞] トップ

ハーンチェス(Johannes Haantjes, 1909-1956). オランダの数学者.
 1933年にライデン大学から,Willem van der WoudeとJ.A.スカウテンの指導で,Het beweeglijk assenstelsel in de affiene ruimteにより,Ph.D.取得.微分幾何.
 著書多数. [ワ3] トップ

バンチョフ(Thomas Banchoff).
 ブラウン大学教授.ミネソタ大学の幾何センターにも所属していたことがある.トポロジスト. フィルムや幾何センターのホームページで色々な図やアニメーションを紹介している(「球面を裏返す」が有名).   [名15] トップ

ハンド(David John Hand, 1950.6.30-).
 イングランド,ピーターバラの生まれ.
 オープン大学統計学教授(1988-1999),インペリアル・カレッジ・ロンドン教授(1999-)。王立統計協会会長(2008-2009).  多変量解析,分類方法、パターン認識、コンピュータ統計,統計の基礎.
 著書にThe Improbability Principle: Why Coincidences, Miracles, and Rare Events Happen Every Day(2014).   [50.21] トップ

パンルヴェ,ポール(Paul Painlev\'e, 1863.12.5-1933.10.29).
 フランス,パリに生まれ,パリに死す.
 エコル・ノルマル・シュペリユール入学(1883),ゲッティンゲン大学でF.クラインH.A.シュヴァルツに学んだ後,パリ大学からピカールの指導で「解析関数の特異線について(Sur les lignes singuli\`eres des fonctions analytiques)」によりPh.D.取得.
 リール大学教授,パリに戻り(1892),ソルボンヌ,エコール・ポリテクニク,後にコレージュ・ド・フランスで教える.1900年にアカデミー会員.
 微分方程式,パンルヴェ方程式,パンルヴェ超越関数など.弟子にガンビエなど.
 共和主義社会党から政界に入り,第3共和制の,1917年と1925年に首相に選ばれ,数学から離れる. [伝5,6,7], [50.33] トップ


  
  
  
  
  

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