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『数学用語英和辞典 新訂版』

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人名索引総目次    
ベァドンペアノA.ベイカーJ.C.ベイカーペイジ
ベイズベイヤーペイラールベイリーペイリー
ヘイルズヘインヘヴィサイド
ヘーガードヘクスマンベーケヘーゲル
ベジコヴィッチベズーペスタロッチ
ペーターB.ベックマンベックマンヘッケベッケンシュタイン
ヘッセベッセルヘッセンベルクベッティベーテ
ペテルセンペドーペトロフペドリーベネクァン
ヘラクレイトスヘラルド、クレモナのペラン
ベリーR.L.ペリーへリンガー
ベルペルベールベルカンベルグレン
ヘルグロッツベルジェヘルシュタインヘルダーベルトラミ
ベルトランベルトレーベルナイスベルヌーイ、ダニエル Iベルヌーイ、ヤーコプ I
ベルヌーイ、ヨハン Iベルヌーイ、ヨハン IIヘルフゴットD.ヘルマンベールマン
ヘルムホルツヘルメスF.ベルンシュタインS.N.ベルンシュテインペレリマン
ペローベーレンツヘロドトスヘロンペロン
ベンベンコヘンゼルヘンダーソンベンフォード
ヘンペルヘンリシL.ペンローズR.ペンローズ

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ベァドン(Alan Frank Beardon, 1940.4.16-)
 Walter Kurt Haymanの指導でインペリアル・カレッジ・ロンドンから博士号.  ケンブリッジ大学関数論教授,2007年名誉教授.
 古典解析,保型関数.双曲幾何と離散群.ジュリア集合,メビウス変換,クライン群,円充填,ハウスドルフ次元.
  『複素解析:解析とトポロジーの推論原理(Complex analysis: the argument principle in analysis and topology)』(1979), 『離散群の幾何(The Geometry of Discrete Group)』(1983), 『リーマン面への手引き(A primer on Riemann surfaces)』(1984), 『極限:実解析への新しいアプローチ(Limits: A New Approach to Real Analysis)』(1997) 『有理関数の反復:複素解析力学系(Iteration of Rational Functions: Complex Analytic Dynamical Systems)』(2000), 『代数と幾何(Algebra and Geometry)』(2005), 『創造的数学:研究への道(Creative Mathematics: A Gateway to Research)』(2009).  [名序, 文] トップ

ペアノ、ジュゼッペ(Giuseppe Peano, 1858.8.27-1932.4.20).
 イタリア、ピエモンテ、クーネオの北、テット・ガラントに生まれ、トリノに死す。
 トリノ大学を1880年卒業と同時に助手、私講師(1884)、無限小解析の助教授(1890)、正教授(1895-1931)。王立士官学校教授(1886-1990)。数学・論理学者。記号論理学の創始者。自然数論、選択公理。ペアノの公理、ペアノ曲線。 彼の考案した記号には、∪∩∀∃など。∈⊃ 等は εを使ったり、C をひっくり返したりしたものを使った。空集合や全体集合の記号も作ったが、使われていない。
 彼自身最大の業績と考えた『数学公式集』全5巻はほとんどの分野の定理と公式を含み、歴史的注も詳しく、素晴らしいものだったが、彼自身の考案した表記法で書かれ、初心者には難しかった。それでも初版(1895)から4版まではフランス語で書かれていたが、5版(1908)は彼自身の発明である国際言語Interlingua(これを作ったのは1903年)で書かれていたので、後の影響力はなかった。
 エピソードを一つ。1894年にフランスの科学アカデミーにある写真家が猫の落下の写真を示し、背中から落とされた猫が回転して着地するのは角運動量保存法則に反するのではないかという議論を起こし、新聞にも載り、大衆的な話題になったことがあった。ペアノは大衆を喜ばす解答をした。「猫は背中が上を向くように体を回すだけ、その尻尾を反対側に回す。」
 ペアノの公理については日本語の訳『ペアノ 数の概念について』(小野勝次・梅沢敏郎訳・解説)現代数学の系譜2共立出版を参照。 [解0, IV.0-5, 文], [伝3,6], [フ26], [基8,9,12], [幾9], [孫数2], [クI.3.4], [クII.3.3] トップ

ベイカー,アラン(Alan Baker, 1939.8.19-.)
 イギリス,ロンドンの生まれ.
 ケンブリッジ大学(トリニティ・カレッジ)からダヴェンポートの指導で「ディオファントス近似の幾つかの様相(Some Aspects of Diophantine Approximation)」により学位(1964), フェローの後1974年に教授.
1970年ニースの国際数学者会議でフィールズ賞受賞,数論,特にディオファントス方程式の研究で.ヒルベルトの第7問題の解決.超越数論.
 『超越数論(Transcendental Number Theory)』(1975), 『初等数論講義(A Concise Introduction to the Theory of Numbers)』(1984,日本語訳(1992)あり), 『対数形式とディオファントス幾何(Logarithmic forms and Diophantine geometry)』(2007, G.W\"ustholz と共著) . [珠訳序, 文],[天VI.5] トップ

ベイカー,ジャスティン(Justine C. Baker)
 ペンシルヴァニア大学からPh.D. 数学と数学教育を教える.  モーレーの3分割定理に関して,オークリーとの共著論文
 コンピュータ使用の教育に関する著作がある. Computers in the curriculum(1976),Microcomputers in the Classroom (Fastback)(1982.6) [幾4] トップ

ペイジ,ラリー(Lawrence Edward "Larry" Page, 1973.3.26--) アメリカ,ミシガン州イーストランシングの生まれ.
 父母はともにミシガン大学教授.ミシガン大学で計算機工学を学び,学士(1995).スタンフォード大学のcomputer science PhD programに進む.Terry Allen Winogradの指導で,ウェブのリンク構造、人間とコンピュータの相互作用、検索エンジン、情報アクセスインタフェースの拡張性、個人的なデータのデータマイニング手法などを研究.そのうち博士課程在学中のセルゲイ・ブリンと会い,「大規模なハイパーテキスト的なウェブ検索エンジンに関する解剖」を共同執筆.修士取得後休学し,Google社を共同設立(1998).論文の内容からgoogleの検索ランキング技法のペイジランクを確立.  [50.37] トップ

ベイズ(Thomas Bayes, 1702頃--1761.4.17)
 イギリス,ロンドンに生まれ,ケント州,タンブリッジに死す.イギリスの長老派の牧師,数学者,統計学者.エディンバラ大学卒.
 微積分学に対するバークリーの批判に対抗.王立協会フェロー(1742).  ベイズ符号,ベイズ推定法,ベイズ推定量,ベイズの公式,ベイズの逆確率,ベイズ法,ベイズ・リスク,ベイズ方式, ベイズ解,ベイズの法則,ベイジアンフィルター,ベイズ推計,ベイズ型情報量規準,ベイズ・モデル,ベイジアン・ネット,ベイジアン・スパム・フィルター,ベイズ統計.
   [率17]   トップ

ベイヤー,デイヴィッド(David Allen Bayer, 1955.11.29--) ニューヨーク州ロチェスターの生まれ.
 代数,記号代数.
 ハーバード大学から,広中の指導でThe Division Algorithm and the Hilbert SchemeによりPh.D.取得(1982).
 コロンビア大学バーナードカレッジ数学教授. [天VI.31]   トップ

ペイラール,フランソア(François Peyrard, 1759.12.20--1822.10.3.) フランス,オート=ロワール県サン・ヴィクトル・マレスクールに生まれ,パリに死す.
 エコル・ポリテクニクの雑誌の編集,リセ・ボナパルトの教授.ナポレオンがヴァチカンから持ち帰ったものの選別に関わり,古代ギリシャの文献を発見.
 数学関連では,アルキメデスの全集(1807),ユークリッドの諸著作(1804,1814-1818),アポロニウスの円錐曲線論は未刊行.  [幾1,3] トップ

ベイリー(David Harold Bailey, 1948--.)
 アメリカ,ユタ州の生まれ.
 ユタ州,プロヴォにあるブリガム・ヤング大学で修士(1972),スタンフォード大学で,D.オルンシュタインの下でエルゴード理論で博士の学位(1976).防衛関係の計算機部門などで働いたあと,現在バークレイのローレンス国立研究所の主任技術者.多くの賞を得ている.πの計算競争にも参加,1986年にはCRAY2で2936万桁の計算(ボールウェイン兄弟の公式(4次の収束)を利用).また,2進数におけるπの任意桁を計算可能にするBBPアルゴリズムの式(ベイリー=P.ボールウェインプラウフの公式)を発見した(1995).   トップ

ペイリー(Raymond Edward Alan Christopher Paley, 1907.1.7--1933.4.7)
 イギリス,ボーンマスに生まれ,カナダ,アルバータ州,バンフに死す.スキーの事故だった.実の父は彼が生まれる前に亡くなっている.
 イートン校で学び,ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進む.G.H.ハーディリトルウッドに学び,後者の指導でから博士号取得.1930年にスミス賞を受賞し,トリニティ・カレッジのフェローに.ジグムントがケンブリッジに来ていて(1930-31),ペイリーと交流.ジグムントの有名な著書『三角級数(Trigonometric Series, 1935)』にも共同研究の成果が多く盛り込まれる.ウィーナーからの推薦でロックフェラー奨学金により渡米,MITで共同研究.
 級数論,フーリエ積分,直交関数,調和関数,実関数,関数解析.
 ペイリー=ウィーナーの定理,J.アダマール行列に対するペイリー構成,ペイリーグラフ,ペイリー=ジグムントの不等式,リトルウッド=ペイリー理論.   [伝10],[辞]   トップ

ヘイルズ,トーマス(Thomas Callister Hales, 1958.6.4--). アメリカ,テキサス州サン・アントニオの生まれ.
 プリンストン大学から,Robert Phelan Langlandsの指導で「軌道積分の劣正則芽(The Subregular Germ of Orbital Integrals)」によりPh.D.取得(1986).
 ミシガン大学に勤務(1993-2002),ピッツバーグ大学メロン数学教授(2002-).
 ラングランズ・プログラム,基本補題をSp(4)の場合に証明.ハニカム予想の証明(1999).球詰込みに関するケプラー予想の証明.1998年にコンピュータを使った証明を与え,その証明の正しさを保証するためのFlyspeckチームを発足し,コンピュータによらない部分の証明が2005年にAnnals of Math誌に,2006年にはDiscrete & Computational Geometry誌に弟子のファーガソンとの共著で予想の証明の構造が掲載された.2014年にチームのソフトウェアが証明の正しさを保証し,2015年にはヘイルズと21人の共同研究者が「ケプラー予想の形式的証明」という論文がプレプリントのアーカイブに公開され,Forum of Mathematics誌に掲載を受け入られていて,証明は一般には受け入れられている状態にある.  [50.24]   トップ

ヘイン,ピート(Piet Hein, 1905.12.16--1996.4.17).
 デンマーク,コペンハーゲンに生まれ,デンマーク,フュン島に死す.
 科学者,数学者,発明家,デザイナー,作家,詩人.17世紀の(1628年にスペイン艦隊からガレオン船を乗っ取った)オランダの有名な提督ピーテル・ピーテルセン・ヘインの直系の子孫.
 コペンハーゲン大学理論物理学研究所(後のニールス・ボーア研究所)で学ぶ.1972年にイェール大学から名誉学位.  [率25]   トップ

ヘヴィサイド(Oliver Heaviside, 1850.5.18--1925.2.3).
イギリス,ロンドン,キャムデン・タウンに生まれ,デヴォン州,トーキー(Torquay)に死す.
デンマークの大北電信会社(Great Northern Telegraph Company)の技師として働く.
ヘヴィサイドの演算法,ベクトル解析,ヘヴィサイドの階段関数,ヘヴィサイド条件.電離層のケンリー=へヴィサイド層の存在を提案(1902).
若い時(1873)にマクスウェルの論文に出あった時のことを I remember my first look at the great treatise of Maxwell's when I was a young man... I saw that it was great, greater and greatest, with prodigious possibilities in its power... I was determined to master the book and set to work. I was very ignorant. I had no knowledge of mathematical analysis (having learned only school algebra and trigonometry which I had largely forgotten) and thus my work was laid out for me. It took me several years before I could understand as much as I possibly could. Then I set Maxwell aside and followed my own course. And I progressed much more quickly... It will be understood that I preach the gospel according to my interpretation of Maxwell. と述べている.   [伝10],[辞],[幾9]   トップ

ヘーガード,ポウル(Poul Heegaard, 1871.11.2-1948.2.7) デンマーク,コペンハーゲンに生まれ,ノルウェイ,オスロに死す.父Sophusはコペンハーゲン大学哲学教授.ヒーガードとも書かれる.
 コペンハーゲン大学修士(1893).パリを訪れ,ピカールカミーユ・ジョルダンの講義を聞くが,自著の棒読みで面白くなかったという回想.半年後ゲッティンゲンに行き,F.クラインにあう.その後コペンハーゲンに戻り高校教師.コペンハーゲン大学教授(1910-17),オスロ大学教授(1918-1941).ノルウェー数学会会長(1929-1934).
 コペンハーゲン大学から『代数曲面の連結性に関する位相理論の研究』(Forstudier til en topologisk Teori for de algebraiske Fladers Sammenhæng)によりPh.D.取得(1898).この中にポアンカレの双対定理の反例があり,有名になる.18年後にフランス数学会会報に『位置解析について』(Sur l'analysis situs)と改題したフランス語訳が掲載.ポアンカレはホモロジー群における捻じれ(torsion)の存在を見落としていた.
 クライン監修の『数学百科事典』の『位置解析』(Analysis situs)の章をM.デーンとともに執筆.
 組み合わせ位相幾何学,結び目理論.3多様体のへーガード分解,ヒーガード図式,ヒーガードのフレア・ホモロジー,ヒーガード種数,ヒーガード曲面.   [クI.3.4], [クII.2.3]   トップ

ヘクスマン,クラウス(Klaus Hoechsmann)
   カナダ,PIMS(Pacific Institute for the Mathematical Science),教育の世話人(Education Facilitator).
 種々の啓蒙,大空のπという活動.たとえばウサギからバラへ私って病気なの?バラとオウムガイなど  [幾2]   トップ

ベーケ,エマニュエル(Emanuel Beke, 1862.4.24-1946.6.27.) ハンガリー,パーパに生まれ,ブダペシュトに死す.ハンガリー人としての名前はBeke Manó.
 ブダペシュト大学から数学と物理学の学位(1883),博士号(1884).
 1895年までブダペシュトの中等学校で教え,1892/93年を奨学金付きでゲッティンゲン大学留学.数学教育改革運動に関するF.クラインの活動に接し,ハンガリーに帰ったあと,ハンガリーでの数学教育改革運動の指導者に.1895年からはブダペシュトの鉱山ギムナジウムに,1900年からはブダペシュト大学教授に.  [クI附B]   トップ

ヘーゲル,ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770.8.27-1831.11.14.) 神聖ローマ帝国 ヴュルテンベルク公国 シュトゥットガルトに生まれ,プロイセン王国ベルリンに死す.
 形而上学、自然哲学、歴史哲学、政治哲学、法哲学、論理学、美学、哲学史.
 絶対観念論、ヘーゲル弁証法、主人と奴隷の弁証法(Master-slave dialectic)、弁証法的止揚、精神(Geist)、人倫(Sittlichkeit)
 「真理は全体である」、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
 主著に,『精神現象学(Phänomenologie des Geistes)』(1807),『大論理学(Wissenschaft der Logik)』(1812-16),『エンチクロペディー(Enzyklopaedie der philosophischen Wissenschaften)』(1817, 1827, 1830):第一部 小論理学,第二部 自然哲学,第三部 精神哲学,『法哲学(綱要)(Grundlinien der Philosophie des Rechts)』(1821).  [孫数3], [クI.3.3]   トップ

ベジコヴィッチ(Abram Samoilovitch Besicovitch, Абрам Самойлович Безикович, 1891.1.24--1970.11.2)
 ロシア帝国,ベルジャーンシク(現在,ウクライナ)に生まれ,イギリス,ケンブリッジに死す.
 サンクトペテルブルク大学からA.マルコフの指導でPh.D.取得(1912).確率論の研究を始める.ペルム国立大学教授(1917).2年以上ロシア内戦で拘束.ペトログラード大学に勤める(1920).
 ロックフェラー奨学金でコペンハーゲンのH.ボーアを訪ね,概周期関数の研究(1924).オックスフォード大学にG.H.ハーディを訪ねた後,リバプール大学(1926-),ケンブリッジ大学教授(1927-1958).その間,アメリカを8年間旅して,ケンブリッジ大学トリニティカレッジに戻り死ぬまでそこに住む.1950年にラウズボール教授職をリトルウッドから引き継ぐ.
 組み合わせ論,実解析,掛谷問題.経済学者Piero Sraffaに影響.イギリスでのベイズ運動の創設者に.
 ハウスドルフ--ベジコヴィッチ次元,ベジコヴィッチ関数,ベジコヴィッチ被覆定理,コヴナー--ベジコヴィッチ測度.  [天VI.35]   トップ

ベズー(Étienne Bézout, 1730.3.31-1783.9.27.)
 フランス,ネムーラに生まれ,バス・ロージュ(フォンテーヌブローの近く)に死す.
 士官候補生学校(1763-),王宮砲兵学校(1768-)で試験官になり,義務として書いた教科書『数学教程』Cours complet de mathematiques a l'usage de marine et de l'artillerie(1770完成)は広く読まれ,長年エコール・ポリテクニクの入試のための必須参考書になっていた.
 連立1次方程式のクラメールの解法を発見(クラメールはそれを一般化した)(『代数方程式の一般論(Théorie générale des équations algébriques)』1779).高次連立方程式の解の個数に関するベズーの定理の証明(結果そのものはマクローリンが述べていた).  [パ附2, ノート, 年表], [代入2], [伝2], [フ17], [ル2], [幾9], [クII.2.5] トップ

ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi, 1746.1.12-1827.2.17). スイス,チューリヒに生まれ,スイス,ブルックに死す.教育実践家.スイスのドイツ語圏とフランス語圏にいくつかの教育施設を作る.
 イヴェルドンのペスタロッチ学校に入学できなければ,シュタイナーが数学者になることはなかったかもしれない.
  [幾4], [クII.3.4] トップ

ペーター(Fritz Peter , 1899-1949). ドイツの数学者.
 ワイルの弟子.後に高校の校長になる.  ペーター・ワイルの定理.  [ワ7] トップ

ベックマン,ブライアン(Brian Beckman). 父親のヘンリー(1921.11.26-2008.6.17)は俳優.
 ファインマンによる,解析を使わないでニュートンからケプラーを出すという主張の論文.アマチュアのレイサーで,天体物理学者でソフトウェア・エンジニア.マイクロソフトに勤務.[幾5] トップ

ベックマン(Petr Beckman, 1924.11.13-1993.8.3)
 チェコスロヴァキア,プラハに生まれ,アメリカ,コロラド州ボルダーに死す.
 1939年ナチから逃れるために家を離れ,イギリス空軍のチェコ中隊で働く(1942-45). フラハのチェコ科学アカデミーから電気工学の学士(1949),Ph.D.(1955),博士(1962). 1963年アメリカに亡命,コロラド大学電気工学教授に,後名誉教授.アメリカで小説家のアイン・ランドと親しくなる.
 多産な科学書の書き手となる.反核運動,相対性理論への批判. 数学関連としては『πの歴史(A History of π)』(1971, 日本語訳(1973)あり)..   [名2, 文] トップ

ヘッケ(Erich Hecke, 1887.9.20--1947.2.13.)
 ドイツ,ポーゼン(現在はポーランド,ポズナニ)に生まれ,デンマーク,コペンハーゲンに死す.
ベルリン大学でランダウに,ゲッティンゲン大学でヒルベルトに学ぶ.その指導で論文「2変数のモジュラー関数と整数論への応用(Zur Theorie der Modulfunktionen von zwei Variablen und ihrer Anwendung auf die Zahlentheorie)」で学位取得(1910). ヒルベルトとF.クラインの助手になり,1912年に教授資格をゲッティンゲンに申請,私講師として教える権利を得る.バーゼル大学教授(1915),ゲッティンゲン大学教授(1918),ハンブルク大学教授(1919). 弟子にライデマイスター,ベーンケなど.
ヘッケ代数,ヘッケ指標,ヘッケ群,ヘッケ作用素,ヘッケ多項式,ヘッケ環,ヘッケのL関数,ヘッケのゼータ関数.   [伝9], [フ3],[辞] トップ

ベッケンシュタイン,ヤコブ(Jacob David Bekenstein, 1947.5.1-2015.8.16).
 メキシコ,メキシコシティに生まれ,フィンランド,ヘルシンキに死す.1968年にアメリカの市民権獲得.後,イスラエルの市民権も持つ.物理学者.
 ブルックリン工科大学(現在はニューヨーク大学工学大学院)で学び,修士を獲得後(1969),プリンストン大学に移り,John Archibald Wheelerの下でPh.D.取得(1972).ポスドクとしてテキサス大学オースティン校(1972-74)にいた後,イスラエルに移住.南部地区のベエルシェバにあるネゲヴ・ベン=グリオン大学で教え始め,1978年までに正教授となり,1983年には天体物理学部門の長となる.1990年にエルサレムのヘブライ大学の教授となり,3年後に理論物理学科の長となる.
 ブラックホール熱力学.ブラックホール脱毛定理(=アインシュタインマクスウェル方程式での軸対称定常解は、カー・ニューマン解に限られる).ブラックホールからの熱輻射(ベッケンシュタイン・ホーキング輻射).3次元ブラックホールのホーキング・ベッケンシュタインのエントロピーベッケンシュタイン・ホーキング.ベッケンシュタイン・ホーキングの公式. [50.29] トップ

ヘッセ(Ludwig Otto Hesse, 1811.4.22-1874.8.4).
 ドイツ、ケーニヒスベルク(現在はロシア、カリーニングラード)に生まれ、ミュンヘンに死す。
 ケーニヒスベルク大学からC.ヤコビの指導でDe octo punctis intersectionis trium superficium secundi ordinisにより哲学博士(1840). 卒業後同大学講師(1840),特別教授(1845)。ハレ大学教授(1855),ハイデルヘルク大学(1856-68)、ミュンヘン工科大学(1856-)。
 解析幾何,射影幾何,線形代数,代数関数論、変分法. 消去法、ヘッシアン(1842), ヘッセ曲線,ヘッセ多様体,ヘッセの標準形,ヘッセの3次曲線.
 弟子にC.ノイマンG.キルヒホッフ,A.C.G.マイヤー(Maier),シュレーダーヴェーバーなど.  [解IV.4, 文], [名19], [伝3,6], [幾7,9] トップ

ベッセル(Friedrich Wilhelm Bessel, 1784.7.22-1846.3.17.)
 ブランデンブルク(現在ドイツ領)、ミンデンに生まれ、プロシャ、ケーニヒスベルク(現在ロシア領、カリーニングラード)に死す。
 ケーニヒスベルク大学教授(1810-)。同地にプロシャのフリードリヒ・ウィルヘルム3世の新しい天文台長を勤める(1800-)。 1607年以来のデータに基づき、ハリー彗星の軌道の計算(20才のとき)。50000以上の星の位置と本当の(見掛けのではない)運動を決定する。
 三体問題の研究のため、ベッセル関数を導入し(1817)、惑星の摂動の研究のためにベッセル関数の理論を深めた(1824)。ベッセル楕円体.統計におけるBessel's correction.ベッセル要素.  [解人], [パ25, 年表], [名人], [作付B], [クI.3.1,3.2] トップ

ヘッセンベルク(Gerhard Hessenberg, 1874.8.16-1925.11.16.)
ドイツ,フランクフルトに生まれ,ベルリンに死す。
 ベルリン大学から,H.A.シュヴァルツL.I.フックスの指導で,「線形および2次の2項微分形式の不変量とその曲面の変形への応用(Über die Invarianten linearer und quadratischer binärer Differentialformen und ihre Anwendung auf die Deformation der Flächen)」により哲学博士号取得(1899).
 射影幾何,微分幾何,集合論.
 ベルリン工科大学で教授資格(1901),ボン農業アカデミー教授(1907),ブレスラウ工科大学教授(1910).  デザルグの定理がパッポスの6角形定理の帰結であることを証明.微分幾何の接続の概念の導入.順序数のヘッセンベルク和(積).ヘッセンベルクの定理.ただし,ヘッセンベルク行列は親戚のカールによるもの. [クII.2.3] トップ

ベッティ(Enrico Betti, 1823,10.21--1892.8.11.)
  トスカナ(現在イタリア),ピストーイアに生まれ,イタリア王国,ピサ,ソイアナに死す.
  ピサ大学卒,数学の学位取得後(1846),助手.イタリア独立戦争に参加. 1849年にピストーイアに戻り中学校教師に.1854年にフィレンツェに移ってまた中学校教師.1857年ピサ大学高等代数学教授に.翌年,F.ブリオスキ,カソラティとともにゲッティンゲン,ベルリン,パリに遊学.特にリーマンと知己になる. 1859年にピサ大学に戻り,解析と高等幾何学教授に. 1862年に,新しく統一されたイタリアの国会議員となる. 1863年にリーマンがイタリアを訪れ,友情が固くなるとともに強い数学的影響を受ける. ピサ大学学長を1期努め,1864年にピサの高等師範学校の校長となり,死ぬまでその職にあった.
 ガロアの仕事の理論化,そこで犯した失敗はすべての群拡大が分解すると仮定したことから起きた. 1871年に書いたトポロジーの本で,ベッティ数を定義(名前はポアンカレが命名).   [伝3,5,9,10],[ワ8],[辞],[クII.3.3] トップ

ベーテ(Hans Albrecht Bethe, 1906.7.2-2005.3.6).  ドイツ,シュトラスブルクに生まれ,アメリカ,ニューヨーク州イサカに死す.
 原子核物理,天体物理学,量子電磁力学,固体物理学.恒星内元素合成に関してノーベル賞受賞(1967).
 フランクフルト・アム・マインのゲーテ・ギムナジウムで中等教育,後フランクフルト・アム・マイン大学で物理学を学び、ミュンヘン大学でゾンマーフェルトの指導で博士号を得る。ケンブリッジ大学などでのポスドクの後、テュービンゲン大学の教職員となった。 母がユダヤ人であったため、ナチスが政権を握った1933年にドイツからイギリスに逃れ、マンチェスター大学講師(1933-34年),1935年にはアメリカのコーネル大学教授.
第2次大戦中は,原爆製造のロス・アラモス研究所の理論部門の長,臨界質量の計算に主要な役割,戦後は水爆製造に重要な役割.それには反対したのだが,大統領のトルーマンに押し切られる.のちに,アインシュタインとともに,核科学者の緊急委員会と核実験と核兵器競争に反対する運動.また,ケネディとニクソン政権に、1963年の核実験禁止条約と1972年の弾道ミサイル条約(SALT I)の署名を説得する支援をした.
 ベーテ仮設(Bethe ansatz)はハイゼンベルク模型の厳密解を求める中で発見されたものだが,超弦理論や超電導など,統計的モデルの厳密解を求めるのに広く用いられている.ベーテ格子,ベーテ・サルピータ方程式,ベーテ・スレイター極線,ベーテ・ヴァイツゼッカーの公式,ベーテ・ヴァイツゼッカ過程(=CNOサイクル)
 弟子は多い.学生の一人だったファインマンは彼をsupreme problem-solver of the 20th century(20世紀最高の問題解決者)と呼んだと言う. [50.24] トップ

ペドー(Daniel Pedoe, 1910-1998).
 イギリス,ロンドンの生まれ.父は1890年代にポーランドから移民.奨学金を得てケンブリッジ大学に入学,マグダレン・カレッジで学び,数学でのチューターはラムゼイ.1935年にプリンストン大学を訪れ,高等研究所の所員となりレフシェッツと働く.
 ケンブリッジ大学からH.F.ベイカーの指導で「代数曲面上の例外曲線(The Exceptional Curves On An Algebraic Surface)」によりPh.D.取得(1937).代数幾何のイタリア学派に関するベイカーの仕事に基づいたもの.
 サザンプトン大学(1936-)に勤めていた時にダイソンと友人になる.バーミンガム大学(1942-1946),ロンドン大学ウェストフィールドカレッジ(1947-52). 1952年にスーダンに移り,ハルツーム大学に勤務.この間に『数学のやさしい活動:円(The Gentle Art of Mathematics, Circles)』や『射影幾何入門(An Introduction to Projective Geometry)』を書く.
1958年にシンガポール大学に移る.1962年にインディアナのパーデュー大学に移り,2年後ミネソタ大学に移って,1980年に引退するまで勤め,名誉教授になる.
 引退後,深川英俊からアプローチを受け,算額に興味をもつようになり, 『日本の幾何―何題解けますか?』(1991, 深川英俊と共著)に結実.
『代数幾何の方法(Methods of Algebraic Geometry)』(W.V.D.ホッジと共著)3巻(1940年代,1995年に再刊)
 ペドーの不等式.   [フ文] トップ

ペトロフ(Fedor V.Petrov).
 サンクトペテルスブルク大学卒(2004),スチェクロフ研究所サンクトペテルスブルク分局から,A.M.ヴェルシクの指導で,「凸曲線と凸曲面上の有理点の数の評価(Estimates of the Number of Rational Points on Convex Curves and Surfaces)」によりPh.D.取得(2007).
 スチェクロフ研究所サンクトペテルスブルク分局・表現論と計算数学ラボ,デミドフ・ヤロスラヴリ国立大学離散幾何と計算幾何のデローネラボ(2011年発足).  整数論,凸幾何,数の幾何,漸近組合せ論,測度論. [フ文] トップ

ペドリー,ティム(Timothy John "Tim" Pedley, 1942.3.23-). イギリス,レスターシャー,レスターの生まれ.
 流体力学の生物学や薬学への応用.
 ラグビー校卒業後,ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒.ケンブリッジ大学から,George Keith Batchelorの指導で,Plumes, Bubbles and Vortices(プリューム(マントルの上昇流),泡,渦)により,Ph.D.取得(1966).
 ジョンズ・ホプキンス大学で3年間ポスドクをした後,インペリアル・カレッジ・ロンドンで講師(1968-73),1990年までケンブリッジ大学DAMTP(応用数学と理論物理学科)に,その後リーズ大学で応用数学教授,1996年にケンブリッジに戻りDAMTPの学科長.流体力学G.I.Taylor教授職(1996-2009). 2008年にIMAの金賞受賞.IMA所長(2004-2005).
 生物学的現象にPedleyは流体力学を応用する先駆者.動脈における血流、弾性チューブ内の流れ構造の相互作用,肺における流れと圧力損失,泳ぐ微生物の集団行動など.  [50.47] トップ

ベネクァン(Daniel Bennequin).
 パリ7大学(=デニス・ディドロ大学)から)Alain Chencinerの指導で,「プァッフ方程式の交錯(Entrelacements et \'equations de Pfaff)」によりPh.D.取得(1982).トムの弟子.
 ストラスブール,ルイ・パスツール大学,パリ大学(6), パリ大学(7)幾何と力学チーム.
 ルジャンドル結び目.  サーストン=ベネクァン数(=ベネクァン数),ベネクァン予想,スライス・ベネクァン不等式,波面のアーノルド=ベネクァン型の不変量.ルジャンドル曲線のベネクァン不変量.
    [フ文] トップ

ヘラクレイトス、エペソスの(Heraclitus of Ephesus, 紀元前535頃-475頃).
 アルテミス神殿で有名な小アジアの都市エペソスの生まれ.貴族階級に属し,民主制には批判的.  プラトンが引用した『πάντα ῥεῖ(パンタ・レイ)万物は流転する』が有名だが,それが記載されたものは断片にも残っていない.
 自然は絶えず変化するが,その背後に変化しないロゴスがあるともいう.そのロゴスは火だとする.アナクシマンドロスから対立と変化を,ピュタゴラスからは調和の考えを受け継いだと言われるが,ピュタゴラスには批判的. 火を万物のアルケーとする考えは,水とするタレスと異なる.「同じ川に2度入ることはできない」という言葉は日本人には方丈記と響き合って,人気がある.哲学史上初めて、「根源的な一者」と「多くの表面的なもの」との関連を打ち出したと考えられている. [幾6], [孫数1] トップ

ヘラルド、クレモナの=ゲルハルト・クレモナ(Gherald(=Gerald) of Cremona = Gerhard Cremona = Gerardus Cremonensis, 1114-1187).
 イタリア、クレモナに生まれ、スペイン、トレドに死す。
 当時トレドの図書館には大量のイスラムの写本があって、本格的な翻訳の学校があった。 プトレマイオスの『アルマゲスト』のラテン語訳はなく、それを読むためアラビア語を学びにトレドに行った。 『アルマゲスト』とユークリッド『原論』をアラビア語からラテン語に翻訳したが、それらはそれ以前にもなくはなかったギリシャ語からの翻訳より受け入れられた。 サインの用語は彼の翻訳によるという説もある(チェスターのロバートの項参照)。 [解I.1] トップ

ペラン(Jean Baptiste Perrin, 1870.9.30-1942.4.17) フランス,ノール県リールに生まれ,ニューヨークに客死する.
 パリのリセ・ジャンスン・ド・セリーで数理科学を学ぶ.同級生にカルタンがいた.パリの高等師範学校で学んだ。パリ大学で物理学の講師となり、1910年から1930年まで高等師範学校教授.物理学者.
 1890年代は陰極線の研究,1901年に原子核のまわりを電子が回っているという原子模型を最初に発表したが、この当時は注目されなかった。1908年から、ブラウン運動に関する精密な実験を行い、分子理論を実証した。1913年著書『原子』を出版した。ノーベル物理学賞(1926)
 1936年にレオン・ブルム内閣の科学研究担当国務次官になり,ドイツのフランス占領中はアメリカに逃れる. [伝] トップ

ベリー(Michael Victor Berry, 1941.3.14-) イギリス,サリーの生まれ.数理物理学者.
 エクセター大学から理学士.セント・アンドリューズ大学からRobert B. Dingleの指導で,「超音速による光の回析(The Diffraction of Light by Ultrasound)」によりPh.D.(1965). ブリストル大学研究フェロー(1965-67),講師(1967-74),リーダー(1974-78),物理学教授(1978-88).
 ベリー相(Berry phase),ベリー・ロビンズの問題.
 彼のHPで述べられている発見の3法則:
 アーノルドの法則:発見が真の発見者の名で呼ばれることは稀である.
 ベリーの法則:何ものも初めて発見されるということはない.
 ホワイトヘッドの法則:重要なことは何であれ,それ以前に,それを発見しなかった人によって述べられている.
   [フ15] トップ

R.L.ペリー(R.L.Perry)
   ロンドン大学から「確率論の複素関数論への応用におけるいくつかの問題(Some Problems in the Application of Probability Theory to the Theory of Functions of the Complex Variable)」によりPh.D.取得(1952).
 B.F.Oakleyとの共著論文「標本抽出仮定(A Sampling Process)」(Mathematical Gazette, 1965年2月号)  [率答] トップ

へリンガー,アーネスト(Ernst David Hellinger, 1883.9.30--1950.3.28) ドイツ,シレジア,ストリエガウ(現在ポーランド領)に生まれ,アメリカ,イリノイ州シカゴに死す.
 ブレスラウで成長し,ギムナジウム卒業まで(1902).ハイデルベルク大学に入学,ブレスラウ大学に移り,ゲッティンゲン大学へ.ゲッティンゲン大学からヒルベルトの指導で,『無限変数の2次形式の直交不変量(Die Orthogonalinvarianten quadratischer Formen von unendlichvielen Variablen)』によりPh.D.取得(1907).
 ゲッティンゲン大学(1907-1909),マールブルク大学(1909-1914),フランクフルト大学(1914-1935)で教鞭.ゲッティンゲン大学時代にはF.クラインの助手で,『高い立場から見た初等数学』の編集やヒルベルトの講義録も編集.
 1933年にナチが政権をとってから圧迫を受け,1936年にフランクフルト大学唐津法,ついに1938年11月13日に逮捕され,ダッハウ強制収容所に入れられた.友人たちの奔走で,アメリカのノースウェスタン大学での仕事を手配してもらい,6週間後に釈放された.1939年にノースウェスタン大学講師となり,教授(1945),名誉教授(1949).
 積分方程式,無限方程式系,実関数,連分数などの研究.
 へリンガー積分,へリンガー距離,へリンガー・テプリッツの定理,へリンガー・ハーンの定理. [クI序,II序] トップ

ベル,エリック・テンプル(Eric Temple Bell, 1883.2.7--1960.12.21)
 スコットランド,アバーディーンシャー,ピーターヘッドに生まれ,アメリカ,カリフォルニア州ワトソンヴィルに死す.
 生後15ヶ月でアメリカ,カリフォルニア州サンノゼに移住.父の死でイギリス,ベドフォードに戻ったあと,1896年1月にアメリカに戻り,1902年にモントリオールに移る。大学はスタンフォード大学(1905年入学),ワシントン大学で修士(1908年取得),コロンビア大学で博士(1912年取得),論文はhe Cyclotomic Quinary Quinticで指導教授はC.J.Keyser.
 ワシントン大学で教え始め(1912-),後にカリフォルニア工科大学教授(1926).MAA会長(1931-33).
 数論の研究でベル級数,組合せ論でベル多項式やベル数など,また数理解析でボッチャー賞を受賞(1924).
 1920年代から詩を書いたりSFを書いたりした.筆名はJohn Taine.
 Algebraic Arithmetic (1927) のような数学の本も書いているが, 1937年に出版したMen of Mathematics(「数学を作った人々」)は多くの人に影響を与え,その刺激で数学者になった人も少なくない.例えば,J.F.ナッシュワイルズは有名.歴史学的には正しくないと批判されることも多かったが,その後もDevelopment of Mathematics(1940),Mathematics, Queen and Servant of Science (1951), The Last Problem といった書物も出版した.最初の本ほど読まれているわけではないが,失敗作というわけではない.
 ベル級数,ベル多項式,ベル数,ベル三角形(=パース三角形(Charles Sanders Peirce),アイトケン列),順序ベル数(=フビニ数)など.  [作付B]  トップ

ペル,ジョン(John Pell, 1611.3.1--1685.12.12)
 イギリス,サセックス州サウスウィックに生まれ,ロンドン,ウェストミンスターに死す.
 13歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学.学士(1629).1630年代はドイツから来たSamuel Hartlibの影響下にあり,教育学、百科全書主義、組合せ論、トリテミウスの隠秘学などを研究.1638年には普遍言語を提案.数学では代数学の範囲を広げることと数表に専心.時代はルネサンスの風が吹いていた.
 1638年10月に出版したIdea of Mathematicsのおかげで,メルセンヌなどから連絡があり,色々な人の推薦でアムステルダム数学教授職に(1644).
 有名な業績はペル方程式とペル数.x2-2y2=1がペル方程式と呼ばれるのは,フェルマ―が出したこの方程式の整数解を求めよという国際的な出題に,ブラウンカーが解法を与えたのだが,それをオイラーがペルの仕事と勘違いしてペル方程式と命名したからである.  [天VI.3] トップ

ベール(René-Louis Baire, 1874.1.21--1932.7.5)
 フランス,パリに生まれ,シャンベリに死す.
  アンリIV世校の数学特進科(1890)を終え,ポリテクとノルマルの両方の試験に受かり,エコル・ノルマル入学(1891).エコル・ノルマルから『実変数関数について(Sur les fonctions de variables réelles)』によりPh.D.取得(1899).
 モンペリエ大学のメトル・ド・コンファレンス(1901).コレージュ・ド・フランスで解析を教え,ディジョン大学教授(1907-25) ベールのカテゴリー,ベール関数,ベール測度,ベール集合,ベール空間.
 弟子にはダンジョアなど. [伝7,10] トップ

ベルカン(Gustav Waldemar Berkhan, 1882.6.17-1914.10). ドイツ,ハンブルグの生まれ.
 ミュンヘン大学とケーニヒスベルク大学に学ぶ.ケーニヒスベルク大学からF.W.F.マイヤーの指導で,『三角形幾何学の射影的取り扱い(Zur projektivischen Behandlung der Dreiecksgeometrie)』により哲学博士号取得(1905).
 数理科学百科事典の三角形幾何学の最新研究の記事を書いたが,第1次世界大戦の最前線で殺されたため,マイヤーが記事を完成した.  [クI附B],[クII附A] トップ

ベルグレン(John Lennart Berggren,1941-.).アメリカ,ワシントン州スポケーンの生まれ.
 アメリカ,シアトル,ワシントン大学学士(1963),修士(1965).同大学からCharles Ray Hobbyの指導で「あらゆる元がその逆元と共役な有限群(Finite Groups in which Every Element is Conjugate to its Inverse)」によりPh.D.取得(1966)
 カナダ,バーナビー,サイモン・フレイザー大学数学助教授(1963-73),准教授(1973-84),教授(1984-2006),名誉教授(2006).ウォーリック大学数学非常勤講師(1968-69),イェール大学客員フェロー(1972-73,1975-76),ハーヴァード大学科学史客員研究員(1990-91,1992).
 数学史.古代ギリシャ,中世アラビア数学の幾何,地図製作,天文学.特に,プトレマイオスアルキメデス,Abu Sahl al-Quhi(940-1000)など.
 『π:原典(π:A Source Book)』(1997,P.ボールウェインボールウェインと共著) 『プトレマイオスの地理学:(Ptolemy's Geography: An annotated translation of the theoretical chapters)』(2000, Alexander Jonesと共著), 『中世イスラムの数学(Mathematics in Medieval Islam)』(1986), 『ユークリッドの諸現象:球面天文学のヘレニズムの業績の翻訳と研究(Euclid's Phaenomena: A Translation and Study of a Hellenistic Work in Spherical Astronomy)』(1996,R.S.D. Thomasと共著).
 弟子にGlen Robert Van Brummelenなど.   [名2, 文], [幾5], [天VI.27] トップ

ヘルグロッツ,グスタフ(Gustav Herglotz, 1881.2.2-1953.3.23.) オーストリア・ハンガリー帝国ヴォラリに生まれ,西ドイツ,ゲッティンゲンに死す.  ミュンヘン大学からゼーリガー(Hugo Hans von Seeliger)とボルツマン(Ludwig Boltzmann)の指導で「主慣性軸3つが異なる惑星体の見かけの輝度比について(Über die scheinbaren Helligkeitsverhältnisse eines planetarischen Körpers mit drei ungleichen Hauptträgheitsachsen)」により哲学博士号取得(1900).クラインF.クラインのもとでハビチタシオンを書く.
 ライプツィッヒ大学,ウィーン大学,ゲッティンゲン大学に勤務.ルンゲの後任としてゲッティンゲン大学で応用数学を教え(1925-1947),名誉教授.
 関数論,演算子法,微分幾何,整数論,天体力学,電気理論.
 双曲型作用素に対するラキュナについて,ペトロフスキーの結果を拡張.ヘルグロッツの定理(正の定符号数列の積分表示).ヘルグロッツの定理(円内で正の実部を持つ関数に対する積分表示).ヘルグロッツの表現定理(1911),相対論的弾性理論(1911).ヴィーヘルト‐ヘルグロッツ法(Wiechert–Herglotz method),ヘルグロッツ・ネーターの定理(1909)[Fritz Alexander Ernst Noether(1884.10.7-1941.9.10)はE.ネーターの弟],ヘルグロッツのトリック.
 弟子にE.アルティンなど.   [天19], [天VI.9,26] トップ

ベルジェ(Marcel Berger, 1927.4.14-.) パリの生まれ.A.リヒネロヴィッツの指導で学位.
 パリ第7大学,フランス国立科学研究センター(CNRS)教授(1974-1985, 1994-), IHES所長(1985-1994).
リーマン幾何学,ピンチング定理.
著書も多く,いくつかの数学雑誌や数学シリーズの主編集者も勤めている.
アインシュタイン多様体に対するベルジェ不等式,ベルジェ=カジダンの比較定理.   [名序, 17, 文] トップ

ヘルシュタイン(Israel Nathan Herstein, 1923.3.28-1988.2.9)
 ポーランド,ルブリンに生れ,アメリカ,イリノイ州,シカゴに死す.
 家族でカナダに移民し,マニトバ大学で学士,トロント大学で修士.インディアナ大学からM.ツォルンの指導で,「因子代数(Divisor Algebras)」によりPh.D.取得(1948).シカゴ大学教授(1951).
 抽象代数学,数理経済学.特に群環体の可換性の条件や,有限部分群などに興味.各種の代数学の教科書でも有名.   [天5], [天VI.6] トップ

ヘルダー(Otto Ludwig H\"older,1859.12.22-1937.8.29).
 ドイツ、シュトゥットガルトに生まれ、ライプツィヒに死す。
 ザクセン科学アカデミー会員。 1877年ベルリン大学に学び、 チュービンゲン大学から,デュ・ボア・レイモンの指導で「ポテンシャル論に(Beitr\"age zur Potentialtheorie)」により学位(1882). 1884年ゲッティンゲン大学講師、フーリエ級数の収束を研究し、ヘルダーの不等式を発見。チュービンゲン大学に就職しようとするが、精神的な問題で挫折。主としてライプツィッヒに住む。
 群論。ジョルダン・ヘルダーの組成列,ヘルダーの不等式,ヘルダーノルム,調和関数論のヘルダー条件,ヘルダーの定理(ガンマ関数が有理関数係数のどんな代数的微分方程式も満たさないこと)。
 弟子にE.アルティン,W.Threllfalなど,  [解IV.1, 4, 文], [代序, 9-10, 16] トップ

ベルトラミ(Eugenio Beltrami, 1835.11.16-1899.6.4.)
 オーストリア帝国,ロンバルディ,クレモナ(現在イタリア領)に生まれ,ローマに死す.
 パヴィア大学(1853-56),後ミラノ大学で学ぶ.F.ブリオスキの弟子.ボローニャ大学,ローマ大学,ピサ大学,パヴィア大学で働く.微分幾何学.特に,ロバチェフスキーJ.ボヤイの非ユークリッド幾何への論理的疑念を,負定曲率曲面がその実現になっていることを示すことによって晴らした.
 ベルトラミの定理,ベルトラミ=クライン・モデル. リーマン幾何との関係を示し,さらに高次元の定曲率多様体を調べる.ベルトラミ作用素.光学,熱力学,弾性体,電磁気など.  [解人], [名人], [代人], [ワ7], [伝5], [フ19], [辞], [幾7] トップ

ベルトラン(Joseph Louis Francois Bertrand, 1822.3.11-1900.4.3.)
 フランス,パリに生まれ,パリに死す.
 エコール・ポリテクニク卒(1839).エコール・ポリテクニク(1856-),エコール・ノルマル,コレージュ・ド・フランス(1862-)の教授.1878年で一旦教えるのは止めたが,8年後にまた教えはじめる.
 数論,確率論,微分幾何など.ベルトランの仮説(1845,証明はチェビシェフ(1850)による).ベルトランの逆説(1888年の確率論の教科書で述べた).ガウスの『誤差論,最小自乗法』のフランス語訳.著書も多く,語り口は魅力的だが,誤りもあり厳密さに欠ける点があった.
  [解人], [名人], [珠説2.2.5], [天2, 3], [伝5], [率20], [天VI.2, 3] トップ

ベルトレー(Claude Louis Berthollet, 1748.12.9-1822.11.6).
 サヴォワ公国アヌシー近郊タロワール(現在フランス領)に生まれ,フランス,アルクイユに死す.
 ラヴォアジェらと化学物質の命名法や名前の体系を決めた.染料や漂白剤の研究,アンモニアの組成を決定.
 塩素酸カリウム(KClO3)は、ベルトレーの塩と言われる.
 友人のモンジュヴァンデルモンドとともに,いろいろのタイプの鋼鉄の製造に関する著書あり.パリから5マイルほど南のオーキュイユ村にモンジュの隣に領地を持ち,またモンジュとともにナポレオンからイタリアにおける科学・芸術委員会に勤めるよう協力を求められた.
 幼時に学者村ともいうべきオーキュイユ村に住んていたコーシーは刺激と恩恵を受けたという.ちなみにベルトレの学会でのパートナーだったラプラスも,ラグランジュもオーキュイユに領地があった.  [伝1,2] トップ

ベルナイス,パウル(Paul Bernays, 1888.10.17--1977.9.18).  ロンドンに生まれ,チューリヒに死す.国籍はスイス.
 数理論理学,公理的集合論,数学哲学.
 ベルリンで幼少期を過ごし,ケルナー・ギムナジウムに入学(1895‐1907). ベルリン大学ではシューアランダウフロベニウス,フリードリヒ・ショットキーらに数学を学び,Alois Riehl, Carl Stumpf,エルンスト・カッシーラーのもとで哲学を学び,マックス・プランクのもとで物理を学ぶ.ゲッティンゲン大学では,D.ヒルベルトランダウワイルF.クラインのもとで数学を学び,ヴォルデマール・フォークトとマックス・ボルンのもとで物理学を学び,Leonard Nelsonのもとで哲学を学ぶ.
 ゲッティンゲン大学から,ランダウの指導で,Über die Darstellung von positiven, ganzen Zahlen durch die primitiven, binären quadratischen Formen einer nicht-quadratischen Diskriminante(非2次の判別式の原始的双2次形式による正の整数の表現について)によりPh.D.取得(1912).この年,チューリヒ大学から,試験官をツェルメロとして,複素解析とピカールの定理に関する論文で教授資格を得る.チューリヒ大学の私講師(1912-17)のとき,ポーヤと知り合う.
 1917年からD.ヒルベルトは, 算術の基礎の研究の助手としてベルナイスを雇う.ゲッティンゲン大学で数学の他の分野の講義をし,1918年には,プリンキピア・マテマティカの命題計算の公理系に関する論文で2つ目の教授資格を得る.1922年に終身在職権のない特別教授となる.彼の一番の弟子はゲンツェン(Gerhard Gentzen).
 ユダヤ系の出自のため1933年にその職を追われる.6か月ヒルベルトのための仕事をしてから,家族とともにスイスに移る.チューリッヒ工科大学の教授となる. またアメリカのペンシルベニア大学やプリンストン高等研究所も訪問(1935-36, 1959-60).
 ヒルベルトとの共著『数学の基礎(1934, 1939)』.この中にヒルベルト・ベルナイスのパラドクス. 公理的集合論を始める.フォン・ノイマン=ベルナイス・ゲーデル集合論. [基16] トップ

ヘルフゴット(Harald Andrés Helfgott, 1977.11.25-).  ペルー,リマの生まれ.ブランダイス大学卒(1988).プリンストン大学から,Henryk Iwaniecとサルナクの指導で,Root Numbers and the Parity ProblemによりPh.D.取得(2003).フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究員,2015年にゲッティンゲン大学のアレクサンダー・フォン・フンボルト教授職.
 弱いゴールドバッハ予想(5より大きい奇数は3個の素数の和で表わせる)を証明(2013).
 [基8] トップ

ベルヌーイ、ダニエル I(Daniel Bernoulli I, 1700.2.8-1782.3.17).
 オランダ、グローニンゲンに生まれ、スイス、バーゼルに死す。
 ヨハン・ベルヌーイIの息子。兄ニコライとともにペテルブルグ・アカデミーへ(1725)、後から来たオイラーと協力(1727)。バーゼル大学教授(1733)。流体力学のベルヌーイの原理。ド・モアヴルラプラスの極限定理の証明.誤差論に正規分布を導入.フィボナッチ数列の一般項に対するビネの公式を既に示していたという. [解II.7], [黄5], [伝1], [クI.3.2] トップ

ベルヌーイ、ヤーコプ I(Jakob(= Jacques, James) Bernoulli I, 1654.12.27-1705.8.16).
 スイス、バーゼルに生まれ、バーゼルに死す。
 父の意志に反して神学から数学に。フランス、オランダ、イギリスを歴訪、ボイルフックに会う。バーゼル大学数学教授(1687-死)。パリ、ベルリン学士院会員。
 微積分以外では、確率論の大数の法則,ベルヌーイ試行,ベルヌーイ過程, ベルヌーイ型ずらし,ベルヌーイ変換,ベルヌーイ分布、ベルヌーイの微分方程式、ベルヌーイのレムニスケート,ベルヌーイ数,ベルヌーイの不等式,ベルヌーイ多項式,ベルヌーイの螺線。  『推測術(Ars Conjectandi, Opus Posthumum)』(1713).  [解I.1-2, 4-5, II.1-2, 4, 6-7, 10, IV.3, 文], [パ30, 附2], [代入2,3,4,5,6,7], [天19, 32], [伝1,9], [率0,4,答], [幾7-9], [50.16], [天VI.20,26,45] トップ

ベルヌーイ、ヨハン I(Johann(=Jean, John) Bernoulli I, 1667.7.27-1748.1.1).
 スイス、バーゼルに生まれ、バーゼルに死す。
 ヤーコプ・ベルヌーイIの弟。始め、商人、医者をめざしたが、兄ヤーコプが彼に数学を教え、ライプニッツを学ぶようになる。グローニンゲン大学教授(1695)。兄の死後、バーゼル大学教授。兄より解いた問題の数は多い。 彼の講義をまとめたロピタルの教科書が史上初の微積分の教科書である.
 子供時代のオイラーを毎週土曜の午後に家に呼んで教育したことも重要な貢献と言える.
 ベルヌーイの恒等式,ベルヌーイの定理。  [解I.3, 5, II.1-10, III.3, 6, 文], [パ序, 12-13, 15, 25, 年表], [名2], [伝1], [幾4-5,7,解], [クI.3.3 ], [50.16] トップ

ベルヌーイ、ヨハン II(Johann(=Jean, John) Bernoulli II, 1710.5.28-1790.7.17).
 スイス、バーゼルに生まれ、バーゼルに死す。
 ヨハン・ベルヌーイIの息子。法律を志すが数学に転じ、バーゼル大学教授。主に熱と光の理論。 [解II.7] トップ

ヘルマン,ディーター(Herrmann, Dieter Bernhard, 1939.1.3-). ドイツ,ベルリンの生まれ.
[幾9] トップ

ヘルマン,ディートマー(Herrmann, Dietmar).
ミュンヘン工科大学で数学と物理を学び,1972年卒.ギムナジウム教師,プログラミングと応用数学の著書.ミュンヘン大学(Hochshule)で15年間数学と情報科学の講師.
 数学史.
著書に『古代の数学:ギリシャ数学史,その問題と解(Die antike Mathematik:Eine Geschichte der griechischen Mathematik, ihrer Probleme und Lösungen)』(2014), 『中世の数学:中国,インド,イスラムに起源を持つ西洋数学(Mathematik im Mittelalter: Die Geschichte der Mathematik des Abendlands mit ihren Quellen in China, Indien und im Islam)』(2016)など.  [幾1,9,10] トップ

ベールマン(Walter Behrmann, 1882.5.22-1955.5.3). ドイツ,オルデンブルクに生まれ,ベルリンに死す.
 地理学者,フランクフルト大学教授(1923-),ベルリン自由大学教授(1948-)  ベールマン正積円筒図法(Behrmann projection),軸射影の一種.  [フ19] トップ

ヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz, 1821.8.31-1894.9.8).
 ドイツ,ポツダムに生まれ、ベルリンに死す。
 ベルリンの軍医学校を1843年に卒業後,ポツダムの連隊に配属されるが余暇のすべてを研究にささげる. 物理学の基本原理から生理学を基礎付けたいと願う. ケーニヒスベクル大学生理学教授(1849),ボン大学の解剖学・生理学教授(1855),ハイデルベルク大学教授(1858),ベルリン大学物理学教授(1871).主要な業績は数理物理学と音響学.音楽理論の附録としてフーリエ級数を使用.また1842年に熱力学の第1法則に関する論文.完全流体の運動(1858).1866年頃から興味が生理学からほとんど離れ,物理学に向かう.
 1867年から非ユークリッド空間の性質の研究に興味を持ち,リーマン計量の研究に進み,後のS.リーの研究に影響.ヘルムホルツ・リーの定理,ヘルムホルツ方程式など.   [代序, 17, コ], [伝3,6], [クIII1.2] トップ

ヘルメス,ヨハン・グスタフ(Johann Gustav Hermes, 1846.6.20-1912.6.8).
 プロシャ,ケーニヒスベルクで生まれ,ドイツ,バート・エーンハウゼンに死す. ナイフェフィッシェン・ギムナジウムで教育を受け、1866年にアビトゥーアを取得.中等教育終了後,主にケーニヒスベルク大学で数学を学ぶも,1870-1871年の普仏戦争で中断.後,1872年12月14日に数学の専門職学位を得、1879年に論文 "Zurückführung des Problems der Kreistheilung auf lineare Gleichungen (für Primzahlen von der Form 2m+1)"[(2m+1の形の素数に対する)線形方程式の円分割の問題の還元]により博士号取得. 1873年にチェルニャホフスク・実科ギムナジウムで1年間見習いをしたのち,プロシャ,ケーニヒスベルク王立孤児院プロギムナジウムの教師となり,1883年からは上級教師となり,1893年にはリンゲンのギムナジウム教授となる.1893年には オスナブリュック実科ギムナジウム(現在のエルンスト・モーリッツ・アルントギムナジウム)の教授に,1899年に所長となり,1906年に病気で退職.
 正65537角形の作図を示す,200ページ以上もの論文はゲッティンゲン大学に保存されていて,pdfファイルも公開されている.  [幾8] トップ

ベルンシュタイン,フェリクス(Felix Bernstein, 1878.2.24-1956.12.3).
 ドイツ,ハレに生まれ,スイス,チューリヒに死す.ハレ大学卒業.父ユリウスがG.カントールの友人だったため,1896年にカントールのセミナーに出席するようになり,翌年セミナーで, 集合の濃度に関するカントール・ベルンシュタインの定理の証明を与える.
 ゲッティンゲン大学からヒルベルトの指導で『集合論についての研究(Untersuchungen aus der Mengenlehre)』により哲学博士号取得(1901).1901年にハレに戻り数学を教える.1911年にゲッティンゲン大学からハビリタシオンを取得し,臨時教授になる. ゲッティンゲン大学教授.1933年にアメリカに移住,諸所で講義や研究をして過ごす.1948年にアメリカでの教授活動を止めヨーロッパに戻る.主にローマとフライベルクに住み,時にゲッティンゲンに行って講義をする.ゲッティンゲンの名誉教授になる.
 集合論,関数論,確率論,数理統計学.
集合の濃度に関するカントール・ベルンシュタイン・シュレーダーの定理. [天15], [基14], [クI3.4], [天VI.19] トップ

ベルンシュテイン,セルゲイ(Sergei Natanovich Bernstein, 1880.3.5-1968.10.26).
 ロシア帝国,ウクライナ、オデッサに生まれ、ソビエト連邦、モスクワに死す。
 18才で高校卒業後、パリに行き、ソルボンヌに入学。その間ゲッティンゲンにも通う。 1904年にソルボンヌでピカールの指導で学位(楕円型偏微分方程式の解は存在領域上で解析的であることの証明(ヒルベルトの第19問題))を取得。
 ロシアでは外国の学位を認めなかったので、改めてハリコフ大学で学位のために、非線型楕円型方程式に対するディリクレ問題の解析解の研究をし、1913年に2つ目の学位を得る。ハリコフ大学(1907-1932)、レニングラード大学(1933-1943)、モスクワ大学(1943-)。
 偏微分方程式,微分幾何,確率論,近似理論.
 確率論の公理的基礎を,代数構造に基づいて構築する(1917)が,後のコルモゴロフの測度論的なアプローチにとりかわる.また,独立でない確率変数に対する中心極限定理の証明法を導入(1920年代).大数の法則の一般化として中心極限定理のリャープノフ条件の一般化,確率過程,マルコフ過程.
 近似理論では構成的関数論の基礎を与え,関数の滑らかさと近似多項式との関係を調べる.
 遺伝学のハーディ=ヴァインベルク(Wilhelm Weinberg)の法則(血縁集団と稀少疾患の遺伝的伝播の研究で広く用いられる) を研究する中で,ベルンシュテイン代数を提唱(1923).遺伝学代数の1つ.
 7年間チェビシェフ全集の編集をし、その中で関数の最良近似の理論、ベルンシュタインの多項式が生まれる。
 ベルンシュテインの不等式、完全単調関数のベルンシュテインの定理、極小曲面のベルンシュテインの定理(R3 の中で、R2のグラフである極小曲面は R2に限る)。  [解III.9] トップ

ペレリマン,グリゴリー・ヤコヴレヴィチ(Grigory Yakovlevich Perelman(Григорий Яковлевич Перельман), 1966.6.13-).
 ソ連,レニングラード(現在ロシア,サンクト・ペテルブルク)の生まれ.
 数学教師の母親から英才教育.サンクトペテルブルク大学に進み,A.D.アレクサンドロフブラゴの指導で,論文「ユークリッド空間における鞍状曲面」によって博士候補者になる(欧米のPh.D.に相当).
 ソ連崩壊後の1992年に,1学期の間,クーラント研究所,ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校に招かれリッチ曲率が下界を持つ多様体の研究を始める. 1993年からは2年間のミラー奨学金を得て,カリフォルニア大学バークレー校で研究.1972年にCheegerとGromollの提出したソウル予想を1994年に解決したあと,プリンストンやスタンフォードから招かれたが断っている. 1995年ロシアに帰国し,サンクトペテルブルクのスチェクロフ数学研究所の研究職に.2005年12月に退職届を提出する.2006年1月以降は同研究所に現れず,フィールズ賞辞退騒ぎの時も連絡取ることさえ困難な状況だった.
 アレクサンドロフ空間(P.S.アレクサンドロフによって1937年に離散空間として導入されたもの)の構造論,リーマン多様体の安定性理論,グロモフ予想(面積充填予想)の解決.
 R.ハミルトンのリッチ・フローの概念を手術付きにしたものを用いて,ポアンカレ予想の一般化である幾何化予想の解決(2002.11).ただし,数学界に受け入れられるためには,2006年5月の Bruce KleinerとJohn Lottの論文や6月のZhu XipingとHuai-Dong Cao,7月のJohn MorganとGang Tianの論文まで待たねばならなかった.  [伝9], [50.13,14] トップ

ベーレンツ,エアハルト(Ehrhard Behrends, 1946-).
 ベルリン自由大学からGerd Wittstockの指導で「連続性と持ち上げ性を使った単体の特徴づけ(Charakterisierung von Simplexen durch Fortsetzungs- und Liftungseigenschaften)」によりPh.D.取得(1970).
 ベルリン自由大学教授(1973-2014). 関数解析,確率論.
 確率論,マルコフ過程,マルコフ鎖の入門書など.数学の啓蒙書も多数,「数学を5分間(Fünf Minuten Mathematik)」というコラム執筆(岩波から「5分でたのしむ数学50話」2冊が出版されている).[天VI.31] トップ

ペロー、クロード(Claude Perrault, 1613.9.25-1688.10.9).
 パリに生まれる。
 フランス科学アカデミーの初代会員の一人。医師・解剖学者・建築家・翻訳家。パリ大学で医師資格を得る(1639)。1660年より建築家になり、パリ天文台、ルーブル宮の東の破風面などを手掛ける。 御伽話の収集家のシャルル・ペロー(1628.1.13-1703.5.15)の兄。
 パリでライプニッツにトラクトリックスを決定する問題を与える. [解II.7], [幾7] トップ

ヘロドトス(Herodotus, 紀元前485年頃-紀元前425年頃)
 小アジア,ハリカナッソスの生まれ.ペルシャ戦争後,諸国を遍歴し,見聞をまとめて『歴史』9巻を書く.ヨーロッパの現存する最古の歴史書であり,「歴史の父」と呼ばれる..ギリシャの神々の意志を表に出し物語風に描く.「エジプトはナイルの賜物」など名句が多く,古代エジプトに関する彼の叙述が後の知識の基礎になってしまい,多くのものが失われることにもなった. ピラミッドが王の墓であるというのも,彼の推測によるもの.[パ9] トップ

ヘロン,アレクサンドリアの(Heron of Alexandria, 65年頃-125年頃.10年頃‐70年頃という説もある.)
 (恐らく)エジプト,アレクサンドリアの生まれ.没地は不明.数学者,物理学者,力学者,発明家.
 『測量術 Metrica』の第1巻には,三角形,四辺形,3から12までの正多角形の面積と,円錐,円柱,プリズム,ピラミッド,球面の表面積を扱っている. バビロニア人には2000年も前から知られている,平方根を近似する方法も与えられ,三角形の面積を辺の長さで表すヘロンの公式も与えられている.
 第2巻には,球,円錐,円柱,プリズム,ピラミッド,円錐台,角錐台などの体積が,第3巻には与えられた比で,面積や体積を分割する方法が扱われている.
 『照準儀 Dioptra 』では,経緯儀と直交座標を使った測量(術)が扱われている.月蝕の時刻の差を使って,ローマとアレクサンドリアの距離を求める方法を与えている.
 『Catoptrica 』では,鏡を扱い,光の研究により,光線が目に入るから物が見えるのだと述べている.光速度は無限大と考えていた.
 力学に関する論文も多い.重いものを持ち上げる方法や簡単な機械的な機構を述べている. 聖水の自動販売機(コインを使う),エオリピルという蒸気機械(蒸気の力を回転運動に変える最初のもの),数々の水時計,ヘロンの噴水,里程器などの発明.それらの100を超えるデザインを載せた著作『Pneumatica 』もある.    [パ9], [幾1,6-10] トップ

ペロン(Oskar Perron, 1880.5.7-1975.2.22).
 ドイツ、プファルツ、フランケンタールに生まれ、ミュンヘンに死す。
 ミュンヘン大学に入学し(1898)、プリングスハイムリンデマンに強い影響を受ける。
ミュンヘン大学からリンデマンの指導で「(\"Uber die Drehung eines starren K\"orpers um seinen Schwerpunkt bei Wirkung a\"usserer Kr\"afte)」により哲学博士号(1902).
 ハイデルベルク大学(1914-22)、ミュンヘン大学教授(1922-51)を退職後も80才まで教え、その後も18編の論文を書く。
 関数解析、積分論、ポテンシャル論。連分数論.ペロン・フロベニウスの定理,ペロンの公式,ペロン法.ケラー(Eduard Ott-Heinrich Keller,1906-1990)予想を6次元まで証明したが,この予想は高次元では成り立たない.
 登山家でもある。 [解I.6, III.5, 文], [クI.1.3] トップ

ベン,ジョン(John Venn, 1834.8.4--1923.4.4). ヴェンと表記すべきだが,集合算のベン図が広く知られているので,誤解を避けるためベンと表記することにした.
 イングランド,ヨークシャー,キングストン・アポン・ハルに生まれ,イングランド,ケンブリッジに死す.
 教育は家庭教師から.ケンブリッジ大学のゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ入学(1853年),1857年に数学の学位を取得.1862年にフェローとしてケンブリッジへ戻り,倫理科学(Moral science)の講師を務めるともに、論理学及び確率論を研究・教授.
 家系に従い祖父ジョンと同じ聖公会に属して1859年に司教となり,ハートフォードシャー州チェスハント,次いでサリー州モートレイクに勤める.1883年に自らの哲学と聖公会主義は矛盾するとし,聖職を退任.1883王立協会のフェロー研究員,ケンブリッジ大学からはSc.D.(上位博士号)を授与.
 キングストン・アポン・ハルにあるThe University of Hull(ハル大学)には,1928年に彼を記念してベン・ビルディング(Venn Building)が作られた.
 ベン図など.著書にSymbolic Logic(1881),The Principles of Empirical Logic(1889)など.  [辞], [基3] トップ

ベンコ(David Benko). 
 南フロリダ大学からVilmos Totikの指導で「重み付き多項式の応用(Approximation by Weighted Polynomials)」によりPh.D.取得(2001).ハンガリー,セゲド大学からTotikの指導で「平衡測度とサフト予想(The equilibrium measure and the Saft conjecture)」によりPh.D.取得(2006).
 セゲド大学助手(1995-97),南フロリダ大学助手(1997-2001),テキサスA&M大学ポスドク(2001-04),西ケンタッキー大学助教授(2004-08),南アラバマ大学助教授(2008-).
 近似理論,数値解析,ポテンシャル論.
 デーンの定理の新しいエレガントな証明,とそのためのパール補題(2007). [天VI序,10] トップ

ヘンゼル(Kurt Hensel, 1861.12.29--1941.6.1). プロシャ,ケーニヒスベルク(現在ロシア,カリーニングラード)に生まれ,ドイツ,マールブルグに死す.
 ベルリン大学とボン大学で学ぶ1884年にベルリン大学から,クロネッカーの指導でArithmetische Untersuchungen \"uber Diskriminaten und ihre ausserwesentlichen TeilerによりPh.D.取得.

 ヘンゼル環,ヘンゼルの補題,p進数.
 ベルリン大学私講師(1886).  マールブルグ大学(-1930)での弟子にはH.ハッセフレンケルなど.
 著書にはTheorie der algebraischen Zahlen(1908),Theorie der algebraischen Funktionen einer Variablen und ihre Anwendung auf algebraische Kurven und Abelsche Integrale(1902).  [伝5] トップ

ヘンダーソン,シェイン(Shane Gordon Henderson).
 コーネル大学School of Operations Research and Industrial Engineering教授.その前はミシガン大学とオークランド大学のOR教室に勤務.
 スタンフォード大学から,Peter Winston Gunnar Glynnの指導で,Variance Reduction via an Approximating Markov Process Mathematics Subject Classificationにより,Ph.D.取得(1997).  [率3] トップ

ベンフォード,グレゴリー(Gregory Albert Benford, 1941.1.30--). アメリカ,アラバマ州モービルの生まれ.
 カリフォルニア大学アーバイン校物理学教授.プラズマ物理学,天体物理学.SF作家としても著名.
 オクラホマ大学物理学卒(1963).カリフォルニア大学サンディエゴ校修士(1965),Ph.D.(1967).
 1960年代末にコンピュータウィルスという概念を考案.地球温暖化進行を防ぐために,ラクランジュ点にフレネルレンズを置く方法を提案.
 ローレンス研究所にいたとき,ニューカムと同室で,ニューカムのパラドクスについて話し合ったことがある. [率25] トップ

ヘンペル(Carl Gustav Hempel, 1905.1.8-1997.11.9). ドイツ,オラニエンブルクに生まれ,アメリカ、ニュージャージー州プリンストンに死す.
 ゲッティンゲン大学で数学・物理・哲学を学ぶ.ヒルベルトと出会い,すべての数学を少ない公理から論理的に構築する彼のプログラムに感銘を受ける.ベルリン大学に移って,1929年の科学哲学に関するコングレスに参加し,カルナップに会い,ウィーン学団と関係のあった哲学者・科学者の作るベルリン学団に入会.ベルリン大学から Wolfgang Köhlerの指導で,『Beiträge zur logischen Analyse des Wahrscheinlichkeitsbegriffs(確率概念の論理解析に対する貢献)』により哲学博士号取得(1934).
 ナチの台頭により,1934年にベルギーへ,1937年にアメリカへ移り,カルナップの助手としてシカゴ大学に勤める.ニューヨーク市立大学(1939-1948),イェール大学(1948-1955),プリンストン大学(1955‐1964)で教鞭,プリンストン大学名誉教授としてエルサレムのヘブライ大学で教え(1964‐1966),その後ピッツバーグ大学で1985年まで教鞭.
 科学的説明を考察する,論理経験主義(logical empiricism).決定論的な法則に対するD-Nモデル(deductive-nomological model),統計法則によるI-Sモデル(inductive-statistical model, 帰納的統計的モデル)を提唱.カラスのパラドクス(ヘンペルのパラドクスとも)
 Philosophy of Natural Science(自然科学の哲学)(1966)など著書も多い.  [50.19] トップ

ヘンリシ(Olaus Magnus Friedrich Erdmann Henrici, 1840.3.9-1918.8.10). ホルシュタイン,メルドルフに生まれ(現在ドイツ領),イギリス,ハンプシャー,チャンドラーズ・フォードに死す.
ドイツのハイデルベルク大学から,ヘッセの指導で哲学博士号取得(1863.6.6).
 キール大学数学・物理学私講師(1865-66).
イギリスに帰化.ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ純粋数学教授(1870.6.4).,ロンドン,ロイヤル・カレッジ・オブ・サイエンス教授(1884.3).ロンドン数学会会長(1882-84).
 藤沢がヨーロッパ留学の最初にロンドンに行った時に数学だけでなく,ドイツ留学の仕方なども教える.
 オラウス・ヘンリシ著『平面幾何学』金港堂(明25.7).Skeleton of structures: especially in their application to the building of steel and iron bridges(New York: Van Nostrand, 1867), Congruent figures(1878), Elementary geometry(London: Longmans, Green, 1879), Vectors and rotors(1903).  [文3] トップ

ペンローズ,ライオネル(Lionel Sharples Penrose, 1898.6.11-1972.5.12.)  イギリス,ロンドンに生まれ,ロンドンに死す.精神医学,遺伝学.息子のオリヴァー(1929.6.6-)とロジャーは数理物理,ジョナサン(1933.10.7-)はチェスの世界チャンピオン,娘のシャーリー・ホジソン(1945.2.22-)は癌遺伝学者.
 知的障害,発達障害,ダウン症候群などの先駆的業績,ペンローズの法則(刑務所と精神病院の人口は反比例する).ゲームの理論でのペンローズの平方根の法則.ペンローズ・バンシャフ指数.
 「ペンローズの三角形(Penrose triangle)」は息子のロジャーと共著.  [フ28], [幾4] トップ

ペンローズ,ロジャー(Roger Penrose, 1931.8.8-.)  イギリス,エセックス,コルチェスターの生まれ.
 ケンブリッジ大学でW.V.D.ホッジに師事.後J.トッドに学ぶ.ロンドン大学卒業(1952)ケンブリッジ大学で博士号取得(1957).オックスフォード大学ラウズ・ボール教授職(1973-).
 一般相対性理論,重力理論.ホーキング・ペンローズの定理(1964).特異点定理(重力崩壊がある程度進むと特異点が避けられない),「宇宙のセンサーシップ」仮説,「ツウィスター・モデル」,弱い宇宙検閲仮説.
 周期的な図形を持たない平面の敷き詰め(ペンローズ・タイリング),ペンローズの三角形,ペンローズの多角形.意識の科学にも貢献.OR理論(Objective-Reduction、客観的収縮)の提唱.
 著書にも面白いものが多く,『皇帝の新しい心 コンピュ-タ・心・物理法則 (The Emperor's New Mind: Concerning Computers, Minds, and The Laws of Physics 1989)』,『心の影 意識をめぐる未知の科学を探る (Shadows of the Mind: A Search for the Missing Science of Consciousness 1994)』, 『心は量子で語れるか (The Large, the Small, and the Human Mind 1997)』,『ペンローズの“量子脳”理論―心と意識の科学的基礎をもとめて』 (ちくま学芸文庫) など.またThe Road to Reality : A Complete Guide to the Laws of the Universe (2004)も.   [パ, ノート, 年表], [フ28], [幾1,4] トップ


  
  
  
  
  

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