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人名索引 ほ
人名索引総目次 は ひ ふ へ
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ほ 
ポアソン,シメオン・ドニ(Simeon Denis Poisson, 1781.6.21-1840.4.25).
フランス,ロアレ県,ピティヴィエに生まれ,ソー(パリの近く)に死す.
父の希望で初め軍医になる教育を受けたが,数学を志し,フォンテーヌブローの中央学校(1796),2年後エコール・ポリテクニークに学ぶ.1799年には差分方程式に関する論文を書く.師のラプラスとラグランジュに認められ,卒業後直ちに母校で教えるようになる(1802-1808).パリ大学教授(1809-),経度局員(1808-).1820年には教育組織の最高行政官になり,保守的な政府から科学を守るために尽力.
天体力学(月や惑星の理論),静電気・静磁気力学,弾道学,流体力学,ポテンシャル論,定積分,フーリエ級数,偏微分方程式,変分法,級数論,差分方程式,微分幾何学,確率論,統計学.ナヴィエとは独立にナヴィエ・ストークスの方程式を発見(1837).
ベッセルと独立にベッセル関数を発見.曲面の曲率.ポアソン過程,ポアソン分布,ポアソンの法則(大数の法則),ポアソン比(弾性論),ポアソン定数,ポアソン方程式,ポアソン核.ポアソン積分,ポアソン和,ポアソン括弧.
「彼の唯一の情熱は科学であり続けた.彼はそのために生き,そのために死んだ.」
文献
- 『力学について』Traité de mécanique (1811, 1833)
- 『熱の数学理論』Théorie mathématique de la chaleur (1835)
- 『空気中の投射体の運動』Movement of Projectiles in Air (1835)
- 『確率論研究』Recherches sur la probabilité des jugements en matières criminelles et matière civile (1837)
- 「引力理論の方程式に関する1つのコメント」(1813)
- 「回転楕円体の引力について」 (1835)
[代1, 15, 19], [先], [伝1,2,3,4], [辞], [作付B], [幾11], [クI.3.3]
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ポアンカレ、アンリ(Henri Poincare, 1854.4.29-1912.7.17).
フランス、ナンシーに生まれ、パリに死す。
エコール・ポリテクニク(1873-)の後鉱山学校に学び,C.エルミートに師事し、1879年に学位取得。カーン大学(1878-1881),パリ大学(ソルボンヌ)解析学(1881-1885),数理物理学および確率論教授(1886-1895),天体力学教授(1895-死)。微分方程式論,保型関数論,ポテンシャル論,確率論,非ユークリッド幾何,天体力学。代数トポロジーと多変数関数論の創始者。最後の万能の人と呼ばれる。啓蒙活動も重要。
オイラー--ポアンカレ標数,
オイラー--ポアンカレの公式,ポアンカレ--バーコフの不動点定理,
ヒルベルト--ポアンカレ級数,ポアンカレ--カルタンの積分不変式,ポアンカレの最後の幾何学的定理,ポアンカレ球体モデル,ポアンカレ--ベンディクソンの定理,ポアンカレ--バーコフ--ヴィットの定理,ポアンカレ複体,ポアンカレ予想,ポアンカレ円板モデル,ポアンカレ双対性,ポアンカレの双対定理,ポアンカレ群(=基本群),ポアンカレ半平面モデル,ポアンカレ・ホモロジー球面(=ポアンカレ12面体空間),ポアンカレ--ホップの指数定理,ポアンカレ--レフシェッツの双対定理,ポアンカレ--ルロン方程式,ポアンカレの補題,ポアンカレ--リンドシュテットの方法,ポアンカレ直線束,ポアンカレ写像,ポアンカレ計量,ポアンカレ対,ポアンカレ・プロット,ポアンカレ多項式,ポアンカレの再帰定理,ポアンカレ切断面,ポアンカレの微分不変式,ポアンカレ級数,ポアンカレの不等式,非ユークリッド幾何のポアンカレ・モデル,ポアンカレ球面,ポアンカレ--スチェクロフ作用素,ポアンカレ上半空間,ポアンカレ--ヴィルティンガーの不等式,
ポアンカレ--ライトヒル--クオ法(P.L.K.法)
日本語の本には『常微分方程式-天体力学の新しい方法-』(福原満州雄+浦太郎訳・解説)現代数学の系譜6、共立出版(1970)があり、岩波文庫には『科学と仮説』『科学と方法』『科学の価値』『科學者と詩人』『晩年の思想』がある。
[解II.6, III.9], [パ4,5], [ト6], [珠3], [代12,14], [代入1], [先], [名3,13,14,18,19], [ワ2,8], [伝4,5,6,7,8,9], [フ20], [辞], [幾2,文], [50.13,10], [クI.1.1] トップへ
ポアンソ(Louis Poinsot, 1777.1.3-1859.12.5).
フランス,パリに生まれ,パリに死す.
パリのルイ・ル・グラン校とエコル・ポリテクニク(1794-97)に学ぶ.国立土木学校(¥’Ecole des Ponts et Chauss\'ee )に入学するも,技師になることを諦め,退学して数学教師となる.パリのリセ・ボナパルトの数学教授(1804-09).帝国総視学官.1809.11.1からエコル・ポリテクニクの解析学および力学教授.
エコル・ポリテクニクの改組でやめさせられたり復帰したりする.
1813年5月31日にラグランジュの後任として科学アカデミー会員になる.経度局天文学者(1839-死).1846年にソルボンヌ大学に高等幾何学の講座を作る.
高等教育の政治とフランスの政治に関わる.
幾何力学(ポアンソ楕円体(慣性楕円体のこと)),ディオファントス方程式の研究.星形多面体.ポアンソの立体.『静力学入門(El¥’ements de statique )』(1803). [黄6],[伝2] トップへ
ボーイWerner Boy, 1879.5.4-1914.9.6). ドイツ,バルメン(現在ヴッパータール)の生まれ.第1次世界大戦の開戦1週目に兵士として戦死.
ゲッティンゲン大学からヒルベルトの指導で「閉曲面の全曲率とトポロジー(\"Uber die Curvatura integra u. d. Topologie geschlossener Fl\"achen)」によりPh.D.取得(1901).学位取得後クレーフェルトの高校教師,のちに生地のバルメンで教師をしていたが,戦争が起こった.
ボーイの曲面(Boy's surface,1901)は実射影平面の,特異点のない3次元射影.そのパラメータ表示は1978年にベルナール・モランがコンピュータを使って求めたのが最初である. [名18] トップへ
ポイエルバッハ,ゲオルク(Georg Peurbach, 1423.5.30-1461.4.8). ゲオルク・プールバッハ(Georg Purbach)とも,プルバキウス(Purbachius)とも表記される.
オーストリア、ポイエルバッハに生まれ、ウィーンに死す。
数学・天文学者。ウィーン大学で学位(1440年頃).数学の師はグムンデンのヨハネス(Johannes von Gmunden, 1380頃-1442.2.23) .イタリアのフェラーラの天文学教師ジョヴァンニ・ビアンキーニ(Giovanni Bianchini, 1410-1469頃)やニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus, 1401-1464.8.11)に認められフェラーラで天文学を教える.1450年にボローニャやパドヴァ大学の教授職、ハンガリー王ラディスラウスの宮廷天文官の席を断ってウィーン大学に戻り、教授となった。
ウィーン大学でレギオモンタヌスを教える.
1456年のハリー彗星を観察。『惑星の新理論』(1474)、『食表(Tabula eclypsium super meridiano Viennensi)』(1514,ウィーンで出版)など、死後にレギオモンタヌスが補って刊行.『正弦表(Nova tabula sinus de decem minutis in decem per multas, etc.)』はレギオモンタヌスにより完成,1541年にニュルンベルクで出版. [解人], [幾文] トップへ
ボイカーズ(Friz Beukers, 1953-).
トルコ,アンカラの生まれ.オランダの数学者.
ライデン大学からRobert Tijdemanの指導で「一般ラマヌジャン・ナゲル方程式(The generalized Ramanujan–Nagell Equation)」によりPh.D.取得.
プリンストン高等研究所に客員研究員(1979-1980). オランダ,ライデン大学教授,2000年にユトレヒト大学教授.
数論の超越性と無理数性問題,超幾何関数.リーマンのゼータ関数の2と3での値の無理数性に関するアペリーの定理の,ルジャンドルの多項式を使った簡単な別証.力学系に関する教科書あり. [天6], [天VI.9] トップへ
ホイストン,ウィリアム(William Whiston, 1667.12.9-1752.8.22).
イングランド,レスターシャー州ノートンに生まれ,ラトランド州リンドンに死す.
神学者,歴史家,数学者.ニュートンの推薦により,その跡を継いでケンブリッジ大学第3代ルーカス数学教授職(1792-1711).
数学においてはニュートンの『普遍算術』(Arithmetica Universalis)を講義ノートに基づき編集出版(1707)したことくらい.著書『地球の新説』で,ノアの洪水の科学的説明を試みる(彗星の接近により地殻が破れ地下の水が溢れたという説). [幾3] トップへ
ホイットニー,ハスラー(Hassler Whitney, 1907.3.23-1989.5.10.
アメリカ,ニューヨークに生まれ,スイス,モンダンブランシュ(Mount Dents Blanches,4357m,マッターホルン北西の山)に死す.
登山家としても有名.3度結婚,3度目の結婚は1986.2.8でほとんど79歳になるころ.
エール大学卒業後,ハーバード大学,プリンストン高等研究所(1952).トポロジー,特に多様体論.微分可能トポロジーの創始者の1人.埋めこみ定理,シュティーフェル--ホイットニー類. [ト1-2, 文],[先],[伝9], [フ12],[辞] トップへ
ホイットワース,ウィリアム・アレン(William Allen Whitworth, 1840.2.1-1905.3.12.)
イギリス,チェシャー州,ランコーンの生まれ.数学者で英国教会の牧師.
チェシャー州,ノースウィッチのサンディクロフト校卒業後,ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジで1862年に学士号を16番目のラングラーとして取得.いくつかの高校で数学を教えてから,リバプールのクイーンズ・カレッジの数学教授(1862-1864),ケンブリッジに戻って修士(1865),フェロー(1867-1882).
対数らせん,三線座標,順序付きベル数,完全順列,平均余命.誤って,ベルトランの投票定理と呼ばれているものは彼の発見.『選択と偶然』(Choice and Chance)(1867)は何版も重ねた. [率20,21]
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ホイヘンス、クリスティアン(Christiaan Huygens =Christiani Hugenii Zulichenmii, 1629.4.14-1695.7.8).
オランダ、ハーグに生まれ、ハーグに死す。
物理学・数学・天文学者。デカルトと親交のあった父(政治家)の影響で、デカルトを学ぶ。光の伝播に関するホイヘンスの原理。ガリレオを尊敬しガリレオを越えることを1つの目標とした。航海時代に入り、海上で経度を決定する方法が時代の最大の問題の1つであった。その方法として、正確な時計を作ることに大きな関心が寄せられ、サイクロイドを用いた等時の振り子時計の(実作を可能にする)理論を作り、特許を得た(1656)。しかし、実際に航海に使用するには安定性が不十分で、ゼンマイを使ったものがイギリスの時計師によって作られそちらが主流となる。ホイヘンスの動機のほとんどは時計製作にあり、そのための理論を構築していったのだが、実用上は代替物のほうが実用的で、成功したとは言いにくい。しかし、そのために整備した理論が後世に大きな影響を与えている。ホイヘンスのレムニスケート.
焦点距離3.5mの望遠鏡を弟とともに作り,1655年土星の月のタイタンを発見,自転周期が約16日であると観測.1659年,7mの望遠鏡で土星の環の構造を観測し,公表.それまで環は「土星の腕」と呼ばれていて土星にくっついていると思われていた.
ニュートンにも会って好意を持ったというが、光の理論で粒子説を唱えるニュートンに対し、波動説を唱えている。
日本語に訳されたものはたとえば、『ホイヘンス』科学の名著II期10,朝日出版社を参照。
文献
- 『物体の運動について』(De Motu Corporum, 1656)
- 『偶然のゲームの計算について』(De ratiociniis in ludo aleae, 1657)
- 『土星の体系』(Systema Saturnium,1659)
- 『振り子時計』(Horologium Oscillatorum, 1673)
- 『光についての論考』(Traite de la Lumiere,1678)
[解I.4, II.1, 3, 7, 人], [パ序, 1, 3, 5, 11, 13-16, 24-25, 30, 附2, ノート, 年表],[伝3],[率0],[幾7,8,文]
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ホイップル(Fred Lawrence Whipple, 1906.11.5-2004.8.30).
アメリカ,アイオワ,レッド・オークに生まれ,マサチューセッツ州ケンブリッジに死す.
ハーヴァード大学天文学教授(1945-)。スミソニアン天体物理天文台長(1955-).「氷で出来た彗星モデル」,アイスランドが小惑星の衝突で出来たという説.太陽系の起源についての説.
『地球・月・惑星』(1941) . [パ23] トップ
ボイル(Robert Boyle, 1627.1.25-1691.12.30.)
アイルランド,ウォーターフォード州,リズモア・キャッスルに生まれ,イギリス,ロンドンに死す.
イートン・カレッジで学んだ(1635-39)後,12歳のとき家庭教師とともにヨーロッパ旅行をした際,ガリレオを読む.イギリスのドーセットに戻って実験科学や道徳の著作をする.
1656年からオックスフォードに住み,フックと共同研究する.理想気体を記述するボイルの法則はフックが発見したもので,1661年の著作の附録に述べたもの.
1661年の『懐疑的な化学者』においてアリストテレスの四大元素の理論に反駁し,物質は色々な基本粒子から合成されたものという考えを提出している.
王立協会の設立メンバー.デカルト思想を受けて,化学を機械論的思想の中に捉えること,そのために数学的な科学として構築するというプログラムを提案した.ニュートンなど以降の科学者に大きな影響. [パ1, ノート, 年表] トップへ
ホイン,カール(Karl Heun, 1859.4.3-1929.1.10).ドイツ,ヴィースバーデンに生まれ,カールスルーエに死す.
ゲッティンゲン大学で数学と哲学を学ぶ(一時期ハレ大学でも).
ゲッティンゲン大学からErnst Christian Julius Scheringの指導で,『行列式としての球関数とラメ関数(Kugelfunktionen und Laméschen Funktionen als Determinanten)』により哲学博士号取得(1881).
その後1883年までWehlauの農業大学で教え,イギリスに移民し1885年までUppinghamで教える.ロンドンで学業を終え,ミュンヘンで1886年にハビリタシオンを『2階線形微分方程式と連分数のアルゴリズムによるその解(Über lineare Differentialgleichungen zweiter Ordnung, deren Lösungen durch den Kettenbruchalgorithmus)』により取得し(1886),ミュンヘン大学で教える(1886-1889).財政面からベルリンで教師とならざるを得ず(1890-1902),その後カールスルーエ工科大学で理論力学教授(1902-1922).
特殊関数論,数値解析.
ホイン方程式,ホイン関数,ホイン多項式,ホイン法. [クIII序] トップへ
ホヴァタル(Václav (Vašek) Chvátal, 1946.7.20-).チェコ,プラハの生まれ.
プラハ,カルル大学で,Zdeněk Hedrlínに学ぶ.1968年ソ連の進行の3日後にチェコスロバキアを逃れる.カナダ,ウォータールー大学からCrispin St. John Alvah Nash-Williamsの指導で「ハイパーグラフとラムゼイの定理(Hypergraphs and Ramseyian Theorems)」によりPh.D.取得(1970).
ケベックのマギル大学(1971,1978-1986), スタンフォード大学(1972, 1974-1977), モントリオール大学(1972-1974, 1977-1978), ラトガス大学(1986-2004),カナダ,モントリオール,コンコルディア大学のCombinatorial Optimizationのカナダ研究職(CRC, 2004-2011),離散数学(CRC, 2011-2014).
グラフ理論.現在「旅行するセールスマン問題」に関心.
ホヴァタル・グラフ,ホヴァタル・サンコフ定数(David Sankoff).
アイタイ,ニューボーン,セメレディとともに交差不等式を証明. [天28, 30, 32], [天VI.40,42,45] トップへ
ホヴァンスキー,アスコルド(Askold Georgievich Khovanskii, 1947.6.3-).
ソ連,モスクワの生まれ.V.I.アーノルドの弟子.モスクワ大学修士(1970),ソ連アカデミー計算機センター(1970-1973),スチェクロフ研究所で1973年にPh.D.(「求積法による関数の表現可能性」),1988年に博士(ニュートン多面体と少項式」).
1981年にフランスのIHESを訪れて以来,アメリカ,フランス,スウェーデン,スイス,大学等の客員を経た後,1994年カナダ,トロント大学の客員教授の後,正教授教授(1996-),モスクワ独立大教授(1976-).
Russian Math.Surveysなど各種雑誌の編集委員.
特異点理論,ニュートン多面体,多項式ベクトル場,普遍グレプナー基底,経済への応用,位相的ガロア理論など.
[フ5] トップへ
ボエティウス(Anicius Manlius Torquatus Severinus Boethius、480--524または525).ローマ帝国内オドアケル王国ローマに生まれ,東ゴート王国パヴィアに死す.
ローマ貴族の家に生まれるが,孤児となり,シンマクスに養われ成長.アテネに留学.東ゴート王国のテオドリック王に仕え,貨幣制度の改革などを経て,510年に西ローマ帝国の執政官となる.522年には息子二人も執政官となるが,後,反逆を疑われ,パヴィアに投獄されて獄死する.
獄中で書いた『哲学の慰め』(De consolatione philosophiae)が有名.アリストテレスの論理学をラテン語に翻訳し,中世のアリストテレス研究の端緒となる.ニコマコス,エウクレイデス,アルキメデス,プトレマイオスなどの著作も翻訳.最初のスコラ哲学者と呼ばれることもある.
アラビア式の記数法をはじめてヨーロッパに紹介した. [孫数2] トップへ
北条時敬(Hojo Tokiyuki, (安政5年3月23日)1858.3.23-1929.4.27). 幼名は粂次郎.廓堂と号す.
加賀国金沢(現・石川県金沢市池田町)に金沢藩士の次男として生まれる.
北条家は鎌倉北条氏の末裔という。
金沢で関口開に学び,
1884年6月東京数学会社が東京数学物理学会に改名した時に入会.
1885年東京大学数学科卒業.第2回卒業生は彼と熊沢鏡之助のみ.
石川県専門学校(後の第四高等学校)の教師となる. このとき西田幾多郎を教え、数学者になるよう強く勧めた.西田はこれを断ったが,西田が師と呼んだのは彼だけ.
西田の回想
「北条先生が私に自分の家に来いと言われるので、私は先生のお宅に厄介になった。先生はいつも学校から夕頃帰ってこられる。夜には座敷で、先生のテーブルを真ん中に、左右に奥さんと私が机を並べて勉強する。遅くなると、先生が私にもう寝よと言われる。私が自分の部屋に帰って床についても、私の癖で、時々眠れないことがある。すると12時頃から先生の室で琴の音が聞こえ始める。夜の更けるに従って琴の音は益々冴えてくる。そのうち私は寝てしまう。...先生は朝寝坊だ。私が学校へ行く頃、いつも先生の起きていられたことはなかった。」
ある時、禅について西田が質問すると、江戸時代の禅僧白隠の書物を与え、「脇腹に刀を差し込む勇気があったらやれ」と言ったという逸話がある.
1888年:東京帝国大学大学院に入学
1894年:山口県山口高等学校教頭
1896年:同校校長
1898年:金沢の第四高等学校校長
1902年:広島高等師範学校(現・広島大学)初代校長
1908年:ロンドンでの万国道徳教育会議に出席。イギリスのボーイスカウト運動を調査し日本に紹介
1913.5.9:東北帝国大学総長
1917年:学習院院長(12代)
1920年:宮中顧問官,貴族院議員に選ばれる.
[文プ] トップ
ホーキング(Stephen W.Hawking, 1942.1.8-2018.3.14).
イギリス、オックスフォードに生まれ,ケンブリッジに死す.
量子力学を宇宙論に結びつけ、アインシュタイン以来と呼ばれる、イギリスの天体物理学者。ケンブリッジ大学ルーカス教授(1979-2009)。一般相対性理論,重力理論,理論天体物理学,数理物理学.ホーキング・ペンローズの定理.ブラックホールからの熱輻射(ホーキング輻射=ベッケンシュタイン・ホーキング輻射).3次元ブラックホールのホーキング・ベッケンシュタインのエントロピー,ベッケンシュタイン・ホーキングの公式.
筋萎縮性側索硬化症という難病を知性の力で克服し続けたその姿は人を勇気づけずには措かなかった.
日本語に訳された著書も多い. [解II.1, 文], [50.7,25,27] トップへ
ホーゲンディイク,ヤン(Jan Pieter Hogendijk, 1955.7.21-.)
オランダ,フリースラント州レーワルデンの生まれ.
Fred van der BlijとGerald J. Toomerの指導で「円錐曲線のイブン・アル=ハイタムの達成(Ibn al-Haytham's Completion of the Conics)」により,ユトレヒト大学からPh.D.取得(1983).
数学者で科学史家.ユトレヒト大学数学史教授(2005-).ギリシャ科学がイスラム文明に吸収されていく過程をテーマ.オットー・ノイゲバウワー賞受賞(2012).
[幾4,6,文] トップへ
A.N.ボゴリューボフ,アレクセイ・ニコラエヴィッチ(Aleksei Nikolaevich Bogolyubov, 1911.3.25-2004.11.1)
ウクライナ,ネジンの生まれ.数学者で理論物理学者のN.N.ボゴリューボフの弟.
ハリコフ大学卒業(1936),教授(1971).ウクライナ科学アカデミー歴史学研究所自然史技術史部門(1962-74),ウクライナ科学アカデミー数学研究所(1974-).
数学史,力学史.『ソヴィエト数学史』(キエフ,1966-77),『ソヴィエト数学会の動向(1917-66)』.数人のロシア人と,モンジュ,ポンスレの伝記を出版. [パ:ノート] トップへ
N.N.ボゴリューボフ,ニコライ・ニコラエヴィッチ(Nikolai Nikolaevich Bogolyubov, 1909.8.21-1992.2.13.)
ロシア,ニジニー・ノヴゴロドの生まれ.14才から,N.M.クルイロフ指導のウクライナ科学アカデミー数理物理学講座ゼミナールに参加.1925年同アカデミーの大学院に入学を許可される.理学修士(1928),数学博士(1930).キエフおよびモスクワ大学教授(1936-50).スチェクロフ研究所(1949),所長(1965).核研究総合研究所(1956),所長(1965).1963年より,ソ連科学アカデミー数学部長.
数理物理学,解析学,非線形力学の近似理論.統計力学.散乱理論.場の量子論.超流動理論.超伝導理論.微分方程式,関数解析.常微分方程式のクルイロフ・ボゴリューボフの平均化法.
著書も多く,日本語にも何冊か翻訳されている. [代コ] トップへ
ポゴレロフ(Alexei Vasilievich Pogorelov(Алексей Васильевич Погорелов), 1919.3.2-2002.12.17).
ソ連ベルゴロド州カローチャに生まれ,ロシア,モスクワに死す.
ハリコフ大学で学び,N.E.ジュコーフスキー空軍大学校卒(1945).勤務はハリコフ大学(1947--),ウクライナ低温物理工学研究所(1960--).学位はモスクワ大学で,ニコライ・エフィモフとA.D.アレクサンドロフの指導の下で,凸曲面の幾何に関して取得(1948).ロシア科学アカデミー会員(1976).
凸体の幾何学,ヒルベルトの第4問題,高次元ミンコフスキー問題,モンジュ・アンペール方程式に関する諸著作は外国語にも翻訳され,それらの分野での標準的教科書となった.
幾何諸分野の大学生向けや中学生用の教科書を多数執筆.
『ヒルベルトの第4問題(Hilbert's fourth problem)』(1979).[モ歴], [フ文] トップへ
ポーサ(Lajos Pósa, 1947.12.9-).
ハンガリー,ブダペシュトの生まれ.
組み合わせ論.
エトヴォシュ大学,ハンガリー科学アカデミー,レニイ研究所(2002-).
ハミルトン閉路の存在のための十分条件を与える.エルデシュ・ポーサの定理(1965).
[天21], [天VI.28] トップへ
ボス(Henk J. M. Bos).
オランダの数学史家.1971年にユトレヒト大学に勤め,教授(1985-2005).デンマーク,オーフス大学理学部数学史の名誉教授.
ポンスレの閉包定理,デカルト,ライプニッツなど.
『数学史講義(Lectures in the history of mathematics)』(1993). [フ文] トップへ
ボース(Satyendra Nath Bose, 1894.1.1-1974.2.4).
インド,カルカッタに生まれ,カルカッタに死す.理論物理学者で数学者.カルカッタ大学に学び,1916年から教鞭.ダッカ大学(1921-45),カルカッタ大学(1945-56).
電磁放射の気体的特性に関するアインシュタインの量子力学理論の発展.素粒子の集合状態に関する統計モデル(ボース・アインシュタイン統計(ディラックの命名)).その著『プランクの法則と光量子仮説』Planck's Law and the Hypothesis of Light Quanta (1924)をアインシュタインに送り,それを見たアインシュタインがドイツ語に訳して,雑誌 Zeitschrift f"ur Physik に掲載させる.
この理論をアインシュタインが発展させ,光量子が認知されるようになる.
[代17] トップへ
ホステン(Serkan Hoşten, 1969.1.2-).
トルコ,アンカラ,Bilkent大学卒(1992.5).アメリカ,コーネル大学から修士(1995.4),コーネル大学からBernd Sturmfelsの指導で,「整数プログラムにおけるグレプナー基底の次数(Degrees of Groebner Bases of Integer Programs)」によりPh.D.取得(1997).
サンフランシスコ州立大学数学科助教授(2000-2004),准教授(2004-2010),教授(2010-).
計算代数,組合せ論,代数幾何,代数統計,整数プログラミング. [天21], [天VI.28] トップへ
ポーセリエ(Charles-Nicolas Peaucellier, 1832.6.16-1919.10.4).
フランス,アルマーニュ,サールルイに生まれ,パリに死す.
エコール・ポリテクニク卒の技術者.フランス陸軍に入り,1888年には中将.
ポーセリエ・リプキン(Yom Tov Lipman Lipkin, 1840-1876)の反転器(1864).
[クII.2.3] トップへ
ホッジ(William Vallance Douglas Hodge, 1903.6.7-1903.7.7). スコットランド,エジンバラに生まれ,イングランド,ケンブリッジに死す.
代数幾何,微分幾何,ケーラー多様体に適用されるホッジ理論.
George Watson's Collegeに入学,エジンバラ大学に学び,1923年に卒業.E.T.ホイッタッカーの助けでケンブリッジ数学トリポスを獲得.ケンブリッジではH.F.ベイカーの影響を受ける.
1926年にブリストル大学に教職を得,代数幾何のイタリア学派,特にF.セヴェリの提示した問題と,レフシェッツの位相的方法との橋渡しの研究.
アティヤの記憶では,1931年にケンブリッジのM.H.A.ニューマンの部屋で,レフシェッツとホッジが会合し,懸案を解決したという.
プリンストンにレフシェッツを訪ね(1931-32),ジョンズ.ホプキンズ大学にザリスキを訪ねた.このときに,ド・ラム理論を消化し,ホッジの星作用素を定義した.それにより,調和形式を定義した.
ケンブリッジに戻り,1933年に講師,天文学と幾何学のローンディーン教授職につく(1936-1970).ケンブリッジ大学の初代数学部長に.また,ペンブローク学寮長(1958-1970).
ホッジの指数定理,ホッジ分解,混合ホッジ構造,ホッジ予想,ホッジ‐ド・ラム‐小平の定理,ホッジ積分,ホッジ多様体.
著書に,「調和積分の理論と応用(The Theory and Applications of Harmonic Integrals)」(1941),ペドーとの共著に「代数幾何の方法(Methods of Algebraic Geometry)」全3巻(1947,1952,1994).
[ワ文],[辞] トップへ
ポッセ(Konstantin Aleksandrovich Posse, 1847.10.28-1928.8.24).
ロシア、ノヴゴロド、ペトロフスク村の生まれ。
サンクト・ペテルブルグ大学教授(1883)。解析学・関数論を研究。教科書多数。 [解II.6] トップへ
ボッチャー,マクシム(Maxime Bôcher, 1867.8.28--1918.9.12).
アメリカ,マサチューセッツ州,ボストンに生まれ,同州,ケンブリッジに死す.
父親はハーヴァードのフランス語の教授(1872-).
ケンブリッジ・ラテン学校を卒業後(1883),ハーヴァードでは幅広く学び(-1888),奨学金を得て,ゲッティンゲンに留学し,F.クライン,シェーンフリース,H.A.シュヴァルツ,I.シューア,Woldemar Voigtに学ぶ.
クラインの指導で,学位論文「ポテンシャル論の級数展開について」(Uber die Reihenentwicklungen der Potentialtheorie)で学位(1891).
1891年ゲッティンゲンで結婚.帰国後ハーヴァード大学講師,助教授(1894),正教授(1904) .病弱で長患いの末死亡.
微分方程式,級数,代数.ボッチャーの定理,ボッチャー方程式,
弟子にバーコフ,ウォルシュ,G.C.エヴァンスなど.
1923年にアメリカ数学会がボッチャー記念賞を制定.
[伝9,10], [クI.2.1] トップへ
ボット(Raoul Bott, 1923.9.24-2005.12.20) .
ハンガリー,ブダペストに生まれ,アメリカ,カリフォルニア州サンディエゴに死す.
ハーバード大学教授.トポロジー,関数解析.K理論,ベクトルバンドル,ボット周期性.
アティヤ・ボットの不動点定理,
ボレル=ヴェイユ=ボットの定理,
モース=ボット・ホモロジーなど.
『微分形式と代数トポロジー(Differential Forms in Algebraic Topology)』(1982,トゥーと共著,日本語訳あり).
[名20] トップへ
E.ホップ(Eberhard Friedrich Ferdinand Hopf, 1902.4.17-1983.7.24).
オーストリア・ハンガリー帝国ザルツブルクに生まれ,アメリカ,インディアナ州ブルーミントンに死す.
ベルリン大学からE.シュミットとシューアに指導で\"Uber die Zusammenh\"ange zwischen gewissen h\"oheren Differenzenquotienten reeller Funktionen einer reellen Variablen und deren DifferenzierbarkeitseigenschaftenによりPh.D.取得(1926).1929年にベルリン大学から数理天文学でハビリタシオン取得.
1930年にロックフェラー奨学金でハーヴァードのバーコフと古典力学の研究をするつもりだったが,ハーヴァード・カレッジ天文台の職だった.ウィーナーの招きでMITの助教授(1931-36),エルゴード理論の仕事をする.著書Mathematical problems of radiative equilibrium(1934)は30年後に再版されている.
ウィーナー・ホップ方程式もこの時期の仕事.
有名な著書『エルゴード理論(Ergodentheorie)』(1937)はMIT時代に書かれたものである.
ライプツィヒ大学教授(1936-42),ドイツ航空大学(1942),ミュンヘン大学(1944-47),1947年にR.クーラントに誘われアメリカに移り,1949年に市民権を得て,インディアナ大学ブルーミントン校教授(1949-83).
エルゴード理論,偏微分方程式,微分幾何.
ホップ分岐,ホップ・コール変換.ウィーナー・ホップ法.
弟子にシェーファー(Albert Schaeffer) など.
[伝10] トップへ
H.ホップ(Heinz Hopf, 1894.11.19-1971.6.3.)
ドイツ,ブレスラウ(現在はポーランド,ブロツワフ[Wroclaw])に生まれ,スイス,ツォリコン[Zollikon](チューリヒの南東に位置し,チューリヒ湖北岸の町)に死す.
ベルリン大学からE.シュミットとビーベルバッハの指導で,
「多様体のトポロジーと計量の間の関連について(\"Uber Zusammenh\"ange zwischen Topologie und Metrik von Mannigfaltigkeiten)」により学位(1925).
1931年よりチューリヒ工科大学教授.代数的トポロジー,微分幾何学の位相的側面.ホップ代数,ホップ不変量. [名21, 23], [ト5-8, 文], [ワ文], [伝6,8,9,10] トップへ
ホッホシルト(Gerhard Paul Hochschild, 1915.4.29-2010.7.8)
ドイツ,ベルリンに生まれ,アメリカ,カリフォルニア州コントラコスタ郡エルサリートに死す.
リー群,代数群,ホモロジー代数,代数的整数論.
プリンストン大学からC.シュヴァレーの指導で,「半単純代数と一般微分(Semisimple Algebras and Generalized Derivations)」によりPh.D.(1941) .
イリノイ大学アーバナ=シャンペーン校教授,1950年代の終わりからカリフォルニア大学バークレイ校教授.
代数のコホモロジーを計算するようにS.アイレンベルグに示唆される.リー群,代数群,ホモロジー代数.ホッホシルト(コ)ホモロジー(1945).群のコホモロジーについての,ホッホシルト・セールの基本完全系列.ホッホシルト・スペクトル系列.
類体論にコホモロジーを持ち込む(1952,中山正と共著).ホッホシルト・モストウ群(1957).ホッホシルト・コスタント・ローゼンバーグの定理(1962).
『リー群論の構造(The structure of Lie groups)』(1965,日本語訳あり)は影響力のある教科書.『アフィン代数群入門(Introduction to affine algebraic groups)』(1971), 『代数群とリー代数の基本理論(Basic theory of algebraic groups and Lie algebras)』(1981),『初等数学遠望(Perspectives of elementary mathematics)』(1983). [代コ] トップへ
ボーデ(Johann Elert Bode, 1747.1.19-1826.11.23.)
ドイツ,ハンブルクに生まれ,ベルリンに死す.
ベルリン天文台長(1786-1825).ベルリン天文学雑誌創刊(1774).ドイツ天体暦を創刊(1779).ティティウスが1766年に発見した惑星配列に関する経験則を発表し,今日むしろボーデ則と呼ばれている.ハーシェルの発見した惑星をUranus(天王星)と命名. [パ23, 年表], [文2] トップへ
ホーナー(William George Horner, 1786--1837.9.22.)
イギリス,ブリストルに生まれ,バースに死す.
ブリストルのキングスウッド学校に学び,1800年14歳で同校の副校長に,1804年に校長になる.1809年にはバースに自分の学校を設立.死後は息子のウィリアムが経営を引き継ぐ.
代数方程式の数値解法についての論文を王立協会に提出(1819.7.1).その数年前にイタリア数学会の懸賞問題に応募して類似の解法を得ている.もちろん13世紀の秦九韶『数書九章』に同等の事実が知られていることはヨーロッパには知られていなかった.
ホーナー法の名前が高いのは,ド・モルガンが自著の多くの場所でホーナーの名を引用したことによる.
[微], [幾7] トップへ
ポーニック(Đura Paunić(Djura Paunic), 1949-).
セルヴィア,ノヴィ・サド大学.学士(1972),修士(1977),博士(1987).正教授(1997-).
数学史,計算入門,データ構造,アルゴリズム,システム・プログラミングなどを教える.天文学とコンピュータ・サイエンスの普及に尽力. [幾2,4,7,9] トップへ
ボネ(Pierre Ossian Bonnet, 1819.12.22-1892.6.22).
フランス、モンペリエに生まれ、パリに死す。
エコールポリテクニク(1838年入学)と同時に土木学校に学ぶ。土木技師となるが、数学を研究するため辞職。エコールポリテクニクに職を得(1844)、のちソルボンヌ大学教授(1878)。級数論、微分幾何学、変分学を研究。ガウス-ボネの定理。 [解III. 6], [ト6, 文], [フ20] トップへ
ホプキンズ(William Hopkins, 1793.2.2-1866.10.13). イングランド,ノッティンガムシャー,キングストン・オン・ソールに生まれ,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
数学者,地質学者.
学者としては近代地質学の創始者の一人アダム・セジウィック(1785.3.22-1873.1.27)の弟子で,物理的地質学という分野を定める.
ラングラー・メイカーとして有名.1849年までに200人ほどのラングラー,うち17人はシニア・ラングラーとなる.
教え子にエドワード・ラウス,
フランシス・ゴールトン,
ストークス,
ケイリー,
ケルヴィン卿,
P.G.テイト,
マクスウェル,
アイザック・トドハンター,
Philip Kelland(エジンバラ大学教授)などがいる. [伝4] トップへ
ホフステッター,クルト(Kurt Hofstetter, 1959.7.16-). オーストリア,上オーストリア州リンツの生まれ.
芸術家(コンピュータ,照明,インターネット,メディアアート),作曲家,科学作家(特に幾何).黄金分割関連の書が7冊ある.
[幾2], [50.26] トップへ
ホフスタッター,ダグラス(Douglas Richard Hofstadter, 1959.7.16-). アメリカ,ニューヨークの生まれ.父はノーベル物理学賞受賞のロバート・ホフスタッター.
父の勤務するスタンフォード大学のキャンパスで育ち,ジュネーブのインターナショナル・スクール(1958–1959)に通うスタンフォード大学卒(1965).
オレゴン大学から,Gregory Hugh Wannierの指導で,The Energy Levels of Bloch Electrons in a Magnetic Field(磁場におけるブロック電子のエネルギーレベル)により物理学のPh.D.取得(1975).これに出てくるフラクタル構造はホフスタッターの蝶と呼ばれる.
インディアナ大学コンピュータ科学部勤務(1977).そこでAIに興味を持つ.
インディアナ大学ブルーミントン校のthe College of Arts and Sciences Distinguished Professor of Cognitive Science and Comparative Literature教授(1988-).
認知科学と計算機科学の教授(College Professor)および科学史、科学哲学、哲学、比較文学、心理学の教授(Adjunct Professor).同校の概念認知研究センター(ホームページ)の代表も.
日本語訳された著書に『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(野崎昭弘+はやしはじめ+柳瀬尚紀訳)白揚社(1985),
『メタマジック・ゲーム』(竹内郁雄ほか訳)白揚社(1990), ダニエル・デネットとの共編著『マインズ・アイ──コンピュータ時代の「心」と「私」』 (坂本百大監訳)TBSブリタニカ(1984) がある.また,I Am a Strange Loop(2007) .
ホフスタッターの法則:It always takes longer than you expect, even when you take into account Hofstadter's Law(ホフスタッターの法則を考慮に入れても,いつでも予測以上の時間がかかるものである )
英語以外に,イタリア語,フランス語,ドイツ語が使え,スウェーデン語とロシア語も少しは話せ,特にプーシキンの韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』を韻文で英語に翻訳し出版した.
[50.26] トップへ
ホフステッター,クルト(Kurt Hofstetter, 1959.7.16-). オーストリア,上オーストリア州リンツの生まれ.
芸術家(コンピュータ,照明,インターネット,メディアアート),作曲家,科学作家(特に幾何).黄金分割関連の書が7冊ある.
[幾2] トップへ
ホブソン,アーネスト・ウィリアム(Ernest William Hobson, 1856.10.27-1933.1.19). イギリス,ダービーに生まれ,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
ダービー・スクール,王立マインズカレッジ,ケンブリッジ大学クライスツ・カレッジに学ぶ.シニア・ラングラーとして卒業,フェローになる(1878).ケンブリッジ大学サドレリアン教授(1910-1931).
数学解析,球面調和関数論.1907年の『実変数関数論(Theory of Functions of a Real Variable)』はイギリスの伝統を覆したとしてG.H.ハーディに賞賛される.一般トポロジー,測度論,フーリエ級数の使用が特長だが誤りもあり,それはR.L.ムーアに正される.『三角関数論(A Treatise on Trigonometry)』(1891),『球面および楕円調和関数論(The Theory of Spherical and Ellipsoidal Harmonics)』(1931).
トネリ・ホブソン・テスト(Leonida Tonelli,1885.4.19-1946.3.12) は2変数の実関数がルベーグ可積分であるための条件.[幾5,7,解] トップへ
ホブソン,ニック(Nick Hobson).
Nick's Mathematical Puzzles パズル作家.British University数学科卒.
[率2] トップへ
ホフマン(Joseph Ehrenfried Hofmann, 1900.3.7-1973.5.7).ミュンヘンに生まれ,Günzburgに死す.
Technische Universität München(ミュンヘン工科大学)から,フォン・ディックとGeorg Faberの指導で,Über die gestaltliche Diskussion des durch eine gewisse Differentialgleichung 1.Ordnung 2.Grades definierten KurvensystemsによりDr. techn. Wiss.取得(1927).
数学史.オイラー,フェルマ―,ベルヌーイ,ライプニッツなど.ベルリンアカデミーでライプニッツ全集の編集(1940-45).Günzburgの高校教師をしながら,フライブルク大学,ベルリン大学,チュービンゲン元大学などで数学史を教える.著書多数.
[幾7,文] トップへ
ホフライター(Nikolaus Hofreiter, 1904.5.8-1990.1.23). オーストリア,上オーストリア州リンツの生まれ.
リンツの学校へ行き,1923年にウィーン工科大学でハーンやヴィルティンガーらと画法幾何学を学び,フルトヴェングラーの指導で「定値2次形式に対する新しい還元理論(Eine neue Reduktionstheorie f\"ur definite quadratische Formen)」により博士号(1927).1929年にフルトヴェングラーの助手としてウィーン工科大学に勤め,1933年に教授資格を取る.優秀な教師であり,ウィーンだけでなくグラーツでも教える.
数の幾何,ディオファントス近似.
1939年に准教授となり,結婚.妻もフルトヴェングラーの弟子で代数方程式に関する業績があるが,当時ベルリンで気象学者として働き,ホフライターもブラウンシュヴァイクの航空研究所に移動,同研究所には各地から研究者が集められ,ウィーンからグレプナーも来ていた.そこで,2人で積分表を作成しはじめる.
『積分表, I部:不定積分(Integraltafel, erster Teil: unbestimmte Integrale)』(1949, グレプナーと共著).
[解II.4, 文] トップへ
ボホナー(Salomon Bochner, 1899.8.20-1982.5.2).
オーストリア・ハンガリー帝国クラクフ(現在ポーランド領)に生まれ,アメリカ,ヒューストンに死す.
クラクフとベルリンで学び,ワルシャワ大学で取得した学位(1921)は,複素解析関数の直交系に関するもの.ハラルド・ボーアとはコペンハーゲンで,G.H.ハーディとはオックスフォードで,リトルウッドとはケンブリッジで共同研究する.そのほとんどはゼータ関数に関するもの.
1924年から1933年はミュンヘン大学で講師,調和解析に関する仕事したが,それは以降の超関数理論に発展する.1933年ドイツを逐われ,アメリカに移住し,プリンストン大学に停年まで勤める.
この時期は特にフーリエ級数の総和法を研究し,関数解析にも業績.ボホナー積分.ボホナー・フェイェールの方法.複素関数論でボホナー・マーティン積分.
ボホナー=リース平均.
1時期フォン・ノイマンとも共同研究をする.著書にW.T.マーティンとの共著『多変数間数論』,『フーリエ積分講義』,『調和解析と積分論』(1955)などがある.
1960年代には数学史や数学哲学にも興味を示し,日本語では『科学史における数学』(村田全訳)みすず書房(1970)がある.
[天19],[天VI.26] トップへ
ホーム(Finn Holme) [天6] トップへ
ホメロス(Homeros,'Ομηροζ)
紀元前8世紀後半頃活躍.古代ギリシアの伝説的な詩人.出身がイオニア地方であることは,使われている言語が主にイオニア方言から想像される.
古代ギリシア語の発音では「ホメーロス」の方がより正確である。
古代ギリシアの文化と教養の多くは彼の詩に源を持ち,「西洋文学の父」とも言われ,現代までも大きな影響を与えている.
二大英雄叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』はヘクサメトロス(六脚律)と呼ばれる韻律で書かれている.
近代になって作者がホメロスであることに疑念が呈されてきたが,この2つの間に大きな言語的・文芸的な区別は存在しない.
2つの詩の原型はある個人によって、それ以前の口承文学を引用しつつ、創造されたものという説が有力.
他に、『キュプリア』『アイティオピス』『小イーリアス』『イーリオスの陥落』『帰国物語』『テーレゴニアー』が伝統的にホメロス作と見なされてきた。『ホメロス讃歌』と呼ばれる神々への讃歌33編はホメロスの作品ではない. [モ歴] トップへ
ポーヤ(ポリア),ジョルジュ(George Polya(P\'olya Gy\"orgy ポーヤ・ジェルジ), 1887.12.13-1985.9.7.)
ハンガリー,ブダペシュトに生まれ,アメリカ,カルフォルニア州パロ・アルトに死す.
エトヴェシュ・ローランド大学,ブダペシュト大学で学ぶ.最初法律を学ぶも倦み,言語学と文学に転じ,哲学を理解するために数学を学び,結局数学で学位取得(1912).ゲッティンゲンに行き、ヒルベルトやワイルに会う.A.フルヴィッツの世話でチューリヒ工科大学に務める(1914-40).
1924年にはイギリスで,G.H.ハーディやリトルウッドと共同研究をし,その成果が『不等式』(1934)という本になる.
1940年にアメリカに亡命.ブラウン大学,スミス・カレッジ(1942-46)を経て,スタンフォード大学教授(1946-53).複素解析(整関数の位数,ディリクレ級数の零点,ポーヤのピーク列),級数論(ファブリの空隙定理の一般化(1929)と最良性(1942),自然境界),数論,組合わせ論(ポーヤの計数定理),確率論(分布のフーリエ変換に着目,乱歩,ポーヤ型分布),天文学など業績は幅広い.
古代エジプト時代から知られていた「平面結晶群は17種である」ことの数学的証明を与えた(1924).
数学の普及にも力を注ぎ,問題の解き方に関する著書は有名で日本語にも訳されている.
「もしも問題を解くことができなければ,解くことはできないより易しい問題があります.それを探しなさい.」
文献
- 『いかにして問題をとくか』(How to solve it (柿内賢信訳,丸善,1954)
- 『数学の発見はいかになされるか:1機能と類比,2発見的推論(そのパターン)』(柴垣和三雄訳,丸善,1959)
- 『数学の問題の発見的解き方』(柴垣和三雄+金山靖男訳)みすず書房(1964)
- 『不等式』Inequalities , with G.H.Hardy and Littlewood, Cambridge Univ.Press(1934, 第2版は1952):細川尋史による日本語訳がシュプリンガー数学クラシックス11(2003.10.4)(現在,丸善出版刊)として出ている.
- 『数理物理における等周不等式』Isoperimetric inequalities in Mathematical physics, with G.Szego, Princeton Univ.Press(1951).
- 『解析学の問題と定理』Aufgaben und Lehrsatze aus der Analysis, vols I and II, with G.Szego, Princeton Univ.Press(1925).
[名10], [代コ], [天16,17], [伝7,8,9,10], [フ3,文], [辞], [作付A], [幾9], [天VI.20,23] トップ
ボヤイ,ファルカシュ(=ボルフガング)(Farkas Bolyai, 1775.2.9-1856.11.21.)
ハプスブルク帝国トランシルヴァニア公国ヘルマンシュタット(現在ルーマニア,シビウ)近くのボーヤ村(ブイア)に生まれ,オーストリア帝国,トランシルヴァニア,マロスヴァシャールヘイ(Marosvásárhely)(現在,ルーマニア,トランシルヴァニア,トゥルグ・ムレシュ)に死す.
カルヴァン派の学校で学び,数学と語学に才能を発揮.ハンガリー語,ドイツ語ロシア語以外に,ラテン語,ギリシャ語,ルーマニア語,ヘブライ語,フランス語,イタリア語,英語を学ぶ.卒業後ケメニー伯爵の息子シモンの家庭教師となった後友人となり,シモンの進学とともに付き添い,クラウスブルク,イェーナ,ゲッティンゲンに学ぶ.
数学者かつ詩人で,ガウスの友人。ヤーノシュの父.
ゲッティンゲン大学からケストナーの指導で,Tentamenにより学位を得る(1796).
ゲルウィーンと独立に,等積な多角形は分割合同であることを示した.
学生時代,ガウスとともにユークリッドの第5公準を証明しようとしたが果たせず,ガウス自身は,それが証明できないこと,つまり非ユークリッド幾何が成立することを知っていたらしい.
息子もまた取り組もうとしていることを告げられたときも,止めるように忠告している. [天7], [伝2], [フ22], [天VI.10] トップへ
ボヤイ,ヤーノシュ(János Bolyai, 1802.12.15-1860.1.27.)
ハンガリー,コロスヴァール(現在はルーマニアのクルージュ・ナペカ)に生まれ,マロスヴァラヘリー(現在はルーマニアのティルグ・ムレス)に死す.
父ファルカシュの教育で,ヤーノシュは13歳までに微積分をマスターしており,さらにヴァイオリニストとしての教育も受け,ウィーンで演奏もしている,早熟の天才の一人である。剣士としても舞踏家としても有名であった.酒も煙草もコーヒーすら飲まず,中国語やチベット語も含めた9カ国語を操ったという.
父の影響で,ユークリッドの第5公準の証明を試み,非ユークリッド幾何を発見.
非ユークリッド幾何のまとまったものとしての初めての叙述はヤーノシュのもので,父の幾何の教科書(1832)の附録として(ロシア語で)出版されているが,広く受け入れられるに至らなかった.ガウスはこの附録を読んで,ファルカシュへの手紙で,最大級の賛辞を送っている.非ユークリッド幾何が認められるようになるのはロバチェフスキーの著作がドイツ語で出版された時(1840年)以降である.
また,複素数を実数の対として厳密に構成した. [名13], [幾2], [50.13], [クII.3.2] トップへ
ポラック,ヘンリー・O(Henry Otto Pollak, 1927.12.13-)
オーストリア,ウィーンの生まれ.イェール大学で理学学士(1947),ハーヴァード大学で修士,またアルフォースの指導で「極値的距離に対するいくつかの評価(Some Estimates for Extremal Distance)」によりPh.D.取得(1951).
1951年からベル研究所に勤め,1960年代に数理統計研究センター所長.コロンビア大学の数学教室でも教育職.
解析学,関数論,確率論,数学教育などの著書多い.
情報理論,グレアム・ポラックの定理. [天8], [天VI.11] トップへ
ポラック,リチャード(Richard M. Pollack, 1935.1.25-2018.9.18). アメリカ,ニューヨーク市に生まれ,ニュージャージー州モンクレアに死す.
ニューヨーク大学から,Harold Nathaniel Shapiroの指導で,「初等的素数理論におけるいくつかのタウバー型定理(Some Tauberian Theorems in Elementary Prime Number Theory)」によりPh.D.取得(1962).
クーラント研究所教授.離散数学,計算幾何学,計算機を使う実代数幾何.
組み合わせ論ではエルデシュやJános Pachと共同研究.離散幾何ではグッドマンと長く共同研究.実代数幾何ではSaugata BasuやMarie-Françoise Royと共同研究,共著もある.
[天9], [天VI.12] トップへ
ポリュクラテス(Polycrates, Πολυκράτης, 紀元前538頃-522.)
サモス島の僭主.サモス島を掌握した後,エジプトのファラオ,アマシス2世,ナクソス島の僭主リュグダミスと同盟.エーゲ海の島々、小アジアのイオニア沿岸諸都市を略奪、レスボス島とミレトス海軍を破り,さらにレネイア島を征服してアポローンへ奉納した.
国内的には,エウパリノスの地下導水路(Ευπαλίνιον όρυγμα)と巨大なヘーラー神殿(ヘライオン)を作り,紀元前522年デロス島とデルポイ両方のアポローンを讃える二重の祭を催す.
エジプトとの同盟が破棄され,ペルシア王カンビュセス2世と同盟.反乱軍が,スパルタやコリントスと同盟してサモス島を40日包囲攻撃したが撃退.ヘロドトスには彼についての多くの記事がある.
心理学で、罰せられたい欲望のことをポリュクラテス・コンプレックスというが,彼の死に際しての逸話に因む.
ピュタゴラスはサモス島に生まれたが,ポリュクラテスの紹介状を持ってエジプトを訪問したとも,ポリュクラテスの専制が強まったため国外に退去したとも言われる.また,ポリュクラテスの宮殿の床のモザイクを見てピュタゴラスの定理を思いついたという伝説もある. [幾1] トップへ
ボーリン(Karl Petrus Teodor Bohlin, 1860.10.30-1939.5.25.)
スウェーデン,ストックホルムの生まれ.
スウェーデンの天文学者.ストックホルム天文台長. [パ附1, ノート] トップへ
ホール,グランヴィル・スタンリー(Granville Stanley Hall, 1844.2.1-- 1924.4.24)
アメリカ,マサチューセッツ州アシュフィールドの生まれで,ハーヴァード大学卒業.心理学者で,1892年にアメリカ心理学会を組織し,初代会長となる.クラーク大学初代学長(1887).
[伝8] トップへ
H.S.ホール(Henry Sinclair Hall, 1848-1934)
ケンブリッジ大学クライストチャーチ・カレッジ
主にS.R.ナイトとの共著で代数に関する多くの著書 Algebra for beginners(1895),Algebra for colleges and schools(1927), Algebra for matriculation(1911), Elementary algebra(1895), Higher Algebra. Macmilian(1891), Elementary Trigonometry(1906)など [クI.2.1] トップへ
ホール,フィリップ(Philip Hall, 1904.4.11-1982.12.30)
イギリス,ロンドン,ハムステッドに生まれ,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
ケンブリッジ大学キングズカレッジ入学(1922.10).バーンサイドの本に強い影響を受ける.
ケンブリッジ大学からK.ピアソンの指導で「アーベル群の同型(The Isomorphisms of Abelian Groups)」によりM.A.取得(1926).後教授.
群論.時に有限群論.部分群の研究とヒグマンとのp可解群の研究から,単純群の研究でも重要な貢献.普遍可算局所有限群の導入や準単純群の類の構成.
ホール多項式,ホール部分群,ホール代数,ホール=ヒグマンの定理(1956),ホール=リトルウッド多項式,ホールの普遍群(1959),ホールの結婚定理(1935),アーウィン=ホール分布(1927).
日本語の本には『群論 上下』(金沢稔+八牧宏美訳,数学叢書10, 13, 吉岡書店),『組み合わせ理論』(岩堀信子訳,数学叢書15, 吉岡書店)などがある. [天22,25], [天VI.30] トップへ
ボル,ゲリット(Gerrit Bol, 1906.5.1-1989.11.1). オランダ,アムステルダムの生まれ.
ライデン大学からWillem van der Woudeの指導で,Vlakke Laguerre-Meetkunde(ラゲールレベル=幾何学)によってPh.D.取得(1928).1930年代W.ブラシケの下でハンブルグ大学で,網の幾何,後に射影微分幾何.
1933年にはヒットラーと国家社会主義国家へのドイツ教授の忠誠の誓いに署名したが,1942-45の第2次大戦中はオランダの側で戦い囚人となる.ブラシケのおかげで釈放される.
戦後,フライベルク大学教授(-1971).
ボル・ループ(群概念の一般化の一),ボル代数,ボル予想, [幾10] トップへ
ボール,キース(Keith Martin Ball, 1960.12.26-). ニューヨーク市の生まれ.
ケンブリッジ大学卒業(1982),ケンブリッジ大学からベラ・ボロバシュの指導で, 「l_pにおける等長問題と凸集合の断面(Isometric Problems in l_p and Sections of Convex Sets)」によりPh.D.取得(1987).
ロンドン・ユニヴァーシティ・カレッジ講師(1990),教授(1996),ウォーリック大学教授.
関数解析,高次元幾何,離散幾何,確率情報理論.確率論の中心極限定理の熱力学の第2法則のアナロジーを確立.
リヴォーとともに無限個の値ζ(2t+1),2t+1≧5が無理数であることを示した. [天6], [天VI.9] トップへ
ボール,W.W.ラウズ(Walter William Rouse Ball, 1850.8.14-1925.4.4).
イギリス,ロンドン,ハンプステッドに生まれ,ケンブリッジ,エルムサイドに死す.
ユニバーシティ・カレッジ・スクール卒業後,ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ入学(1870),1874年にセカンド・ラングラーとしてBA獲得.1875年にトリニティのフェローとなり,残りの人生を過ごす.
著書に,『ケンブリッジ大学における数学研究の歴史(A History of the Study of Mathematics at Cambridge)』(1889),『数学小史』(1888年,1960年にdoverから第4版),『数学レクリエーションとエッセイ(Mathematical Recreations and Essays)』 (1892,第2版からはコクセターと共著).他にもトリニティのボート・クラブの歴史(1908)とか,String Figures(1920)などがる.
1919年に最初のマジシャンのクラブであるペンタクル・クラブを創設,最初はケンブリッジ大学の関係者に限定.
ケンブリッジとオックスフォードにラウズ・ボール数学教授職とケンブリッジにラウズ・ボール英国法教授職がある.[ふ5], [幾2] トップへ
ボール,ロジャー(Sir Robert Stawell Ball, 1840.7.1-1913.11.25).アイルランド,ダブリンに生まれ,イギリス,ケンブリッジに死す.
ダブリン大学トリニティカレッジで学んだ天文学者,数学者.
ダブリン大学ロイヤルカレッジ教授(1867),ダブリン大学天文学のアンドリュー教授職(1874),アイルランド王立天文官(-1898).1892年J.C.アダムズの後任としてケンブリッジ大学天文学・幾何学教授,ケンブリッジ大学天文台長.1900年にネジの理論に関する著書(A Treatise on the Theory of Screws),木村駿吉が1896年に作った四元数協会会長,Mathematical Association会長など.
[クI.1.4] トップへ
J.ボールウェイン(Jonathan Michael Borwein, 1951.5.20--2016.8.2).
スコットランド,聖アンドリューズに生まれ,カナダ,オンタリオ州ロンドンに死す.
ピーターの兄.西オンタリオ大学卒業(1971),オックスフォード大学ジーザス・カレッジで博士号取得(1974).カナダ,バーナビー,サイモン・フレイザー大学,数学統計学教室,実験構成数学センター(2001-08).オーストラリア,ニューカッスル大学教授.
非線形最適化理論,関数解析,滑らかでない解析,計算機利用の整数論.
1980年代初めに弟とともに,ベイリーが1986年にπの世界記録(2936万桁)を作ったときの主計算に使った4次の収束の公式と,検証計算に使った2次の収束の公式を発見.
『π:原典(π:A Source Book)』(1997,P.ボールウェイン,ベルグレンと共著).ボールウェイン積分,ボールウェインのアルゴリズム.
[名2], [天20], [天VI.9,27] トップへ
P.B.ボールウェイン(Peter Benjamin Borwein, 1953.5.10-2020.8.23).
スコットランド,聖アンドリューズに生まれ,カナダ,オンタリオ州ロンドンに死す.
カナダ,バーナビー,サイモン・フレイザー大学,数学統計学教室教授.
2進数におけるπの任意桁を計算可能にするBBPアルゴリズムの式(ベイリー=P.ボールウェイン=プラウフの式)を発見した(1995).実験数学,円周率の計算とホームページを運営.
Bailey–Borwein–プラウフ公式(BBP formula).ボールウェインのアルゴリズム.エルデシュ・ボールウェインの定数.
『π:原典(π:A Source Book)』(1997,ベルグレン,J.ボールウェインと共著) [名2], [天20], [天VI.9,27] トップへ
ボルスク(Karol Borsuk, 1905.5.8-1982.1.24).
ポーランド,ワルシャワに生まれ,ワルシャワに死す.ワルシャワ大学に入学当時,ヤニシェフスキ,マズルキーヴィッツ,クラトフスキ,シェルピンスキなどによるトポロジーのポーランド学派が盛んに活動していた.ワルシャワ大学で修士(1927),29年から同大学で教え始める.ワルシャワ大学からマズルキーヴィッツ(Stefan Mazurkiewicz)の指導で,「レトラクトと関連する集合について」によりPh.D.取得(1930).
当時ポーランドの第2の数学センターであったリヴォフ大学を訪問したときウラムと知り合い,共同研究を始める.
代数トポロジー,特に安定ホモトピー論.組み合わせトポロジー,微分幾何,シェイプ理論(1968年にこの概念を生む).ボルスク・ウラムの定理,ボルスクの問題.絶対近傍レトラクトやコホモトピーの概念を導入.ボルスク予想,ボルスク数,ビング・ボルスク予想
弟子には,アイレンベルグ,Andrzej Granas, Jan Jaworowski,Krystyna Kuperberg,Włodzimierz Kuperberg,Andrzej Trybulecなど
[天14], [天VI.18,43] トップへ
ボルチャルト(Carl Wilhelm Borchardt, 1817.2.22-1880.6.27).
ドイツ、ベルリンに生まれ、ルデルスドルフ(ベルリン近郊)に死す。
ベルリン大学でディリクレのもとで学び(1836),1839年からケーニヒスベルク大学に移り,ベッセル,F.ノイマン,ヤコビのもとで学ぶ.学位はヤコビの指導下で,非線形微分方程式論をテーマに取得.
1846-47年にはパリに行き,エルミートやリウヴィルなどと会う.
ワイエルシュトラスの友人。
『テータ級数の性質から導かれる楕円関数論(Theorie der elliptischen Functionen aue der EIgenshaften der Thetareihen abgeleitet)』はヤコビの1835/36年の講義をまとめたもの.2重周期関数に関するリウヴィルの理論をまとめてクレレ誌に発表.
1848年からベルリン大学で教え、のち教授.アーベル積分,楕円関数論.惑星の永年摂動,またグラフ理論の先駆も.
『クレレ誌』の編集をクレレから受け継ぐ(1856-1880)。ヤコビ全集の編集を始めたが、業半ばに死す。 [解文], [天24], [幾11,文], [天VI.33] トップへ
ボルチャンスキー(Vladimir Grigor'evich Boltyanskii(Влади́мир Григо́рьевич Болтя́нский), 1925.4.26-2019.4.16).
ソ連,モスクワに生まれ,メキシコGuanajuatoに死す.
モスクワ大学卒(1948),教授(1959).
ヒルベルトの第3問題に関連した研究.トポロジー,サイバネティックス,常微分方程式の最適制御理論への応用,動的計画法の基礎づけ,数学教授法,問題解法の心理学など.
日本語の本に『図形の等積と分解合同』(木村君男+銀林浩訳),『トポロジー入門』(エフレモヴィチと共著,山崎昇+松野武訳)(ともに数学新書、東京図書)や,ポントリャーギンらとの共著の『最適制御の数学理論』などがある.
[天7], [フ22,文], [天VI.10] トップへ
ボルツァ(Oskar Bolza, 1857.5.12-1942.7.5).
ラインプファルツ(現在はドイツ),ベルグラーベルンに生まれ,ドイツ,フライブルク・イム・ブライスガウに死す.1873年にフライブルクに落ち着くまで家族は南ドイツのあちこちに移動.
ベルリン大学(1875-)では,ヘルムホルツとキルヒホッフに物理を学んだが(1876-1878),1878年の夏にシュトラスブルクの実験実習で自分にあっていないと感じ,純粋数学に転向.シュトラスブルク大学ではクリストッフェルとライエ(Reye),ゲッティンゲン大学でH.A.シュヴァルツ,1879年にはベルリン大学でワイエルシュトラスの変分法の講義を聴き,生涯の研究方向を定める.
卒業後フライブルクのギムナジウムで教えながら,超楕円関数に関する研究をするもグルサに結果も先行され,方法も優越されて悩む.ベルリン大学に戻り,クロネッカーとL.I.フックスとともに働き始めるが,F.クラインと連絡をとってから,彼の元で博士論文を準備するためゲッティンゲンに移り,超楕円積分の簡約と4次の変換群との関係についての研究で学位(1886).
ベルリン時代に友人となったマシケとともにクラインのポスドクの研究者になる.この頃、ドイツで大学に職を得るほどの才能がないのではと悩む.
1887年にイギリスに行って英語を磨き,1889年にアメリカに移住.ジョンズ・ホプキンス大学、クラーク大学で教鞭.高度な数学を教えることを要求されない環境で,ドイツに帰ろうと思っていた矢先,1892年に開学したシカゴ大学に,E.H.ムーアに誘われ、マシケを推薦して,3人で新しい数学研究と教育のシステムをアメリカで確立.学位論文の発展となる研究を次々とアメリカの雑誌に発表.1904年発刊の『変分法講義』は古典となり,1961年に再刊される.
1908年のマシケの死により住みにくくなったアメリカから,ドイツに戻る(1910).フライブルク大学の名誉教授になり(1910-1933),教育と研究を継続.シカゴからは生涯「不在の数学教授」という称号を与えられ,1913年には一度講義のためにシカゴに戻っている.
関数論,積分方程式,変分法(ボルツァの問題),コントロール理論など.
[伝7] トップへ
ボルツァーノ,ベルナルト(Bernard Placidus Johann Nepomuk Bolzano, 1781.10.5-1848.12.18).
オーストリア・ハプスブルク家領(当時ハプスブルグ・ロートリンゲン家のヨーゼフ2世が神聖ローマ帝国の帝位にあった)ボヘミア、プラハに生まれ、ボヘミア、プラハ(現チェコ共和国領)に死す。
プラハ大学神学・哲学教授。数学的業績の多くは死後の1862年以降に出版。
父は北イタリアからプラハへの移民で,プラハの商人の娘であるMaria Cecilia Maurerと結婚した.2人には12人の子供ができたが,大人になるまで生きたのは,第4子のベルナルトと弟のヨハンだけである.体が弱く,生涯健康には悩まされたらしい.
父母ともに敬虔なローマ・カトリックの信者で,ベルナルトはプラハのピアリスト・ギムナジウムで学ぶ(1791-1796).
プラハ大学で哲学,数学,物理学を学び,1800年に神学部に入学し,1804年に『初等幾何学の2、3の対象に対する考察』(Betrachtungen über einige Gegenstände der Elementargeometrie)で学位を取得し,聖職に就く.
数学に対する興味は持続し,1804年プラハ大学の数学の教授職に推挙され,1805年には哲学科教授職の第1教授に指名された.14年間に行なった講義は倫理と社会問題だったが,数学と哲学の関係についても講義をした.
学識でよりも,自由主義者でありチェコ国民主義者であることで,学生からの人気があった.1818年に哲学部長になるが,この頃から帝国権力の不興を買い,1819年には教授職休職と発表禁止の処分を受ける.5年の間権力との抗争を続け,遂に1824年,皇帝からの「改宗」命令に署名を拒否し辞任し,ボヘミヤの小村で引退生活.1842年にプラハに戻った後,亡くなっている.
王権に反抗したため,業績の大部分は未刊で,1962年に原稿が発表されるまで十分な評価は受けなかった.主著『知識学 Wissenschaftslehre』は1837年に出版.諸学の基礎を「命題自体 Satz an sich」、「真理自体 Wahrheit an sich」、「表象自体 Vorstellung an sich」という三つの概念をもとに、客観主義的な論理学的な立場から打ちたてる試み.
生前の1817年に発表された論文『反対符号の値を持つ2つの値ごとの中間に少なくとも1つの実根があるという定理の純粋に解析的な証明』の中で,解析学の厳密な基礎づけを展開している.実数に対するコーシー列による特徴づけは,コーシーが発表するより4年以上早い.極限,中間値の定理など.ε-δ論法.
没後の1851年に弟子によって出版された『無限の逆説(Pradoxien des Unendlichen)』(日本語訳が1978年にみすず書房から藤田伊吉訳で出版されている)には,無限集合が真部分集合と1対1対応を持つことが示されている.執筆し終わった数日後に風邪をこじらせてなくなったと言われている.
1875: Größenlehre [解II.1, III.0-1, 3, IV.1],[微3],[代入5],[伝6],[辞],[幾2],[ラ15] トップへ
ホルトン(Paul Holtom).
リヴァプール大学から,ギブリンの指導で「アフィン不変な対称集合(Affine-Invariant Symmetry Sets)」によりPh.D.取得(2000).
[フ文] トップへ
ホルムボー(Bernt Michael Holmboe, 1795.3.25-1850.3.28).
ノルウェー、ヴァングに生まれ、クリスチャニア(現在はオスロ)に死す。
牧師の息子として生まれ、クリスチャニアの大聖堂学校を卒業。短い軍役の後天文学者C.ハンスティーンの助手となり(1815)、母校の教師となり(1818)、そこでアーベルに数学を教える。アーベルの大学の学費を援助。
後、クリスチャニア大学の講師になるが(1826)、職がなくて困っていたアーベルがつく可能性のあるポストだったことから、非難する人もいたが、アーベルはそんな感情を持たず、固い友情で結ばれていた。
アーベルの死 (1829)後『アーベル全集』を編集(1839)。
1834年にクリスチャニア大学の数学教授になる。 [解III.7], [伝3,4] トップへ
ポールレザエイ(Kamal Poorrezaei).
イラン,テヘラン,シャリフ工科大学.
[フ文] トップへ
ボレリ(Giovanni Alfonso Borelli, 1608.1.28-1679.12.31).
イタリアの人.フィレンツェとローマで学ぶ.ガリレオ・ガリレイの弟子.メッシナー大学,ピサ大学の哲学と数学の教授.物理学,天文学,数学.『復興されたユークリッド』(ピサ,1658)で第5公準の証明を試みる.比例の一般論.ヴィヴィアーニと同時期にアラビア語からアポロニウスの『円錐曲線論』を訳す. トップへ
ボレル、アーマン(Armand Borel, 1923.5.21-2003.8.11)
スイス,ラ・ショー・ド・フォンに生まれ,アメリカ,プリンストンに死す.
スイスとアメリカの2つの国籍を持つ.パリ大学理学博士(1952).プリンストン高等研究所教授(1957-1993).代数幾何,リー群,代数群,代数トポロジー,複素多変数関数論など.著書も多い.ボレル=ヴェイユ=ボットの定理, ボレル部分群,ボレルの固定点定理など。
[代コ] トップへ
ボレル、エミール(Felix Edouard Justin Emile Borel, 1871.1.7-1956.2.3).
フランス、中部ピレネー、アヴェロン、サンタフリクに生まれ、パリに死す。
幼い頃から数学の才能を発揮,1889年には,エコール・ノルマル・シュペリオールとエコール・ポリテクニクに一番で合格したが,エコール・ノルマルに入学.卒業(1893)後リール大学に勤め,一年後学位を取得し,4年後にエコール・ノルマル教授(1896-1920),校長(1911-20).彼のために新設されたソルボンヌ大学関数論講座の教授(1909-41)。アンリ・ポアンカレ研究所長(1928-死).博士論文の指導者はダルブー,彼が論文指導をしたものにはルベーグ,モンテル,Georges Valironなど.
政治家でもあり、共和社会党の領袖で、下院議員(1924-36) ,第2次パンルヴェ内閣の海軍大臣(1925-40)にも。ヴィシー政権に逮捕・拘留の後レジスタンス運動に.
関数論、測度論、確率論,ディオファントス近似。ゲームの理論(1921-27),特にフォン・ノイマンより早く戦略のゲームを定義.
ボレル集合、ボレル集合族,ボレル代数(集合体),ボレル測度など.ベール,ルベーグと並んで測度論を通して近代解析学の推進者.ハイネ・ボレルの被覆定理,ボレル・カンテリの補題,ボレル・カラテオドリの定理,ボレル和,ボレルの大数の定理,ボレル分布など.
日本語の本に『改訳 確率と生活』(平野次郎訳)文庫クセジュ91,『素数』(芹沢正三訳)文庫クセジュ272,白水社(1967)がある.
妻はアッペルの娘で,30冊以上のもの小説を書いた作家.
[解III.9, IV.1-2, 文], [代7], [伝5,6,7,8,9,10], [フ3], [辞], [作付B], [ラ12], [天VI.7], [クII.3.3] トップへ
ボロメオ,聖カルロ(St. Carlo Borromeo, 1538-84.).
イタリア,アローナの生まれ.教皇ピウス4世(1499-1565,教皇在位:1559-65)の甥.1560年ミラノ枢機卿.トリエント公会議(1545-63)の成功に尽力.1570年の飢饉,1576年のペストの流行の際の貧民救済で知られる.
1610年に列聖され,祝祭日(11月4日)がある.
平面の中にある3つの輪によって表わされるデザインはボロメオ家の紋章で,ボロメオの輪と呼ばれる.
[黄6], [天VI.15] トップへ
ホワイトサイド,デレク・トーマス(Derek Thomas Whiteside, 1932.7.23-2008.4.22).
イギリス,ブラックプールに生まれ,バークシャー,ウォーキンガムに死す.
ケンブリッジ大学研究助手(1963-72),研究主事補(1972-76),数学史の大学上級講師(1976-87),数学と厳密科学の歴史大学教授(1987-99),名誉教授に.FBA(Fellows of British Academy,1975).ジョージ・サートン賞(1977).
学位論文は「17世紀後半の数学思想のパターン(Patterns of mathematical thought in the later seventeenth century, 1961).
研究対象は,ニュートン,デカルト,パッポス,アポロニウス,スネル-デカルトの法則からの光学の研究など.ニュートンの数学論文集の編集.
[幾4] トップへ
ホワイトヘッド,アルフレッド・ノース(Alfred North Whitehead, 1861.2.15-1947.12.30).
イギリス,ケント,ラムズゲートに生まれ,アメリカ,マサチューセッツ州ケンブリッジに死す.
論理学、科学哲学、数学、高等教育論、宗教哲学など.Process philosophy.
ドルセットのシャーボン校で学び、ケンブリッジのトリニテイ・カレッジに入学(1880).1884年に第4のラングラーとなり,学士号を得,フェローとなる.1910年までトリニテイで教え,その間に Treatise on Universal Algebra (1898)と, Principia Mathematicaの初版を元弟子のラッセルと協力して出版.1911年にユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大学)に移籍,1914年にImperial College(理工学部)の教授に.1924年ハーヴァード大学に招かれ哲学の教授に.以降、1947年になくなるまで、高齢にもかかわらず、講義と旺盛な著作活動.
日本語では松籟社から著作集全15巻が刊行されている.
[伝10], [孫数1,エ], [50.11,20] トップへ
ホワイトヘッド,ジョン・ヘンリー・コンスタンティン(John Henry Constantine Whitehead, 1904.11.11--1960.5.8).
インド,マドラス,チェンナイに生まれ,アメリカ,ニュージャージー州プリンストンに死す.A.N.ホワイトヘッドの甥(彼もオックスフォードで数学を学ぶ)の息子.
トポロジスト.ホモトピー論の創始者の一人.
オックスフォードで育ち,イートン校に進学し,オックスフォード大学バリオル・カレッジで学ぶ.1年間株式仲買人として働いた後,プリンストンに行き,O.ヴェブレンの指導で,「射影空間の表現」によりPh.D.取得(1930).プリンストンにいた間,レフシェッツと共同研究.
1933年にバリオル・カレッジのフェローになる.1934年にElizabeth Fryの曾孫であるコンサートピアニストのバーバラ・スミスと結婚.第2次大戦中は軍事研究.ドイツ軍の暗号解読.1947年から1960年の間オックスフォード大学マクダレン・カレッジの純粋数学ウェイフリート教授.ロンドン数学会会長(1953-55).Pergamon PressのIan Robert Maxwellと親しくなり雑誌Topologyを創刊(1962).
CW複体の定義,単純ホモトピー論,ホワイトヘッド積, ホップ--ホワイトヘッドJ準同型,
スパニエ--ホワイトヘッド双対性, ホワイトヘッド括弧,
ホワイトヘッド群,ホワイトヘッド絡み目,ホワイトヘッド多様体,ホワイトヘッドのねじれ(ホワイトヘッド・トーション).アーベル群に関するホワイトヘッドの問題はサハロン・シェラハによって解かれた.
弟子多数,ヒグマン,P.ヒルトン,イアン・ジェイムズなど.
[伝8],[ワ7,8],[辞],[50.31] トップへ
ポンスレ(Jean Victor Poncelet, 1788.7.1-1867.12.22).
フランス,ロレーヌ,メス(Metz)に生まれ,パリに死す.
メスのリセ卒業後,エコル・ポリテクニクで学ぶ(1808-1810).
モンジュの弟子.1810年にメスの工兵学校に入り、工兵将校となって、1812年にはナポレオンのモスクワ遠征に参加し,クラスノイの戦いで捕虜となり,獄中で本もなく記憶だけで
「最初幾何や解析幾何の再構成をしようとしたが,教えられた数学の細部はすべて頭の中から蒸発してなくなり,基本的な原理だけがはっきりと残っていた.」
そして,円錐曲線の射影によっても変わらない性質という思索を追及.極と極線の関係から双対性の萌芽,(複素)射影幾何学を作り出す.『図形の射影的性質概論(\emph{Trait\'e des propri\'et\'es projectivesdes figures})』, Bachelier, Paris(1822).
ロシアでのノートは後に
『解析学と幾何学の応用(Applications d'analyse et de g\'eom\'etrie)』(1822, 1862-1864)として出版された.
1814年にフランスに帰国後,メスに戻り工兵将校として勤務.射影幾何の論文をパリ・アカデミーに提出するも,審査役のコーシーが,「連続の公理」に納得せず,学者としての道が順調に開けたわけではなかった.
しかし,メスでの仕事の関係で,物理・数学を工学に応用する点での思索が深まり,後にフランスの物理教育の在り方を変えた.著書『工業力学入門(Introduction a la m\'ecanique industrielle)』(1829)の中で,仕事-運動エネルギーの定理を証明,コリオリとは独立に仕事の概念を導入.
エコル・ポリテクニク力学教授(1824),ソルボンヌ力学教授(1838).1848年に将軍に任じられ,エコル・ポリテクニクを指揮.
具体的にもタービンや水車の効率を上げることに貢献.
ポンスレの閉包定理,ポンスレのポリズム,ポンスレの折れ線,ポンスレのグリッド.ブリアンションと共著論文Recherches sur la détermination d'une hyperbole équilatère, au moyen de quatres conditions donnée (1820).この中には九点円の定理とその証明もある.
[伝1,2,5,7], [フ29], [幾序, 1,3,4,7,10,11], [クII.1.5,2.5]
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本多利明(Honda Toshiaki, 、寛保3年(1743)-文政3年12月22日(1821.1.25)). 越後国蒲原郡に生まれ江戸に死す.
幼名は長五郎,通称は三郎右衛門,号は北夷,魯鈍斎.算学家で経世家.
18歳で江戸へ上京し,千葉歳胤に天文と暦学を,今井兼庭(中根彦循の孫弟子)に関流和算などを学ぶ。諸国の物産を調査し、明和2年(1766)24歳の時、江戸音羽に算学・天文の私塾を開き,音羽先生と呼ばれる.
以後晩年にいたるまで、浪人として門弟の教育に当たるとともに著述に専心.晩年の1年半,加賀の前田氏に出仕.
天明元年(1781)39歳の頃から北方問題へ関心を強め、危機意識を持つ.
天明7年(1787)奥羽地方を旅し,天明の大飢饉に苦しむ会津藩・仙台藩などの農村の悲惨さを目のあたりにする.これらが主な動機となって,関心が経世論に向かう.『経世秘策』(寛政10年(1798))の中で
士農二民は此の如く艱難困窮なるは、日本開国以後初めてならん、今茲に改革せざれば其災害を招くに等し
急進的な欧化主義者で,蝦夷地の開発や海外領土の獲得,幕府主導の交易,開国論,重商主義などを説く.
寛政元年(1789)に『蝦夷拾遺』や江戸開発論を発表し,享和元年(1801)には幕命で江戸から蝦夷間の航路を調査.田沼意次が蝦夷調査団を派遣する際に,下僕の最上徳内を推薦.
著書は他に『西域物語』(1798),『経済放言』『渡海日記』『長器論』など.
弟子に日下誠,会田安明,大高由昌,坂部広胖など.[文2] トップ
ボンダレンコ,アンドリイ(Andriy V. Bondarenko).
グラフ理論(強正則グラフ),球面デザイン,有理近似.
416のベクトルからなり,より小さい直径の84個の部分に分けることができない65次元の2距離集合を構成することによって,ボルスク予想の反例の次元を65まで下げた(2013).
[文2], [天VI.18] トップ
ポント,ジャン・クロード(Jean-Claude Pont, 1941--). スイス,シエールの生まれ.
チューリヒ工科大学からBeno Eckmannの指導で「ポアンカレ起源の代数トポロジー(La topologie algébrique des origines Poincaré)」によりPh.D.取得(1974).
[幾2] トップ
Andriy V. Bondarenko
ポントリャーギン(Lev Semyonovich Pontryagin, 1908.9.3-1988.5.3).
ロシア帝国,モスクワに生まれ,ソ連,モスクワに死す.
14才で失明するも母の助けを借りて勉学を続ける。
モスクワ大学を卒業(1929),1935年モスクワ大学教授。1931年以降ソ連科学アカデミーの研究所にも所属。
学生のとき,師のP.S.アレキサンドルフの双対定理の一般化の証明(1932),位相群論の研究。位相幾何学,特にホモトピー論で活躍。ポントリャーギン類・指標・空間など。
かって,彼の仕事を読んでいたとき,彼の数学の特異な感性を、「目明きに見えない障壁の向こう側が,彼には見えるようだ」と友達と話し合ったことを思い出す。
A.A.アンドローノフと,振動論や制御理論に関る常微分方程式の研究をする。
最適制御過程の理論を確立。あるとき,ヨーロッパの学会に出てきて,ミサイルが目標に到達できるかどうかというテーマの講演をしたことがある。そのとき聴衆だったA.グロタンディエクが,彼の軍事協力の姿勢を強く非難したが,「ああ,でも役には立たんのですよ」と答えて,論争にならなかったというエピソードがある。
日本語の本には『連続群論』(岩波書店),『常微分方程式』(共立出版),『最適制御の数学理論』(ボルチャンスキーと共著)などのほか,中等教育用の教科書のシリーズ(森北出版)もある。 [ト序, 3, 7, 文], [代17, コ],[ワ7,8], [ブ50], [伝10], [辞] トップへ
ボンベッリ(Rafael Bombelli, 1526.1.20-1572.5.5).
イタリア、ボローニャに生まれ、恐らくはローマに死す。
メルフィの司教ルフィーニ(Alessandro Rufini)に仕えた技術者。大学教育は一切受けず、技術者・建築家のP.F.クレメンティによって教えられる。『代数学』(1572,1929)はルネサンス・イタリアの代数学の集大成。複素数の加法・乗法の規則を初めて記述。 [解I.2, 6, 文] トップへ
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