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『数学用語英和辞典 新訂版』

 人名索引 すせそ


人名索引総目次 さし
スウィナートン=ダイアースウィフトスヴェド
スカウテンスキャリジャー杉田玄白C.A.スコットスコット
スコーラスコーレムスジェーディンA.A.ススリンM.Ya.ススリン
スタインスタドラースターリングスターン
スタントンスタンバーグスタンフォードスタンリースターリング
スチェクロフイアン・スチュアートスチュアートスツルムスティーヴンス
スティグラーズディリンスティルチェススティーンロッドステヴィン
ステファノスストゥーブハウブJ.J.ストーカーストークスストラット
ストラングストルイクストロガッツE.ストーンM.ストーン
スネリウス スパニア
A.スピヴァックJ.スピヴァックM.スピヴァックJ.H.スペンサースホーテン
スマカルD.スミスH.スミスP.スミス角倉了以
スミルノフスメタニウクスメイル
スリニヴァーサンスルジウススロードウィスロール
 
ゼアセヴェリ関孝和関口開C.セグレ
B.セグレセゲーゼケリーセケレシュ
ゼノンゼーマンセメレディ ゼリドヴィッチ
セールセルバーグセルボアセレゼレヴィンスキー
 
ソーゲンフリーソクラテスソシンスキー蘇軾曽烱之
ソス祖冲之ソディソニンソボレフ
ゾンマーゾンマーフェルト


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スウィナートン=ダイアー(Henry Peter Francis Swinnerton-Dyer, 1927-.)
 リトルウッドヴェイユの指導で修士(1952).  ケンブリッジ大学純粋数学・数理統計学科名誉教授.pL関数,有限体上のリーマン予想,楕円曲線のL関数,バーチ・スウィナートン=ダイアー予想. [天6] トップ

スウィフト(Jonathan Swift, 1667.10.30-1745.10.19.)  アイルランド,ダブリンに生まれ,ダブリンに死す.
小説家.『ガリバー旅行記』など.『ペスト』は1665年に大流行したロンドンのペストの様子を描いたものだが,そのため大学も閉鎖されニュートンは故郷に帰って充実した発見の日々を送った. [パ:ノート] トップ

スヴェド,マルタ(Marta Sved, 1909/1910-2005.9.30)
 ハンガリー,ブダペシュトの生まれ.
 1939年に夫婦でオーストラリアに移民,アデレイドの女子高で数学を教える.
 オーストラリア,アデレイド大学からLouis (Rey) Reynolds Antoine Casseの指導で,On Finite Linear And Baer StructureによりPh.D.取得(1985).75歳のとき.有限幾何.
 MAAからJourney into Geometries を出版. [天21], [天VI.28] トップ

スカウテン(Jan Arnoldus Schouten, 1883.8.28-1971.1.20.)
 オランダ,アムステルダムに生まれ,Epeに死す.造船業を営む家に生まれ,デルフト工業高校卒業後電気技師として働く.数年後遺産が手に入って,数学を学ぶためライデン大学に入学.
 1914年にテンソル解析をテーマに博士号取得.デルフト大学数学教授(1914-1943).引退後離婚し再婚して,Epeの隠居所で暮らす.アムステルダム大学教授(1948-1953).1946年にアムステルダム数学研究センターを作り,5年間所長.1954年のアムステルダムICMの会長.
 テンソル解析(リッチ計算法)の開発と,そのリー群,相対論,統一場理論,微分方程式への応用.レヴィ=チヴィタと独立にリーマン多様体の接続を発見.ワイルやエディントンの影響で,アフィン幾何,射影幾何,共形幾何も研究.
 弟子も多く,ハーンチェスストルイク,Albert Nijenhuisなど.  [ワ4] トップ

スキャリジャー(Joseph Justus Scaliger, 1540.8.5-1609.1.21). フランス,アジャンに生まれ,オランダ,ライデンに死す.
 パリ大学で学ぶ.オランダの宗教指導家,学者.古典の歴史という概念をギリシャと古代ローマの歴史から,ペルシャ,バビロニア,ユダヤ,古代エジプトの歴史にまで拡大した.  [幾3] トップ

杉田玄白(Sugita Genpaku, 享保18年9月13日(1733.10.20)-文化14年4月17日(1817.6.1)). 江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれ,江戸に死す.諱は翼(たすく),字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁.
 元文5年(1740)に一家で小浜へ移り、父の玄甫が江戸詰めを命じられる延享2年(1745)まで過ごす.医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬竜門に学ぶ。
 宝暦2年(1752)に小浜藩医となり、上屋敷に勤める。宝暦7年(1757)には江戸、日本橋に開業し、町医者となる.明和2年(1765)に藩の奥医師,明和6年(1769)に玄甫の死により家督と侍医の職を継ぎ,新大橋の中屋敷へ詰める.
 宝暦7年(1757)に田村元雄や平賀源内らが物産会を開き,中川淳庵も出展,蘭学者グループの交友が始まる.ただし,明和2年(1765)にオランダ商館長が江戸に来た際,通詞の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭され、玄白自身はオランダ語習得を断念.
 安永5年(1776年)藩の中屋敷を出て、近隣の竹本藤兵衛(旗本、500石取)の浜町拝領屋敷500坪のうちに地借し外宅とする。そこで開業するとともに「天真楼」と呼ばれる医学塾を開く.
 前野良沢や、中川淳庵らとともに解剖書の『解体新書』(安永3年(1774)に刊行,桂川甫三(桂川甫周の父)により将軍家に献上される.『蘭学事始』は晩年の回想録だが,明治2年に福澤諭吉により公刊.
 孫の杉田成卿(1817.12.18-1859.3.23)は蘭学をよくし,天文台訳員(1840),オランダ国王からの開国を進める親書の翻訳(1844),ペリーの持参したアメリカ大統領の国書の翻訳(1853)など,砲術書の翻訳,蕃書調所の開設に伴い教授に(1856).  [文2] トップ

スコット,シャーロット・アンガス(Charlotte Angas Scott, 1858.6.8-1931.11.10)
 イングランド,リンカーンに生まれ,ケンブリッジに死す.
 ケンブリッジでの女性に関する多くの制限を廃止・変更するきっかけになったことで有名.ケンブリッジ大学,ガートン・カレッジ入学(1876-1880),1880年に数学トリポスで8位になる. 1884年までResident Lecturer in Mathematicsになり,その間に女性に関する制限のないロンドン大学で修士(1882),博士(1885)を得る.ケイリーの指導で代数幾何に関するもの.
 1885年のアメリカのブリン・モー・カレッジの開学とともにケイリーの推薦で行き,最初の数学科の主任になる.1924年引退後も最後の博士課程学生の修了までブリン・モーにいて,その後ケンブリッジに帰る.
 教科書An Introductory Account of Certain Modern Ideas and Methods in Plane Analytical Geometry(1894).
 最初のアメリカ数学会の女性会員,ただし入会時は,まだニューヨーク数学会だった.  [伝4] トップ

スコット(Paul Raymond Scott.)
 オーストラリア,アデレイド大学からEric Stephen Barnesの指導で,「完全形式と端形式(On Perfect and Extreme Forms)」によりPh.D.取得(1963).
 アデレイド大学純粋数学科助教授.凸集合,不等式,計算機科学. [天9], [天VI.12] トップ

スコーラ(Richard Kevin Skora)
   テキサス大学オースチン校からCameron McAllan Gordonの指導で,「曲面の間の写像(Maps Between Surfaces)」によりPh.D.取得(1984).
 ニューヨーク州立大学,コロンビア大学.
 [天VI.15] トップ

スコーレム(Thoralf Teodor Albert Skolem, 1887.5.23-1963.3.23.)
 ノルウェー,サンズベールに生まれ,オスロに死す.
 オスロ大学卒業後,1938年から教授.
 数論(ディオファントス方程式),組み合わせ数学,束論,集合論,数理論理学,数理哲学.ツェルメロの公理的集合論の精密化. 公理論の非標準モデルの相対性.理論がモデルを持てば,可算モデルを持つことを示す.スコーレムの関数,スコーレムの逆理. [ワ9] トップ

スジェーディン(Tord Sjödin)  スウェーデン,ウメオ大学から,Hans Einar Wallinの指導で,「ベッセルポテンシャルとコンパクト集合上の連続関数の拡張(Bessel Potentials and Extension of Continuous Functions on Compact Sets)」によりPh.D.取得(1973). ウメオ大学数学・数理統計学部.
 数理解析,ポテンシャル論,確率論  [天VI.序,21] トップ

A.A.ススリン(Andrei Aleksandrovich Suslin)  ロシアの数学者.代数的K理論.セール予想(体上の多項式環上の射影加群は自由加群である)をクィレンと独立に示す(1976).   [代コ] トップ

M.Ya.ススリン(Mikhail Yakovlevich Suslin, 1894.11.15--1919).  ロシア帝国サラトフ州クラサフカに生まれ,モスクワに死す.
 実関数論.集合論.N.N.ルージンの弟子.ススリン空間.   [伝10] トップ

スタイン,シャーマン(Sherman K.Stein)
 コロンビア大学からP.A.スミスの指導で「2重対称積のホモロジー(The Homology of the Two-Fold Symmetric Product)」によりPh.D.取得(1953).
カリフォルニア大学デイヴィス校教授.
著書多数. 『微積分と解析幾何(Calculus And Analytic Geometry)』(1982,日本語訳『やさしい解析学ベーシックコース,アドバンスコース』(1984)あり) などの教科書以外にも 『数学=創造された宇宙(Mathematics : The Man-made Universe)』 (1963, 日本語訳(上下)あり), 『数の力-暮らしの中の楽しい数学(Strength of Numbers:Discovering the Joy and Power of Mathematics in Everyday Life)』(1996, 日本語訳(1997)あり), 『アルキメデス:エウレカと叫んだ以外に何をしたのか?(Archimedes: What Did He Do Besides Cry Eureka?)』(1999), 『数学ができる人はこう考える―実践=数学的思考法(How the Other Half Thinks: Adventures in Mathematical Reasoning)』(2001, 日本語訳あり), 『代数学とタイル貼り(Algebra and tiling) 』(1994, S.サボーと共著).
[フ文], [天VI.22,29] トップ

スタドラー,アルバート(Albert Stadler)
 ETHチューリヒから,チャンドラセカランの指導で,「ラプラス積分に対する剰余項付きのタウバーの定理(Ein Tauber-Satz mit Restglied für Laplace-Integralen)」により,理学博士号取得(1986).
  『数学基礎』(Elemente der Mathematik)に論文. [幾9] トップ

スターリング(James Stirling, 1692.5-1770.12.5).
 スコットランド、ガーデン(スターリングの近く)に生まれ、エディンバラに死す。
 政治がらみでヴェネツィアに去り(1715-25)、ニュートンに呼び戻される。ヴェネツィア・ガラスの製法の秘密を解明。ロンドン王立協会会員(1729)。オイラーと文通し同種の問題を研究していたという。n!の無限大での挙動を表すスターリングの公式. [解II.10, 文], [天2, 18], [率1], [天VI.2,3,7,25] トップ

スターン(Moritz Abraham Stern, 1807.6.29--1894.1.30). フランクフルトに生まれ,チューリヒに死す.
 ゲッティンゲン大学からBernhard Friedrich Thibautとガウスの指導で「連分数の例の観察(Observationum in fractiones continuas specimen)」によりPh.D.取得(1829).
 1858年にガウスの後任としてゲッティンゲン大学教授.ドイツで(キリスト教に改宗せずに)正教授になった最初のユダヤ人という.リーマンの才能を見いだしたことで有名.デデキントを数論に導いた人でもある.『クレレ誌』に論文「数論的関数について」を発表.アイゼンシュタインの平方剰余の相互法則の証明の定式化に示唆.
 スターン・ブロコット木(Stern-Brocot tree)(Achille Brocot, 1817-1878),スターンの2原子列.スターン素数(平方数の2倍と素数との和には書けないような素数のこと.小さい方から2, 3, 17, 137, 227, 977, 1187, 1493など).  [伝2,5], [天VI.19] トップ

スタントン、ナンシー(Nancy K.Stanton).
 1969年スタンフォード大学卒業、MITのI.M.シンガーのもとで学位論文を書く(1973)。現在ノートルダム大学数学教室に勤務。多変数関数論。余暇は自転車旅行やハイキングという。[解III.8] トップ

スタンバーグ(Shlomo Zvi Sternberg, 1936-.)
 ジョンズ・ホプキンス大学からウィントナーの指導で「1次元と2次元の離散な非線形変換におけるいくつかの問題(Some Problems in Discrete Nonlinear Transformations in One and Two Dimensions)」によりPh.D.取得(1957).  ハーバード大学教授.リー群論,微分幾何学.
 シンプレクティック幾何,G構造の微分幾何.
 著書多し.『リーカルタンの無限群:1推移群(The infinite groups of Lie and Cartan. Part I. The transitive groups)』(1985,I.M.シンガーと共著), 『幾何的漸近性(Geometric asymptotics)』(1977,弟子のVictor Guilleminと共著), 『微分幾何学(Lectures on differential geometry.)』(1983,日本語訳がある) 『群論と物理学(Group theory and physics)』 (1994)など.  [ト3, 文] トップ

スタンフォード,リーランド(Leland Stanford, 1824.3.9.--1893.6.21).
 アメリカ,ニューヨークの生まれ.セントラルパシフィック鉄道を設立し,カリフォルニア州知事を務めた実業家・政治家. 40歳を過ぎて生まれた息子リーランド・ジュニアが16歳で死んだため,その名を永遠に残すために,アメリカ,カリフォルニア州スタンフォードに,スタンフォード大学(Leland Stanford Junior University)を設立(1891年).    [伝8] トップ

スタンリー(Richard Peter Stanley, 1944.6.23-). アメリカ,ニューヨークの生まれ.
 カリフォルニア工科大学卒(1966).ハーヴァード大学からG.-C.ロータのもとで,「順序構造と分割(Ordered Structures and Partitions)」によりPh.D.(1971).
 MIT数学助教授(1973-75),准教授(1975-79),応用数学教授(1979-2000, 2010-),MIT応用数学ノーマン・レヴィンソン教授(2000-2010),名誉教授.
 数え上げ組合せ論,超平面配列など.
 『組み合わせ論と可換代数(Combinatorics and Commutative Algebra)』(1983,1996), 『数え上げ組み合わせ論(Enumerative Combinatorics)』2巻(1986, 1999).
 スタンリーの相互定理,スタンリー分解. [フ文], [天VI.29] トップ

スチェクロフ(Vladimir Andreevich Steklov, 1864.1.9-1926.5.30).
 ロシア、ニズニイ・ノヴゴロド(1932-1990の間ゴーリキー市)に生まれ、ソ連、クリミア、ガスプラに死す。
 リャープノフの弟子。ソ連の数理物理学派の創始者で、ソ連科学アカデミーの研究所を作る。その研究所は後3つに分かれ、1つが彼の名を冠した数学研究所でモスクワにあり、機関誌を発行している。[解II.6, 文] トップ

スティーヴンス(Glenn Howard Stevens, 1953-.)
 ハーヴァード大学からB.C.メイザーの指導で「L関数の特殊値によって満たされる収束性について(On Congruences Satisfied by Special Values of L-Functions)」によりPh.D.取得(1981).
  ボストン大学数学科教授.整数論.
 『モデュラー曲線上の算術(Arithmetic on modular curves)』(1982),  『モデュラー形式とフェルマの最終定理(Modular Forms and Fermat's Last Theorem)』(1997, コーネルJ.H.シルヴァーマンと共同編集). [名文]  トップ

スティグラー,ステファン・マック(Stephen Mack Stigler, 1941.8.10-).
 アメリカ,ミネソタ州ミネアポリスの生まれ.シカゴ大学統計学教授.
 カリフォルニア大学バークレイ校から,Lucien Marie Le Cam(1924.11.18--2000.4.25)の指導で,「順序統計量の線形関数(Linear Functions of Order Statistics)」によりPh.D.取得(1967).
 1979年までウィスコンシン大学マディソン校で教え,シカゴ大学に移る.1994年に数理統計学研究所所長.
 統計学史に関する著書など.The History of Statistics: The Measurement of Uncertainty before 1900(1986),Statistics on the Table: The History of Statistical Concepts and Methods(1999),The Seven Pillars of Statistical Wisdom(2016).この3冊はハーバード大学出版会から. [率0]  トップ

ズディリン,ヴァジム・ヴァレンチノビッチ(Wadim Zudilin(Вадим Валентинович Зудилин), 1970-). モルドヴァ共和国バルツィの生まれ.
 モスクワ大学に学び(1987-1992),Yuri Valentinovich Nesterenkoの指導で,「ある解析関数の値に対する線形独立性の測度の評価について(On the Estimates of the Measure of Linear Independence for Values of Certain Analytical Functions)」によりPh.D.取得(1995).
 スペイン,サラゴサ大学,モスクワ大学,マックス・プランク数学研究所,オーストラリア,ニューカッスル大学,現在(2020)は,オランダ,ナイメーヘンのラドバウド大学に勤務.
 アペリーの定理の再証明と,ζ(5), ζ(7), ζ(9), ζ(11)の少なくとも1つが無理数であることを証明. [天VI.9]  トップ

スティルチェス(Thomas Joannes Stieltjes, 1856.12.29-1894.12.31).
 オランダ,オーファーアイセル州ズウォレに生まれ,フランス,トゥールーズに死す.
 学校時代ガウスヤコビを読んでいて講義に出なかったので落第。何度も受験に失敗した後、親のコネでライデン天文台に就職(1877-83)。数学に専心し、C.エルミートに生涯文通により師事(1882-)。グローニンゲン大学教授の第1候補になるも、資格に欠けるという理由で不採用。エルミートのお陰でライデン大学の数学と天文学の名誉学位を得る。一家をあげてパリに移住、後フランスに帰化。トゥールーズ大学教授(1889)。 スティルチェス積分。 [解II.6] トップ

スティーンロッド(Norman Earl Steenrod, 1910.4.22-1971.10.14).
 アメリカ,オハイオ州デイトンに生まれ,ニュー・ジャージー州プリンストンに死す..
 途中,働いて学資を貯めながら,ミシガン(1932卒),ハーヴァード,プリンストンの各大学で学び,レフシェッツの下で学位.  シカゴ(1939),ミシガン(1942),プリンストン大学(1947-退職)に勤務.代数学,トポロジー.代数的トポロジーの基礎づけ,特にファイバー束,コホモロジー作用素,スティーンロッド代数など.
 日本語の本に『ファイバー束のトポロジー』(大口邦雄訳)吉岡書店(1976)と,W.G.チンとの共著『初歩のトポロジー』(野口広訳)SMSG新数学双書1,河出書房新社(1969)がある.   [ト文, 人], [天10], [伝8], [天VI.13] トップ

スチュアート,イアン(Ian Nicholas Stewart, 1945.9.24-).
 ウォーリック大学から,Brian Hartleyの指導で,「リー代数の部分イデアル(Subideals of Lie Algebras)」によって,Ph.D.取得(1969).卒業後,同大学に勤める.現在名誉教授.
 カタストロフ理論.雑誌Manifoldの編集(1968-80).
 著書は多い.数学専門,数学啓蒙,自然科学啓蒙,SF(テリー・プラチャットのディスク・ワールド)まであり,日本語に訳されたものも多い. 弟子も多く,グレイなど. [幾4,7,11], [50.50] トップ

スチュアート,マシュー(Matthew Stewart, 1717/1719頃--1785.1.23).
 スコットランド,ビュート島ロスシーに生まれ,エアシャイア(Ayrshire),カトリンに死す.
 1734年にグラスゴー大学に入学し,哲学者F.ハッチソンと数学者シムソンに学ぶ.シムソンの著書『ペルガのアポロニウス(Apollonii Pergaei locorum planorum libri II)』(1749)の出版に貢献.
 牧師になる前,エジンバラ大学でマクローリンの講義を聞き(1742-43),すぐ後の1746年にマクローリンがなくなった後の講座を引き継き,エジンバラ大学の数学教授になる.著書にSome General Theorems of Considerable use in the Higher Parts of Mathematics.
 スチュアートの定理.幾何的方法でケプラーの問題を解決(1756).
 [三], [幾4] トップ

スツルム、ジャック・シャルル・フランソア(Jacques Charles Fran\c{c}ois Sturm, 1803.9.29--1855.12.18).
 スイス,ジュネーヴに生まれ,フランス,パリに死す.
 父のジャン・アンリ・スツルムはジュネーヴで算術の教師をし,息子にギリシャ語やラテン語などの教育をし,息子は才能を示したが,16歳のときに父親が死に,家計が苦しくなった.ドイツ語を学ぶために通っていたジュネーヴ・アカデミーでリューリエに数学を学び,その才能を認められていたお蔭で,彼とその後継者のジャン・ジャック・シャウプにより,アカデミーからの援助を受ける.  卒業後(1823年5月に)は貴族の末子の家庭教師になり,年末にこの家族がパリに半年滞在するのに同行した. この時アラゴーの家で毎木曜に開かれる科学サロンに出席し,ラプラスポアソンフーリエ,ゲイ・リュサック,アンペールなどと知己になる.
 その後友人のコラドンと,水の圧縮性に関するパリ・アカデミーの懸賞に応募したが落選した.授賞作品がなく,再度応募されたので,二人でパリに行き,アラゴーの息子の家庭教師として同家に住みながら,アンペールの実験室にも出入りし,アンペール,ゲイ・リュサック,コーシーラクロアの講義を受けた.両人ともフーリエの助手になって,彼の示唆により,スツルムは数学の道に,コラドンは物理の道に進むことに.再度応募したときには授賞した.
 最も有名な仕事は代数方程式の実根に関するもので,1829年の論文で解決した. デカルトロルラグランジュ,フーリエも考察し,最終的にはコーシーが解決したが,コーシーの方法は繁雑で実際的でなかった.
 プロテスタントで外国人だったので職が中々得られなかったが,1830年6月の革命で政治状況が変わり,アラゴーの推薦によってスツルムはコレージュ・ロランの教授になった.1833年にフランスの市民権を得,1836年にパリの科学アカデミー会員になる.
 熱のポアソン理論に由来する微分方程式に関する結果を得,今日ではスツルム・リウヴィル理論と呼ばれるものが完成したのは1836-1837年.
 1838年にエコル・ポリテクニクに職を得,1840年から解析と力学の教授になり,同年ポアソンの後任としてパリ大学の力学の教授になる.微積分学や有理力学に関する講義に多大な力を注ぎ,それがエコル・ポリテクニク解析教程2巻(1857--63),エコル・ポリテクニク力学教程2巻(1861)に結実するが,ともに死後出版.
 ほかに業績は無限小幾何,射影幾何,曲線と曲面の幾何,幾何光学など.
 1851年からは体を壊し,何度も復帰しながら,遂に療養中に亡くなる.
 方程式の根に関する定理に「スツルムの定理」の名がついて光栄だと,講義中に語ったという.
 スツルム列,スツルム・フルヴィッツの定理,スツルムの円. [代2], [伝3,4], [代入5], [フ6,10], [幾5,7], [クI.2.1] トップ

ステヴィン、シモン(Simon Stevin, 1548-1620).
 フランダース、ブリューゲ(現在ベルギー領)に生まれ、オランダ、ハーグに死す。
 数学・物理学・機械技術者。オランダ陸軍の経理総監・堤防監察官にもなる。滑車の研究の中で仮想仕事の原理を提唱。静力学の基礎。中国やアラブの仕事は知らず、小数を提案。負の数の導入。彼の実数の表記法はクラヴィウスネイピアに受入れられ、広まっていく。[解I.2, 人], [文2] トップ

ステファノス(Cyparissos Stephanos, 1857-1917).
 ギリシャ,ケア島に生まれ,アテネに死す.
 アテネ大学で学位取得後(1878),パリ大学へ行き,シャルル・エルミートのもとで国家博士号(1880)取得後,4年をパリで過ごし,層に関する論文を書く.ダルブーの問題を解決(1981).代数学者でもあり,ワイエルシュトラスの弟子でもある.
 アテネに帰りアテネ大学,工業学校,士官学校で教鞭.ギリシャの教育と工業化に貢献.J.ハジダキスと共にアテネ大学での数学の伝統を作る.
 desmic systemを導入.  [伝5] トップ

ストゥーブハウブ,アリルド(Arild Stubhaug , 1948.5.25--). ノルウェー,ソグン・オ・フィヨーラネ県ナウストダールの生まれ. 数学者で,詩人で伝記作家.
 日本語に訳されているものにアーベルの伝記とリーの伝記がある.  [幾2] トップ

J.J.ストーカー(James Johnson Stoker, 1905.3.2--1992.10.19).
 アメリカ,ペンシルヴァニア州ピッツバーグに生まれ,ニューヨーク州グリーンウッド・レイクに死す.
 はじめ鉱山技師.30年代にチューリヒ工科大学に力学に関する学位を取ろうと出かける.最初の年に,H.ホップの幾何の講義を聞き感銘,数学に転向.ホップとポーヤの指導で「3次元空間における正曲率の開曲面の形について(Ueber die Gestalt der positiv gekr\"ummten offenen Fl\"achen im dreidimensionalen Raume)」により学位を得る(1936).
 ホップの推薦でクーラント研究所に赴任. 同時に就職したフリードリクスと共同研究.
弟子にLouis Nirenbergなど.  [伝9] トップ

ストークス(George Gabriel Stokes, 1819.8.13-1903.2.1).
 アイルランド,スライゴ郡スクリーンに生まれ,イギリス,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.聖職者の一族に生まれる.16才のときイギリスのブリストルに移住.
 ケンブリッジ大学ペンブローク・カレッジに学び(1837-41),後ルーカス数学教授(1849-1893).ロンドン王立協会書記(1854-58),会長(1885-1990).
 光学,流体力学,数理物理.(ベクトル解析での)多重積分に関するストークスの定理は流体中の物体の運動を粘性をも込めて記述するために考案された.電気素量の計測のためのミリカンの油滴実験(1909-1903)の理論的基礎として極めて重要なもの.光学では蛍光を,紫外光が吸収され,可視光として再放射されるものという説明を与えた.太陽光スペクトルのフラウンホーファー線の解釈も最初に行った(1854).  化学や植物学にも造詣が深かったと言う.
 また,オイラーと独立に導入した一様収束の概念(1848)など純粋に解析学での貢献も重要である. [代21], [50.25,27]  トップ  

ストラング(William Gilbert Strang, 1934.11.27-). シカゴの生まれ.
MITで理学士(1955),オックスフォード大学バリオル・カレッジの ローズ奨学生として修士(1957),カリフォルニア大学ロサンゼルス校からPeter K. Henriciの指導で「混合境界値問題に対する差分法(Difference Methods for Mixed Boundary Value Problems)」によりPh.D.取得(1959).
MIT教授(1962-).
 有限要素法,変分法,ウェーブレット解析,線形代数.
 『有限要素法の解析(An Analysis of the Finite Element Method)』(1973, 2008,George Fixと共著), 『線形代数とその応用(Linear Algebra and Its Applications)』(1976, 1980, 1988, 2005), 『応用数学入門(Introduction to Applied Mathematics)』(1986), 『微積分(Calculus)』(1991, 2010), 『線形代数入門(Introduction to Linear Algebra)』(1993, 1998, 2003, 2009), 『ウェーブレットとフィルター・バンク(Wavelets and Filter Banks)』 (1996,Truong Nguyenと共著), 『線形代数,測地学,GPS(Linear Algebra, Geodesy, and GPS)』 (1997,Kai Borreと共著),
 ストラングの奇妙な図形. [解I.4, IV.5] トップ

ストルイク(Dirk Jan Struik, 1894.9.30-2000.10.21).
 アメリカ人。オランダ、ロッテルダムに生まれ,アメリカ,マサチューセッツ州ベルモントに死す. ライデン大学卒業(1922).数学と物理を学ぶ.物理については,H.A.ローレンツ,ド・ジッター,エーレンフェストに学び,特にエーレンフェストの影響を強く受ける.
 J.A.スカウテンの助手としてデルフト工業大学に(1917-23).1923年にユトレフト大学に移り,結婚.1924年にロックフェラー奨学金でローマに留学.レヴィ=チヴィタほかの多くの数学者,特に微分幾何学者と共同研究.1925年奨学金の延長を得,ゲッティンゲンに行き,F.クラインに師事.また,附属図書館でルネッサンス期の数学の原典に触れる.
 ウィーナーの招きで,マサチューセッツ工科大学に行き(1926),教授(1927-)。1949年マッカーシー旋風の時期にFBIの取り調べを受ける.
 テンソル微分幾何、数学史。
 日本語の本に『数学史』(岡邦雄+水津彦雄訳)みすず書房(1957)がある。  [解I.1, II.1-2, III.2, 文], [伝10], [幾4] トップ

ストロガッツ,スティーブン・ヘンリー(Steven Henry Strogatz, 1959.8.13--). アメリカ,コネチカット州トリントンの生まれ.
 プリンストン大学の数学科卒(1980),マーシャル奨学金でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに(1980-82),ハーバード大学からRichard Ernest KronauerとCharles Andrew Czeislerの指導で,「人間の睡眠・覚醒サイクルの数学的構造(The Mathematical Structure of the Human Sleep-Wake Cycle)」によってでPh.D.取得.(1986).コーネル大学応用数学教授.
 複雑系,複雑ネットワーク,カオス理論,非線形力学系.
 著書にSync(2003),The Calculus of Friendship(2009),The Joy of x(2014)など.  [率0] トップ

ストーン,エドマンド(Edmund Stone, 1700頃--1768頃). スコットランド,アーガイルシャーの生まれ. 第2代アーガイル公爵,ジョン・キャンベル(1678.10.10-1743.10.4)の庭師の息子として生まれる.独学で読み書き,ラテン語,フランス語,数学を学ぶ.公爵が庭でニュートンのプリンキピアを見つけ,それが18歳のストーンのものと知り,以来彼のパトロンとなる.
 1720年にド・ロピタルの円錐曲線の仕事を翻訳. 公爵の庇護の下で1723年にロンドンに行き,Treatise on Mathematical Instrumentsを出版.1725年に王立協会のフェローに選ばれる.以降,Philosophical Transactionsに論文を発表し,1726年には A New Mathematical Dictionaryを出版.
 ユークリッド原論の英訳(1728),The Method of Fluxions, both Direct and Inverse (1730)の第1部は,ド・ロピタルのAnalyse des infinement petitsのニュートンの記法での書き直し.1735年にはバローの講義録Lectiones Opticae et Geometricae (1669)(ラテン語)をニュートンが改訂し,修正したものの英訳Geometrical Lectures: Explaining the Generation, Nature and Properties of Curve Linesを出版(1735).
 1743年に公爵が死んでからは,貧しい暮らしになる. [幾10] トップ

ストーン,マーシャル(Marshall Harvey Stone, 1903.4.8--1989.1.9).
 アメリカ,ニューヨークに生まれ,インド,マドラスに死す.
最高裁長官だった父のように弁護士になるよう家族の期待のもと,ハーヴァードに行き,そこで数学に魅されてしまう.バーコフの指導のもと,微分方程式に関する博士論文で学位.イェール大学,コロンビア大学の後,ハーヴァード大学で1937年に正教授.第2次大戦中はONOなどで戦争協力.戦後,シカゴ大学数学科主任(1946-52).その後1968年まで学部に所属し,その後1980年までマサチューセッツ大学で教える.
実解析,関数解析,ブール代数.ストーン=フォン・ノイマンの一意性定理,ストーン=チェックのコンパクト化(1934),ストーン=ワイエルシュトラスの定理.ワイル予想の証明(1932).ブール代数に対するストーンの表現定理(1936).   『ヒルベルト空間の線形変換』(1932),  [伝9] トップ

スネリウス=スネル(Snellius=Willebrord Snell van Roijen=Royen, 1580-1626.10.30).
 オランダ、ライデンに生まれ、ライデンに死す。
 数学・自然学者。ライデン大学教授。ファン・ケーレンの弟子。ラムス主義者の父ルドルフとステヴィンの影響を受ける。ティコ・ブラーエの助手をしたとき、ケプラーにも会う。πの近似値、光の屈折の法則、正弦法則など。[解I.4, II.2, 文],[幾7] トップ

スパニア(Edwin Henry Spanier, 1921.8.2-.)
 アメリカの数学者.カリフォルニア大学教授.トポロジー,代数幾何学,数理言語学.ボルスクのコホモトピー群を命名.チェック・コホモロジーの改良. [ト文] トップ

スピヴァック,アレクサンダー(Alexander Spivak)
 ハリコフ電気工学国立大学から,Oleg Rudenkoの指導で, Algorithmic and Software Systems for Data Preparation in Automated Research SystemsによりPh.D.取得(1996).
  [天VI.4] トップ

スピヴァック,ジョン(John Spivack )
 コロンビア大学から,Bin Chengの指導で,The Limb-Leaf Design: A New Way to Explore the Dose Response Curve in Adaptive Seamless Phase II/III TrialsによりPh.D.取得(2011)
 ウィリアムズ・カレッジの2000年の幾何グループの一員(A.コットンD.フリーマングネップヌグC.ヨーダーと一緒に)等周問題.   [フ文] トップ

スピヴァック,マイケル(Michael David Spivak, 1940-. )ニューヨークのクイーンズ区の生まれ,
 プリンストン大学からミルナーの指導で「ポアンカレ双対性を満たす空間について(On Spaces Satisfying Poincar\'e Duality)」によりPh.D.取得(1964).
 AMS-TeXの作者でもあり,多数の教科書を書いている. 『多変数解析学-古典理論への現代的アプローチ-(Calculus on Manifolds: A Modern Approach to Classical Theorems of Advanced Calculus)』(1965,日本語訳は(斎藤正彦訳)東京図書,1972), 『微積分学(Calculus)』(1967, 4版は2008),『微分幾何の包括的入門(A Comprehensive Introduction to Differential Geometry)』(1979, 3版は1999), 『TeXの楽しみ:AMS-TeXマクロパッケージでの活字組みのグルメガイド(The Joy of TeX: A Gourmet Guide to Typesetting with the AMS-TeX Macro package)』(1990), 『微積分学へのヒッチハイクガイド(The Hitchhiker's Guide to Calculus)』(1995), 『数学者のための物理:力学I(Physics for Mathematicians: Mechanics I)』(2010).   [ト文], [作付B] トップ

スペンサー(Joel H. Spencer, 1946.4.20-)
 組み合わせ論,ラムゼイ理論.
 ハーバード大学からAndrew Mattei Gleasonの指導で,「組み合わせ論における確率的方法(Probabilistic Methods in Combinatorial Theory)」によりPhD取得(1970).
 エルデシュ数は1.イェルサレムのヘブライ大学エルデシュ講師(2001).アメリカ数学会フェロー(2012). ニューヨーク大学,クーラント研究所,計算機科学科教授.SIAMのフェロー(2017). 理論計算機科学,離散数学.
 ノガ・アロンとの共著『確率的方法』(2000,2008).  [天21], [天VI.28,37,41] トップ

スホーテン,フランシスクス・ファン(Fransiscus van Schooten, 1615頃-1660.5.29).
 オランダ、ライデンに生まれ、ライデンに死す。
 父の後を継ぎ、ライデン大学教授。1637年にオランダに来たデカルトに学ぶ。ホイヘンスの師。ヴィエート全集の出版。デカルトの幾何学のラテン語版の出版。1661年の第2版はデカルト以後の,学派の結果を含んだ注釈が付されており,ニュートン以前の解析学の集大成のような意味を持っており,デカルトを解析幾何学の創始者と認知させたもの.
 種々の円錐曲線を描く器具を考案. [解文], [幾3,5,6,8,文] トップ

スマカル(S.Smakal).  空間五角形に関する定理についての注意(Eine Bemerkung zu einem Satz über räumliche Fünfecke)『数学基礎』 27 (1972).  [幾10] トップ

スミス,デイヴィッド(David Eugene Smith, 1860.1.21-1944.7.29). アメリカ、ポートランドに生まれ,ニューヨークに死す.
 数学者・科学史家。シラキューズ大学からPh.D.取得(1887).
 ヨーロッパの諸大学で学び、弁護士の仕事をした後、ポートランド、ミシガン、コロンビア大学で教える。科学史協会会長(1927),数学教育国際委員会の会長(1928-32)、名誉会長(1932-)。
 デカルトの『幾何学』の英訳。W.W.BemanとともにF.クラインの本の英訳 Famous Problem of Geometry(1897)のほか,啓蒙的な教科書も多い.三上義男と共著の日本数学史(1914)のほか,いろいろな種類の数学史の本がある.[解I.1, 文], [クI.1.3,I.1.5,I付A] トップ

スミス,ヘンリー(Henry John Stephen Smith, 1826.11.2--1883.2.9). アイルランド,ダブリンに生まれ,イギリス,オックスフォードに死す.
 1845年,オックスフォード大学ベイリオル・カレッジに入学(ベンジャミン・ジャウェットが面接). ベイリオル・カレッジのフェロー(1849). 1860年に,サヴィル幾何学教授に.このとき対抗馬にジョージ・ブールがいた.
 ガウスに強い影響を受け,整数論,特に単因子論.任意の整数が5つの平方数の和に書けることを示す. ガウスの実の2次形式論を複素の2次形式に拡張.1859年から1865年まで,整数論に関する総合報告を作成,有名なヒルベルトの数論報告にその多くが取り入れられる. [伝2,4,5,6,7], [天VI.4] トップ

スミス,ポール(Paul Althaus Smith, 1900-1980.6.13) .
 カンザスでのレフシェッツの弟子で,プリンストンについて来た.プリンストン大学からレフシェッツの指導で「曲線と曲面の代数曲線と代数曲面による近似(Approximation of Curves and Surfaces by Algebraic Curves and Surfaces)」によりPh.D.取得(1926).
 バーコフとエルゴード理論での共同研究により論文「曲面変換の構造解析(Structure analysis of surface transformations)」(1928). 後コロンビア大学教授,バーナード・カレッジ教授.
 幾何的トポロジー.スミス予想(1939)はJ.W.モーガンとH.バスにより解決(1984).しかし位相的な場合や4次元以上では成り立たない.ヒルベルト・スミス予想(1941)は未解決.. [伝8] トップ

角倉了以(Suminokura Ryoi, 天文23年(1554)-慶長19年7月12日(1614.8.17)). 戦国末期の京都の豪商.本姓は吉田氏,佐々木氏の分家.「茶屋家」、「後藤家」とともに「京の三長者」と言われる.
 この吉田氏は近江国犬上郡吉田村出身で,室町時代中期に上洛し室町幕府お抱えの医者となる.後,医業で得た財を元に土倉を営む.了以の祖父・吉田宗忠は土倉業は長男に継がせ、次男・吉田宗桂に医者を継がせ,了以はこの宗桂の子.
 朱印船貿易で安南国との貿易を行い,山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削.また幕命により富士川、天竜川等の開削も行う.
 和算家の吉田光由は孫にあたる.[ふ3] トップ

スミルノフ,スタニスラフ(Stanislav Konstantinovich Smirnov (Станисла'в Константи'нович Cмирно'в, 1970.9.3-) ソ連,レニングラードの生まれ.
 複素解析,力学系,確率論.
 サンクトぺテルスブルク国立大学,カリフォルニア工科大学から,Nikolai G. MakarovとVictor Petrovich Havinの指導で,「ジュリア集合のスペクトル理論(Spectral Analysis of Julia Sets)」によりPh.D.取得(1996).ストックホルムの王立工学研究所に就職(1998).ジュネーヴ大学教授(2003).
 三角格子でのパーコレーション理論で共形不変量を発見,シュラム・レヴナー発展,2次元のrandom-cluster modelとイジング・モデルで共形性を確立.  [50.36] トップ

スメタニウク(Bohdan Smetaniuk.)
 シドニー大学からJennifer Roma Wallis Seberryの指導で「ラテン方陣の理論のトピックス(Topics in the Theory of Latin Squares)」によりPh.D.取得(1983).  [天25], [天VI.36] トップ

スメイル(Stephen Smale, 1930.7.15-.)
 アメリカ,ミシガン州,フリントの生まれ.
 ミシガン大学卒業(1952),同博士(1956).コロンビア大学教授(1961),カリフォルニア大学バークレイ校教授(1964-1995),香港市立大学(1995).5次元以上のポアンカレ予想の解決で,1966年フィールズ賞受賞.トポロジー,力学系,経済学,数値解析.
 ベトナム反戦運動家としても有名.
 日本語に訳されているものに,M.W.ハーシュとの共著『力学系入門』(田村一郎+水谷忠良+新井紀久子訳)岩波書店(1976)がある.
 スメイルの馬蹄型写像、スメイルの18問題(1998).  [ト附, 文], [フ12,27] トップ

スリニヴァーサン(Aravind Srinivasan, 1968-).
 メリーランド大学カレッジパーク校計算機科学,UMIACS(University of Maryland Institute for Advanced Computer Studies)教授,特任教授.
 アルゴリズム,最適化,確率アルゴリズム,機械学習など.
 マドラスのインド工科大学卒(1989).コーネル大学から計算機科学の修士(1993). コーネル大学から,David Bernard Shmoysの指導で,Techniques for Probabilistic Analysis and Randomness-Efficient ComputationによりPh.D.取得(1993).  [天VI.45] トップ

スルジウス(=ルネ・フランソア・ド・スリューズ)(Renatius Franciscus Slusius = René-François Walter de Sluse, 1622.7.2-1685.3.19).
 リエージュ公国、ヴィゼー(現ベルギー領)に生まれ、リエージュ公国、リエージュに死す。
 ルーヴァン大学(1638-1642)に学んだ後、ローマ大学サピエンツァ校で法律の学位を得る(1634)。 ローマでは、数学、天文学、多数の言語などを学び、数学ではカヴァリエーリトリチェリの影響を受ける。
 1650年に聖職につき、リエージュに帰る。法律の知識のお陰で急速に出世し、1616年にはアメの僧院長になる。僧職のため数学者達と交流するのは文通に限られる。パスカルホイヘンスウォリスリッチなどと頻繁に文通する。
 数学的には、デカルトや、フェルマの方法を拡張し、代数曲線に接線を引く方法を発見したことが重要で、微積分学の先駆者の一人と考えられている。ローマ時代にサイクロイドを研究したことから始めて、平面曲線についての研究があり、パスカルがスリューズの真珠曲線と呼んだ曲線族
ym= k xn (a-x)b
は1657-58年の間にしたホイヘンスやパスカルとの文通の中で公表されている。 ただ、 y = x2 (a-x) の形の曲線も真珠の形になると思い込んでいたのは、負の座標の概念が確立されていなかったためで、後にホイヘンスは極大・極小典や変曲点を見つけて正しく図を描いている。1674年にはロンドン王立協会会員になっている。
 数学以外にも、天文学、物理学、自然哲学、歴史、神学などの本を書いているが、1659年の『方法について』(Mesolabum)という一般向けの本では方程式の根を幾何的に作図すること、中でも一般の4次方程式も円錐曲線と円との交点で作図できることを示している。  [50.25] トップ

スロードウィ(Peter Slodowy, 1948-.)
 1978年,レーゲンスブルグ大学で,Th.ブレッカーとE.ブリースコルンの指導の下,Einfache Singularitaten und einfache algebraische Gruppen(単純特異点と単純代数群)によってPh.D.取得.
 ハンブルク大学数学科教授.特異点理論. [名17] トップ

スロール(Robert McDowell Thrall, 1914-.)
 1937年イリノイ大学アーバナ・シャンペイン校で,H.ブラハナの指導の下,「メタアーベル群と3重線形形式」によってPh.D.取得.ミシガン大学(1943以前-1971?),ライス大学教授(1971-1979以降).
 代数学,群論,環論. [ワ文] トップ

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ゼア,リチャード・ニール(Richard Neil Zare, 1939.11.19 - ). 、アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランドの生まれ.
 ハーバード大学卒業後(1961),ダドリー・ハーシュバックの元で博士号を取得(1964).
 MIT化学科助教授(1965),コロラド大学(1966-1969)の後,コロンビア大学教授(1969-1977),スタンフォード大学教授(1977-).  レーザー化学(レーザーを用いて一分子レベルで化学反応を見るもの). [50.18] トップ

セヴェリ(Francesco Severi, 1879.4.13--1961.12.8).
 イタリア,トスカナ,アレッツォに生まれ,ローマに死す.
 トリノ大学からセグレの指導でSopra alcune singolarit\`a delle curve di un iperspazioによりPh.D.取得(1900).ペアノヴォルテラにも学ぶ.
 代数幾何イタリア学派(G.ヴェロネーゼF.エンリケスG.カステルヌーヴォセグレなど)の一人.
 ローマ大学(1922-). [伝8,10] トップ

関孝和(Seki Takakazu, 寛永19年(1642)3月? - 宝永5年10月24日(1708.12.5)). 生年は寛永12年から20年までの諸説がある.江戸に生まれ(上野国藤岡の説あり),江戸に死す.
 旧姓は内山氏,通称は新助,字は子豹,号は自由亭. 関の生涯については、残念ながらあまり多くが伝わっていないが,その理由の一つは,養子である関新七郎久之が重追放になって,家が断絶したことである.
 若くして関家の養子となる。幼少時から吉田光由の『塵劫記』を独学し、さらに高度な数学を学ぶ。甲斐国甲府藩の徳川綱重、徳川綱豊(徳川家宣)に仕え,勘定吟味役となる.甲府藩の国絵図の編纂に関わり、又改暦に備えて授時歴を深く研究した。
 三島暦は有力な民間暦だったが、その駿河の三島で少年期を過ごしたと言われる関孝和は,暦に対する関心も造詣も深かったようで,それが甲府藩(藩主は綱重)に召し抱えられる理由だったとも言われる。 清朝になった中国では時憲暦を使うようになっていたが,その前の暦は元の 郭守敬らによって1281年に作られた授時暦で、明末まで364年間使用された優秀なもの.
 関孝和は,授時暦の数理的内容の解説書である『天文大成管窺かんき輯要しゅうよう』(1652)を研究し,その内の15条に訓点 を施した『関訂書ていしょ』は貞享3年(1686)に完成し、数理的には授時暦を充分に理解していたことが窺われる. 渋川春海は原理的理解は浅かったが,観測データを持ち,有力者の後援があったことが有利に働いたのであろう。 改暦の試みは貞享暦を作成した渋川春海に先を越され,それ以来関は算学の研究も止めたと伝えられる.
 関孝和は初め甲府藩の勘定方を勤め、綱重の息子である甲府宰相綱豊が五代将軍綱吉の世子として江戸城西之丸に入ると、関も幕府の西の丸御納戸組頭になる. 関は綱豊が六代家宣になる前に亡くなるが、甲府時代の延宝四年(1676)に関の弟子になった建部賢弘は西之丸に入って幕府大納戸番になる.
 関自身の唯一の公刊本である『発微算法』(延宝2年(1674)刊)で発表した点竄術は,天元術という中国で発展していた算木を使った代数学を改良した算木を使わない筆算による代数学である。傍書法(未知数を甲乙丙丁などの文字を使って表わす方法)という記号を使う方法を発明したもの.
 『解伏題之法』には,終結式を用いた消去法の一般論があり,終結式を表すために行列式にあたるものが導入されている.記号法の問題もあるためか,3次と4次の行列式は正しい表示になっているが,5次の行列式には符号の誤りがあるがミスプリの類だろう. 弟子の建部兄弟がまとめた『大成算経』(1710年以前に完成)には一般のサイズのものに対して,第1列に関する余因子展開もある.
 関は正131072角形を使い、円周率を小数第11位まで算出した. この計算ではエイトケン加速を用いており、世界的にみても数値的加速法のもっとも早い適用例の一つである。(エイトケンによる導入は1926年)ヤコブ・ベルヌーイに先駆けてベルヌーイ数を発見していたことも知られている。 ただし、死後神格化されてしまったため、関個人の業績と弟子のそれを区別して特定することは、資料の不足もあって容易ではない。
 荒木村英は関孝和の死の翌年(1709),関孝和未亡人から稿本を譲り受け,『括要算法』を刊行した。 建部賢弘は荒木を売名行為だと非難したと伝わっている. そこには,関孝和が師であると書かれているが,建部の知るかぎりそういう事実は無かった。 そのためか,その二年後、関の遺稿であると書き換えて,再度『括要算法』を刊行した。
  荒木の実力が乏しかったことは後になって知られた。 昭和49年に『関孝和全集』を出版するため,平山諦が現物に当たった時,松永良弼の朱入れと,藤田貞資の藍入れがあって,総計百数十箇所の誤記・誤刻が見つかっている.

他にも以下の著書があるが,公刊されたものではないので,どこまできちんとテキストクリティークがされたものがあるか問題ではある.年代についても諸説があり得る.  1680 延宝八年 『立円率解』(七月龔書) 1683 天和三年 『方陣之法・圓攅之法』(六月訂書)『拾遺諸約之法・翦管術解』(六月重訂) 『角法並演段図』(八月重訂)『解伏題之法』(九月重訂) 1685 貞享二年 『解隠題之法』(八月龔書) 『開方翻變之法』(十一月重訂) 『病題明致之法』(十一月重訂) 1686 『題術辯議之法』(十二月)  [文2] トップ

関口開(Sekiguchi Hiraki, 天保13年7月1日(1842.8.6)-1884.4.12(明治17)).
 加賀藩士の臣松原信吾の子として金沢に生まれ,関口家の養子となる。幼名は安次郎,後に甚之丞武達.
 実兄匠作と数学師範人算用者であった滝川秀蔵に和算を学ぶ.金沢西町の軍艦所で,長州藩から招いた蘭学の戸倉伊八郎に学び,破門された.滝川の所蔵していた本田利明の著作『渡海新法』や,八線表,対数表などの翻訳書を頼りにして洋算の勉強を続け,航海術に通暁する.維新後は洋算に転じて独学で微積分まで習得.[八線とは6種の三角比と正矢(1-cos x)と余矢(1-sin x)のこと]
 明治2(1869)年藩校の洋学教師となり,金沢の数学教育の中心人物となる.私塾「衍象舎」,「練算堂」.弟子に北条時敬(西田幾多郎は彼の家で書生をしていたことがある),河合十太郎(東大数学科第6回の卒業,高木貞治の三高時代の師),田中鉄吉など.
 明治6年の『新撰数学』は改版6回ものベストセラー.訳書に『答氏静力学解』など.答氏とはトドハンターのこと.
 石川県師範学校,石川県専門学校などの教員.明治10年,東京数学会社発足時の社員.   [文プ] トップ

セグレ,コラード(Corrado Segre, 1863.8.20-1924.5.18).  イタリア,サルッツオに生まれ,トリノに死す.
 1883年エンリコ・ドヴィディオの指導の下,高次元のクォンティックに関する論文によりPh.D.取得,代数学の教授と幾何学の教授の助手となる.1888年にドヴィディオの後継として,高等幾何学の教授に(-死).弟子にG.ファノB.セグレF.セヴェリなど.
 代数幾何イタリア学派(G.ヴェロネーゼF.エンリケスG.カステルヌーヴォF.セヴェリなど)の一人. 線形変換で不変な幾何的性質,代数曲線,線織面,クンマー曲面,など.曲面の双有理変換の一般論.微分方程式で定義される曲面についてのダルブーの仕事の拡張など.ツォイテンセグレ不変量.  [ワ3.10] トップ

セグレ,ベニアミーノ(Beniamino Segre, 1903.2.16-1977.10.2)  イタリア,トリノに生まれ,フラスカーティに死す.C.セグレは母の従兄弟. トリノ大学に入学(1919)後,ペアノファノフビニ,C.セグレなどに学ぶ. 1923年に書いた流体力学の論文でトリノ大学助教授に(-1926).1926-1927の1年間パリのE.カルタンのもとで学び,ローマに戻ってセヴェリの助手になる.1931年にボローニャ大学幾何学教授に. 1938年9月5日にムッソリーニの反ユダヤ政策が立法化され,1938年10月16日にボローニャ大学からユダヤ人と認定されて職を逐われる.8年間をイギリスに移民.1942年マンチェスター大学で教職,ルイス・モーデルは当時の同僚で議論をよくしたという.
 微分幾何,微分方程式,代数幾何(代数多様体の双有理不変量,特異点,代数曲面),組み合わせ幾何の創設(幾何に有限構造や非連続構造を導入).奇位数のデザルグ平面では,卵形線は既約な円錐曲線に限る.
 『非特異3次曲面』(1942),『代数多様体の算術的問題』(1951),『ガロアの幾何』(1959),『近代幾何学講義』(1961),『代数多様体の算術的問題』(1951),200ページの論文「特に有限の場合のエルミート形式と幾何(Forme e geometrie hermitiane, con particolare riguardo al caso finito)」(1965)など.セグレ不変量.[フ10,文] トップ

セゲー,ガボール(Gabor Szeg\"o, 1895.1.20-1985.8.7)
 ハンガリー,クンヘギーエスに生まれ,アメリカ,カルフォルニア,パロ・アルトに死す.
 ブダペストの大学を卒業後,ベルリンではフロベニウスH.シュヴァルツなどの下で,ゲッティンゲンではヒルベルトランダウハールの下で学ぶ.ハンガリーに戻って,フェイェールの下で働き,若きフォン・ノイマンを指導する.
 1921年ベルリン大学に就職,I.シューアの友人となり,フォン・ミーゼスやシュミットと共同研究をする.特にポーヤとの共著『解析学の問題と定理』(1925)は有名で,多くの版を重ね,大きな影響を与えた.
 1926年,クノップの後を継ぎ,ケーニヒスベルク大学教授(-1934).ユダヤ人であることからアメリカに亡命.ミズーリ州,セント・ルイスのワシントン大学教授.1938年スタンフォード大学に移り,停年まで勤める.
 『数理物理学における等周不等式』『直交多項式』(1962)という著書でも有名.業績としては関数解析学や複素関数論.セゲー測度,セゲー核.  [天16,17], [伝9,10], [フ6,文], [天VI.20,23] トップ

ゼケリー(László A. Székely.)
 ハンガリー,ブダペスト,エトヴェシュ大学から修士(1980),また同大学からVera T. SósとMiklós Simonovitsの指導でGeometric GraphsによりPh.D.取得(1983).
 南キャロライナ大学数学科教授(1996-).アメリカの永住権取得.グラフ理論,組合わせ論. [天32], [天VI.45] トップ

セケレシュ(George Szekeres, 1911.5.29-2005.8.28).
 ハンガリー,ブダペシュトに生れ(ハンガリー名:セケレシュ・ジョルジー),オーストラリア,アデレイドに死す.
 ブダペシュト工科大学から化学の博士号を取得,6年間分析化学の仕事をする.1936年に結婚. 第2次大戦勃発でナチの迫害にあい,上海での職につき,大戦中を過ごす. 1948年にオーストラリア,アデレイド大学から招かれ,喜んで受諾.1963年にシドニーのニューサウスウェールズ大学に移り,定年の1975年まで過ごす. ニュー・サウス・ウェールズ大学数学科名誉教授.引退後アデレードに戻り,夫婦が亡くなるとき,時間差は1時間もなかったという.
 エルデシュの古くからの友人.他にも多くの数学者と共同研究をする.P.トゥラーン,ベラ・ボロバシュ,R.L.グレアムファン・デル・ポルテン
 妻のエスター・セレケシュ(旧姓クライン,1910.2.20-2005.8.28)のエルデシュ数も1. 彼らの結婚に導いたとしてエルデシュが名付けたハッピーエンド問題はラムゼイ理論に発展していく.エルデシュ=セケレシュ予想.セケレシュ・ウィルフ数,クルスカル・セケレシュ座標系,セケレシュのスナーク.
 [天21], [天VI.7,28] トップ

ゼノン,エレアの(Zeno of Elea, 紀元前490年頃-425年頃.)
 ルカニアのエレア(南イタリア)に生まれ,エレアに死す.父親はテレウタゴラスであるといわれている.
 パルメニデスの弟子で,ゼノンに関する知識は主にプラトンの『パルメニデス』の記事による.パルメニデスとゼノンが創ったエレア学派はソクラテス以前の前スコラ哲学で有力なものだった.450年頃この二人はアテネを訪問したとプラトンは述べている.20歳頃のソクラテスが,40歳頃のゼノンと65歳頃のパルメニデスに会ったという話である.それ以前にゼノンはその著書によりアテネでは高名であった.
 有名な逆理は,近代の無限小の概念の成立に大きな影響を与えた。もとの著書では逆理は40あったが,アリストテレスがそのうちの4つを取り上げて詳論したので,この4つが有名になった.2分割,アキレスと亀,飛ぶ矢,スタジオンの4逆理である.これらの逆理はアナクサゴラスとピュタゴラスに対して,パルメニデスの立場を守るために考案されたという. [名2], [ふ6], [幾2] トップ

ゼーマン(Pieter Zeeman, 1865.5.25-1943.10.9.)
 オランダ,ゼーラント,ゾンネンメールに生まれ,アムステルダムに死す.
 1885年ライデン大学に入学,カマーリング・オンネスやH.A.ローレンツに学ぶ.1890年ローレンツの助手,1893年カー効果に関する業績で博士号.1894年ライデン大学私講師,1897年アムステルダム大学私講師,1900年アムステルダム大学物理学教授(-1935).1923年ゼーマン研究所所長に.
 磁場内でスペクトルが分裂するゼーマン効果の発見,ローレンツの電子論の確立に寄与.原子内に電子が存在することの確証.1902年ローレンツとともにノーベル賞受賞.運動媒質中の光速度に注目し,相対性理論との一致を検証. [代17]   トップ

セメレディ,エンドレ(Endre Szemerédi, 1940.8.21-.)
 ハンガリー,ブダペシュトの生まれ. ブダペシュト,エトヴェシュ・ロラン大学でエルデシュハイナルに学んだ後,モスクワ大学でI.M.ゲリファントのもとでPh.D.取得(1970). ハンガリー・アカデミー数学研究所,スタンフォード大学(1974),マギル大学(1980),南キャロライナ大学(1981-1983),シカゴ大学(1985-1986).ラトガス大学教授(1986).アーベル賞受賞(2012).
 算術的組合せ論,理論的計算機理論,エルゴード理論,グラフ理論,離散数学,離散幾何. 
 セメレディの定理(1975,=エルデシュトゥラーン予想),セメレディの正則性補題(1975),セメレディ・トロッターの定理(1983),ハイナル・セメレーディの定理(1970),エルデシュ・セメレディの定理(1983).アイタイとともにコーナー定理(corners theorem,角定理と訳すとangles theoremと間違われる)を証明. アイタイとコムロシュ(Komlós)ともにラムゼイ数R(3,t)に対する上界ct2/log tを証明し,最良の深さを持つソーティングネットワークを構成.
 アイタイホヴァタルニューボーン,とともに交差不等式を証明. [天21, 32], [天VI.45] トップ

ゼリドヴィッチ(Jakov Borisovich Zel'dovich, 1914.3.8--1987.12.2).
 ミンスク(現在はベラルーシの首都)の生まれ.生後4ヶ月でサンクト・ペテルブルグに移住. 17歳からソ連アカデミー科学物理研究所(レニングラード(1931--1941),モスクワ(1943--))に勤め,独学する.1941-43はカザンに疎開.1939年に理学博士.モスクワ大学物理学教授(1965).相対論的宇宙物理学講座を創設(1982).衝撃波の研究から,ソ連の核兵器開発に指導的役割.
 1950年から素粒子物理,1960年から天体物理,宇宙論に転じ大きな貢献.銀河団のガスの背景輻射に対する効果からハッブル定数を計算する方法を提唱.S.ホーキングが彼に会ったとき
お会いする前,貴方は,ブルバキのように,複数の著者の集合体だと思っていました.
と語ったという.  トップ

セール(Jean Pierre Serre, 1926.9.15-.)
 フランス,バジュの生まれ.
 エコール・ノルマル・シュペリオール卒業(1948).コレージュ・ド・フランス教授(1956-),名誉教授(1994).整数論,代数幾何学,代数トポロジー.フィールズ賞受賞(1954),第1回アーベル賞受賞(2003).
 アーベル多様体.ファイバー空間に対するスペクトル系列(1951).シチギーの一般化とセール予想(体上の多項式環上の射影加群は自由加群, 1955).H.カルタンとともに多変数複素関数の基本的な問題を層係数のコホモロジーの形に整理.代数幾何(代数多様体を環つき空間として定義し,ザリスキ位相を持つ位相空間として代数的連接層の理論を作り,算術種数などの不変量がコホモロジー量であることを示す).セールの判定法.セールの双対定理(1955). セールのアーベル群のクラス理論.球面のホモトピー群の計算.代数的K理論.群のコホモロジーについての,ホッホシルト・セールの基本完全系列. 著書多数.
文献
  1. 『数論講義』岩波書店
  2. ガロア理論特論』(H.ダルモン筆記、植野義明訳)トッパン(1995)、Topics in Galois Theory(1993)
  3. 「ファイバー空間の特異ホモロジー」Homologie singuliere des espaces fibres(1951).
  4. アイレンベルグマクレーン複体の2を法とするコホモロジー」Cohomologie modulo 2 des complexes d'Eilenberg-McLane(1953).
  5. 「双対定理」Un theoreme de dualite(1955).
  6. 「代数的連接層」Faisceaux algebriques coherents(1955).
  7. ネーター環と加群のホモロジー次元」Sur la dimension homologiques des anneaux et des modules noetheriens(1955).
  8. 「代数幾何と解析幾何」Geometrie algebriques et geometrie analytiques(1955).
  9. 「標数 p のアーベル多様体の諸性質」Quelques proprietes des varietes abeliennes en caracteristique p (1958).
  10. リーマンロッホの定理」La theoreme de Riemann-Roch, with A.Borel(1958).
  11. 「代数群と類体」Groupes algebriques et corps de classes(1959).
  12. 「局所体」Corps locaux(1962).
  13. 「同相でない共役な射影多様体の例」Exemple de varietes projectives conjuguees non homeomorphes(1964).
  14. 「ζ関数とL関数」Zeta nad L functions(1965).
  15. 「局所環,重複度」Algebre locale, multiplicites(1965).
  16. リー代数とリー群』Lie algebras and Lie groups(1965).
  17. 『有限群の線型表現』Representations lineaires des groupes finis, (1967, 1972).日本語訳は岩波書店(1974).
  18. アーベル多様体の良還元」Good reduction of Abelian varieties, with J.Tate(1968).
  19. 「代数多様体のζ関数の局所因子」Facteurs locaux des fonctions zeta des varietes algebriques(1969/70).
  20. ガロア・コホモロジー」Cohomologie galoisienne(1974).
  21. 「重さ1のモデュラー形式」Formes modulaires de poids 1, with P.Deligne(1974).
  22. 『楕円曲線とl進アーベル表現』(鈴木治郎訳)ピアソン・エデュケーション(2000).
 [名3, 文], [珠説3.3, 文], [代コ] トップ

セルバーグ,アトル(Atle Selberg, 1917.6.14-2007.8.6).  ノルウェー,ランゲスーンに生まれ,アメリカ,ニュージャージー州プリンストンに死す.
 オスロ大学卒,「リーマンのゼータ関数の零点について」によりPh.D.取得(1943),教授.プリンストン高等数学研究所教授.整数論,解析関数論,表現論など.素数定理の初等的解法で,1950年フィールズ賞受賞. セルバーグ予想,セルバーグの篩,セルバーグの跡公式,セルバーグのゼータ関数,セルバーグ・ヴェイユの局所剛性定理      [珠説2.4, 3.11, 文], [代コ], [天2], [伝7], [天VI.2] トップ

セルボア(François-Joseph Servois, 1767.7.18-1847.4.17).  フランス,モン・ド・ラヴェルに生まれ,同地に死す.司祭で,士官で,数学者.
 商人の子として生まれる.モン・ド・ラヴェルとブザンソンの宗教学校で学ぶ.フランス革命前後には司祭として働くが,革命の高まりとともに司祭を持して陸軍に入る(1793).軍務として,1794年3月5日にシャロン=シュル=マルヌのÉcole d'Artillerie(砲兵学校)に入学.また,さまざまな戦争で戦う.軍務の合間に数学を研究.体が弱かったので,軍関係の数学教師のポストに移りたいと表明.数学の仕事がルジャンドルの興味を引き,その推薦により1801年にブザンソンの砲兵学校の数学の教授となる. その後,各地の砲兵学校に転任,少なくともシャロン=シュル=マルヌ(1802.3-1802.12),メス(1802.12-1808.2,1815-1816),ラ・フェール(1808.2-1814, 1814-1815).退職後パリの砲術博物館館長(1817.5.2-1827.6.1).
 射影幾何,力学,複素数,関数方程式,微積分など.ポンスレジェルゴンヌラグランジュらと交流,もしくは師弟関係になる.
 1814年に微積分の原理を代数的な定式化でという提案(Essai sur un nouveau mode d’exposition des principes du calcul différentiel).実用幾何学にも関心.
 commutative(可換)とdistributive(分配の)という用語を導入.  [幾7] トップ

セレー(Joseph Alfred Serret, 1819.8.30-1885.3.2).
 フランス、パリに生まれ、ヴェルサイユに死す。
 コレージュ・ド・フランス天体力学教授(1861)、ソルボンヌの微積分学教授(1863)。1871年ポアンソの後任として、科学アカデミー会員になる。1873年経度学会に参加。ラグランジュの全集14巻本、モンジュ全集(第5版)の編集。曲線の曲率を与えるフルネ・セレの公式。
 『高等代数学教程』(Cours d'algèbre supérieure)2巻(1877,1878)に初等的なガロア理論の初めての解説がある. [解III.6, IV.4, 文], [文3], [辞], [クI.2.1,I.3.3] トップ

ゼレヴィンスキー(Andrei V. Zelevinsky.1953.1.30--2013.4.10). モスクワに生まれ,アメリカ,ボストンに死す
 モスクワ大学修士(1974),モスクワ大学からPh.D.(1978).A.A.キリロフI.M.ゲリファントとI.N.ベルンシュタインの指導でPh.D.取得(1978). ロシア,モスクワ,科学アカデミー,地球物理学研究所.アメリカ,ボストン,ノースウェスタン大学教授.組合せ論,幾何学など.   『判別式,終結式,多次元行列式』(1994, I.M.ゲリファントカプラノフと共著), 『有限古典群の表現』
 p進群とクラスター代数のI.N.ベルンシュタイン=ゼレヴィンスキー分類[天15], [フ8,文] トップ
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ソーゲンフリー(Robert Henry Sorgenfrey, 1915--1996.1.6).
 テキサス大学でR.L.ムーアの指導で,論文「3進連続体について(Concerning Triodic Continua)」によって学位(1941).
 ソーゲンフリーの直線,ソーゲンフリーの平面(1955).
教科書多数.  [辞] トップ

ソクラテス(Socrates, Σωκρατης, B.C.470/469-399).  
 ギリシャ,アテネに生まれ,アテネに死す.
 ペロポネソス戦争のポテイダイア攻囲戦とデリオンの戦いに重装歩兵として従軍した以外は,アテネで暮らす.
 弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの神託所で「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねた返事が「ソクラテス以上の賢者は一人もない」であったことに驚き,それを反証すべく,それまで評判の賢者たちに会って,自分より賢明であることを確認しようとした.実際に行うと,彼らが自分の言うことをわかっていないことが分かってしまい,却って彼らにその分かっていないことを説明するということばかりが続いた.たどり着いたのが「無知の知」である.
 「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられ死刑を宣告され,牢から逃げることを勧められもし可能でもあったが,「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正をおこなうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。
 それらの経緯はプラトンの『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』に詳しい.岩波文庫などで手に入るので読んでみると良い.
 プラトンの著作の多くはソクラテスが主人公で,彼のいろいろな対話が活写されている.数学との関係はプラトンの立体や,2の平方根が通約不能であることに関する議論をしている様子が対話篇の中に書かれていること.  [代入1], [孫数2] トップ

ソシンスキー(Aleksey Bronislavovich Sosinskii, 1937-, A.Sossinskyとも綴る).  
 フランス,パリの生まれ.高校まではフランスで教育を受け,大学はNYUで,モスクワ大学からL.V.ケルディシュの指導で博士号(1967). モスクワ大学助教授として働いていたが,1974年に政治的な理由で退職,13年間クヴァント誌で働く. 現在はモスクワ独立大学教授で副学長.
 著書は多く,例えば 『結び目:捻りのきいた数学(Knots: Mathematics with a twist)』(2002). 『結び目,絡み目,組み紐と3次元多様体:低次元トポロジーにおける新しい不変量の導入(Knots, Links, Braids and 3-Manifolds: An Introduction to the New Invariants in Low-Dimensional Topology)』(1997,プラソロフと共著)
  [フ文] トップ

蘇軾(Soshoku, 景祐3年12月19日(1037.1.8)-建中靖国元年7月28日(1101.8.24)). 眉州眉山(四川省眉山市)に生まれ,常州(現在の江蘇省)に死す.
 字は子瞻しせん,号は東坡居士.蘇東坡と呼ばれることも多い.
 北宋の人.嘉祐2年(1057年)に進士となり、地方官を歴任後、英宗の時に中央に入る。しかし次代の神宗期に王安石の新法に反対して左遷され、再び地方官を歴任する。更に元豊2年(1079年)に詩文で政治を誹謗したと讒言を受け、投獄された後に黄州(湖北省黄州区)へ左遷となった。左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った.
 元豊8年(1085)に神宗が死去し,哲宗が即位して旧法派が復権すると蘇軾も中央に復帰.新法をすべて廃止しようとする宰相・司馬光に対して,新法でも理に適った法律(たとえば募役法)存続させるべきであると主張,旧法派の内部でも孤立.紹聖元年(1094)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され,恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放.66歳の時,哲宗が死に,徽宗が即位して,新旧両党の融和が図られて許されたが,都に向かう途中病を得て常州で死去.
 詩人としても文章家としても,さらに書家としても有名. 『赤壁賦』など.
 江戸期には欧蘇と称し,欧陽修とともに,名文家の代表とされた.  [文2] トップ

ソス(Vera T. Sós, 1930.11.11-).  ハンガリー,ブダペシュトの生まれ.
 解析学,整数論,組合せ論.
 ハンガリー科学アカデミーからフェイェールの指導で,「連分数の幾何学的取り扱いとディオファントス近似理論への応用」(ハンガリー語)によりPh.D.取得(1957).
 ブダペシュト,エトヴェシュ・ロラン大学でエルデシュレニイに学び,協力者となる.トゥラーンは夫.
 エトヴェシュ・ロラン大学の解析学科で働いた後(-1987),ブダペシュト,ハンガリー・アカデミー,アルフレッド・レニイ数学研究所.
 ケヴァリ=ソス=トゥラーンの定理(ザランキエヴィッツの問題のある限界を与えるもの). エルデシュ数は1. 弟子にはLászló Babai,Katalin Vesztergombiなど. [天21, 31], [天VI.28,44] トップ

祖冲之(Tsu Ch'ung -Chih, Zu Chongzhi, 429-500(430-501という説あり)).
 字は文遠。南朝、宋・斉の人。
 天文学・数学・機械技術者。大明暦を作成し、宋の孝武帝に献じ(462)、梁のときから使用。指南車の復元(478)、南斉では『安辺論』という著作を書き、屯田を勧める.
 『綴術』(唐代には教科として教えられたが、高度過ぎて習う者がなくなり、失われたという。π の値のみ『隋書・律歴志』に約率 22/7、密率 355/113 と転載されている)。 球の体積を求める. [解I.6], [50.35] トップ

ソディ,フレデリック(Frederick Soddy, 1877.9.2-1956.9.22). イギリス,サセックス,イーストボーンに生まれ,サセックス,ブライトンに死す.
 オックスフォード大学のマートン・カレッジ卒,研究員(1898-1900),モントリオールのマギル大学で化学の実験助手(1900).ラザフォードと放射性崩壊の研究. 1903年にウィリアム・ラムゼーとユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで、ラジウムの崩壊が、ヘリウムの正の電荷を持つアルファ粒子を生成(アルファ崩壊)で発見.
 グラスゴー大学講師(1904-1914)時代にウランがラジウムへと崩壊することを示す.アイソトープ,ベータ崩壊の発見.1921年ノーベル化学賞受賞.アバディーン大学教授(1914),オックスフォード大学化学教授(1919-1936).
 1921年から1934年までの間に,経済学について熱力学の法則に基づいた見解を盛り込んだ4冊の著書を発表する以外にも,空間幾何のソディの六球連鎖の定理(Soddy's hexlet)を発見(1936).この定理自体,数学者には思いつかなかった発見として有名になったのだが,実は内田五観が百年以上も前の1822年に発見発表していたことが後に知られ,和算の優秀性を示すわかりやすい例としても有名である.  [文2], [幾8] トップ

ソニン(Nikolai Yakovlebich Sonin(=Sonie)), 1849.2.22-1915.2.27).
 ロシア、トゥーラに生まれ、ペトログラード(現サンクト・ペテルブルグ)に死す。
 ワルシャワ大学教授(1876)、ペテルブルグ女子大学とペテルブルグ大学で教える(1894-)。1899年行政的ポストに。
 特殊関数論(特に円筒関数)、オイラー--マクローリンの和公式など。A.A.マルコフとともにチェビシェフ全集の編集。 [解II.6], [伝4], [辞] トップ

ソボレフ,セルゲイ・リヴォヴィッチ(Sergei L'vovich Sobolev, 1908.10.6-1989.1.3).
 ロシア、サンクト・ペテルブルグに生まれ,ソ連,レニングラードに死す.
 レニングラード大学卒(1939),同大学教授(1936).N.ギュンターとV.スミルノフの下で,論文「2独立変数の偏微分方程式系の解析解」により,サンクト・ペテルブルグ大学から修士号取得(1929).1957年からソ連アカデミー・シベリア支部数学研究所長.ノボシビルスク大学でも教授.弟子にはO.ラジジェンスカヤなど.
 剛体力学,数理物理学,偏微分方程式,関数解析.  ソボレフ空間,コーシー・ソボレフの公式. ソボレフ=ベゾフ空間,ソボレフ関数,ソボレフの埋蔵定理, ソボレフ不等式,ソボレフの補題,ソボレフの積分表示,.ハーディ=リトルウッド=ソボレフの不等式.   [シ], [伝10], [辞] トップ

ゾンマー,ユリウス(Julius Sommer, 1871.7.9-1943.8.16). ドイツ,ロイトリンゲンに生まれ,ダンツィヒ(現在ポーランド,グダニスク)に死す.
 シュトゥットガルト大学に学ぶ(1889-1891).チュービンゲン大学からAlexander Wilhelm von Brillの指導で,『種数pの曲線上のエクセレントな点群の決定について(Ueber die Bestimmung ausgezeichneter Punktgruppen auf Kurven vom Geschlecht p)』により哲学博士号取得(1897).1899年にゲッティンゲン大学からハビリタシオン獲得.ダンツィヒ工科大学正教授(1904),学長(1924-25).
 数理科学百科事典に初等幾何学の項執筆. [クI附B],[クII附A] トップ

ゾンマーフェルト,アーノルド(Arnold Johannes Wilhelm Sommerfeld, 1868.12.5-1951.4.26).
 プロイセン王国ケーニヒスベルク(現在ロシア領カリーニングラード)に生まれ,西ドイツ,ミュンヘンに死す.
 原子物理学や量子力学の開拓者.微細構造定数 、軌道磁気量子数、スピン量子数を導入.金属内の自由電子の量子論.アインシュタインの特殊相対性理論の数学的基礎付け.
 ケーニヒスベルク大学で数学と物理を学ぶ.ケーニヒスベルク大学から,リンデマンの指導で,『数理物理学における任意関数(Die willkürlichen Functionen in der mathematischen Physik)』によりPh.D.取得(1891).ここでA.フルヴィッツヒルベルト,エミール・ヴィーヘルトにも学ぶ.教授資格のための勉強を続け,試験に合格(1892).それからしばらく兵役に.
 1893年10月にゲッティンゲン大学へ行き,Theodor Liebischの助手. 1894年9月から,F.クラインの助手になる.クラインの講義ノートをとるのも仕事.クラインの元でハビリタシオンを完成し(1895),私講師となる.数学と数理物理を担当.のちに偏微分方程式の本としてまとめる.1895/96年のクラインが行った回転体に関する講義が,F.クラインとの共著Über die Theorie des Kreisels [4 volumes] (Teubner, 1897)となる.最初の2巻は理論編で,後半は地球物理,天文学,光学への応用.クラインの依頼で 『数学百科事典』の第5巻の編集.
 アーヘン大学の応用力学講座教授(1900-),流体力学を研究.この時代の弟子にヴェルナー・ハイゼンベルグがいる. ミュンヘン大学の物理の教授兼新設の理論物理学研究所の所長に(1906).
 著書も多く,『理論物理学講座』というシリーズもあって日本語にも訳されている(講談社).
 ゾンマーフェルト数,ボーア・ゾンマーフェルトの量子条件,ドルーデ・ゾンマーフェルトモデル,ガモフ・ゾンマーフェルト因子,グリム・ゾンマーフェルト則,オーア・ゾンマーフェルト方程式,ゾンマーフェルト定数(=微細構造定数),ゾンマーフェルト・ウィルソン量子化,ゾンマーフェルト係数,ゾンマーフェルト展開,ゾンマーフェルト近似,ゾンマーフェルト恒等式,ゾンマーフェルトパラメーター,ゾンマーフェルト放射条件,ゾンマーフェルト・ゼンネック表面波.
 ノーベル賞を取った弟子も多く,パウリデバイハンス・ベーテG.ヴェンツェルなどの学位指導以外にもライナス・ポーリング,レオン・ブリルアン,ヴァルター・ハイトラーなど  [クI.1.3] トップ


  
  
  
  
  

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