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 人名索引 てと


人名索引総目次 たちつ
テアイテトス ディヴィス ディオクレス ディオファントス
ディクソン ディグビー ティッチマルシュ ティティウス
P.G.テイト J.T.テイト ディトキン ディドロ
ディニ ディニッツ ティマイオス
テイラー B.C.テイラー F.G.テイラー H.テイラー
ディラック ディリクレ ティレル テオドロス
B.デカルト デカルト デザルグ デデキント
デバイ テプリッツ
テボー デモクリトス デューイ デュガス デュードニー
デュドネ デュ・ボア・レイモン デュポン デューラー デュリンクス
テラー 寺尾寿 デリー デローネ デーン
 
ドイリンクトゥー トゥエトウェイントゥサン
ドゥ・ラ・ハープトゥラーン ドゥリーニュ
徳川昭武徳川家光徳川慶喜徳川吉宗 ドグル
ド・ジョンキエールドジソントスドストエフスキートドハンター
トニョリド・フォンスネド・ブリュインド・ボーヌ
R.トーマス T.Y.トーマス トーマッセン トム トムセン
ド・モアヴル朝永振一郎 ド・モルガン 外山捨八豊臣秀吉
ド・ラムド・ラニー鳥居耀蔵トリチェリ トリブヴァ
トールトルストイトゥルーディドルドトルバルセン
ドルビリントルベツコイドレッシャー トレルファール
トロッター ド・ロピタルトロヤーノフ


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テアイテトス、アテネの(Theaetetus of Athens,紀元前417頃-369頃).
 ギリシャのアテネに生まれ、アテネに死す。
 キュレネのテオドロスとともにプラトンのアカデミアで研究する。 正8面体と正20面体を最初に見付けた人で、ユークリッド 『原論』の 10章(無理数論)と13章(正多面体)は彼の業績を述べたものとされている。 またエウドクソスの書中の比例論も彼の業績と考えられている。
 プラトンの対話篇『テアイテトス』では,ソクラテスとテオドロスとテアイテトスが知識について論じているところが描かれている.それによると,父はアテネのスゥニオン区の人でエウプニオスと言い,また彼自身はコリントスでの戦争で傷を受け,軍中に流行した赤痢にかかって死んだという. [代入1,2] トップ

ディヴィス,マット(Matt Davis).
 カリフォルニア州ヘイワードにある,チャボット・カレッジの科学数学のInstructor.
 ウィスコンシン大学マディソン校からArun Ramの指導で,Representations of Rank Two Affine Hecke Algebras at Roots of Unityにより,Ph.D.取得(2010).  [率0] トップ

ディオクレス(Diocles, 紀元前240-180).
 ギリシャ、エウボエア、カリストスの生まれ。
 自身の発見したシッソイドを倍積問題や角の3等分問題に応用。球を与えられた比に分割するアルキメデスの問題を解く。放物面が焦点を持つことを示したことはギリシャ人からは忘れられたが、アラブの数学には強い影響を与えた。[解II.1], [幾3] トップ

ディオファントス、アレキサンドリアの(Diophantos = Diopantus, 246?-330? (200?-284?).
 アレキサンドリアに住んでいたことがあることしか分らない。他には33才で結婚し、息子が42才で死んだ時から4年後84才で死んだということが解答である算術の問題が残っており(5ないし6世紀の『古代ギリシャ詩華集』)、生没年そのものはまったくあてにならないのだが、84年間生きていただろうということにはなっている。
 『算術』全13巻。代数学の初歩と不定方程式を論じる.前半の6巻のみ現存。アラビア語を介し、1575年に初めてラテン語に翻訳された.1621年発行のバシェ・ド・メジリアク訳のラテン版訳の余白にフェルマが書き込みをする。その他多角数に関する断片が残存している. [解I.1, 文], [名3, 文], [珠2.1, 説3.9, 文], [伝3], [辞], [ふ3], [作付B] トップ

ディクソン(Leonard Eugene Dickson, 1874.1.22-1954.1.17.)
 アメリカ,アイオワ州,インディペンデンスに生まれ,テキサス州,ハーリントンに死す.
 テキサス大学卒業(1893)後,シカゴ大学でE.H.ムーアの指導で,Analytic Representation of Substitutions on a Power of a Prime Number of Letters with a Discussion of the Linear Group(素数ベキ個の文字上の置換の解析表現,線形群の議論付き)によりPh.D.取得(1896).  ヨーロッパに渡り,ライプツィヒではリーと,パリではジョルダンと交流.帰国後カルフォルニア大学バークレー校の講師,E.H.ムーアの招きでシカゴ大学教授(1900-39).
 整数論,群論,有限体上の一般線形群の理論,数学史.『整数論の歴史』全3巻(1919-23). [名2, 文], [珠訳序, 3.1, 説3.10,文], [天5], [ワ1, 2, 3, 6, 8], [伝7]  トップ

ディグビー(Sir Kenelm Digby, 1603.7.11-1665.6.11.) イギリス,バーミングハムシャー,ゲイハーストの生まれ.
 イギリスの廷臣で外交官.自然哲学者としても高く評価され,ローマ・カトリックの知識人で,最後は牢獄で死んだらしい.
 フェルマから,幾何の定理を自慢する手紙を受け取ったことで,数学史に登場.  [幾6]  トップ

ティッチマルシュ(Edward Charles Titchmarsh, 1899.6.1-1963.1.18.)
 イギリス,バークシャー,ニューベリーに生まれ,オックスフォードシャー,オックスフォードに死す.
 第1次世界大戦で中断するも1922年にオックスフォード大学卒業.G.H.ハーディの下で研究.ロンドン大学(1923-29),リヴァプール大学(1929-31)を経て,1931年にオックスフォード大学に戻り,サヴィル教授職をハーディから受け継ぐ(1942).フーリエ積分論,リーマンのゼータ関数の研究.著書多数.  [名5]  トップ

ティティウス(Johann Daniel Titius, 1729-1796.)
 ドイツ,ヴィッテンベルクに死す. ヴィッテンベルク大学教授.
 太陽と惑星の距離に関する経験則を発見(1766).  [パ23, 年表] トップ

P.G.テイト(Peter Guthrie Tait, 1831.4.28--1901.7.4.)
 スコットランド,ダルキートの生まれ. ベルファースト大学数学教授,エジンバラ大学物理学教授.W.ハミルトンの弟子.
四元数の理論の単純化.行列式,関数論,級数論,整数論,確率論,力学,数理物理学,実験物理学など.   [列3,4],[フ10] トップ

J.T.テイト(John Torrence Tate, Jr., 1925-.)  アメリカ,ミネソタ州ミネアポリスの生まれ.
 プリンストン大学からE.アルティンの指導で「数体におけるフーリエ解析とヘッケのゼータ関数(Fourier Analysis in Number Fields and Hecke's Zeta Functions)」によりPh.D.取得(1950).プリンストン大学研究助手兼講師(1950-52).コロンビア大学客員教授(1953-54),ハーヴァード大学教授(1954-90),テキサス大学オースティン校数学科教授(1990-).
 代数幾何,代数学,整数論,類体論,群論.標数 pの局所体のガロア群の p進表現,有限体上のアーベル多様体など.テイト予想,テイト群.テイト・シャファレヴィッチ群.
 日本語の本に,J.H.シルヴァーマンとの共著『楕円曲線論入門』(足立恒雄ほか訳)シュプリンガー・フェアラーク東京(1995)がある.   [名序, 3] トップ

ディトキン(Vitalii Arsen'evich Ditkin, 1910.5.2-1987.10.16).
 ロシア,モスクワ州、ヴォゴロドスコエに生まれ、モスクワに死す。
 母親は小学校教師で,父親は技師.1922年以来,モスクワに住む.電気工業大学に入学(1930),モスクワ大学物理数学部に転入(1932),卒業論文はタウバー型定理についての研究.プレスナーの推薦でモスクワ大学数学研究所の院生になり(1935),ヘヴィサイドの演算子法の物理や電気工学への応用を研究.第一期モスクワ関数解析学派に加わる.論文「微分作用素と関連した関数変換」により,スチェクロフ研究所から学位(1949).
 スチェクロフ数学研究所の近似計算部門の上級研究者になり(1943),研究の関心が関数解析から計算数学および応用数学に変わる.1948年にこの部門が新設の「精密力学および計算機技術研究所」に移管されるとともに移動し,また1955年にその部門がソ連科学アカデミーの計算センターに移管されるとともに移動し,副所長になる.死亡時まで在職.    [モ] トップ

ディドロ(Denis Didrot, 1713.10.5-1784.7.31).
 フランス、シャンパーニュ州、ラングルに生まれ、パリに死す。
 職人の子として生まれ。神学(イエズス会)で身を立てようとしてパリに行くも、科学思想に触れ、哲学・物理学・数学を学び、啓蒙思想家となる。ダランベールとともに百科全書を創始する。 [解I.1, 文],[伝1] トップ

ディニ(Ulisse Dini, 1845.11.14-1918.10.28).
 イタリア、ピサに生まれ、ピサに死す。イタリア学派(微分幾何)の草分け。ピサ大学教授。ビアンキの師。実関数論。曲面論。E.ベルトラミの問題の解決。フーリエ級数の収束条件(ディニの条件)。 [解III.5, 9] トップ

ディニッツ(Jeffrey Howard Dinitz, 1952-). ニューヨーク,ブルックリンの生まれ.
 カーネギーメロン大学卒.アメリカ,オハイオ州立大学でR.M.ウィルソンの指導で,「対ごとに直交する対称ラテン方陣の数の下からの限界(Lower Bounds For The Number Of Pairwise Orthogonal Symmetric Latin Squares)」によりPhD取得(1980).ヴァーモント大学数学・統計学科主任教授.
組合せ論,グラフ理論,デザイン論.エルデシュ数は2.
 ディニッツ予想(1994年にFred Galvinが証明). [天26] トップ

ティマイオス,ロクリスの(Timaius of Locri, 紀元前5世紀ごろか?).
 イタリア,ロクリスの政治家で,学者.ロクリスはイタリア半島南端に近い東海岸の都市でゼリュリオンのロクリスとも呼ばれ,ギリシャの東ロクリスの貴族たちが紀元前673年頃に建設した都市.
 プラトンの対話篇『ティマイオス-自然について』でのみ言及されていて,架空の人物である可能性もある.この書物の中で,ピュタゴラス学派の天文学・宇宙論を展開する人物として現われる.この書に初めてすべての正多面体の記述があり,それらが4大元素(地水火風)と宇宙とに擬されている.   [名17, 文], [幾2] トップ

テイラー,ブルック(Brook Taylor, 1685.8.16-1731.12.29).
 イギリス、ミドルセックス、エドモントンに生まれ、ロンドン,サマセット・ハウスに死す。
 ケンブリッジ大学、セント・ジョン・カレッジに学ぶ。解析学,力学,弾道学. ニュートンに心酔し、法律から数学・自然科学に転向。 学生時代からマチンJ.キールと手紙の交換をしていた.
 1712年にロンドン王立協会の会員となり,ニュートンとライプニッツの微積分の先取権争いを判定する委員会に指名された.
 1914年には王立協会の書記となり,1718年10月21日まで務める. 彼自身も物体の振動の中心に関する問題について,ヨハン・ベルヌーイと先取権争いをしている.
 非イギリス数学者との対抗意識を強く持っていた.大陸ではベルヌーイ一族、イギリスではテイラーという時代があったということである。
  フランスにもよく出かけ,ピエール・レモン・ド・モンモールやド・モアヴルとの間にも多くの書簡が残っている.
主著は『直接および逆増分法』Methodus incrementorum directa & inversa(1715)には,微分方程式の特異解,合成関数や逆関数の微分公式が述べられている.当時はその重要性が認識されなかった. テイラー展開そのものは,たとえば,ジェームズ・グレゴリー,ニュートン,ライプニッツ,ヨハン・ベルヌーイ,ド・モアヴルなども個々の場合には知っていた. 微積分法の基礎としての重要性を最初に指摘したのはラグランジュ(1772)であり,テイラー級数という言葉を最初に使ったのはリューリエ(1786)である.
  1712年から1724年の間,実験も多く行ない,毛管現象に関するもの磁気の引力の法則を発見する実験(1715),温度計に関するものがある.
  有限差分法、方程式の解を対数を使って近似する方法の改良(1717)なども。テイラー展開(1715),弦の振動の数学的研究.画法幾何や射影幾何の基礎理論も(Linear Perspective ,1715) .
 [解II.1-2, 4-5, 9-10, III.7, IV.4, 文], [パ6, 10, 年表], [名3, 15], [ト7], [代7], [ワ2], [文1], [フ10,29] トップ

テイラー,ブルース・C.(Bruce C. Taylor).
 アクロン大学生体医工学名誉教授.ハイラム大学卒(生物学,1964),ケント州立大学修士(1967),ケント州立大学Ph.D.(1971).   [率2] トップ

テイラー(F. Glanville Taylor).
モーレーの定理の別証と拡張の論文,W.L.Marrとの共著「三角形の各角の6つの3等分線(The six trisectors of each of the angles of a triangle)」(1913)  [幾解答] トップ

テイラー,ハーバート(Herbert Taylor).
 南カリフォルニア大学から,S.W.Golombの指導で「電子工学におけるグラフ理論的話題(Some Graph Theoretic Topics from Electrical Engineering)」によりPh.D.取得(1981).
 カリフォルニア大学ロサンゼルス校電子工学科.
 組合せ論,グラフ理論.エルデシュ数は1. [天26] トップ

ディラック(Paul Adrien Maurice Dirac,1902.8.8-1984.10.20).
 イギリス、グロチェスターシャー、ブリストルに生まれ、アメリカ、フロリダ、タラハシーに死す。
 物理学者。ケンブリッジで数学を学ぶ前に、ブリストル大学で電気工学を学ぶ。ケンブリッジ大学ルーカス教授(1932-69).引退後乞われて,フロリダ大学物理学教授に(1971)。輻射場の量子論(1926)、相対論的量子力学(1928)、反粒子(陽電子)の存在の予言(1930)、フェルミ・ディラック統計、場の量子論の多時間理論など。1933年、シュレーディンガーとともにノーベル物理学賞。磁気モノポールの存在の予言、重力定数の時間変化の予言はまだ確かめられていない。
 ディラックのデルタ関数,ディラック列.
 朝永振一郎・玉木英彦らによって訳された『量子力学(原書第4版)』(岩波書店)は定評のある教科書である。 [解III.9], [代8, 17, コ],[ワ8],[ワ著2], [作付B], [50.17] トップ

ディリクレ(Peter Gustav Lejeune Dirichlet, 1805.2.13-1859.5.5).
 フランス帝国、デューレン(現在はドイツ)に生まれ,ハノーヴァー、ゲッティンゲン(現在はドイツ)に死す。父は郵便局長.妻レベッカ ・ メンデルスゾーン バートルディは哲学者のモー ゼス・メンデルスゾーンの孫娘であり, 作曲家フェリクス・メン デルスゾーンの姉妹.
 ケルン大学を16才で卒業.若くして,ベルリン大学教授('28-55),ゲッティンゲン大学教授(ガウスの後任)。代数的数論(2次形式論,無理数体の整数論,単数の理論).解析的数論(算術級数定理,1837:この定理は一般化され,任意の公差を持つ等差数列が素数集合の中にあることが示されている.).イデアル論.
 フェルマ予想の部分的解決(n=5の場合:ルジャンドルと同時に)。ディリクレ級数の収束.現代的な関数の定義,ディリクレの引き出し論法.偏微分方程式の境界値問題,ディリクレ問題、フーリエ級数論.流体力学の方程式の最初の完全な積分.
 「偉大な数学者とは盲目的な計算をすばらしいアイデアに置き換える人のことである。」
 日本語の本に『ディリクレ・デデキント 整数論講義』(酒井孝一訳・解説)現代数学の系譜5共立出版がある。 [解I.0-1, III.2-5, 9, IV.5, 文], [名3], [珠説2.2.2, 3.2.2, 3.11, 附], [代17], [天4], [伝2,3,4,5,6,9,10], [辞], [率18], [作付B], [幾11] トップ

ティレル(John Alfred Tyrrell).
 ロンドン大学で「配位の数え上げ幾何学の基本定理(The Basic Theory in the Enumerative Geometry of Configuration)」によりPh.D.取得(1957).
 C.J.A.エヴリンマネー=クーツが正確に図を描くことで知った7円定理を証明(楕円関数を使う;パウエルとともに).
 「7円定理と新しい定理群(The Seven Circles Theorem and Other New Theorems)」(1974, C.J.A.Evelyn, G.B.Money=Couttsと共著)   [フ29,文] トップ

テオドロス、キュレネの(Theodorus of Cyrene=Theodoros of Kyrene, 紀元前470(465)-390(398)).
 キュレネ(現リビア、シャハット)に生まれ、キュレネに死す(キュレネは豊かなギリシャ植民地)。
 幾何学者として、プラトンテアイテトスの師。√3~√17 などの無理数性を最初に証明する.ユークリッドの無理数論の元になる業績。   [解II.10], [代入1] トップ


デカルト、ブランシュ(Blanche Descartes).  1935年にケンブリッジのトリニティ・カレッジに集まった4人の数学者の集合的仮名. R. Leonard Brooks, Arthur Harold Stone, Cedric Smith, and W. T. Tutte. 頭文字をBLACと並べて,Blancheと補い,carte blanche(白紙)からDescartesを選んだと言う.
 グラフ理論.30篇ほど論文がある.   [天32] トップ


デカルト、ルネ(Ren\'e Descartes, 1596.3.31-1650.2.11). ラテン語名Renatus Cartesius(レナトゥス・カルテシウス).

 フランス、トゥレーヌ州、ラ・エー(現在ではデカルトと呼ばれている)に生まれ、スウェーデン、ストックホルムに死す.
 哲学・数学・物理学者。ブルターニュ公国の首都レンヌの議会の顧問であったジョアシャン・デカルトの3男として生まれる。 若いときから体が弱く、朝は11時までベッドに居る習慣があったが、スウェーデン女王の命令で朝の5時から寒い宮廷に出仕し、風邪をひき、こじらせて死ぬ。デカルト的二元論は強い影響力を持ち、後のライプニッツの単子論と対立。ヨーロッパ思想界を二分。オランダに長く住んだため、デカルト主義者のオランダ人が多い。
 8才のときから8年間、アンジューのイエズス会の王立学院で、古典、論理学、アリストテレスを学んだが,分かったことは自分がいかに何も知らないかであり、ただクラヴィウスの書で学んだ数学だけには納得していたという。この学院の寄宿生活の中で11時までベッドにいることを許されていたのが習慣になったらしい。
 ポアチエ大学で法律の学位を得てのち(1616)、ヨーロッパを遍歴し、いくつかの軍にも属し、オランダではI.ベークマンと出会い、本格的に数学と力学を学ぶ。1623年一旦パリに戻りメルセンヌとの交流が始まる。イタリアから帰って(1625)からも落ち着き先を探していたが、1628年からはオランダに定住し、ホイヘンス、ミドルジュ、メルセンヌ、ファン・スホーテンらと交流。
 1649年、スウェーデン女王の招きに応じてストックホルムに行く。死を招くほどの生活環境の変化を受け入れた理由はよく分からない。公然と表明していないがガリレオ・ガリレイの見解と同じであることが知られて、プロテスタントの神学者からの迫害があリ、それを避けるためとも言われる。死後16年を経て、フランス政府の要請により、遺骨はパリに運ばれサン・ジュヌヴィエーヴ教会(現在はパンテオン)に埋葬された。
 日本語では以下の文献にあるようにほとんどの著述が翻訳されていて,簡単に手に入る。


文献
  1. 『幾何学』(La Geometrie), 『方法序説』(Discours de la methode)の付録、Paris,1637. D.E.スミスM.L.ラタンによる英訳(初版の複製がついている)が1925年にThe Open Court出版社から発行され、1954年にDover出版社からリプリントが出ている。日本語訳には、デカルト著作集1『幾何学、方法序説の試論』(原亨吉訳、白水社)がある。[I.1-2, 5], [II.1], [IV.3]
  2. 『デカルト著作集』白水社
  3. 『デカルト』(世界の名著22)中央公論社
  4. 『方法序説』岩波文庫など
  5. 『精神指導の規則』岩波文庫など
  6. 『哲学の原理』岩波文庫など
  7. 『デカルト=エリザベト往復書簡』 (山田弘明訳) 講談社学術文庫(2001)
 [解序, I.1-3, 5, II.1, 3, 7, III.2-3, IV.1, 3-4], [パ序, 11-12, 年表], [名1-3, 6, 9, 17, 21, 附A], [代1], [古1,2,8], [直7], [代入2], [モト], [伝1,7,8], [フ6], [作付B], [幾序, 6-9,11] トップ

デザルグ(G\'erard Desargues, 1591.2.21-1661.9(または10)).
 フランス,リヨンに生まれ,リヨンに死す.
 富裕な家系に生まれ,建築家で工兵将校.ラ・ロシェル要塞の攻囲に参加(1628).
らせん階段やポンプの新しい形をデザイン.メルセンヌ・アカデミーのメンバー(1641-).リシュリュー枢機卿の工科系コンサルタント.パリやリヨンの建築物を設計.
 数学としては,射影幾何学,画法幾何学の基礎づけ. 射影幾何学はG.モンジュの弟子たちにより再発見された.
 デザルグの幾何,デザルグ構造,デザルグ配図.デザルグの定理.  [代9-11, コ], [三], [幾11] トップ

デ・ターク(Dennis DeTurk, 1954.7.15--)。
 ペンシルヴァニア大学からJerry Kazdanの指導で論文「指定されたリッチ・テンソルを持つ計量の存在:局所理論(Existence of metrics with prescribed Ricci-Tensors: local theory)」により,Ph.D.取得(1980).
 ペンシルヴァニア大学数学科教授.
 微分幾何,極小はめ込み.  [名23] トップ

デデキント(Julius Wilhelm Richard Dedekind, 1831.10.6-1916.2.12).
 ブラウンシュヴァイク公国、ブラウンシュヴァイクに生まれ、ブラウンシュヴァイクに死す。
 生涯独身で、姉と暮らす。ゲッティンゲン大学で学位(1852).ガウスの弟子.しばらく母校で私講師,数年後にチューリヒ工科大学,ブラウンシュヴァイク工科大学教授,後校長(1862,1872-1894.4.1)。
 ゲッティンゲンでは,リーマンディリクレと師のガウスとの4人が互いに影響を及ぼし合ったと言われる.カントールを支えたというより、この人こそ集合論を根づかせたと言ったほうがよいかも知れない。整数論.無理数概念の体系化(デデキントの切断),算術計算の論理化,イデアルの考案.束理論の萌芽. 日本語に訳されているものには『数について』(河野伊三郎訳)岩波文庫, ディリクレ・デデキント『整数論講義』(酒井孝一訳・解説)現代数学の系譜5,共立出版(1970) がある. [解序, III.1, 3, IV.1], [代コ], [代入3,6], [伝2,3,4,5,6,8,10], [辞], [作2,3,付B,文], [基15] トップ

デバイ,ピーター (Peter Joseph William Debye, 1884.3.24-1966.11.2)
 オランダ,・マースリヒトに生まれ,アメリカ,ニューヨーク州,イサカに死す.
 1911年からチューリッヒ大学、ユトレヒト大学、ゲッティンゲン大学の教授を歴任.チューリヒ工科大学教授(1920-27),ライプツィヒ大学教授(1927-34),ベルリン大学教授とカイザー・ウィルヘルム物理学研究所の所長を兼任(1934-1938).1939年渡米.コーネル大学教授(1940-1950),1946年アメリカ合衆国に帰化.ノーベル化学賞受賞(1936).
 デバイの比熱式,デバイ-シェラー法,デバイ-ヒュッケルの式,デバイ模型.分子モーメントの単位名にデバイ.  [ワ著2] トップ

テプリッツ (Otto Toeplitz, 1881.8.1-1940.10.11.)
 ドイツ,ブレスラウ(現在ポーランド,ブロツワフ)に生まれ,イェルサレム(当時イギリス統治下)に死す.
 ヒルベルトの助手,キール大学,ベルリン大学教授.1933年ナチにより免職され,1938年イェルサレムに移住.積分方程式論,無限変数の関数論,線形代数,数学史,数学教授法.テプリッツ行列.
 日本語に訳されているものにラーデマッヘルとの共著『数と図形』(山崎三郎+鹿野健訳)日本評論社(1989)がある. [珠3.1,文], [シ文], [伝7,9], [フ序]  トップ

テボー,ヴィクトール(Victor Michel Jean-Marie Thébault, 1882.3.2–1960.3.19). フランス,アンブリエール・レ・グラン(今日マイエンヌ県アンブリエール・レ・ヴァレーに含まれる)に生まれ,ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏テニーに死す.
 ラヴァルの教育大学(1898-1901)卒業後,マイエンヌ県プレ・アン・ペールで3年教え,マイエンヌ県エルネー工業高校教授.1909年に試験に受かり,教育大学での科学教師資格を得たが,家族を養うには薄給であるために辞め,エルネーの工場監督になる(1910-1923).1924年にル・マンの保険検査官主任になり,1940年退職まで勤める.
 幾何学.3つのテボーの問題で有名.テボーの定理. [幾6,7]  トップ

デモクリトス(Demokritos of Abdera, 紀元前460年頃--370年頃).
 イオニア植民地アブデラの生まれ.原子論者として有名だが,幾何学者としても優秀.
 財産を作ってから,知識を求めて世界を遊歴.エジプトには長期に滞在し,ペルシャにも行っている.インドとエチオピアにも行ったと言う人もあり.学識はアリストテレスに比肩したと言われている.
 70以上の著作があったというが現存していない.デモクリトスの原子論に反対するために詳述したアリストテレスの著作と,逆にそれを信じたエピキュロスの著作(2世紀のディオゲネス・ラエルティウスによって保存された)によって内容が知られている.
 原子論を最初に主張したのは師のレウキッポスとアナクサゴラスであったし,さらに遡るもので,恐らくはピュタゴラス学派の,正多面体を宇宙の構成要素とする思想と関連していただろうと言われている.
 彼の理論によれば,世界は空虚で,その中を無数の原子が動いている.あらゆるものが原子の集まりで,水の原子は丸く,固体の原子にはギザギザがあって絡み合うという具合に,形の違いが物質の性質の違いになる. 原子の離合集散で,物質の性質は変化し,溶解や結晶化が起こって,死と再生がもたらされる.空虚の中で原子が衝突して,大規模な渦運動が起これば,新世界の創造も起こる.
 また倫理的には,決定論で,個人の自由選択は幻想に過ぎないと考えた.
 数学に関しても著作は多く,『数について』,『接線について』,『写像について』,『無理数について』などがあったというが何も残っていない.1906年に発見されたアルキメデスの『方法』の中に,デモクリトスが,「同じ底面を持つ錐が柱の3分の1の体積であること,同じ底面と高さを持つピラミッドがプリズムの3分の1の体積であることなどを述べた最初の人である」と書かれてあり,エウドクソスが証明した50年以上も前に知っていたのである.物体が原子1個の厚みを持つ薄板の集まりと考えることによって,カヴァリエリの原理に相当する考え方を持っていたようだ.ただし,無限小に関する議論については,考えることができなかったという説と,直線については無限に分割できると考えていたという説とがある.  トップ

デューイ(John Dewey, 1859.10.20--1952.6.1).
 アメリカの哲学者で,プラグマティズムを代表する思想家.
 シカゴ大学の教授時代,1896年に妻とシカゴ大学付属小学校である実験学校をつくり,そこでの指導経験をまとめた『学校と社会』(1899年)で世に知られるようになった. 東京帝国大学で1919年に講義をした内容が『哲学の改造』という本になっている. [列8] トップ

デュガス(Pierre Dugac, 1926.7.12-2000.3.7)。  ユーゴスラビア,ボサンスカ・ドゥビツァに生まれ,パリに死す.
 1945年にイタリア経由でパリに行く.1966年にフランス国籍取得. 1964年パリのピエールとマリー・キュリー大学の数学助教授になり,名誉教授(1991). フランスの数学史家。解析学の基礎.コーシーベールルベーグボレルダンジョアなど. [解III.1] トップ

デュードニー,ヘンリー・アーネスト(Henry Ernest Dudeney, 1857.4.10-1930.4.23). イースト・サセックス州メイフィールドに生まれ,サセックス州ルイスに死す.
 本業は公務員.有名なパズル作家.
 論理パズルや数学ゲームの作家として,長年活躍.ストランド誌ほかに長年連載.
 一時はアメリカのパズル作家サム・ロイドと交流していたが,ロイドの方で連絡を絶ち,デュードニーのパズルを無断で自分名義で発表するなどしたので,関係が悪化.  意味のある言葉を使う覆面算の初めて考案(SEND+MORE=MONEY).
 デュードニー・シュタインハウスの定理.  [ふ5], [幾4] トップ

デュドネ、ジャン(Jean Alexandre Eug\`ene Dieudonn\'e, 1906.7.1-1992).
 フランス、リールの生まれ。
 初期ブルバキのメンバー。エコル・ノルマルで学位(1931)。レンヌ、ナンシー、サンパウロの後、ミシガン大学(1952)、ニース大学教授(1964)。位相空間論、関数解析、代数幾何、不変式論、古典群論など幅広い。数学教育の現代化や数学史にも力を注ぎ、日本語になった教科書も多い。
文献
  1. 『現代解析の基礎』(Foundations of Modern Analysis, Academic Press (New York), 1960).日本語訳は『現代解析の基礎1,2』(森毅訳,東京図書,1971).
  2. Calcul Infinitesimal, Hermann(1968).日本語訳は『無限小解析1,2』(1:丸山滋弥+麻嶋格次郎、2:宮崎浩+宮崎功訳)東京図書(1973).
  3. Elements d'Analyse, Gauthier-Villars(1968).日本語訳は『現代解析3,4 関数解析・上下』(森毅訳)東京図書(1974).
  4. デュドネ編『数学史要約』(Abrege d'Histoire des Mathematiques, 1978).日本語訳は『数学史1700-1900 I,II,III』(上野健爾+金子晃+浪川幸彦+森田康夫+山下純一訳)岩波書店(1985).
  5. Algebre Lineaire et Geometrie Elementaire, Hermann (1968).日本語訳は『線形代数と初等幾何』(雨宮一郎訳)東京図書(1971).
  6. 『人間精神の名誉のために-今日の数学』Pour l'Honneur de l'esprit Humain - Les mathematiques aujourd'hui, (1987).日本語訳は『人間精神の名誉のために-数学賛歌』(高橋礼司訳)岩波書店(1989)
 [解III.1, IV.4, 文], [ト1-2, 文], [代コ], [幾4,11] トップ


デュ・ボア・レイモン(Paul David Gustave du Bois-Reymond, 1831.12.2-1889.4.7).
 ドイツ、ベルリンに生まれ、ドイツ、フライブルグに死す。
 ベルリン大学からクンマーの指導で「流体の平衡について(De aequilibrio fluidorum)」によりPh.D.取得(1859).
 ハイデルベルク大学、フライブルグ大学、テュービンゲン大学(1984,H.ハンケルの後継)、ベルリン大学教授。
 解析学,積分論.積分方程式という用語は彼による。「正項級数の収束・発散の新理論(Eine neue Theorie der Convergenz und Divergenz von Reihen mit positiven Gliedern)」は関数の理解に大きな寄与.ある点で発散するフーリエ級数の例(1873). ワイエルシュトラスの例(1872)に刺激され,いたるところ微分できない連続関数の例を公表(1875).
 [解III.1, 5, 文], [伝6] トップ

デュボヴィツキー(A. Ya.Dubovitskii).   ロシアの数学者,微分トポロジー,数理計画法,関数解析,最適制御.
 数理計画法のデュボヴィツキー=ミリューチン法,デュボヴィツキー=ミリューチン最適化形式, [ト文] トップ

デュポン(Johan Louis Dupont).
 デンマーク,オーフス大学数理科学科助教授.
 代数トポロジー,微分幾何,ドゥリーニュコホモロジー,鋏合同.
 『ファイバー束とチャーン=ヴェイユ理論(Fibre bundles and Chern-Weil theory)』(2003)  [フ文] トップ

デューラー,アルブレヒト(Albrecht Durer, 1471.5.21-1528.4.6).
 帝国自由都市ニュルンベルク(現在ドイツ領)に生まれ、ニュルンベルクに死す。
 画家・版画家。透視図法。ユークリッドを芸術の範とした。画法幾何学の基礎を与えた。その版画メランコリア(1514)の中にヨーロッパで始めて魔方陣が描かれている。角を三等分するよい近似的手続き(1525)。
 デューラーのコンコイド,『測定法教則』(Underweysung der messung,1525) [解I.4, II.3, 文], [幾1,3,4,9,11] トップ


デュリンクス(Michel Durinx). ベルギーの人.evolutionary ecologyの研究.
 オランダ,ライデン大学から,Tom JM Van Doorenの指導で,Life amidst Singularitiesにより 2008年にPh.D.取得.現在(2016),イギリス,デヴォン州のエクセター大学Philosophy of Science, Geometry and Topology, Genetics所属.[率3] トップ


テラー(Edward Teller, 1908.1.15--2003.9.9).
 ハンガリー,ブダペシュトに生まれ,アメリカ,カリフォルニア州スタンフォードに死す.ハンガリー名はテッレル・エデ(Teller Ede)である.
 アメリカ水爆の父.原子核物理学、分子物理学.ヤーン・テラー効果,レナー・テラー効果、BETの吸着等温式,ベータ崩壊におけるガモフ・テラー遷移.   [伝10] トップ

寺尾寿(Terao Hisahi, 安政2年9月25日(1855.11.4)- 1923.8.6(大正12年).
 福岡藩士・寺尾喜平太の長男として、筑前国那珂郡春吉村(現・福岡県福岡市博多区中洲)に生まれる。
 藩校修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に学び、1873年東京外国語学校(現・東京外国語大学)に入学しフランス語を修め、1874年東京開成学校に入学し物理学を専攻、1878年に仏語物理学科を卒業する(第3回卒業生).
 明治10年(1878)東京数学会社発足時の社員.
 1879年、官費留学生を命ぜられフランスに留学。パリ天文台において天文学を研究し、傍らパリ大学で数学と天体力学を修め、フランス文部卿よりリサンシエー・エス・シヤンス・マテマチック(licence es sciences mathematiques)の学位を授与される。その後、1882年のフランス政府によるカリブ海のマルチニーク島における金星太陽面経過観測に参加し、アメリカ合衆国の天文台を巡視して翌1883年に帰国.
 
 帰国後、文部省准奏任御用掛となり、仙台における経緯度測定に従事し日本において初めて子午環を用いた緯度測定を行う。また、東京物理学講習所(現・東京理科大学)の創立者の一人であり、1883年に東京物理学校と改称すると初代校長に就任する。
 東京大学理学部に数学科ができ(1881),1883年に講師を嘱託され,1884年に東京大学理学部星学科教授に就任.1885年に従六位に叙せらる.
 講義の内容は,第一学年への球面星学,第二学年への最小二乗法と確率論.楕円関数やテータ関数の理論を日本で初めて講義.
 1888年東京大学附属東京天文台(現・国立天文台)の初代台長に就任.
 1889年、パリにおける万国測地学協会の総会に委員として出席する。この際、日本にメートル原器を持ち帰る。
 1898年、文部省に測地学委員会が設けられ初代会長となる。その後、帝国学士院会員となり、1908年日本天文学会を創立し初代会長に就任する。
 1915年、60歳になった時に東京帝国大学理科大学教授を退官. 一説には東大教官60歳定年説を唱えて自ら身を引いたとも言われる.
 東京天文台長を退官したのはその4年後の1919年.引退後は静岡県の伊東にある別荘において読書三昧.
 ローマ字推進論者であり、同年1月には、外山正一、矢田部良吉山川健次郎、松井直吉、隈本有尚、北尾次郎とともに、ローマ字を推進する団体として「羅馬字会」を設立する。
 著書の『中等教育算術教科書』(1888) (上)の緒言 10~12頁)に,
 「元来算術は一種の学(サイエンス)なり,世人は之を何と呼ぶとも,決して単に術(アーツ)には非ず. 数学とは量り得べき量の学問の総称なり・・・算術とは数学の一部分にして数の学問なり」
 藤沢利喜太郎は,寺尾の「理論流儀算術」を「数学的特殊主義」と名付けて批判.
 黒田清輝は、1883年に寺尾からフランス語を習い、同年東京外国語学校フランス語科の入学試験に合格してたことから,1909年に、寺尾の東京大学在職25年を祝し肖像画を描く. 弟子に平山信、木村栄、平山清次など.  [文プ] トップ

デリー(Heinrich Doerrie, 1873.12.2-1955). ドイツ,ハノーファーの生まれ.
 ハノーファーのライプニッツ高校卒業後(1895),ゲッティンゲン大学とライプツィヒ大学で,数学、物理、地理学、英語とフランス語を学ぶ.ゲッティンゲン大学からヒルベルトの指導で「類数1の二次体における平方剰余の相互法則(Das quadratische Reciprocitätsgesetz im quadratischen Zahlkörper mit der Classenzahl 1)」により博士号取得(1898).
 ビーデンコプフ高等専門学校 (1904-),ヴィースバーデン (Wiesbaden) の高等専門学校で教師(1908-1942).
 日本語に訳されているのは『数学100の勝利 1-3』(1933)だけだが,Mathematische Miniaturen(1943)も有名.ほかにも著書,教科書多数.  [幾2,7,9,文] トップ

デローネ(Boris Nikolaevich Delone, 1890.3.15-1980.7.17).
 ロシア,サンクト・ペテルブルグの生まれ.
 キエフ大学卒業(1913)後,大学で教える.グラーヴェの弟子で,代数学と数論.1917年の革命後,大学での教育・研究がより応用的なものであることを余儀なくされ,グラーヴェのセミナーは閉鎖された.デローネは代数の研究を続けたかったのでウクライナを離れ,ペトログラードに移る.1924年,町はレニングラードと名前が変り,レニングラード大学に勤務(1922-35).
 1921年にスチェクロフが作った物理数学研究所が,1932年に2つの部門に分かれ,数学部門はヴィノグラードフが主宰し,多くの数学者を集めた.その中にデローネもいた. また戦後(1921)再興されたペトログラード数学物理学会にも参加(1922)活躍する.1934年に,アカデミーの決定で,スチェクロフ数学研究所とレベジェフ物理学研究所に分かれる.デローネはスチェクロフ研究所の代数部門の長をしていたが,1935年にスチェクロフ研究所がモスクワに移動するのに伴いモスクワに移動する.モスクワ大学教授(1935-42).
 代数学,数論,結晶結晶の構造解析.数の幾何(中空の球の方法).数学史,特にソ連数学史.
 ロッククライマーとしても知られており,ソ連のスポーツマスターでもあった(1937).   [代コ] トップ

デーン(Max Wilhelm Dehn, 1878.11.13-1952.6.27).
 ドイツ,ハンブルクに生まれ,アメリカ,ノース・キャロライナ・ブラックマウンテンに死す.
 ヒルベルトの下でゲッティンゲン大学の学位(タイトルは「三角形における角の和に関するルジャンドルの定理Die Legendreschen S\"atze \"uber die Winkelsumme im Dreieck」)を得る(1900).
 フランクフルト大学純粋及び応用数学教授(1921-35).1938年ナチのため職を追われる.1940年,スカンジナビア,ロシア,日本を経てアメリカに移住.多くの大学で教えたが,定職に至らず,1944年からブラックマウンテン・カレッジで教えるようになる.1956年にカレッジが閉鎖されるまで,職にあったプロの数学者は彼一人という劣悪な環境にあった.
 ヒルベルトの公理的幾何学の影響を受け,多面体の合同に関するヒルベルトの第3問題の解決(文献の1,2).また1907年にヒーガードと共に初めての体系的なトポロジーの教科書を書く.それまではトポロジーは位置解析学analysis situsと呼ばれていた.トポロジーに群表示の問題を導入.特に「語の問題」「同形問題」の定式化をした.
 デーン補題,デーン手術,デーンねじり(twist),デーン不変量,デーンの問題,デーンの平面(アルキメデスの公理を満たさない幾何の2例:半ユークリッド幾何,非ルジャンドル幾何),デーンの問題,デーンの問題,デーン=サマヴィル方程式(Duncan MacLaren Young Sommerville(1879-1934)),デーン=ニールセンの定理.
 弟子にマグヌスなど.
文献
  1. 「空間的に同じ多面体について」(Ueber raumgleiche Polyeder) Nachrichten von der Konigl. Gesellschaft der Wissenschaften, Mathematisch-physikalische Klasse (1900), 345-354.
  2. 「体積について」 (Ueber den Rauminhalt), Mathematische Annalen 55 (1902), 465-478.
[天7],[多],[積1],[伝エ],[フ22,23,序,文] トップ



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と 

ドイリンク,マックス・フリードリヒ(Max Friedrich Deuring, 1907.12.9--1984.12.20).
 ゲッティンゲンに生まれ,同地に死す.
 1931年にゲッティンゲン大学から,Arithmetische Theorie der algebraischen Funktionen(代数関数の算術理論)によって博士号取得.指導者はE.ネーター
 マールブルク大学,ハンブルク大学,ゲッティンゲン大学教授.代数学,代数幾何学,整数論.標数pの楕円曲線. 虚数乗法論の代数化と楕円曲線のハッセのζ関数の計算.『代数学』Algebren(1935) は多元環に関する記述が重要.
 ドイリンク・シャファレヴィッチの定理・公式.ドイリング・ヘイルブロンの現象.
 弟子にMax Koecher,Hans-Egon Richertなど. [代コ], [ワ3,9] トップ

トゥー(Loring W.Tu)
ハーヴァード大学からP.A.グリフィスの指導で,「ホッジ構造の変動と局所トレリ問題(Variation of Hodge Structure and the Local Torelli Problem)」によりPh.D.取得.
『微分形式と代数トポロジー(Differential Forms in Algebraic Topology)』(1982,ボットと共著,日本語訳あり).  [ト文] トップ

トゥエ,アクサル(Axel Thue, 1863.2.19-1922.3.7.)
 ノルウェー,チョンスベルグに生まれ,オスロに死す。
 クリスチャニア大学教授.S.リーの弟子.
 整数論.ディオファントス解析.ディオファントス近似におけるトゥエの方法.トゥエ系.1909年の有名な論文で,有理数に近い代数的数が有限個しかないことや,バシェ方程式のような不定方程式には有限個の整数解しかないことを示す.この一般化がトゥエ・ジーゲル(1920)・ロス(1958)の定理.語の同型問題(トゥエの問題).
 ランダウは1922年に,トゥエの定理を
私が知るかぎりもっとも重要な初等整数論の定理
と言っている.  [名3], [天4] トップ


トウェイン,マーク(Mark Twain, 1835.11.30-1910.4.21).アメリカ,ミズーリ州フロリダに生まれ,コネチカット州レディングに死す.
 本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens).『トム・ソーヤーの冒険』などで有名なアメリカの小説家.  警句も多く残し、中には数学関連のものもある.
 「図形は嘘をつかないが,嘘つきは図を描く」
 1906年に,19世紀のイギリスの首相ベンジャミン・ディズレーリが言ったこととして,「嘘には三種類ある:嘘、まっかな嘘、そして統計」という言葉を挙げている.ディズレーリが言ったかどうか定かでないが,マーク・トウェインがこう書いたことによって有名になった.形容詞の原級,比較級,最上級と感じの似た言い回しのため,統計が最上級の嘘というニュアンスで広まってしまった.  [幾2], [50.21] トップ


トゥサン(Gottfried Toussaint.)
  カナダ,モントリオール,マギル大学教授.計算幾何学. [天28] トップ


ドゥ・ラ・ハープ,ピエール(バナッハリー代数とバナッハ・リー群)」により,Ph.D.取得(1972).
ジュネーヴ大学教授.幾何的群論,作用素環.
 叢書Grundlehren der mathematischen Wissenschaftenと雑誌L’Enseignement Mathématiqueの編集.  [幾7] トップ


トゥラーン(P\'ale(Paul) Tur\'an, 1910.8.28-1976.9.26).
 ハンガリー,ブダペストに生まれ,ブダペストに死す. フェイェールのもとで学位をとるが,ユダヤ人であるため職を得ず.1941-1944年にはハンガリーのナチの労働キャンプに収容.1949年からブダペスト大学教授.
 整数論,確率論的整数論(素数分布),複素関数論,特殊関数論,グラフ理論,確率論的群論(エルデシュとの共同研究).
 トゥラーンのグラフ定理,ケヴァリ=ソス=トゥラーンの定理,エルデシュ・トゥラーン予想,トゥラーンの不等式
 [天16,29] トップ

ドゥリーニュ(Pierre Deligne, 1944.10.3-). ベルギー,ブリュッセル,エッターベエクの生れ.ブリュッセル自由大学で学ぶが(1962-1966),1965/1966にはパリのエコール・ノルマル・シュペリオールに滞在.学位の準備はブリュッセル自由大学で行なうが,奨学金を得てフランスのIHESを訪れ,A.グロタンディエクと共同研究.学位はブリュッセル自由大学から(1968年11月). それからIHESの訪問研究員となり,後常任の教授となる(1970-1984).A.グロタンディエクとはザリスキの主定理の一般化,J.P.セールとはモデュラー形式のl進表現とL関数の関数等式,D.マンフォードとは曲線のモデュライ空間について共同研究.1984年にアメリカ,プリンストンの高等研究所教授に.
 1974年にヴェイユ予想(有限体上のリーマン予想)を解いたことにより,ヘルシンキのICMでフィールズ賞受賞(1978).代数幾何と代数的整数論の融合.他にもD.ヒルベルトの第21問題,ホッジ理論,ガロア表現,L級数,ラングランズ予想,代数群の表現など幅広い.  [モ体]  トップ

トゥールネ,ドミニク(Dominique Tournès).
 フランス領レユニオン島,レユニオン大学教授,校長.  [幾7]  トップ

徳川昭武(Tokugawa Akitake, 嘉永6年9月24日(1853.10.26)-明治43年(1910)7.3). 江戸駒込の水戸藩中屋敷に生まれ,東京府向島の小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に死す.
 第9代水戸藩主徳川斉昭の十八男,幼名は余八麿,初名は松平昭徳,字は子明,号は鑾山,諡号は節公.
 第14代将軍徳川家茂の死去に伴い、諱を昭武と改める.慶応2年(1867.1)、清水徳川家を相続し,パリ万国博覧会に実兄・将軍徳川慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられる.
 慶応3年1月(1867.2)に使節団を率いて約50日をかけて渡仏. 使節団の中には補佐・栗本安芸守,会計係・実業家渋沢栄一,随行医・高松凌雲,翻訳方頭取・箕作貞一郎らがいた.
 慶応4年(1868)1月に大政奉還があったことを知り,3月鳥羽・伏見の戦いの報がフランスの新聞に掲載され,随行の栗本らは帰国したが,昭武を含む7人は残留.4月に新政府から帰国要請があるが,慶喜から残留して勉学するようにという手紙が届く.この間,ヨーロッパ各地(英仏独露)の幕府派遣留学生の帰国の面倒をみて,帰国費用を彼の手元金の中から支払っている.この折衝のため,ロンドンにいた中村正直川路太郎はパリを往復している.
 5月15日(8月)新政府よりの帰国命令書が届き、ついに帰国することになるが,長兄の水戸藩主・慶篤の死去の報も届き,次期藩主に指名される.11月3日(12月6日)に神奈川に到着したが,水戸藩では藩士の分裂を抑えられず、弘道館戦争が勃発.翌年には水戸徳川家を相続し、最後の水戸藩主に就く.
 明治2年(1869)版籍奉還により水戸藩知事となるが,明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により藩知事を免ぜられる.明治9年(1876)アメリカ万国博覧会御用掛としてアメリカへ派遣されたり,再度フランスに留学したりしている(-明治14年).  [文2] トップ

徳川家光(Tokugawa Iemitsu, 慶長9年7月17日(1604.8.12)-慶安4年4月20日(1651.6.8)). 幼名は竹千代.江戸幕府3代征夷大将軍(1623-1651).
 幕府の権威と運営形態の確立(老中の月番制など).寛永12年(1635)の武家諸法度の改訂で参勤交代を義務化.貿易統制並びにキリシタン弾圧を強化し、寛永14年(1637)の島原の乱を経て寛永18年(1641)までに鎖国体制を完成.
 学問や文化にとって重要なのは寛永7(1630)年の「寛永異学の禁」で洋書輸入を禁止したことであり,これにより日本は世界の流れから取り残される.以降もキリシタン禁令との関係で,西洋の書籍の漢訳本も輸入ができなくなった.これは中国における漢訳が宣教師が行うか,宣教師の協力で行われたからである.物品はオランダからの輸入があったが知識の流入が極端に狭まったのが問題. [文2] トップ

徳川慶喜(Tokugawa Yoshinobu, 天保8年9月29日(1837.10.28)-大正2年(1913)11.22).
江戸・小石川の水戸藩邸に生まれ,東京,巣鴨に死す.
 水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれ,幼名は松平七郎麻呂,ついで松平昭致(あきむね),弘化4年(1847)9月1日一橋徳川家を継ぐとき一橋慶喜となる.「よしひさ」と読むことも,「けいき」と有職読みされることもある.
 第13代将軍・徳川家定は病弱のため,継嗣問題が起き,一ツ橋派と南紀派が対立,開明派と守旧派という構図になる.阿部正弘,島津斉彬が死ぬとともに南紀派が優勢になり,井伊直弼が大老になって日米修好通商条約を調印,安政の大獄が起こる.
 安政7年(1860)3月3日の桜田門外の変のあと謹慎が解け,島津久光の江戸入りに伴い,将軍後見職に.文久3年(1863),将軍家茂が京都に行くに先駆け,将軍名代として京都へ.以降,いろいろあって15代将軍を継ぎ,大政奉還をし,鳥羽伏見の戦いののち開陽丸で江戸に帰るまで,京都・大阪にあった.
 江戸無血開城にまつわる話は多種多様に語られており,ここで述べることは更にない.
 ただ,将軍になってから,横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行い,老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置し,実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した.大政奉還後も政治を主導するつもりであったらしいが,これらの政策は徳川政権を延命させることはなかったが,以降のために多くの人材が育つ種を蒔いたとは言える.
 維新後,静岡に移る.新政府に従わなかった人材が彼を追って静岡に移り,教育,経済,兵制など,新しい時代が静岡で熟成されたということも言える.しばらくして,すべての人材を新政府に譲り,彼は静かに余生を過ごした.  [文1] トップ

徳川吉宗(Tokugawa Yoshimune, 貞享元年10月21日(1684.11.27)-寛延4年6月20日(1751.7.12)). 紀州和歌山に生まれ,江戸城に死す.
 紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれ,幼名は源六,通称は新之助.松平頼久,越前国葛野藩主になった時に松平頼方と名乗る.
 紀伊国紀州藩主(第5代)になった時に徳川吉宗を名乗る.征夷大将軍(第8代).
 幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、江戸町火消しを設置しての火事対策、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革.江戸幕府,中興の祖と呼ばれる.小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)が少しずつ進み始める.
 享保元年(1716)に将軍になった吉宗は,前年に亡くなっていた渋川春海の弟子の天文方・猪飼豊次郎に貞享暦の遺漏を訊ねたが,明確な返答がなく,そのため建部賢弘に諮問した. 清しんではで西洋天文学を取り入れた時憲暦が使われていることを知り,日本でもキリスト教色を排除した形でそういう暦を作りたかったのである.
 享保5(1720)年、漢訳西洋暦算書の輸入緩和令.これらについて,建部賢弘が科学アタッシェの役割をしたようである.
 享保11(1726)年に舶載された『暦算全書』(雍正2(1724)年版)は新たな歴史を飾るに相応しい一冊となった。この書は中国に来た宣教師の協力で徐光啓が編纂した『崇禎暦書』(1633年刊)により、清の梅文鼎が西洋天文学の知識を取り入れたものである.『暦算全書』の和訳と言っても,当時の知識人には漢文に訓点を打つことが和訳の役割を果たすので,『暦算全書』に訓点を打つことを建部に命じたが,建部は京都の中根元圭を推薦し,江戸に招かれた中根は,天文書などの有用な書に限り洋書の輸入を認めるよう進言したもの.また,60歳だった中根は残りの生涯をかけて『暦算全書』に訓点を施す.
 天文方の西川正休・渋川則休らの手によって改暦の準備が始められ、仙台藩の戸板保佑、新庄藩の安島直円も協力したが,吉宗の急死と幕府の天文方に政治力と歴訪に関する能力がなかったため(実務の戸板や安島の言うことを聞かなかったらしいのだが),朝廷の陰陽頭・土御門泰邦に主導権を奪われた.結果,完成した暦法(宝暦暦)は貞享暦よりも劣ったものとなり,宝暦13年9月1日(1763.10.7)の日食を外した.問題なのは,この日食は麻田剛立を始め,薩摩の磯永周英,土佐の川谷致真,京都の西村遠里,曽我部容所,仙台の戸板保佑,大塚頼充,高橋通三など多くの民間の天文家が予測したことである. 幕府は明和元年(1764)に佐々木文次郎に補暦御用を命じ、明和8年(1771)から修正された暦(修正宝暦暦)が使われたが,付け焼刃で,「中気の無い閏月」が発生してしまうなどの不具合があった.そこで,改暦を麻田剛立に頼んだが,断られ,弟子の高橋至時を登用して,寛政暦(寛政10年1月1日(1798.2.16)-天保14年12月29日(1844.2.17)まで使用)を作ることになる.
 和算家は『暦算全書』に載る三角法を新奇で捷径な計算法として歓迎し、天文・暦学や測量術、航海術に応用するに至った.関孝和の高弟建部賢弘や建部の弟子中根元圭は三角法の有用性に気づき、賞賛した最初の和算家であった。
 また梅穀成(1681-1763)と何国宗(-1766)が編纂した『暦象考成』43巻(雍正元(1723)年刊)も和算家に重大な影響を与えた。『暦象考成』には球面三角法を用いた天文学上の応用問題が多数載せられていた。いま、『暦象考成』に関心を持ちこれの研究に勤しんでいた人物をあげてみると、幕府書物奉行また蘭学者でもあった青木昆陽、暦算家の麻田剛立、幕府天文方の高橋至時、間重富、測量家の伊能忠敬、和算家の安島直円本多利明、坂部廣胖、内田五観、剣持章行、蘭学者の志筑忠雄、陽明学者の山片蟠桃らの名が連なる。さらに、18世紀後半に伝わった戴進賢の『暦象考成後編』(乾隆7(1742)年刊)も重要な役割を演じた。和算家は『暦象考成後編』からケプラーの楕円軌道論を学んだ.  [文2] トップ

ドグル(Filiz Dogru).
 トルコ,アンカラ大学卒,修士はアメリカ,ヴァージニア工科大学とブラウン大学. ペンシルヴァニア州立大学から,タバチニコフの指導で,『双曲平面における多角形外部ビリヤード(Polygonal Outer Billiards in the Hyperbolic Plane)』によりPh.D.取得(2003).
グランドバレー州立大学(ELS)数学科助教授.
 [フ文]  トップ

ドジソン,チャールズ(Charles Lutwidge Dodgson, 1832.1.27--1898.1.14).
  イギリス,チェシャー州ダーズベリに生まれ,イギリス,サリー州ギルフォードに死す.
 作家,数学者,英国教会の聖職者,写真家,芸術家. ルイス・キャロルの筆名で『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』などを書く.
 1846年にラグビー校に入学するも,学校生活になじまず1849年末に退学.父親がオックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジのメンバーだったので,1850年5月にクライスト・チャーチ・カレッジに入学したが,部屋待ちをして,1851年1月に入寮.2日後に母親の死亡により帰郷. 翌年文学士号第1次試験に合格し,特別研究員に指名.最優秀で卒業(1854)後,26年間数学教師として同校に勤務.その後も死ぬまでクライスト・チャーチに居住. 数理論理学,選挙理論,線形代数.
 [率24]  トップ

トス,ガボール(G\'abor T\'oth).
 ハンガリー,エトヴェシュ大学から学士,Ph.D.
 ラトガース大学数理科学教授.
 微分幾何,調和写像と極小埋めこみ,凸幾何,古代エジプト文法.
 『数学名所案内』の著者.
『調和写像と極小写像:幾何と物理への応用(Harmonic and minimal maps: with applications in geometry and physics)』(1984), 『表現論からの調和写像と極小埋め込み(Harmonic maps and minimal immersions through representation theory)』(1990), 『有限メビウス群,球面の極小埋め込み,モデュライ(Finite M\"obius Groups, Minimal Immersions of Spheres, and Moduli)』(2001),  [ブ50], [パ16], [名 23], [黄6], [シ4], [珠文], [微文],[積文], [微基文],[代13, コ] トップ

トドハンター,アイザック(Isaac Todhunter, 1820.11.23-1884.3.1).
 イングランド,東サセックス,ライ(Rye)に生まれ,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
 ロンドン,ユニバーシティ・カレッジの夜学に通い(1826-),ド・モルガンに影響を受ける.1842年にロンドン大学卒業後,ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学(1844),1848年にシニア・ラングラーになる.1849年にフェローになり,カレッジの講師や私的なチューターとしての生活を始める.
 王立協会フェロー(1862),ロンドン数学界会員(1865),王立協会評議員(1871).
 確率論,数学史.
 著書多数.そのうち,微積分(1852),解析的統計(1853),積分法(1857),代数(1858),平面座標幾何(1958),平面三角法(1859),3次元の解析幾何(1873)などは版を重ねている.数学史の本も多く, 日本語の本に『確率論史:パスカルからラプラスの時代までの数学史の一断面』(安藤洋美訳,現代数学社)がある.  [率序,24] トップ

ドストエフスキー(Fedor Mikhajlovich Dostoevskij(Фёдор Михайлович Достоевский, 1821.10.30 - 1881.1.28).  ロシア,モスクワに生まれ,サンクト・ペテルブルグに死す.
 ロシアの小説家で思想家.モスクワの貧民救済病院の医師の次男. 当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教に基づく魂の救済を訴えているとされる。実存主義の先駆者とも.
 第1作『貧しき人々』で批評家ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され,華々しくデビュー(1846).、第2作の『白夜』などは酷評を受ける. その後空想的社会主義サークルに属して逮捕され,死刑判決を受けたが,処刑間際で特赦が与えられ(1849),1854年までシベリアで服役. 刑期終了後、兵士として勤務した後1858年にペテルブルクに帰還.この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へ変わる.
 『死の家の記録』『白痴』『罪と罰』『賭博者』『カラマーゾフの兄弟』などの小説や,ジャーナリストとしての仕事を集めた『作家の日記』も重要. ほとんどあらゆる作品が日本に翻訳されており,彼が日本文学に与えた影響は計り知れない。
 数学との接点はソーニャ・コヴァレフスカヤの初恋(?)の相手ということだけ.  [モ歴],[伝6] トップ

トニョリ(Alberto Tognoli)
イタリア,トレント大学教授.代数幾何,
 『実解析幾何と実代数幾何(Real analytic and algebraic geometry)』(M. Galbiatiと共著,1990).
 M.シャールは5つの与えられた円錐曲線に接する円錐曲線は3264本あることを示した(1864)が,1997年に,ロンガとトニョリとヴュストが,3264本の接円錐曲線のすべてが実曲線であるような,5つの楕円の族を1つ発見した. [フ17] トップ

ド・フォンスネ,ピエール=マリー=フランソア・ダヴィエ(Pierre-Marie-Francois Daviet de Foncenex, 1734-1799.8).
 フランス、トノン(Thonon)の生まれ。
 サルデーニャ海軍司令官、歩兵旅団長、サッサーリ総督。トリノ科学学士院会員。双曲線関数.
 M\'emoire sur les logarithmes des quantit\'es n\'egatives (トリノ,1760), \'Eclaircissements sur les quantit\'es imaginaires (1761), R\'ecit d'une foudre ascendante \'eclat\'ee sur la tour du fanal de Villefranche (1789), Principes fondamentaux sur la m\'ecanique (トリノ,1799).
 複素数の平面表示に反対.  [解I.4, 文], [基1] トップ

ド・ブリュイン(Nicolaas G. de Bruijn, 1918-).
 オランダ,ハーグの生れ.オランダ,デルフト工科大学.エルデシュ数は1. タイル張りで有名. [天8] トップ

ド・ボーヌ,フロリモン(Florimond De Beaune, 1601.10.7-1652.8.18).
 フランス、ブロアに生まれ、ブロアに死す。
 ド・ボーヌが生まれたころのブロアはほとんどフランスの副首都(ロアール河畔)。 ブロアの初審裁判所参与。デカルト『幾何学』への注釈や、デカルトへ提出した問題で知られる。 [解I.2] トップ

トーマス,ロビン(Robin Thomas).
 プラハ・カレル大学からJaroslav Nesetrilの指導で自然科学博士(1985).
 アメリカ,アトランタ,ジョージア工科大学教授.グラフ理論.4色定理の新証明の共著者(ニール・ロバートソン(Neil Robertson),ダニエル・P・サンダースポール・シーモア)の1人.(A new proof of the four-colour theorem,Electron. Res. Announc. Amer. Math. Soc. 2 (1996), 17-25.)   [名19], [天27] トップ

トーマス,トレーシー(Tracy Yerkes Thomas, 1899-1984.3.).
 アーカンサス大学卒.O.ヴェブレンアイゼンハルトの指導で,テンソル幾何の仕事(論文は「道の幾何学(The Geometry of Paths)」)でプリンストン大学Ph.D.(1923).その後3年間フェローをして,プリンストン大学助教授.その後やってきたレフシェッツとうまくいかず,カリフォルニア大学ロサンゼルス校に(1938).インディアナ大学教授退職後,カリフォルニアに戻り,ロサンゼルスで死んだらしい.  微分幾何,リー群論 
『初等的テンソル論(The Elementary Theory of Tensor)』(1931)
 弟子にアレンドルファーやTsuan Wu Tingなど. [ワ8] トップ

トーマッセン(Carsten Thomassen, 1948.8.22-).
 デンマーク,グリントシュテットの生まれ.オールス大学卒(1972).ウォータールー大学で,D.H.ヤンガーの下で学位(1976).デンマーク工科大学教授(1981).グラフ理論.  [天27] トップ

トム,ルネ・フレデリク(Rene Fr\'ed\'eric Thom, 1923.9.2-2002.10.25)
 フランス,ドゥーブ,モンベリアールに生まれ,ビュル・スル・イヴェットに死す.
 エコール・ノルマル卒業(1946).ストラスブール大学教授(1954-1963),IHES教授(1963-1988,以降名誉教授).
 トポロジーで大きな業績,トム空間,トム類,コボルディズム理論,特異点理論,横断性定理などで,フィールズ賞受賞(1958).その後展開したカタストロフ理論の創始者としての方が知られている.  [ト2,7,文], [モト], [フ10,13] トップ

トムセン(Gerhard Thomsen, 1899-1934.)
 ドイツ,ハンブルクに生まれ,ロムストック鉄道で自殺(ナチスの迫害によるものか).
 新生ハンブルク大学第1期生で,1923年に微分幾何でPh.D.取得.カールスルーエとハンブルクで助手をした後,1年間ローマでレヴィ=チヴィタのもとで学ぶ.1929年にロストック大学教授に.W.ブラシケと共同して微分幾何,また,数理物理学,幾何学の基礎.
 ユークリッド空間の運動群が対称変換によって生成されることを用い,ヒルベルトの公理を群論的記法に書き直す(1933). トムセンの方程式.  [天21] トップ

ド・モアヴル,アブラーム(Abraham de Moivre, 1667.5.26-1754.11.27).
 パリ北東部シャンパーニュ,ヴィトリ・ル・フランソアに生まれ、ロンドンに死す。ユグノー派だったためロンドンに亡命(1687)。外国人ゆえ大学に職を得られなかったが、1697年王立協会会員になる。ニュートンライプニッツの先取権争いの判定をする。後、ニュートンと親しくなる。
 スターリングの公式は彼の発見で、スターリングは改良をしただけ、と彼の本に書いてある。
 偶然の書(The Doctrine of Chances: a method of calculating the probabilities of events in play)(1663)はカルダーノのLiber de ludo aleae(サイコロを投げることについて,1560年代)以降に初めて偶然のゲームについて書かれたもの.
 また,カルダーノと同じで、自分の死期を予言した。ある時、睡眠時間が毎晩15秒ずつ伸びていることに気づき、等差数列を計算し、睡眠時間が24時間になるとき死ぬと予言し、まさにそのとき死んだという話が残っている。 [解I.4-5],[フ4],[率は,24],[基11]トップ

朝永振一郎(Tomonaga Shin'ichirō, 1906.3.31-1979.7.8).
  東京府東京市小石川区小日向三軒町に生まれ,東京に死す.
 相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にし,場の量子論を一新.超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明し,量子電磁力学の発展に寄与した功績によって,ファインマンJ.S.シュウィンガーとともにノーベル物理学賞を受賞(1965).
 父の三十郎は京都帝国大学の哲学の教授.京都一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校、京都帝国大学理学部物理学科卒業.湯川秀樹(旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業.湯川と二人で,量子力学を独学する.
 仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員(1931).ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学ぶ.第二次世界大戦中にはマグネトロンや立体回路を研究.東京文理科大学(新制東京教育大学の前身校、現・筑波大学)教授(1941).東京教育大学教授(1949).プリンストン高等研究所に滞在し、量子多体系の研究. 量子電磁力学の発散の困難を解消するためのくりこみ理論を形成(1947).水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算.
 東京教育大学長(1956-1961).日本学術会議会長(1963-1969). [50.17]トップ

ド・モルガン(Augustus De Morgan, 1806.6.27-1871.3.18).
 インド、マドラス統治機構、マドゥラに生まれ、イギリス、ロンドンに死す。
 父の中佐ジョン・ド・モルガンのインド駐在中に、第5子として生まれ、生後すぐに右目の視力を失う。生後7ヶ月で家族と共にイギリスに帰り、10才の時父を失う。体が弱く、学校時代はスポーツの仲間にも入れず、ひどいイジメに遭ったと言う。 16才の時ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学、学士にはなるが、修士になるために要求される神学の試験に強く反発し、修士になれず、そのためフェローになれないので、ケンブリッジを去る。
 1828年、新設のロンドンのユニヴァーシティー・カレッジの数学教授になる。 1831年に辞任し、1836年に再度選ばれ、1866年に再度辞任。辞任の理由は主義の問題だったという。 1866年ロンドン数学会を創立し初代会長になり、同年王立天文学協会のフェローに選ばれる。 しかし、王立協会のフェローになることもエジンバラ大学の名誉学位も拒絶している。
 マクファーレンは次のように語っている。「彼は、自分は、イギリス人でもスコットラント人でもウェールズ人でもアイルランド人でもなく、ブリトン人だと考えていた。肉体的なことの所為もあるが、彼は完全に書斎の人で、観測も実験もしなかった。選挙で投票したことはなく、下院にもロンドン塔にもウェストミンスター寺院にも行ったことがない。」
 頑にしかし、厳しく生きた人生がここにはあるようだ。
 G.ブールとともに論理代数の創始者。数学的帰納法を確立。複素数の幾何的意味つけ、普通の代数以外の代数の可能性、4色問題など。  [解IV.1], [ト附D1], [代19], [天15], [伝3,4,8], [文1], [フ28], [率序,0] トップ

外山正一(Toyama Masakazu, 嘉永元年9月27日(1848.10.23)-明治33年(1900)3.8). 幼名は捨八.号は丶山ちゅざん
同行14人中最年少は12歳の箕作大六.  
 蕃書調所に入学し英学を修め,文久二年(1862)六月句読教授出役,
文久3年(1863)8月、洋書調所を開成所と改称,9月英字教授手伝並出役,英書の素読を講じる.
 文久三年(1863)に,幕府は洋書調所の教授たちに外字新聞の翻訳を命令.訳者には箕作阮甫,川本幸民,杉田玄端,松木弘庵,神田孝平,柳川春三. これが発展して,「会訳社」ができ,「中外新聞」が発刊される(慶應四年二月,柳川春三が主幹). 社員には市川斎宮,加藤弘蔵,堀達之助,黒沢孫四郎,石川長次郎,渡辺一郎,外山捨八など.
 慶応2年(1866)幕府派遣イギリス留学生.当時19歳.
 帰国後明治元年9月静岡学問所三等教授,2年1月一等教授(洋学部長). 3年外務省弁務少記となり,森有礼に随行し渡米.5年依願免官してミシガン大学に入学,哲学・科学を学ぶ.
 9年帰国,東京開成学校教授となり,社会学を講じる. 10年東京大学となって,文学部教授となる.社会学,心理学,哲学,英語を講じ,進化論を鼓吹. 14年文学部長,20年東京学士会院会員,21年文学博士,19年文科大学長,30年東大総長.31年伊藤博文内閣で文部大臣.
 日本語のローマ字化推進のため『羅馬字会』を結成.九代目市川團十郎や依田学海らの演劇改良運動に参加.教育の向上のために,女子教育の充実と公立図書館の整備を訴える.  [文1] トップ

豊臣秀吉(Toyotomi Hideyoshi, 1537.3.17[天文6年2月6日](1536.2.2[天文5年1月1日])-1598.9.18[慶長3年8月18日]). 尾張国愛知郡中村郷に生まれ,伏見城に死す.木下弥右衛門・なか(後,大政所)の長子として生まれる.
 幼名は日吉丸.後,木下藤吉郎(秀吉),羽柴秀吉,藤原秀吉,豊臣秀吉と改名.諸国流浪ののち,今川氏家臣飯尾氏配下の松下之綱(加兵衛)に仕える.しばらくして退転,後天文23年(1554)頃,織田信長に小者として仕える.もろもろのことがあり,中国方面軍司令官になる.織田信長が本能寺の変で明智光秀に倒された後,中国大返しにより,京都山崎で明智軍を撃破.もろもろのことがあり,織田政権の後継者となり,全国を統一する.関白となり,太閤となって,豊太閤が亡くなるときの称号.
 統一政権として,刀狩り,私闘禁止(天下静謐)を指令.太閤検地と同時に日本全国の税制を石高制に統一.数学に関連したものとしては,度量衡の統一,税制,貨幣制度の確立・統一などが重要.
 信長も試みた暦の統一は果たせず,江戸幕府に引き継がれ,その確立のために和算家が尽力.和算の実力が評価されるようになる.  [ふ3], [作2] トップ

ド・ラム,ジョルジュ(Georges-William de Rham, 1903.9.10-1990.10.9.)
 スイス,カントン・ヴォー,ロシュに生まれ,ローザンヌに死す.
 1925年ローザンヌ大学卒業後,1626年からパリ大学やゲッティンゲン大学で学び,1932年パリ大学で学位取得後ローザンヌ大学講師となる.後教授(1943-71),退職後名誉教授. ジュネーブ大学にも職を持つ(1936,教授(1953-1973)).
 トポロジー.ド・ラムの定理は,量子力学の粒子--波動同値性の一種のトポロジー的な形というべきもの. [ト3, 文], [代21, コ], [ワ8]  トップ

鳥居耀蔵(Torii Yozo, 寛政8年11月24日(1796.12.22)-明治6年(1873)10.3). 江戸に生まれ,東京に死す.諱は忠耀ただてる
 父親は大学頭・林述斎(林衡, 1768-1841)の三男として生まれ,文政3年(1820)、25歳の時に鳥居成純の婿養子となって家督を継ぎ、2500石.林述斎は大給おぎゅう松平家,第三代岩村藩主松平乗薀のりもりの三男で松平乗衡のりひらであり,林羅山の血統を引く林家第七代・林信敬(錦峯,1767-1793)の養子となったもの.
 老中・水野忠邦の天保の改革において,目付や南町奉行として市中の取締りを行い,渋川敬直(渋川景佑の嫡男)、後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれる.
 天保9年(1838)、江戸湾測量を巡って江川英龍と対立.この時の遺恨に生来の保守的な思考も加わって洋学者を嫌悪するようになり,翌年の蛮社の獄で渡辺崋山高野長英ら洋学者を弾圧.砲学者・高島秋帆を逮捕させたり,南町奉行矢部定謙を失脚させて後任になったり,市中の取締りの厳しさなど評判は悪い.
 水野が上知令の発布を計画したとき反対派に寝返り,水野を失脚に追い込むが,半年後水野が復帰した時解任され,罪を得て,讃岐丸亀藩主京極高朗に預けられる.明治維新で恩赦を受け,東京に戻る.2年ほど静岡に移住するが,東京に戻り,平穏に死を迎える.  [文2] トップ

トリチェリ,エヴァンジェリスタ(Evangelista Torricelli, 1608.10.15-1647.10.25). 教皇領ロマーニャ,ファエンツァに生まれ,フィレンツェに死す.死因は腸チフス.
 早くして父を亡くし,伯父のカマルドレーゼの修道士がイエズス会コレッジョに入れて,数学と哲学を学ばせる(1624-26). 1627年にローマに送られ,ベネディクト修道士でローマ・ラ・サピエンツァ大学(現在のローマ大学サピエンツァ校)数学教授のベネデット・カステリのもとで科学を学ぶ. ガリレオ・ガリレイの新科学対話を読んで,直後の1632年にガリレオに手紙を書く. 1641年にカステリがトリチェリの著書をアルチェトリのガリレオに送り,ガリレオはトリチェリを招いたが,すぐには行かず,行ったのはガリレオの死の3ヶ月前のことになった. ガリレオの死まで研究をともにした後,トスカーナ大公フェルディナンド2世はガリレオの後を継いで,公国の数学者・哲学者、ピサ大学の数学の教授となることを要請.
 トリチェリの真空(気圧計の発明),トリチェリの法則(ベルヌーイの原理の特殊な場合),トリチェリの方程式,トリチェリのトランペット(=ガブリエルの角笛(Gabriel's Horn)).
 トリチェリ点(=フェルマ点,三角形の3頂点からの距離の和が最小になる点は何かと,トリチェリへの手紙の中で述べたことによる),これをトリチェリの問題ということがある.
 サイクロイドの面積,重心を求める.望遠鏡の設計.
リッチへの手紙の中で
 我々は大気の海の底に沈んで生きている(Noi viviamo sommersi nel fondo d'un pelago d'aria)
と書いている.
 『(De dimensione parabolae)』(1644),『(Trattato del moto)』 (1641年以前),『(Opera geometrica)』(1644)など.  [直3, 文], [パノ], [積8], [微応5], [幾4,7]  トップ

トリブヴァ,スタニスヴァフ・チェスヴァフ(Stanisław Czesław Trybuła, 1932.1.2--2008.1.28)
 ポーランド,ポドラシェ県ラファヴォフカに生まれ,ヴロツヴァフに死す.
 トルン,ニコラウス・コペルニクス大学とヴロツヴァフ大学に学ぶ.シュタインハウスの指導で,ゲーム理論に関して,ヴロツヴァフ大学から修士号取得(1955).1955年ヴロツヴァフ工科大学数学科に勤務.1960年にシュタインハウスの指導で,ミニマックス評価に関してPh.D.取得.1968年から定年(1998)までヴロツヴァフ大学数学・物理・化学に勤務.
 主に確率過程のsequential analysis(あらかじめサンプルの大きさが決まっていない状況での統計解析)を研究.
 ブリッジのWJビッディング・システムの共著者. [率0]  トップ

トール(David Orme Tall, 1941.5.15--) イギリス,ノーサンプトンシャー,ウェリングボローの生まれ.オックスフォード大学ワドハム・カレッジに入学(1960),1963年からM.アティヤの指導を受け,学位論文「群表現のトポロジー」により博士号取得(1966). サセックス大学数学科で教え(1966-1969),ウォーリック大学の数学の講師となる(1669).この時期イアン・スチュアートと数冊の数学の教科書を書く.1979年にコヴェントリー教育大学がウォーリック大学教育学部になるに際し.数学教育研究センターに移籍し,1992年に数学教育の教授となる.
 高木関数を再発見し(1982),ブラマンジェ関数と名づける.
 数学の論文も多いが,数学学習での認知心理学でも博士号取得(1986).   [解III.9, 文] トップ

トルストイ,レフ・ニコラエヴィッチ(Lev Nikolaevich Tolstoj (Лев Николаевич Толстой, 1828.9.9--1910.11.20.).
 モスクワ郊外のヤースナヤ・パリャーナに生まれ,アスタポヴォ駅で死す.伯爵家の4男として生まれ,自身も伯爵.
 カザン大学で法律と東洋言語を学ぶも,大学の教育水準に満足せず帰郷. クリミア戦争に将校として従軍.戦地での体験が彼の平和主義の背景となり,戦争描写の土台となった. 平和主義者として知られる. トルストイはロシアでの無政府主義の展開に影響を与え,インドの新聞に寄稿した「ヒンドゥー人への手紙」はマハトマ・ガンジーに影響を与え,非暴力主義への発展へと繋がった.
 主な作品には,自伝3部作(1852,54,57), 『コサック』(1863),『アンナ・カレーニナ』(1867),『戦争と平和』(1865--69),『イワン・イリイチの死』(1884),『復活』などがあり,ほとんどすべて作品が日本語に翻訳されている. 『復活』(1899)はロシア正教会の教義に触れ、破門の宣告を受け(1901),この措置は大衆の反発を招いたが,現在もこの破門は取り消されていない.
 1910年、末娘アレクサンドラを伴い家出をしたトルストイは,鉄道旅行中悪寒を感じ,アスタポヴォ駅で下車し,1週間後に死去.彼の葬儀には1万人を超える参列者があった.
 管理者はヤースナヤ・パリャーナの彼の家を訪問し,彼の墓を詣でたことがある. 墓標のない平たい土の墓で,森のような木立の中にあった.  [モ歴] トップ

トゥルーディ(Trudi).
 不変式論.ヤコビ・トゥルーディの公式,ヤコビ・トゥルーディの恒等式.
 [ワ7] トップ

ドルド(Albrecht E.Dold, 1928.8.5-).
 ドイツ,トリベルクの生まれ.ハイデルベルク大学卒,博士(1954).ハイデルベルク大学助手(1954-1956),講師(1958-1960),教授(1963-).プリンストン大学高等研究所助手(1956-1958).コロンビア大学教授(1960-62),チューリヒ大学教授(1962-63).IMU副会長(1995-1998).
 代数幾何(ドルド・トムの定理(1958):Sn)の無限対称積の特異複体の極小複体がアイレンベルグ・マクレーン空間K(Z, n)に同型),トポロジー(ドルドの局所ファイバー定理),ホモロジー代数(ドルド・プッペの導関手(1961)).コホモロジー作用素の2つの定義(スティーンロッドの対称群を用いる定義とアイレンベルグマクレーン空間を用いる定義)の関係を明らかにする.
 著書に『代数トポロジー講義』Lectures on algebraic topology, Grundlehren Math. Wiss. 200, Springer-Verlag, Berlin Heidelberg New York(1980).  [代コ] トップ


トルバルセン(Steinar Thorvaldsen).
 ベルゲン大学から情報科学における博士号取得.
 ノルウェー,トロムソ大学教育学部天文学教授.
 ケプラーの天文学の数値解析的研究. [幾5] トップ


ドルビリン(Nikolay Petrovich Dolbilin).
 モスクワ,スチェクロフ研究所で,B.デローネの指導下で学位。スチェクロフ研究所・幾何とトポロジー部門に勤務.敷き詰め問題,離散幾何,多面体,幾何教育.  [モ体] トップ


トルベツコイ(Serge Eugene Troubetzkoy).
 スタンフォード大学からD.S.オルンシュタインの指導で「ホロサイクル流の極不安定性(Extreme Instability of the Horocyclic Flow)」によりPh.D.取得(1987).
 エクス=マルセイユ大学数学科教授.
 エルゴード理論,力学系,次元論,ビリヤード,セル・オートマトン.エルデシュ数は3.  [フ文] トップ

ドレッシャー,メルヴィン(Melvin Dresher (Dreszer), 1911.3.13-1992.1.4).  ポーランド,クラスニスタフに生まれ,アメリカ,カリフォルニア州カーンに死す.
 1923年にアメリカに移住.ペンシルヴァニア州ベスレヘムにあるリーハイ大学卒(1933),イェール大学からオーアの指導で,「多群.群概念の一般化(Multi-Groups. A Generalisation of the Notion of Group)」によりPh.D.取得.
 ミシガン州立大学数学専任講師(1938-1941),第2次大戦中はWar Production Boardで統計家(1941-1944),National Defense Research Committeeで数理物理学者(1944-1946),カトリック大学数学教授(1946-1947),ランド研究所で数学研究者(1948--).
 ゲーム理論,メリル・フラッドとともに,囚人のジレンマとして知られるモデルを提案(1950).著書『戦略ゲームの数学.理論と応用(The Mathematics of Games of Strategy: Theory and Applications)』(1961)は現在も読まれている.
 [率25] トップ

トレルファール(William Threlfall, 1888-1948).
 ドイツ,ハイデルベルクに死す.ドレスデン工業大学の私講師であったとき行ったトポロジーの講義の受講者にザイフェルトがいて,以後死ぬまで友人であり,ザイフェルトが学位論文の準備をする頃からは共同研究者.
 有名で,大きな影響を与えた共著が2つある.1つは『トポロジー講義』Lehrbuch der Topologie(1934)であり,1つは『大域変分法』(1938)である.後者は難解であったモース理論の教科書であり,当時のドイツの政治状況からは危険をともなう,本の題辞にケプラーの「今日,数学の本を書くことは非常に難しい」という引用を置くことを,職を賭して主張した.
 戦後ザイフェルトによりハイデルベルクに招かれ,モースの招きで渡米中(プリンストン)のザイフェルトが帰国後に行おうとしていた共同研究の夢は.彼の死によって絶たれることになる.   [代コ] トップ

トロッター(William T.Trotter Jr.). アリゾナ州立大学.アラバマ大学で,W.グレイの下で学位(1968).アリゾナ州立大学教授.副学長.組合せ論,グラフ理論.特に離散構造の極値問題.離散幾何. [天21] トップ

トロヤーノフ,マーク(Marc Troyanov.). スイス,ローザンヌ大学教授.幾何解析,微分幾何,計量幾何.
 ジュネーヴ大学から,A.ヘフリガーの指導で,「錐特異点を持つリーマン面(Les surfaces riemanniennes à singularités coniques)」により,Ph.D.取得(1987). [幾2] トップ
  
  
  
  
  

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