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aperitif-太宰府の裏山で見たもの
(数学セミナー2002年4月号巻頭言)


  僕の先祖は菅原道真だ、と思うことにしている。根拠と言っても、家紋という僅かな状況証拠があるばかりだが、没後1100年、1世代を30年として約36世代、乱暴に言えば,236=(210)3.6=10243.6,つまり数百億人もの可能な先祖がその時代を生きていたことになる。その中に彼がいたとしても何の不思議もない。
  昨秋、久し振りに九州を訪れる機会があり、大宰府天満宮に遊んだ。不遇で寂しかった彼の晩年とは対照的に、彼の事跡も人となりも知らない多くの人が賑やかに訪れ、門前に列をなす商家の営業を成り立たせていた。怨念の崇り神ゆえに広く鎮魂の社が建てられたはずが、学問の神という名で入学試験のための努力の何割かを肩代わりできるかのような誇大広告が、平和な時代のほとんど唯一の悩みに安らぎを与えていた。
  ある程度の格式の寺社には、奥の院とか奥宮とかいう場所があるものだ。多くは主殿の後背地の山中または山頂にあり、華やかな本殿と合わせて1つの世界を創っている。僕はそういうところが好きで、時間があれば必ず寄るようにしている。この日も雑踏のような天満宮の裏に抜けて、天開稲荷社への道へ掛かるととたんに人気がなくなった。急な道を登りながら、菅公のことを考えていた. 何のために人は,ここに来るのだろうか?
  西洋の学問の神は学問の発展を推進させてくれる神だが,日本の学問の神は御利益のための神である. 好意的に考えれば,学問の場に近づくことを容易にしてくれる御利益ということか. しかしそれよりもっと重要な違いは,国家が学問を支えるのは,学問が「国益」に資すものだという観点なのではないだろうか. 学問自体を大切にする西洋の文化とは 心の向きが違う. 日本では,学問自体に対しても,それ自身の発展というより,それがもたらす利益だけが重要な感じで,教育においてもその姿勢が支配的である. 学問を発展させる人を作ることよりも,現在ある学問から利益を引き出す能力だけ付けばよいというように. しかしそれでは,いつまで経っても本質的な技術立国は望めない.
  たしかに,国民の大多数が学問に従事する必要はない. しかし高校野球・草野球があってこそのプロ野球だし,地域活動を基盤とするJリーグを見ても分かるように,裾野が広がっていないと分野が成り立っていかない。
  数学文化の裾野を広げることのために、日本のほとんど唯一の数学啓蒙ジャーナリズムである本誌の役割は大きい。が、創刊40年を経て、大きな曲がり角にあり,数学マニアやその予備軍のための雑誌としてだけなら、いまや存続問題さえ俎上に上りかねないという。マニアと、数学に多少の関心を持つ層との間には、谷間というか砂漠のような不毛地帯が広がっているようだ。それを埋めようという強い意思がいま必要ではないだろうか。
  先祖の墓参と思って出かけた僕だが、思いがけぬものを見つけた。「道真は野見の宿弥の子孫也」という石碑である。知識としては知っていたが、結び付けて考えたことがなかった。菅公の子孫と主張することは、相撲の開祖の後胤を標榜することでもあったらしい。
 
  参考:2^{36}=687,1947,6736

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