Essay on Math. Educ. and National Framework
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学習指導要領の改訂
神奈川県高等学校教科研究会数学部会通信47号(2000年)



●はじめに
 次期教育課程のカリキュラム編成上の留意点,移行期に関する問題点,学習指導要領(数学)の実施までの留意点や実施に当たる心構えなど,思いの丈を書いてくれという依頼があったのは(1999年)9月のことだった.
 僕が指導要領の策定や実施上の注意などに関わったことがないことは,当然ご承知の上での依頼だと思った.そのような技術的なことなら,神奈川の数学部会はプロの集団だから,付け焼き刃に勉強したとしても気に入って貰えるものがとても書けるものではない.
 大学で教師育成に携わっているとは言っても,個々の指導要領の実施方法を教えるのではなく,教師の生涯に何度となく変わるどんな指導要領に対しても対処できるような数学的能力と教育に対する姿勢や見識を育てようとしているだけだからだ.
 数学者の多くはそのようにこれまでの指導要領の変更に身を処してきた.いや,処してこなかった.それはある意味で,自分自身をも育ててくれた過去の日本の算数・数学教育に信頼を置いていたからだとも言える.
 それが前回の改訂から少し変わってきた.数学者の集団である日本数学会の内部でも指導要領を問題視する声が起きてきた.気がつけば,高校ではもはや数学を教えるのではなく,数学の味つけをした個別の雑学を教えるだけになっている.数学者育成という観点以外には発言がしにくかった数学会も,数学を教えることの意味を世に問う必要を感じたのだ.
 数学会の対応は遅過ぎるものだったと言えるが,この世で起こることに遅過ぎるという言葉を使ってはいけない.その瞬間に自らの立場を失い,明日への視座を見失う.今出来ることは何か,を考えていかなければならない.
 教員養成の学部に長い間勤めて,それでも教員の置かれている劣悪な環境も,その能力や姿勢の深さや広さも見聞きしてきた.学力低下は最近だけの問題ではなく,長い間掛かって徐々にしかも確実に進行している.
 問題は,学力低下を動かせない現実だと見るのか,これまでの政策によってもたらされた結果だと見るのかということである.
 動かせない現実だと見るなら,低下した学力に見合う教授内容に軽減しなければならないという議論になる.
 数学の場合,軽減の仕方も一律では不味いので,現場の裁量に任せることができるようにと,現行のカリキュラムではコア・オプション制が取り入れられた.
 提案された瞬間から,それまで指導要領には見向きもしなかった数学者の間にも喧々囂々の議論と非難が巻き起こった.得意気に自分の功績と吹聴していた作成者の自画自賛を苦々しく思った人は少なくない.
 問題になった点はもちろん,制度の精神そのものではなく,その具体的な振り分けの余りな拙劣さである.学習者が学習困難に感じる部分をオプション部分に回すという,テーマ振り分けの原則が最大の問題だった.
 教育を単なる技術としてしか見ていない,それはむしろ見識の問題でもあったのだ.何のために数学を教えるのかということを一度でも真面目に考えたのなら,数学を愛し,愛する数学を伝えたいと思うのなら,決して思い浮かばない発想である.
 数学の教授に体系性が失われる.数学は,パズルやクイズの回答者に要求されるような個別の知識の集積としては習得できない学問である.現場の裁量に任せられても,教えていないことの上に積めない内容がある.必然的に何冊もの教科書を生徒に持参させ,それらを渡り歩きながらの授業になる.不満が教師の側からも生徒の側からも起きてくる.作成者は現場が作成の意図を消化できないだけだと喚く.
 実は,この指導要領が発表されたとき,実施の前に,高校全体の数学の教科内容をまとめて,その各項目に,教科書のどこが対応しているという注をつけたものを作ったら売れるぞ!と叫んでみたのだが,当時の僕にはそれを実行するだけの時間と気力とコネがなかった.
 売れるか売れないかはどうでも良いが,大学の側としては,大学入学時の学生の学力に極端な凸凹があるのは対処しにくいし,高校で教えることができることを大学でやり直す必要があるというのは時間の無駄以外の何者でもない.もちろん無駄なのは学生にとってである.
 大学入学時の学力の最低と平均は安定したものであって欲しい.できればその水準も低くないものであって欲しい.その意味で,幾つかの分野別に,大学入学時の基礎学力の水準の目安になるようなテキストが必要だと思った.教科書が信頼できない教師のためにも,教師が信用できない生徒のためにも,もちろん,真剣に数学を教えようとする教師のためにも,きっと役に立つだろうと思った.あちらこちらで「作ろう」と言っては見たが,反応がない.
 作っても流布しなければこれは意味がない.その目処が立たないので断念した.

●次期の改訂
 だから,指導要領の改訂は待ちに待たれたものだった.そして,その改訂が改良であることを期待していたし,要領の策定に関わる予定の人たちも熱意と決意を持っていたようである.しかし,その具体的な内容が議論される前から大きな暗雲が教育界全体を覆って来てしまった.週休2日制の完全実施であり,それに伴う授業時間数の削減である.  公教育が国民の権利と義務を果たすためのものである以上,社会的要請による何らかの制約を受けないで済む訳のものではない.しかし,公教育自体の目的と水準をどうするかという議論をする前に,削減だけが決まることになぜ大きな反対が起こらなかったのだろう.
 長い間掛けて,論理に弱い国民を作り上げてきた成果なのかも知れない.数学嫌いや理科嫌いがどうして生まれたか,そしてそれを助長する機構がなぜこんなにも有効に機能したかという議論は今はしない.しないが,それが今の日本の政治・経済の体たらくを生んでいるのは間違いがなようだ.数学的思考の雰囲気がするだけでそういう議論を嫌う.
 数学は,定義と公理と論理手続きを決めたら,後は正しいことは誰にとっても正しく,間違ったことは誰にとっても間違っている.たとえば有力者の子弟だからといって交通違反が見逃されるとか,勉強しなくても入学できるといったことは起こらない.だから詰まらぬと言う人がいる.数学が分かってないとそういう間違いをする.「定義と公理と論理手続きを決めたら」,というこの「たら」が重要なのである.数学をきちんと学んだ人ならすぐにわかる.「そうしなかったら」,また別の世界が広がるのである.
 日本人は兎角,建て前と本音ということを言いたがる.僕でも,建て前と本音を使い分けられない人と深い付き合いをしたいとは思わないが.建て前が多少変わっても,実質が変わらなければ構わないと思う人が多い.「こうは言っていますが,実際はこうなんだから...」という言い訳にあっさりと納得してしまうところがある.総論賛成,各論反対ないし各論抵抗.それで世はこともない,と思っている.
 しかし,時間数削減は大きな公理の変更であったのだ.週休2日制を実施するために,土曜日の4時間分を(高学年だけでも)他の曜日に振り分けることはできなかったのか?
 週4時間分の削減が必要なら,教育システム全体を見直して,教科間でウェイトをつけて,基本的な基礎教科に影響を及ぼさないようにできなかったのか? できた筈である.実際に議論としては聞かなかったわけではない.しかし,いつの間にか「決まったことだから」となり,「決まった以上」となる.いつの間にかである.誰が決めたのだろう?後になって誰に訊いても知らないという.
 そして,(基本的に)各教科一律削減ということになる.教科の数は4より大きく,どうしたって減らし過ぎである.そのため,総合的学習の時間というのが設けられる.小学校や中学校では,国語や算数・数学と同程度の重さで設置される.すべての教科の利益代表を宥める方策として,文部省(?)が選んだ対症療法である.実はこれもまた,失敗したアメリカの教育制度導入でもあった.
 小学校ではすでに生活科の導入もあり,こういうことがどのように教科の学習に影響を及ぼすかという認識があって,取り敢えずにも真剣に対処している.中学校も小学校に近いため,その影響は身に感じており,何とか合科で切り抜けようとしているところが多い.各種教科教育の専門家たちは,この線で切り抜けようとしているようだ.高校にいたっては,まだ大半は対岸の火事だと思っている.しかし,大前提の変更はじわじわと,ボディ・ブローのように効いてくる.
 教科と高校に話を戻すとき,時間数の削減の中で数学は比較的健闘したと言えなくもない.
 大枠としては,すべてを履修すれば,高校卒業時の学問的水準は落としていない.もちろん,「何か減らしたと見えるようにしなければならなかった」ということで,幾つかの項目は削除されていて,思想的には削除に問題の項目があっても,技術的にはちょっととした手間で補充できるようになっている(らしい).それにひきかえ,他の教科,特に隣の教科である理科はかなり厳しい削減状況である(ようだ).
 実は,これまで指導要領の変更にあまり数学者が関心を持ってこなかったことの理由の1つに,小学校の算数の内容が確立していたことがある.長い間掛けて練り上げられてきた教科書は安定しており,「執筆者」が変わっても内容の変化は少なく,比較的高い水準が保たれてきた.
 さらには,教授者の指導法や姿勢や能力がどうであろうと,学習者は内容の大枠は理解し,小学校卒業時に習熟していることは期待できなくても,中学校卒業までには,中学校での学習を通じて自然にある程度は習熟しているものと思われてきた.
 それがある種の神話に過ぎないことは,何年も前から僕が行ってきた調査でも分かっていたが,今年になって「分数を知らない大学生」という衝撃的なタイトルの報告書が評判になったことによって,世の中にも広く知られてしまった.文部省は相変わらず中々「学力低下」を認めようとしないが.
 しかし,これは(戦後の)文部省が一貫して行ってきた政策の必然的な成果である.指導要領,大学入試制度,教員採用システムなど,教育の根幹に関わる問題を,現実の教育のあり方の状況,趨勢,意義などとはまったく別の原理によって,しかも統一された哲学(見識)が窺えないような仕方で変更され続けてきたことの,紛れもないこれが成果である.
 改訂のたび,教育内容の軽減が原理になる.低減と言わずに「軽減」と言うと,問題の深刻さも軽減される気がするのだろうか.この原理を掲げるために,最近では「知識偏重教育のために教育現場が荒廃している」ことを理由にしている.これがまったくの欺瞞であることは,本当なら,「分数を知らない大学生」が一人でもいたら証明されたことになる位のことなのに(我々からみれば,知識をきちんと教えないから教育が荒廃するのだという思いが強い).現実では,どれほど多くの大学生がそうなっているのだろうか.
 分数についてだけ限定してみても,現在採用されていく小学校教師の中で,分数の演算の原理の説明できるものは,1%もいるだろうかというほどなのである.毎年,小学校教師予備軍である学生に,分数の演算についても教えているが,教えるときは最低でも2コマ分の時間が掛かる(1コマは90分).2コマ目の終わりくらいになって,やっと大半の学生の顔つきが理解したという色に変わる.しかし,それ以外の知識の浅さから考えて,またそれ以降に確認した経験から考えて,知識が定着したとは思えない.彼らが実際に教えてみて,そのとき僕の教えたことを覚えていた場合と忘れていた場合の教育効果の差を,彼ら自身が納得して,そうして初めて大学での教育の意義を知ることができる.
 しかし,そのようなことは滅多に起こらないに違いない.本人たちだけの所為ではないが,現実の教師が自分の教育について,静かに思い巡らす時間が与えられていないのだから.
 中学校の改訂は関係があっても,小学校の改訂は自分たちに関係がないと思っている高校教師は多いだろう.確かにこれまでは,小学校の内容の改訂はいわばコップの中の嵐であり,多少のことは中学校でに学習の中で回復されることができただろう.
 恐らくは本誌の中でも,具体的な改訂内容は詳しく述べられていることだろうが,今回の小学校算数の改訂の及ぼす破壊的な影響について,あまり思いが至らないのではないだろうか.
 時間数が減ったので項目数を減らすことになる.実はこれが安易すぎるのだが,そうしないと文部省が認めないという,有形無形の圧力に抵抗することは難しいだろう.それでも,高学年や中学校に移動した項目やまったく削除された項目を少し見ていくだけで,暗澹たる気持ちになってしまう.
 削除された項目に,不等号,4桁(以上)の加法減法,□を用いた式,1/10より小さい位の小数,小数の加法・減法・乗法・除法,種々の単位,メートル法の仕組み,逆数,仮分数(分母より分子が大きい分数),比の値,比例式,反比例,台形と多角形の面積,容積,正多角形,図形の対称,縮図と拡大図,柱体・錐体の表面積・体積,度数分布,起こり得る場合などがある.
 時間数削減のための項目数削減といういうことばかりに気持ちが向かっているのだろう.難しい作業であることが分かるが,小学校算数で何を伝えたいかという視点がまったく感じられない.
 小学校算数は,本質的には数学の現実場面での応用・適用を通じて数学の有効性・普遍性を感じさせる役割がある.個々の知識や技術はそれに役立つように選ばれていた.しかしこの改訂には,算数の教育を単なる点取りゲームの習熟に堕してしまうような危険がある.数の扱いを教えやすく採点しやすい部分だけ残し,量の観点を切り捨てている.数学の有効性の大半がこれで失われている.
 小学校で,1/10の位までの小数しか扱えないというのは,小数を扱わないのと同じである.割ることも掛けることもできない.さらには,整数同士の割算さえ,割り切れる場合以外は扱えなくなる.1/3は0.33333...かとか,0.99999999.......は1なのかどうかという問題を扱わなくてよくなった小学校教師は喜ぶのだろうか? 先生に答えられないことがあって,上級学校で勉強すればわかるだろうという,よいサンプルになっていたのだが.
 しかし,これでは長さを測ることもできない.定規はそれほどに精確なものではないので,児童によってその定規が少し違う.整数値ないし小数点1桁まででぴったりの長さのものを与えたとしても,当然に,ぴったりとなる児童は少ない.最低の目盛りより1桁下の値を読み取るという測定の基本的な技術は失われ,どんなものもぴったりの値でないと気の済まない子ばかりを作ることになる.概数の感覚が育たず,今はこの精度でも,大きくなればもっと詳しく物事を調べることができるという,いわば未来への展望を奪うことになる.
 円周率に3.14が使えない.3.14というのは実に程がよく,3.1415926535...どこまで行ってもきちんと表わせないことへの序章になっていた.円周率が3だとするなら,歴史のページを2000年以上も戻すことになる.円周率だけ例外,とでもするなら,1/10の位までというこの処置も粋な浅葱裏の抵抗ということになるのだが.円周率の問題に限っても,これは深刻である.実はこれを回復する場所がない.中学校で円周率が登場する際には,もうπになる.
 図形領域でも失うのは単なる知識ではなくて,図形というものへの心の傾きのような気がする.統計教材も小学校ばかりでなく,中学校でも高校学校でもほとんどなくなっている.理論と計算だけでなく,数学的対象への手触りが大切なのだが,その部分を奪い去っている.数学と現実世界との関りの非常に大きな部分が失われている.これでは益々,数学は要らないという議論が力を得るのではないかと心配になる.
 ようやく紙数も尽きかけて,高校の数学指導について語っていないではないかというお叱りが聞こえそうである.しかし,今度の改訂での最大の問題点はここにあると思っている.これまで,高等学校の教育は義務教育の延長というより,大学教育の準備段階のように位置づけられていた.ある意味で「分数を知らない大学生」はありえても,「分数を知らない高校生」はあり得ないものだったはずである.それが,これからは変わるのである.
 小学校の算数は,具体的な事柄に注目しつつ,普遍的な世界が存在することをほの見させるということが使命で,それに必要なだけ個別の量を扱うという題材選びがされてきた.しかし,この指導要領で育った生徒は,個別の数学的対象についても中途半端で,普遍性についての感覚がまったく育っていないということにならないだろうか.
 高等学校の出口はこれまでの水準を護ったという,高等学校の指導要領は,教育現場には大きな負担を強いるものになる.これまでのような姿勢で指導要領に対していては,恐らくどんな方法も有効ではないだろう.
 指導要領に対する非難の最大のものは,指導要領が下からの保証になっていなくて,上からの制約になっているという点にあった.しかし,これだけ削減してしまえば,削減の項目を見るにつけ,これが上からの制約であっては教育の自殺行為になる.ある数学会幹部は,文部省の担当者との会談で,指導要領が最低水準を定めるもので,上からの制約を意味するものではないと聞いたと言っている.そうだとすれば,それは非常に本質的な方向転換であって,それが定着するものなら,今回は我慢して,次回に期待することもできる.
 言葉の上では,現場の裁量に任される部分ができた.それを利用することを考えた方がいいかも知れない.高校卒業時までの数学全体の,また自然科学全体のシヴィルミニマムを作成する.それは分野別でもいいし,地域別でもいい.ガチガチのものでなくてもゆったりしたものでもいい.そして,それを有機的に教育する.
 神奈川県出身者は数学的能力が優れている,となってもいいじゃありませんか.今年のサッカーのJリーグのチャンピオンシップが静岡の2チームで争われ,静岡を日本のブラジルということがあるように,静岡には個性的にサッカー選手が多く育っている.自然に育っているというものではなくて,実際には育てているのだ.
 神奈川県の数学の標準能力は高い,と言われるように,スタンダードの私家版の教科書を作ればいい.それが問題なら,教科書と言わなければいい.現場の努力の結晶であり,努力目標なのだということにすればいい.数学の能力はもちろん,大学への入学のコンテストや,何かの検定試験の点数で測られるものではない.世界に対する正しい理解と正しく働きかける技術である.その教授内容のコンセンサスを作り,さらに改訂しつづける作業が必要となる.これこそ,神奈川のような数学部会には相応しい.(数学を)教えるということより数学が好きということを大きな声で表明できる数学教師が,こんなにもいる神奈川のような県では.
 「青はこれを藍より取りて,しかも藍より青し」『荀子』の冒頭の句である.人はもとの素朴な性から抜け出ることもできるが,それは学問と見聞と正しい人に親しむことによって達成されるという.正しい数学の教授法が何なのかそれは常に模索し続けなければならないが,正しくない教授法ならわかる筈だ.そして,たとえ指導要領がどうであれ,正しくない教授法だけはしないようにする.そうすれば,藍から青に変われるかも知れない.

●おわりに
 原稿の依頼から随分と日が経ち,編集の方の気を揉ませてしまったが,忘れていたわけではない.二冊の本の締め切りに追われ,高校の先生と数学者との懇談会である数学教育TFを広島の学会で行い,放置すれば教科教育の壊滅につながりかねない総合的学習の時間の中で如何にして基礎教育を生かしていくかを目指して作った日本総合学習学会の初めての年会を東大で開き,アメリカ数学協会MAAの日本版であるMAJ(日本数学協会)の設立に向けての準備を始め,時間は飛ぶように過ぎていく.その間もずっと気にかけてはいたのだが,実は締め切りを1月遅く思いこんでいた.催促された時にはもう時間がなく,推敲に余り時間が掛けられず,かなり跳ねた文章になってしまった.もしかするとこれが編集の意図だったかも知れないと思いもするので,このまま出してみる.
 藍から青に変わるためには,正しい環境の中に身を置くことを心がけないといけない.そして,ひとりで世界と向かい合う刻を持たないといけない.
 「志は満たすべからず 楽しみは極むべからず」(礼記)という言葉がある.容易に満たされる志を持てば,満たした後の進歩がなくなる.教科内容も完全に理解されることを目標にすれば,満たした後に虚しさが残り,次の学習意欲につながらない.最初学ぶ時は,精々7分目か8分目で十分である.それを完璧なまでに磨き上げて,センター試験に備える.こんなものでも,人は燃え尽きてしまうかも知れない.
 高校生の年齢は,少し前の時代なら既に大人の年齢である.体はそうでも,今は心はまるで幼い.自己責任の念がないからだ.何に対するものでなくてよい,自分自身の人生に対する責任を考えることができるように,教育して欲しいと思う.そして,それに見合うように,数学の教科内容も,自信を持って,責任を持って教えられる内容に.それもそこで閉じたものでなく,より高度な,より広範なものであり,実施の際にはゆったりと,すべての細部をむりやり詰め込むのではなく,生徒の心の中の数学世界がゆるやかに育っていくように.