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『数学の作法』 あとがき




 学習とは,学び習うことであり,真似まねび倣ならうことでもある. 人が他の動物よりすぐれていることがあるとすれば,先人の知恵を学ぶことができるからである.
 しかし,先人はあまりにも多く,中には矛盾する知恵もあれば,重複しつつ,微妙にずれている知恵も少なくない. であれば,選ばねばならない. 知恵を選ぶこともまた大変な作業である.
 先人たちはまた,その選び方もまた知恵として遺してくれている.それが作法である. もちろん作法は絶対ではない. しかし,作法を守れば,何かしら初見の問題にも類推が効く.いわば,鼻が利くようになる. 危険を感じやすくなると言ってもよい.
 残念ながら,作法を学びさえすれば,数学の学習も研究も,順調に,支障なく進むというものではない. 多くの大学で教鞭をとる人々と学生について話し合う機会があり,さまざまなことが話題になった. 学生は作法を知らない,というのが1つの結論で,数学の作法,物理の作法,統計の作法,基本的なことでいいからそういうものを知っていてほしい. ならば,1冊ではなく,そういう作法のシリーズを書くべきではないかということになった.
 このシリーズに過大な期待は抱かないでほしい. シリーズが目的とするのは,読者を各専門分野の入り口に立たせ,そっと肩を押して,門をくぐって中に一歩を進めてもらうことだけである.
 本書(数学篇)の場合,たとえば[5]などのように数学者になるための心得を述べてはいない. あくまで,(自然科学とは限らない)サイエンスを学ぼうする学生に,大学に入るまでに知っていてほしい,数学に関する基本的知識,概念,技能がどういうものであるかを示すだけである. 読者はその内容があまりにも基本的であることに驚くかもしれない.
 学問の門に入り,その後で数学者になりたければなればよい.物理学者になりたければそれもよい. 工学者になるのも経済学者になるのも,それらの科学を現在の社会に適用する実務者になるのもよし,またそれらを教える教育者になるのもいいだろう. 門に入れば,すべてはそれぞれの人の努力と創意工夫に掛かっている.
 著者は子供の頃,作法というものが嫌いだった. 自分を縛るもののように感じていたのだ. すべてを自分で決めたかったからでもあるが,それは理想ではあり,そうできるだけの能力があればそうするのが良いのかもしれない. しかしそれは実用的でなく,実際的でなく,何より不可能である. ニュートンでさえ「巨人の肩に乗って」はじめて遠くが見えると言っているのだ.
 人は知識を蓄え,積み重ね,伝達し,利用する. そうすることで,はじめて人は生物界の頂点にいることができる.
 砂山を駆け上がることは難しい.所々にでも踏みしめることのできる足場が必要である. それが「作法」というものだと言ってよい.
 万人に共通な作法というものはない. 生きていく中で身につけるものである. 身につけた作法が,社会に合えば行き易く,そうでなければ生き難い.
 数学にまつわる作法には,他の分野でよりも比較的標準的なものがあって,それを外すと数学世界の中では行きにくい. しかし,標準的でない,自分独自の作法を作り,それを遵守しながら,数学の世界をみごとに生きている人もいる.
 大切なのは自分の「作法」を作ることだ. うまくいかないことに気がつけば,改めればよい. 本書の中でさまざまな作法にぶつかりながら,自分なりの作法を作り上げてほしい.
 学ぼうとするあなたに,本当に役に立つことが,1つでもあったなら, そして,その作った作法を引っ提げて,学問の入り口まで行ってみてほしい.
 書いてみて気づいたことがある. 教師の側から見た学生の身につけておくべき作法と,実際に学生が身につけておいたほうが良い作法との間には,どこかずれがあるようなのである. だから,本文は質問に答える形式にした. まだまだ答えていない質問がある.それはまた,別の機会ということにさせていただくことにしよう.

2016年5月,桑名にて

蟹江 幸博


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