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『数学の作法』 まえがき




 僕は子供の頃,どちらかといえば無作法な子供だと思われていた. 多分,そう思われていた. 多分,というのは自分ではそうは思っていなかったからだが,親に強情だと言われた覚えはあって,それはある種の無作法をしていたからなのかもしれないと思うことがある.
 日常生活の作法も,学校生活の作法も,まして勉強や数学の作法もあまり気にせずに生きてきた. それでも時々は自分にルールを課して,ストイックに数日や数週間を過ごしたことがある. 数ヶ月というほど続いたという記憶はないが,ある程度は頑張ったことがあるし,なし崩しにルールを破るようになっても,何かしらの成果があったというか,成長というか,少なくとも何かしらの変貌はあったように思う.
 ストイックに生きる自分というものを客観的に見るという経験は,ちょっといい気分なものである. 作法も他から押し付けられるのではなく,自分で立ててみるものなら,悪いものではない.
  だから,「数学の作法」という本を書かなければいけなくなっても,系統だってそういうものを学んだこともないので,そういうものが本当にあるのかということも定かには分からない.  ではなぜ,そういう本を書くのだろうか?  分からない.分からないが,そういうような本があってもよいのではないかと思うことが,このところしばしばある. なければいけないわけではないが, あったほうがいいかもしれないと思うようなことがあるのである.
 そこで改めて,数学の作法はどういうものであり,またあるべきかということを考えてみた. そうして考えてみれば,数学をなぜ学ぶのか,数学を学ぶとはどうすることか,数学とは一体何なのか,そういうことを考えてからでないと答えられないことに気がついた.
 さて,気がつきはしたが,それらのどの問にも答えられない. 僕自身,そういうことを考えて数学をやってきたわけではない. 長い間数学に携わってきて,折にふれて考えることはあったものの,作法というようなものを深く考えたことはない. そういうことを考えるより,数学をやったほうがよいし,実際の教育の場で教え方の工夫をしたほうがよいと思ってきた. だから,教科書を書くようには作法の本を書くことができない. どうすればいいだろうか.
 このジレンマを乗り越えるために(というか乗り越えることができないので),それらの問の周りをぐるぐると回る,つまり,数学や学ぶということを考えることから始めてみることにした.
 これまで数学について多くのことを学んできたし,多くの学生に数学を教えてきた. また,数学以外のことも色々と学んできた. 学生たちや,その他の人々に断片的に訊かれることがある. それらの質問に,言葉足らずながら答えるという形でなら,何とか数学の作法の本が書けるかもしれない.
 人はそれぞれに違う悩みを抱えている. 大上段に,これが作法だと言い切るだけの普遍的なものは知らないが,個々の人が,それぞれの場合に悩むことを,一緒になって考えることならできるかもしれない.
 「数学とはなにか」という疑問に,仮にでも正面から取り組んでおかないと,個々の質問にどう答えたらよいかという覚悟ができないような気がして,少し考えてみた. それを第1章においてある.
 小学校でのことや算数に関係した話題が第2章に,中学・高校で学ぶいろんな場面で起こる問題が第3章に,大学に入る前に大学での心構えを心配するころに出会う問題が第4章にある. 大学に入ると,学校との付き合い方も変わるし,数学の内容が難しくなるだけでなく,数学の見え方も変わってくる. 大人になった(はずな)ので,自分の世界を作らないといけないが,それがどう数学とかかわりあってくるか,そういう問題が第5章にある.
 これらの質問はあえて系統だって並べてはいない. だから,どこから読んでもいいし,どこで止めてもいい. 読者の知識や状況によっては,質問の意味が分からないこともあるだろうし,質問した人の気持ちが分からないこともあるだろう. そういう時は読み飛ばしてほしい.気に入ったところや気になったところがあれば,読みながら考えてみてほしい. 答が気に入らないこともあるだろうし,意味の取れない時もあるだろうが,あまり気にしないでいい.
 問題には人に出会うべき時がある. 読者にとって,その時がまだ来ていないことも,もう過ぎてしまっていることもあるかもしれない.そういう時はその問題にはこだわらず,自分の状況にあった問題を探してみてほしい.
 読者にとっての問題が本書の中に見つからなかったら,奥付にあるアドレスに知らせてほしい. 同じような本を書く機会があれば,そこで答えることにしたい. また,なかなかそのような機会が来なければ,HP の中で答える機会を作ってもいい.
 最後に付録として,予備校の先生が受験生に語るような形で勉強の作法をまとめたもの(実践虎の巻A)を用意した. 人によっては実践虎の巻Aだけが役に立つと思うかもしれない. それはそれでもよいのだが,本文を何度か読み返してもらえば,それがなぜ付録であるかということが分かってもらえるかもしれない. 多くの学生は,大学に入って数学を学ぶ際に初めて外国語を学ぶときのような違和感を感じるようであり, その時の補助になるような,いわば大学数学のための単語帳のようなものとして,実践虎の巻Bをつけてみた. この部分は読者からの要望が多ければ,追加したり変更したりということを増刷や改版の際に考えたいと思っている.

 始める前に本書の読み方について述べておこう.
 第2章から第5章までの本文はいろいろな立場の人からの質問に答える形式になっている. まず回答がある.それは質問の状況に対しての回答である. その後,かなり詳しい解説を付け,最後に作法としてまとめてある. つまり,各質問に対して,回答,解説,作法の3つが付いている. 最初に読むときは,回答だけを読んでいき,気に入ったところや,気になったところのの解説を読み,まとめの作法に対しての当否はあまり気にせず読み通してみてほしい. 数学に慣れていない読者が最初に抱くかもしれない違和感は,おそらくは,本文の回答と作法だけを読み通すころには消えているのではないかと思う.
 さて,本書は作法についての話である. 作法を知らないと数学が分からないというわけではないし,数学が分かっている方にはかえって邪魔なものかもしれない. カントールが言ったように「数学の本質はその自由性にある」のだから,自由に数学を学び,数学を作っていけばよい.
 第1章では「数学」に対して多くの人が持っている誤解について述べるが,この言葉にもそういった誤解が混ざりこんでいる. カントールが言った数学と,本書で作法のことを言っている数学とは同じであるとは言えない. 「数学は1つである」という反論が頭に浮かんだ人に,その「数学」はどっちの数学ですか,それともどちらの数学でもないのですかと訊いてみたくなるが, そうすると,「だから,数学は1つなんだ」と言われそうである. それぞれの人が持っている「数学」に対するイメージには,思いの外の広がりがあると思ってよい.
 著者にもその問いが向けられそうだから答えておこう. 著者も「数学は1つである」と考えている. もちろん,その「数学」がどんな数学なのかが問題で,読者の持っている数学のイメージをそこに代入しても,同じ意味合いは伝わらないかもしれない. ただ,「数学」の話をする人々が持っている数学のイメージがかなり幅広く,取り上げれば正反対というような意見すらあるので,本書の中で扱われる多種多様な「数学」に触れながら,読者自身の数学を形作ってもらえればうれしい.
 数学の正しさの話をするためには,数学について,いろいろな側面から少し話したあとでないとさらなる誤解を生むようなので,質問に答えながら,数学の周りをぐるぐると回り,いろいろな話をしてみることにしよう.
 本書はつまみ読みをしてもよいような形式で書いてあるし,そうされることを想定した書き方をしている. ただ,気をつけないといけないことがある. 一見すると矛盾することが平気で書いてあるのだ. ある場所では作法なんて糞食らえと書いてあるのに,別の場所では作法を守らないなら守らなくてもよいが,守らないためにどんな不利益を蒙ってもよいと覚悟しないといけないと書いてある. 状況によってどう振る舞うべきかについての主張が変わるのは当然なことで,どちらも間違っているわけではない. 修辞上の多少の強調も入っていることでもあるから,矛盾した言い方をそのまま受け取って悩む必要はない.
 大雑把に言えば,作法は尊重すべきものだが,破ったほうがよいと思えば破ればよい.ただ,それは自己責任だよ,ということである.
 守るか破るか,どちらの態度を採るかは,事によって違っていいし,時によって変わってもいい. 頻繁に変わるのは(他人にも自分にも)困るけれど,変わりたくなったら変わればよい.ただ,変わったことで,考えてもいなかった何かが変わるのである. その変わり方を,ちゃんと自分で見ていかなければいけない.
 それでは,始めることとしよう.


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