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大学教育を見通した高校数学教育の問題点
--数学離れと高校数学カリキュラム--


(三重大学教育実践センター紀要18(1998),69-79.)

蟹江幸博(三重大学教育学部数学教室)
黒木哲徳(福井大学教育学部数学教室)



1.はじめに

 大学へ入学してくる学生の学力低下が叫ばれて久しい。 知識の量が少なくなったということもあるが、問題はそれより深刻である。 大学初年級の数学の教育を担当してきて、数学を思考の道具として位置づける視点はもとより、その知識構造の構築すら怪しい状況に遭遇することが珍しいことではなくなった。 入試などで、「・・・ を示せ」式の論証的問題に対して、適当に数値を代入してみて成り立つから正しいといった形の解答は後を絶たない。 最近のレポートでの例だが、cos θ = −1/2 という式を得て、その式から θ を求めるのに、θ =134.3°のように小数点を付した解答が少なからずあった。これには驚いてしまった。 電卓に計算を依存しているということかも知れないが、考え込まされる出来事だった。
 高校における数学教育の議論を一般的に始めるのは困難であるし、同時にそこから直ちに普遍的な結論を導くのも難しい。 まずは,その問題点を抜き出してそれを整理し,議論の方向を絞ることにしよう。 例えば,同じ数学教育を論じるにしても,職業高校か普通高校か,進学か非進学かという違いによっても議論の方向や内容が変わってくる。 また、すでに高校進学率が95%を越えている今日では、その区別は意味がないといった考えもあろう。 しかし,95%の中味はどうだろうか。 職業高校の中には数学だけでなく、教科の授業そのものの成立がほとんど困難である高校を見つけるのは難しいことではない。 そのような高校では,生活指導に時間の多くをとられて,教科のカリキュラムを実施するどころではない状況にある。 これは普通高校の一部にもすでに見られる現象である[1] 。 普通高校では、職業高校と違って進学という目的をはずした場合に当面の教育目標が定めにくいので、もっと始末が悪い。
 本来、教育目標は進学か非進学かに関わらない普遍的内容であるはずだが、現実にはそうはなっていない。 こうした現実を踏まえて問題を整理してこそ、生産的な議論が出来るのである。
 他方,高校間格差という高校教育だけの問題に終わらず、このような学習困難校の生徒たちが進学する大学が存在するという問題もある。 入学願書の代わりに入学許可通知をくれたというほとんどジョークのような現実もある。 それは極端な話だと言われるかもしれないが,大学教育=高度専門教育という図式はもはや通用しないことを意味していると考えた方がよい。 大学という概念が普遍性を失っていると言えるのである。
 従って,高校の数学教育をどうするかという課題は,数学という固有の教科の問題にとどまらず、大学での教育のあり方と不可分であり、いわゆる高等教育全体への見通しがなければ解決の出来ないものとなっている。 今日の数学教育の問題をこのような関係性の中で捉えることが、対症療法的でない方向を模索する上で重要であるという点が、この論説のテーマの1つである。
 とはいえ,その大きな問題を正面から論ずる力量と余裕がいまはない。 ここでは主に福井大学でのデータ[2]〜[4]と三重大学でのデータをもとにして、限られた範囲ではあるが、問題提起とその解決への提言を行う。 そのさい、地方国立大学へ進学してくる学生の実態から数学教育の問題点とあり方を掘り起こして,それをその周縁へと広げるという形で議論することにする。

ここに
  図1. 小学校で一番好きだった科目(工学部)

  図2. 算数・数学の好き嫌い(教育学部)

  図3. 算数・数学の好き嫌い(工学部)

のグラフが入る。

3.大学に進学した高校生の実態からみた問題点

 高校教育を大学教育との関連で考えるならば,まず、大学教育を受ける前提としての基礎知識の履修ということがあげられる。 それは、高度専門教育の場としての大学教育の前提であった筈である。 これまでは、この基礎知識の履修は、議論の暗黙の前提であったと言っていいであろう。 少なくとも、地方国立大学にはそのようなハードルがあったと考えてよい。 定員を越える受験者からの選抜と同時に、この前提のために入学試験が一定の役割を担っていたのである。 しかし,度重なる入試方法の変更によって、この前提はもはや雲散霧消している。 入試に関わる問題点は別のところで詳しく述べた[8]ので多くは触れないが、個別教科に関わっては、数学は徐々にその前提の座から引き摺り下ろされつつある。 そのような状況の中で、入学した学生が数学に対してどのような実態になっているかを考えてみる事は重要であろう。
 以下では,学生が自分たちの受けた数学の教育に関する調査に基づく論文から引用をする。 限られた範囲の実態調査ではあるが,それだけでもかなりな方向性が現れているように見える。
 若干古くなるが、教育学部学生の一部と工学部の再受講専用クラスの学生(=必修単位である数学概論の単位を落とした学生)を対象にしたものである[3]。 このデータから分かること(図1,2,3参照)。
  1. 小・中学校での算数・数学の好悪
     工学部の学生では、小学校での算数,中学校時代の数学は好きであるという 割合が非常に高いということである。嫌いとしたものはわずかに4%〜5%にすぎない。
     それに引きかえ、教育学部の学生は、嫌いとするものが22%に達しており、相当の違いがある。
  2. 高校での算数・数学の好悪
     高校で数学が好きとする層は、工学部と教育学部の差がなくなることが特徴である。
    嫌いの層は、工学部では5倍増えてくる。
 これからの帰結の1つとして、進路の決定に中学時代の数学が何らかの意味を持っていたと考えていいだろう。
 また全体としてみれば、福井大学に入学してくる学生は小・中学校ではかなり数学を得意としていたと考えていいであろう。 ところが,高校になると数学に対する態度は著しく変化してしまうのである。 つまり、「数学嫌い」や「数学離れ」が増えてくるのである。 こうした点では、三重大学でのデータからも同じような傾向が確認される。
 それは何故であろうか?
 数学嫌いになった教育学部学生の言い分をまとめると次のようになる[2] 。(工学部学生もほぼ同じだと推測される。)

(a) 実生活との結びつきがなく,興味が湧かない。
(b) 多くの公式を暗記し,いろんなパターンの問題を暗記しなくてはならない。
(c) 内容が多すぎる。
(d) 授業のスピードが早く,理解が追いつかない。

 学生達は、数学が嫌いになっていく理由を、次のように述べている。

 (1) 数学を学ぶ目的の喪失

 「中学まではまだよかったけど、高校の数学は現実に見ることも触れることもできず、まして実生活に接しているとも役に立っているとも思えないことを理解し計算するとは一体どういうことなのか。」[2]
 「うのみにした定義にもとづいて覚え込んだ公式を当てはめ、問題を解き、答えを書くのがテストでした。」[2]
 「一生懸命応用させようと3年間わけもわからず努力してきたのです。もう、いまさら見たくもありません。」[2]
 特別な学生の言葉ではないかと考えられるかもしれないが、福井大学の教育学部は全国レベルでもかなり偏差値が高い方に属していて、 いわゆる平均より上位にいた学生の思いであるということが問題なのである。

 (2) 「暗記」、「スピード」、「内容量」

 「暗記」は、授業の「スピード」や学習の「内容量」とも不可分に結びついていると考えられる。
 「どちらかというと得意だったということになるだろう。 というのは、テストで高得点をあげることができたからだ。 しかし、真実のところ、私自身は、決して得意な方ではなかった。 テストが配られる前は祈るような気持ちでいた。」[2]
 「私がある問題を解くためには、その例題の解答の出し方を公式のように覚えている必要があったことに他ならない。」[2]
 「たくさんの問題の解答のパターンを覚えていなければならなかった。 そのためには、1つの問題に何時間も何日もかけるなんてことはやっていられない。 わかりそうもない問題はさっさと解説を見た方が賢明ということになる。」[2]

 学生達自身が、中学や高校の時に受けた数学教育について、考えていることから浮かび上がってくる問題点を列挙してみよう。

(1) 数学を学ぶ目的
(2) 教える内容と教え方
(3) 学習内容量
(4) 入試のあり方とその内容
(5) 教師の側の問題意識(教師の数学観)

 (2)を挙げた理由は、目的は教えられる内容と切り離しては考えられない問題であり、教える内容とその方法の問題が検討される必要がある、からである。
 (3)を挙げた理由は、まず、「暗記」や「スピード」を強いている要因として学習内容量があげられることである。 つまり、学習されている内容は、量的に適切なのかという問題である。
 それは、当然、質的な問題と密接な関わりを持つ。 現実の高校生を見ていると、冒頭でも少し触れたように枝葉的技能が多くて、質的な基礎知識が身についていないのではないかと思えるふしがある。 それは、指導の仕方の問題だけではなく、学ぶべき知識や項目が多かったり、脈絡のない羅列になっていたりということはないのか。 その意味で、基礎知識を習得するためのミニマルエッセンスという考え方は必要ないのか。いま一度十分考えてみる価値があろう。
 (4)は、もし今の内容量が適切であるとするなら,「暗記」「スピード」を加速している要因は何かという点にある。それは,やはり今の入試制度にあると考えられる。
 (5)は、教える側には問題はないのか、ということである。

 今、高校教育で起きている数学教育に関わる問題のすべてが、この5点に集約できると考えているわけではなく、検討する出発点として考えているのである。 これらの問題点が、大学に入学してくる学生の知識の構造に何らかの影響を与えていると考えていいだろう。
 また、これらの問題点はそれぞれが独立ではなく、互いに関連しあってはいるが、議論を単純にするため、以下の節ではこれらについて個別な検討を加えていきながら提案をしたいと考える。 ただ、項目(2)の教え方の問題は、個人的な問題が絡み、客観的に議論することが難しいので、今回は立ち入らない。

4.数学を学ぶ目的について

 まず、高校生が数学を学ぶ目的をどのように考えているかについて、以前行った調査結果から述べてみよう(St.P高校はアメリカの高校である。)。 割合の大きいものを3つ挙げると次のようになる(表1参照。[6]から引用)。

(a) 知識や計算技能を身につけるため
(b) 大学の入試に必要だから
(c) 数学的な考え方

St.P高校 普通科理系 同文系I 同文系II 商業高校 合計
数学的な考え方 48 29 15 21 27 140
知識や計算技術 52 38 22 37 39 188
社会で役立つ 28 10 4 3 9 54
面白いから 11 4 2 2 7 26
大学入試 34 39 45 25 29 172
単位取得 13 11 12 29 36 101
その他 9 1 2 3 1 16
表1. 数学を学ぶ目的

 また、どのような数学を学びたいかということについては次のようである(表2参照。[6]から引用)。

(a) 社会に出て役に立つ数学
(b) 知識や計算技能
(c) 数学的考え方

St.P高校 普通科理系 同文系I 同文系II 商業高校 合計
数学的な考え方 34 31 15 9 13 102
知識や計算技術 36 21 13 24 17 111
社会で役立つ 21 33 27 40 23 144
数学史 7 9 9 8 10 43
最近の数学 6 14 2 5 5 32
作る楽しみ 13 23 11 9 15 71
数学とは何か 16 6 4 3 3 32
その他 14 0 3 6 13 36
表2. 学びたい数学の内容

 現在学んでいる目的と学びたいとする内容とでは、「入試対応」と「社会に出て役に立つ」という点で微妙にズレているが、それは予想できる反応でもある。 しかし、入試目的以外の項目で、目的と学びたい内容の要求の高さはほぼ一致している。 このことを、教える側と教わる側が数学学習という営みの中で協力できる、と読むこともできる。
 大学教育の前提としての数学というあり方から考えたとしても、受験という枠組みをはずして成立しうる数学教育とは何かという問題が問われなければならない。 高校教育はそれ自体青年期の教育としての目的を持っており、数学教育のもつ陶冶的性格もその中で論じられることがあるが、今は論じないでおくことにする。
 その場合に、数学アカデミズムから離れて成立するものは何かを考える必要があるのではないだろうか。 つまり、教育に求められているプラグマティックな本質は何かということにだけ注目してみよう。
 大学教育の前提であろうとなかろうと多くの人にとって数学を学ぶ大きな目的はその有用性にあろう。 それは、高校生が一番に意識している「社会に出て役に立つ数学」という考え方である。
 つまり、その有用性の中に

(A) 数学の使用と応用(数学の道具性)

という側面が含まれていることは否定できない。 そのことだけに矮小化することは危険であるが、やはり正しく位置づけられなければならない。 小学校の算数は実生活と非常に密接に関連をもって学習されている。 学習者の意識の中には「実生活に役に立つ算数や数学」というイメージが形成されてきている。 つまり、小学校から中学校と進むにつれて次第に形而上学的になっていく数学に、形而下の認識を深く残しているのである。 このギャップをどう捉えるかは「数学嫌い」や「数学離れ」に連なる問題である。
 さらには、数学は科学の言葉と言われるように、その概念形成手続き並びにその操作性も含めて、社会生活をしていく上での伝達の基礎的技能であり、市民として共有する知識の枠組みとしての役割がある。 この意味で、数学はコミュニケーションの本質的部分であるととらえたCockcroft博士は、そのことをイギリス数学教育改革の中での主要なテーマとした[9]

(B) コミュニケーションとしての数学(数学の社会性)

 黒木はこの改革を紹介した際に賛意を示したが[7]、ここでも第2節での分析をもとにこの立場の意義を強調したい。
 「数学は文化である」という立場から教育の担うべき責務として文化の継承がるという考え方もあるが、生徒たちの立場から見るなら、コミュニケーションという方向性を強調した方がわかりやすい。 それは、教える側から見たときにも重要な具体的方向性ではないかと考える。
 数学がすべての生徒にとって学ぶ価値があるという前提に我々は立っており、思想や哲学を振り回すより、プラグマティズムに徹することにして、 数学を学ぶ目的を大きくこの2つに限定して考えてみてはどうだろうか。

5.適切な内容量とミニマルモデル

 数学という教科で何を教えるべきかというのは結論の出にくい問題であるが、その方向性と目的に沿って、その内容をいかに精選するかということが大切であろう。
 数学の道具性という観点も、それだけを原則にしてしまうことは出来ない。 しかし現在のカリキュラムは、数学としての流れが分断される形で、項目だけの精選というのは問題が多い。
 そこには大学での教育の前提たりうる、共通の基本的な数学の内容が必要なのではないだろうか。 そして、それを構築する際に、数学の目的性が反映される教授法や教材の開発が必要であろう。 そうした議論の前提として、共通の数学の内容である、ミニマル・エッセンスのモデル(ミニマルモデル)を用意しておく必要があるのではないだろうか。
 最近の教科書を見てみると、それ自体既に受験参考書的で、様々な解法のテクニックを指導する方向性の色が濃いものがある。 参考書に至っては、解法のテクニックのオンパレードである。 数学というより、その換骨奪胎という思いがする。 だからこそ、学生達が訴えているように、数学は暗記物で、覚えることの羅列であるように言われてしまうのではないだろうか。 解法を覚えることが全く必要ないと考えてはいないが、様々な解法のテクニックの集積としての参考書(例えばチャート式)が好ましいとは考えにくい。
 と言って、意味を強調した授業をするための時間的余裕は与えられていない。 その意味で、内容を絞って、思い切ってすっきりした内容にする必要があるのかもしれない。
 高校で共通に学ぶミニマルモデルは,1年半から2年位の教程でいいのではないか。 残りの1年半または1年は、「応用数学」「情報数学」や、大学教育の前提としての「代数」「解析」「幾何」をアドバンストコースとして用意し,進学する方向によって選択にするというのも1つの方法であろう。
 一旦ミニマルモデルを決めてしまうと、それだけ教えればよいというように内容の縮小が固定してしまうという心配もあるだろう。 それに対しては、精選は教授する側で出来るようにしておくのも1つの方法であろうが、 教授内容と方法において、ミニマルエッセンスとともにその本質を用いた数学の使用と応用という方向を強調するべきだと考える。
 そのような文脈から言えば、もう一つコース(演習としてもよい)を設けるべきではないだろうか。かって、大学初年度では数学の応用として力学があった。 しかし、高校で力学では難しすぎるだろう。 そこで、高校段階で数学を使用したり応用したりする広い意味での「応用数学」ともいえる流れを用意して、そこで数学を用いた問題解決の方法を学ぶべきだと考える。 あまり深いことはできないが、応用の方法が見えればよい。 そこで学んでいる数学が実際に役に立っている状況を見せるようにすることは可能である。 何のことかわからない「数学的な考え方」や「面白さ」といったもの以外に、実際に役に立っているモデルを作るのである。 これも込めてのミニマルモデル作りである。
 つまり,数学と数学を取り巻く外界とのinteractionを認識する必要性である。
 そのためには、高校において数学の「演習」の時間を確保すべきであろう。 いろんな教科のせめぎ合いの中で、数学の時間が減らされてくる状況も生まれてきているようだが、守りではなくむしろ逆に、内容のともなった時間配当の必要性を説いていくことが必要である。

6.入試のあり方

 入試制度は多くの意見が錯綜する話題であって、また一部の手直しであっても影響する所が少なくない。 利害関係も生じて、一言ずつは発言しても徹底的に論じ難いものである。 ここでは、少し極端と見えるかもしれないが、現行制度の実行可能な修正を、これまでの議論の上に提案してみようと思う。
 まず、これまでのセンター試験は廃止して、代わりの共通テストに移行する。
 競争試験としては使用せず、ミニマルモデルの内容を習得したか否かの資格テストとしてのみ用いる。 ミニマルモデルが1年半の場合は高校2年の3学期から、2年である場合は3年になる前の春休みに、このテストを受験できるようにする。 高校終了までに数回テストを受けて一番いい評価を使えるようにする。
 問題作成と採点はセンターの責任で行い、実施に関しては各高校で行う(もちろん試験日は統一する)。 結果は当該高校にのみ知らせる。他校の成績は一切公表しない。
 評価に関しては、ABCDFのような評価で、Fはfailedだが数回のテストで回復できなければ、各高校でコースワークを課してDと見做す。 大学の数学教育を受ける前提としては、例えばC以上であればクリヤーしたとみなす。 成績表に記載はしてもそれを選抜には用いないことにする。 あくまで到達度的資格試験とするのである。
 大学入試では、アドバンストコースの内容のみについて各大学が記述式で行う。
 また、大学だけは9月入学にすれば、入試によって高校のカリキュラムを歪めることなく、高校3年間を教育に専念できると考えるのは理想主義に過ぎるだろうか。
 飛び入学に関しては言えば、それは高校2年次に特別な才能を評価して、大学入学を許可するということなのだが、ここで敢えて字義通りに、入学を許可するに留めることにしたらどうであろうか。 合格者は、その後入学する時期を2度(3度でも良いが)選べることにするのである。 つまりその時点(2年次終了時点)で入学してもよいが、さらに1年後に入学しても良いことにするのである。 1年延期する利点として、大学の教養がなくなった部分をこの時期に当て、ゆっくりと内容的に高校の教科を勉強することにしてもよいし(この場合は高校卒業の資格が取れる)、または独自の学習や経験に費やしてもよいことにするのである。 自分自身を教育する方法と姿勢を反省して、高等教育を受ける準備とすることが出来る。 もちろんまっしぐらに大学に入って勉強してもよいが、現実的な大学の受け入れ体制を考えると、1年自由な時間を持つ方が遥かに意義があるように思われる。
 飛び級・飛び入学に関しては、蟹江のホームページ[12]の中で議論しているし、また公開討論会のために掲示板も設置してあるので、そちらを参照されたい。

7.教授法と教師の問題意識

 いうまでもなく、数学の目的に照らして、これまでの数学教育への意識を変えなければならないだろう。 ミニマルモデルは、その使用と応用との関わりとして位置づけなければならない。
 一方、アドバンストコースでは、それぞれに筋が通っていることが望ましい。 解析なら微積分で筋を通せば良い。 それらは大学での初年度並びに専門基礎を意識しながら展開する必要がある。 その意味では、大学における教育との摺りあわせが必要となる。
 また、コミュニケーションとしての数学の意味を考えれば、数学文化としての切り込みやロジカルな訓練の部分も必要となろう。
 高校でどのような観点から数学が教えられているかについては一律には言えないことだろうが、第2節で見たように高校において数学離れが加速されている状況を考えれば、やはり受験対策のみでない数学の教授方法が必要となるだろう。
 数学指導の基本的理念として、フィールズ賞を授賞した数学者ルネ・トムの立場が重要だと思われる。

「数学教育の立ち向かわなければならない真の問題は、厳密性の問題ではなく、感覚=意味の構成の問題であり、数学的対象の存在論的正当化の問題である。」[10]
 数学教育に照らしたとき、この意味の構成には2つあると考えている。 それは、内的意味と外的意味である。 内的意味は数学そのものの持つ意味であり、数学の面白さや楽しさにつながり、外的意味は数学の使用や応用にかかわった意味で、数学の有用性につながるものだということである[5]。 これを数学(教育)の両輪であると単純化して考えても大きく誤ってはいないと考える。
 教師の数学に対する意識の問題を考えよう。 以前、黒木は西川とともに、教師の数学観の生徒への影響についての実践研究を行った[6]。 予想されることではあるが、まさに、教師の数学観は生徒の数学への意識を変えていくのである。 また、認知心理学の知見によれば、生徒の持つ信念がその学びに重要な役割を果たしている。 数学に対してポジティブな信念があれば理解を深め、高めることが可能なのである。 数学離れは、まさに数学へのネガティブな信念の結果とも言えよう。 その意味で教師の責任は重い。
 今日、競争原理の浸透している社会的枠組みにあって、数学という教科が、多くの子供達を苦しめる確信犯的立場におかれている。 数学を、(数学教育という観点からだけでなく、)教育本来の流れの中に取り戻すには、形而下から形而上への橋渡しの中で、好ましい数学観を育てることが必要であろう。
 そのためには好ましい数学観を持てる教師を育てることが教員養成学部に課せられた責務と言える。 また、他のどの教育システムもこうした目的を持った教師を養成できる環境にないと思われ、教員養成学部の存在意義と責任は重い。

8.大学初年度の授業のあり方と大学教師の意識の変革

 問題は、大学における初年度級の数学の内容をどうするかである。
 特に、一般教育の改組によって、専門基礎教育の部分がそれぞれの学部なり学科なりの専門として位置づけられたことである。 そのために、それぞれの学科の基礎として相応しい内容であるか否かという観点で、その教育の方法が問われ始めている。 今後それをどう構築していくかという問題がある。 当面の共通的な内容は「微積分」「線形代数」であろうが、この2つの科目に限っても、すでに、理論的なことよりは計算を中心に行っている傾向が見られる[6]。 実際、日本数学会の調査でも、学生は演習中心の授業を望んでいる[11]。 つまり、数学の講義を昔のようなスタイルと内容では展開しにくくなっているということである。
 専門基礎教育の場合は、どの学部かという問題もあるが、やはり、その基本は道具性とコミュニケーションという考え方ではないだろうか。 そのスタンスと意識がなくては今を乗り越えるのは困難である。
 しかし、その一方では、これらが教養教育から外れたことにより、数学文化という観点からは、好ましい状況が起きているとも言える。 数学のいろんな話題を教養教育に持ち込むことが出来るようになったことである。 そこに、高校教育のそれだけではなく、もっと広い立場から数学の有効性や面白さが体感できるものを積極的に導入すべきであろう。 それは文科系、理科系に関係なくである。 つまり、知識構造の枠組みとして、文科系においてすらその重要性を認識できる--いわゆる計算を離れた--数学というものを提示していくチャンスである。 大学進学者が増えるという状況の中で、基礎教育という観点を離れて、数学の持つ意味を豊富に提供出来る絶好のチャンスと考えることができる。 言うならば、大学の教師も自分の数学観が一般の学生にどれくらい受け入れられるかを試す、いや、試される場面に直面しているということでもある。
 そして、このような数学環境から、数学に強い興味を満ち、文科系から理科系にいきたくなったら、転科なり編入なりがしやすくしておくシステムが必要である。 大学への飛び級が実現されようとしているが,いま大切なことはそのような特別なシステムではない。 むしろ,すべての者にとって、やり直しのきく普遍的なシステムが重要なのである。
 高校教育と同じように、大学における数学教育も大きな転換点に立っている。 そしていま、どのような展望を切り開いていくのかが、大学の数学教師にとって、避けることの出来ない課題になっている。

9.まとめ:積み上げ教科としての宿命

 第2節以降、数学に対する好悪の感情が中学と高校の間でかなり質的な変化をしていることに対しての考察と対策を、教育理論的また方法論的に述べてきたが、最後に少し異なる観点からその原因について考えてみることにする。
 蟹江が学生に対して行ったアンケートに端を発した一連の調査[13]〜[16]を思い出してみよう。 最初は、教師となるべき学生が、実際に小・中学校で学んだ筈の数学的内容をどのように感じているかを項目別に尋ねたものである。 分かっているかどうかではなく、分かっていると思っているかどうかを、また一応分かっているのと教えられるほど分かっているのとを区別した形で訊いたものである。 工学部学生にも、高校生にも、現場の小中高校の(数学)教師にも行ってみた。
 詳細は上に挙げた論文を見ていただくことにするが、驚くべき結果が得られた。 小学校算数の諸項目においてすら、他人に教えることが出来るほどに理解していると思っていないという割合が多いのである。 教師の側の問題は今はおくとしても、極言すれば、大半の児童生徒は算数・数学が分かっているという思いを持たないまま進学しているのである。
 小・中学校の教科内容は何とか分かった振りが出来る、つまりある程度の点数を取ることが出来ても、分かっていないことの上に積み上げていく不自然さのため、土台の脆い建築物のように、高校数学に至って欠点が露呈してしまうのではないだろうか。 高校数学は既に、常識としての内容を越え、表現形式に問題はあっても、文化としての深さを持っていて、それまでの教科内容の積み上げがない限り理解できない状況にある。
 小学校算数は特に、教科内容を真に理解することがなくても、常識と生活の知恵からだけでも十分点数が取れていた。
 この状況は、弁慶と牛若丸がお櫃一杯の御飯を糊にする作業をするという寓話を想い起こさせる。 少しずつ丹念に飯粒をつぶしていく牛若丸のスピードは遅いが、大力の弁慶はお櫃全体を大きな杓子でかき混ぜ、あっという間に糊が出来そうになるのだが、いつまで経っても飯粒のままの部分が残ってしまい、結局は牛若丸の方が早い、というより、弁慶はいつまで経っても糊を作ることができなかったというものである。
 小学校算数の時期に、単に才能や常識の豊かさだけで高得点を得ていた児童が、中学でもその余勢だけで、しっかり反省した学習をしないでいると、高校に入って理解できなくなり、理解できなければ嫌いになる。 そういうことが起きていると言える。
 三重大学で行った調査でも、高校時代に数学が嫌いになった学生が理由として挙げたことは、何のためにやるのか分からないし、分からなくなったから嫌いになったというものが大半である。
 こういう認識は良く知られているもので、対処法は結局、「勉強しろ、勉強しろ」の連呼になりやすい。 本論でのいろいろな提案は、単なる生活単元的な興味の引き方だけでなく、数学本来の目的に沿った有用性を思い起こさせることにより、根源的な興味を生徒に喚起するという教授方法や、教科内容の工夫という問題点の強調にあったと言える。

<参考文献>

  1. 第3回TOSMシンポジウム「数学離れ・数学嫌いの克服を目指して」 (1997.8.10 於:福井大学教育学部)西岡孝昭氏(三重県の高校教師)の報告『数学嫌いの現場から』.
  2. 黒木哲徳 『教育学部における「数学」教授の考察と試行』福井大学教育実践研究 1989,第14号,pp.71-86.
  3. 黒木哲徳 『教育学部における「数学」教授の考察と試行(その2)』福井大学教育実践研究 1990,第15号,pp.31-40.
  4. 黒木哲徳 『大学における「数学」講義の改善のための基礎的考察--工学部再受講生の実態調査とその分析--』福井大学教育実践研究 1992,第17号,pp.31-38.
  5. 黒木哲徳・西川満 『数学の特性と数学教育の課題』福井大学教育学部紀要 1994,第 47号 ,pp.53-72.
  6. 西川満・黒木哲徳 『高校数学の方向を求めて−日米の高校生の数学に対する意識の考察から−』福井大学教育実践研究 1993,第18号,pp.195-214.
  7. 黒木哲徳 『イギリスにおける数学教育改革の概要』福井大学教育学部紀要 教育科学 1996,第51号 ,pp.37-51.
  8. 黒木哲徳 『入試制度について考える』福井県高教組・教育研究会議発行「生徒とともに」第17号、巻頭論文(1996),pp.2-7.
  9. W.Cockcroft: Can the Same Mathematical Program be Suitable for All Students? The Journal of Mathematical Behaviour, March 1994, Vol.13, No.1, pp.38-39.
  10. 森毅・斎藤正彦監訳:「何のための数学か」(ジョラン編)の中のルネ・トム著「現代数学と通常の数学」の29p. 東京図書,1974.
  11. 平成8年度文部省科学研究費(A)「大学数学基礎教育の総合的研究」大学における数学基礎教育内容調査報告(西森敏之・成木勇夫・黒木哲徳・川崎徹郎)
  12. 三重大学共通教育機構の中の蟹江ホームページの中にある「飛び級・飛び入学公開討論会」アドレスは http:// www.com.mie-u.ac.jp/kanie/ agora/ (現在はここ
  13. 蟹江幸博 『数学的知識の欠如に関する自己認識の調査』三重大学教育学部紀要、第45巻、教育科学(1994),1-13.
  14. 蟹江幸博 『数学的知識の欠如に関する自己認識の調査II』三重大学教育実践研究指導センター紀要15(1995,Mar),49-57.
  15. 蟹江幸博、黒木哲徳、中馬悟朗 『数学的基礎概念の自己認識に関する調査研究』岐阜大学教育学部研究報告(自然科学)、第20-2巻(1996).
  16. 蟹江幸博、丸林哲也『教師における数学的基礎概念の自己認識の在り方について --三重県の場合--』三重大学教育実践研究指導センター紀要17(1997,Mar),41-51。

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