Essay on Math Education in HighSchool and University TOSM三重ホームアゴラ・クラブ・ベイへ。

高校及び大学初年度級の数学教育について
ワークショップ「高校および大学初年級の数学教育」報告集
東大駒場(1997/Oct.4-5)


黒木哲徳(福井大学教育学部数学教室)
蟹江幸博(三重大学教育学部数学教室)


0.序

 今日高校における数学教育の議論を一般的に始めるのは困難であると同時にそこから直ちに普遍的な結論を導くのもかなり困難である。 従って,まずは,その問題点を抜き出してそれを整理し,議論の方向を絞る必要があろう。 例えば,高校教育と言ったときに,職業高校か普通高校か,進学か非進学かという違いによっても議論の方向や内容が変わってこよう。すでに高校進学率が95%を越えている今日ではその区別は意味がないといった考えもあろう。
 しかし,95%の中味はどうであろうか。今日では職業高校の中には数学のみならず,どの教科においても授業がほとんど成立しないほどの高校を見いだすのは、困難なことではない。 そのような高校では,ほとんどが生活指導に時間をとられて,高校のカリキュラムを実施するどころではない。 そのような現象は普通高校の一部にもすでに見られることである(1)。 普通高校は職業高校と違って、進学という目的をはずした場合に生徒達の意識の中に当面の教育目標が定まらず、もっと始末が悪いことになる。 そのような現実を踏まえない議論は、いくら繰り返しても生産的ではないであろう。
 しかも,それは高校だけの問題に終わない。 このような学習困難校の生徒が進学するような大学が存在するという問題がある。 入学願書を取りに行ったら,名前を書いてくれと言われて,願書の代わりに入学許可通知をくれたというほとんどジョークともとれる現実があるのである。 それは極端な話と言えるのかもしれないが,大学教育=高度専門教育という概念がもはや通用しない、そうなりつつあることを意味している。 もはや,大学という概念すら普遍性を持ちにくい現実があるということである。
 従って,高校の数学教育をどうするかという問題は,数学という固有の教科の問題にとどまらない。 つまり,いま高校教育とは何か,大学教育とは何かいう問題に踏み込まなくては解決の出来ない問題になっている。 そのことが,対症療法的でない結論を得るために、大前提としての視点として必要であることをまず注意しておきたい。
 とはいえ,いまその大きな問題を論じきる力量を持ち合わせていない。 従って,ここでは一つの問題提起として、非常に限られた範囲においての議論を行う。
 つまり,ここでは,地方国立大学へ進学してくる学生の実態から数学教育の問題点とあり方を掘り起こして,それをその周縁へと広げるという議論の方法を採ることにする。

1.大学に進学した高校生の実態について

 大学進学ということに焦点を当てて考えるならば,大学教育を受ける前提として基礎知識の履修というハードルを設けるか否かということである。 少なくともこれまでの地方国立大学にはそのようなハードルがあったと考えてよいであろう。 定員をオーバする受験者の選抜と同時にこのような前提のために入学試験が一定の役割を担っていたことも事実である。
 しかし,改悪とも思える入試のあり方の変更の中で,数学はすでにその前提の座から引き摺り下ろされつつある。 そのような状況の中で入学した学生が数学教育履歴に対してどのような実態になっているかを考えてみる事は重要であると考える。 非常に限られた範囲の実態調査ではあるが,そのことだけでもかなりな参考になる方向が引き出せることをここで述べたい。
 以下は,筆者の一人が学生調査に基づいて書いたいくつかの論文からの引用である(参考文献参照)。
 若干古くなるが教育学部学生と工学部の数学概論で単位を落とした学生(工学部再受講専用クラス)とを対象にしたものである(4)
 それによると(別紙資料),工学部の学生は

 (1)小学校での算数,中学校時代の数学は好きであると割合が非常に高いということである。嫌いとしたものはわずかに4%〜5%にすぎないということである。教育学部のデータではこの割合は22%に達しており相当の違いがある。これは自分の進路選択に数学が優位に働いたと考えていいであろう。

 ところが,高校になるとどうであろうか?

 (2)高校で数学が好きとする層は,工学部も教育学部も差がなくなることである。嫌いの層は,工学部では5倍に増えてくる。

 このように見てくると,本学に入学してくる学生は小学校,中学校ではかなり数学を得意としていた考えてよいであろう。 特に,理系である工学部ではほとんどの学生が中学校までは算数・数学に関してはなんら問題がないのである。ところが,高校になると数学に対する態度は著しく変化してしまうのである。
 それは何故であろうか?
 数学嫌いになった教育学部学生の言い分をまとめると次のようになる(2)。工学部学生対象の詳しい調査はないが,ほぼ同じだと推測される。
  1. 実生活との結びつきがなく,興味が湧かない。
  2. 多くの公式を暗記し,いろんなパターンの問題を暗記しなくてはならない。
  3. 内容が多すぎる。
  4. 授業のスピードが早く,理解が追いつかない。つまり、数学が嫌いになっていく大きな理由としては,
    1. 数学を学ぶ目的の喪失

      「中学まではまだよかったけど、高校の数学は現実に見ることも触れることもできず、まして実生活に接しているとも役に立っているとも思えない事を理解し計算するとは一体どういう事なのか。(中略)うのみにした定義にもとづいて覚え込んだ公式を当てはめ問題を解き、答えを書くのがテストでした。(中略)一生懸命応用させようと3年間わけもわからず努力してきたのです。もう、いまさら見たくもありません。」(2)

       特別な学生の言葉ではないかと考えられるかもしれないが、著者(黒木)の勤務する教育学部は全国レベルでもかなり偏差値が高い方に属している。いわゆる平均的な高校生よりは上位にいた学生の思いである。

    2. 「暗記」「スピード」「内容量」

      「他から見るとどちらかというと得意だったということになるだろう。というのは、テストで高得点をあげることができたからだ。しかし、真実のところ、私自身は、決して得意な方ではなかった。テストが配られる前は祈るような気持ちでいた。(中略)私がある問題を解くためには、その例題の解答の出し方を公式のように覚えている必要があったことに他ならない。(中略)たくさんの問題の解答のパターンを覚えていなければならなかった。そのためには、一つの問題に何時間も何日もかけるなんてことはやってられない。わかりそうもない問題はさっさと解説を方が賢明ということになる。」

       「暗記」「スピード」は多分に「内容量」と不可分に結びついている。
 一方,現実の高校生が「数学を学ぶ目的」をどのように考えているだろうか?その高いものを3つ挙げてみよう(6)
  1. 知識や計算技能を身につけるため(27%)
  2. 大学の入試に必要だから(25%)
  3. 数学的な考え方(20%)
 また、「どんな数学を学びたいか」ということについては次のようである(7)
  1. 社会に出て役に立つ数学(25%)
  2. 知識や計算技能(19%)
  3. 数学的考え方(18%)
 数学を学習する目的は入試のためと考えている生徒は4人に1人位であり、入試以外のことを期待していることがわかる。これは,指導する側にとっては非常に大きな励みである。
 このようなデータから何を検討すべきかということが見えてくる。
 まずは、数学を学ぶ目的の問題である。
   [1]「数学を学ぶ目的」

 つぎに,「暗記」「スピード」の問題である。それは,「内容量」に付随していると考えられる。従って,
   [2]「適切な内容量のミニマルエッセンスとは何か?」

 もし今の内容量が適切であるとするならば,それを「暗記」「スピード」を加速している要因は何かということである。その大きな要因の一つは,やはり入試に突き当たるのではないかと考える。
   [3]「入試のあり方」

 さらに,高校生が望んでいる方向と内容を考えるならば
   [4]「教師の数学観と教授の方法と内容」

 このような問題に帰着されるのではないか?
 以下の章ではこれら4つことについて言及していきたい。

2.数学を学ぶ目的について[1]

 一般的に言って,受験という枠組みをはずしても成立する数学教育の目的が問われる必要がある。大学教育の前提としての数学というあり方から考えたとしても単なる準備教育という枠組みはずして成立しうる数学教育とは何かという問題が問われなければならないだろう?
 ただ、高校教育は数学という教科を含めて総体として青年期の教育としての目的を持っている。従って、軽々しくは論じられないが、教科のもつ陶冶の部分についてはひとまず横に置くことにする。
 その場合に、数学というアカデミズムから離れて考えてみる必要があるのではないかということである。つまり、きわめて大胆に、求められている本質だけに注目しようというわけである。
 その時、子供達に期待意識の中に「計算や技術」とか「社会に出て役に立つ」とかいう数学に対する何らかの有用性を信じて疑わないものがあるということは我々は十分に認識しておく必要がある。つまり,教育という次元でものを考えるとき,数学の有用性は副次的な問題であり取るに足らないものだと言ってしまえるかという事である。このような議論をすると数学者の多くに必ず反発を受けるかも知れない。だが,ここでは,一旦アカデミズムから離れて,ディベート的な論の立て方が必要だと考えている。
 その有用性の中に

     [A] 数学の使用と応用

という側面が含まれることは否定できない。そのことだけに矮小化することは危険であるが,それはやはり正しく位置づけられねばならない。小学校の算数は,実生活と非常に密接に関連をもって学習されてきた。つまり,そこから学習者の意識の中には「実生活に役に立つ算数や数学」というイメージが学習されてきているのである。そのことをきちんと踏まえる必要がある。従って,小学校から中学校と進むに連れて次第に形而上学的になっていく数学に形而下の認識を深く残しているわけである。このギャップの間隙をどのように捉えるのかという問題が,まさに今問われている「数学嫌いや数学離れ」に連なる問題である。それがまさに数学の持つ有用性や道具性の問題をどう考えるかということである。
 さらには、数学は科学の言葉と言われるように、そのシンボル性並びにその操作性も含めてこれからの社会を生きていく上での伝達の手段であり、万人が共有する知識や文化の枠組みとしての役割がある。その意味では、次のように言えよう。

     [B] コミュニケーションとしての数学

(このような考えは,必ずしも筆者のオリジナルな考えではないことを断っておく。すでに,イギリスの数学教育改革でCockcroft博士が到達した立場でもある(8)。)
 「数学は文化である」という立場から教育の担うべき責務としての数学文化の継承という考え方もあろうが,それを生徒達の立場で切り取るならば,コミュニケーションという方向性になるのではないかと考えるからである,それは教える側に立ったときにも非常に重要な視点ではないかと考える。

 数学をそのアカデミズムから切り離したときに,数学の目的をこのような側面で捉えてみることは極めて重要だと考える。
 今,大綱化の中で大学初年度級の教育において,数学が専門基礎という立場での設定で専門科目に位置づけられた。その妥当性はともかくも,いわゆる教養とは切り離して捉えるという立場である。これまでの大学初年度の数学教育のやり方に疑義の念が多く出されている。つまりは,数学者には任せておけないとする立場の攻勢が目立つ。我々は,もう一度,この問題を謙虚に考えてみる必要がある。つまり,数学者や数学本来の立場とはいささか異なっているところからの数学に対する<期待>や<要望>に謙虚に耳を傾ける必要性である。このことが,すでに述べたように大学以前の数学教育のこれまでの在り方のの延長上にある問題でもある。つまり,ここでも数学の持つ二面性が問われているということである。すでに述べたように数学の有用性と数学独自の立場の問題である。そのことを認めて議論を始める必要がある。
 つまり,数学教育の目的を考えるときにその有用性という立場は数学の重要な特性の一つであると考えたい。そのような認識に立って数学教育を捉えてみる必要があると考える。このように考える別の理由もある。それは、数学はすべての子供達や生徒達にとって学ぶ価値があるという立場をとるからである。

3.適切な内容量とミニマルエッセンス[2]

 2で述べた数学の目的を踏まえてその内容をいかに精選するかということが大切であろう。その時に、やはりその目的性にきちんと沿った内容にすべきである。様々な解法のテクニックや例えば某参考書に代表されるチャート式みたいな方向が好ましいとは考えにくい。それが全く不必要であるとは考えないが、最近の教科書を読むとこのような色彩が濃く、参考書に至っては解法のテクニック指導のオンパレードである。その意味では,まさに数学の換骨奪胎の観がある。従って、学生たちが述べているようにやたらと覚えなければならない事の羅列になってしまう。
 その意味で、ミニマルエッセンスは何かを決める必要があろう。そのためには思い切ってすっきりした内容にする必要がある。
 そのミニマリティの設定に際しては,小学校から各学年の到達度もさることながら,3年位の区切りのスパンで達成すべき目標が設定さるべきだと考える。つまり,小学校の内容では大きく2カ所で,中学校では卒業年度位までにという括りの中で到達度が考えらるべきであろう。もっと言えば,子供達の発達にかかわって,3年間かかって修得すればいいという気楽さ(?)が大切である。そのことが可能な内容とは何かという観点からの議論も必要だと考える。
 高校で共通に学ぶミニマルエッセンスは,一年半から二年位でいいのではないかと考える。残りの一年半または一年は、「応用数学」、「情報数学」や大学教育の前提としての「代数」「解析」「幾何」をアドバンストコースとして用意し,進学する方向によって選択にすればよい。
 そして,中学の後半から高校初学年にかけて,そのミニマルエッセンスとともにその本質を用いた数学の使用と応用という切り口からの問題解決に目を向けるべきだと考える。そのような文脈から言えば、もう一つコースまたは演習という時間を設けるべきではないだろうか。かって、大学初年度では数学の応用として力学があった。しかし、力学では難しすぎる。そこで、高校段階で数学を使用したり応用したりする広い意味での「応用数学」ともいえる流れを用意して、そこで数学を用いた問題解決の方法を学ぶべきだと考える。たいしたことはやれないかもしれないが、本来の応用数学と言うよりはミニマルエッセンスと繋がるいわゆる「数学的な考え方」(何のことかわからない言葉で,好きではないが・・・)とか面白さといった位置づけで,例えば組み合わせ数学的な課題でもいいのではないかと考える。いま学んでいる数学はこのように展開されるのだとか,役に立つということを学ばせるべきであろうと考える。つまり,数学とのinteractionの必要性である。

4.試験や入試のあり方について[3]

 これまでのセンターテストは廃止し,それを競争試験としては使用せず、ミニマルエッセンスを習得したか否かの資格テストとして用いる。一年半の場合は,高校2年3学期位からこのテストを受験できるようにする。 2年間の場合は,2年の春休み位から受験できることにする。高校終了までに数回テストを受けて一番いい評価を使えるようにする。
 実施に関しては,問題作成と採点はセンターの責任で行い,実施については各高校で試験日を統一して行う。その結果を各高校に知らせる。例えば、ABCDFのような評価で、Fはfailedだが数回のテストで回復できなければ、各高校でコースワークを課して独自の方法でDと見做す。 つまり,何らかの形でミニマルエッセンスの修得を義務づける。大学での数学教育を受ける前提としては、例えばC以上であれば資格ありとする。 成績表に記載はしてもそれを選抜には用いないことにするが、数学の必要度の違い(学部の違い)によって、B以上という指定の仕方は認める。あくまでミニマルエッセンスは大学入学の資格として位置づける。
 大学入試では、アドバンストコースの内容のみについて各大学が記述式で行う。
(全然関係ないが、大学だけは9月入学にして、入試によって高校のカリキュラムを歪めることなく、3年間が完全に使えることが望ましい。)

5。教授法と教師の問題意識[4]

 言うまでもなく、数学の目的に照らして、これまでの数学教育への意識を変えなければならないだろう。ミニマルエッセンスは、一つはその使用と応用との関わりとして位置づけなければならない。他方では,コミュニケーションとしての数学の立場で,やはり数学文化としての切り込みも必要である。
 これらの二つにかかわる指導の基本的理念としては,ルネ・トムの言うつぎのような立場をとりたい。
「数学教育の立ち向かわなければならない真の問題は、厳密性の問題ではなく、<感覚 =意味>の構成の問題であり、数学的対象の<存在論的正当化>の問題である。・・・数学者の思考は決して形式化された思考ではないからである。数学者はすべての命題に意味を与える。・・・数学おいて形式的に行えるのは数の計算,代数的な計算だけである。ところで,我々は数学を計算に帰すとができるだろうか? 絶対に否である。」(9)
 このトムの考えの前段である。それに依拠して考えるとき,この意味の構成は二つあると考えている。それは、内的意味と外的意味である。内的意味は数学そのものの持つ意味であり,数学の面白さや楽しさにつながり、外的意味は数学の使用や応用にかかわっての意味で,有用性につながるものだと考えている。この二つの意味が数学という車の両輪であると考えたい(5)
 中学校以降の数学教育の中で求められているのは,まさにこの内的意味の掘り起こしであると考える。と同時に,すでに述べてきたように今までは埒外にされてきた面がある外的意味の位置づけも明確にしなければならない。我々は,生徒達の「数学やって何になるの?」という質問に前向な実質的回答を用意しなければならないのである。
 いま,認知科学では生徒の持つ信念の重要性が見なおされている
 我々の小さな試みでは,教師の数学観が生徒達の数学観を変えていく大きな力になりうるとう実践的確信も得ている(西川満の福井大学教育学研究科数学教育専修修士論文)。教える側の信念が,生徒達の信念を形作る上で非常に重要であるということを意味している。
 特に,競争主義の原理が浸透している社会的枠組みにあって,数学という教科がその最たるものとして使用され,多くの子供達を苦しめる確信犯に近い立場にある今日,困難は大きい。しかしながら,数学を本来的な教育の流れの中に取り戻すには,形而下から形而上の橋渡しの中でどのような数学観を持つのかが重要なことだと考える。

6。大学初年度の授業のあり方と大学教官の意識の変革

 問題は、大学における初年度級の数学の内容をどうするかである。
 特に、専門基礎教育の部分がそれぞれの学部なり学科なりの専門として位置づけられたことである。そのために、それぞれの学科の基礎として相応しい内容であるか否かとその教育の方法が問われ始めている。今後それをどう構築していくかという問題がある。当面の共通的な内容は「微積分」「線形代数」であろうが、この二つの科目に限っても、すでに、理論的なことよりは計算を中心に行っている傾向が見られる(10)。実際、学生は演習中心の授業を望んでいる(4)。つまり、数学の講義を昔のようなスタイルと内容では展開しにくくなっていることの現れである。専門基礎教育の場合は、やはり、大学での専門教育へとのつなぐミニマルエッセンスとその使用と応用と考え方が必要になろう。そのスタンスと意識がなくしては今を乗り越えるのは困難である。
 しかし、その一方では、これらが教養教育から外れたことにより、数学のいろんな話題を教養教育に持ち込むことが出来るようになった事である。そこに、高校教育のそれだけではなく、もっと広い立場から数学の有効性や面白さが体感できるものを積極的に導入すべきであろう。それは文科系、理科系に関係なくである。つまり、コミュニケーションとしての数学の面白さや楽しさを体験させうるチャンスの到来でもある。大学進学者が増えるという状況の中で、基礎教育という観点を離れて、大学の初年度に数学の豊富な話題を提供していくまたとない機会である。大学の数学教師も自分の数学観が一般の学生にどれくらい受け入れられるかを試す,いや試される絶好の場面に立たされていると言えよう。
 さらに、これからは,そのようなことを契機に数学をやりたくなったり、文科系から理科系にいきたくなったら、転科なり編入がしやすくしておくシステムが必要である。大学への飛び級が実現されようとしているが,今大切なことはそのような特別なシステムではない。むしろ,すべての者にとってはやり直しのきく普遍的なシステムの重要性であろう。 数学が得意になれなくても劣等感にさいなまされたり,自分は頭が悪いんだと思わされることのないような数学教育の在り方を模索しなけれなならないと考える。それは,小学校から大学に至るまで共通した課題である。

<参考文献>

  1. 第3回TOSMシンポジウム「数学離れ・数学嫌いの克服を目指して」 (1997.8.10 於:福井大学教育学部)西岡孝昭氏(三重県の高校教師)の報告から
  2. 黒木哲徳:教育学部における「数学」教授の考察と試行、福井大学教育実践研究 1989,第14号,pp.71-86.
  3. 同上 :教育学部における「数学」教授の考察と試行(その2)
  4. 同上 :大学における「数学」講義の改善のための基礎的考察、−工学部再受講生の実態調査とその分析−、福井大学教育実践研究 1992,第17号,pp.31-38.
  5. 黒木哲徳・西川満:数学の特性と数学教育の課題、福井大学教育学部紀要 教育科学 1994,第 47号 ,pp.53-72.
  6. 西川満・黒木哲徳:高校数学の方向を求めて−日米の高校生の数学に対する意識の考察から−、福井大学教育実践研究 1993,第18号,pp.195-214.
  7. 水上俊成・黒木哲徳:「中学生と高校生の数学意識調査」の分析と考察、福井大学教育実践研究 1995,第20号,pp.221-236.
  8. 黒木哲徳:イギリスにおける数学教育改革の概要、福井大学教育学部紀要 教育科学 1996,第51号 ,pp.37-51.
  9. 森毅・斎藤正彦監訳:「何のための数学か」(ジョラン編)の中のルネ・トム著「現代数学と通常の数学」の29p, 東京図書,1974.
  10. 平成8年度文部省科学研究費(A)「大学数学基礎教育の総合的研究」、大学における数学基礎教育内容調査報告、(西森敏之・成木勇夫・黒木哲徳・川崎徹郎)

 トップに戻る。