Panel Discussion 1  TOSM三重の広場カニさんの部屋Agora of Crab Bay


公開討論会1(公教育の意味)
−−何で、ボク、学校へ行くの?−−


 以下のパネリストの発言を読んでの意見でもいいし、読まなくて上のテーマだけからの意見でも良い。
公開討論会掲示板

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何故、数学を勉強するの?
公教育の意味
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「何故、数学を勉強しなければいけないのか?」

 そういう質問がいたる所でなされています? 数学嫌いが普遍化してしまったのでしょうか?
 TOSMの月例会でも、 TOSMポストでも、問題になっています。
 すこし難しい数学を講義すると、数学科の学生もそんなことを言います。
 教育学部の小学校課程の学生は数学の講義は卒業までに半期だけ聞けばいいのですが(免許法上はということで、実際にこれ以上開いても学生は聞きにこない)、算数の底に潜む数学的な意味を語ればすぐにそっぽを向いてしまう。
 共通教育での微積分や線形代数の講義はその専門のための基礎科目なのだが、それでも多くの学生は真剣にならない。
 「どうしてこんなことを勉強しなきゃいけないの?」
 答えればいろいろあるのだけれど、じっくり話をする元気が起こらない。実際何度か話したことがあるのだが、話がどうしても長くなる。長くなると、もう聞いてくれない。どうやら、長い話を聞く能力もないようなのだが、勉強することの意味なんか、聞く耳を持っているとは思えない目つきで見る。うんざりだという顔で。
 すると、こっちも嫌になってくる。
 「どうして、君たち生きているの?」
と訊きたくなる。
 訊き方が間違っているとは思わない。でも、“そこを言っちゃあ、おしまいよ”ということだ。せめて、こう訊かなきゃいけないか。
 「どうして大学、入ってきたの?」
 「どうして、高校に行ったの?」
 「どうして、中学に行ったの?」
 「どうして、小学校に行ったの?」
 「どうして、幼稚園に行ったの?」
 ネ、次には
 「どうして、生まれてきたの?」
になっちゃう。
 『産んでくれと、頼んだわけじゃない』
 劇や小説で、何度この台詞を聞いただろう。
 この捨てぜりふの後、論理的に会話を継続させられるものは誰もいない。自分の存在を全否定したものに語るべき言葉はないからだ。
 生まれてきたのは、自分に責任はないが、いま生きていることになら責任はないのだろうか?
 「To Be, Or Not To Be! That is a Question.」

 教育学部の学生には大抵次のように答えている。
 『君たちも何年かたてば、教師になるんだよ。そのとき、生徒から同じことを聞かれる。
 社会に出てから必要だからという答えはほとんど役に立たない。中学なら、例えば、2次方程式の根の公式があるね。あれが社会に出てから必要な人は、国民の何パーセントあると思う?
 だからといって、2次方程式の根の公式を教えなくても良いという議論にするわけにはいかないだろう?
 君たち自身の問題として、なぜ算数・数学を学校で勉強しなければいけないのか、考えてみよう。』

 答えを逃げているわけではない。公教育で何を教えるべきなのかということの議論と、今あるテーマを捉えて教えるべきか否かという議論は、土台の違う議論である。何故それなりに、今の教育課程の中での教授項目がこのようであるかについて、語るとなれば、2時間でも3時間でも、10時間でも語りつくせないほどの内容がある。
 しかしその議論を真に理解するには、その教授項目を理解し、さらに同等である可能性のある他の教授項目についての理解が必要になる。そんな議論に関わるくらいなら、素直に勉強した方が楽なのだが...
 議論の本質を分けておこう。
 まず、何の教育も受けなくて良いのか?子供の立場、親の立場、社会の立場で考えてみよう。
 教育を受けるとして、どんな内容が望ましいのか?
 掲示板で、どのような議論を展開しても構わないが、できれば、上の二つを混同した議論だけは止めてほしい。
 さあ、みんな、語り合おう。

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公教育の意味

 公教育というものが、一つの市民、ないし国民に一様に施されるべきだという考え方は、もちろんそのような政治体制が出来てからしか成立しない。
 フランス革命はさまざまな変化を人類にもたらしたが、これもその一つである。最初に起草されたのはコンドルセ(1743-1794)のもので、1792年4月20日に立法議会に提出された。『公教育の全般的組織に関する報告および法案』
 「公教育は国民に対する社会の義務である」という文で始まるこの法案は、おそらく最も革命的なものであろう。
 ポイントだけを述べよう。
 機会均等。全て無償。男女共学。男女同じ教育。
 教育は知育のみ。公教育で訓育をしてはならない。
「知育とは国家がその授与者であって、真理だけを対象とした教育であり、訓育とは宗教的、政治的意見を対象とする教育」である。[胸のすくようなキッパリとした割り切り方だ。道徳的などという中途半端なものは議論の対象にもなっていない。宗教や政治が即座に戦争・虐殺に結び付いた時代だからかもしれない。]
 「公教育における訓育の実施は、子供の養育指導に関して親が有する自然権を侵犯し、また真理でない不確定な多数の意見のいずれか一つを一方的に神聖化することになるのは自明である。各人の富や職業の相違は、万人共通の訓育の実施を事実上不可能ならしめる。」[日本は非常に均一な社会だから余り問題にされていないが、この言い方によれば、道徳教育の実施はある意味で現代の排仏毀釈であるということが出来ることになる。]  教育は権力から独立であるべきで、教育の行政権は、人民の代表の集まりである議会に属するが、具体的運営は学者によって構成される「国立学士院」に権限を委ねる。
 教育は自由であるべきで、公教育を受けない自由も認めるし、教授者の国家権力からの自由も保障すべきである。

 この案が議会で報告された翌日、オーストリアの挑発によりフランスは宣戦布告をしてしまった。この法案は審議されることなく廃案になってしまった。9月王権は廃止され、共和国が生まれた。政治状況が変わり、この案は採択されなかった。戦争がそのときなかったら、この案が採択された可能性は高く(実行するのに障害が多すぎて、実施されはしなかっただろうが)、そうなっていたら人類の歴史のあり方が変わっていただろうと、きわめて残念な思いがする。

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