Panel Discussion 2  TOSM三重の広場カニさんの部屋Agora of Crab Bay


公開討論会2(飛び級・飛び入学について)


 以下のパネリストの発言を読んでの意見でもいいし、読まなくて上のテーマだけからの意見でも良い。
公開討論会掲示板

に、貴方の意見を書き込んでください。参加自由!!

 数学者の団体である日本数学会でも、 以前から大学における数学基礎教育について、多くの問題があることを認識しており、特にそのためのワーキンググループを作って活動しています。
 文部省に対して一定の意見を言うためにも現実認識が不可欠なため、いろいろな調査活動をしています。その結果は、数学会の会員には「数学」「数学通信」という2つの日本語の会誌で知らされていますが、会員以外の方は 上のワーキンググループのホームページで見ることが出来ます。
 大学の大綱化という名前で進行した大学改革により、すでにいくつかの大学では部分的に大学院大学に移行し、同じ思想のもとで大学院への飛び級・飛び入学が実施されています。
 3年次終了時点で大学修了と同程度の学力を持ち、その分野において特に優れた才能を持つと認められたら(認めるのはその制度を持つ大学院の教官)、自分の大学を中途退学して大学院に入学することになります。
 どんな制度でも良い点と悪い点があるし、実施する場合に制度は理想的な状況で施行されるわけではなく、人が運営するのだということがあります。
 もちろんうまくいけば何も問題がないと思うでしょうが、実際にはなかなかうまくいかないものなのです。何よりも、人は真っ直ぐ、単調に成長するものではないということです。障害にぶつかりながら自分の進む道を修正していくものだし、予期せぬことが起こらない希有な才能の開花の例を僕は知りません。
 希有な才能をどの時点で見つけることが出来るのか、見つけた才能を優遇することで育てられるのか、という点がうまくいくと想定した場合の問題点です。
 うまくいかない場合も考えておかないといけません。
 希有の才能と認定した人の誤りが起こった場合、つまりその時点で多少の閃きや異能を示してもそれが持続しないとか、違った方面への才能を誤認するとかいう場合。
 こういう場合に問題になるのは進路の変更がどれくらい可能なのかということです。大学は退学した、修士の学位も取れない、となったら、この学生は大学入学の資格しかなくなってしまうのです。別の修士に入学するとか、元の大学に戻るとかということが出来ない制度になっています。
 さらに、大学での教育をゆがめる可能性があります。大学での教育をないがしろにして、その特定の試験のために有利になることだけに学生の気持ちが動く。学生間の人間関係に問題が起こるなど。さらには大学を普通には卒業できないような学生が大学院に進学するということが起こる(現に起こってもいる)。
 うたい文句である教育制度の多様化ではなく、才能の促成栽培をしようとしているだけだといわれても仕方がない制度になっています。この点を文部省の担当官に尋ねたある数学者は、「だって先生、こういう希有な人というのは全国、すべての分野にわたっても10人くらいのことじゃないですか。大学教育に何の影響もありませんよ。」という答えを聞いて反論する元気もなくなったといっています。

 さて今やこれが、大学への飛び級・飛び入学が議論されています。特に数学と物理で行いたいという案が浮上しています。
 大学院問題でこりたからというわけではありませんが、数学会はこの問題に対して慎重に対処して欲しいという要望書を平成9年2年18日に中央教育審議会に提出し、そのことは日本経済新聞や朝日新聞の記事になりました。
 しかし中教審は数学会の意見を全く無視し、推進しています。しかも、数学と物理で実施するという。数学と物理は才能が発見しやすいからという理由を付けて。
 信州大学で行われた日本数学会の年会の最終日(平成9年4月4日)にも、この問題について討論会が催されました。予備校の意見、高校教師、高校生の意見も披露されました。少し紹介しましょう。
 千葉大学では受け入れの方向で検討がされているようですが、数学教室は、その種の学生が入学したら、今までのカリキュラムをは別建てで一貫した英才教育をしたい。その用意がされるなら引き受けてもよいし、やる気もあるという態度だったようですが、文部省は大幅な定員増は認めない、どころか大学全体でこの件に関しては1人だけということになっているようで、数学教室としては慎重になっているとのことです。最大の推進派である学長は、教室としての受け入れが困難と見て、個人的に協力してくれるようにという策に出ているようで、むしろ工学部の方に受け入れを表明している人が出ているということでした。
 早いうちから才能が分かり易いという点についてですが、これもあまり賛成する人はいませんでした。何をもって才能を発見しようとするのかという点です。
 「試験で百点をとり続けたらそれで、才能だというのですか?そんなことでいいのならここにいる人はほとんどそうだったことになるじゃありませんか。数学のテストが出来るだけの秀才を選んでも仕方がないでしょう。」という趣旨の発言をする人がいました。
 雰囲気としては、みなそうだと思っています。自分たちの多くが、こうした制度があったら、飛び入学できたであろうと思っている人たちの討論会だということを注意してください。たとえ出来たとしても、それを選ばないほうがいいと、ほとんどの人は思っているのです。もちろん若かったときに選択を迫られたら飛び入学を選んだかもしれないとも思っていますし、そうしていたらより良かったかどうか、今となってみれば、それは非常に危険な賭けだっただろうと感じているのです。
 当時すでにアメリカでは行われていたし、ノーバート・ウィーナーという数学者(サイバネティックスで有名)はその代表的人物で、その自伝も広く読まれています。そこで、彼はこの件に関して自慢しつつも、もしかしたら間違いの選択だったかもしれないと思わせる記述が多いのです。個人的には、周りより常に優れていなければならないという強迫観念が辛そうです。人間関係が円滑にいきにくく、成功している割りに幸せと感じる度合いが低いようです。
 彼の場合、飛び級を繰り返したのですが、そうしなかった方がかえってスケールの大きな仕事が出来ただろうという観測もあれば、そうだったからこそエネルギッシュに仕事が出来たのだという人もいます。歴史に if はつきものですが、人間の成長を極端に偏った形で行うと、必ずあとでひずみが来るものです。
 しかし言いかえれば、ひずみが来ない程度ならいいわけで、それがどの程度なのかが問題です。参加者の中には外国で暮らしたことのある人が多く、現実にそういう例をみているのですが、中には成功したといえる例もあるのですが、大抵は失敗していると思われるというのが実感なようです。
 「成功する例があるなら、失敗例が多くても、数学にとってはいいことだと」、数学者は考えるだろうと、数学者以外の方は思われるようで、数学会が慎重論を唱えることを不審に思う人も多いようですが、実例を多く知るがゆえに賛成し兼ねるわけです。
 千葉大の場合賛成している数学者がいるのはおそらく別の理由なのではないでしょうか。近年、特に中等教育の内容の質が落ちていて、大学に受け入れる学生の知識のなさ、基本的技術のなさ、見識のなさ、意欲のなさが大学共通の悩みになっています。それを補うにも、政策上、大学の予算も(物価に関して相対的に)非常に少なくなっているし、人員も削減されているという状況では、十分な手当てが出来ないでいます。千葉大の人たちは、大学の数学教育の再生を、この際狙ったのではないでしょうか。そして、ある意味で当然のことながら文部省に認められなかったということでしょう。
 個人的な意見をいえば、飛び入学に反対ではありません。そういう制度があれば良いのにと、子どもの頃に思ったこともあります。しかし、今の学校制度のままそれを行うことには多くの問題があります。一番問題なのは、制度を作ったときそれが正しく運用されるかということです。
 中教審のトップは数学者でなく、高校生の頃に数学の才能が見分けやすいというのはどんな見識でなのか、理解しにくいものがあります。数学者のほとんどは高校生の頃、教師よりも数学が出来ただろうし、振り返ってみればそのころから数学が出来たのだということは出来ます。しかし、そのころ同じような成績だった友人たちが皆数学者になっているわけではありません。近ごろは数学なんか見たことがないというような友人も多いのです。
 それは当たり前だという反論が聞こえてきそうです。そう、当たり前なのです。だから高校2年の時点で、しかも実施するとなれば高校2年の秋くらいの時点で、そのころ多少数学が出来るからといって、数学者養成のメカニズムに組み込むことが果たして良いことなのだろうかといっているのです。
 確かに、小数の成功例は出るでしょうが、多くは失敗するのです。その失敗する人たちの多くは通常の制度で教育していれば、かなりの成功を収める才能を持っているのです。これこそ才能の無駄使いではないでしょうか?
 失敗するとは限らないじゃないかという人のために、推薦入学の話をしましょう。入試制度の多様化のうたい文句で、推薦入学が実施されるようになり、かなりな年月がたっています。分野によって推薦入試の判定の基準はさまざまですが、数学に関係する所では、本質的には数学の能力だけしか測っていません。ある大学の調査では4年間で普通に卒業できたのが3分1程度で、残りは留年しているというのです。理由はやはり、偏った知識にあるようです。通常と違う能力を見て入学させたのですから、大学内でも違う体制で教育する必要があるのだが、人と予算の面でそれが実現されていないから起こる矛盾だといえます。
 去年の夏のある大学の公開講座で高校生にこの話をしたら、これからは数学と物理だけ勉強してればいいんだと喜んだと言います。普通に教育を受けながらある分野に特に秀でるのなら問題は起こらないが、ある分野だけしか勉強しない場合には問題が起こりやすいのではないだろうか。
 大学に入ってから、興味が変わるとか、才能が伸び悩ぶことも少ないとは思えないし、そんなときに、別の学部に移れるとか、せめて元の高校に戻れるとかが出来ればよいのだが。そういう制度的な整備はきわめて難しい。
 さて、皆さんのご意見をふるって掲示板にお寄せください。
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