HitoriGatari



一人語り    つれづれなるままに



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佐波学君を悼んで(2020.7.10)

 2020年3月5日佐波学君が死んだ.8日に告別式があったので,実家のある松阪の葬儀場に出かけたが,その地の習慣らしく,既に火葬が済んでいて,棺の中の彼に別れを告げることもできなかった.そのようなことなすべて,生きている側のためであって,死んでしまった彼には何のこともない.
 彼の死を知らされたのは6日のことで,彼の弟さんからの電話だった.死に目に会えなかったのは家族も同じだったようだが,孤独死したわけではない.
 コロナの流行もあり,体調も悪かったらしく,数日前から学校を休んでいたという.鳥羽商船の同僚が見舞いに行っていたそうである.なぜか具合が悪そうに見えたので,救急車を呼んだのだが,病院に着く前に,車中で亡くなったのだという.
 彼は弱いものには優しいという人柄で,生徒や弱い立場の同僚には慕われていたようだ.僕だったらと省みて,付き合いがあまりよくないせいもあって,見舞いに来てくれる同僚などなく,孤独死していた可能性も高かっただろう.
 その日から今日まで,僕は彼の死を引きずったままである.それは彼の死ではなく,われわれの死だったのかもしれない.
 余り大っぴらには言って来なかったことだが,実はここ何年か,ある壮大な実験を始めようとしていた.内心では始めていたものと思ってもいた.その行き先がまったく見えなくなった.
 目標は分かっている.手段をある程度そろってきた.まず,簡単に書いた指導理念の書を出版する予定で,書くべき内容は十分にそろってもいる.それでも,まだ実験の開始を宣言してはいなかったのは,その宣言の書を書き上げていなかったからである.
 一人はつらい.二人で進める段取りができていたのだ.それがすべて潰えた.
 何をしようとしていたかを一言で述べるならば,人類という社会的生物に知性を与えること,ということになる.
 知性とは何なのか,人類が知性を持つとはどういうことか,人類の知性とはどういうものか,ということは論じ始めればきりがない.
 人類の進むべき道を決めるのが実際に政治家であるのかには異論もあるだろうが,人類が滅びゆく道に舵を切る力は確かに政治家にはある.
 コロナに対する対応を見てもわかるように,地球上の生命共同体はおろか,人類,日本人という視点すらなく,自分たちの目先の政治的な立場に利するかどうかしか考えているようには見えない.


 佐波君は4年生の卒業研究で僕のゼミをとった.まだ赴任して間もなかったので,V.G.KacのInfinite Dimensional Lie Algebrasをテキストに使った.半分ほどはやり終えたのは中々のものだが,4人のゼミ生はヒーヒー行っていたようだ.当時まだ大学院がなかったので,佐波君を院に進ませるどこかを選ばないといけなかったが,結局神戸大学を選んだ.院の入試に受かってきたので,院に入ってからの勉強の役に立つようにしてやらないといけない.つまり,神戸の大学院で指導してもらうスタッフが指導できる分野でないといけない.ということで,微分幾何の基礎をやってもらうことにした.そこで,卒業まではHelgasonのDifferential geometry, Lie groups and symmetric spacesをやれるだけやって送り出した.
 というような昔話はまたの機会にしよう.
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テレンス・タオの問題解決法(2021.10.23)

 佐波君が亡くなる少し前から,教育数学の構築とは別に,「考えることを考える」ということを考え始めていた.
 数学の教育がこれほど普遍的であるのは,つまり,どの国でも発展するためには数学の教育を書くことができないと認識されているのは,「考える」ことができるように教育するさいにほかの何を教えるよりも効率がよいと思われているからであろう.
 だから,初等中等教育で「数学は公式を覚えること」といった間違った概念で教えている教師が多いことが問題であると思っている.公式を覚えて問題に適用するというのでは,考えているのはどの形で公式を適用するかであって,公式を使うということは考えることの節約,もしくは考えないで済ますことになる.だから,節約した分,もっと重要なことに,というか既に考えていないことについて考える方がよい.?? 何にとって,どう「よい」というのだろうか? 考えるほどわからなくなる.
 数学者が初等中等教育に関心を持つとき,その誤った概念をどのようにしたら正しく変えられるかが最大の問題となる.たくさんの公式を覚えて使う,ということを繰り返し強要されて面白い筈がない.
 僕が中学3年のとき,公立高校で優秀だと言われていた教師が定年になり,僕の学校(中高一貫の私学だった)に来て,僕のクラスで教えることになったことがあった.この教師はいかにしてたくさんの公式を覚えるか,たくさんの公式を使えるようになるかということを目標に教育するというタイプであった.しかも,自分がそうであることを誇らしげに言う.僕は生涯で,この年だけ数学が嫌いになった.
 テレンス・タオという数学者がいる.2006年にはフィールズ賞を受賞している.高校時代には国際数学オリンピックで史上最年少で金メダルを獲得しているほど,若くしてその数学の才能が知られている.
 若いころ数学の才能を発揮する人の多くはなぜか数学の応用分野に進み,数学そのものに進む人は多くない(ファーブルの昆虫記を愛読した若者のほとんどが昆虫学者にならなかったのは,単に昆虫学者という職業が非常になりにくいものだからということだけが理由ではない).だが,何人かは数学者になり,数学者として優れた業績を挙げる人もいる.タオはそういう人の一人である.
 その彼が若いころ,問題の解き方についての本を書いている.
 問題を解くために,どういうアプローチをするかを分析している.彼自身が問題を解く際にそれを意識していたがどうかは分からない.むしろ意識しないでいただろうように思う.本を書くために自分の問題解決の在り方を,それこそ問題を解くように分析したのだろうと思う.

1.問題を理解する.
   問題のタイプを理解する.

2.データを理解する.

3.対象を理解する.

4.良い表記を選ぶ.

5.選ばれた表記を使って知っていることを書き留める.また図を描く.
   こうすることの利点
    (1)あとで参考にしやすい.これには,基本的な公式を覚えることが含まれる.
    (2)行き詰まったときにじっと見ている対象にできる
    (3)書き留めたり図を描くという体を動かす行為が,閃きを誘発することがある.
    この際,あまり詳しくは作業しない.

6.問題をわずかに変更する. 問題をより扱いやすいものに変えること.
  (1)問題を,極端な,または退化した特別な場合に変えて,考える.
  (2)その問題のさらに簡略版を考えて,解く.
  (3)その問題を一般化することを試み,それを示そうとする.
  (4)その問題が成り立つ場合に起こることを考え,それを示そうとする.
  (5)その問題を定式化しなおす.(対偶を取るとか,背理法で示そうとするとか,置換をしてみる)
  (6)類似した問題を考え,解いてみる.
  (7)その上で,問題を一般化する.

7.問題を大きく変更する.
   データを除くとか,対象とデータを交換するとか,対象を否定するとかして,問題を変えてみる.
   問題を変えていって,どこで問題として壊れるかを見る.

 問題として出されているものは,解くことに慣れている人なら,4までか,せいぜい5くらいまでのことをすれば解けるだろう.数学オリンピックの問題くらいになると6が必要となるかもしれない.数学者にとっての問題,つまりこれまでに解いた人がないような問題になるとそれでは解けないこともある.
 だから,数十年,数百年経っても解けない問題があって,〇〇予想だの,〇〇問題だの言われることになる.7をいかに上手くやるかや,6(6)を飛躍的に行うことが問題解決のきっかけになる.例えばフェルマー予想やポアンカレ予想の解決を見ても,まったく新しい分野を作ったり,無関係に思われるような分野と結びつけるということが行われる.
 確かにタオの手続きは,数学の問題を解くには,特に大学入試の難問を解くというならとても良いやり方だと思う. トップへ

 
 
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