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『確率で読み解く日常の不思議』『数学の作法』『幾何教程』



 人名索引 ふ


人名索引総目次    
フーB.ファインファインファインマンファウルハーバー
ファトゥージョヴァンニ・ファニャーノジューリオ・ファニャーノ
ファノファブリキウス=ビエールファーリファルカシュファルティングス
ファレイファン・カンペンファン・ケーレンファン・スホーテンファン・デル・ヴェルデン
ファンデルモンドファン・デル・コルプトファン・デル・ポルファン・デル・ポルテンファン・ルーメン
フィスクE.フィッシャーB.フィッシャーフィフテンゴルツフィボナッチ
J.V.フィールドフィロンフィンスラー
フェイェールフェイディアスフェラーフェラーリフェラン
フェルステマンフェルフルストフェルマフェルマンフェルミ
フェンケル
フォイエルバッハフォメンコフォン・カールマーンフォン・シュタウトフォントネル
フォン・ナゲルフォン・ノイマン福沢諭吉福田理軒フーコー
プシュカーリ藤沢利喜太郎藤田貞資フスブーダン
フックD.B.フックスフックスフッサールフット
フッペルトプトレマイオスブニャコフスキーフビニ
フュルステンベルグフュレディフョードロフ
 
フライフライリングブラヴェL.H.J.ブラウエルF.E.ブラウダー
プラウフR.ブラウワーA.B.B.ブラウンL.A.ブラウンM.ブラウン
R.ブラウンブラウンカー卿ブラウンミュールブラーエ,ティコ
ブラゴブラシュマンブラシケプラソロフフラッド
プラトンブラーマグプタプラマーブラームスフラムスティード
フランチェスカ,ピエロ・デラブラントブラントン
ブリアンションフーリエブリオスキブリーカーブリカール
ブリスブリソンブリッグスフリッケブリースコルン
ブリッチフェルトフリードリクスフリードリヒ2世D.フリーマンプリュッカー
ブリューデルンプリューファープリングスハイム
ブール古市公威A.フルヴィッツW.フルヴィッツプルターク
プルタルコスフルネブルネレスキブルバキブルン
ブレイクプレイフェアフレーゲフレシェA.-F.フレジール
ブレットフレドホルムフレネルフレーリッヒャーフレンケル
フロイデンタールブロカールプロクロスプロップフロベニウス
A.フンボルトW.フンボルト


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フー(Sze-Tsen Hu(胡世木貞), 1914.10.9-1999. ) 
 中国の生まれ.南京大学卒(1938).マンチェスター大学からM.H.A.ニューマンの指導でPh.D.取得(1938).チュレーン大学客員講師(1949-50),高等研究所研究員(1950-52),チュレーン大学助教授(1952-55),ジョージア大学教授(1955-56),デトロイトのウェイン州立大学教授(1956-1960),UCLA教授(1960-82).同僚からはスティーヴと呼ばれる.
 代数トポロジー,特にホモトピー論. 日本語の本には『ホモトピー論』(三村護訳,現代数学社,1994)がある. [ト7, 文]  トップ

ファイン,ベンジャミン(Benjamin Fine)
 ニューヨーク大学からマグヌスの指導で,「PSL2(R)の構造.Rはユークリッド虚2次数体の整数環(The Structure of PSL2(R); R, the Ring of Integers in a Euclidean Quadratic Imaginary Number field)」によりPh.D.取得(1973).
スティーヴンス工科大学,ドルトムント大学
『代数学の基本定理(The fundamental theorem of algebra)』(1997,ローゼンベルガーと共著,日本語訳あり), 『離散群の代数的一般化(Algebraic generalizations of discrete groups. A path to combinatorial group theory through one-relator products)』(1999,ローゼンベルガーと共著), 『抽象代数:ガロア理論,代数幾何,暗号理論への応用(Abstract algebra. Applications to Galois theory, algebraic geometry and cryptography)』(2011, C.カルステンセン,ローゼンベルガーと共著). 『整数論:素数分布からの入門(Number Theory: An Introduction Via the Distribution of Primes)』(2007,ローゼンベルガーと共著).
  [名文]  トップ

ファイン,ヘンリー・バーチャード(Henry Burchard Fine, 1858.9.14--1928.12.22) 自転車に乗っていたファインを,後ろから来た自動車がはね,ファインはそのまま意識を回復することなく,翌朝亡くなった.
テキサス大学卒業.1884/85年にライプツィヒにいたF.クラインの下で,また1891年の夏にベルリン大学でクロネッカーに学ぶ.プリンストン大学教授.学長だったW. ウィルソンとは大学時代からの友人で,実質的に理学部長だった彼に全権が委ねられ,プリンストンに自然科学の新しい形の教育研究体制を構築.数学教室の基礎を作る実務は,採用したO.ヴェブレンに委ねる.ファインホールと呼ばれる数学教室の建物は,画期的なもの. [列]  トップ

ファインマン(Richard Phillips Feynman, 1918.5.11-1988.2.15.)
 アメリカ,ニュー・ヨークに生まれ,カリフォルニア,ロス・アンジェルスに死す.
 MIT卒(1939).プリンストン大学博士(1942).第2次大戦中は原爆計画に参加,プリンストン大学(1941-42),ロスアラモス(1943-45).戦後コーネル大学理論物理学教授.カリフォルニア工科大学教授(1950).
 量子電磁力学におけるくりこみ理論で,朝永振一郎J.S.シュウィンガーとともにノーベル賞受賞(1965).量子力学に,ファインマン図形と経路積分による計算法を導入.クォーク理論の萌芽(パートン).  ファインマン図形,ファインマンの規則,ファインマン(の経路)積分,ファインマン測度.
文献
  1. 『ファインマン物理学講義』Feynman Lectures on Physics(19).日本語訳はR.P.ファインマン +レイトン+サンズ『ファインマン物理学 5冊』岩波書店.
  2. 『量子電気力学』Quantum Electrodynamics (1961).日本語訳は,(19 ).
  3. 『素過程の理論』The Theory of Fundamental Processes (1961).日本語訳は,(19 ).
  4. 『物理法則の性格』The Character of Physical Law , MIT Press, Cambridge, Mass. (1965).日本語訳は,『物理法則はいかにして発見されたか』(江沢洋訳)ダイヤモンド社(1983).
  5. 『QED:光と物質の奇妙な理論』QED: The Strange Theory of Light and Matter , Princeton Univ. Press (1985). 日本語訳は,『光と物質の不思議な理論-私の量子電磁力学』(釜江常好+大貫昌子訳)岩波書店(1987).
  6. Quantum Mechanics and Path Integrals, with A.R.Hibbs(1965). 日本語訳は, ファインマン +A.R.ヒブス『ファインマン経路積分と量子力学』マグロウヒル(1990).
  7. R.P.ファインマン+モリゴーニ+ワーグナー 『ファインマン講義 重力の理論』(和田純夫訳)岩波書店(1999.7)
  [代コ], [ふ5], [作2,3,文], [幾1,3,5], [50.17]  トップ

ファウルハーバー(Johann Faulhaber, 1580.5.5-1635.9.10.)  ドイツ,ウルム(Ulm)に生まれ,ウルムに死す.
 初め織り手として訓練されたが,ウルム市で数学の教育を受け,頭角を現し,後ウルム市の数学者で公有地監督官となる.1600年には自分の学校を設立.要塞建築に優れ,もてはやされた.彼の仕事はバーゼルやフランクフルトなどで今も見受けられる.ウルム市の水車や軍事的な幾何的器械を作る.
 ケプラーファン・ケーレンと協力することがあった.また,1620年にはデカルトがウルムに来て,ファウルハーバーの弟子になる.ファウルハーバーは薔薇十字会員でもあり,デカルトは信仰面でも,考え方でも大きな影響を受けた.
 基本的にCoss代数家である(ヴィエートの出版(1600)以前に教育を受けたので当然なのだが).
 ファウルハーバーの公式は自然数のベキ和を,ベキが17まで計算したもの(``Academia Algebra'').係数はベルヌーイ数で,一般のものはもちろんヤーコプ・ベルヌーイの『推測術』(1713)によるもので,公式もベルヌーイの公式と呼ばれることが多くなった.ベルヌーイはその著の中でファウルハーバーを引用している.
 1622年刊行のZu der Continuation seines Arithmetischen Wegweisers gehörigの中で2次元のピュタゴラスの定理を直角四面体の面の面積の2乗の和に関する公式として拡張.
 最初の出版物はH.ブリッグスの対数をドイツ語で紹介したもの. [幾9]  トップ

ファトゥー(Pierre Joseph Louis Fatou, 1878.2.28-1929.8.10.)  フランス,ロリアンに生まれ,ポルニシェに死す。パリの高等師範学校卒(1901).実関数論(特に級数を使うもの),ルベーグ積分論(ファトゥーの補題),複素関数論. [天23]  トップ

ジューリオ・カルロ・ファニャーノ・デイ・トスキ(Giulio Carlo Fagnano dei Toschi, 1682.126-1766.9.26). イタリア,シニガーリャ(現在はセニガッリア)に生まれ,同地に死す.ファニャーノ伯爵,トスキ侯爵.
 ローマのコレッジオ・クレメンティノに学ぶ.
 おそらく最初に楕円積分に注目した人.レムニスケートなどの曲線の長さや弧の分割を研究.楕円や双曲線の求長に失敗し,差が求長可能な弧の決定を試みる.
 息子はジョヴァンニ・ファニャーノ. [幾4,7] トップ

ジョヴァンニ・フランチェスコ・ファニャーノ・デイ・トスキ(Giovanni Francesco Fagnano dei Toschi, 1715.1.31-1797.5.14). イタリア,シニガーリャ(現在はセニガッリア)に生まれ,同地に死す.ファニャーノ伯爵,トスキ侯爵.父親はジューリオ・ファニャーノ.聖職者で数学者.1752年に律修司祭(Canon),1755年に助祭(archdeacon)となる.
 
 ファニャーノの問題(与えられた鋭角三角形に内接する最小周長の三角形を求めよ:答えは垂足三角形)で有名. [幾4,7] トップ

ファノ(Gino Fano, 1871.1.5-1952.11.8.)  イタリア,マントバに生まれ,ヴェローナに死す.
 トリノ大学で,セグレのもとで学び,G.カステルヌーヴォに会う.ゲッティンゲンでF.クラインに会う.のち,トリノ大学でカステルヌーヴォの助手になり,のち射影幾何学および画法幾何学教授.1938年ナチの迫害でスイスに亡命する.1946年からはアメリカとイタリアで教職.
 射影幾何および代数幾何.ファノ多様体,ファノ面,ファノ図式など.有限幾何や公理論的幾何の草分けでもある. [代10], [天8]  トップ

ファブリキウス=ビエール,フレデリック・ヘアート(Frederik Geert Fabricius-Bjerre, 1903.1.9-1984.1.15)  デンマーク,コペンハーゲンの生まれ.コペンハーゲン大学入学(1920),修士(1925),論文 「定曲率空間に埋め込まれたねじりコイルの微分幾何学(Differentialgeometriske Unders\/ogelser af torsionsfri Flader beliggende i Rum med konstant Krumning)」により博士(1929).コペンハーゲン大学准教授(1940),工科大学幾何学教授(1942-1972).
  ファブリキウス=ビエールの公式(平面の滑らかな閉曲線に対し,外部2重接線と内部2重接線の数と,変曲点の数(偶数)と2重点の数という4数に関する等式)(1962). [フ12] トップ

ファーリ・イシュトヴァーン(F\'ary Istv\'an, 1922.6.30--1984.11.2)  ハンガリー,ギューラに生まれ,アメリカ,カリフォルニア,エルサリートに死す.アメリカではIstv\'an F\'ary(イシュトヴァン・ファレイ)と名乗る.
 ブダペシュト大学で修士号を得てから,セゲド大学に移りPh.D.取得(1947).その後故郷を離れてパリに移り,ソルボンヌでジャン・ルレイに学び,コレージュ・ド・フランスから『あるクラスの写像のコホモロジー(Cohomologie d'une Certaine Classe d'Applications,1953)』によって博士号. モントリオール大学に就職し(1955),カリフォルニア大学バークレイ校に移り(1958),1962年に正教授になる.
 凸体の幾何,代数トポロジー,結び目理論.ファレイの定理(任意の平面グラフは線分による埋め込みを持つ,1948),ファレイ・ミルナーの定理(自明でない結び目の全曲率は4πより大きい,1949). [フ19] トップ

ファルカシュ,ハーシェル(Hershel M.Farkas) イスラエル,ヘブライ大学,アインシュタイン数学研究所教授,名誉教授.
『テータ定数,リーマン面,モデュラー群.その入門と,一意化定理,分割恒等式,組み合わせ数論への応用(Theta constants, Riemann surfaces and the modular group. An introduction with applications to uniformization theorems, partition identities and combinatorial number theory)』(2001,クラと共著), 『保型形式とクライン群』『リーマン面』(1980,2版1992,クラと共著)など  [名文] トップ

ファルティングス(Gerd Faltings, 1954.7.28-.)  西ドイツ,ゲルゼンキルヘンの生まれ.
 ミュンスター大学で博士号(1978).アメリカ,プリンストン大学教授(1987-98),現在ボンのマックス・プランク研究所理事(1998-).モーデル予想(有限次代数体上定義された種数≧2の代数曲線上の有理点は有限個)の解決(1983)などの代数的整数論の業績により,フィールズ賞受賞(1986).Inventiones mathematicaeの編集長.  [パ5], [名3] トップ

ファン・カンペン(Egbert Rudolf van Kampen, 1908.5.28--1942.2.11)  ベルギー,アントワープに生まれ,アメリカ,メリーランド州ボルティモアに死す.
 ライデン大学に入学(1924).ゲッティンゲンに行きファン・デル・ヴェルデンP.S.アレクサンドロフと知り合う.ライデン大学に戻って論文「組み合わせトポロジーと双対定理(Die kombinatorische Topologie und die Dualitaetssaetze)」によって学位取得(1929). 最初の公刊論文は,E.アルティンの主張の反例となる結び目の例を作ったもの(1928).
 ジョンズホプキンス大学からオファーがあったが,若過ぎてアメリカに行くことができず,デルフト大学のJ.A.スカウテンの助手の職に就く.1931年にジョンズホプキンス大学に行くことを決め,そこでザリスキに会う.1933年には創設されたばかりのプリンストンの高等研究所に行く.  以降,ウィントナー,M.カッツエルデシュらと共同研究.
 1930年代後半に頭痛を訴えていたが,脳腫瘍の手術を1941年4月に行ない,成功したようにみえたが,12月に再度入院したまま2月10日に意識がなくなり翌日死亡した.
 トポロジー,統計学,概周期関数など幅広い興味.死後5年経って,ウィントナーが共著の論文「回転面上の測地線の漸近的な分布について」を発表した.  [伝10],[辞] トップ

ファン・ケーレン、ルドルフ(Ludolph van Ceulen(=Koln), 1540.1.28-1610.12.31).
 ドイツ、ヒルデスハイムに生まれ、オランダ、ライデンに死す。
 数学とフェンシングを教える。ステヴィンファン・ルーメンと親交。 πを35桁計算。この35桁の数字は妻により彼の墓石に刻まれた。ライデン市の聖ペーテル大聖堂に今もこの墓はあるが、数字は判別できなくなっているという。ドイツでは長く、πはルドルフの数と呼ばれており、今でも呼ばれることがあるそうである。正 n=6×260角形の辺の長さを計算して出した値だが、この方法ではこれが限界で、これ以降は別の方法を考えることになる。その意味でこれが一つに達成点であり、名前が残る理由でもある。   [解I.4, 文], [幾3,4] トップ

ファン・デル・ヴェルデン(Bartel Leendert van der Waerden, 1903.2.2-1996.1.12).
 オランダ、アムステルダムに生まれ、スイス、チューリヒに死す。
 オランダの数学者・古代数学史家。ゲッティンゲンのネーター・ボーイズの一人。アムステルダム大学とゲッティンゲン大学で学ぶ(1919-1925)。ゲッティンゲンで教授資格取得(1928)。ライプツィヒ大学でハイゼンベルクと同僚になる(1931)も、戦中戦後はナチの国から来たということで疎外され、戦後アムステルダムのシェル石油で応用数学者として働く。1947年ジョンズ・ホプキンス大学を訪れ、1948年に帰国後アムステルダム大学教授に。1951年以降はチューリヒ大学教授。
1924年当時はエミー・ネーターの下で学ぶ.代数幾何学(代数多様体の次元の定義),量子力学や数理統計学への群論の応用など幅広い.ガロア理論では,ほとんどすべての整係数の代数方程式のガロア群が対称群になることを示す.ネーター学派の代数学の集大成としての『(現代)代数学』(1930)は重要.数学史,物理科学史,古代科学史などにも著書がある.
文献
  1. 『量子力学における群論的方法』 Die gruppentheoretische Methode in der Quantenmechanik, (1928, 1932), 日本語訳(間瀬正一訳)は養賢堂から出ている.
  2. 『現代代数学』 Moderne Algebra, 2 vol.(1937), 日本語訳は『現代代数学1,2,3』(銀林浩訳)東京図書(1959).
  3. Einf\"urung in die algebraische Geometrie, (1939, 1973). 日本語訳は『代数幾何学入門』(前田博信訳),シュプリンガー・フェアラーク東京(1991).
  4. 『科学の夜明け』Science Awakening (1954). 日本語訳は『数学の黎明-オリエントからギリシャへ』(村田全+佐藤勝造訳)みすず書房(1984)
  5. 『天文学の始源』Die Anfange der Astronomie (1962).
  6. 『量子力学の原典』Sources of the Quantum Mechanics (1967).
  7. 『古代文明における幾何と代数』Geometry and Algebra in Ancient Civilization (1983).
  8. A History of Algebra: From al-Khwarizmi to Emmy Noether(1985)『代数学の歴史-アル-クワリズミからエミー・ネーターへ』(加藤明史訳)現代数学社(1994)
 インフェルト・ファン・デル・ヴェルデンの記号,ファン・デル・ヴェルデン数,ファン・デル・ヴェルデンの永久予想,ファン・デル・ヴェルデン検定.  [解I.2-3, 文], [珠序, 訳序, 1.1-2, 1.6, 説2.2.4, 文], [代コ], [ワ1,2,3,4,5,8,9], [ブ50], [伝8,10], [辞], [幾1,4,9,10] トップ

ファン・デル・コルプト(Johannes Gualtherus van der Corputm, 1890.9.4-1975.9.16).
 オランダのロッテルダムに生まれ,アムステルダムに死す.
 ライデン大学からJan Cornelis Kluyverの指導で Over roosterpunten in het platte vlak (de beteekenis van de methoden van Voronoi en Pfeiffer)によりPh.D.(1919).
 解析的整数論,調和解析
グローニンゲン大学教授(1923),アムステルダム大学教授(1946).1953年からはアメリカで,カリフォルニア大学バークレイ校,ウィスコンシン大学マディソン校で働く.
ファン・デル・コルプトの補題,ファン・デル・コルプトの定理,ファン・デル・コルプト列,指数和に対するファン・デル・コルプトの方法など.
 弟子にコクスマ,Jan Popkenなど.  [珠文] トップ

ファン・デル・ポル(Balthasal van der Pol, 1889.1.27-1959.10.6).
 オランダのユトレヒトに生まれる。
 物理学・数学者、電気技術者。J.J.トムソンの弟子。ユトレヒト大学卒業(1916)。エイントホーベン電気工学研究所に勤務(1922-1949)。振動論、とくに自励振動。演算子法の数学的基礎づけ(1929-1932)。  [解II.9] トップ

ファン・デル・ポルテン(Alfred Jacobus van der Poorten, 1942.5.16-2010.10.9). オランダ,アムステルダムに生まれ,
 オーストラリア,ニューサウスウェールズ大学純粋数学講師(1969),上級講師(1972),助教授(1976).マコーレイ大学数学・物理学・計算学教授(1979-2002).1991年からCentre for Number Theory Research at Macquarieの所長.
 整数論.啓蒙書も執筆,アペリーの定理やフェルマの最終定理に関する著書あり.  [天6] トップ

ファン・ルーメン、アドリアン(Adriaan van Roomen=Adrianus Romanus(アドリアヌス・ロマヌス), 1561.9.29-1615.5.4).
 ベルギー、ルーヴァンに生まれ、ドイツ、マインツに死す。
 ケルンのイエズス会カレッジに学んだあと,ルーヴァン大学で医学を学ぶ.  ルーヴァン大学(1586-1592)、ヴェルツブルグ大学で医学・数学の教授。 1600年にプラハに行きケプラーに会って,レティクスの三角関数表を使う方法への危惧を表明.
 1604年に聖職者となり、1610年以降ポーランドで数学を教える。クラヴィウスを師とし(1585,ローマで)、ヴィエートファン・ケーレンとも交流。
 正230角形を使って小数点16桁のπの計算(1596).弦関数を計算して小数点17桁のπの計算(1597)? 3円に接する円を求めるというアポロニウスの問題(アポロニウスの著作が失われていたため、当時、3円の場合は未解決だと思われていた)を双曲線を用いて解く(1596)。後にニュートンも定規とコンパスで解いている(『普遍算術』(1728)、問題47)。  [解I.4],[幾3,6,8,文] トップ

フィスク(Steve Fisk, 1946.5.18-2010.1.31). アメリカ,サンフランシスコに生まれ.カリフォルニア大学バークレイ校卒業.低次元トポロジーに関し,ハーヴァード大学から,G.-C.ロータのもとで,「極性を持つ2つの多様体の三角形分割(Triangulations of Two Manifolds with Local Properties)」によりPh.D.(1972).
 アメリカ,メイン州,ボウドウィン大学数学科助教授(1977),准教授(1983),教授(1991).10年ほど白血病と闘い,63歳で亡くなる.
 低次元トポロジー,グラフ理論,組合せ論,射影幾何.  [天28] トップ

フィッシャー,エルンスト(Ernst Sigismund Fischer, 1875.7.12--1954.11.14.).
 オーストリア,ウィーンに生まれ,ドイツ,ケルンに死す.
 1894年からウィーン大学ではメルテンスの下で,チューリヒではミンコフスキーに学ぶ.メルテンスとゲーゲンバウアーの指導でウィーン大学から,「行列式論について(Zur Theorie der Determinanten)」により学位取得(1899).
 1902年からブリュノのドイツ工科大学の助手になり,ついで私講師(1904),特任教授(1910).ゴルダンの後任としてエルランゲン大学教授(1911-20).ゴルダンのもとで学位を得たエミー・ネーターと共同研究.
 数学解析,代数学,消去法や不変式論.ルベーグ積分論でのリース=フィッシャーの定理.アダマール行列式,有限アーベル群,カラテオドリの問題.   [伝8], [ワ8,10], [文3] トップ

フィッシャー,ベルント(Bernd Fischer, 1936.12.18-).
 ドイツ,エントバッハの生まれ.
 フランクフルト・アム・マインのヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学から,Reinhold Baer(1902.7.22-1979.10.22)の指導で,Distributive Quasigruppen endlicher Ordnungにより自然哲学博士号取得(1963).
 群論.Baby Monster群,フィッシャー群Fi22, Fi23, Fi24の発見,指標表の計算,Monster群の存在の予想. [辞] トップ

フィフテンゴルツ(Grigori\u{i} Mikha\u{i}lovich Fichtengol'tz, 1888.6.5--1959.6.26).
 ロシア,オデッサの生まれ.オデッサ大学卒業(1911).ペトログラード電子工学研究所(1915--1920),ペトログラード大学教授(1918).実変数関数論,関数解析.定評ある教科書『微分積分学教程』(1947-1949),『解析学教程』(1955-1956)などがある. .  [モ歴] トップ

フィボナッチ=ピサのレオナルド(Leonardo da Pisa, Leonardo Pisano = Fibonacci,1170頃-1250頃).
 イタリア、ピサに生まれ、ピサに死す。
 父はピサの外交係で、アルジェリアに赴任(12才)、父と共に地中海沿岸各地をイスラム側も含めて旅行する。土地土地の計算法・記数法を身につけた。 通称のフィボナッチはボナッチの息子という言葉 filius Bonacci を縮めたもの.自分ではビゴリ(Bigolli:「無用のもの」,または,「旅人」)と名乗っていた. 1200年にピサに戻り、出版した『算盤の書』(1202)で10進記数法とそれによる四則演算法を,インド・アラビア数字と共にヨーロッパに紹介。0を Zephirum と呼んでいる。フィボナッチ数列。
 1220年の『幾何学演習』は当時の幾何学の集大成で三角法も含んでいた。今は失われたユークリッドの本(図形の分割に関すること)に基づく部分もある。1225年の『精華』では不定方程式,合同数,3次方程式の近似解も論じている.
 1228年以降は消息が知られていないが,唯一の例外は1240年のピサ共和国からの年金の証書(真摯で学識ある巨匠レオナルド・ビゴリに銀20ポンドの年金を付加給付する旨のもの).
文献
  1. 『算盤の書』(Liber Abaci, 1202, 自身による再版は1228)
  2. 『幾何学演習』(Practica geometriae), 1220.
  3. 『精華』(Flos), 1225.
  4. 『哲学者テオドロスへの手紙』
  5. 『2次方程式の書』(Liber quaddratorum), 1225.
[解I.1, 6], [名3, 17], [黄5], [代入1], [辞], [幾1,6,8] トップ

フィールド,ジュディス・ヴェロニカ(Judith Veronica Field).
 ロンドン大学からKepler's Geometrical Cosmology(ケプラーの幾何学的宇宙論)によりPh.D.取得(1981).
 「Rediscovering the Archimedean polyhedra: Piero della Francesca, Luca Pacioli, Leonardo da Vinci, Albrecht D\"urer, Daniele Barbaro, and Johannes Kepler(アルキメデスの多面体の再発見.ピエロ・デラ・フランチェスカパルカ・チオーリレオナルド・ダ・ヴィンチアルブレヒト・デューラー,ダニエル・バルバロ,ヨハネス・ケプラー)」, 『厳密科学史集積』 50 (1996)
[幾9] トップ

フィロン,ビザンチウムの(Philo of Byzantium, Φίλων ὁ Βυζάντιος,280年頃-220年頃).
 ビザンチウムの出身だが,生涯のほとんどをアレクサンドリアで過ごす.エンジニアで,力学に関する著書もあり,フォロ・メカニクスと呼ばれることがある.
 水車場,連弩,ジンバル(Gimbal),脱穀機などの考案.数学では倍積問題を研究し,直交双曲線と円との交点を用いる解法を発見.これは数世紀後のヘロンの解と似たものであった. [幾2] トップ

フィンスラー(Paul Finsler, 1894.4.231-1970.4.29).
 ドイツ,ネッカー河畔ハイルブロンに生まれ,スイス,チューリヒに死す.
 シュトゥットガルト工科大学卒(1908-1912),教師にはクッタ(Martin Wilhelm Kutta, 1867-1944). 1913年にゲッティンゲン大学で院生,ヘッケヒルベルトF.クラインランダウルンゲ,ボルン,カラテオドリなどに学ぶ. ゲッティンゲン大学からカラテオドリの指導で「一般空間における曲線と曲面について(\"Uber Kurven und Fl\"achen in allgemeinen R\"aumen)」によりPh.D.(1919).ケルン大学から教授資格を得る(1922).
 チューリヒ大学(1927),教授(1944).数学者,天文学者.
 リーマン幾何の一般化で,計量を2次形式からもっと一般にしたフィンスラー幾何を始めた。 フィンスラー空間,ハドヴィガー=フィンスラー不等式(1937).
 ラッセルのパラドクスを克服しようとNon-well-founded set theoryを提案.『集合論の基礎について(On the foundations of set theory)』(1926).
 [パ附1], [フ19], [幾8] トップ

フェイェール リポート (Lipót Fejér, Leopold Fejér, 1880.2.9--1959.10.15).
 ハンガリー,ペーチ(P\'ecs)に生まれ,ブダペシュトに死す(生まれた時はLeopold Weissといったが,1900年頃ハンガリーの名前に改名).
 ブダペシュトとベルリンで数学と物理を学ぶ.H.A.シュヴァルツの指導で,エトヴォシュ大学からPh.D.取得(1902).
1911年にブダペシュト大学教授(亡くなるまで).
調和解析,フーリエ解析.カラテオドリと整関数に関して(1907),F.リースと等角写像に関して(1922)共同研究.
  弟子多数.エルデシュ, ,フォン・ノイマントゥラーンポーヤT.ラドー, ラズロー・カルマール(László Kalmár),M.リースセゲー(Gábor Szegő),Michael Feketeなど.  [伝9], [幾7,解] トップ

フェイディアス(Phidias, Φειδίας, 紀元前500, 490頃-430頃). アテナイの生まれ.死んだのはアテナイともオリンピアとも言われる.建築家,彫刻家.
 ペリクレスと親交.彼のアクロポリス再興に際し(紀元前477年)顧問となって,パルテノン神殿建設の総監督.アテナ女神立像,オリンピアのゼウス立像など.パルテノン神殿が黄金長方形であることが,幾何との関わり.彼に因んで,黄金比をΦと表わすことがある.  [幾1] トップ

フェラー、ウィリアム(William Feller, 1906.7.7-1970.1.14).
   オーストリア・ハンガリー帝国ザグレブ(現在クロアチア領)に生まれ(生まれたときはVilibald Srećko Feller),アメリカ,ニューヨークに死す.
 ザグレブ大学で数学を学び始め,1925年からゲッティンゲン大学から,R.クーラントの指導で「代数的に長さ有限の超越曲線(Über algebraisch rektifizierbare transzendente Kurven)」によりPh.D.取得(1926).
 キール大学私講師(1928).ナチに忠誠を誓うことを拒んだので,デンマーク,コペンハーゲンに逃げる(1933).スウェーデン(ストックホルムとルンド)で講義していたが,次第にナチの圧力が強くなり,アメリカに移住(1939).1944年に市民権を得,以降ブラウン大とコーネル大に勤め,1950年にプリンストン大学教授に.
 数学解析(測度論,関数解析),幾何,微分方程式,数理統計,確率論など幅広い.
 フェラー過程,フェラーの爆発テスト,フェラーのブラウン運動,リンデベルク--フェラーの中心極限定理,フェラーのコイン投げ定数,フェラー連続過程,フェラー推移関数,フェラーの境界の分類,クレイン--フェラー微分作用素,フェラー測度,フェラー--レヴィ条件,フェラー作用素,フェラー・ポテンシャル,フェラー半群,コルモゴロフ--フェラー方程式.
 『確率論とその応用』は広く読まれている. [率0] トップ

フェラーリ、ルドヴィコ(Ludovico Ferrari, 1522.2.2-1565.10.5).
 教皇領、ボローニャに生まれ、ボローニャに死す。
 14才の時カルダーノの召し使いとなり、カルダーノにラテン語、ギリシャ語、数学を学び、カルダーノの秘書となり、18才の時(1540)ミラノの数学公開講演者となる。この年、4次方程式の解法を得る。
 タルターリアとカルダーノが、ミラノで群衆の前で論争をしたとき(1548.8.10)、カルダーノの代わりにタルターリアを打ち負かした。そのためタルターリアはブレーシャでの職を失い、フェラーリはマントゥアで課税額査定者の職を得た。1565年にボローニャ大学数学教授となったが、この年実の姉に白砒素で毒殺されたと伝えられている。
 師のカルダーノはその死を想って、1世紀のローマの詩人を引用し、「節度なき者に人生は短く、老いはまれなり。何を愛し求めるにせよ、中庸をもってせよ」と、儒学者のようなことを言っているが、カルダーノにしてさえ、フェラーリは「節度がない」ように見えたのだろうか。 [解I.1], [名8] トップ

フェラン,エマニュエル(Emmanuel Ferrand, ).フランスの幾何学者で,IHJ所属.ソルボンヌのあった場所にパリ大学ジュスューキャンパス(ピエールとマリー・キュリー大学の主キャンパス)があり,そこに数学研究所IMJ(Institut de Math¥’ematiques de Jussieu) がある.(ジュスューという名前は有名な植物学者一家の名前から植物園の近くにジュスュー広場があり,その地下に作られた地下鉄駅の名前から).
 シンプレクティック幾何,接触幾何,結び目,特異点.モース理論.フェランの公式(カスプをもつ曲線に対してファブリキウス=ビエールの公式を拡張したもの).著書に『ベネクァン不変量と波面の幾何』(1997). [フ12] トップ

フェルステマン,ヴィルヘルム・アウグスト(Wilhelm August Förstemann) .
 クレレ誌に寄稿.1835年にはプトレマイオスの補題の逆や,2項係数の組み合わせ論的説明を与える論文を寄稿.  [幾5] トップ

フェルフルスト,ピエール・フランソア(Pierre Francois Verhulst, 1804.10.28-1849.2.15).
 ベルギー、ブラッセルに生まれ、ブラッセルに死す。
ゲント(Gentはフランドル名、Gand(ガン)はフランス名、ヘント(Ghent)とも言う。)大学(1816年創立)に学ぶ。ブラッセル自由大学数学教授、後王立軍学校へ。人口問題に非線形方程式を導入。ベルギーの人口の上限を予言。マルサス-フェルフルストのモデル。 [解II.7, 文] トップ

フェルマ(Pierre de Fermat, 1601.8.20(17)-1665.1.12).
 フランス、(トゥールーズ近くの)ボーモン・ド・ロマーニュに生まれ、カッストルに死す。
 オルレアン大学で法律を学び、トゥールーズ高等法院参与, トゥールーズ議会の勅撰委員.『解析教程』で言及された積分に関する業績のほかに、整数論・確率論などがあり、最近まで予想であった最終定理ワイルズにより解決)は余りにも有名。
 『平面と立体の軌跡序論(Ad locur planos et solidos isagoge)』(1629).
 フェルマ点(三角形の3頂点からの距離の和が最小になる点は何かと,トリチェリへの手紙の中で述べたことによる). フェルマ曲線,フェルマ3次曲面,フェルマ数,フェルマ多角数定理,フェルマ擬素数,フェルマ商,フェルマの原理,フェルマ螺旋,フェルマの2平方和定理,フェルマの小定理(大定理は最終定理のこと)など. 
  [解序, I.2-4, II.1-2,4, 7, 文], [パ序, 10-11, 年表], [名1-3, 6, 附E, 文], [珠訳序, 2.1, 説0, 1.2, 1.7.1, 1.7.3-4, 3.2, 3.2.2], [代3], [ブ50], [代入2], [直7], [天1, 4], [伝1,2,3,4,5], [辞], [ふ2,3], [率0], [幾2,4,6-8], [50.27] トップ

フェルマン(Emil Alfred Fellmann, 1927.9.17-2012.5.18).
 スイス,バーゼルに生まれ,バーゼルに死す.
 バーゼル大学で数学,天文学,理論物理学,ラテン哲学を学ぶ.17-18世紀の科学史,数学史を専門とし,ライプニッツオイラーに関する著作がある.
Euler-Kommissionで書記として働く(1976-1996).オイラー全集の編集長. ボン大学客員教授(1989).
 『オイラー その生涯と業績(Leonhard Euler (rororo Biographie)』(1995, 2007,日本語訳2002あり), 『G.W.ライプニッツ:ニュートンのプリンキピア・マテマテカ(1687)の余白への書き込み(G. W. Leibniz - Marginalia in Newtoni "Principia mathematica"(1687))』(1973). [解II.10] トップ

フェルミ(Enrico Fermi, 1901.9.29-1954.11.28).
 イタリア,ローマに生まれ,アメリカ,シカゴに死す(死因は癌).
 1918年ピサ大学付属校等師範学校入学,後ピサ大学に進学,X線に関する研究で学位(1929).その後ゲッティンゲン大学のボルンやライデン大学のエーレンフェスト(1880-1933)のもとでも研究.1924年フィレンツェ大学数学講師,1926年ローマ大学理論物理学教授.1928年ユダヤ人女性と結婚したためファシズムの弾圧に遭う.1938年ノーベル賞授賞式にストックホルムに行き,そのままアメリカへ亡命,コロンビア大学教授となる. 1941年研究チームと共にシカゴ大学に移り,原子炉の建造に着手.制御された連鎖反応を成功させ,原子爆弾の開発に寄与.1944年からロス・アラモスで原爆開発に指導的役割.1945年の終戦と共にアメリカ市民権を得,シカゴ大学に戻り原子核研究所で働く. 死の翌(1955)年に発見された原子番号100の元素はフェルミウムと呼ばれ,10-15mの長さの単位をフェルミと言う.
 速度の遅い中性子を使う新種の放射性元素の発見によりノーベル賞.β崩壊の実験により,パウリのニュートリノ理論を裏づける.フェルミ・ディラック統計,フェルミ・ディラック関数,トーマス・フェルミの方程式.  [代17] トップ

フェンケル(Werner Fenchel, 1905.5.3-1988.)  デンマークの数学者.ドイツ,ベルリンの生まれ.
 ベルリン大学卒業(1928)後,ゲッティンゲン大学,コペンハーゲン大学(1933-)に勤務.群論,微分幾何学,代数幾何学,関数論,関数解析学.フェンケルの定理(1929)「空間閉曲線の全曲率は2πより大きい」  [ト6, 文],[フ19] トップ

フォイエルバッハ(Karl Wilhelm Feuerbach, 1800.5.30-1834.3.12)  ドイツ,イェーナに生まれ,エルランゲンに死す.  父親のポール・J.A.リッター・フォン・フォイエルバッハは法学教授でバイエルンの刑法を書いた. 8人の兄弟のうち5人が博士号を得,3人が教授になった.一番有名なのは,教授にはならなかったが哲学者の弟ルードヴィッヒ・A.フォイエルバッハ(1804-72)である.
 22歳までに博士号を取得し,エルランゲンのギムナジウムの教授に任命される.健康に優れず,1828年に退職し,残りの6年は隠遁生活を送る.
 1822年に9点円(オイラー円とも呼ばれる)の論文を書く.三角形の9点円と内接円は接するが,その接点をフォイエルバッハ点という.1827年の論文では,メビウスと独立に斉次座標を導入している. [直8], [三], [幾4,7] トップ

A.T.フォメンコ(A.T.Fomenko)
 ロシアの幾何学者でトポロジスト.
 日本語に訳されているものに『ホモトピー論』(D.B.フックス, グーテンマッヘルと共著,三村護訳編),『微分幾何学とトポロジー』(三村護訳)(共立出版), がある.   [パ:ノート], [ト文], [代コ] トップ

フォン・カールマーン,テオドール(Theodore von K\'arm\'an, 1881.5.11--1963.5.7).
 ハンガリー,ブダペシュトに生まれ,ドイツ,アーヘン(Aachen)に死す.
 ブダペシュト工業経済大学卒(1902).ゲッティンゲン大学のルートヴィヒ・プラントルの下で学位(1908),私講師(1908-1912).1912年にRWTHアーヘン大学航空研究所の所長(-1930).オーストリア・ハンガリー陸軍に働いていたとき(1915-1918),初期のヘリコプターを設計.1918年ハンガリー共和国の教育副大臣に.  1930年にアメリカに移民し,カリフォルニア工科大学グッケンハイム航空学研究所の所長に. 第二次大戦中,アメリカ陸軍からV2ロケットの解析を依頼される. 1943年ジェット推進研究所(JPL: Jet Propulsion Laboratory)に改組.1944年にカルテクを去り,ワシントンで軍の長期的計画を立案するようになる. 1956年,ベルギー,シント・ゲネジアス・ローダに, フォン・カルマン流体力学研究所(von Karman Institute for Fluid Dynamics)設立. 1963年旅行中にアーヘンで死去.
カルマン渦=カルマン渦列(Karman vortex street).   [伝9] トップ

フォン・シュタウト(Karl Georg Christian von Staudt, 1798.1.24-1867.6.1).
 ローテンブルグ帝国自由都市(現在,ドイツ,ローテンブルク・オプ・デル・タウバー)に生まれ,バヴァリア,エルランゲン(現在,ドイツ領)に死す.
 ゲッティンゲン大学でガウスに学び(1818-1822),彗星の軌道の決定に関してエルランゲン大学から学位を取得(1822). 1822.10.24からヴュルツブルクのギムナジウムで教育実習を始め,1824年10月にミュンヘン大学でギムナジュムの教師資格口頭試験試験を受け,ヴュルツブルクのギムナジウムの教師となる.1824年9月にはヴュルツブルクのユリウス・マクシミリアン大学の私講師 ニュルンベルグ工科学校教授(1827),エルランゲン大学教授(1835).
 射影幾何学に関する著書『位置幾何学(Gemetrie der Lage)』(1847)と『位置幾何学補遺(Beitrage zur Gemetrie der Lage)』(1856-60)で,計量によらない射影幾何の扱いをする(前者は実射影幾何で,後者は複素射影幾何).完全4辺形
 ベルヌーイ数やコンパスのみを使う正17角形の作図など.2次方程式の幾何的解法.
 フォン・シュタウト=クラウゼンの定理(1840,ベルヌーイ数の分母に現れる数を決めるもの). 「ベルヌーイ数(De numeris Bernoullianis )」(1845). [名19], [天10], [伝2,3], [幾11,解2] トップ

フォントネル(Bernard Le Bovier de Fontenelle, 1657.2.11-1757.1.9).
 フランス、ルーアンに生まれ、パリに死す。
 コルネイユの甥。科学思想家・文学者。ルーアンのイエズズ会学院で学ぶ。ド・ロピタルの『無限小解析』の無記名の序文の著者。パリ科学アカデミーの永久書記(1697)。『多数世界問答』(1686)、『神託論』(1687)、『新旧優劣論』(1687)などの他、科学界の歴史(1707)、科学者の弔辞(1708-1719)などを著した、科学啓蒙家の最初の一人。1699年に『数学を学ぶ有用性について』の中で、
「何のために人々は数学や自然科学を好きにならねばならないのだろうか?..... 人々はいつも自分が理解できないものを役に立たないと呼ぶ。それは一種の復讐で..... 」
と書いている。  [解III.6] トップ

フォン・ナゲル(Christian Heinrich von Nagel, 1803.2.28-1882.10.27).
 ドイツ,シュトゥットガルトに生まれ,ウルムに死す.
 1817年にギムナジウムを出たあと,Evangelical Seminaries of Maulbronn and Blaubeurenに行く. チュービンガー・シュティフト(T\"ubinger Stift,ヴュルテンベルクの福音ルーテル教会の,チュービンゲンにある大学)で4年間神学を学ぶ(1821-25).卒業後すぐ数学に興味を持つようになり,チュービンゲンの中学校(科学に重点を置いたもの)で数学や科学を教える. 1826年には「代数方程式によって作られる直角三角形(De triangulis rectangulis ex algebraica aequatione construendis)」により,チュービンゲン大学から哲学博士を得る.1830年までにはチュービンゲン大学の私講師となっていたが,この年ウルムのギムナジウムの教師となる.後に校長になり,1875年には貴族となる.
 三角形に関する幾何学で知られる.ナゲル点,ナゲル線.
 『三角形の最も重要な円の研究:純粋幾何学から(Untersuchungen \"uber die wichtigsten zum Dreiecke geh\"ohrigen Kreise. Eine Abhandlung aus dem Gebiete der reinen Geometrie)』(1836) .  [三], [幾4,7] トップ

フォン・ノイマン(John von Neumann, 1903.12.28-1957.2.8).
 ハンガリー,ブダペストに生まれ,アメリカ,ワシントン特別区に死す.
 子供のころはヤーノシュ,アメリカに行ってからはジョニーと呼ばれた.父のマックスは銀行家.幼時,ドイツ人とフランス人の女性家庭教師に学ぶ.ユダヤ系ではあるが,宗教環境はユダヤ教とキリスト教の混合であったらしい.ルーテル・ギムナジウムで学ぶ(1911-21).彼の数学的才能が特異であることは教師に周知であったが,1年上にも同じような生徒がいた.E.P.ウィグナーで,彼らは友人となる.
 ヤーノシュ(J\'anos) というのはハンガリー語としての表記で,生まれたときは,ノイマン・ヤーノシュと言った.1913年に,父親の業績に貴族としての称号が与えられ,領地として(実際に領地としたわけではない形式的なもの)妻の名前に似たマルギータを選んだため,父親はマルギータイ・ノイマン・ミクシャとなったが,英語にすればマックス・ノイマン・オブ・マルギータとなる.父親はこの称号を使わなかったが,息子は後にチューリヒにいたとき,マルギータイ・ノイマン・ヤーノシュをドイツ風に言い換えたヨハン・ノイマン・フォン(Johann von Neumann)・マルギータと名乗っていたということである.  
 第1次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が敗北して,国内が乱れたので,ハンガリーを離れる.この頃,父は,学問を諦めさせるように,T.フォン・カルマンに説得を依頼するが,結局化学でならと大学教育を認めることになる.
 ベルリン大学(1921-23),チューリヒ工科大学(-25).化学工学の学位(1925).この時チューリヒにはワイルポーヤがいて,その講義に出ている.集合論に関する仕事で,ブダペスト大学数学博士(1926).
 ベルリン大学数学私講師(1926-29).ハンブルク大学講師(1929-30).ロックフェラー奨学金でゲッティンゲン大学のヒルベルトのもとで学ぶ(1926-27).この頃既に,彼の数学的才能は世界的に有名になっていた.
 O.ヴェブレンにより招かれ,プリンストン大学客員教授(1930),数学の正教授(1931),高等研究所教授(1933-死).高等研究所の初代の6人の教授の1人(他は,A.アインシュタインJ.W.アレクサンダーM.モース,O.ヴェブレン,H.ワイル).
 アメリカ政府顧問(1940-54).第2次大戦中は軍事顧問で,オッペンハイマーと原子爆弾,E.テラーと水素爆弾計画に参加.1955年頃から体調が悪くなり,ガンで死ぬ.  戦略ゲームのモデルとしてのゲーム理論(1928,ゲッティンゲンの研究集会で発表.E.ボレルのミニマックス理論の一般化でもある).
 マレーとの共同研究で作用素環の研究.エルゴード理論の数学的基礎づけ.コンパクト群に解析的なパラメータの導入.
 量子力学の公理化(1927-).ハイゼンベルクの不確定性原理の数学的基礎づけ.行列力学と波動力学の等価性の証明(1944).チャンドラセカールと共同で重力波の研究.プログラム内臓式の計算機の原理と実作(MANIAC,mathematical analyser, numerical integrator and computer, 1945年からプリンストン大学で.1952年完成).オートマトン(自己増殖型機械),セル・オートマトン,神経系の解析.
 ノイマン型計算機,フォン・ノイマン環.フォン・ノイマン=ベルナイスゲーデル集合論.


文献
  1. 『量子力学の数学的基礎』Mathematische Grundlagen der Quantenmechanik(1932).日本語訳は,みすず書房(1957)
  2. 『電子計算機と頭脳』 The Computer and Brain(1958).日本語訳は,ラティス(飯島泰蔵他訳,1964).
  3. 『自己増殖オートマトンの理論』Theory of Self-Reproducing Autopmaton, (1966).日本語訳は,岩波書店(高橋英俊監訳,1975)
  4. 『ゲームの理論と経済行動(全5巻)』 The Theory of Games and Economic Behavior, with Oscar Morgenstern(1944).日本語訳は,東京図書(銀林浩他訳,1972-73).
伝記
  1. スティーブ J.ハイムズ『フォン・ノイマンとウィーナー』(高井信勝監訳)工学社(1985)、John von Neumann and Norbert Wiener, by Steve J.Heims(1980)
  2. ノーマン・マクレイ, 1923-『フォン・ノイマンの生涯』(渡辺正+芦田みどり訳)朝日選書610(1998.9.25) John von Neumann by Norman Macrae(1992).
 [代コ],[ワ4,7,8],[先],[伝8,9,10],[辞], [作2,5,付B], [基16] トップ

福澤諭吉(Fukuzawa Yukichi, 天保5年12月12日(1835.1.10)- 明治34年(1901.2.3)).
 摂津国大坂堂島浜(現・大阪府大阪市福島区)にあった豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助の次男として生まれ,東京,三田に死す.
 諱は範,字は子囲,揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」,雅号は三十一谷人.
 慶應義塾の創設者,専修学校(後の専修大学),商法講習所(後の一橋大学),伝染病研究所の創設にも尽力.東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長.明治六大教育家の一.
 幼時,叔父・中村術平の養子になっていたが,後,福澤家に復す.父百助の死(1836)後帰藩して中津に住む.幼時は読書嫌いだったが,8歳になり, 白石照山の塾・晩香堂へ通い,自伝で「漢学者の前座ぐらい」になったというほど.立身新流の居合術を習得.
 安政元年(1854)19歳で長崎へ遊学し,通詞に蘭学を学ぶ.安政2年(1855)中津に戻る命が届くと、無視して江戸に行く途中,大阪で兄に留められ,蘭学者・緒方洪庵の適塾(適々斎塾)に学ぶ.腸チフスに罹り,体力が回復すると中津に戻り,安政3年(1856)ふたたび大阪に出る.
 築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch, 1852)を翻訳する名目で適塾の食客として学ぶ.安政4年(1857)には最年少22歳で塾頭となる.
 安政5年(1858)幕府から諸藩に人材差し出しが命じられ,福澤も中津藩から江戸出府を命じられ,江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために吉川正雄(当時の名は岡本周吉、後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る.築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み「一小家塾」を開く.このもとの蘭学塾を指導していた岡見彦三清熙は佐久間象山の弟子で,象山系の弟子もおり、象山の蔵書も読むことができた.適塾から江戸に移ってきた,藤本元岱・神尾格・藤野貞司・前野良伯らの受け皿にもなった.これが慶應義塾の前身.
 この中津屋敷からと,当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が500m以内の場所であったため、桂川甫周,
神田孝平箕作秋坪,柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎・村田蔵六らと共に出入りし、終生深い信頼関係を築く.
 安政6年(1859)外国人居留地となった横浜の見物に出かけ,オランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける.英学に転向する.蕃書調所へ入所したが英蘭辞書が持ち出し禁止だったために1日で退所.神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇.村田に相談したら,村田は直接ヘボンから学ぼうとしており、彼は無理. そこで蕃書調所取調出役教授手伝の原田敬策(1830.10.7-1910.12.8)と一緒に英書を読むことになる.
 万延元年1月19日(1860.2.10)、福澤は咸臨丸艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者としてアメリカへ立つ.帰国後,木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕(元治元年10月(1864)).戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村.
 文久2年1月1日(1862.1.30),文久遣欧使節の翻訳方としてヨーロッパ各地へ.文久3年(1863)7月、薩英戦争が起こり,外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳に当たることも.
 元治元年(1864)10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕. 慶応2年(1866)『西洋事情』を出版,初編巻之二にはアメリカ独立宣言の全文を翻訳.
 慶応3年1月23日(1867.2.27)には使節主席・小野友五郎と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米(-1867.7.28).現地で小野ともめたための帰国後謹慎は中島三郎助の働きかけですぐに解けた. 『西洋旅案内』を書き上げる.
 江戸開城後新政府から出資を求められたが断る.慶応4年(1868)に蘭学塾を慶應義塾と名付ける.新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴に譲り,三田に移動.明六社に参加.
 明治12年東京学士会院(現・日本学士院)初代会長(1879.1.15-1879.6),
 明治11年12月9日,西郷従道の意を受けた文部大輔の田中不二麿から、当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之(明治12.1.15)、神田孝平(明治12.1.15)、津田真道(明治12.1.15)、中村正直(明治12.1.15)、西周(明治12.1.15)、福澤諭吉(明治12.1.15)、箕作秋坪(明治12.1.15)の7名に,会員になることを前提として東京学士会院の規則について諮問があった.
 この7人が了承し,12年1月15日正式に会員になる.その後14人まではこの7人の選挙によって選ばれる.
まず7人が,杉田玄端(明治12.1.28),ついで,伊藤圭介(明治12.2.15),市川兼恭(斎宮)(明治12.2.15),ついで西村茂樹(明治12.3.1)と内田五観(明治12.3.1),最後に栗本鋤雲(明治12.3.15)を選ぶ.
 ここで,1月28日の会で古賀茶渓(謹一郎)という記事があるが,学士院の記録にはその名はなく,彼を入れずに12年に会員になったのは21人である.彼は旧幕時代の代表的な知識人であり,記事に誤りがあったのか,途中までは参加したが正式に会員になるのをどこかの時点で辞退したのかは分からない.
 ほかは、杉亨二(明治12.4.15)、細川潤次郎(明治12.4.15)、小幡篤次郎(明治12.4.28)、重野安繹(明治12.4.28), 川田剛(明治12.5.15)、福羽美静(明治12.5.15),阪谷素(明治12.5.28),森有礼(明治12.6.15).
 明治13年に,福澤は小幡篤次郎とともに脱退.  [文1] トップ

福田理軒(Fukuda Riken, 1815.5(文化12年)-1889.8.17(明治22年)).
 大坂出身.通称は理八郎、主計介,名は泉,号は理軒,順天堂.
 兄の復(金塘)と共に武田真元に数学暦術について学ぶが、復が奉納した算額に書かれた証明を巡って真元と復が対立し、真元が復を邪道と糾弾して破門.復と理軒は徳島藩出身の小出兼政(小出修喜とも,1797--1865)の元で学ぶようになる。
 天保13年(1842)に土御門家に仕え、兄復とともに大坂の南本町に私塾「順天堂塾」は現在順天中学校・高等学校に.弘化4年(1847)『順天堂算譜』.
 明治維新(1868)により,天文暦道が土御門家に委任されると暦算御用を勤める.土御門家の門人51人が召集され,その指導的役割.
 1871年に東京に移住し、神田猿楽町に順天堂求合祉と呼ばれる和算塾を開く.
 明治3年(1871)8月25日,天文暦道局は大学星学局に改称され,星学局督務・内田五観のもとに8人いる星学局取締りの一人で「大得業生准席」に.明治4年7月に大学本校が廃止され文部省が設置されると,星学局は文部省天文局となる.明治4年9月辞職.
 明治6年1月1日改暦(旧暦の明治5年12月3日)され.この年,天文局にいた経験を踏まえて「太陽暦俗解」を著し,太陽暦の啓蒙に資す.
 明治10年,東京数学会社発足時の社員.
 明治8年の著書「筆算通書」の序の中で次のように言っている.
 『童子問テ曰ク、皇算洋算何レカ優り何レカ劣レルヤ。曰ク、算ハコレ自然二生ズ。物アレバ必ズ象アリ。象アレバ必ズ数アリ。数ハ必ズ理ニ原キテ以テ其術ヲ生ズ。故二其理万邦ミナ同ク、何ゾ優劣アラン。畢竟優劣ヲ云フ者ハ其学ノ生熟ヨリシテ論ヲ成スノミ…』
 弟子に岩田清庸、松見文平(順天堂求合祉を受け継ぎ,順天中学校の校長に)ら.息子の福田治軒(福田半とも).
 『測量集成』(1854-1867).『西算速知』(1857)は日本で初めて西洋数学を紹介したもの.『明治小学塵劫記』(1886,文部省の小学校指定教科書となる),日本初の数学史の本『算法玉手箱』(1886),『近世名家算題集』(1886),『規尺便覧』など.  [文プ] トップ

フーコー,ジャン・ベルナール・レオン(Jean Bernard L\'eon Foucault, 1819.9.18-1868.2.11.)
 フランス,パリに生まれ,パリに死す.
 病弱のため学校に通わず自宅で教育を受ける.はじめ医学を志すが,アルマン・フィゾー(Armand Hippolyte Louis Fizeau)に出会い,物理学に転向.1847年までフィゾーと共同研究.1844年ころから科学の教科書や科学記事を書いて生計.
 太陽表面の写真撮影(1845.4),太陽光の干渉からその波動性を確認(1847),フーコーの振り子実験により地球の自転を証明(1851),ジャイロスコープの発明(1852).パリ天文台の経度局技師(1855).フーコー電流(1855),鏡面製作法を発表し(1857),制作した反射望遠鏡主鏡がマルセイユ天文台で使用される(1873).
 [フ20] トップ

プシュカーリ(Petr Evgen’evich Pushkar’,).
 モスクワ大学から,V.I.アーノルドの指導で「ビリヤード力学系の周期軌道(Periodic Trajectories of Billiard Dynamical Systems)」によりPh.D.(1998).モスクワ大学,モスクワ独立大,モスクワ経済学校数学科助教授.
チェカノフV.I.アーノルドの4予想の解決(2005).チェカノフの定理の一般化(1997).
モース理論,シンプレクティック幾何.  [フ10,文] トップ

藤沢利喜太郎(Fujisawa Rikitarou, 1861.10.12(文久元年)-1933.12.23(昭和8年)).
 佐渡国に幕臣・藤沢親之(当時日本海側唯一の開港地の新潟の奉行所にオランダ語の通詞として勤務)の長男として生まれ,東京に死す.自ら「北越の頑童」と称した.
 一家が東京に出たあと,浅草本願寺裏の誓願寺にあった 英語塾にも通い、「グードリッチの英国史、ウヱーランドの経済学といふような可なり六づかしい本の訳読を小泉信吉 、日原昌蔵先生」ほかから学んだと回想. 後に大隈重信と東京専門学校(早稲田大学の前身)を作り、文部大臣にもなる 高田早苗とこの塾で友人となった。
 12歳前後で,開成学校から独立したばかりの外国語学校へ入学.この学校は,1873(明治6)年に設立され,翌年には東京英語学校がこの学校の英語科を分離して作られる. 藤沢はそちらへ移り,さらに1876年9月に東京開成学校へと移った. 同校は,1877年9月,藤沢は東京大学理学部の数学物理学星学科に入学した. 一緒に入学したのは,田中舘愛橘,田中正平,隈本有尚の3人で,教師は,数学では菊池大麓,物理ではメンデンホールとユーウィングたちであった.
 1882年7月に大学を卒業したが,卒業式の翌日,菊池は藤沢をよび,留学を条件に数学を専攻することをすすめた. 数学の研究者,またその育成者の養成が急務だったのである.藤沢はそのすすめを受け入れ,他の留学生とともに留学に旅立った.
 留学先は菊池の母校のケンブリッジ時代の友人のロウのいるロンドン大学だったが,ヘンリシの助言もあり,ドイツへ.
 最初ベルリンに行ったが,肌に合わず博士論文はシュトラスブルクで(指導者はクリストッフェルとライエ(Reye)).ヨーロッパで感じたことは日本の近代国家としての未成熟さであり,1887年に帰国してからの彼は,数学を通じて,国家としての日本の成熟に資す努力をした.(ドイツ時代のエピソードがビスマルクの項にある)
 数学では菊池大麓についで2人目の日本人大学教授,もちろん東京大学の.
 大学で数学者を育てるだけでなく(その中に高木など),普通教育,普通選挙,生命保険,簡易保険などにも多くの精力を注ぐ.詳しいことは『文明開化の数学と物理』の第3章を見て欲しい.
 1887年(明治19年),帝国大学理科大学の教授.理学博士(1891).
 1897年から5年間,「藤沢教授セミナリー演習録」刊行.高木が,藤沢に独逸仕込みのLehr- und Lernfreiheit(教授の自由と学習の自由)ということを鼓吹されて、なんでもいいから本は勝手に読め」と言われたと回想している.
 数学教室の充実のために教え子の高木貞治吉江琢児中川銓吉を,順次卒業後すぐに1898年から1901年にかけてドイツに留学させ,帰国後教授にし,坂井英太郎とともに5人体制が明治期の東大数学の基本的な姿となる.
 陸軍砲工学校の数学担当教授(明治22年10月1日-明治31年8.1).
 著書に『生命保険論』文海堂(1889), 『算術条目及教授法』(1895), 『算術教科書』大日本図書(1896), 『総選挙読本 - 普選総選挙の第1回』岩波書店(1928), 『藤沢博士遺文集』上・中・下巻、藤沢博士記念会(1934 - 1935).  [伝7], [文プ,3] トップ

藤田貞資(Fujita Sadasuke, 享保19年9月16日(1734.10.12) - 文化4年8月6日(1807.9.7)). 武蔵国男衾郡本田村の生まれ.郷士・本田縫殿右衛門親天の第3子.宝暦6年(1756),大和国新荘藩主永井信濃守家中の藤田東馬定之の養子となる.
 定資とも書く.通称は彦太夫,後に權平.字は子證,号は雄山.
 宝暦12年(1762),28歳の時に山路主住の作暦手伝「暦作並測量方御用出役」として幕府に召され,養父は別人を養子に迎える.関流算学も学ぶ.関流4伝.
 宝暦14年(1764)に浜松諏訪明神の奉納した算額に,関流四世山路弥左衛門主住門人,武州江戸四谷信濃町住とある.
 明和4年(1767),眼病と称して天文方手伝を引退.このとき,永井家を辞し浪人となる.
 明和5年(1768)3月18日,久留米藩主・有馬頼徸に召抱えられ,竹の間席,二十人扶持を給せられる.同年4月3日御広間御番に.天明8年(1788)5月28日御供方に.寛政2年(1790)4月18日,大扈從に.同月29日小身にして御供方を勤めているというので藩主在府中は合力金十両もらえることに. 寛政4年(1792)老年に付き,御供方は免除され,御取次ぎに. 寛政12年(1800)正月十一日御使番に,以降毎年銀三百目を拝領することに 文化4年(1807)病のため致仕し,子息嘉言(門弥)に家督を譲り,耐道と号した.
 同門の安島直円と比べられることも多かった.
 『精要算法』(安永8年(1779))の自序の中に
「今の算数に、用の用あり、無用の用あり、無用の無用あり.用の用は貿易貰貸斗斛丈尺城郭天官時日其他人事に益あるもの総て是なり.故に此書上中巻は人の尤も卑しと思える貿易貰貸の類,日用の急なる,諸算書に見えざる我発明せるの術これを載す.関家の禁秘書尽く此術中に見あらわす.
無用の用は題術及異形の適等,無極の術の類是なり.此れ人事の急にあらずと雖ども講習すれば有用の佐助となる....故に此書下巻は題術の初学に便なるもの其術文の煩を去り簡に帰してこれを載す.其間異形の適等,無極の術を輿おこす.又大極は算数の本源なるや上中下巻の術中に具す.
 無用の無用は近時の算書を見るに,題中の点線相混じ,平立相入る.是数に迷いて理に闇く,実を捨て虚に走り,貿易貰貸の類に於て算に達たる者の首を疾しむるものあるを知らずして甚卑きことに思い,己れの奇巧をあらわし,人に誇らんと欲するの具にして,実に世の長物なり.故に如是もの一もこれを載せず.」
 息子の藤田嘉言(よしとき,1734-1807)に全国の算額を集めさせ,『神壁算法』(寛政元年(1789))を編集して出版.
  関流を本多利明から学んだもののほとんど独学の会田安明が,藤田貞資に入門しようとしたときの言葉の行き違いから,藤田への仲介を頼んだ同僚の神谷定令(藤田の弟子)との争論になり,さらに同じく4伝の安島直円が神谷の後ろ盾となるにおよび,会田は最上(さいじょう)流を創始し,流派の争いに持ち込んだ.
 藤田貞資の『精要算法』の間違いを探して,会田安明が『改精算法』を出したのを初めとして,互いに他の発行本の間違いを探しては非難しあうものだったが,一般の人々が算学に興味を持つようになるという効果もあった.
 弟子に息子の藤田嘉言と神谷定令(?--1811),丸山良玄,黒井忠寄など.  [文2] トップ

フス(Nicolas Fuss, 1755.1.29-1826.1.4).
 スイス,バーゼルに生まれ,ロシア帝国サンクト・ペテルスブルクに死す.  オイラーの数学助手として1773年から1783年まで仕えたが,その後も亡くなるまで同地に留まった.
 球面三角法,微分方程式,顕微鏡や望遠鏡の光学,微分幾何,保険数学.アポロニウスの問題を含めたユークリッド幾何.
1797年にスウェーデン王立科学アカデミー会員,サンクト・ペテルスブルク科学アカデミーの終身書記(1800-1826).
 フスの公式,内接円と外接円を持つ凸四角形に関するフスの定理.  [フ29], [幾解] トップ

ブーダン(Ferdinand Fran\c{c}is D\'esir\'e Budan de Boislauren, 1761.9.28-1840.10.6 ). フランス領サン=ドマング,カプ=フランソワ(現在ハイチ共和国カパイシャン)に生まれ,フランス,パリに死す.
 8歳の時フランスに戻り,フランス,ジュイリーで教育を受ける(コレージュと王立アカデミーで).ナントのコレージュ・ド・サン・クレメントで教える(1779-1787).パリで医学を学び,医学博士(1803).公教育の監察官(1803)として,アマチュア数学者,法律家,医者,詩人.
 多項式の実根の数の上界を与えるブーダンの定理(1807)は,フーリエによって講義の中で触れられ(定式化は違う,1797),今日フーリエ=ブーダンの定理と呼ばれる.論文はパリ学士院で報告され(1811,ラグランジュの要請による),『ある次数の数値方程式の解のための新しい方法(Nouvelle m\'e thode pour la r\'e solution des \'e quations num\'e riques d'un degr\'e quelconque)』として出版(1822).
 ブーダンの近似に対する仕事は,ホーナー法を展開する論文を準備する際,ホーナーによって研究されている.級数の総和法.
 [フ6] トップ

フック(Robert Hooke, 1635.7.18-1702.3.3. )  イギリス,ワイト島,フレッシュウォーターに生まれ,ロンドンに死す.
 学校でラテン語とギリシャ語を学んだが,ラテン語でものを書かなかった.1653年にオックスフォード大学クライスト・カレッジに行き,聖歌隊に入る.1655年にR.ボイルの助手となり,排気ポンプを作り,気体の法則,燃焼,呼吸などの研究をする.
 1658年にはらせん状のばねに関するフックの法則,1678年には弾性体のフックの法則を発見.光学(薄膜の干渉現象を波動説で解釈),調和振動,張られた弦の応力などを研究.ロンドン大学グレシャム・カレッジの幾何学教授(1665-95).王立協会創立時(1662)からの実験機器管理者Curator(40年間).幹事(1677-83).
 1665年には自分で作った顕微鏡で観察したしい細密画集を出版し,基本的な生物学的発見(細胞の発見)をした.世界的な名声を得ることになる.
 円錐振り子を発明し,初めてグレゴリー式の反射望遠鏡を作る.この望遠鏡により,木星が軸の周りを自転していることを発見.彼の描いた火星のスケッチにより火星の自転周期が決められた.1666年には振り子とを使って重力を計算することを提案.1666年のロンドンの大火からロンドンを再建するプロジェクトでC.レンの第1助手.
 1672年に地球が太陽の周りを廻っていることの証明を試み,6年後惑星の運動の説明のために重力の逆2乗の法則を提案.ニュートンとの先取権争いは不幸な結果を生み,プリンキピアから引用を削除され,あまつさえ,彼の死後,王立協会の会長になったニュートンによって,王立協会にフックの器具,原稿,肖像がすべて廃棄されたという.現存する肖像がないことには,彼が「痩せて,腰が曲がり,醜い」という記述から,肖像のモデルをするために座っていたくはなかったのだろうかという説もある.しかし,1710年の夏に王立協会を訪問したドイツ人貴族のウッヘンバッハが,会員の肖像画の中で目立つものとして,ボイルとフックの2人の肖像を記憶しているという証言がある.
文献
  1. 『毛細管現象試論』(An Attempt for the Explication of the Phaenomena Observale in an Experiment, 1661)
  2. 『天文学でより正確な観測をするための新しい機器について』(A Discourse of a New Instrument to Make More Accurate Obsevations in Astronomy, 1661)
  3. 『ミクログラフィア』(Micrographia, 1665)
  4. 『地球の運動を証明する試み』(カトラー講義録, 1674)
  5. 『ヘヴェリウスの「天文機械・第1部」への批判』(カトラー講義録, 1674)
  6. 『太陽望遠鏡についての記述』(カトラー講義録, 1676)
  7. 『ランプ』(カトラー講義録, 1677)
  8. 『講義と修正-彗星論・顕微鏡観察』(カトラー講義録, 1678)
  9. 『復元力についての講義』(カトラー講義録, 1678),フックの法則を論じたもの
 [解IV.3, 人], [パ序, 1-4, 10-12, 附1, ノート, 年表], [ブ50], [幾5,解] トップ

フックス,ドミトリ(Dmitry Borisovich Fuchs, 1939.9.30-)
 A.シュワルツの指導でモスクワ大学から博士候補(1964).トヴィリシ国立大学から博士号(1987),カリフォルニア大学デイヴィス校(1991).
 1970年からI.M.ゲリファントとゲリファント・フックス・コホモロジー論.葉層構造の特性類,フェイギンとヴィラソロ代数の表現のヴァーマ加群の構造(弦理論と関係).
 著書に『ホモトピー論』(1986,フォメンコグーテンマッヘルと共著,日本語訳あり),『無限次元リー代数のコホモロジー』(1987),『本格数学練習帳(Mathematical omnibus: thirty lectures on classic mathematics)』(2007,タバチニコフと共著)  [フ], [幾11] トップ

フックス(Lazarus Immanuel Fuchs, 1833.5.5-1902.4.26. )
 ドイツ,モシン(現在はポーランド領,ポズナムの近く)に生まれ,ドイツ,ベルリンに死す.
 ベルリン大学卒業(1858).クンマーワイエルシュトラスの弟子.ハイデルベルク大学とベルリン大学に勤務.函数論と微分方程式論.特に複素関数を係数とする線形微分方程式の理論.フックス型微分方程式,フックス群.  [名序, 14-16, 18, 文], [伝6,7], [文3], [辞] トップ

フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl, 1859.4.8-1938.4.27)  オーストリア帝国,モラヴィアに生まれ, ドイツ,フライブルク,イム・ブライスガウに死す.
 オルミュッツのギムナジウムを卒業後(1876),ライプツィヒ大学で3学期,数学・物理学・天文学・哲学を学ぶ.1878年春からベルリン大学で,ワイエルシュトラスと,クロネッカーの下で研究.1881年ウィーン大学に移り,レオ・ケーニヒスベルガーの指導で,Beiträge zur Theorie der Variationsrechnung(変分法)により,Ph.D.取得.ベルリンに戻り,ワイエルシュトラスの助手となる.1884年の冬から4学期間ブレンターノに師事し,選考を哲学に変える.
 1886年ルーテル教会に改宗.ブレンターノの推薦で,心理学者のカール・シュタンプ(Carl Stumpf)にいるハレ大学(マルティン・ルーテル大学ハレ・ヴィッテンベルク)へ.,
 また,1887年にハレ大学から,の指導で,Über den Begriff der Zahl(数の概念について)--心理的分析--により,Ph.D.取得(1887).
 学位論文をもとに『算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―』第1巻を出版(1891).フレーゲやナトルプから心理学主義を批判され,それに納得し第2巻の出版を止める.
 『論理学研究』第1巻「純粋論理学序説」(1900),『論理学研究』第2巻「現象学と認識論のための諸研究」(1901).1901年にゲッティンゲン大学助教授.彼を追ってミュンヘン現象学派が来て,ゲッティンゲン現象学派が形成される.
 1904年冬学期,『内的時間意識の現象学』を講義.1906年正教授.1907年夏学期,『内的時間意識の現象学』を講義.1913年,研究機関誌『哲学および現象学的研究年報』(以下『年報』)を創刊(1930年まで).
 1916年リッケルトの後任として,フライブルク大学哲学科正教授.1919年に弟子のハイデッガーを助手に.1928年定年退官.
 ゲッティンゲン時代にワイルに影響,弟子のヘレーネ・ヨセフがワイルと結婚.
 現象学の思想が数学の公理論的扱いに影響を与える.特に,エポケー.  [ワ著2] トップ

フット、ロバート(Robert L. Foote).
   ミシガン大学から,Daniel Matthew Burns, Jr.の指導で,Curvature Estimates for Monge-Ampere Foliations(モンジュアンペール葉層に対する曲率評価)によりPh.D.取得(1983).
 Wabash Collegeの数学・コンピュータ科学教授. [幾7] トップ

フッペルト(Bertram Huppert, 1927.10.22-)
 ドイツ,マインツ大学教授.有限群論の専門家.すべての主組成列の商が巡回群であるとき,超可解群と言う.有限群が超可解であるための条件がすべての極大部分群の指数が素数であることを証明(1954).有限群に関する3巻本(1967,82)は,今日における定本.  [代コ] トップ

プトレマイオス、クラウディオス(Ptolemaios(=Ptolemy, Ptolemeus, Ptolemaus, Ptolemee) Claudios, Κλαύδιος Πτολεμαῖος,83(85,90)?-165(168)?).
 エジプトに生まれ、アレキサンドリアに死す。
 127年頃-141年にアレキサンドリアで天体観測をしていたことはわかっているが、他には何も分かっていない. 恐らくはほとんどアレキサンドリアで暮らしたであろうと思われる。名前からは,ローマ市民権を持ったギリシャ人であるということがわかるだけ.ギリシャ人としてはアレキサンドリアのプトレマイオス,ローマ市民としては正式にはティベリウス・クラウディウス・プトレマエウスと言ったらしい.
 天文学者,地理学者,占星術師。緯線・経線を導入。天動説の代表者のように思われがちであるが,宇宙論として天動説を唱えたというのでなく、古代ギリシャにはさまざまあった宇宙論の中からのアリストテレスのものを採用し,その枠組みの中で、太陽、月、惑星の運動を精確に表わそうとしただけである。主著『アルマゲスト Almagest 』はもとはギリシャ語でΜαθηματική σύνταξις(Mathematike Syntaxis『数学全書』、後にἩ Μεγάλη Σύνταξις(He Megale Syntaxis)『大全書』とも呼ばれる)という書名であった.これが後にアラビア語に翻訳された際に al-kitabu-l-mijisti("The Great Book") という書名になり、これがさらにレギオモンタヌスによりラテン語に翻訳されて Almagest というラテン語形の名前に変わったもの.(アルというのはアラビア語の定冠詞であって,それがラテン語に音訳されたときに残った) 数理天文学の教科書として書かれ,古代の三角法,特に球面三角法の知識は,アルマゲストに書かれているものでしか伝わっていない. 数学的な知識はアポロニウスヒッパルコスに負っている. πの値としては377/120(=3.1217)を使った.
 13巻からなる大著だが,第1巻にある弦の長さの表と球面三角法が数学的には興味深い.後は天体,特に太陽,月,惑星の運動,日食や月食,分点の歳差などについて述べてある.
 紀元147年 - 148年にアレキサンドリア郊外のカノプスに自らの天文学理論を記した碑を建立した。アルマゲスト以前の形式のものであることを,1980年にN.T.ハミルトンが指摘した.
 他の著書に『ゲオグラフィア』(所収の地図に初めて経緯線が描かれている)は地理学,『テトラビブロス』(4つの書)は占星術,『ハルモニア』は音楽理論,『惑星学仮説』は宇宙論,ほかにも平行線の公理に関するもの,光学に関するものなどがある. [解I.1,4, 文], [幾序,1,4-6,8] トップ

ブニャコフスキー(Viktor Yakovlevich Bunyakowskii, 1804.12.16-1889.12.12).
 ウクライナ,ポダルスカヤ・グベルニア,バールに生まれ、ロシアのサンクト・ペテルブルグに死す。
 家庭教育の後パリに留学(1820-25)。パリで公開審査で博士号取得(1825)。ペテルブルグで教職。陸軍関係(1827-62)、ペテルブルグ大学教授(1846-1880)。コーシーの『微積分概要』のロシア語訳。業績は多岐。ガウスの平方剰余の相互法則の新しい証明。 コーシー・ブニャコフスキーの不等式.  [解III.5, 文], [天16], [伝4] トップ

フビニ(Guido Fubini, 1879.1.19-1943.6.6.)
 イタリア,ヴェネツィアに生まれ,アメリカ,ニューヨークに死す.
 ピサ高等師範学校卒業(1900).ピサ大学(Scuola Normale Superiore di Pisa)からディニビアンキの指導で「楕円空間におけるクリフォード平行性(Clifford's Parallelism in Elliptic Spaces)」によりPh.D.取得(1900).
 1901年シシリー島のカターニア大学に勤め,すぐに教授となるが,ジェノア大学の主任として移り,1908年にはトリノ大学教授で,トリノ工科大学でも教える.第1次大戦中は砲火の正確さを研究,音響学や電気学に関心をもつようになる.
1939年ファシスト政権に逐われて,アメリカに移住.
 関数論,微分幾何学,変分法.曲面の射影微分幾何学の創始者.
 フビニの定理,フビニ・シュトゥーディ計量. [ト3] トップ

フュルステンベルグ(Hillel F\"urstenberg)
 イスラエル,ヘブライ大学数学研究所.組合せ論, 数論,確率論,エルゴード理論,群論.  [天1] トップ

フュレディ(Zolt\'an F\"uredi, 1954.5.21-). ハンガリー,ブダペシュトの生まれ.
 ハンガリー科学アカデミー数学研究所から,Gyula O.H. Katonaの指導で「極値ハイパーグラフと有限幾何(Extremal Hypergraphs and Finite Geometries)」によりPhD取得(1981).イリノイ大学アルバーナ・シャンペイン校数学科教授.
 グラフ理論,有限幾何,組合せ論,計算機科学.エルデシュ数1. [天13] トップ

フョードロフ(Evgraf Stepanovich Fedorov, 1853.12.22-1919.5.21)  ロシア,オレンブルグの生まれ.
 現代結晶学および鉱物学の創始者の一人.ペテルブルグ鉱山大学卒(1888).1905年より学長.A.シェーンフリースと独立に空間結晶群の分類(1885, 1889).新しい幾何学の提唱.  [代10, コ] トップ

フライ(Gerhardt Frey.)
 ドイツ,エッセン大学数学科教授.代数幾何学・整数論.フェルマの最終定理の証明に寄与.  [名3] トップ

フライリング(Christopher F. Freiling)
 カリフォルニア大学ロスアンジェルス校からD.A.マーティンの指導で,「バナッハゲーム(Banach Games)」によりPh.D.取得(1981). カリフォルニア大学サンバーナーディーノ校教授.
 集合論,タイル貼り.
フライリングの対称性公理(Freiling's axiom of symmetry,AX, 1986) [フ文] トップ

ブラヴェ(Auguste Bravais, 1811.8.28-1863.3.30).
 フランス,アンノンの生まれ.パリ,エコールポリテクニク教授.
 物理学者かつ数学者.結晶学の大きな貢献.1848年にブラヴェ格子(14タイプの空間格子)を導入,結晶の幾何構造の研究を始める.ジョルダンの運動群の研究の原型となった.
 『結晶図式試論』Etudes cristallo-graphiques (1851).   [代13] トップ

L.H.J.ブラウエル(Luitzen Egbertus Jan Brouwer, 1881.2.27-1966.12.2.)
 オランダ,オーヴェルシーに生まれ,ブラリクム[Blaricum](アムステルダムの南東,ユトレヒトの北方にある町)に死す.
 アムステルダム大学に入学し,コルトヴェーグマヌーリに影響を受ける.卒業後,同大学教授.一般の位相空間でのホモロジー論やホモトピー論の創始者の一人.トポロジーでは次元の位相不変性定理,(ユークリッド空間の)領域不変性定理,(Snに関する)写像定理,(単体上の連続写像に関する)不動点定理. 2次元のシェーンフリースの定理(単純閉曲線に囲まれる領域は円盤と同相)の証明の誤りを示す.ブラウエル次数.
 排中律を排し,直観主義の創始者の1人.排中律を使わない集合論,測度論の教科書も書いている.  [ト序, 2, 5-6, 8, 文], [代21], [天15, 21], [伝5,6,7,8,9,10], [幾2], [ワ著2] トップ

ブラウダー,フェリクス(Felix Earl Browder, 1927.7.31-).  ロシア,モスクワの生まれ.弟のアンドリューとウィリアムも数学者. 父親のアール(1891-1973)はカンサスのウィチタの生まれで,16歳の時に社会党に入党,第1次大戦に反対し,1917年と1920年に入獄.アメリカの共産主義労働組合の代表としてロシアを訪問し,ライシャ・バークマンと会い結婚(1926.9.15).ライシャは革命後モスクワ大学やレーニン研究所で教鞭をとる知識人.モスクワでフェリクスとアンドリューが生まれる.1929年にアールはアメリカに帰るが,妻はモスクワに残り,1933年にカナダ国境を経てアメリカにヴィザなしで入国.1934年にニューヨークでウィリアムが生まれ,同年アールはアメリカの共産党の書記長になる.
 兄弟3人とも本好きで,特にフェリクスは神童を謳われ,16歳でMITに好成績で入学,2年で卒業.1948年20歳でプリンストン大学から「位相的固定点定理と関数解析におけるその応用(The Topological Fixed Point Theory and Its Applications in Functional Analysis)」によりPh.D.取得.指導者はレフシェッツW.フルヴィッツ
 共産主義には反対の立場. 1955年に軍務を離れ,ブランダイス大学の数学助教授に.1年後イェール大学の助教授になり,教授になった後,1963年にシカゴ大学教授になり定年の1986年まで勤める.ラトガス大学教授になり(1986-現在),(1986-1991)にはVice-President for Researchでもあった.アメリカ数学会会長(1999-2000).
 非線形関数解析,特に半群,単調作用素,非拡大写像のチェザロ和の固定点.『ヒルベルトの問題から生まれた数学の発展』(Mathematical developments arising from Hilbert's problems), Proc. Symp. Pure Math., XXVIII (1976)の編集.  [フ文] トップ

プラウフ(Simon Plouffe, 1965.6.11-).
 カナダ,ケベック州,サン・ジョヴィト村(モントリオールから160km)の生まれ.モントリオールのケベック大学で整数論の研究で学位(1992).ケベック大学の数理情報と組合せ論研究所研究員
 2進数におけるπの任意桁を計算可能にするBBPアルゴリズムの式(ベイリーP.ボールウェイン=プラウフの公式)を発見した(1995)。πを任意の基数において計算するアルゴリズムを発見した(1996)。
 Plouffe's Inverter は,2億を越す数学定数を含むウェブサイトである。1975年、プラウフは、πの暗記の世界記録を 4096 桁で塗り替えた。この記録は1977年まで保持された。 トップ

R.ブラウワー(Richard Dagobert Brauer, 1901.2.10-1977.4.17.)
 ドイツ,ベルリン--シャーロッテンブルグに生まれ,アメリカ,マサチューセッツ,ベルモントに死す.
 代数学,有限群論,数論.有限単純群の分類法を定式化し,生涯をその実現に捧げる。ベルリン大学で,I.シューアの元で学び,後1933年まではケーニヒスベルク大学で働くが,政治的な事情で,カナダのトロント大学に移る.後アメリカのミシガン大学(1948-1952),ハーヴァード大学(1952-1971)で働く.初期はワイルとのスピノールについての仕事で,ディラックの電子論に背景を与える.後に,フロベニウスの群指標に興味を持ち,有限群論に移行する.リーマンζに関する研究もある.
 ブラウアー群,ブラウアー指標.ハッセ・ブラウワー・ネーターの定理.  [代序, 11-12, 22, コ], [ワ序,2,3,5,6,7,8,9,10], [伝8], [辞] トップ

ブラウン,アーサー・バートン(Arthur Barton Brown).
 ハーヴァード大学からモースの指導で「n独立変数の実解析関数の臨界点の間の関係(Relations Between the Critical Points of a Real Analytic Function of n Independent Variables)」によりPh.D.取得(1929).
 オズグッド・ブラウンの定理.  [ト文] トップ

ブラウン,モートン(Morton Brown, 1931.8.12-).
 アメリカ,ニューヨークの生まれ.
 ウィスコンシン大学でビングの指導で,「(Continuous collections of higher dimensional hereditarily indecomposable continua)」 によりPh.D.(1958). プリンストン高等研究所(1960-62)のあと,アナーバーのミシガン大学教授.
 幾何的トポロジー,A.シェーンフリースの定理の一般化を,B.メイザーと独立に証明.それにより,O.ヴェブレン賞受賞(1965).  [フ26] トップ

ブラウン,ロイド・アーノルド(Lloyd Arnold Brown).
 『地図の話』(The Story of Maps, 1949)以外にも地図に関する著述多し. ”Jean Domenique Cassini and his world map of 1696” (1941)など,  [幾5] トップ

ブラウン,ロバート(Robert Brown, 1773.12.21-1858.6.10).
 スコットランド,モントローズに生まれ,イギリス,ロンドンに死す.
 植物学者.細胞核と原形質流動の詳細な記述. 植物の受粉や受精の詳細な観察.
 今日ブラウン運動と呼ばれるものの詳細な記録を残したことで,植物学界以外にも大きな貢献.よく水面に浮かべた花粉が水分子の衝突によって不規則に運動すると言われるが,実際は水を吸収して破裂した花粉から出る微粒子の運動を指す.1827年もしくは28年にレーウェンフークの顕微鏡では,花粉自体の微細な運動を観察できない.
 これが科学史上に重要なのは,1905年のアインシュタインの論文で,ブラウン運動の説明をした際,水分子の運動を用いたおかげで,分子や原子の実在についての確信が深まったことにある. さらに,数学的なモデルとしてウィーナー過程が生まれ,確率過程の詳細な解析が可能な例として,その後の確率論の発展に寄与.  [伝10] トップ

ブラウンカー卿、ウィリアム(Lord William Brouncker, 1620-1684.4.5).
 アイルランド、ライアン・カスルに生まれ、イギリス、オックスフォードに死す。
 2代目ブラウンカー子爵。王立協会初代会長(1662-77)。ロンドンのグレシャム・カレッジの学長('64-67)。オイラーによって誤ってペルの方程式と呼ばれている、2元2次不定方程式の解を与えた。業績はウォリスと共同のものが多く、ウォリスの書の中で発表されたので、誤解されている。 [解I.6], [幾6] トップ

ブラウンミュール,アントン・フォン(Johann Anton Edler von Braunmühl, 1853.12.22-1908.3.7). トビリシに生まれ,ミュンヘンに死す.建築家の父が早く死んだあと,一家はミュンへンに戻る.
 ルードヴィヒ・マクミリアン・ミュンヘン大学から,ザイデルとGustav Conrad Bauer(1820.11.18-1906.4.3)の指導で「回転面上の測地線について(Über geodätische Linien auf Rotationsflächen)」により哲学博士号取得(1878).
 ミュンヘン工科大学教授.数学史,総合幾何学,三角法.
 『三角法の歴史についての講義(Vorlesungen über Geschichte der Trigonometrie)』2巻,Teubner, Leipzig (1900-1903).   [幾5] トップ

ブラーエ,ティコ(Tycho Brahe, 1546.12.14-1601.10.24).
 デンマーク、クヌートストループに生まれ、プラハに死す。
 貴族の子として生まれる.初め法律と哲学を学ぶが,1560年に日蝕の観測をして以来天文学と数学に向かう.コペンハーゲン大学,ヴィッテンベルク大学,ロストク大学に学び,1565年卒業.
 1572年11月カシオペア座に超新星を発見,特別な六分儀を作って,星が見えなくなる1574年4月まで観測.1576年デンマーク王フレデリック2世,天文台建設のためフベーン島をブラーエに提供.1577年の大彗星の観測により,アリストテレスの彗星理論に反駁.コペルニクスの太陽中心説には反対し,(地球以外の惑星は太陽のまわりをまわるという)独自の太陽系論を唱える.また,太陽の動きの観測により,1年の長さを1秒以内の誤差で決定する.その結果暦の改訂が避けられなくなり,1582年に10日削られることになり.その後グレゴリウス暦が採用される.観測データの整理のため,球面三角法を利用した大きな数の計算法を発明.
 王の死後,後援者を失い,1597年ドイツへ去り,2年後皇帝の招きでプラハに落ちつき,新しい助手のケプラーを得るが,1601年に死ぬ.残されたデータに基づいてケプラーが発見した法則が,新しい天文学の幕を明ける.  [パ年表], [幾5,文] トップ

ブラゴ(Yuri Dmitrievich Burago, 1936.6.21-.).
レニングラード大学に学び,ザルガラーA.D.アレクサンドロフのもとで博士号取得.サンクト・ペテルスブルク大学教授,スチェクロフ数学研究所サンクト・ペテルスブルク分局の幾何とトポロジーの研究室長.
凸幾何,微分幾何.
著書にドミトリ・ブラゴ,セルゲイ・イヴァノフと共著のA Course in Metric Geometry(1984,2001)やザルガラーとの共著『幾何の不等式(Geometric Inequalities)』(1988).
  弟子にポアンカレ予想の解決をしたグリゴリ・ペレリマンなど.  [フ文] トップ

ブラシュマン(Nikolai Dmitrievich Brashman, 1796.6.25--1866.5.25.).
 モラヴィア,ロセノヴァに生まれ,ロシア,モスクワに死す.
 ウィーン大学卒.カザン大学(1825--34),モスクワ大学(1834--)に勤める.1839年にロシア国籍を取得. 初代モスクワ数学会長,その機関紙も創始.M.V.オストログラツキーの影響下で,流体力学,最小作用の原理などを研究. [伝4] トップ

ブラシケ,ヴィルヘルム(Wilhelm Johann Eugen Blaschke, 1885.9.13--1962.3.17).
 オーストリア=ハンガリー帝国グラーツ(現在オーストリア領)に生まれ,ドイツ,ハンブルクに死す.グラーツのランデス実科ギムナジウムの画法幾何学の教授だった父ヨーゼフからの影響で,抽象的な問題より具体的な問題を好み,また国際的な視野を持つようになったという.
 グラーツの高校を18歳で卒業し,2年間グラーツ工科大学で学んだ後ウイーン大学に行き,ヴィルティンガーのもとで学位(1908).その後数年,当時の指導的幾何学者すべてから学びたいと,いろんな大学を回る. ピサ大学ではビアンキ,ゲッティンゲン大学でF.クラインヒルベルトルンゲ,ボン大学でシュトゥーディ.シュトゥーディとは共同研究をし,ボン大学にハビリタシオーン・テーシスを提出し,私講師になる(1910).プラハのドイツ工科大学の数学の特任教授(1913),ライプツィヒ大学に転勤(1915). ライプツィヒではヘルグロッツと親友になり(彼は偏微分方程式,関数論,微分幾何に関心があった),10年後ゲッティンゲン大学でルンゲの後任となる. ライプツィヒ時代に『円と球面(Kreis und Kugel) 』(凸な図形の等周問題を扱う)を出版(1916).ここではシュタイナーのアイデアを展開しているが,ディリクレから存在証明がないと批判を受ける.ワイエルシュトラスが変分法を使った証明をして穴を埋めるが,ブラシケはそういう証明には不満だった.
 ライプツィヒに2年いた後,1917年にケーニヒス大学正教授.また2年後テュービンゲン大学に移り,今度は短期間でハンブルク大学の講座を担当し,退職まで勤める.この間各地の大学で客員を勤める.ジョン・ホプキンス大学,シカゴ大学,イスタンブール大学,ベルリンのフンボルト大学.
 ハンブルクに短期間で一大学派を作る.ヘッケE.アルティンH.ハッセ
 第1次大戦後,ICMからドイツ勢力を排除する議論が起こり,ドイツ数学界の再構築の委員に就任.ナチが力を得てからは,それに協力するビーベルバッハと,国際協力を大事にするブラシケとの間で数学界会長をめぐった争い.ブラシケが一旦は勝つものの,1935年には会長職もICMの委員も辞めることになる.その後1936年にナチに入党し,終戦までドイツ数学会の指導的立場に.真意は分からない.戦後はそれらを非難される.1945年9月3日に連合軍がブラシケを大学から解任する.カラテオドリなどの支援もあって,1946年10月23日にハンブルク大学に再任され,1953年9月30日の退職まで講座を保持する.
 微分幾何,積分幾何,運動学.
 『微分幾何学講義(Vorlesungen \"uber Differentialgeometrie )』(1921-1929)は3巻本.第1巻は古典的な幾何で,第2巻はアフィン微分幾何,第3巻は変換群の作用から幾何を見たもので,メビウスラゲールリーと同じ立場,F.クラインのエルランゲン・プログラムの精神で書かれている. 『網の幾何(Geometrie der Gewebe)』(1938), 『網の幾何入門(Einf\"uhrung in die Geometrie der Waben)』(1955).
弟子にチャーン.サンタロ,シュペルナーなど.   [フ18,文] トップ

プラソロフ(Victor V. Prasolov=Viktor Vasil’evich Prasolov).
 代数,代数トポロジー
 モスクワ大学
 『平面幾何と立体幾何の問題(Problems in Plane and Solid Geometry)』, 『線形代数の問題と定理(Problems and Theorems in Linear Algebra )』(1994, Simeon Ivanovと共著), 『直観トポロジー(Intuitive Topology)』(1995), 『楕円関数と楕円積分(Elliptic Functions and Elliptic Integrals)』(1997, Yu.P.Solov'evと共著), 『結び目,絡み目,組み紐と3次元多様体:低次元トポロジーにおける新しい不変量の導入(Knots, Links, Braids and 3-Manifolds: An Introduction to the New Invariants in Low-Dimensional Topology)』(1997,ソシンスキーと共著) 『数と図形の話(Essays on Numbers and Figures)』(2000), 『幾何学(Geometry)』(2001,チホミロフと共著) 『多項式(Polynomials (Algorithms and Computation in Mathematics))』(2004) 『組み合わせトポロジーと微分トポロジー初歩(Elements of Combinatorial And Differential Topology)』(2006), 『ホモロジー論初歩(Elements of Homology Theory)』(2007), [フ文] トップ

フラッド,メリル(Merrill Meeks Flood, 1908--1991).
 ネブラスカ大学数学科卒.プリンストン大学から,ウェダーバーンの指導で「非特異行列多項式による割り算(Division by Non-singular Matric Polynomials.)」によりPh.D.を得る(1935).
 1930年にプリンストン大学で働き始め,第2次大戦後,ランド研究所,コロンビア大学,ミシガン大学,カリフォルニア大学で働く.
 1950年代にTIMS(管理科学研究所)の創立メンバーで,1955年に2代目所長.1950年代末にはSociety for General Systems Researchの創設の会員で,1961年にはアメリカOR学会会長.Institute of Industrial Engineers副所長(1962-1965).管理科学とOR分野のパイオニアと考えられている.
 1940年代に巡回セールスマン問題,1953年にヒッチコックの輸送問題,1950年にメルヴィン・ドレッシャーとともにゲーム理論の囚人のジレンマ・モデルを提出. [率25] トップ

プラトン(Platon, 紀元前427-347).
 ギリシャ、アテネに生まれ、アテネに死す。
 ソクラテスに私淑、その刑死(前399)後、12年にわたって内外を遍歴。エジプトでは水時計を学びギリシャに紹介した.シラクサでの政治活動の失敗の後、イタリア半島南部のクロトンにあった,ピュタゴラス教団に立ち寄り,ピュタゴラスの思想に接し、数学の価値を知る。アテネに戻り、将軍アカデモスの果樹園の中に学問所を作り、アカデミアと名づける。死ぬまでそこでの教育と対話篇の執筆。イデア説。
 アカデミアの入り口に掲げられていたという「幾何学に通ぜざるもの、この門を入るを許さず」という言葉は、今も数学者の心の支えである。西欧思想に与えた影響は深大で、「ヨーロッパの哲学の伝統はプラトンに対する脚註から成り立っている」(ホワイトヘッド)といわれるほどである。
 紀元前4世紀になされた数学の業績はプラトンの友か弟子によってなされた。 5つの正多面体はプラトンの立体と呼ばれているが、プラトンが対話篇『ティマイオス』で述べたためで、正4面体、正6面体(立方体)、正12面体はピュタゴラス学派により、正8面体と正20面体はテアイテトス(前4世紀に活躍。アカデメイアで研究員をしていたらしい。)によるとされる。また正多面体を最初に作図したのもテアイテトスと言われている。 [解I.1], [名序, 17-19, 22, 文], [珠訳序], [代1, 13, 16], [代入1], [天10], [幾序,1,2,5,9], [基1,4], [50.29] トップ

ブラーマグプタ(Brahmagupta, 598-668).
 インド北西部のビンマルで生まれたと信じる人がいる.父親は有名な占星術師.
 数学・天文学者。インド中央部にあるウッジャインにあった天文台長。1年の長さを365日6時間5分19秒としている。ウージャインは中央インドの町でヒンドゥー教7聖地の1つ。いくつもの王朝の都として栄えた町で、インドの文化の中心地だった。
 ブラーマグプタの公式,始めて0を導入した著書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタBrahmasphuta-siddhanta』 (宇宙の始まり)を628年頃に書く.正弦や余弦に着目. [解I.4], [名2], [作5], [幾5,6] トップ

プラマー(Michael David Plummer, 1937.8.31-).
 グラフ理論.
 ミシガン大学ヵら,F.ハラリー(Frank Harary)の下で,On the Theory of Graphical CoveringsによりPh.D.取得(1966).イェール大学でポスドク(1966-68),ニューヨーク市立大学シティカレッジのコンピュータ科学科助教授(1966-68).テネシー州,ナッシュビル,ヴァンダービルト大学数学科(1970-2008).
 well-covered graph.ロヴァースと共同研究. [天7] トップ

ブラームス(Steven J. Brams, 1940.11.28-)
 アメリカ,ニュー・ハンプシャー,コンコードの生まれ.
 MITで政治・経済・科学で学位(1962),ノースウェスタン大学で政治科学のPh.D.取得(1966).
 ニューヨーク大学でゲーム理論と政治科学の教授(1969-).選挙法や公平な分割に対して,ゲーム理論や公共選択論,社会選択理論を適用.
 アラン・D.テイラーとともに,n人に対するenvy-free cake-cuttingの最初の解を与える(1995).
 著書多数,Superior Beings: If They Exist, How Would We Know? Game-Theoretic Implications of Omniscience, Omnipotence, Immortality, and Incomprehensibility(1983)では,ニューカムのパラドクスで重要な上級の存在についての振る舞いを研究.   [率25] トップ

フラムスティード(John Flamsteed, 1646.8.19-1719.12.31.)
 イギリス,ダービーシャー,デンビーに生まれ,グリニッジに死す.
 始め牧師を志すも天文学に転向,王立協会会員.1675年創立の王立(グリニッジ)天文台初代台長.悪口を言われながら,観測結果を送り続け,ニュートンの月の運動理論に寄与.精密な星表Historia Coelestis Britannicaを出版.  [パ2, 年表] トップ

フランチェスカ,ピエロ・デラ(Piero della Francesca, 1412?-1492.10.12). イタリア,ボルゴ・サン・セポレロ(現在サンセポルクロ)に生まれ,同地に死す.ルネサンス期のフレスコ画家.数学者としても知られる.3次元の物体を点々から見た図を描くことを追求.
De prospectiva pingendi『絵画の遠近法』(1478年頃)は,はじめて遠近法を数学的に取り扱った書物で,以降の遠近法に関する書物の多くは,これの引き写し.
Libellus de quinque corporibus regularibus『5つの正しい形体についての小冊子』では,アルキメデスの多面体,つまり,正多面体を平面で切り取った形を扱う.
Trattato d'abaco『算盤に関する論文』では実用算術と簡単な代数と幾何を扱う.算盤学派の基本文献.
ルネサンス期には彼の著作は公刊されず,写本のまま流布し,他の書籍の中に埋めこまれてしまった.例えば, 彼の代数はパチオーリの『大全』に,アルキメデス多面体はパチオーリの『神聖分割』に.  [多体], [幾9,11] トップ

ブラント(Stephan Brandt)
 ドイツ,ベルリン自由大学数学・情報学科.ベルリン自由大学で,M.アイグナーの下で学位(1994).現在イルメナウ工科大学数学・自然科学科私講師.グラフ理論.[解I.1, 文] トップ

ブラントン(John David Blanton).
 ハーヴァード大学からケアンズ(Stewart Scott Cairns)の指導で「2胞体のイソトピックな三角形分割の空間(Spaces of Isotopic Triangulation of a 2-Cell)」によりPh.D.取得(1970).
 ニューヨーク、ロチェスター大学。セント・ジョン・フィッシャー・カレッジ.
オイラーの『無限解析入門』の最初の英訳者。 [解I.1, 文] トップ

ブリアンション,シャルル・ジュリアン(Charles Julien Brianchon, 1783.12.19-1864.4.29). フランス,イル=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県,セーヴルに生まれ,ヴェルサイユに死す.
  数学者で化学者.1804年に18歳でエコール・ポリテクニクに入学,モンジュの下で学ぶ.学生のときに,Sur les surfaces courbes du second degré(2次の曲面について)という論文をエコール・ポリテクニク誌に発表.そこで,パスカルの魔法六角形を再発見. ブリアンションの定理はこの逆定理.ブリアンション点.
 1808年にクラスで一番で卒業後,ナポレオンの砲兵隊でルーテナントに.
 1816年から18年まで教職を求めてたくさんの論文を書く.円錐曲線の射影幾何で重要な結果.ポンスレと共著論文「与えられた4条件を使った,等辺双曲線の決定に関する研究(Recherches sur la détermination d'une hyperbole équilatère, au moyen de quatres conditions donnée)」 (1820).この中には九点円の定理とその証明もある.定理の主張は彼らが最初ではないが,適切の証明はこれが最初.九点円は彼の命名. 著書に『2次の曲線に関する報告Memoire sur Les Lignes du Second Ordre(1817) .
 1823年から興味は化学に移る. [幾10,11] トップ

フーリエ(Jean-Baptiste Joseph Fourier, 1768.3.21-1830.5.16).
 フランス、ブルゴーニュ、オセールに生まれ、パリに死す。
 数学・物理学者。エコール・ノルマルでラグランジュラプラスモンジュに学ぶ。エコール・ポリテクニク教授。ナポレオンのエジプト遠征に参加。
 イゼール県知事。熱伝導の方程式、フーリエ級数、フーリエ積分.フーリエ=ブーダンの定理 [解II.4, III.3-4, 文], [パ8, 16, 25, 年表], [代序, 4-5, 15, 17], [伝1,2,3,4,6,9,10], [文3], [ワ7], [フ6,10], [辞], [作付B], [幾11] トップ

ブリオスキ(Francesco Brioschi, 1824.12.22-1897.12.14)
 ロンバルド・ヴェネト,ミラノ(現在イタリア領)に生まれ,イタリア,ミラノに死す.
 パヴィア大学卒業(1845),教授(1852-61).教育省に務めていた時期もある(1861-62, 1870-82).1863年ミラノ工科大学を組織し,校長になり,数学と水力学教授(-死).イタリア学派の創始者の一人.『行列論』,楕円関数とアーベル関数の変換理論.5次と6次の方程式を解くために楕円モデュラー関数を使う.純粋数学の応用上の価値を高く評価し,以降のイタリアの数学の方向づけに寄与.  [ワ2], [伝5] トップ

ブリーカー(David Dudley Bleecker)
 カリフォルニア大学バークレイ校からチャーンの指導で,「曲面論への貢献(Contributions to the Theory of Surfaces)」によりPh.D.取得(1973). ハワイ大学マノア校教授(1973-2010).
 著書に『ゲージ理論と変分原理(Gauge Theory and Variational Principles)』(1981).    [フ文] トップ

ブリカール(Raoul Bricard, 1870.3.23--1944).パリ中央工芸学校で幾何を教え,1908年にフランス国立工芸院の応用幾何学教授に.1932年にパリ・科学アカデミーからポンスレ賞受賞.
1896年にヒルベルトの第3問題を研究,1897年に折り曲げ可能多面体を研究,すべての折り曲げ可能8面体を分類.1922年にモーレーの(3等分)定理の最初の幾何的証明を与える.
ブリカールの折り曲げ可能8面体.   [天7,モ], [フ]   トップ

ブリス(Gilbert Ames Bliss, 1876.5.9--1951.5.8).パイリノイ州シカゴに生まれ,イリノイ州ハーヴェイに死す.
 シカゴ大学(1893-97),大学院は数理天文学でその分野の仕事があるが,1898年に数学に転向した.ワイエルシュトラスの1897年の講義録とボルツァの講義によって生涯のテーマである変分法に出会う.
 シカゴ大学からボルツァの指導で「トーラス上の測地線について(The Geodesic Lines on the Anchor Ring)」によりPh.D.取得(1900).
 1902年,ミネソタ大学講師となり,1902-03にはゲッティンゲン大学で過ごし,F.クラインヒルベルトH.ミンコフスキーツェルメロE.シュミット,Max Abraham,カラテオドリらと交流.
 アメリカに戻り,シカゴ大学とミズーリ大学で各1年教え, 数学教室創成期のプリンストン大学にPreceptorとして勤務(1905-08),アイゼンハルトO.ヴェブレンR.L.ムーアらの若い数学者のグループに参加.
 1908年にシカゴ大学でマシケが亡くなり,そのあとを引き継いで教授となり,1941年の引退まで勤める.シカゴ大学で指導したPh.D.取得者は54以上である.
 『代数関数(Algebraic functions)』(1933), 『外部弾道学の数学(Mathematics for Exterior Ballistics)』(1944), 『変分法講義(Lectures on the Calculus of Variations)』(1946).   [伝8]   トップ

ブリソン,ヘラクレアの(Bryson of Heraclea, 紀元前450年頃--?).
 ヘラクレア(現在,イタリア,タラント)の生まれ. プラトンアリストテレスがブリソンという名の数学者のことを数ヶ所で触れているが,同じ人なのかどうか分からない.アリストテレスは,ソフィストだったヘラクレアのブリソンを,ヘラクレアのヘロドトスの息子と述べている.また,ブリソンの主張の言葉の無作法さと,平方化(=求積)の方法を批判している.その平方化の議論が幾何の原理にではなく一般原理に基づくということで批判しているが,どういう内容だったかは触れていない.アリストテレスの批判はあっても,数学の発展という意味では重要なステップだったと言える.
 ディオゲネス・ラエルティウスによれば,ブリソンはソクラテスかメガラのエウクレイデス(ソクラテスの弟子で,アレキサンドリアのエウクレイデスと間違われることがある人物)の弟子だったという.
 ずっと後になって,210年にアレキサンドル・ アフロディシエンシスは,ブリソンの議論は「円に正方形をを内接および外接させ,その2正方形の間にもう1つの正方形を(多分内外接するように)入れて,その正方形の面積が円の面積である」であったと述べている..そして,アレキサンドルは,8と9は7と10の間にあるが,8と9は違うと言うもっともな反論をあげている.
 しかし,別の古代の注釈者であるテミスティオスは,円のどんな内接多角形は円よりも小さく,どんな外接多角形は円よりも大きいと主張してと述べている.その後のブリソンの議論がどうなっていたのかは分かっていないが, 辺の数を大きくしていけば,内外接の多角形の差は好きなだけ小さくなり,したがって,望むだけの精確さで円の面積が求められると言ったこともありそうなことだという意見はある.これはアンティフォンの議論の改良であって,アルキメデスの取り尽くし法に近いものである.
 また,プラトンが盗作したと告発された『非難』を書いた.ポリクセヌスとともに,プラトンの『パルメニデス』にある哲学的な議論を展開したと言われており,『パルメニデス』はブリソンの『非難』からの盗作だった可能性がある.とはいえ,哲学の多くは注釈であり,引用は当然で,引用という部分だけが,プラトン自身か後世の誰かのせいで欠落したのかもしれない.  トップ

ブリッグス、ヘンリー(Henry Briggs, 1561.2-1630.11.26).
 イギリス、ヨークシャー南西部、ハリファックスのウォーリーウッドに生まれ、オックスフォードに死す。
 ロンドンのグレシャム・カレッジの初代幾何学教授('96)、オックスフォード大学初代サヴィル幾何学教授('19)。エウクレイデス『原論』ネイピアの『対数術』を刊行。イギリスに本格的に数学を導入した人。  [解I.1-3, 文] トップ

ブリースコルン(Egbert Brieskorn, 1936- ).
 1963年ボン大学で,F.ヒルツェブルフの指導の下,「微分トポロジーと代数多様体の解析的分類」によりPh.D.取得.
 ドイツ、ボン大学教授。代数幾何,トポロジー. [解序] トップ

フリッケ(Robert Karl Emanuel Fricke, 1869.9.24-1930.7.18).
 ドイツ,ヘルムシュタットに生まれ、バッド・ハルツブルクに死す。
 ブラウンシュヴァイクで育ち,同地のギムナジウムを卒業(1880). 1880年から1883年の間に大学はゲッティンゲン,チューリヒ,ベルリン,シュトラスブルクをまわり,1883年の冬学期はライプツィヒ大学でF.クラインの講義に出る.その指導で論文「低ランクの楕円モデュラー系について(\"Uber Systeme elliptischer Modulfunktionen von niederer Stufenzahl)」により,ライプツィヒ大学から博士号取得(1885).
 ブラウンシュヴァイクに戻り2つのギムナジウムで6年以上教え多が,その後ブラウンシュヴァイク公アルブレヒトの2人の息子の家庭教師をする.時間の余裕ができ,数学の専念.1886年にゲッティンゲンに移ったクラインと連絡を取り合い共同研究し,『楕円モデュラー関数論講義(Vorlesungen \"uber die Theorie der elliptischen Modulfunctionen)』(1890, 1892). 楕円モデュラー関数の理論はアイゼンシュタインの覚書(1847)に始まり,ワイエルシュトラスの講義で発展した後,クライン学派が精力的に研究した.貢献したのは,シュレーフリ(1870),クライン,フォン・ダイク,フリッケ,A.フルヴィッツなどだが,この2巻本が楕円モデュラー関数論の古典となった.
 キール大学私講師(1891),ゲッティンゲン大学私講師(1892) ,ブラウンシュヴァイク・ポリテクニク教授(1984),校長(1904-6, 1921-3).この職はデデキントが32年間勤めていたもので,のちにE.ネーターオーアらとデデキント全集3巻(1930-32)の編集をする.
 クラインとの共著『保形関数論講義(Vorlesungenuber die Theorie der automorphen Funktionen)』2巻(1897,1912).2巻ではカントールの集合論やブラウエルの次元論を使う.
 『(Kurzgefasste Vorlesungen \"uber verschiedene Geblete der h\"oheren Mathematik, mit Ber\"uchsiehtigung der Anwendungen)』(1900), 『楕円関数とその応用(Die elliptischen funktionen und ihre anwendungen)』(1915,1922), 『楕円関数とその応用( Lehrbuch der Algebra)』(1924)はヴェーバーが1913年に死んだ後,彼の教科書の最後の版を引き継ぐものとして出版社の依頼で書かれた3巻の最初のもの. 2巻目は『低次数の方程式詳論(Ausf\"uhrungen \"uber Gleichungen niederen Grades)』(1926),3巻目は『代数的数(AIgebraische Zahlen)』(1928). H.F.Blichfeldt,   [フ3] トップ

ブリッチフェルト(Hans Frederick Blichfeldt, 1873.1.9-1945.11.16).
 デンマーク, Illarに生まれ,アメリカ,カリフォルニア州パロア・アルトに死す.
 1900年にS.リーの指導で,ライプツィヒ大学から,「3次元空間の群のあるクラスについて(On a certain class of groups of transformations in space of three dimensions)」により哲学博士号取得.  群論,数の幾何.ブリッチフェルト原理,球面充填の密度についてのブリチフェルトの上界.
 著書に,Finite Collineation Groupsと,ミラーL.E.ディクソンとの共著『有限群の理論と応用』(1916)がある.   [ワ1文] トップ

フリードリクス(Kurt Otto Friedrichs, 1901.9.28-1982.12.31).
 ドイツ,キールに生まれ,アメリカ,ニューヨーク州,ニューロシェルに死す.
 父親のカールがデュッセルドルフで弁護士をしたいたときの同僚にF.クラインの弟がいた.デュッセルドルフのギムナジウム卒業後,デュッセルドルフ大学に入学,その後,グライスフェルト,フライブルク,(オーストリアの)グラーツ大学に移ったが,哲学と数理物理の間で迷い,クラインの弟の紹介状を持って,卒業研究をゲッティンゲンでするためにクラインに会いに行く(1922.6.25). ゲッティンゲンではC.L.ジーゲルE.アルティンに魅了され,同じ年にゲッティンゲンに来たハンス・レヴィと友人になり,共著の論文を書く. R.クーラントの指導下でプラトー問題に関する論文で博士になる(1927).クーラントの助手の2年間は,クーラント・ヒルベルトの制作を助ける.1929年にアーヘン大学のT.フォン・カルマンの助手になりに行くが,同年ゲッティンゲンで教授資格試験を受けに戻る.この論文はヒルベルト空間の作用素を双曲型の偏微分方程式の初期値問題に応用したもの.その後ブラウンシュヴァイク工科大学の教授に.
 1933年にナチが政権を取ってから,レヴィやクーラントはアメリカに逃れ,恋人になったネリーがユダヤ人だったため,彼自身もアメリカに移住することを決意.結局クーラントの援助の下に,アメリカに移住しニューヨーク大学へ.ネリーはフランス,カナダ経由でアメリカに来ることができ,彼らは結婚する.
 クーラント・ヒルベルトの第2巻制作の助手をしたが,さらにクーラントとの共著『超音速流と衝撃波』(1948)は古典となる. [列6,9] トップ

フリードリヒ2世(Frederick II= Friedrich the Great, 1712.1.24-1786.8.17).
 プロシャ,ベルリンに生まれ,ポツダムのサン・スーシ(無憂)宮に死す.
 フリードリヒ大王とも言う(プロシャ王,在位 1740-86)。 1741年から25年間、オイラーのパトロン。オイラーをサイクロプス(1つ目の怪物)と嘲り、ヴォルテールを厚遇したため、宮廷内の人間関係から、オイラーはエカテリーナ2世のサンクト・ペテルブルグに戻ることになる。  [解II.10], [珠人], [伝1], [ふ3] トップ

フリーマン,デイヴィド(David Mandell Freeman).
 ハーヴァード大学卒業(2002),ケンブリッジ大学修士(2003),カリフォルニア大学バークレイ校から,リベットとE.F.シェファーの指導で,「ペアリング暗号に対するアーベル多様体を構成する(Constructing Abelian Varieties for Pairing-Based Cryptography)」によりPh.D.取得(2008).現在(2012)スタンフォード大学計算機科学のポスドク.
 数論と算術幾何の暗号への応用.  [フ文] トップ

プリュッカー(Julius Pl\"ucker, 1801.6.16-1868.5.22.).
 ベルク公国エルバーフェルト(現在はドイツ,ヴッパータール)に生まれ,ドイツ,ボンに死す.
 先祖はアーケンの商人,つまり,背景にフランスとドイツがあるということであり,彼の数学はモンジュのようなフランス・スタイルの幾何学の系譜を引く.
 デュッセルドルフのギムナジウム卒業後,ボン,ハイデルベルク,ベルリンの各大学で学ぶ.1823年にはパリ大学に行く. マールブクルク大学からゲルリンクの指導でGeneralem analyeseos applicationem ad ea quae geometriae altioris et mechanicae basis et fundamenta sunt e serie Tayloria deducitにより博士号(1823).
 1824年にボン大学の特任教授になり,1833年にはベルリン大学の特任教授になり,同時にフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムでも教鞭.当時ベルリン大学の数学の講座はJ.シュタイナーが占め,綜合幾何学のドイツ学派の総帥だった彼と解析的手法を取るプリュッカーの間に両雄並び立たずという状況が生まれ,Polytechnikの教授職を争うことになり,クレレがシュタイナーよりプリュッカーの方を好んだという証言がある.プリュッカーはベルリンから離れた場所で職を探し,1834年にハレ大学の正教授となり,1836年にボンのライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学に戻る.翌年結婚し一人の息子を得る.
 彼は物理科学への数学の応用を重要と考える幾何学者だったが,1847年に物理に転向し,ボン大学の物理学教授になり,磁気,電気,原子物理を研究.またスペクトル線が各化学物質を特徴付けることを述べて,キルヒホッフやブンゼンの先鞭をつける.
 彼はその死まで物理学教授の職にあったが,1865年に数学に関心を戻し,F.クラインを助手とした(1866-1868).
『解析幾何の展開(Analytisch-geometrische Entwickelungen )』(1828,29)で種々の座標を導入し,『解析幾何の体系(System der analytischen Geometrie, auf neue Betrachtungsweisen gegrundet, und insbesondere eine ausf\"uhrliche Theorie der Kurven dritter Ordnung enthaltend)』 (1835)で円錐曲線に適用し ,『代数曲線論(Theorie der algebraischen Kurven )』(1839)で無限遠点近くでの代数曲線の性質や特異点を調べる.『新しい空間幾何(Neue Geometrie des Raumes, gegr\"undet auf die Betrachtung der geraden Linie als Raumelement)』の第1部出版(1868)後,第2部はプリュッカーのアイデアを知っていたクラインが書き継いで1869年に出版した.
 プリュッカーの公式,プリュッカー座標(=グラスマン座標),プリュッカー埋め込み,プリュッカー方程式,プリュッカー不変式,プリュッカー行列, プリュッカーのコノイド,プリュッカーの関係式,プリュッカー曲面.  [伝2,3,5,6], [フ12,17,29], [幾11] トップ

ブリューデルン(Jörg Brüdern, 1962.8.1-). ドイツ,ニーダーザクセン州ザルツギッターの生まれ.
 ゲッティンゲン大学とオックスフォード大学で数学,物理,天文学を学ぶ. ゲッティンゲン大学からのSamuel James Patterson指導で「加法的整数論における反復法(Iterationsmethoden in der additiven Zahlentheorie)」によりPh.D.取得(1988).Sieves, the circle method and Waring's problem for cubes(篩,サークル法,3次のウェアリングの問題)で大学教授資格(1991).
解析的整数論,調和解析.
ミュンヘン大学,シュトゥットガルト大学代数・数論研究所教授(1994-2009),ゲッティンゲン大学教授(2009-) .
 『解析数論入門(Einf\uhrung in die analytische Zahlentheorie)』(1995).  [珠文] トップ

プリューファー(Ernst Pauli Heinz Pr\"ufer, 1896.11.10-1934.4.4.). ドイツの人.グラーツとミュンスターの大学に勤務.群論,とくにアーベル$p$群.ホモロジー代数でのプリューファー環. [天24] トップ

プリングスハイム(Alfred Israel Pringsheim, 1850.9.2-1941.6.25).
 ドイツ、低地シレジア、オラウ(現在ポーランド領)に生まれ、スイス、チューリヒに死す。
 ハイデルベルク大学からケーニヒスベルガーの指導でPh.D.取得(1872).ベルリンではワイエルシュトラスに傾倒。
1875年,両親のいたベルリンからミュンヘンに移り,2年後教授資格を得て講師になる. ミュンヘン大学准教授(1886),教授(1901)に勤め,1922年名誉教授.
 子供は5人,娘は一人でカテリーナ.カーチャと呼ばれ,ミュンヘン大学での書記の活動的女子学生で,作家トーマス・マンの妻となる.
 戦中アーリア人でないことからスイスに逃れる。
 プリングスハイムの定理(ベキ級数の収束に関するもの),コーシーの積分定理の証明の簡素化。連分数論、表わし方の工夫、ランベルトの結果の現代的証明を与える。
「数学の求める真理は無矛盾性以上でも以下でもない。」
  [解III.3-4, 7, 文] トップ

ブール(George Boole, 1815.11.2-1864.12.8).
 イギリス,リンカーンシャー,リンカーンに生まれ,アイルランド,カウンティ・コーク,バーリンテンプルに死す.
 論理を単純な代数学に変えた人.微分方程式,有限差分法,確率論の一般的方法についても業績がある.
 高等教育は受けなかったが,幼少のときから父から学び,12才にしてラテン語のホレーショの詩を翻訳.言語に才能を発揮.16才から学校で教える.僧職につきたいと思っていたが1835年翻意し数学の勉強を始める.ケンブリッジのダンカン・グレゴリーの影響を受けるも,親を養う必要から正規に大学には入らず,グレゴリーが編集をしていた数学雑誌Cambridge Mathematical Journalに書きはじめる.1849年からコークのクイーンズ・カレッジの数学教授に.
 49才で病死する.2マイルの距離を歩いて大学に行く途中大雨に降られ,濡れた服で講義をし,酷い風邪が肺に来たのだそうである.
 娘が5人.エティエール・リリアンは作家で,リュースィはロンドンで最初の女流化学教授.
 ブール環,ブール代数,ブール束など.
文献
  1. 『思考の法則』(An investigation into the Laws of Thought, on Which are founded the Mathematical Theories of Logic and Probabilities), (1854).
  2. 『微分方程式論』(Treatise on Differential Equations) (1859).
  3. 『有限差分論』(Treatise on the Calculus of Finite Differences) (1860)
 [代3-4, コ], [伝3,4,5] トップ

古市公威(Furuichi Kimitake, 1854.8.4-1934.1.28).
 姫路藩士、古市孝の長男として1854年(安政元年)に江戸の藩屋敷で生まれる.
 1869年(明治2年)開成学校に入学し、1870年(明治3年)には姫路藩の貢進生として大学南校(旧開成学校)へ進学.
 1873年(明治6年)には開成学校に設置された諸芸学科へ進学、1875年(明治8年)諸芸学修行のため文部省最初の留学生として欧米諸国へ派遣されることとなった。
 1879年(明治12年)8月、フランスの中央工業大学(エコール・サントラル)を卒業して工学士の学位を受領、同年にはパリ大学理学部に入学、翌年には同校を卒業して理学士の学位を受領.
 帰国した古市は1880年(明治13年)12月、内務省土木局雇いとなり、内務技師として現場で勤務するかたわら、翌年には東京大学講師を兼任.
 1886年(明治19年),32歳にして工科大学(東京大学工学部の前身)初代学長に就任.
 1894年(明治27年),内務省の初代土木技監に就任した。土木行政の改善を図り、土木法規を制定するなど、技術上・行政上に非凡の才能を振るい、近代土木界の最高権威とされる。
 内務省土木局のトップとして全国の河川治水、港湾の修築のみならず、日本近代土木行政の骨格を作るとともに、工科大学長・土木学会長・工学会の会長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を作る.代表的な功績に、横浜港の建設がある(明治38年).特に日本最初の大般の繋船壁.
 1882年までには東京数学会社の社員になっている.
 エピソード
  あまりの猛勉強ぶりに体を壊しはしないかと心配した下宿先の女主人が休むように言うと、古市は「自分が一日休むと、日本が一日遅れます」と答えたという. [文プ] トップ

フルヴィッツ,アドルフ(Adolf Hurwitz, 1859.3.26-1919.11.18).
 ドイツ、低地サクソン、ヒルデスハイムに生まれ、スイス、チューリヒに死す。
 始めシューベルトに学び、ベルリン大学で、クンマーワイエルシュトラスクロネッカーの講義を受ける。F.クラインとライプツィヒに移り、彼のもとでモデュラー関数に関する博士論文。ケーニヒスベルク大学(1884-92)でヒルベルトミンコフスキーを教え、長く親交。フロベニウスの後任として、チューリヒ工科大学教授(1892)。
 実係数方程式の根の実部がすべて負になる条件を求めるのをフルヴィッツの問題という。多元数論、e の超越性の証明の簡易化(1853)、等周問題の三角級数による美しい解答(1901)。
 複素解析のフルヴィッツの定理, フルヴィッツ・ボレルの定理, スツルム・フルヴィッツの定理,ラウス・フルヴィッツの定理(安定判別法),リーマン・フルヴィッツの公式,フルヴィッツのゼータ関数,フルヴィッツ数,フルヴィッツ・スキーム,フルヴィッツ空間.
 日本語に訳されたものに、R.クーラントとの共著の『楕円関数論』(足立恒男+小松啓一訳)シュプリンガー数学クラシックスがある。 [解I.6], [名19-20, 文], [珠3.1, 説3.10, 文], [代コ], [ワ2,7],[伝6,7,9],[フ1,10],[ル4],[幾11] トップ

フルヴィッツ,ウィトールド(Witold Hurewicz, 1904.6.29--1956.9.6).
 ロシア帝国,ロッヅ(現在はポーランド,ウージ)に生まれ,メキシコ,ウスマールに死す(同地で開かれた代数トポロジーの国際シンポジウムの際,マヤの階段ピラミッドの頂上から落ちて).
 ブラウエルの助手になって,ホモトピー論を展開.  フルヴィッツの準同型写像,フルヴィッツ=スティーンロッドの同型定理, リーマン=フルヴィッツの公式 [伝8],[ワ8] トップ

プルターク(プルタルコス)(Plutarch).
 ローマ帝国時代(1世紀)の文章家.『英雄伝』(岩波文庫)他,日本語に翻訳されているものも多い.ギリシャ数学に関して,その叙述だけで記録されている数学者や数学的業績がある. [名2] トップ

フルネ,ジャン・フレデリク(Jean Fr\'ed\'eric Frenet, 1816.2.7-1900.6.12). フランス,ドルドーニュ県ペリグーに生まれ,同地に死す.
 1840年にエコル・ノルマル・スペリオールに入学,1847年にトゥールーズ大学から博士号を取得し,トゥールーズ大学教授になり,翌年リヨン大学数学教授,兼リヨン天文台台長になる.
 フルネの公式=フルネ・セレの公式.  [フ15] トップ

ブルネレスキ,フィリッポ(Filippo Brunelleschi, 1377-1446.4.15). イタリア,フィレンツェに生まれ,同地に死す.本名はフィリッポ・ディ・セル・ブルネッレスコ(Filippo di ser Brunellesco=ブルネッレスコ家のフィリッポ)だが,その短縮形で知られている.
 主にフィレンツェで活動.金細工師,彫刻家,建築家.フィレンツェのサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ建設.
 遠近法の発見者の一人.遠近法の原理はかなりの間フィレンツェから外に漏れ出なかったことが,ルネサンス芸術の中でのフィレンツェの地歩を確立したのかもしれない.  [幾11] トップ

ブルバキ(Nicolas Bourbaki,活動期間1937-1968.11).
 フランスの生まれ.第2次大戦のレジスタンス運動の気運を持ちこんだ,エコール・ノルマル・シュペリオールの卒業生が中心になって結成された集団のペンネーム.現代数学の『原論』を作る目的で,少しづつ刊行されていく過程で,現代数学全体の公理化が進んで行った.40巻以上もあるが,完成したという宣言もないまま活動を停止している.これと並行して行われるようになったブルバキセミナーは現在も行われている.
 設立時のメンバーは秘密であったが,次第に正体が分かって来て,少なくともA.ヴェイユH.カルタンJ.デュドネC.シュヴァレー,J.デリサルトがいたことは知られている.そのあたりの事情はヴェイユの自伝に詳しい.
 数学を論理的に理解するだけでなく高い見識を持ちつづけることがメンバーには要求されて,ときどき抜き打ちの試験があって,正しいがあまり価値のない新しい定理の話をふと話しかけられて,それに「面白いね」と言ったら除名などという,恐ろしい伝説が伝わっている.  [名2], [パ序, 9, ノート], [代4, 6, コ], [天5] トップ

古屋茂(Shigeru Furuya, 1916.3.5-1996.1.3).岐阜県出身.
  1938年東京帝国大学理学部数学科卒業。立教大学、東京大学、青山学院大学教授を歴任.
 解析学.著書に,『行列と行列式』,『微分方程式入門』など.  [ワ3] トップ

ブルン(Viggo Brun, 1885.10.13-1978.8.15.)
 ノルウェー,ブスケルー県(Buskerud)リールに生まれ,ドレバクに死す.
 トロンドハイム(のノルウェイ工科)大学教授(1923), オスロ大学教授(1946-1950).
 数論,加法的整数論,多次元の連分数.
 ふるい法を改良して,9殆素数(almost prime)を使って,十分大きな偶数が2つの高々9殆素数の和であること,pとp+nが共に高々9殆素数であるようなpが無限にあることを示した.  ブルンのふるい(1915),ブルン定数, ブルン・ティッチマルシュの定理. [珠説2.2.6, 3.3, 文], [フ文] トップ

フランシス・ブレイク卿(Sir Francis Blake, 1st Baronet, of Twizell Castle, 1709.4.27-1780.3.29).
 祖父の死後(1717),トゥウィズル城と領地を引き継.1734年の父の死後城を出て,近くのティルマス・ハウスに移る. 1745年のジャコバイトの叛乱では政府を支持.1772年ノーサンバーランドのハイ・シェリフになる.1774年大英帝国トゥウィズル初代男爵となる.
 オックスフォード大学リンカーン・カレッジに学ぶ.1746年に王立協会のフェローになる.球面三角法,
 [幾5] トップ

プレイフェア(John Playfair, 1748.3.10-1819.7.20.)  スコットランド,ベンヴィに生まれ,エディンバラに死す.
 数学者で地質学者.セント・アンドリューズ大学に学び,聖職者に.後に,エディンバラ大学教授(1785).
 川が谷を削るという学説の先駆者.
 1795年の『幾何学原論』(Elements of Geometry)で,ユークリッドの第5公準をより扱いやすい形「直線外の1点を通りその直線に平行な直線がただ1つある」に書き改めたので,その形の公理は英語圏においてはプレイフェアの公理と呼ばれることが多い.(ただし,その事実自体は古代から知られていた.)  [名10], [幾2,4] トップ

フレーゲ(Friedrich Ludwig Gottlob Frege, 1848.11.8--1925.7.26.)
 メックレンブルク・シュヴェリン(現在ドイツ領;当時は1803年以来ウェストファリアの和約以来スウェーデンの統治下にあった),ヴィスマールに生まれ,ドイツ,バッド・クライネンに死す.
 父親はヴィスマールの女子高校の校長.ヴィスマールのギムナジウムを卒業後,イェーナ大学(1869-71)ではエルンスト・アッベとK.フィッシャーに学ぶ.ゲッティンゲン大学(1871-73)で学び,1873年に幾何学の基礎に関する論文で学位取得.アッベに支持され,アーベル群と不変式論に関するハビリタシオン・シュリフトをイェーナ大学に提出,1874年5月に同大学の私講師になり,現役の最後(1917)までイェーナ大学で,教授には1879年に.
 著書『概念記号.算術的思考をモデルとした,純粋思考のための形式言語:Begriffsschrift, eine der arithmetischen nachgebildete Formelsprache des reinen Denkens』(1879)で記号論理学を創始. 1884年の『算術の基礎Die Grundlagen der Arithmetik』で,算術の論理的基礎付けをし,「数とは何か? 算術的真実の本姓とは何か?」を問うと序文で述べている.1893年には『算術の基本法則Die Grundgesetze der Arithmetik』の第1巻を出版し,算術に対する形式論理的な体系を構築,公理化する.第2巻(1903)では整数から実数を構築してみせる.その印刷中にラッセルからフレーゲの公理系の矛盾を指摘するパラドクスを知らされ,付録で公理系を修正.それもまた矛盾があることを自覚していたらしいと弟子が述べている.また,ヒルベルトの形式主義を批判した『幾何学の基礎』(1903,1905)もある.  [伝6] トップ

フレシェ(Maurice Ren\'e Fr\'echet, 1878.9.2-1973.6.4).
 フランス、ブルゴーニュ、イヨンヌ、マリニイに生まれ、パリに死す。
 パリ,エコルノルマル・スペルオールからアダマールの指導で「関数解析の諸問題(Sur quelques points du calcul fonctionnel )」によりPh.D.取得(1906),
 集合論、抽象空間、距離空間の導入(距離空間という用語自身はハウスドルフによる)。ポアチエ大学(1910-19)、ストラスブール大学(1920-27)、パリ大学(1928-48)教授。
 距離空間の概念(名前はハウスドルフによる),フレシェ空間、フレシェ微分,フレシェ分布,フレシェ平均,フレシェの距離,フレシェ・フィルター,フレシェ不等式,フレシェ・ウリゾーン空間.
 日本語に翻訳されているものに『フレシェ 抽象空間論(Les Espaces abstraits, 1928)』(斎藤正彦訳)現代数学の系譜13共立出版(1987)がある。 [解IV.1, 3, 文],[伝6,7,9,10],[辞],[幾9] トップ

フレジール,アメデエ・フランソア(Amédée François Frézier, 1682.7.4-1733.10.14). サヴォワ公国,シャンベリ(現在フランス領)に生まれ,フランス,ブレストに死す.
 軍事技術者,数学者,スパイ,探検家.南アメリカから浜いちご(Fragaria chiloensis)を5種,つまり,新世界の果物を旧世界に持ち込んだことで有名.
 いろいろな著作がある.軍務の間に花火の技術をまとめた著書『ショーのための花火技術論(Traité des feux d’artifice pour le spectacle)』(1706)を出版,花火業者の標準的教科書となる. マラリアにかかったおかげでヨーロッパに帰ることを許され,ルイ14世に自作の地図を捧げたり,建築理論を具体的な工学への応用にも力. 著書「アーチと市民と軍事のための建築のほかの部分の建築のための石材と木材の切断の理論と応用,すなわち建築に利用するためのステレオトミーに関する著述」(La Théorie et la Pratique de la Coupe des Pierres et des Bois pour la Construction des Voûtes et autre Parties des Bâtimens Civils & Militaires, ou Traité de Stéréotomie à l'Usage de l'Architecture (Doulsseker; Paris: L.H. Guerin, 1737-38-39))など.フランス科学アカデミー会員(1752).  [幾3] トップ

ブレット(L. Bret).
グルノーブル科学アカデミー教授. ジェルゴンヌ誌に多くの論文を掲載.編集にも協力.2次曲線,2次曲面など.   [幾10] トップ

フレドホルム(Erik Ivar Fredholm, 1866.4.7-1927.8.17.).
 スウェーデン、ストックホルムに生まれ、同地に死す。
 ウプサラ大学,後ストックホルム大学へ.ストックホルム大学の力学・数理物理学教授(1906年).ミッタク・レフラーの弟子。
 積分方程式とスペクトル論.ディリクレ問題の解決のために積分方程式を論を展開(1900年).フレドホルム作用素,フレドホルム方程式など. 後ヒルベルトはフレドホルムの積分方程式に対する固有値問題の理論を完成. [代5, 8],[辞] トップ

フレネル(Augustin Jean Fresnel, 1788.5.10-1827.7.14).
 フランス,ノルマンディ,ウール県,ブローリに生まれ,結核のためオー=ド=セーヌ県,ヴィユ・ダヴレーに死す。
 物理学者・土木技師。エコール・ポリテクニク卒業後土木局に勤務。1814年ナポレオンがエルバ島から戻って来た際職を辞し、ノルマンディの自宅に監禁される。光の波動説を解析学を用いて包括的で厳密な理論に発展させた。反射光の偏光に着目し、光が横波であることを主張。 [解II.6, 文],[伝3,7] トップ

フレーリッヒャー(Alfred Frölicher, 1927-2010).
 ジュネーヴ大学教授
 フレーリッヒャー・スペクトル系列,フレーリッヒャー・ナイエンハイス括弧,フレーリッヒャー空間,フレーリッヒャー群.
 著書にCalculus in vector spaces without norm(1966), Linear spaces and differentiation theory(1988), Modern projective geometry(2000)など.いずれも共著.  [幾扉] トップ

フレンケル(Adolf Abraham Halevi Fraenkel, 1891.2.17-1965.10.15).
 ドイツ、ミュンヘンに生まれ、イスラエル、エルサレムに死す。
 数学・論理学者。ドイツ各地の大学で学んだあと、マールブルグ大学(1916-28)、キール大学(1928-29)で教えた後、エルサレムに移住しヘブライ大学教授(1929-引退)。
 初期にはヘンゼルのp進体の公理系や環論の研究.後に集合論に興味が移り,1919年に書いた『集合論』は版を重ねた.
 『抽象集合論』(1953),{集合論の基礎』(1958)では,ツェルメロの7つの公理に対して,8つ目の「置換公理」を導入した.選択公理についての研究もあるが,結局後になってP.J.コーエンが証明するまでは明確な形にならなかった.
ZFS系について選択公理の独立性  ツェルメロ-フレンケルの集合論。数学史にも貢献、カントール全集の編集。 [解文], [天15], [50.31] トップ

フロイデンタール(Hans Freudenthal, 1905.9.17-1990.10.13).
 ドイツ,ブランデンベルグ州ルッケンヴァルデに生まれ,オランダ,ユトレヒトに死す.
 ベルリン大学卒(1927),博士(1931)(指導者はH.ホップ,内容は位相空間と群の端(End)について).1927年にベルリンに来ていたブラウエルの講義を聴き,親しくなり,1930年にブラウエルの助手としてアムステルダム大学に行く.1940年にナチス・ドイツがオランダを占領し,ユダヤ人だったので家族とともに身を隠す.1945年5月にカナダ軍により開放され,大学に復帰する.ユトレヒト大学教授(1946-75).ユトレヒト大学数学教育研究所初代所長(1971).この研究所は後に数学・計算機学部の一部となり(1981),現在はフロイデンタール研究所となっている(1991年9月).
 関数解析,トポロジー,リー群論(『線形リー群』(1969)),代数学(『8元数』Octaven, Ausnahmegruppen und Octavengeometrien(1951)),微分幾何,数理論理学,哲学・科学・数学史,科学啓蒙.
 リース空間のスペクトル定理.半単純リー群の指標理論.球面のホモトピー群に関するフロイデンタールの定理.フロイデンタールのコンパクト化.
 数学的帰納法の発見をパスカルに帰すべきであることを確証(1953).
 日本語に翻訳されている著書に,『数学を鑑賞する』(矢野健太郎訳,世界大学選書004,平凡社)Mathematics Observed(1967)がある.   [代コ], [ブ50], [ワ7], [伝8,10], [辞] トップ

ブロカール,アンリ(Pierre René Jean Baptiste Henri Brocard, 1845.5.12-1922.1.16). フランス,ムーズ県,ヴィニョに生まれ,大英帝国ロンドン,ケンジントンに死す.
 子供の時はマルセイユのリセ,大きくなってストラスブールのリセで学び,ストラスブールのアカデミーで受験準備をして,パリのエコル・ポリテクに入学(1865-1867).フランス陸軍に入り,海軍で気象学者として働く.セダン戦で捕虜に.
 開放後軍に戻り,教育職につきながら,数学の論文を発表し始める.北アフリカに赴任.  ブロカール点,ブロカール三角形,ブロカール円,(素数分布に関する)ブロカール予想. [幾4] トップ

プロクロス(Proclus Lycaeus, 412.2.8-485.4.17). コンスタンティノープルに生まれ,アテネに死す.リュキア属州の貴族として生まれる.父親はビザンチン帝国の法律関係の高級官僚.
 新プラトン主義哲学者.アレクサンドリアで,修辞学,哲学,数学を学ぶ.法律家として成功するも飽き足らず,逍遥学派の大オリンピオドロスのもとでアリストテレスを本格的に学ぶために,アレクサンドリアに戻る.この時期にヘロンという名の教師に数学を学ぶ(ヘロンとは別人).さらにアレキサンドリアの学問レベルに飽きたらず,アテネに向かい,(プラトンが建てて以来800年も維持されてきたアカデミアで)新プラトン学派に学ぶ.教師にはアテネのプルタルコス(350頃-430),シリアヌス(-437頃),アスクレピゲニア(430頃活躍)など.アカデミアの主宰をシリアヌスから受け継ぎ,ネオポリスのマリヌス(440頃-)に引き継ぐ.
 プラトンの対話篇(Alcibiades, Cratylus, Parmenides, Republic, Timaeus)への注釈,ユークリッド原論第1巻への注釈は後世への影響大.その注釈の中でプラトンに関連した数学者たちに言及(タソスのレオダマス,タラスのアルキタス,テアイテトスクニドスのエウドクソス,マグネシアのテウディウスなど). [幾1-4,7,9] トップ

プロップ(James Gary Propp)
 アメリカ数学オリンピック受賞者.ハーヴァード大学卒(1982),ケンブリッジ大学で学び,カリフォルニア大学バークレイ校からJ.フェルドマンの指導で「昔からのコーディング(Coding From the Past)」によりPh.D.取得(1987). MIT,ハーヴァード大学,ブランダイス大学,ウィスコンシン大学助教授(1998-1999),准教授(1999-2006)などを経て,マサチューセッツ大学ローウェル校教授(2006).
 ゲーム理論,組合せ論,確率論,リクリエーション数学.   [フ文] トップ

フロベニウス(Ferdinand Georg Frobenius, 1849.10.26-1917.8.3)
 プロシャ,ベルリンに生まれ,ドイツ,ベルリンに死す.
 ベルリン大学卒業.ベルリン大学から,ワイエルシュトラスクンマーの指導で,De functionum analyticarum unius variab. per series infin. repraesentationeにより,Ph.D.取得(1874).
 チューリヒ総合技術専門学校(1875-93),ベルリン大学教授(1893).代数学,代数的整数論,行列論,有限群論,群指標の理論.フロベニウス群,フロベニウス写像など. 
 弟子にはシューアランダウ,R.フックスなど. [代11, コ], [天23], [ワ2,3,4,5,7], [伝4,5,6,7], [文3] トップ

フンツィカー(Herbert Hunziker)
 数学史.
 チューリヒ大学から,Hans Jarchowの指導でPh.D.取得(1989).スイス, Aargau Cantonal Schoolの数学教師.
 「アルバート・アインシュタイン,1896年数学の卒業試験(Albert Einstein, Maturit\"atspr\"ufung in Mathematik 1896)」『数学基礎』 56 (2001) 45--54.[幾] トップ

フンボルト,アレキサンダー(フリードリヒ・ハインリヒ・アレキサンダー,フォン・フンボルト男爵,Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt, 1769.9.14-1859.5.6)
ドイツ,ベルリンに生れ,ベルリンに死す.近代自然地理学の父. ガウスとともに国際磁気観測学会を設立.ディリクレがドイツの,そしてベルリン大学に移ることを援助.   [代11, コ], [天23], [ワ2,3,4,5,7], [伝4,5,6,7], [文3] トップ

フンボルト,ヴィルヘルム(カール・ヴィルヘルム,フォン・フンボルト男爵, Karl Wilhelm, Freiherr von Humboldt,1767.6.22-1835.4.8.)
 ドイツ,ポツダムの生まれ.  アレキサンダー・フンボルトの兄.  思想家,言語学者,政治家.人文主義を提唱.1808年のベルリン大学創設.   [伝3,5] トップ


  
  
  
  
  

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