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論理・論証
[特集]理科系の基礎知識part 2
(数学セミナー5月号(2001.5.1), 20-25ページ.)
「伯父さん,こんにちは.どうしてあんなことしなきゃいけないの?」
「久し振りに顔を出したと思ったら,やぶから棒な話だね.でも今,テストだろ?」
「そうなんだ.微積の勉強をしてたんだけど,段々イライラして来て,つまり,どうしてこんなことしなきゃいけないのかって,それがとても理不尽に思えて,ワッとなって下宿を飛び出したんだけど...」
「無意味な頭脳トレーニングと思うわけだ.それで,どんなことに腹が立ったの?」
「いろいろあるけど...(そういう聞き方ってズルイよな),たとえばそう,連続ってのがあるでしょ.」
「ああ,あるね.」
「関数が連続と言うのは,つまり,グラフがつながっているということでしょ.
なのに,無理数で連続だけど,有理数じゃ不連続という関数がある.もうブツブツに切れてるよね.これ,どういうこと?」
「君の持ってる連続のイメージと,定義との間にギャップがあるということだね.」
「あ,冷たい言い方! それがかわいい甥に言う言葉?」
「甥だろうとなかろうと,論理は曲げられない.」
(そう,それそれ.数学の先生はすぐに論理とか論証とか言いたがるんだよね)「でも何で,あんなにガチガチやらないといけないの? 理科系の基礎知識とかいうことになると,必ず,背理法や対偶だとか,全称命題なんてのが出て来て,もう訳わかんないよ.」
「名前だけはいろいろ知ってるんだね.
でも,論理や論証が必ずしも理科系の,というものでもないさ.」
「えっ,そうなの? 数学でしかヤカマシク言われたことないけどな.」
「喧しくするのが目的じゃないが...
以前は,それなりの論理展開がいろんな教科でもあったものだが,時代とともに項目が増えて来たのと内容の軽減との挟み撃ちで,授業から消えてしまったんだろうかな.」
「それじゃ,今のカリキュラムでそうなっているだけで,本来のというか,学問的な意味からは,理科系でも文科系でも論理を大切にするってこと?」
「まあ,そうなんだ.むしろ,誰にとっての真実か,誰にとっても真実かという違いが,文科系と理科系のという感じかな.厳密ということと論理的ということは別のことなんだよ.」
「ふーん.(いつも小難しい話だ.よく分からんが,面白くないわけでもないしな)あ,これ,おみやげ.」
「そうか,今日はバレンタインか.僕が食べちゃ,呉れた人に悪いんじゃないのかい?」
「義理チョコだから大丈夫だよ.」
「若いうちから義理チョコかい? こっちはリンゴで,こっちは薔薇の形だね.じゃ,論理のことを,リンゴとバラで三題噺にしてみるか.下げを付けるまで,高座の噺家に野次をとばさないでくれよ.」
*******************
論理があつかう対象は言葉だ.言葉で作られる命題というものだ.
命題とはなにか,ということの説明は,ちょっと難しい.
取り敢えず,何となく分かったつもりでいてもらう.
それでも,真偽は定まっているとしておかなくては,古典論理は働かない.
つまり,正しいか間違っているかが判定できる文章を命題と言う,と思って欲しい.
その際,紫式部のようにずらずら長い文章は判定がしにくいので,枕草子のような短文を対象にし,あとで複合物として長文を考えることにする.
(うーん,分かりにくいなあ)
野次はとばさないようにって言っただろう.でもまあ,分かりにくいだろうね.
じゃ,ここに1本の赤いバラがあるとする.
``これは赤いバラである''は真な命題で,``これは白いバラである''は偽な命題ということになる.
(無理やりバラが出て来たけど,大丈夫かな.)
まったく五月蝿いな.論理はむしろ数学独自のものでないことを示すために,数学の用語や概念を使わないで始めただけだよ.
では,``バラは赤い''というのは命題だろうか.
命題と考えたければ,真か偽か,どちらかに決まっていないといけない.
白いバラもあるのだから,真とするわけにはいかないので,偽にすることになる.
しかし,多くのバラが赤いことは確かなわけで,「``バラは赤い''は嘘だ」と言ってしまうのは,屁理屈のようで,心理的な抵抗感があるかもしれない.
しかし,論理は本来論証のためにあるわけで,つまり,すべての人が納得しているわけでない主張があって,それを正しいと納得させるための技術として生まれたわけだ.
だから,真偽が決定されないようなものは相手にしない.
というより,真偽を決定して行く手続きのようなものだと言ってもいい.
誰もが真と認める基本的な命題をいくつか用意して,誰もが認める議論をして,問題の主張を真であると納得させること.
論争の技術.それが論証というものであり,論理学なんだ.
古代ギリシャでこの技術が生まれたときからそうで,
論理学はロギカと呼ばれ,ロゴス,つまり言葉から来ている.
言葉は論理の基礎であって,それ自身抽象性を備えている.
(イエローカード! 難しすぎる.)
レッドじゃないの? ハハハ,危ない危ない.``バラは赤い''から離れないようにしないとね.
この``バラ''というのも``赤い''というのも抽象的な概念だということだ.
言葉は,その本来の意味からいって抽象的なものなんだよ.
``バラ''とは何なんだろうか?
議論を限定するために,いま議論しているのはある島に住んでいる僕と君で,島の外のことは何も知らないとしよう.
すると``バラ''とは,この島に咲いている``バラ''という名で呼ばれるすべての花の総称ということになる.
つまり,あるものが``バラ''であるとは,それを``バラ''と呼んだからにほかならない.
これが``バラ''の外延的定義というわけだ.
``赤い''というのも同じように考えることができる.できるが,外延的に定義しようとすれば,島にあるあらゆる物体の色が決まっていて,赤と呼ぶものが決まっている.もしくは,赤と呼ばないものが決まっているということが必要になる.
色というのは感じが変わりやすく,時間によっても,陽の当たり方とか温度なんかでも違ってくる.そういう変化もすべて知ったうえで,赤であるかないかが判別されていることが必要で,外延的に定義したとしても,それが変化していっては不確かなことになるわけで,何らかの定性的な,論理用語で言えば,内包的な定義が必要になる.
(なんか,すごいことになってきた.)
つまり,赤いと言ったときに誰もが同じように感じているかどうかは分からないわけだ.
だから,真偽を厳密に決定できるものとしての命題にはふさわしくない.
ま,しかし,わかりやすく説明するためだから,いいことにしておこう.
(本当はそうでないもので説明をしたって本当のことが分かるはずがないような...)
困ったな.あまり深刻に考えないでくれないか.ある意味では数学にしか厳密に命題と呼べるものはないんだ.
この場合,赤という属性を持つものが個別な物体で,人間が生涯に個体識別できるものは有限個に過ぎないし,人間も無限にいるわけではないのだから,たしかに,赤という属性を付与するかどうかという判断は有限回で済むと言うことはできる.
● 真偽を確定するには
しかし,そこで手続きが問題になる.赤かどうかという判断を識別した個体それぞれにしていたら,その作業をしている間に新しく個体識別される物体が現れてくる.イタチごっこというよりも,実際上不可能といった方がよい.
大別して対処法は2つだ.
赤かどうかという判断を適当に済ますことで,個体識別と同時に判断ができるとしてしまうか,議論している当人たちにはできないが,いわば``神の如き人ありて'',判断がすでになされているとしてしまうかだ.
(数学者はどうしてるって言うんだろうな.)
ああ,数学者は大抵の場合は後者の立場でやっている.つまり,何か問題が起こらなければ,ということね.
問題が起きたら,それはそのとき考える.
もういいかな.
``バラは赤い''に戻るよ.
これが真であると言える状況を考えてみよう.
島の中のありとあらゆるバラを調べてみて,それがいつも赤いバラだったとしよう.
これなら真だと言えるね.
少なくとも,偽という根拠はない.
(えっ,島? そうそう,島にいるんだ,僕らは)
``バラは赤い''と言っても安全だ,全数検査してるのならね.検査をしたことがない人なら素晴らしいと褒めるかも知れない.聞いた後で,実際にどのバラを見ても赤いことに気がつけばなおさらだ.
(なんか,手品の種明かしみたいだな.)
インチキだというつもりかい.ま,それはその通りだ.この場合,島のすべてのバラが赤いことを知っているから,バラは赤いと言い切れるわけだ.
しかし,バラは生き物だから,変化する.突然変異も起こる.
よくあるのはアルビノと言って,体色が落ちて,白くなることだ.白蛇とか白鹿,白いライオンなんてのまである.
それはともかく,そのうち白いバラが咲くかも知れない.
そうなれば,``バラは赤い''とは言えなくなる.
しかし,白いと言っても色が落ちただけで,本来は``赤い''わけなのだから,嘘とは言いにくい.
それでも``バラは赤い''が真か偽かということを決めなければならないとなれば,真とは言いにくい.
ならば偽か.それも心情的には辛い.
(これじゃ堂々巡りで,何も決まらないじゃない)
そう!その通りだ.
そこで``バラは赤い''という文章を命題と考えるためには,内容をもっと限定しなければならないということになる.
今の場合なら,``すべてのバラは赤い''ということなる.
よく,例外のない規則はない,と言うが,世の中のすべてに通用するような規則を取り出そうとすれば,どうしても無理があって,つまり例外があることになる.
しかし,それを認めては議論が確定していかない.
自分はその例外の方が好きだとか,重要だと思うとか,別の価値観を付与して,真偽を逆転することも許されることになる.
とても,真偽が確定した状態とは言えない.
しかし,``すべてのバラは赤い''というなら,真偽は確定する.実際にすべてのバラが赤ければ真なわけだし,1本でも赤くないバラがあれば偽ということになる.
つまり,真偽が確定するためには全称命題でなければならないということだ.
(全称命題っていうのは``すべての''ってことだったっけ.ふーん,そういうことなのか)
白いバラが1輪咲いたとしたら,それは偽になる.
真か偽か,そのどちらかしかない.
多いと言ってもバラの数は有限だから,それは当たり前だが,もしも,この島だけじゃなく,世界中のバラ,それも有限だというなら,宇宙中のバラなら,真偽が確定すると言えるかな.
地球の外にバラがあるわけないと言いたいかも知れないが,バラの定義に``地球上に生育する''という項目が入っていない限り,あるとも言えないがないとも言えない.
折角,全称命題に特定したのにまだ真偽が確定しないかも知れないなんて,ちょっと困るね.
そこで,全称命題は真偽が確定するはずだ,と議論している同士で認めあうことにする.
それが要するに,排他律ということだ.
(えっ,そんないい加減なことなの?)
いい加減と言うわけじゃないんだが,しかし,排他律は認めるか認めないかという問題で,正しいかどうかという問題ではない.
現に,排他律が成り立たない``論理''というものもある.
(わぁ,これはたまらない.)
僕は認めるけどね.認めて得られる豊かな数学的自然が僕は好きだから.
(これ,数学の話だったの?)
野次はダメだと言っただろう.話が横道に外れる.これは立場の問題なんだ.思い出したら後で話すが,いまは話を戻そう.
排他律だ.
``すべてのバラは赤い''が偽であるということは,1輪でも赤くないバラがあればいい.
つまり,``赤くないバラが存在する''ということが成り立てばよいわけで,逆に考えれば,これも真偽が確定するという意味で命題と言ってよく,特称命題と言われる.
存在するかどうかは,ある特定のものについて言えればいい.
``すべてのバラは赤い''という全称命題が真であれば,``赤くないバラが存在する''という特称命題は偽であるし,
``すべてのバラは赤い''という全称命題が偽であれば,``赤くないバラが存在する''という特称命題は真である.
真偽がちょうど反対になっているね.このようなとき,互いに相手の否定命題と言う.
何かが偽であると言うより,命題を変形して真であると言った方が感じがいい.真であると分かった命題を眺めていればインスピレーションも湧く.
それが否定命題を作る理由と言ってもいいだろう.
それに,排他律が成り立っているという前提に立てば,否定命題を作る簡単な方法がある.
● 論理技術のご利益
論理式で書いてあれば,否定の記号を式の内部に入れていき,全称記号 ∀ と出会えば特称記号 ∃ に変え,∃ に会えば ∀ に変えればよい.
機械的で,簡単だ.変形の途中で悩む必要がない.
でも,記号で書いてなければ,うんと悩ましいことになる.
(でも,その記号を覚えるのが大変なんだ)
何でも楽をしようと思えば多少は努力しなくちゃ.
自転車に乗る練習は大変だが,乗れるようになったら,とても便利だし,その上,乗れない状態が想像できなくなるほど簡単に思えてくるもんだよ.
(それは認めてもいいけどね.)
認めてくれたついでに,もう少し技術的な話をしよう.
実はまだ,真偽の定まった命題というものを一般的に了解するのが不安に感じる可能性がある.
それをなくすために命題をつねに一定のパターンのものだけにするという術もある.
変数を導入するのだ.``xはバラである''という命題をたとえばRose(x),``xは赤い''という命題をRed(x)と書くことにしよう.
そして,``すべてのバラは赤い''という命題を``すべてのxに対して,Rose(x) が真ならば,Red(x)は真である''と言い換えるんだ.
記号で書けば
∀ x Rose(x) => Red(x)
となる.
(やり過ぎだ!そこまで認めたわけじゃない...)
ごめん,ごめん.でも,ま,折角だから.
変数つきの命題というのは,xが考えられるというか考えているというか,考察のすべての対象として,xを代入したとき Rose(x) が真であるか偽であるかが確定しているということだ.
今の場合,島の中で見聞きし想像できるあらゆるものが,それがバラかどうかは判断できるということだね.
xがバラであれば,Rose(x)の真理値はT(true, 真)で,xがバラでなければRose(x)の真理値はF(false, 偽)ということにする.
P(x) => Q(x) という形の命題を仮言命題と言うんだが,これが真であることを,P(x)がTのとき Q(x) がTであるときと定義する.
(定義してくれなくても当たり前じゃないのかな)
当たり前と思えてもちゃんと決めておかないと,後で問題が起こるかも知れない.
(起こりそうにないと思うけどな)
困った奴だな.いいかい.
Rose(x) => Red(x)という命題が成り立っているとしてるよね.
xがバラなら,xは赤い.だからこの仮言命題は真だ.
でも,xがバラでなければどうなる?
どうにもならないんだ.バラなら赤いんだけど,バラでなければ赤かろうと青だろうと,なんなら三角だろうとどうでもいいわけだ.
(そりゃそうでしょ.分かってるつもりだけど)
じゃね,∀ Rose(x) => Red(x)という命題が真だというのは,すべての x に対して Rose(x) => Red(x) が真だということだよね.
そこでね,突然この島のバラがすべて枯れてしまったとする.つまり,すべての x に対して Rose(x) は偽であるということになる.
さて,元の命題はどうなるのか?
(うーん,偽...かな)
いや,真のままなんだ.いいかい.すべての x に対して Rose(x) は偽になるね.
そのとき Red(x) は真でも偽でも構わないわけだ.
だから, Rose(x) => Red(x) という仮言命題は真で,すべての x に対して真だから,全体としても真なんだ.
もちろん,日常感覚とずれているだろう.けれど,つねに真偽が確定していくように命題を作っていこうとすれば,こうしないといけない.
少なくとも,こうすれば取り敢えずうまくいく.
つねに真偽が確定しているものを命題とするなら,
そういう命題は,全称か特称かの仮言命題に書き直すことができる...というか,そうできないような文章の真偽は確定しないと言える.
これが,数学的に論理を運用していく際の基本的立場だ.
ある意味,非常に単純なものしか扱わないという宣言だね.
古典的には,全称,特称の問題はあまり強く意識されていないが,仮言命題こそ真の命題であるという意識はあったみたいだね.
有名なアリストテレスの三段論法でも,
``PならばQである''が真で,``QならばRである''が真であれば,``PならばRである''は真であるという形をしている.
全称,特称が強く意識されていない代わりに,命題の変形を考え,命題の順序も含めてのあらゆる組み合わせの三段論法のうち何が正しいかを,彼は論じている.
2300年以上も前にだよ.
ほとんどが正しくない推論であるとはっきり教えてくれているのだが,政治家にはそういう議論を使う人が多くて....ま,今に限ったことじゃないが.
ところで,Pという命題の変形は否定命題 ¬P を作るということだけ.
``PならばQである''という命題の変形は,QならばPである''という逆,``¬Pならば¬Qである''という裏,``¬Qならば¬Pである''という対偶とがある.
対偶はつねに真ということを聞いたことがあると思うが,それは
P => Q という命題とその対偶 ¬Q => ¬P という命題の真理値が等しいということを意味している.
(それは高校で習ったけど...)
分かっているならいいんだが.また,背理法も,一言で言えば,元の命題を示す代わりに対偶を示せばいいということなんだ.
● 演繹と帰納
ところで,この三段論法が(古典)論理学の基本で,新しい命題を生み出すのはこれしかない.これが演繹だ.
でもこれしかないとなると,最初に正しいと仮定したいくつかの命題が含んでいる内容以上のものは得られない.
つまり,こういう論理運用は正しいけれど詰まらない.豊かでないわけだ.
そこで現実的に新しい命題を産み出す方法が考えられた.
それが帰納法というものだ.
学問的には博物学.つまり,いろんな物や現象を集めて,じっと観て,なにか一般的な主張をする.
有限個の対象に対してはそれは有効な方法だけど,無限個の,また有限でも任意有限個というか,非常に多くの対象に対しては決して帰納法は完結しない.
人は無限を前にすると,その絶対性というか非到達性というか,自分の卑小さに途方にくれる.
西洋の多くの哲学や文学の根底にはいつもこの問題があるんだ.
うーん,難しくなったね.
``バラは赤い''に戻って考えてみよう.
考える対象を島の上に限定したわけだ.
島のバラがすべて赤かったら,``すべてのバラは赤い''という命題は真だということだったよね.
しかし,遠くはあっても他にも島があるだろうし,
そこにも花が咲いているだろう.
バラが1輪もなければ,``すべてのバラは赤い''は真のままだ.
バラがあっても,そのすべてが赤いバラなら,当然真のままだね.
だが,黄色のバラも咲いていたとしたら,1輪でも見かけたら,突然それは偽になるわけだ.
(その話はさっき聞いたんだけど...)
ま,それはそうだけど,見方が少し違う.
前は,世の中にはいろんなことが起こり得るということだったが,今度は``すべて''を考える範囲の問題だ.
すべての x と言うとき,島の上にある対象しか考えていなかった.それが,別の島を考えた途端に,命題の真偽が変わるかも知れないということだ.
(考える範囲によって真理が変わるってこと?)
鋭い! さすが我が甥! そう,全称命題の真偽は考える範囲を決めないと決まらない.
(考えられるすべての対象を考えればいいんじゃないのかなあ...)
そう,そこが問題だ.考えられるすべての対象とは何か? どう? 決めようがないだろう.
つまり,議論する問題によって,考察する対象を一定の枠の中で考える必要があるんだ.
それを「宇宙」と言う.
よくある詭弁の技術に,議論していくあいだに,宇宙を少しずつ変えていくというものがある.
政治家の議論に多いから,ニュースを見てるとよく分かるよ.
僕もね,政治家のいろんな詭弁を見てきて,最初のうちはただただ腹が立ったものだが,この詭弁はどの種類の詭弁かということを観察してると,これが結構面白いんだ.
そしてね,使う詭弁の程度によって政治家の質が測れるという利点もある.
アメリカ大統領の演説なんかで非常に高尚な詭弁を使っているのを聴くことがあるが,さすがにレベルが違うと思ってしまうね.
それはともかく,宇宙を広げていけばそれだけ一般的な議論ができるわけだ.
広くなっても個別に識別できる対象が有限であるのなら,すべての議論は明白なままだが,宇宙が十分に広がれば,少なくとも印象は無限のものを対象にしていることになる.
しかし,無限のものに対して何か真なる記述をすることが可能なのだろうか?
(また話が戻って来た...)
帰納法は無力だ.
しかし,無限に関する真なる命題は存在する.
それを与える真に確立された帰納法はただ1つ,数学的帰納法だ.
数学的という言葉が日本語の用語には付き物だから,数学内部の業界用語のように思われるかも知れないが,人類にとって,無限を扱う唯一の方法なんだよ.
これはある意味で,人類の叡智の粋と言うことができる.
******************
「伯父さん,興奮し過ぎだよ.もうこんな時間だ.僕,試験勉強しないといけないから帰る.」
「まだ,リンゴまで話が行ってないし,晩ご飯を食べていきなさい.」
「え,まだリンゴの話をするつもりだったの.本当に時間がないから,また今度来るよ.じゃね.」
「行ってしまったか.ニュートンの逸話から,最初の連続の話と関係させるつもりだったんだが.
それに,論理なんて言ってみても,結局は,人間の理性を信じることこそが大切なんだとか,言って聞かせるつもりだったのに.」