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aperitif-数学は科学の女王で,教育の僕か
(数学セミナー2002年10月号巻頭言)


 数学以外の分野の人と教育問題を話す機会は意外に少ない. しかも,話せばどうしても,教育における数学軽視が話題になる. 数学だけが軽視されているのではなく,実状は教育そのものの軽視なのだが, そういう中でも実質的な教育の質を保つには,数学と国語に比重を掛けるしかない. 環境を理解して働きかける力と,人間社会におけるコミュニケーションの力を育てる. それが基本で,後のことは各人の好みで獲得できるものだし,獲得して行くための力もそれで養われる. そういうことはぼくらには自明でも,他の教科の人は,自分たちの領域を守ろうとする意識が働いて,反発する. いや,働くだろうと思うので,正面切った議論はどうしても避けがちになる. 自分が日本人だと思うときでもある.

 夏休みに入る少し前,岐阜県のある高校に,自然科学コースの1,2年生対象の講演をするために出掛けた. 何か数学の面白い話をという依頼であった. 2年ほど前から,高校だけでなく,中学にも小学校にも,どこへでも行って話をすることにしている. 臨床数学教育ということを考えていて,そのための実験と,子供の実態についての情報収集も兼ねてというつもりでもある.

 校長室で挨拶をしたときのことだ. 校長はすごく意欲的な人で,近ごろ教育が難しくなったと話かけてくる. センター試験が悪い.大学の入試は何とかならないか.と,このあたりは定番である. そのうちテンションが上がって来て,新指導要領に対して激しい非難が始まった. 教育委員会の人も同席していたので, こんな半ば公的な場で公言してもよいのかと,こちらがどぎまぎするほどだった. たしかに現場では不評に違いないが,それは腹に飲み込み,公的に発言することは避けるものだと思っていたのに. それほどに現場は追い詰められているのか. 良くも悪くも,現場は法の建前よりはずっと自由なものなのだと感じた.

 指導要領の内容は不満でも,校長裁量の割合が増えたようなので,そこで工夫をされたら,と水を向けてみた. 時間数が足らなくてどうしようもないと,鰾膠にべもない返事. その上,教科書の内容がひど過ぎる. 漱石や鴎外が教科書から消えて,今の作家のものに替わっている. これでは文章を読む力も書く力もつかない. なるほど国語ならこう言うのかと少し感心した.

 論理としてはこの議論にはかなりの穴がある. だが,数学者の正しく論理的な議論よりもこの方が遥かに説得力がありそうだ. ユークリッドを読まずして数学の力がつくはずもないという議論に似ているが,こっちの方は残念ながら既に一般における説得力はなくなっている.

 校長はまたこんなことも言っていた.「生きる力」なんて学校で教えることではない. 人は生きる力があるから生きているんだ. 吐き捨てるような言い方だった. 学校という場は教えるべきことを教えてこそ学校であるということなのだろう. 教科内容を薄くした代わりのお題目の「生きる力」など,無視すればいいと大学人は気軽でも,現場では無視する姿勢は取りにくい. だからこういう振る舞いになるのだろう.

 教育のシステムは崩れかかっている. シジフォス的な営為によっても支えられるようには思えない. これまでのことをすべて捨て,学校で教えるべきなのは何なのかと,教科の枠を超えて見直すときがきている.

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