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『数学,それは宇宙の言葉』 まえがき
悪しき数学者の弁明1)
ダラ・オブリエン2)
すぐれた数学のアンソロジーを編纂するにあたって,わたしにできることと言ったら,前座として場を盛り上げることくらいしかない.
そして,前書きを書く役を引き受けたのにはちょっとしたわけがある.
この数ページ後から登場する,鮮やかなアイデアとエレガントな証明を携えた執筆陣と,同じ人生をかつてはわたしも歩もうとしていたんだ.
もっと言えば,多元的宇宙論を信じるならば,わたしがいまだにその場所にいて,苦しみもがきながらも数学をがんばり続けている,そんな別の宇宙があるのかもしれない.
しかし,ひとつしかないこの現実世界では,彼らは方程式とともに生きているが,わたしは逃げ出して,芸人への道に進んだってわけだ.
何かと別の何かを比べてその両方についての知識を深める,研究という世界から離れ,「セックスとかけて銀行口座と解く.そのこころは…」などと喋りまくるお笑いの業界にね.
だからと言って,お笑い界が優秀な(とも言えない)人材を得たために数学界が損失をこうむった,なんて言いたいわけじゃない.
数理科学を研究するのに必要なのは,実は回転の速い頭脳というよりひたむきな心なんだよね.
大学の講義というものは,大体は,最初っから論理的につながっている文章が並んだものだよね.
だから,仲間とワイワイやったり,パーティに出たり,高校時代にはいなかったような素敵な女性に巡りあったりしたせいで,講義を一回でも欠席しようものなら,その後の1年は,講義に追いつけゲームをする羽目になってしまう.
それでも講義には出席できたとしよう.でも,できることは数学を理解するというより,ただ書き写すだけということになってしまう.
わたしの人生で修道士のように過ごしていたと言えるのは,講義に出て机に向かっていたこのときだけだった.
先生が黒板上で展開してくれる大定理をノートにがりがりと書き写していたのだった.
1回の講義でのノートがA4サイズで6ページほどになった.
いつの日にか読み返せば,きっと意味が分かるだろうという儚はかない希望の下になぐり書きしたものだ.
極めつけは2年生の時の群論の講義で,シローの定理3)とかいうものの証明だった.
シローなる人物が何を理論化したか,そういう細かいことはこの際,関係がない.
重要なのは,本質的にはたった1つの結果を説明するのに,1時間の講義が4回も費やされ,殴り書きしたノートが27ページ以上になったということである.
そして今,この原稿を書くちょっと前にシローの定理をオンラインでみてみたが,どこで調べてもチンプンカンプンで,さっぱり意味が分からなかったんだね.
最近,オックスフォード大学の量子力学の講義をダウンロードしてみた.
それは27回のライブの講義を録画したもので,社会人になってぼんやり暮らす中では見聞きすることのなかったテーマを扱っていた.
これはチャンスだ,若かりし学生時代に立ち戻って当時の過ちを正ただすんだとばかりに,わたしは家でメモ帳とペンを用意して座り込んだ.
スタートボタンを押すと最初の講義が始まり,黒板が記号の列で1行また1行と埋められていくにつれ,必死に書き込みを始めなければならなくなった.
プルースト(という作家)にとって記憶が呼び起こされる引き金になったのはマドレーヌ・ケーキの味覚だったが,わたしにとってそれは,殴り書きの数学と,議論についていこうとする必死さだった.
幸か不幸か,ちょうどそのとき,猫がキーボードに飛び乗って,スペースキーを踏んだんだ.ビデオが止まり,と同時に,その感覚がするりとわたしから逃げていった.
息を切らせながらメモ書きを止めたとき突然,私は台所でパソコンの前に座るただの41歳の男に戻っていた.
これとは対照的な経験がある.それは,友人に誘われて一度だけもぐりの聴講をした,3年生用の哲学の講義だった.
ペンを用意し,メモ帳を開いて出席したこの講義は,「おしゃべり」としか言いようのないものだった.
一人の男がクラスの前で愛想よくまくし立てるのを学生たちがうなずきながら聴き,ときおりわけのわからないメモが黒板に書かれるという具合だった.
講義は知覚のヴェールについてのものだったと思う.
我々が認識する身のまわりの現実は身体の五感を通してしか得られず,実際に存在すると推定されるわれわれとの間にはこのヴェールが存在するので,現実そのものの性質については何も確定的な結論を言うことはできない,とかいう理論だった.
わたしの理解は間違っているかもしれない.誤解しているところがあるのはほぼ確実である.
これを読んだ哲学科の教授が訂正してくれるなら,それを受け入れるのはやぶさかでない.
それでも,ポイントは,これが19年前にたった1回受けただけの講義の記憶だということである.
シローの定理については4回も講義を受け,補助テキストや小テストもあって,しかもこの講義の試験には恐らく合格しただろう.
にもかかわらず,シローの定理が何であったかを思い出そうとして,さっきグーグルで調べなければならなかったのである.
こんなふうに,数学は過酷なキ ビ シ ーのだ.それでも,数学にこだわる人がいるのは,数学がとても美しいからである.
だけど,この美しさは数学の門外漢にはよくわからないと来ている.
数学者が数学が美しいと語っているを耳にすることがあるんじゃないかな.
その美しさはたいてい,エレガントな議論やみごとなアイデアという形で語られるよね.
問題を削ぎ落としていき,最も重要な部分を救い上げる手際の良さや,できる限り単純で短い論理を用いて,数や形や対称性についての深い真実を露わにする,そういうさまの美しさだというんだな.
でもね,数学がほかの科学にもまして美しいとされるのには,ほかのわけもあるんだ.
まず,ラテン語の学名に煩わずらわされることがない.
たとえば,カタツムリの種・属・科・目・綱・門・界を覚えるといったことは頭のエネルギーの無駄づかいで,それは数学とは無縁のものだ.
カタツムリなんてものは,殻の縞模様にほんの少しの違いがあるだけのもので,見分けなんかつきゃしない.
それに,馬の内耳の中で間を繋ぐ管の学名を覚えるなんてこともいらない.いるのかね?
同様に,数学はものを測るということもあまり気にしないんだ.
わたしは4年間を数学ばかりをしていたが,その間,問題の番号や本のページ番号以外には,おそらく数字というものを見たことがない.
数学では変数を扱うけれど,数を打ち込んでオシロスコープを扱うのは別の誰かの仕事である.
数学は結果を予想するけれど,スイスで地下に17マイルの長さのトンネルを作って,その予想が正しかったかどうかを確かめるのはほかの誰かのすることである.
別に,実務を下に見ているわけではないけれど,数学者なんてとうてい実務向きではないだろう.
大型ハドロン衝突型加速器には50万個もの鋲が使われているが,
もし数学者に鋲を接合する作業を任せでもしたものなら,陽子のパケットは4フィートも進まないうちに,はがれてコースにフラフラと浮かんでいるはんだの塊にぶつかってしまうだろう.
さもなければ,数学者は自分のカフスボタンをチューブにはんだ付けするのがオチだろうね.
わたしは,出演しているテレビ番組などのおかげで,天文学関係者とも仕事上の付き合いができた.
しかし,わたし程度では,天文学の研究にはまったく役に立たないことくらいは自覚している.
なぜなら,天文学はきわめて注意深くなされた観測結果にもとづいて打ち立てられる分野だからである.
何しろ,毎夜毎夜,巨大な宇宙の秘密を解き明かすことを願って,ほんの小さな異常現象を見つけだそうと,空の隅から隅まで光の点を追いかける,という仕事をするのが天文学者なんである.
その一方,宇宙論の方程式を書き下し,ほかのことはすべてほかの誰かに任せるというやり方もあるだろう.
それが数学の美というものなのである
そう,でもね,美だけでは十分じゃないこともある.
大学を卒業する前,わたしが所属する数理物理学科の学科長を訪れたときのことなんだ.
修士課程に進むつもりはないという爆弾を落としに行ったのである.
学科長が驚いて,がっかりしたという演技がうまくできるかどうか見物しようというのが魂胆だった.
彼はこの難題をクリアし,立ち上がってこう言った.「それは残念だね.君はとても数学的な・・・,そう,いいセンスを・・・持っていたのに.」
学科長室を出た後でやっと,これが褒め言葉のつもりで言われたのではなかったことに気が付いた.
数学の学生に求められていたのは,ちょっとしたセンスより,わずかでもやり抜く意思の方だったんだ.
本書に収録された50話には才能があふれている.
どの話も素敵なアイデアと鮮やかな結果で輝いている.
読者が自分のイマジネーションがどれほど飛躍できるか試したいなら,ペンと紙を用意して読むのが一番である.
1つのものと他のものと比較することで,さまざまな驚くべき性質が見つけられるだろう.
風変わりで良質なジョークに出会えることもあるかもしれない.
そして,数学に対して恐れを抱く人もいるように,本書を手にして圧倒される気持ちになる読者もいるかもしれないが,ご安心頂きたい.
本書の執筆陣のような素晴らしい知性の持ち主もまた,学生時代には,上付きのiと下付きのjを猛烈に書き写す日々を送りながらも,ときにははずむ息を整え,間違って手についたはんだをはがすために休みたいなと思っていたんだから.
1) [訳註]このタイトルはイギリスの数学者G.H.ハーディの自伝「一数学者の弁明」(邦訳:柳生孝昭訳『ある数学者の生涯と弁明』(丸善出版))をもじったもの.
2)Dara \'O Briain: 司会者.コメディアン.University College Dublin で数学や理論物理学を専攻した.日本のテレビ番組「たけしのコマネチ大学数学科」を下敷きにしたSchool of Hard Sums で14 章の著者マーカス・デュ・ソートイとともに司会をつとめた.]
3)[訳註]シローの定理が何か,気になる読者があるかもしれない.それが分かったからといって数学の本質に触れられるというものではないが,一応書いておこう.
「有限群Gの位数の任意の素因数pに対し,Gの極大pシロー部分群が存在する.その位数はpのベキである.」
というものである.
この定理にたどり着くには,まず一般に群の定義と例と諸性質を,次に有限群に限って,位数(群の元の個数のこと)の素因数分解と部分群の存在と相互の関係を知ったうえで,pシロー部分群が存在することと,有限であることから極大性が従うことなどを納得したうえで,定理の意味を考察し,証明に取り掛かるということになる.
ある程度以上,大学での数学を学んだ人でなければ,上の説明の文すら,おそらく一語も理解できないだろう.できないのは当たり前である.語には厳密な数学的定義がある.言明の形で言いきられていれば,厳密な証明が隠れている.それを何も知らずに,定理の主張だけを読んでわかるはずはないのだ.だから,わかってほしいといっているわけではない.わからなくても,数学がどのようにこの世界とかかわっているのかを,そしてそのかかわりを楽しむことができるということををオブリエンは話しているのだ.彼独特の言い回しで.
オビリエンがここでシローの定理を持ち出したのは,シローの定理でさえ,研究者になるためにはほんの入り口であり,本書ではそういったことは扱わないし,扱っていないからといって数学を語っていないわけではないことを知って欲しかったのだと思う.
さあ,読者の皆さん,オブリエンの話を聞いてください.
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