Clinical Nathematics Education
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臨床数学教育を目指して



蟹江幸博(三重大学教育学部紀要、第52巻、教育科学(2001), 101-105)

1. はじめに

 教員養成学部で数学専門の教官として教鞭を取ってきて,時代や学生や教育環境の変化のため,単純に学生に数学を教えているだけでは,初等・中等教育の数学も衰退するし,社会全体における数学の位置も低下し,ひいては数学研究にとっても日本の社会基盤の確立にとっても問題であるという認識をするようになった. そのためにできることを模索し[4],学生や現場の教師の意識を調査し[2], [3], [7},同じ立場にある他大学の数学者と研究グループTOSM(トスム)を結成して[8],共同研究を行い[5], [6],現場の教師との交流のためのシンポジウムも開いてきた.
 しかし,教育行政の歪みはさらに深刻化し,大学も現場も圧迫されていて,これまでの活動のあり方を見直す必要を感じるようになってきた. 2000年1月のトスム・シンポジウム(福井)の準備段階で,新しい教育概念が必要であるという認識で一致した. 「臨床数学教育」をキー・ワードにした考え方の提唱がそれである.
 それはしかし,よくある心理学方面からの教育へのアプローチとしての「臨床教育」の一部門として,臨床数学教育というものを考えようというわけではない. また,臨床数学教育学というものを目指そうというのでもない. 教育の状況が今日ほど壊滅的でなかった頃でも,教科教育は教科教育「学」であってはならないと考えていた. 「学」は真理を追究し,「学」の探求は常に新しくあることを求めるものである.
 教育の方法は,一般に完全なものはあり得ない. 教育を受ける側と施す側のそれぞれの個性,知識レベル,技能的熟練の度合,対象に対する理解や愛情の様相,たとえば教室の社会的環境・雰囲気,また時代や社会の状況によって,目指すべきこと,目指し得ることが異なるし,また異ならならなければならない. それを画一的に,最善の教育法を目指すことが出来よう筈がない. しかし,いわゆる教科教育「学」の業績と称するものには,最善の方法を標榜するものが多い. あたかも茶杓の置き方一つの相違が茶道の流派の優劣かの如く,あげつらうに似てはいないか.
 実際に現場で児童・生徒に対したとき,上に挙げたような状況に応じて,種々工夫を施すことが肝要で,とくに臨機応変でなければならない. 状況によってはまったく反対であるかのような方法をとる必要があることすらある.
 しかし,このようなことを可能にするには教師の側に非常に高いレベルの能力を要求することになる. そのような教師を養成するように,教員養成学部の教官たる我々は努力を続けているのだが,実際には,我々の力も足らず,学生の力も低下してきていることによって, 教師の能力を上げることだけを目的とすることは,百年河清を俟つにも等しいこととなる.
 現在の児童・生徒の状況を見据え,一定のレベルを有するほとんどの教師に実行可能な教育のあり方,それも細かいことまで指定するのでなく,基本的姿勢を正すことのできるような方法,考え方を提示していく必要がある.
 それが良いものであるのなら,それを維持していくことの方が重要で,改革しようとすれば,当然にひずみを生じてしまう.
 医学部のあり方はある意味で,学問や大学が社会に対する役割をはっきりと打ち出した形になっている. 病気を治すのが医学の目的で,病気に関する理論的な研究を行う基礎部門,その成果を社会に還元する病院部門,そしてそれを担う人材の育成とが,1つの場所に併置されていることによって,理想としては総合的なあり方を追求することができる.
 教育学部で欠けているのは,これまで基礎部門だと思われてきた. しかし欠けているのは,むしろ,実践部門である「臨床」部門ではないだろうか. 臨床とは,床つまりベッドに臨んで,如何になすべきかを考え,実践することに対する呼称である.
 ベッドに横たわっているのを誰だと考えるかによって,臨床数学教育もいくつかの様態をとる必要があるだろう.
 患者を教師の側だと考えて,教師教育のあり方を模索するのがTOSM(トスム)活動の原点であった. 今はその活動の反省を踏まえて,もう1つの観点からも考えてみることにしたい.
 数学嫌いを生んでしまったのが,これまでの教育のあり方だけのせいだとは言わないが,責任がないと言うことは出来ない.
 数回前の指導要領の改訂のときから言われ始めたことだが,初等教育では数学を教える必要はなく,数学的な考え方を身につければよい,というスローガンがある. しかし,数学の内容を知らずして数学的考え方は身につかない. 部品の形状と機能を説明しても,実際に自転車に乗って転倒する経験もなくて自転車に乗れる筈がなく,泳ぎ方の説明と体が水に浮く原理だけを説明しても,実際に水の中で溺れて水を呑む経験もなくて泳ぐことができる筈がない. それを何故,数学だけはそれができると思うのだろうか?
 この疑問には,数学を知ることが問題なのではなく数学的考え方だけ身につければ良いのだから,という反論にもならない反論があり,その主張が教科教育の学会ではまかり通っている. その上,なぜか,現場でもまた数学者の間でも,これに反論しにくい雰囲気がある. それが誤りである理由を考えてみよう.
  1. 数学を学ばずに数学的考え方は身に付かない.
  2. もし数学を学ばずに数学的考え方が身に付くのなら,その考え方はその方法による考え方なのであって,数学的考え方ではない.
  3. 数学も必要でなく,「数学的」考え方も必要でないのなら,何故「数学的考え方」を育てようと「言う」のだろうか? とりあえず,数学の過去の実績は評価するが現在の数学は必要ないから,過去の数学から抽出された考え方だけ身につければよいのだということなのだろうか? 教育を固定したものとして考えているのでなければこのような考え方が生まれるはずもなく,そう考えているのであれば時代の変化にも対応できないだろう.
  4. さらには教育を受ける側の心理もある.数学自体より,数学の面白さを伝えるというテーゼが「数学的考え方」のスローガンには付随しているが,数学自体を学ばずして,そして数学を学ぶことで苦しまなくては,数学の楽しさを知ることはできない. 自転車は実際に風を切って走ることで,水泳は水を切って泳ぐことで始めて喜びが感じられるのだ.習得途上で,転んで膝を擦りむくとか,水を呑んで息が詰まるとかという経験は避けることができないものだし,習得した後は克服した障害として心の中に記念碑として残るものである.
  5. すべてに目を瞑って実行したとして,数学的技能や知識を問わずして,数学的考え方の修得度をどのように評価したら良いのだろうか? もちろん方法を考えようというのではなく,不可能だと言っているのである.

 このような雰囲気が払拭できない理由は,現場の教師は数学を知らず,数学者は現場を知らず,教科教育「学者」は現場も数学も知らないからだと,言うより他にない.
 このような状況は,もう何10年と続いている.指導要領の改訂がほぼ10年ごとに行われるのだから,考えてみれば当たり前なのだが,1つの指導要領の改訂が発表されて実施される頃には,もう次の改訂が議論され始めており,本質的に改訂された指導要領の得失・功罪を吟味することもないままに,とくに現場は変化に対応するだけで追われている.
 このような状況をしっかりと見つめ,考え,対応していくことが出来るのは,全国にある教員養成学部の教科専門の職にあるものの努めではないだろうか. そのようなことを思い,福井大学の黒木哲徳氏,岐阜大学の中馬悟朗氏とともに,TOSM ( トスム, Teaching of School Mahtematics ) というグループを結成し,個人としても何ができるかを考え始めたのだった. そこでは主に教師の再教育というか,大学から送り出した元学生である教師たちへのアフター・ケアやメンテナンスを目的としてきた.
 臨床の目的である癒しは,上のように教師に対するもの,児童・生徒に対するもの,さらには社会に対するものがある. 本稿では,数学嫌いに陥っている児童・生徒の癒しを中心に考えてみよう.

 数学はある程度習熟し,概念にも慣れなければ,本当には興味を持ちにくいという難点がある. 動機もなく,抽象化された思考の複雑さや精緻さ,有効性を理解できる筈がない.
 数学とは対極にあるように思われている手ざわりの感じられる学問に,博物学がある. 事典より図鑑の方が馴染みやすい. 予備知識がなくても,対象に親近感を持つことが出来る. 数学にもそのような形態の分野やアプローチが存在しないだろうか. そういうものがあれば,臨床数学教育に役立つ筈である.
 博物学は第1に(生物の)分類学であり,つぎに生態学・形態学・行動学である. であれば,数学でも,数の分類学や行動学と呼べるものはないだろうか?

2. 癒しに利用可能な概念と方法:行動学的数学教育

 日本の算数・数学教育はある意味で寺子屋の延長線上の実用算術に,若干の西洋数学の風味を付けたものが戦後まで続いたもので,それはそれで一定の底辺の底上げに寄与してきた. 戦後の教育現場の混乱している有り様を憂えた遠山啓が,数学的原理に基づいた算数教育を理想とし,その方法論として水道方式を提唱したが,時が経つにつれて抹消な方法論に堕していく.
 学級全体に適応できる教育方法や教育論でなければならないとされてきた. 教育実践の対象は学級全体であり,つまりは仮想的な平均像であり,結局は個々人の状況を無視したものになっていた 仮想的な平均像を教育の対象に置くことが問題であることは,大学での数学教育の場合であるが,[9]で論じている.. 能力のある子供にとっては退屈で詰まらなく,能力の不足する子供にとっては理解困難で無表情な教育になっていた.
 やる子はやるし,やらぬ子はやらないのだ. 学習者の個性,状況を勘定に入れるべきなのだ. それを画一的に学習に取り組ませ内容まで統制しようとするのが,大いなる間違いであると言えよう.
 病気と同じで,それぞれの子供には,それぞれの症状と病因がある.
 臨床数学教育の理想とする教育のあり方では, 指導の仕方としては,やりたくない子もやる気のある子も同じように関心を持つことができ,やる気のある子はどんどん進み,それほどでない子もある程度は取り組むことができる問題を用意する. そして,それぞれの関心の色合い,度合に応じた学習のあり方を許容することである.
 数学嫌いも,言ってみれば心の病であり,心の病の癒しの手段には,カウンセリング,音楽療法,陶芸や土コネのような作業療法がある. 心の障壁を直接に攻撃するのではなく,患者の心に受け入れられやすいものを手がかかりに,心に触れ,心を耕していくというやり方である.
 算数・数学教育においてこれに類似な方法や考え方で取り組もうというのが,臨床数学教育の立場であると言ってもよい.
 最初から嫌悪感を感じられることのない,児童・生徒に馴染みのある対象と言えば,自然数以上のものはないと言っていいだろう. 就学前の家庭教育の時点で,入浴やその他の機会に数を詠み上げることは,かなり一般的でもあろうし(これがすでに崩れている家庭もないわけではないようだが),小学校1・2年生の段階で算数が嫌いであるという児童の数はそれほど多くはない筈である.
 そこで,自然数を対象とし,技術的には加減乗除の四則演算のみで,しかも,いろいろな段階の習熟度や関心に応じて,変化を付けることのできる教材を考えてみることにした. 以下は,現時点でとりあえず考えつくもののリストである. このリストは,ある意味でメモであり,これだけでは教材化の可能性を感じられないと思われるが,それを説明するにはそれなりのスペースが必要であり,それぞれについて詳しく論じることは別の論文や著書の形で発表していく予定でいる.
 具体的な教材化の可能性を詳しく述べる必要を感じており,本紀要の同じ号に例示を1つ収録した[10]

2.1 力学系(有向グラフ)

 (離散)力学系の場としての対象を自然数全体で考えるか,その適当な部分で考えるかによって,難易度も異なるし,概念的なレベルにも差が出てくる. 自然な制限を設けることができる場合もあるが,そうでない場合もあり,後者の場合には人為的に一時的な範囲を指定することになるが,その範囲を広げていくことによって,単に量的な問題だけでなく質的な様相が変化することも味わうことができる. ここでも,演算の制約を人為的に課す指導要領の存在が教育の歪みを生むことが実感される.
 制約が強い方が概念を形成しやすく,特に年少時には抽象的なだけの概念は習得することが難しい.

例1.反転差(反転和).
 桁数 k を決める.k 桁の数 n を反転させて,大きい方から小さい方を引く. 桁数に応じた有限集合上の力学系が得られる.リミット・サイクルが見つけやすい. 反転した数を加え,k 桁部分だけを取り出す反転和も,作業が容易で,しかもリミット・サイクルがたくさん得られて面白い.

例2.自動反転ゲーム.
 このゲームでは最初に扱う数の大きさ$n$を決める。 1 から n までの勝手な順列を考える。
 順列の最初の数が例えば5なら、5番目までの順列を反転するのである。 分かり難いかも知れないので例でやってみよう。

 (5237416) -> (4732516) -> (2374516) -> (3274516) -> (7234516) -> (6154327) -> (2345167) -> (4235167) -> (5324167) -> (1423567)
 
 順列の最初の数が 1 になればこの操作では変化しなくなる。 勿論最後まで頑張りたければ、2番目の数に対して2番目からその数番目までを折り返すということを順にすれば、奇麗に並んでいる順列 (1234567) にすることも出来る。 上の例では (1423567) -> (1324567) -> (1234567) となっている。

例3.約数和. 完全数とも関連したもので,むしろ被約約数和と言うべきもの.詳細は [10] を参照.

例4.3n+1.
  n が偶数なら2で割り,奇数なら 3n+1 とする. 実際に計算すれば,大きくなったり小さくなったりしながら,1に向かっていく. このことが常に成りたつかという問題は,アルゴリズムの問題として長い間懸案になっていて,今も未解決である. 具体的な計算には変化があって面白い.
 また,3n+1 の代わりに 3n-1 とすると,1に到達しないリミット・サイクルが得られる.
 

2.2 同値関係(仲間遊び,グラフ)

自然数の集合に同値関係を定義するのだが,関係の生成系だけを与えるもの. N × N の部分集合 Δ を定義し,(a, b) ∈ Δ のとき,a〜b と定める.後は,同値関係の3つの条件(反射律,対称律,推移律)を満たすように 〜 を拡張する. すべての自然数を頂点とするグラフで,a〜b のとき,頂点 a と b を結ぶことにし,連結成分(同値類)を決定する問題である. さらに,同じ連結成分内の2点の距離を,その2点を結ぶ最短の道の長さと定義し,具体的に求めることもできる.

例1.部分2乗変形.
 これは「平成変換」という名前で,田村三郎[11]によって紹介されたもので,10進法に深く依存している. 数を10進表記し,その表記の任意の部分をその平方数で置き換えるというもの.
 同値類の集合は田村氏によって完全に決定されているが, それを順に決定していくプロセスや,具体的な数での経路の決定や距離については,十分楽しめる.
 教材化の過程で,p進法で考えることも可能である.
 
例2.バビロン変形(0なし2乗変形)
 0が発見される以前に位取り記数法を使用していたバビロニアの記数法に因んだ命名で, 数記の中の0の有無を無視して,平方数を掛ける変形を許すもの. 現在の10進記数法で0がないとこんなことになってしまうということも,ゲーム感覚の中で伝える.
 
例3.0なし$p$進法.
 p進法表記で,0を無視する同値性を考える.p を渡り歩けば,さらに妙なことになる. 0の有用性と,数表記の恣意性も強調するもので,ややもすると教訓的になりがちだが,工夫しだいで面白い教材になるだろう.

記数法によらない,数としての性質だけによるものとしては以下のものがある.

例4.素補素数.
 ある素数の補数になる2つの素数を 〜 で結ぶ.

例5.素補数.
 ある素数の補数になる2つの自然数を 〜 で結ぶ.

例6.平方補数.
 ある平方数の補数になる2つの自然数を 〜 で結ぶ. この場合,0を自然数とするかどうかで大きな差がある.

例7.三角補数.
 ある三角数の補数になる2つの自然数を 〜 で結ぶ. もちろん,三角数の代わりに他の多角数でも考えることはできるが,数のあり方がまばら過ぎて小さい数の範囲では面白い結果が得られそうにない.
 多角数,n(≦ 5)乗数,素数などは,自分で計算するのも面白いが,表を [1] の解説の附録につけておいたので,それを利用してもよい.


2.3 逆問題


 計算は簡単なものしか使わないが,計算式が与えられているのではなく,結果を与えて,計算式の方を模索するもの.

例1.4つの4.
 「4つの9」もよく行われている. 4つの4を並べて書き,その間に四則演算記号と括弧を使って,種々の数を網羅的に作っていくというもの.最初に表わせない数は何かとか. 四則以外の演算を使ったらどうかなどという変化形があるが,割とすぐに行きづまるので,小学校で1限くらいにしか使えないかも知れない.

例2.小町算.
 1から9までを,順にまたは逆順に並べ,その間に四則演算記号と括弧を使って,種々の数,とくに小野小町の故事に因んで,100または99を表わすというもの.
 そのほか,「油分け算」や「継子だて」など,古典に題材を得た教材化にも可能性は高い.

例3.10作り.
 4桁が適当な大きさだが,桁数を選んだ数を任意に選んで,四則演算だけで10を作る. 切符,電話番号など,結構身の回りに4桁の数が溢れているので,興味をつなぎやすい. 10以外のものを考えてもよい.

参考文献

[1] ア・ヤ・ヒンチン 『数論の3つの真珠』(蟹江幸博訳・解説)日本評論社(2000).
[2] 蟹江幸博 『数学的知識の欠如に関する自己認識の調査』三重大学教育学部紀要、第45巻、教育科学(1994),1-13.
[3] 蟹江幸博 『数学的知識の欠如に関する自己認識の調査II』三重大学教育実践研究指導センター紀要15(1995,Mar),49-57.
[4] 蟹江幸博 『数学教育における数学者の役割−試み−』三重大学教育学部研究紀要、第45巻、教育科学、(1994),15-30.
[5] 蟹江幸博、黒木哲徳、中馬悟朗 『教師教育への提言 −数学教育に関する教師へのアンケート調査の分析・検討−』教育工学関連学協会連合・第4回全国大会、岐阜大学(1994/Oct.8-10), 313-314.
[6] 蟹江幸博、黒木哲徳、中馬悟朗 『数学教育における教師の授業観と意識に関する調査研究』岐阜大学教育学部研究報告(自然科学)、第18-2巻(1994),75-97.
[7] 蟹江幸博 『算数綴り方教室の試み』三重大学教育学部紀要、第46巻、教育科学(1995),41-49.
[8] 蟹江幸博、黒木哲徳、中馬悟朗『インターネットの「立ち話」-- 数学教育を巡って--』 数学セミナー,日本評論社,4月号(1998)-3月号(1999)に連載.
[9] 蟹江幸博,岡本和夫『数学教育TF--高校数学と大学数学の接点』三重大学教育学部紀要、第49巻、教育科学(1998), 97-113.
[10] 蟹江幸博 『数の構造ゲーム I --- 数学嫌いの癒しに向けて ---』三重大学教育学部紀要、第52巻、教育科学(2001), 107-118.
[11] 田村三郎『数学パズルランド 身近な素材でパズる』講談社ブルーバックス B904(1992).


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