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『代数学とは何か』 訳者あとがき
著者イーゴリ・ロスチスラヴォヴィッチ・シャファレヴィッチは20世紀ロシアを代表する代数学者である.
代数学,代数的整数論,代数幾何学に大きな足跡を残している.
マニンを初め多くの弟子も育て,国内外に大きな影響力を与えている.
著書も多く,日本語にも既に,ボレヴィッチとの共著『整数論 上下』(佐々木義雄訳,吉岡書店,上1971,下1972),ニクリンとの共著『幾何学と群』(根上生也訳,シュプリンガー・フェアラーク東京,1993)と『代数学とは何か』(シュプリンガー・ジャパン,2001)が訳されている.
本書は4冊目だが,それ以外にもまだまだ訳されるべき著書がある.
どれもが類書にはない,著者独特の味のある本になっている.
本書の姉妹編というか,段階としては本書の読了後の位置づけとなる『代数学とは何か』では,すべての命題に証明がついているわけではなく,その分代数学に関わる広汎な話題を講談かのような語り口で,楽しげに語り飛ばしていく.
その代わりある程度の予備知識がないと,読解することは容易ではないだろう.
専門家である必要はないが,少なくとも代数学とは何かについて自分なりのイメージを持っている方がよい.
読者の中の代数学と,著者の語る代数学との間の相互作用が,この本の魅力を何倍にもしてくれるだろう.
これに対して,本書の命題にはすべて証明がついている.
説明は丁寧で,高校卒業程度の学力があれば独力で十分に理解することができる.
読む前に持っていなければならない予備知識はさほどなく,中学で学んだことで十分である.
命題の正しさを知ることは,例えば美しい花を見つけるのに似て,
証明は見つけた花の下に至る道をたどることと言っても良いだろうか.
だから,道は一本だけとは限らないし,どの道をたどるのが正しいということはないように,証明も1つとは限らない.
崖の中腹に咲いている花なら崖の上から懸垂下降(アップザイレン)するしかないこともあるだろう.
しかし,その花の種を採ることができれば,庭で咲かせることもできる.
できるだけ種が採れるような証明を,著者は選んでいると言うこともできる.
例えば,本書の最初の節の命題は√2が無理数であることだが,そのこと自体は古代から知られ,その証明は高校の教科書に載っているものと余り変わりがない.
しかし本書に採られている証明には,それとはまったく異なる味わいがする.
数学っぽい準備がほとんどないまま,身構える間もなく,√2の周りを巡り歩いているうちに証明が終わっている.
こんなに何もしないで,証明というものが終わっていいのだろうかと思わせるもので,訳しながら感心してしまった.
本書の冒頭の「代数が我々の物語のシンデレラであって欲しい」という著者の言葉は,いろいろな意味を持っているだろう.
幾何には古典がある.ユークリッド『幾何学原論』は数学のというだけでなく,教科書というものの2000年以上の典型であり続けた.
だから,古代ギリシャを受け継いだ文明に属する知的階級は多かれ少なかれ幾何学を学んだ.
幾何を学ぶことが,人格形成の付き物だったとも言える.
そして,体系的に構築されているがゆえに感じる美や,一本の補助線で景色の変わる衝撃がもたらす喜びがあり,その上,土木・建築などを支える実用性は誰にも実感され,幾何学は知的世界の花形であり続けた.
代数学はなぜ幾何学のような華やかさを持たないのか?
歴史の古さが負けているわけではない.
教育の歴史が負けているわけではない.実用性が負けているわけではない.
恐らくは,代数学が有用であり過ぎたせいだったのかも知れない.
憧れには適度な距離感が必要である.
著者の代数学に対する思いの強さは,もしかすると,その人格が代数学を学ぶことと共に形成されていったことに由来するのかも知れない.
著者は1923年6月3日に,ソ連,ウクライナ,ジトーミルに生まれている.
1917年のロシア革命の後に,成立した後に旧ロシア帝国全土には内戦が続き,ウクライナでも1919年にウクライナ社会主義ソビエト共和国が成立した.1922年に内戦が終わり,ソビエト連邦が結成された,そのすぐ後といってもよい.
革命政権にとって戦況が悪かったときには,ウクライナの首都はキエフからジトーミルに移されている.
社会の混乱は激しく,公教育はあまり良く機能しなかったと思われるが,
両親が息子の才能を伸ばすことに熱心だったようで,彼は10代で既に教科書よりも巨匠たちの仕事に触れることができ,特に当時世界的に代数的整数論のバイブル視されていたヒルベルトの『整数論報告(Zahlbericht)』を,15才で読んだという.
その学業が本物であったことは,1940年彼が17才のとき,検定試験でモスクワ大学卒業資格を得ることからも分かる.
入学ではなく卒業だったのだ.どれほど例外的だったかが分かるだろう.
2年後19才で物理・数学修士となっている.
第2次大戦の激戦の1つである,ナチス・ドイツのレニングラード包囲戦(1941年9月8日--1944年1月18日)の直前のことで,国内が混乱していたこともあるかも知れない.
さらに,大戦後の1946年には23才で物理・数学博士となり,同時にソ連アカデミーのスチェクロフ数学研究所の助手になった.1943年から現在まで同研究所に勤めており,1960年から1991年の長きにわたって同研究所の代数部門の部長を務めている.
旧ソ連では,ソ連アカデミー会員であることはモスクワ大学教授よりも高い地位と思われていた.
つまり,30年以上もソ連の代数学の頂点にい続けたのである.
しかし,彼は体制におもねった人ではない.
1972年にノーベル賞作家のソルジェニーツィンをリーダーとする反体制運動の活動家になって,
そのためモスクワ大学で教えることは禁じられたが,なぜか研究所の職を解かれることはなかったようだ.
本書はそんな達人が80歳近くになった2000年に若い人のために書いたもので,2003年には英語に翻訳されている.
本書がこれまで日本語に訳されなかったのは不思議なくらいである.
一言で言えば,本書は名シェフが,誰にも入手できる材料を使って仕上げた名品である.
材料のすべてに「代数学」という看板が下がっているわけではないが,彼が触れればすべて代数学の香りがつく.
普通の代数学の教科書では扱わないテーマでも,彼が語れば,まさに代数学そのものであるように見える.
蟹江 幸博
桑名,2009年
2001年6月,桑名にて
蟹江 幸博
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