MyBookホーム。
『古典群:不変式と表現』のホーム.
『古典群:不変式と表現』 第1版への序文
1925年に私は,E.カルタンの無限小の方法とI.シューアの積分を使う方法の手続きとを組み合わせて,半単純連続群の指標を決定することに成功したが,それ以来
これらの中でも最も重要な群,特に非特異線形変換全体の群や直交群に対する決定的な結果を,直接的な代数的構成によって導くという目標に向かい合ってきた.
主としてこの数年の間のR.ブラウワーの関与と協力によって,この目的のために必要な道具は,今やすべて手中にあるように思われる.
なすべきことを厳密にいうなら,
基礎ベクトル空間の線形変換の作るある指定された群に関して,
与えられたランクのテンソル空間を既約な不変部分空間に分解することである,といえるだろう.
言い換えれば,我々の関心はある線形な変換法則に従っている様々な種類の「量」にあって,それらはテンソルを素材として,それぞれの群の支配のもとで作り上げられるようなものだろうということである.
こうしたものが本書の主柱の1つを形成する問題であり,
代数的なアプローチをすることで,解析学と物理学が格闘を行う場としての実数体でだけでなく,標数0の抽象的な体においても解答を求めてゆくことにする.
しかし,素数を標数とする体を含める試みは行なわないことにした.
抽象群 γ の代数的不変式の概念は,線形変換による γ の表現の概念,つまり「${\frak A}$ 型の量」 の概念ができるまでは定式化することもできない.
γ のすべての表現または量を求めるという問題は,それゆえ,γ のすべての代数的不変式を求めるという問題より,論理的に先行していなければならない.
(もっと一般的な性質の量や不変式の概念とその密接な相互関係については,クラインのエルランゲン・プログラムを少し抽象的な言葉で述べ直したものが第1章にあり,それを参照して欲しい.)
第2の目標は,不変式の理論の現代的な入門を与えることである.
ほとんど化石化の状態に陥っている古典的な不変式論に活力を与える頃合いである.
おそらくは我らが若い世代の代数学者たちが望ましいと思うよりもずっと保守的な仕方になっているが,それに対する私の弁明は,過去を犠牲にしたくないということである.
そうではあっても,十分はっきりと現代的な概念へ突き進めたと考えている.
現代的な不変式論の定本を書いたのだというつもりはない.
系統的なハンドブックであるのなら,ここで黙過した多くの事柄を含む必要があっただろう.
上の記述からわかるように,本書の主題はかなり特殊なものである.
公理化や一般化に対する現代の勤勉な情熱からもわかるように,一般的な概念や命題は重要であるかもしれないが,
そしておそらく他分野でより代数学ではずっと重要ではあるが,それでも私は,複雑さに溢れた特定の問題こそが,数学の資本であり核心をなすと確信している.
そしてそれらの困難を征服することは,概して一般論よりも大変なことであるだろう.
その間の境界線はもちろん,はっきりもせず,揺れてもいる.
しかし,全く意図的に,2ページそこそこを群表現の一般論に費やしている.
そうしないと,後で考察する特定の群にこの理論を応用する際に,少なくとも50倍もの場所が必要になるのである.
その一般論はここでは,特定の問題から発生したように示されている.
つまり,その一般論的解析が,問題の解法に適合した,避けられないほど必要な道具になっている.
いったん理論が展開されれば,理論はその限定的な起源を越えて広い領域にその光を投げかけることになる.
我々はこうした精神で,とりわけ,この10年の間に数学の支配的な位置にまで高まった,結合代数の教義を扱うことにする.
数学の他の領域との関係を強調するのはそうした機会が訪れたところで行い,本書は基本的に代数的な性格のものではあるが,無限小の方法もトポロジー的な方法も省かないこととする.
私の経験からいえば,数学研究であまりに特殊な問題を考えることやあまりに技巧に走ることの危険性を指摘することは,このアメリカにおいては特に重要であると思われる.
数学的思考に達成可能な厳格な正確さのために多くの著者は,明るく照らされている小部屋,そこではあらゆる細部が同じように目も眩むほどはっきりと見えるが,不安になってしまうような小部屋の中で,口をつぐまされてしまうという印象を読者に与えてしまうような,そんな書き方をしたがるものである.
私は,深い眺望を持つ澄み切った空の下での開かれた風景画,手近なところの輪郭のくっきりとした細部の豊かさが水平線に向かうにつれて段々と薄れてゆくというような風景画の方を好んでいる.
特に,トポロジーの断層地塊は,本書とその読者にとって,水平線に横たわっており,そのため絵の中に取り入れられたその部分は,幅広の線画で与えられているだけである.
代数的な部分で要求されるものとは異なった視界の適合と,気に入って喜んで協力したいという気持ちとが,ここでは読者から期待されている.
本書は主に,その中で提示された新しいものを学ぼうとする謙虚な人々を対象としていて,既にこのテーマに親しんでいて,単にあれこれの細部を素早くしかも正確な情報を欲しがるような尊大で博学な人のために書かれてはいない.
本書は学術論文でもなければ初歩的な教科書でもない.
文献の引用もそのように処理されている.
神は私の著述に,揺り籠で唄うことのなかった外国の言葉というくびきを課した.
Was dies heissen will, weiss jeder
Der im Traum pferdlos geritten1
ゴットフリート・ケラー2
とともにこういいたいと思う.
私ほど,表現の迫力,平易さ,明晰さにおいて欠ける所のあることに気づいている者はいない.
少なくとも最悪のへまをせずに済んだとすれば,その相対的成就は\ruby{偏}{ひとえ}に私の助手であるアルフレッド・H・クリフォード博士の献身的な貢献によるものである.
そして,私にとって言語上の批評よりもさらにもっと貴重だったのは,
彼の数学的な批判であった.
ノート.公式(7.6)(とか(3.7.6))という引用は,
同じ章の(または第3章の)第7節第6式を表している.
ヘルマン・ワイル
プリンストン,ニュー・ジャージー州
1938年9月
1[訳註]直訳すれば,
「これが何を意味するかは,夢の中で,
馬がいないのに馬を走らせたことのある人なら誰でもわかる」ということ.
「馬を走らせる」という意味の1つの単語(動詞)がない日本語では
「足がないのに走る」というようにでも言い換えるべきかもしれない.
%「駆ける」というのは本来そういう意味だったが,今では「駆ける」といって,馬がいないのはおかしいと思う日本人は少ないだろう.
2
[訳註]Gottfried Keller, 1819--1890. スイスの詩人,
小説家,政治家.スイスの内戦でプロテスタント義勇軍に参加.チューリヒ州第1書記(1861--76).主著は『緑のハインリッヒ』(岩波文庫)など.ドイツ語の写実文学の最高峰といわれる.
トップ へ
『古典群:不変式と表現』 第2版への序文
再版には写真製版を採用した.そのため,
本来かなりの訂正をしたかったのが,できないことになった.
しかし,増補を含む新しい章,誤植と補遺,
そして1940--1945年の間の文献の短いリストを付け加えた.
2つの増補では,第II章,第V章,
第VI章で扱った直交群やシンプレクティック群の理論の問題のいくつかに対して,
別のまたもっと直接的なアプローチを展開した.
増補Cでは,M.シファーによって発見された不変式の生成に対する特に直接的で強力なプロセスを述べ,
増補Dでは第III章と第IX章の「行列法」を可除代数(非可換体)の基礎体の拡大による分解に適用している.
そこでは正規代数や有限拡大への制限はない.
ヘルマン・ワイル
プリンストン,ニュー・ジャージー州
1946年3月
トップ へ