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TOSMポスト・質問集(1-5)

第5回TOSMポスト・質問と解答

  1. 「アキレスと亀の話はどうなっているのでしょうか?
    解決されたという話も聞きますし、解決されていないという話も聞きます。
    どちらが本当でしょう?」

    質問者:上垣 渉(三重大学教育学部)
    質問日:1996年 7月 10日 水曜日 5:24:32 PM

    この問題の本質は、「無限」と「無限の質」の意識化という点にある。 19世紀末に集合論が確立されたとき、数学的には解決されたといって良い。 しかし、カントールの無限を手づかみにするその精神が、人類にとって受け入れられるものか否かという哲学的な懐疑が、それ以降連綿と続いている。ほとんど哲学の領域である。 哲学を宥めるために、数学基礎論ないし数理論理学という数学の分野もあって、その間を埋めているのだが、面倒なことの嫌いな(僕を含めた)数学の大衆からは異端視されている、というのは言い過ぎかもしれない。
    質問者が違えば、また別の解答をするだろう。丁寧に書けば、一冊の本になる。希望があれば考慮しましょう。
    この問題は有名な「ゼノンの逆理」と呼ばれるもので、4つあり、完全な形で残っているのは3つですが、どれも結局「無限の質」の混同によるものです。可算無限と連続無限の違いということもできるし、手続きとしての無限と実無限との違いとも言える。論点の強調の仕方によって議論の分かれるところだが、所詮ニュアンスの問題にすぎない。
    時間や空間が無限分割できないとすると起こるものが2つと、無限分割できるものとしても起こるものが2つである。
    1. 二分法:動く物体がある距離移動するにはその半分の距離を移動しなければならない。そのためにはその半分の距離を、そしてその半分の距離を、...というわけで、有限時間に無限回の到達をしなければならない走者は動きはじめることができない。
    2. アキレスとカメ:先に行くカメをアキレスは追い越せない。最初にカメの居た位置にアキレスが着いた時、カメは少しだが前にいる。その位置にアキレスが着く時、カメは更に前にいる。後は上と同じ。
    3. 飛ぶ矢は飛ばず:飛んでいる矢をある時点(分割できない瞬間)で考える。飛んでいるとすれば、その瞬間を分割することになるので矛盾。
    4. スタジアム:説明が面倒な割りに面白くない。スタジアムの周回路をまわる同じ長さの物体を考える(戦車競争のようなことを考えるのだろう)。その時同じ方向で追い越す場合と、向かい合ってすれ違う場合とを考え、相手を通過する瞬間を考える。分割できないとすると矛盾。
    これらはすべて、無限を有限の思弁で取り扱おうとすることから起こる。 この解決は19世紀の終わりのカントールの集合論で実無限が取り扱われるまで答えることができなかった。 しかし集合論もまた矛盾を含んでおり、その意味ではまだ解けていないとも言える。無限を取り扱う技術に対する正当性というか、その技術が人間の思弁として安心して使えるかという辺りが論点。
  2. 「 0.9999999...=1が分からない。 0.1111111...= 1/9 で
    0.999999999999...= 9/9 = 1 というのが納得できない。

    x = 0.1111111.... とおくと、10x=1.111111111111....で、これを引いて 10x-x = 9x = 1 だから x= 1/9 という証明は、何だかおかしい。
    例えば 0.111111111111.... が、100桁だったとしたら、10x-x の計算で100桁目に1が残るような気がする。

    このように言う中学生がいますが、どのように教えたら良いのでしょうか。」

    質問者:山田 健一(三重大学付属中学校)
    質問日:1996年 7月 10日 水曜日 5:26:30 PM

    この問題は多くの場所で語られ、それなりに解決法が語られているが、本質的には中学生はこの問題に正しく取り組むだけ成熟していない(勿論、特別な生徒はいるので、その場合は別)ということに尽きる。従って、その種の議論ではいかに誤魔化すかという論点で語られることが多い。
     数学的には、無限と向かい合えるかということであり、無限を実体として認識できるかということである。従って、ことは極めて難しいことなのである。中学生向けの説明が色々考案されているが、手品のような技術で誤魔化すべきではないと思っている。
     実際に現場で生徒に説明を示してみて、どんな説明が受け入れられやすいか、経験をこの掲示板に書き込んでいただきたいと思う。
     とは言うものの、山田氏に答えないで済ますわけにもいかない。とりあえず、まともに答えてみよう。(詳しくはまた別のところで)
     答え方は2種類の方向があると思う。
     一つは勿論、「例えば x=0.111111111111.... が、100桁だったとしたら」、という仮定が間違っているということを納得させること。100桁などではなく無限に続いているのだということを、いろんな形で納得させる。しかし、これが一番難しい。無限に続いてしかもそれがただ一つの数を表すということを納得させなければならない。それでも、これが正しい方法なのである。
     もう一つはいわば裏から攻める方法。つまり「100桁だとしたら、10x-xは100桁目に1が残る気がする」という生徒の主張を全面的に肯定するのである。そして、xが100桁としたらxは1/3とは違うが、その違い方は小数点以下100桁のところにしかないことを納得させる。1000桁だとしたら、xと1/3との差は1/10^(1000)であり、0.111111...がどれだけ続いても有限の所で止まれば、xは1/3ではありえない。しかし桁数が増えていけばどんどん1/3に近づいていく。だから、1/3を小数で表そうとすれば無限に続く0.111111...と表す以外に方法はないと、納得させる。
     数学は一つなのだから、突き詰めてみれば皆同じことなのだが、教育技術的には、生徒の心の中の障壁を如何に回避するかが問題だということである。
     上の掲示板上の解答は、質問者がこの種の数学教育上の議論を熟知しているという前提でしたものである。 したがって、練達の教師以外には分かりにくいかもしれない。
     しかし、これは実数論をやる以外に解決できない問題であって、実数論の本質のどこを仮定するかで、解答も違ってくる。 それは現場の教室で、生徒の顔を見ながら、実数に対して持っている観念を拾い上げるという形でしか対処できないのも事実である。 それゆえにこそ、大学での数学の勉強をしっかりやっておいて欲しかったのだが。
  3. 「数学なんて、なんの役に立つかわからないという質問をよくされます。数学の理論はいろいろなことに使われているから、大切なんだと言うことにしているのですが、そうすると、そういう仕事につく人だけ勉強すればよいといった返事が返ってきます。形式陶冶の面を言うのもなんだかなあ・・・と思っているので、何かよい理由があれば教えてください。」

    質問者:松井 真治(福井県立盲学校)
    質問日:1996年 7月 20日 土曜日 5:48:52 PM

     実に答えにくい質問である。問題はこうした質問をする児童・生徒が本当に「数学を学ぶ」わけを訊ねているかどうかが分からないという点にもある。
     教育を受けること全体に対して、学校に行くことに対して、この社会に生きさせられていることに対して、彼らの憤りと不満の槍玉に、勉強しないと成績の上がらない数学がなっているのに過ぎないことが多い。
     そんな時、数学の美や有効性を説いても、逆効果であることが多い。こうした質問は相手を見て答える必要があるし、そうすることが現場の教師の役割なのである。
     こうした質問に一律に答えることは出来ない、答えてはいけないのだというのが、一言で答える場合の回答になる。
     半年、答えることを待って貰うことにしたい。生きていれば、答えることにする。
    [1月経って、追加(9/25)]
     第2回の月例会のときにもこの話題を話し合った。もちろん結論はないが、話し合うことには意味があった。学校によって様々の問題が浮き彫りになってくる。
     長い話の中で、結局「公教育」というものをどう考えるのかということが議論の根底にないと話がかみ合わないという気がしてきた。
     「公教育」に携わっている人の間では少なくとも、時々は意識し、論議しておく必要があると思います。その種の公開討論を新しい掲示板でしてみようかと考えています。

    これは、「公開討論会1(公教育の意味)−−何で、ボク、学校へ行くの?−」というホームページ上のパネル討論・掲示板として実現している。TOSM三重ホームページから掲示板メニューを選んでください。
    現在は、「公開討論会2−飛び級飛び入学」というパネル討論・掲示板も開いています。ぜひ討論に参加してください。

  4. 「ベクトルの内積の定義の仕方に、二つのベクトルのなす角を用いる方法と、成分を用いる方法があるが、2次元、3次元では二つのベクトルのなす角が分かるが(?)、4次元以上ではなす角が分からない(?)から、成分を用いて内積が定義され、その内積を用いて、二つのベクトルのなす角を定義することになる。
     そこで、一般に角度をどのように定義するかを教えてください。」

    質問者:丸林 哲也(三重県立津西高等学校)
    質問日:1996年 7月 24日 水曜日 2:11:22 PM

     一言で言えば、ベクトルのなす角と、内積を用いて定義される角とは別のものであるということになる。 実は「幾何的直感と対称性」という論文の中で、立体角の意味を論じたとき、角の問題を論じておくつもりになっていた。しかし、とても長くなりそうで、すでに80ページを越えていた論文の中では、書く元気が湧いてこなかった。 今度は是非。

     機会は来たのだが、時間がない。 協力していただいたTOSMアンケートの各項目について、啓蒙的・啓発的な文章を書く予定もあるので、それまで待っていただきたい。
     少しだけコメントをしておけば、2次元の角度とは何なのかということもそんなに簡単なことではなく、平面の等方性と等質性に深く関り合っている。 3次元の時のベクトルのなす角が分かれば、原理的には何次元空間でもベクトルのなす角が分かることになる。
     難しい議論をしなくて済まそうというのなら、内積を用いて2つのベクトルのなす角を定義することにし、それ以外に角は認めないことにすればよい。
  5. 「小町算というのがあるそうですが、どんな本に載っていますか?」

    質問者:家戸 昇一(三重県名張市で学習塾経営)
    質問日:1996年 7月 24日 水曜日 2:26:37 PM

     こういう質問の形が困るんですね。質問のポイントが分かりにくいのです。もっとストレートに質問して下さって結構です。
     このままだと、「小町算」とは何かは知っているけれど、もっと詳しい文献が知りたいという意味にもとれるし、「小町算」が何か分からないが、それの説明を求めるのが失礼とか悪いのじゃないかと思って文献だけ訊ねているのかもしれません。もしかすると、「小町算」という言葉の由来が知りたいのかも知れません。
     ですから、質問は出来るだけはっきりとした形でしていただきたいのです。しかし、はっきりした形で質問が出来るときには、疑問の多くは解消していることが多いということもありますので、曖昧な形の質問をしないようにとは言わないことにします。どんどん質問してください。
     家戸さんという方は、何年か前、僕の一般教育の文科系向けの数学の講義を何度か聴講しに来られていました。好奇心旺盛で、熱心な塾の先生です。知人である彼に怒られ役になって貰いましたが、許してくださると思います。
     さて、「小町算」ですが、初耳でした。西洋数学の伝統下にあって、和算が成し遂げたものの多くは忘れられています。数学の研究の点からは振り返ってみても余り労に値しないと思われますが、算数・数学教育の示唆を与えるという点ではもっと省みられても良いのではないでしょうか。
     「小町算」はFour Fours(4つの4)と同様の、謂わば数字の語呂合わせの遊びのようです。数字を使って遊んでいるうち、数の世界に親しんで貰えば、それなりの教育効果が上がるというわけです。
     Four Foursは、数字の4を4つ並べて、その間に四則の演算と括弧を好きな形で挟み込んで、いろんな値を得ようとするパズルです。
     小町算は、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10をこの順に並べてその間に四則の演算と括弧を好きな形で挟み込んで、得られた式の値が100になるように出来るか?という問題です。
     1から10というのも、当時漢字文化圏では10進記数法がなかったので、漢字一字で表記できる最長の連として、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十が選ばれ、次に一字で表現できる「百」にするという遊びが考案されたのでしょう。
     逆順の、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一に対して行う小町算もあります。
     小町算という理由は、解法を語呂合わせで、和歌に読み込んだものが伝えられていて、歌詠みの代表としての小野小町の名前をとったということのようです。
     最も簡単な答えをいくつか、Mathematicaの練習として求めてみました。
    1*2+3*4+5+6+7*8+9+10=100
    1*2*3+4-5+6+7+8*9+10=100
    -1+2*3+4+5+6+7+8*9-10=100
    1*2*3*4*5+6*7-8*9+10=100
    (1-2-3+4)*5*6-(7-8-9)*10=100

     比較的容易に手に入る文献としては、平山諦著「増補新版 東西数学物語」恒星社、がある。この文献に記載があることは、上垣渉氏に教わった。
     同著によれば、1から10ではなく、1から9までの数で作るのが本来の小町算らしい。そして、数の間に記号を挟まないことも許すものらしい。例えば、23とすれば二十三のこととするわけだ。代表的な小町算の文献、中根彦循著「勘者御伽双紙」に挙げられている20例では、記号は+−しか使わず、むしろ演算記号の少なさを誇ってもいるようだ。
     +、−、×、÷を使って、正順150例、逆順198例を作ったと平山氏は述べている。
     小野小町に振られた深草の少将が、することもない徒然に、和を99にする小町算を考えたという由来を述べた本もあったし、少将の来ぬ夜の徒然にという説もあったが、その出典が明らかでない。99はまた、全てが満たされた数という意味を付けることも出来るためでもあろう。  小町算は更に一般化され、答えが99や100でなくても良く、またどんな順序でもよいという条件のものも小町算と言われている。
     小町算は古くから、計算遊戯として親しまれてきたようであるが、数学的な意味はあまりなく、和算の有名な入門書「塵劫記」にも採られていない。 しかし、四則演算の技術を習得させようとする初年度の教育において、計算そのものに、付加価値を与えるものとして活用することは可能であると思われます。
  6. タレスはピラミッドの高さをその影を測って求めたということを聞きましたが、ピラミッド本体が邪魔になって、影のどの部分を測れば良いのか分かりません。実際にはどのようにしたのでしょうか?
     「数学の話題から」という講義の中で、影を測ってピラミッドの高さを求めたという話をしたら、あまり簡単に学生が納得したので、僕がへそを曲げて、学生に本当にそんなに簡単に納得できるのか?と訊いたというのが趣旨。
     数学史の本を見れば書いてあるのだろうが、それとはかかわりなく自分の頭で考えてみたらどうなるのか、というのが、学生に対する質問。」

    質問者:蟹江 幸博(三重大学)
    質問日:1996年 7月 24日 水曜日 2:34:22 PM

     これは本質的には水平面をどう決定するかという問題。それに気付けば、あとは方法を考えるだけ。
     数学史の本を眺めてみても、三角形の相似でやるのだと書いてあるだけ。 あまり安直に考えると実際には実行できないよというつもりだった。
    校庭に大きな木があったとして、木の高さを測ろうなどという問題はよくありそう。しかし、木の根元当たりに障害物があったら、さてどうやるのでしょう?また、木の先端辺りを見通せる場所まで移動すると、木の根元とは同一平面上になく、スロープになっていたり、階段があったりとか、実際にはするでしょう。そんなときにはどうしたらいいのでしょうね。
     教師のみなさん、教室でふと暇な時間ができたら(ないかも知れませんね)、やってみて下さい。
  7. 「学校で習う数字には

    ギリシャ数字
    漢数字
    アラビヤ数字
    がありますがどうして計算にはアラビア数字を使うのですか?

    できかたが違うのですか?

    古い順番はどうですか?

    教えて下さい。お願いします。」

    質問者:木全 知亜紀(kkk5151@sag.bekkoame.or.jp)
    質問日:1996年 9月 11日 水曜日 10:31:38 PM

     質問者がどういう意識で、どういう知識のもとに訊いているのか、分らないので答えにくいのですが、額面どうり、個々の数字を知ってはいるが、他は何も知らないものとして答えることにします。
     数字というのは数を表わす記号です。例えは、「あ」と書いて”あ”と読むのはそう決めたからで、決めないと”あ”と読むことはできません。同じことで、”いち”と読むものを「1」と書くのです。しかし数字はさらに意味を持っています。
     「犬」と書いて、”いぬ”と読んでも、それが走り回ってキャンキャンと啼く犬であるかどうかは、どこかで決まっていないといけません。
     ”どこで決まっているか”という質問はここで答えるようなことではないのですが、歴史が決めているとでも言うしかない....つまり、だんだんと時間をかけて、色々の理由からそう決まってきたということですね。
     さて、「1」と書いて”いち”と読むだけならただの言葉ですが、「1」は数としての「1」を表わしているということが大切なのです。
     色々な数があり、数が数を生み(計算できるということかな)、数の構造がある。というようなことを学校で勉強するのです。
     さて、次の質問。「どうしてアラビア数字を使うのか?」ですが、今の所一番便利で、世界中の人が使っていて、これを変える理由がないからということです。
     漢数字は古代中国で、ギリシャ数字は古代ギリシャで別々に作られました。ギリシャ数字のもとは、エジプトの数字で、メソポタミアのくさび形文字での数字も数の構造という意味では影響を与えています。でも、学校で習うのは多分ローマ数字のことではないでしょうか?ローマ帝国が世界文明だったギリシャの文化を取り込んでいく際、ある意味で断固として変形したものです。
     これらには0を表わす数字がありませんでした。アラビア数字が出来るのはイスラム文化の時代ですが、その前にインドにも古い文明があって、数字も別にありました。そこでは0を表わす数字があったのです。吉田洋一という人の書いた「零の発見」という岩波新書を見るとよく分かると思います。そして、アラビア人がそれまでのすべての数字の良い所を取り入れて便利な数字の体系を作ったのです。だから、もうそれ以上誰も変える気が起こらないのです。
     しかし、大切なのは数そのもので、数字はそれを理解するための道具なのです。道具は使ってみないと、その良さが分からないものです。どんどん、道具を使って、数の勉強をしてください。
  8. 「どうして、新しい教科書では、複素平面ではなく、複素数平面になったのでしょう? 一文字でも長いとかくのが面倒ですよね!
    また、諸外国ではなんというのでしょう?英米では、Gauss平面ではなく Argand Diagramというようですが、。。。。
    どなたか、用語に詳しい方がいましたらお答え下さい。」

    質問者:古川 昭夫(SEG)
    質問日:1996年 9月 15日 日曜日 11:06:53 PM

     何故、新しい教科書で複素数平面と呼ぶようになったかというのは、非常に難しい問題です。指導要領を決めるのが合議制なら多分こうはならなかったのではないでしょうか。
     しかし、複素数平面と呼んで悪い理由はありませんし、数学的にはその方が言葉の意味としては正しいともいえます。直線に1点とそこからの距離を(向きとともに)付加したものを数直線といいますね。直線と実数とを対応させたものなわけです。したがって、数平面と言ってしまえばいいようなものですが、いかんせん、複素数は数学者が思っているほどにはポピュラーなものではないのです。そこで、複素数と対応しているのだよというわけで、複素数平面という言葉があるのです。
     ちょっと、「娘の姫と武士の侍が」といった嫌いはありますが。
     それから、ガウス平面ともいうのは、もちろんガウスがこの取り扱いを1832年に発表して以来、数学の世界で認知されるようになったからですが、実はそれより以前、1806年に『虚数を幾何学的に表示する試み』というパンフレットをアルガンArgandというフランス人が発表しているのです。しかし、アマチュア数学者だった彼の主張は数学界には認知されなかったのです。知らない人の方が多かったのでしょう。  近年、歴史研究も進み、これが明るみに出たとき当然ながら国粋的な傾向のあるフランスでは「アルガンの」ということになっているというわけです。しかし、大切なことは知識が世界の・人類の共有財産になることなのだという立場も正しいし、どちらでもいいとは思いますが、僕はガウス平面でいいのではないかと思います。そして、ガウス平面について最初に出版したのがアルガンだったと覚えていてあげれば。
     実は、アルガンより前、1798年にノルウェーの測量技師であったベッセルが「複素数を幾何的に表示する」ことに関する論文を書いています。当時数学文化からいえばノルウェーは北の果て、しかもデンマーク語で書かれていて、完全に数学界には認知されなかったのです。
     「一番」を争っても仕方がないと思います。しかも後世から。この件でいえば、複素数を平面に表現することは、敢ていえば、単なる思いつきで、そのような表示を持つことによって、複素数の本質をより深く捉え、方程式の理論、複素関数の理論への高まりをどう意識し、理解し、応用するかが問題で、ガウスはそれを十分納得させる提示をしたが、それ以前の人は思いつきの程度からいくらも出ていなかったということが言えるでしょう。
     僕は「ガウス平面」でいいと思いますし、欧米でもすべての人がArgand Diagramというわけではありません。
     もちろん、歴史研究を否定しているわけでも蔑視しているわけでもありません。今翻訳している本は、解析学を歴史的経緯から説き明かし、現代のあり方を述べている本です。しかし、それは数学そのものの歴史、数学そのものがいかに生い立ってきたかという歴史です。
     歴史研究が数学の歴史でなく、数学者の歴史であり過ぎる。そんな気がしています。
  9. 「分数と分数のわり算でどうしてひっくりかえしてかけるのですか?」

    質問者:松本 直子
    質問日:1996年 11月 6日 水曜日 2:06:12 PM

     困ったな。なんて答えればいいかな。あなたは、なおこちゃんですか、直子さんですか?  つまり、「初めて算数で分数の割り算をならったんだけど、どうしてそうするのか分からないな、という気持ちの質問なのか」、から、「文字式も習ってまた分数式が出てきたときハタと割り算の意味が分からなくなってしまったという質問なのか」、や、「自分では分かっているのだが、分からない人にどう教えたらよいのか」という質問まで、その途中の段階もいろいろあって、それによって答え方が違うのです。
     今度の質問からは必ず、所属の所を書いてください。
     今は、分数の習いたてで、計算規則も分数自身の意味もあまりよく分かっていないという質問者だということで回答を考えてみます。もしも、そうでなかったら、もう一度質問し直してください。
     結局こういう質問は、分数の意味がどのように理解されているかという問題であることが多いのです。話が少し長くなりますが聞いてくださいね。

     さてと、.......やっぱり話しにくいですね。
     ちょっと聞いてみましょう。
     割り算のやり方の理由ですよね?割り算の意味は知っていますね?分数で割るとはどういうことかが分かっていて、割るときにひっくり返して掛けるのはなぜか?という質問なのでしょうか?
     実は、大学で、小学校の先生になる人たち向けの数学の授業をしているのですが、そこで、学生に分数の掛け算を分かっているかどうかを尋ねました。そうしたら、ほとんどの学生が、分かっていないと言うのですよ。ひっくり返して掛けるのは、そうするのだと教わっただけで、理由は習っていないと言うのです。習っていないのは仕方ないとして、今は分かっているのかと尋ねても,分っていないと言います。
     病気の診断と似たようなもので、患者が痛いと言う所ではない所に本当の病気があることが多いのです。
     じゃ、掛けると言うのは分っているのだろうね?
     分っていると言う返事をした学生に聞いてみたら、結局分ったつもりになっているのは自然数(正の整数)の掛け算だけらしいのです。
     そうでしょうね。分数の割り算の分らない人の多くは、掛け算が分っていないのです。まして、足し算はもっと難しいのです。
     困った顔をしていたら、慰めてくれようとするのか、「半分」なら分るという学生がいました。結構ですね。半分から、順に一般の分数の説明をしようとも思って、聞いてみると、また、その「半分」が分らなくなったようです。
     大学は、それまで分っていたつもりの事柄を、全部ひっくり返して、自分の価値観・世界観を作る所だから、こういう話でもいいのですが、トスムポストの質問者は?一体何を期待しているのでしょうね?
     説明を始めるとなると、まず、「分数」とは何なのか?を説明しないといけないことになるのです。それで、この質問の答えを書くのが、大変なので、さぼっていましたが、少しずつ、時間を見つけて、書いていくことにしますので、時々、この掲示板を見に来てください。

     結局、時間のない所為もあって、これ以上の返事はしませんでした。これが小学校の先生の教え方の質問になら簡単に答えられるのですが、児童の質問というならどの程度分かっている子なのかが分からないと答えようがないのです。
     解答を高数研(三重県高等学校数学研究会)の会誌に書くことにしてもらっていますので、そこでは一応の解答をしておかないといけないので、以下はその解答である。
     結局、直子ちゃんには解答しないままになった。以下の解答を父兄なり先生なりに読んでもらって説明してもらって下さい。もしもそれでも分からなかったら、もう一度質問して下さい。その時はあなたの年と所属と、分かっていることは何で分かっていないことは何かということをもう少し詳しく書いてくれませんか。そうだと、返事が書きやすいのですが。よろしくね。

     自然数の計算は分かっているとします。ということは、自然数の演算に関する規則
    1.  a + (b+c) = (a+b)+c       (加法の結合法則)
    2.  a + b = b+a           (加法の交換法則)
    3.  a + 0 = a = 0+a         (加法の単位元の存在)
    4.  a × (b × c) = (a × b) × c  (乗法の結合法則)
    5.  a × b = b × a         (乗法の交換法則)
    6.  a × 1 = a = 1 × a       (乗法の単位元の存在)
    7.  (a+b) × c = a × c + b × c  (分配法則)
    は分かっているとしてよいでしょう。このとき引き算や割り算が自由に行えないから、それができるように負の数とか分数を考えるのだというのが、普通の説明です。それが間違っているのではないのですが、その時、自由にではないとしても行われている引き算や割り算についての説明が不十分なのではないでしょうか。
     群にしてしまえば、逆元の存在が言えていますから、逆元を算法することが逆算法をすることだと言い切ればいいのですが。 普通は方程式を解くことという説明がされるようです。
     「$a-b=c$ であるとは、 $a=b+c$ であるような $c$ を求めることである」というのが引き算の説明ですね。 しかし、このような $c$ があることしかもただ一つあることはどうやって保証されているのでしょう。
     それが相殺原理(Rule of Cancellation)
    a+c = b+c => a=b
    です。 a ≧ b を a = b + c であるような c があることと定義し、その時だけ引き算 a - b が実行でき、答が一つしかないことを相殺原理が保証するというわけです。当然、掛け算の相殺原理
    a×c = b × c (c>0) => a = b
    もある。割り算は、 「 a ÷ b = c であるとは、 a = b×c であるような c を求めることである」というの形が普通で、こういう c がある時にだけ割り算ができるのだが、できる時にはこういう c はただ一つということである。
     相殺原理の証明が欲しければ数学的帰納法で示すことになる。ただし、c=1 のときの加法の相殺原理自身は、どんな場合も公理の中にあって、仮定する必要がある。
     さて、分数をどう考えるかだが、一番納得しやすい定義は、できる時もできない時も割り算 a ÷ b の答を a/b と書くことにすることである。 つまり、b 倍すれば a になる数のこととする。 自然数の範囲内で割り算ができない時に分数が現れてくる。
     数直線で考えても、現実の何かの量で考えてもこういうことはありそうである。 式で書けば、
    b × (a/b) = a
    というのを、a/b の定義そのものだと理解することである。
     半分の 1/2 とは2倍したら1になる数、2倍するとは同じものを2つあわせることだから、半分というのは全体をちょうど2つに分けたもの、半分と半分で全体だ、という感じになる。
     さて、こう理解するとまず、
    (a/b) × (c/d) = (ac)/(bd)
    が分かる。ここで、自然数の時に挙げた性質はすべて分数でも成り立つように、と言うのが基本原理である。 左辺が右辺に等しいことを示すには、だから、左辺に bd を掛けたら ac になること
    ((a/b) × (c/d) ) × bd = (a/b) × ((c/d) × (bd))
    = (a/b) × ((bd) × (c/d) ) = (a/b) × (b × (d × (c/d) )
    = (a/b) × (b × c) = ((a/b) × b) × c = a × c = ac
    を示せばいい。 割り算が
    (a/b) ÷ (c/d) = (ad)/(bc)
    であることを示すには、割り算の定義が、分数に対しても自然数の時と同じであることを確認すればよい。つまり、
    a/b = (c/d) × (ad)/(bc)
    であることを確かめればいいことになり、右辺が
    (c/d) × (ad)/(bc) = (cad)/(dbc)
    であるから、約分の原理
    (ac)/(bc) = a/b
    が成り立てば良い。 右辺が左辺に等しいことを言うのに、右辺に bc をかけて ac になることを示せばよいが、
    (a/b) × bc = ((a/b) × b) × c = a×c = ac
    で、すぐに分かる。
     さて、数学的には大体これで終わりだが、これを小学生に教えるにはどういう提示の仕方をするかということが、これから問題となるのである。 だから、教師への解答なら、「この数学的な考え方に沿って、それぞれ工夫して下さい」、とやればいいのだが、直接児童・生徒にとなれば、相手が何を理解しているのかを知らなければ、どうしようもない。いろいろな工夫もあるのだが、画一的に解答することはできない。
     たとえば、約分は分かっていて、分数とは割り算そのもののことだと理解している子供に対してなら、
    (a/b) ÷ (c/d) = (a/b) / (c/d) = ((a/b) × bd) / ((c/d) × bd)
    = (ad)/(cb) = (ad)/(bc)      
    という説明もありうる。もちろん、小学生に対してなら、 a,b,c,d には適当な数を入れて提示するのは当然のことであって、その数をどう選ぶかということも重要な教育技術ではあるが。
  10. 「前期に蟹江先生の「数学の話題から3」を受講していたものです。先生が授業中TOSMを紹介し、数学の疑問があったらここに送るようにと言ってくれましたが、いまいちどういう組織か分からず手紙も出さずじまいでした。ですから今日たまたまTOSMのページを見つけて、本当にびっくりしています。せっかくだからこの機会にぜひ先生にお尋ねしたいことがあります。
     ピタゴラスの定理がc=a+bになってしまうというお話です。理科系の友人Aが直角三角形の斜辺(c)の部分を細かくみると縦(a)と横(b)の和とみることができる、つまりピタゴラスの定理はc=a+bだというのです。私もこれが明らかに間違っているのは分かるのですが(なぜって定規ではかれば一目瞭然ですから)、論理的、数学的に説明することはできません。ぜひお知恵を拝借したいと思います」

    質問者:三瀬 貴弘(三重大学人文学部1年)
    質問日:1996年 10月 8日 火曜日 9:14:04 AM

    僕がサボっている間に西岡さんが、わかっている人にしか分からないコメントを書いてしまった。 君には悪いことをしました。 ここに図を描いて入れれば簡単に説明できるのだがと思いながら、日が経ってしまいました。
     しかし要するに、西岡さんの言うように錯覚です。近づいていくのは2次元の図形としてで、長さというのは1次元の図形に対する量だから変わらなくてよいのだということです。 極限では図形として一致するではないかというのも、このような極限操作では長さの関数は連続ではないのだという説明もできるし、1次元の図形としての極限はあくまでも、無限小の階段を持った図形だと超準解析的に逃げることもできます。極限をどういう範囲で考えるのかというのが根本的な問題。
     この種の詭弁的推論は、実は僕も大好きで、中学生の頃からよく遊んだものです。 「すべての三角形は2等辺三角形」だとか、「1=2」だとかが書いてある面白い本があったのですが、今はあまり見当たりません。本を一つ推薦しておきましょう。 ブラジス+ミンコフスキー+ハルチェルバ 『詭弁的推論』(千田健吾+筒井高胤訳)東京図書(1965,1994)。原著はロシア語(1959)で、社会主義国だった頃のソ連は売れるかどうかを気にしなかったため、面白い本が一杯ありました。 もちろん面白くない多くの本の出版と引き換えですが。
  11. 「何年かに1度くらいの割合で、学生に質問される初等幾何の問題がある。 有名な問題で、故事来歴があるらしいが、詳しいことは知らない。知っていたら教えて欲しい。
     4月の半ば頃、同僚がこの問題を悩んでいるのを見て、訊ねてみたら、新入生に訊かれたのだと言う。試されているのだろう。 こんな問題ができないからといって別に恥ではないのだが、恥になることではないなどと顔を赤くして力説すれば男が下がる。 人助けをするか、というわけで、ここで解説しておくことにする。 楽しみを奪ってしまうのではないかという恐れもあるが、楽しみたければじっと堪えて解答を見ないで頑張って下さい。 見たくなくても見えてしまうといけないから、解答の図は次の節の後ろに回した。
     問題は次のとおり。

     頂角が 20度 の二等辺三角形がある。 底辺の頂点から、それぞれ内側から 60度、50度 の線を引き,他の辺との交点を結ぶ時、そのなす角を求めよというのである。
    図がないと説明しにくい。記号を確定して問題を述べなおそう。
    二等辺三角形 ABC (AB=AC) とし、頂角 ∠A= 20度 とする。 辺 AC 上に点 E を取り、∠CBE =60度 とする。 辺 AB 上に点 F を取り、∠BCF =50度 とする。 ∠BEF を求めよ。」

    質問者:不特定多数
    質問日:1997年 4月 14日(月)

    一つの解答(もっと良い解答があるかもしれないが。) 必要な線分を引く、つまり BE, CF, EF を引いて、BE と CF の交点を H とする。 直ちに分かる角度は、
    • ∠BAC = ∠ABE = 20度、 ∠ACF=30度
    • ∠BEC = 40度、 ∠BCF = ∠BFC = 50度
    • ∠CBE = 60度
    • ∠BHC = ∠EHF = 70度
    • ∠ABC = ∠ACB = 80度
    で、20度から80度$まで 10度刻みにすべての角度が一つの問題に出てくる。それでいて直角が出てこない。奇問であるには違いない。 (意味のある)残りの角が一つでも分かればそれで終わりなのだが、なかなかの難物である。ぐるぐるまわってなかなか絞れない。イライラしてくるほどだ。 それもまた楽しい。眠れぬ夜には最適の問題である。
    しかし答がないなどと心配する必要はない。 三角関数を使えば、順に線分の長さが確定していき、$\angle BEF$ が決まらなければいけないことぐらいはすぐに分かる。 初等幾何なのだから、「補助線一本」というわけで、$E$を通って底辺$BC$に平行線を引き、$AB$との交点を$D$と置く。と言うよりも、 $\angle BCD= 60^{\circ}$となるように$CD$を引くと言った方が良い。 $CD$と$BE$の交点を$G$とする。 これで役者はそろった。 推理小説なら、「犯人探しの読者への挑戦」が入るところだ。 答の分からなかった人や、折角の良質の時間を放棄する人は以下の謎解きをご覧ください。 正三角形が2つ($\triangle BCG, \triangle DEG$)あり、 2等辺三角形が3つ($\triangle ABC, $ $\triangle ABE, \triangle BCF$)ある。 $FG$を結ぼう。 $BG= BC = BF$ だから $\triangle BGF$ は2等辺三角形で底角は等しく、$DF=GF$ である。 頂角 $\angle GBF = 80^{\circ}- 60^{\circ}=20^{\circ}$ だから、 $\angle BGF= 80^{\circ}$ である。 したがって、$\angle FGD= 180^{\circ}-\angle BGC -\angle BGF = 180^{\circ}-60^{\circ}-80^{\circ}=40^{\circ}$ である。 一方、$\angle BDG = \angle BEC =40^{\circ}$ だから、 $\triangle DGF$ は2等辺三角形になる。つまり、$DF=GF$ となる。 四辺形 $DEGF$ は、$DE=GE$, $DF=GF$ である凧形となり、対角線 $EF$ は頂角$\angle DEG $を2等分する。 つまり、$\angle DEF = \angle GEF = \frac12 \angle DEG = 30^{\circ}$ となる。 これが答: $\angle BEF = \angle GEF = 30^{\circ}$ である。