Translator's Preface to Mathematical Omnibus mybookのホーム『本格数学練習帳』のホーム.


『本格数学練習帳』 訳者まえがき



 簡単な練習問題の本だと思って中をパラパラと見たら,難しそうに思えるかも知れません. でも少し待ってください. 実は,パラパラと見ただけで素晴らしさが分かる人は,数学の達人レベルの人だと言えるくらいの本なのです.
 この本のどの講義も,最初の数ページは高校生にも理解できるもので,見慣れた街を散歩する感じでしょうが,読み進んでいくと,高校や大学の教科書では出会わないような風景の中にいることに気づくことになります. よく知っている数学的知識のすぐそばに,こんなにも豊かな世界があったのかと驚いたり,そういう世界を歩き回っていた多くの先人がいたことが分かるでしょう. 数学を学んだ日が遠くなりはしても,数学の達人だったことのある読者だったら,この本を読むことで海外旅行のような楽しさを味わうことができるでしょう.
 しかし,この本は数学の達人や昔の達人のためだけのものではありません. パラパラと読むだけでは,本書の素晴らしさも面白さも分からなくていいのです. そういう人にこそ,この本を読んでもらいたいのです.
 議論そのものや証明が読者に委ねられているところが少なくありません. 練習問題もたくさんありますが,解答はあったりなかったりします. そういうところを自分で解決しないと面白さが分からないのです. 著者たちは,読者が自分で問題を解こうとすることを願っているのです.
 練習帳は練習問題を解かないと,練習帳としての意味がありません. 解いてみて,いや,解く努力をして,解けた時も,そして解けなかった時もその努力が積み重なって,(隠れた)実力を培っていくのです.
 この本の問題にはそういう力があります. ですから,斜めに読むだけでなく,紙とペンをいつもそばに置いて,少しでも分からないところがあったら,計算したり,絵を描いたり,問題全体の概念図を書いたりしてみましょう.
 難しいと思えるところは,本当に難しい,つまり誰にとっても難しいのか,貴方のこれまでの学習履歴のせいで難しいだけなのか分かりません. 後者なら,本書を考えながら読んでいくうちに分かってくるように,本書はできています. まずは考えてみましょう. しばらく考えて分からなかったら,諦めるというのではなく,一時棚上げにして,先に進んでください. 先の方にそれに関する考察が書いてあることもあるでしょう. そんなときは,難しいと感じた貴方の感性が正しかったということです.前に自分で考えてあれば,そこでその考察を読むときにはより深い理解が得られるでしょう.
 易しそうに見える問題も,実際に解いてみてください. 易しい問題なら,見ただけで分かったと思うこともあるでしょう. 最初はそれでも構いません. でも時間に余裕があるなら,きちんとした解答を書いてみてください. そうすると,分かったつもりだった解答に論理のギャップがあることに気がついたり,解答だと思っていたことが間違っていたことに気がつくかも知れません.
 本書の原題が『古典数学30講』であるように,扱っているテーマはすべて古典的なものです. 古いというのではなく,クラシック,つまり本物であり,本格なのです. 絵の良さが分かるためには一流の絵に触れるしかないように,よい数学が分かるためには,一流の数学を学ぶ必要があります. 本書には,そういう本格的な数学が,誰にも鑑賞できる形で詰まっています.
  本書を読み進めば,序文にもあるように,アーノルドのようになれるかも知れません. 大学生の頃にヒルベルトの問題の1つを解いて颯爽と学界に登場した彼も,そうやってこの種の本をじっくりと読み進んでいったのです.
  フックスはアーノルドを自分の数学ヒーローと呼んでいますが,訳者にとってもヒーローです. 彼の初期の大きな業績に太陽系の安定性に関するものがあって, 訳者は修士の学生の時それを学び,後に関連した『古典力学の数学的方法』という著書をロシア語から翻訳したことがあります(岩波書店刊). そのこともあり,アーノルドに会いたくてモスクワ大学に留学したことがあります.
 また訳者が博士課程の時に勉強した,ベクトル場の作る無限次元リー環のコホモロジー論を創始したのが,I.M.ゲリファントとフックスです. モスクワ大学ではアーノルドの講義やセミナーにも出ましたが,ゲリファントのセミナーにも出ていました. ゲリファントのセミナーには多くの有名な数学者が集まってきていましたが,公的には学生用のセミナーでした. 訳者が出席した当時,そのセミナーの進行役をしていたのがフックスだったのです.
 訳者にとって,アーノルドとフックスが大切な人であり,彼らの精神が満ち溢れている本書はとても良い本です.今世紀の数学における名著と言ってもいいくらいです. この本を翻訳することはとても名誉なことと思い,丁寧に翻訳したつもりです.

 さて,本書の構成について述べておきましょう.
 原書は大きく2つのパートに分かれています.日本語版の第1巻では,第1部の「代数と算術」を収録し,第2巻と第3巻は,原書の第2部「幾何とトポロジー」を前半と後半に分けて収録しています.
 なお,原書では全部で30の講義を8つの章に分けていますが,日本語版では章による分類はしませんでした. 章は大雑把に内容をまとめる意味しかなく,各講義はほとんど独立して読みかつ楽しむことができ,どの講義から読んでもいいようになっているからです. 他の講義での知識が必要になる場合にも,必要箇所がきちんと明示されているので,心配はありません.
 数式や定理や命題などに番号がついています. (4.5)式は第4講の5番目の式という意味です. また,定理と系が1つのグループ,また命題と補題と注意が1つのグループとして,各講義の中での通し番号が付けられているので注意してください.
 各講義の終わりに掲載されている数学者の肖像については,出典からの許可が得られないために差し替えたものがあります.
 本文の記述や,演習問題などで,原著の明らかなケアレスミスや思い込みについては,一々脚註などで断らずに直したものがあります. しかし,訳者の勘違いやタイプミスなどが混入している可能性があります. それに気がついた読者は,訳者か出版社に知らせていただければ,増刷時などに改訂していきたいと考えています. 言葉遣いなどでもより適正なものに変えていきたいし,訂正予定のデータは,訳者のHPの本書に関するサイトに随時アップする予定です.
 

平成12年7月 
蟹江 幸博 


 

トップ