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数学教育TF 
--高校数学と大学数学の接点--


(三重大学教育学部紀要第50巻,教育科学,97-113)

蟹江幸博(三重大学教育学部数学教室)
岡本和夫(東京大学大学院数理科学研究科)



1.はじめに

 著者の二人は大学の理学部数学科で教育を受け,数学者として数学の研究をし,同時に大学の数学教育にあたっている。 大学入学前の数学教育との関わりもあり,現状に対する公的な答申などに見られる現状認識の誤りを指摘し,我々がなし得る貢献のあり方を模索するとともに,今後の数学教育に対しての提言をしたい。
 ここで論じることの根拠は,とくに一般教育の数学教育に従事してきたという教育経験によっている。 高等学校の数学教育との関わりは,主として、一人は教育学部に籍を置いて初等・中等教育の教師を育てている立場からのものであり,もう一人は高等学校や中学校の教科書の執筆を通してのものである。 我々が直接経験した範囲でも,大学までも含めた学校教育の変貌は著しい。 しかし,このような変遷過程の分析自体は本稿の目的ではない。
 ここで我々が問題にしたいのは,教育関係の各種審議会(中央教育審議会,教育課程審議会,教育職員養成審議会,大学審議会など)の報告書から読みとれる,現在学校教育の現状についての認識が,我々のそれと大きく異なっていることである。 したがって,まずこの点について我々の立場を明らかにすることから始めたい。
 学校の授業は,生徒の集団に対して一人もしくは複数の教師が相対するところから開始される。 その時に教師がどのような生徒集団を想定して授業をするのか,これはもっとも基本的なことである。 本来授業は,児童・生徒の状況に応じて自在に設定されるべきものであり,現場に於いてもっとも苦労する事柄である。 ところが,審議会報告書に代表される行政側の認識は,一言で言うならば,平均的な教師が平均的な生徒に授業を行う,というものであるとしか思えない。 このような認識が実際の授業に影響を与えることがあるのならば,大いに問題であると言えよう。
 以下では数学の講義・授業に即した形で論じるが,他の教科についても大かれ少なかれ同様のことが言えるものと,我々は考えている。 我々は(教科)教育学者ではなく,そのため以下の議論が教育学的にナイーブに過ぎると見えるかもしれない。 しかし,現実に年とともに変化していく学生たちの実態に触れ,またそれを増幅する教師たちの有り様に接している我々の,已むに已まれぬ思いの表出であることを理解して欲しい. また,その点にこそ意味があるのだと考えている。

2.変貌する学校教育:教育対象に対する現状認識の誤り

2-1.現状認識の現実

 前節で述べたように,一般に教育論議というものは,仮想的な生徒を設定しそれに仮想的な教師が授業をする,ということを前提に進められることが多い。 実際は,仮想的とは言わずに平均的と言っているが,平均的な生徒も教師も現実には存在しない。しかもこの仮想には実体を反映しない,単なる思いこみによるものが多いのである。
 この前提の下で議論を進めることは,一見当たり前のことに見え,何ら問題がないようにも思えるかも知れない。 我々がなぜこの前提に対し疑問を持つのか,その理由を述べることにしたい。
 外国に追いつき追い越せという文明開化・殖産興業の時代,あるいは国の復興が自明な目的であった敗戦後の時代,個人よりも組織の論理が優勢であった高度成長の時代には,上述の平均的な教師が平均的な生徒に教えるという前提に立った教育論も一定の有効性があったであろう。
 もちろん,これまでの日本の教育がすべて誤りであった,と主張するつもりはない。 実際に,西欧諸国に追いつきある部分では追い越し,敗戦から立ち直り,経済大国にまでなったのだから,その意味で目的は達成されたのである。 そのような目的に妥当性があったかどうか,その目的を達成するために大事なものを失ったのではないか,という,どちらかと言えば感情的な議論もあるが,このような問題を論じることは本稿の目的ではない。
 また,過去へのノスタルジーはともかくとしても,数学教育をたとえば心の教育のような一般的な教育論に帰着する立場は,断固として我々のものではない。 歴史を新たにやり直すことはできないのであるから,現状をどのように改善するか,どのように困難を打破するか,を積極的に考えてみたい。 そのために,平均的な生徒への平均的な教師による平均的な授業という,平均的な見方そのものに疑問を投げかけてみたいのである。
 高度成長の盛りの頃から,落ちこぼれが問題にされ,徐々にその論点が強調されなくなり,今日では若い人達の理工系離れ,数学離れが叫ばれるようになってきた。 これは,歴史的には意義のあった教育論の前提が,この時点で既に成り立たなくなっていることを示している。
 同時に,高度成長の副産物として,高等学校への進学率が97パーセントを超え,大学進学率が短大も含めて50パーセントに近づくという教育の大衆化が進んだ。 これに対し,行政側は高等学校では指導要領を,大学ではシラバスを変更することで対応してきた。 対応策は要するに,内容を平易・簡単なものにすれば生徒あるいは学生の理解が平均的に進むだろう,丁寧に教えれば落ちこぼれは減るだろう,という処方箋を出しつづけたことにある。 現実にこのような努力が報われたとは,誰も言えないし,客観的に主張できる根拠も薄弱で,有効な方策もないまま,ひょっとすると報われていないのではないかという不安を隠したまま,それこそ「みんなで」困っているのが現状である。
 易しくすれば,内容を減らせば学生は数学を良く理解するだろう,という認識は確たる根拠があるわけではなく,根本的な誤りがありはしないだろうか。 このような問題点は既に10年以上も前から,数学者の一部では指摘されてきた。 しかしながら,思ったとおりに行かないことがあれば,それはまだ内容が難しすぎるからだ,という議論はいまだに健在で,1998年秋現在,進行中の指導要領の改訂作業でも,この立場が中心的が役割を果たしている。 指導要領の問題点は後に論じるが,ここでは,内容を易しくすれば云々という議論の有効性以前に,教育論の前提を問題にしたいと思っている。

2−2.教育の大衆化と個別化

 今,我々が教育の問題を深刻に考えている根底には,教育の大衆化に伴った生徒あるいは学生の持つ資質の個別化という現実がある。 平均的な生徒は既に仮想のものであり,存在すら自明のものではない。 教育現場での認識としてこのことをまず認めなくてはならないと思う。
 話をわかりやすくするため,大学での数学の授業を例に取る。 ここに学生百人からなるクラスがあり,数学の授業を実践する状況を考えてみよう。 学生としては自分の専門がまだ確定していない,いわゆる一般教育の数学の講義を受けている集団を想定する。 数学志向,物理学志向の学生はもちろん,また理学の他の分野を目指す学生も,工学の諸分野に興味を持っている学生も,様々な学生が一緒に講義を受けている。
 学生の中には,数学がよくできる者できない者,数学が得意な者不得意な者,数学が好きな者嫌いな者,様々な学生がいる。 これは,実際に講義をしている教師なら誰でも出会う現実である。 また。このクラスはいろいろな層の学生から成り立っているという意味で,普通のクラスであるとする。 このようなクラスではどのような数学の授業がなされることになるのだろうか。
 まず,教える立場としての教育の目的は,理想としては,みんなが数学が得意な学生になって,数学を好きになってくれることであるだろう。 当然,教える側はその目的のために努力は惜しまない。
 そこで,数学教師である私は,このクラスに数学の講義を始める。 受講者である学生がそれぞれどのような個性や資質の持ち主であるか,最初はわからないから,決められたシラバスに沿った講義を行うことになる。 講義なんか聴かなくても数学がよく解っている学生もいて,それらの学生だけを対象に想定することが可能なら,講義がどんどん進んで良いのだが,その結果落ちこぼれもたくさんできる。 むしろ,このような学生は教えなくても自分で勉強するから,講義の対象として想定しなくてよい。 また,はじめから全然やる気のない学生は,講義に集中していないし,第一出席しているかどうかも分からないから,このような学生も対象からはずす。 乱暴な議論なように見えるかも知れないが,現実的な態度というものであろう。 というわけで,平均レベルの学生を想定し講義を始めることになる。
 しかし,現実には,講義を進めるうちにクラスの中では二極分化が進む。 このことは,学生の試験の成績の分布を考えてみれば分かりやすい。 成績の分布は,何か特別な処理をしない限り正規分布にはならないものであり,むしろ二山の分布になる.このことは良く指摘される事実である。 余談になるが,入学試験の場合,そのような分布を生み出す問題が受験問題としての良問なのであり,それこそが学生の選抜には都合良い。 このような二山の分布では,平均値の周りにはあまり人がいないことになる。
 二極分化が起きるのは,成績だけではない。 もっと多様な面で二極分化が起こるのである。 数学がよくできる学生の集団とできない学生の集団,数学が得意な学生の集団と不得意な学生の集団,数学が好きな学生の集団と嫌いな学生の集団と,色々な面で2つに分かれてしまう。
 極端な議論に見えるが,教育を実践する者なら誰もが経験しているのではないだろうか。 さらに問題なのは,数学ができる学生の集団,数学が得意な学生の集団,数学が好きな学生の集団は必ずしも一致していないことである。
 平均が二山の間の底を指し示すことになるとすれば,平均の周りに分布する平均的な学生集団は,仮想どころか架空の存在になり,教師が想定した学生集団は空集合にもなりかねない。 講義の途中で学生と教師の間に交流があれば,このような極端な事態はある程度防ぐことはできるだろう。 フィード・バックにより,説明の硬軟,難易,疎密,遅速を取り混ぜていくことができれば,その講義は,かろうじて良い講義と言える。 また,大学の講義では,たとえば高等学校の生徒や教師にとっての大学入試のような強い外力が働いていない分だけ,大学の方が学生の二極分化が表面化しやすく,したがって対処することも不可能ではない。 しかし,シラバスがきっちり決まっていて,今日はこれだけのことを必ず教えなければならないという強制力が強いと,二極分化の傾向は促進されてしまう。
 つまり,普通の学生を想定した普通の授業をすることでは,結局普通の学生が普通でなくなってしまうという逆説的なことが起こることになる.

2−3.習熟度クラスの是非

 では,数学のできる学生の集団とできない学生の集団を別のクラスに分けて授業をしたらどうなるのだろう。 いわゆる習熟度クラスである。 つまり,二山のうちの一山だけを対象とするわけである。 しかしその時に,そこでの平均的な学生を想定した平均的な授業を行っていれば,一山の分布から出発しても二山に分解し,二山分布は四山分布になってしまう。
 このことを繰り返していけば,熱心に教育をしていても,山はどんどん増えて教育の効果がカオスになっていく。 当然,もともと何も代表していない平均値はどんどん低い方にシフトしていき,学力低下が叫ばれ続けることになる。
 全くの善意と熱意の結果このようなカオスが起きる原因は,たとえば数学がよくできる学生と数学が好きな学生という2つの集団が同じでないことによる。 数学の試験の成績は良いが,数学は大嫌いだという学生も現実にいるのである。
 このような習熟度クラスにおいて想定される今一つの問題点は,よくできる学生集団が二極分化して生じた二山のうちの低い方と,できない方の学生集団にできた高い方の山との間には,もはや優劣が無いかもしれない,ということである。 鶏頭牛後の喩えではないが,できない学生を集めたクラスに入っても,たまたま良い教師に出会い,数学が嫌いだった学生が数学好きになることもある。 あるいは数学を勉強しようという純粋な動機を得て,数学への理解が進み成績も良くなる学生もいるだろう。 また逆に,よくできる学生集団において,必然的に生まれるできない学生は不幸である。 プライドがいだけに極端な意欲の低下を起こす。
 できるクラスとできないクラスに一旦分けられてしまった学生の実態に応じて,頻繁にクラス分けを行うことも考えられるが,極度に目的が明確な受験予備校的な状況でない限り,生徒・学生の学習態度に落ち着きがなくなることは明らかである。 結果だけを求めるような姿勢を助長することになり,本来の教育の目標からは,ますます遠いものになってしまう。
 習熟度クラスによる数学の講義という考え方そのものを否定するわけではないが,平均的な学生に対する平均的な講義が想定されている限り,習熟度クラスの編成は問題が多い。

3.理科系基礎教育における数学教育の意義

3-1.単一ではない数学の様相

 大学に所属する数学者の間では,最近数学教育についての関心がかつてないほど高まっている。 大学の数学教育に関するネットワークが複数できているが,その中でもっとも大きいのは,名古屋大学の浪川幸彦教授を中心とするものである。 その活動の一環として 1998年 8月 7日に,工学部における数学基礎教育に関するワークショップが東京大学工学部(正確に言えば,大学院工学系研究科であるが)で行われた。 主催者は,東京大学大学院数理科学研究科薩摩順吉教授と同大学大学院工学系研究科藤原毅夫教授であり,同大学大学院工学系研究科の木村英紀教授と矢川元基教授,および山形大学工学部の西成活裕助教授の基調報告と,討論が行われた。 このワークショップは極めて興味深い内容の会議であり,その内容はいずれしかるべきところから公表されるであろうが,ここでは木村英紀教授の報告から題材を借りて,数学の一つの姿について述べてみたい。 必然的に内容が工学部の学部教育に関係するものとなる。

 木村教授は報告において,工学における数学使用の実態を,これまでは(必然的に数学の言葉で語られる)物理科学の応用という観点が主流であったが,彼が専門とする領域ではまったく異なったソースの数学が必要となっていると主張している。 さらに,例として制御工学における線形システムの次の2つの基本定理が引用された(木村[5]による)。

定理1.(制御可能性) 微分方程式

x = Ax + B u, x∈ Rn , u∈ Rr    (1)

に関して,次の (i)-(iv)の命題はすべて同値である。

(i) 任意の初期状態 x(0) に対して,T>0 と {u(t), 0 ≦ t ≦ T} が存在し,(1)の解 x(t) で
x(T)=0
となるものが存在する。

(ii) 正則な行列 U で
UAU-1 = A11A12  かつ   UB = B1
0A220
となるものは存在しない。

(iii)
rank ( B AB ・・・ An-1) = n .

(iv) 任意の λ∈C に対して
rank ( λI-A B ) = n .


 次の定理はこれと双対な命題である(A ⇔ AT,  B ⇔ CT)。

定理2.(観測可能性)  微分方程式と代数方程式が結びついたシステム

x. = Ax, y=Cx, x∈Rn , ~ y∈Rm     (2)

に関して,次の (i)-(iv)の命題はすべて同値である。

(i) ある T>0 が存在し { y(t), 0 ≦ t ≦ T} を与えれば,(2)式の初期状態 x(0) を一意的に定めることができる。

(ii)
rank ( CT ATCT ・・・ (AT)n-1 CT ) = n .

(iii) 任意の λ∈C に対して
rank ( λ I - AT CT ) = n .

(iv) 正則な行列 U で
UAU-1 = A110  かつ   CU-1 = ( C1 0)
A12A22
を満足するものは存在しない。


 この二つの定理は,可制御性と可観測性の双対性として,線形システム理論では良く知られた基礎的なことがらである。 定理の内容を見れば,どちらも条件 (i) は線形微分方程式系に関するものであるが,その他の同値な条件は,抽象的な線形代数学の命題である。 これが工学部の学生が頭を悩ますところであり,なかなか理解してもらえない,と木村教授は嘆いていた。 この定理の一体何処がそんなに難しいのか少し分析してみたい。
 どちらの定理でも本質は同じだから,定理1 について考えてみよう。 (ii)〜(iv) の3つの条件は,線形代数の命題であるから,これを線形代数の問題として提出されれば数学の得意な学生にとっては,これらの条件の同値性を示すことは難しくない。 問題は条件 (i) である。 我々も,言われて見れば理解することも証明することもできるが,純粋に線形代数の命題が微分方程式の命題に置き換えられ,しかも可制御性と同値であることには驚かされる。 つまり,この定理の素晴らしさは可制御性が線形代数の言葉で完全に表現されているところにあり,またこの点に定理の意義がある。
 したがって,初めて勉強した学生はもっと新鮮な驚きをもってこの定理に接してくれることを,我々は期待するのである。 しかしながら,現実はそうではない。 数学を単一の孤立した学問としか見ない傾向が,最近とくに強いような気がする。 数学の一つの分野を何か他のこととは独立した学問として受け取る学生は少なくない。 むしろ,このような傾向を助長していることこそ,現在の中等教育と高等教育における大きな問題点である。 学問分野のそれぞれにレッテルというかラベルを貼って,それぞれに別の引き出しに入れ,授業のたびに他の引き出しは閉めて,1つの引き出しから中身を出してきて学習させる(する)。 これを「ラベル教育」と呼ぶことにしよう。 ラベル教育については後の節で詳しく論じる。 ここでは,行列の話と微分方程式の話は全然別のことがらであるとしか理解していない学生にとって,定理の内容の意外性ゆえに余計理解の困難さが増す,という事実があることを指摘したい。 むしろ,工学部で問題になっている学生の学力低下がこのような定理の理解力の低下となって現れているならば,それはラベル教育の弊害の一例と言って良い。
 おそらく,多くの学生は,大学初年級において線形代数を勉強したときに,それがこのような形で使われるとは思ってもいなかっただろうし, 微分方程式の基礎理論を習ったときに,線形代数学がこのように見事に使われることは思ってもいなかっただろう。 では,教える教師の側が線形代数あるいは微分方程式の講義中にこのような定理について触れることで,将来実際に工学部の講義で習ったときの学生の理解の助けになるだろうか。 確かに,微分方程式の講義中に教わっていれば,この定理はよく分かるかもしれない。 しかし,数学がこのような形で使われることはいくらでもあるのだから,この定理は理解できても別の定理は全然分からない,ということになる。 あれもこれも,となれば,本来の微分方程式や線形代数学の講義が成り立たなくなってしまう。
 この場合,工学部のシステム系の学生だけを対象にして大学初年級の教育を行えば良い,という考え方は成り立つだろうか。 専門を細かく分けて,大学で早くから専門教育をしよう,という立場である。 確かに既に良く知られたことだけを教えることが教育の目的ならばその方法も一定の効果があるだろう。 しかし,定理1 の神髄は,数学がこのような形で使われたところにある。 すなわち,基礎的な数学を積み上げて定理を作り出すという苦労が分からなければ,新しいことがらの理解は困難である。 自分自身で,誰も考えつかなかった理論を構築し,それを工学に応用することは不可能になってしまう。
 なお,定理1 と定理2 をあわせて可制御性と可観測性の双対性の定理と呼ぶことは上で紹介したが,この双対性という考え方は極めて高級な概念である。 おそらくどの大学でも,初年級の線形代数学の講義では双対性の概念に触れることはないと思われる。 だから,学生が双対性をなかなか理解しないのは無理もないが,ここで我々が問題にしているのはそれ以前のことである。 数学について,既に分かっていることを勉強する学問などという硬直した考え方から逃れて,自由に何にでも使えるという柔軟な理解を持っていさえすれば,双対性の難しさは簡単に克服できるのである。
 以上,工学部における数学基礎教育のワークショップから,木村教授の講演を元にして論じた。 他の矢川教授と西成助教授の講演でも,ここで述べたような数学の理解の仕方をどのようにして学生に教育するか,ということがそれぞれの立場から主張されていた。

3−2.数学は役に立つ

 以上長々と数学的な内容に立ち至って述べたのは,ここであらためて「数学は役に立つ」ということを主張したかったからである。
 近年とくに学問の価値について,役に立つことに重点が置かれた議論が盛んである。 ある学問が役に立つというとき,次のような観点が考えられる。
(1)  そのとき問題になっている個々のことがらに利用でき,必要である,という意味で役に立つ。
(2)  科学技術の全体的な進歩に貢献する,という意味で役に立つ。
(3)  知識の広がりと深さ,など個人の精神的な成長を助ける,という意味で役に立つ。

 数学者の多くは自分自身の興味と関心とから数学の研究を進めている。 このときにはその数学的結果が,何かの役に立つかどうかは,あからさまには意識されていない。 しかし,学生への教育に携わる場面では,否応なしに数学が「役に立つ」ということを意識せざるを得ない。 ギリシャ時代においても,幾何学を修めるといくら儲かりますか,と尋ねた学生がいた,とある本で読んだことがある。 その時代には現代以上に精神の高さに価値がおかれていたので,先生は学生に金を払って学校から叩き出したというが,我々にはそういうことは許されていない。 学生が「この数学は将来どんな役に立つか」と問うとき,実際に職業上「将来数学を役に立てたい」と思っている場合もあって,そのときには(3)のような答えは筋違いということになる。 (2) の視点を強調することは,学生の個人的関心から遠すぎて,説得されても納得はしないだろう。 学生の問いに答えるには,(2)や(3)は高級なのである。
 学生は(1)についての具体的な答えを期待しているのだが,一律に答えるのはなかなか難しい質問である。 学生の志向により異なった答え方があり得る。 理論物理学志向の学生ならば話は比較的簡単であるから,工学部志向の学生を想定しよう。 もし,彼が物理学や化学などの自然科学を生かして新しい技術開発を目指しているならば,自然科学における数学の位置づけについて説明しなくてはいけない。 また,前節で紹介したシステム系のことを勉強したいのならば別の説明が必要となるだろう。 ただ,このような明確な目的を持てる学生は専門課程から修士課程の学生であることが多いから,一般教育(共通教育)の数学の講義でこれを伝えるのは至難の業である。 少し脱線するが,数学者の中にも工学というと自然科学を応用することだけをイメージする人が少なくない。 この見方は少し一面的であり,最近の工学はもっと直接的に数学を利用する分野もある。 前節で触れたワークショップでは,木村英紀教授は,物理や化学などの自然科学を応用する工学の基礎理論を「応用理論」,数学に関係した理論を工学の「純粋理論」と呼んでいる。 また,おなじワークショップで矢川元基教授は,「かたい工学」と「やわらかい工学」について触れていたが,大体同じような視点での分析であると思われる。
 ここで言いたいことは,(1)のような即物的な答えをする場合においてさえ,一般に考えられているよりもずっと広く,数学が役に立っているということである。 今日役に立っている数学は明日はもう常識となって新しいことには役に立たないことがある。 大体,すぐに役に立つことならば誰か他の人が使って仕事をしてしまうわけで,学生がこれから新しいことを始めようとするときには新しい誰も考えていなかったことを見つけなければならないのである。 これは工学のような実学分野では極めて顕著である。 我々が学生時代に花形であった学科が技術的な行き詰まりのために新しい分野を目指して改組された例は枚挙に暇がない。 また,技術の進歩が新しい数学を求めることもある。 たとえば,最近通信分野で暗号と符号の理論と応用が盛んに研究されているが,ここで使われている数学は,有限体上の代数幾何という,専門的な数学者にしか関心がなさそうな分野である。 もちろん,数学者は純粋に数学的な興味からこのテーマを研究してきたのであるが,何十年も経った後に先端的な話題になっている。 暗号と符号の理論を勉強している学生は,1年生の時にもっと代数的なことを教えてくれたらいいのに,と思っているだろう。 数学が役に立つまでにはいつでも時間がかかる。 すぐに役に立つことは,時期に役に立たなくなるものである。
 だからこそ,本当に役にたつ数学を身に付けるためには,明確な問題意識と柔軟な思考,それと自由な精神が不可欠なのである。だから,(2)と(3)のような高踏的な視点も忘れるわけには行かない。 ただ,順を追って説明しないと分かってもらえない。 数学は役に立つ,と確信することは易しくない。 教師が学生と一緒になって,この困難さを克服することが(数学)教育の理想なのだろう。

3−3.ラベル教育の功罪

 教育の大衆化と平均化に呼応して,教育にラベルを付けることが広まっている。 高等学校の数学での,「数学I」とか「数学A」というのは学年に対応する大きなラベルである。 また,「数と式」とか「図形と方程式」などの単元名もラベルの一つである。 「微分積分」はラベルにもなっているが同時に数学的に明確な対象を指している。 中学校の数学では,単元と学年に対応するラベルの間に,数と式,図形,数量関係という中間的なラベルが貼られている。 確かに,平均的な教師が平均的な生徒あるいは学生に平均的な授業をするとき,その内容にラベルが付いていれば,お互いに便利ではある。 実際に勉強していることがらに見出しを付けて学習の助けにするという意味において,学年ごと段階的に学習するため内容を分けることや,学習項目に様々なラベルを付けること,それ自体は悪いことではない。 しかし,このラベルが一人歩きを始めるとラベル教育の弊害が現れる。ここで我々が何を称してラベル教育と呼んでいるのか,以下明らかにしていきたい。
 大学初年級の講義の場合,例えば,この学期の数学の講義の目標は微積分学であり,最終的にテイラー展開が理解できればよいということで,講義の実際の進め方は教師にすべて任せる,という授業方法もないではない。 しかし,この自由主義的教育方法をとると,教師により内容が異なるとか,学生の理解の程度にばらつきができる,という問題点が生じる。 また,教師の自由裁量が多い場合には,実践教育者としての教師の高い能力が期待されるし,普通の教師にとっては長い時間をかけて準備することが要求される。 大学の教師は研究者でもあり,時間も限られているから,そのような自由主義的教育方法は理想的であるとしても現実的ではないことになる。
 そこでシラバスを整備することになる。 シラバスの整備はあくまでも教育を実効のあるものにし,一定の水準を保証するためのもので,シラバスを作ること自体が目的ではない。 ところが,指針であるべきシラバスが授業の受け手である学生を強く縛ることが往々にして見受けられる。 つまり数学の講義中に他の題材を取り上げて説明するときに,学生の方に戸惑いが生じることがある。微積分学の講義の中で物理学から題材をとり数学の概念の説明に利用することはよく行なわれている。 教師の側の意図はあくまでも理解を助け,今勉強していることが将来どのように使われるかを示して見通しを良くしようということであるのは言うまでもない。 ところが学生にとっては,数学の講義で物理を勉強しなければならないという過重な負担と受け止められていることが少なくないようである。 「何のために先生は数学の講義中に物理の話をするのですか,新しい概念を習って良く理解しないうちにさらに別の科目の勉強をさせられると両方とも分かりません」というわけである。 最近は高等学校における物理の履修率が低くなっているから,物理を全然勉強してきていない学生もいるが,ここで話題にしているのは物理を一応履修した学生であり,これ以上物理についての一般的素養を持つ学生群は期待できないほどなのである。
 岡本の経験から例を取ろう。 何年か前に,微分方程式の講義のはじめにケプラーの法則を取り上げたことがあった。ケプラーの3つの法則は経験則であり,ケプラー自身もわずかな基本法則からこれらを証明しようと努力したが,果たせなかったものである。 我々は,ケプラーの3法則がいわゆるニュートンの第2法則と万有引力の法則とから証明できることを知っている。 この事実は微分積分学の発見に関わる数学的な大事件であるばかりではなく,自然科学とくに物理学においても大事件である。 人間がどのくらいの時間と労力をかけてこに認識に到達したのかを考えれば,文化史上欠かせないことがらでもある。 天体力学のその後の発展を考えれば,微積分学の講義にとりもっとも基本的な題材であると言えよう。
 ニュートンの第2法則と万有引力の法則(いわゆる逆2乗法則)からケプラーの3法則を数学的に導出することは,微分方程式の意味を考える上でも,微分積分がどのくらい役に立つかを示す題材としても重要であるから,時間をかけて黒板で説明した。最後にケプラーの3法則までたどり着いたときにはこちらも多少疲れたが,学生が感動してくれればその程度の疲労は何でもない。ところが学生の多くはポカンとしている。

「君たちはケプラーの3法則を習っていないのかい?」
「高等学校では習っていません。大学に入ってからの物理の講義で触れてはいましたが。」
「高等学校では物理を履修しなかったのかい?」
「もちろんとりましたし,受験でも物理を選択しました。」
「ケプラ−の3法則は忘れたのかい?」
「先生,ケプラーの法則は物理では習いません。出ているのは地学の教科書です。」

 このやりとりを実際に経験するまで,岡本は学生の興味と関心の狭さを,共通一次試験あるいはセンターテストに代表される日本の受験体制の弊害の現れと捉えていた。 しかし問題の根はもっと深い。 ケプラーの3法則を教えない物理学の教程にどんな意義があるか理解できないが,それにしてもそのような現状を知らずに過ごしてきたのは我々自身の責任である。 学生の傾向を嘆いているだけでは何も解決しない。 物理で教えないならば,数学の講義中に触れなくてはいけない。微分方程式の講義は,学生にケプラーの3法則について予備知識があると仮定した点で失敗であった。
 この経験から,我々は高校教育の現状とラベル教育の弊害を学んだのである。 しかし,よくよく考えてみると,現行指導要領に従って書かれた高等学校の数学教科書には微分方程式という言葉さえ出てこない。 微分方程式のない微積分学とは一体何だと言えばいいのか。 数学教師たる我々は深く反省しなくてはならない。 たとえ,高等学校のカリキュラムの策定について何の力もないとしても。 また,指導要領の改訂において数学者の意見が反映されると言えない現実があるとしてもである。 少なくとも大学の数学教育では,入学してくる学生を(学力的に)認識した上で,必要なことは補わなければならない。
 現場の教師としてできること,今しなければならないことはたくさんある。 それにしても大問題である。 ケプラーの法則が地学であろうと物理であろうと勉強していれば同じことだが,学生の方はラベルの違う科目は全然違うものとして理解している。 たとえ物理と地学と両方履修しても,違う科目の内容は互いに無関係であると思っている。 これを現実として受け止めなければならない。 ケプラーの法則に関して物理と地学を結びつけることができるのは,当面数学しかないことを数学の教師は知らなければならない。 微積分学の講義でヤコビアンを習うとき,それは線形代数ではないかといって反発する学生が出現する前に。

3−4.大学教養数学教育の位置

 どのような姿勢で数学教育を組み立てるのか,とい現実の問題に立ち戻ろう。 具体的に何を教えるか,教育の実践場面でどのように教えるか,ということはきわめて重要な視点ではあるが,本稿で議論したい主題ではない。 数学教育の理想を求めるならば,まず教える側が「数学は役に立つ」ことを単なる標語としてではなくて事実として認識していなくてはならない。 それには,実際に現在どのような場面で数学が使われているか知っている,少なくとも知ろうとしているという姿勢が前提となる。 しかし,もし将来本当に役に立つ数学は,今使われている数学だけでは不十分かもしれないし,事実そういうことはたくさんある。 この立場を前提として,我々は大学教養数学教育をどのように位置付けているのか,をまず明らかにしたい。
 結論を言ってしまえば,教養数学は学生にとってはトレーニングであり,それ自身は対象として,必ずしも面白いものではない。 もし,学生が新しい科学技術に積極的に貢献したいと思っているならば,教養数学というトレーニングは専門学部や大学院に進学して初めて生きてくるのであって,楽しいことを後で味わうための訓練の場である。 数学の勉強は登山に譬えられる。高い山に登ればそれだけ見通しが良くなりいろいろなことが見えてくる。 もちろん,数学に限らず創造的な仕事は皆同じであろう。 いずれにせよ,日頃のトレーニング無しに高い山を征服することは無理である。 将来数学を使って仕事をする学生には,はっきり言っておくべきである。 これは訓練なのだと。
 ただし,教師はもっぱら黒板に向い学生は板書にいそしむのみ,という授業形態でも良いのだ,と主張しているのでは断じてない。 こんな当り前のことを誤解を恐れていちいち言わなければならない現実は悲しい。 「昔の数学の先生の授業は小さな声でぶつぶつ言いながら黒板に小さな字で式を書いていました」という感想を諸先輩から聞くことがある。 「今はそんなことでは済みませんよ」と答えているが,昔からそんなことでは済まなかったのである。 ただ,現在より大学生の知性のレベルは高かったし,学生自身が目的意識を持っていたから,学生は今以上に自発的に訓練に参加し,その分教師が楽をしていただけなのである。 スポーツのトレーニングは(体力的に)つらいけれど,速く走りたい,強くなりたいと思うからこそ頑張るのだ。 数学でも,何のための訓練かを学生に示すことがなければ,誰も参加しない。 そのためにシラバスがあり,授業での工夫が大切なのである。 学生を励まし,学生の意欲をかき立て,訓練に積極的に参加してもらうことが必要である。 授業は人と人とのインターフェイスで成り立ち,テレビの講座とは自ずから異なるものでなければならない。 大学教養数学で何を教えるか,を明確にするためにシラバスを作ることを否定はしないが,講義者が誰であっても同じ講義になるような制約は不要のものである。 シラバスは講義の指針であって本質ではないからだ。
 基礎体力があってこそ数学を楽しむことができる。 上述の可制御性と可観測性の双対性は,線形代数学という基礎体力があって,初めて理解でき,楽しいと思うことができるのである。 数学は思わぬところで使われる。 それもすぐにではなくて何年も経ってから役に立つことが少なくない。 1998年度の京都賞を受賞された伊藤清氏が第二次大戦中に発見した確率論的な微分方程式は,今では伊藤方程式と呼ばれている。 専門家には周知のものであったが,その後30年以上経ってから,世界的に確率論の専門家以外にも注目されるようになった。 この伊藤方程式は現在,数理ファイナンスの基礎方程式となっていて,確率論専攻の学生及び大学院生が銀行や証券会社をはじめとする諸企業から尊重されるという事態も生じている。 確率論専攻でなくても,数学科卒業生さらに修士課程修了者ならば数理ファイナンス関連の論文を理解することができる(はず)ということで,彼らの求人状況は良い。 この分野の博士課程修了者つまり博士号を得た人に対する求人すら,最近ではないわけではない。 「卒業して銀行に就職したいから数学は最低限でよいのです」では済まなくなっているのである。 新しい分野に進むためには,新しい基礎体力が必要なのである。
 大学は教育機関の一つであり,したがって大学における数学教育,特にいわゆる教養課程における数学教育は,高等学校までの教育と学部専門・大学院教育への流れの中で,一貫性を持ったものが求められる。 大学設置基準の改訂以来,大学によって異なる名称が付けられてはいるが,面倒なので上では大学教養数学教育と称していたものがそれである。 一貫性があるからこそ,理科系の数学基礎教育はトレーニングの場であると位置づけられる。 その上で初めて数学がどのように使われているのかを学生に示すことの意味が生まれるのである。 工学部に所属する同僚と教養数学教育について議論する場を繰り返してきたが,以前は学生の学力低下を教養教育で何とかカバーする工夫を求められることが多かった。 ところが最近では工学部や理学部などの専門学部でも高等学校までの数学教育についての認識が高くなったようであり,中等教育での数学教育に関する危機感が表明されることが少なくない。 そこで節を改めて,中等教育とくに高等学校での数学教育と大学での数学教育の一貫性について論じる。

3−5.高等学校数学と指導要領

 高等学校の数学教育は,個々の生徒の特質やその興味関心とは独立に指導要領によりカリキュラムは規格化されている。 現実には,大学入学試験に影響される部分が多く,本来のシラバスとしての指導要領とさえ合致しない教育が行われていることもある。 このことは,生徒の数学に対する意識の劣化さえ引き起こしている。 大学入学試験そのものについて論じることは本稿の目的ではなく,別の機会に譲る。 ここでは数学教育の一貫性を重視するという立場から,指導要領と高等学校教育について考えてみたい。
 指導要領には,高等学校数学教育の目的として,数学を学ぶことの楽しさを理解し数学的な考え方の良さを身に付けることが繰り返し強調されている。 その字句自身には,確かに文句の付けようが無い。 けれども,理科系基礎教育の立場から見ると一抹の疑問が生じる。 理想だけ高くしても,現実から遊離しているのである。 数学基礎教育はトレーニングの場なのだから,楽しい楽しいと言っているばかりでは済まない。 本当に数学を楽しいと感じることは,高等学校数学に連結した大学教養数学教育を身に付け,はっきりと目的を持つことのできる時点までは無理なのではないだろうか。 さらに高いところに登ろうとし,また登ることが必要であるような生徒にとっては,高等学校数学は避けて通れない,避けてはいけない訓練の場なのである。
 数学の楽しさを教えることは,少なくとも理科系の生徒については高等学校数学教育の目的には馴染まないのではないか? 登山のための基礎体力をつける訓練そのものが楽しいはずはないではないか? 数学は役に立つからこそ教えるのではないか?
 こうした我々の考えを高等学校の熱心な数学の先生方にぶつけてみたことがあるが,賛否両論の反応であった。 何とか生徒達に数学の楽しさを伝えたい,という先生が多いのである。 先生方の善意はよく分かるし,ご苦労には頭の下がるものがある。 しかしあえて言いたい。 「数学は面白い」ということを分かってほしいならば,生徒の特性に合わせて,低くてもよいから山に登らせなければならない。 十分な基礎体力無しに山に登らせれば,過労と高山病でダウンし頂上の景色を眺めるゆとりは残らない。 途中であきらめた生徒達は,毎日ただただトレーニングを繰り返しているだけで,試合に出場しない運動部員のようなものである。 どうして,「数学が楽しい」と思うことができるだろう。
 指導要領が戦後の教育において果たしてきた役割のすべてを非とするつもりはないが,現在は余りに硬直化していないだろうか。 元々は概略的なシラバスとして出発したはずのものが,どういう訳か管理の基準になってしまっている。 行政側も指導要領の硬直化を認識しているのだろう。 それ故,「ゆとりある教育」の名の下に,総合的な学習の時間を設定したり,課題学習,補助学習,選択学習を作ったりしているのだろう。 しかし,そのような処方箋は数学のような基礎科目には馴染まない。 やはり訓練のためには必要な時間をかけて学校でトレーニングすることが欠かせない。 現場の教師の自主性が多いことはよいことではあるが,数学教育の一貫性を求めるためにはしっかりした教科書で勉強することが大切である。 よい教科書を作るためには,指導要領のあり方を考え直さなければならない。
 生徒が「数学は面白い」と思うためには,低くてもよいから山に登らせて頂上から眺めるゆとりを作らなくてはいけない,と上に書いた。 現実にはこのようなことを実践することが難しいのは,大学受験の制約もあるけれど,指導要領のあり方に根本的な問題がある。 実際,指導要領にはあれをしてはいけない,これは範囲外,と禁止条項が書かれている。 否定的なことをまとめて指導要領とすれば,結局平均的な授業を進めるしかない。 数学を進んで学ぼうという生徒に対して,大学入学試験対策以外には,学ぶということを禁止しているようなものである。
 たとえば,高等学校の微分積分において,積分の定義を微分の逆演算として導入しなければならず,区分求積法で行ってはならないとある。 こういうことは,指導要領で決めることではない。 理論的過ぎるというつもりであろうか. しかし,応用上重要な物理学で現れる積分は細かい要素を加え合わせるという区分求積そのものであるし,そうして始めて積分の意味が明らかになる。
 すべての生徒にこれこれのような授業をしなければならないというのが間違いならば,すべての生徒にこれこれを教えてはいけないというのも間違いであろう。 難しい計算は避けるのはよいが,部分積分は $1$ 回程度とする,等という制限は明らかに行き過ぎである。 本当に必要ならば何回やったっていいのだし,またやらなければならないのである。 このようなことをいうと必ず,$97$ パーセントの高等学校進学率をどう考える,という非難が返ってくる。 しかし,現実には微分積分を学習する生徒は一部の特化した生徒になっているのだから,反論にもなっていない。感情的な非難に過ぎないのである。
 理科系の生徒だけでなく文科系の生徒についても,教材ごとの工夫でそれなりの高さまで登ることは可能である。 記載されたこと以外に何もしてはいけないというから,何もできないのだ。 少なくとも指導要領にはもっと幅を持たせなければならない。 その上で,現実に生徒の学力と関心に応じた授業の進め方に教師の自主性を求めればよい。 教科書も今以上に多くの種類があっていい。
 高校の数学の授業では次のようなことが強調されていて欲しいものである。 「今君達が勉強している数学はこんなに役に立ち,こんな風に使われているのだ。 将来君達自身が科学技術の先頭に立ちたいのなら,その時のために必要なトレーニングは今のうちに十分にしておかなければならない。」
 このような授業の実践を行うためには,これを助ける教材が不可欠なのは明らかである。 大学受験の問題集ではなくて本当の補助教材が必要なのだ。 では誰がこのような教材を準備するのか。 大学教養数学教育の場合は,それを担っている教師自身が研究者であり,大学には数学者以外にもその道の専門家がたくさん同僚としているのだから,講義を行う教師に任せておくこともできる。 そうであってもさらに有効な補助教材が求められている。 一方,高等学校では,教師一人一人の授業負担は大学と比較にならない程大きく,その他に学校行事や生徒(学習・進路・生活)指導等に多大な時間がとられている。 このような現実では,個人の努力でできることは限られている。 では,高等学校でも使えるような補助教材というものは,あり得ないほどに難しいのであろうか。
 我々は大学の教師と高等学校の教師の共同作業で,具体的な教材を準備しそれを使った授業を実践することを求めて,数学教育TFというネットワークを立ち上げつつある。 大学の教師の側でも,公開講座等により高等学校の生徒や教師と直接ふれあう機会が増えてきた。 また,大学で高等学校の数学教師を育成しているのだから,大学の教師には高等学校の数学教育についても当然の責任がある。 大学と高等学校の教師の共同作業としての教育運動をあらためて考える時期が来ている。

4.数学教育TF

4−1.数学教育TFに向けて

 数学教育TFの末尾のTFは,Task Force の頭文字である。 この言葉を辞書で引くと,米軍の機動部隊とか英国の特別捜査隊とある。 ここでは,物事にあまりこだわらず,臨機応変に必要なことをただちに行うというニュアンスを込めている。
 大学と高校の教師の共同作業としての教育運動があるとして,原則論の議論の泥沼に入りたくはない。 我々は,たとえ無原則にみえても,数学の教育のために,言うならば数学そのもののために,今なし得ることは何かを考え,考えたら即実行し,活動の中で軌道修正していく,そういうものを志している。
 TFというものを作る必要があると考えるに至った経緯について,少し述べておこう。
 著者の一人である蟹江は,10年近くまえから,所属大学の卒業生である初等中等教育の教師の有り様に対する責任を感じるようになり,個人的に可能な教師支援プログラムとしてTOSM(Teaching of School Mathematics)という活動に,個人的に関与してきた([2,4]参照)。 TOSMの活動の様相は多彩で,個人的な活動であることで自由ではあるが,対象となる初等中等教育の現場の教師への浸透は,彼らの教育以外のdutyの多さから来る制約が最大の障壁と思われるが,十分なものとは言えない。 また,本稿での議論のように,大学までの数学教育を全体として見通した立場を取っている訳でもない.
 著者の一人である岡本は,個人的な活動として指導要領の範囲内でできる限り数学者の良心に悖らない高校教科書を書き,指導要領を逸脱せざるをえない部分については参考書という形で世に問うている。 若い時からの数学に対する思いの一端は[1]に述べている。
 さて,集団的な活動については,日本数学会としても大きな関心を持ちつづけてきたし,高校の教師の側も,県ごとにかなり様子は違うものの,数学教師の教育研究集団がそれぞれの地道な努力を積み重ねてきている事実がある。 しかし,そのような生徒・学生の実態と結びついた活動が,公的な各審議会での意見形成に全くといっていいほど反映されていない。 個別に分断された良質の教師の層が事態の推移に絶望する前に,良心的な教育活動の契機を失ってしまう前に,何かしら彼らを,また我々自身をも,励ましあうことのできるネットワークが構築されるべきだという認識と気運が高まってきた。
 1996年の2月18-20日に,京都大学の上野健爾,桐蔭横浜大学の志賀浩二両氏の呼び掛けで,あるワークショップが熱海で行われた。 20数人の中堅の数学者が集って,主として大学における数学教育のあり方についての熱い討論が行われた。 翌年の1997年の3月にも城崎で同様のワークショップが開かれた。 ワークショップ自身の成果としては公表されたものはないが,参加者それぞれの心の中に熱い思いを燃え立たせ,各自の可能な活動をしていく支えになっている。 著者たちもこれらに一貫して参加している。
 このような機会は,初めは数学者集団内部のものに留まっていたが,数学者が直接に働きかけ得る,高等学校数学の内容や数学教育の有り様の議論を深めるためには,高等学校の教師との直接討論の場が必要だという声が強くなってきた。 高等学校と大学の教師達が一同に会してお互いの意志疎通を良くし,ともに数学教育のことを考えていこうというこうした試みは,これまで個別にまた各地域で何度も行われてきている。
 それらを総合するような形の懇談会が開かれることになった。 著者の一人である岡本と京都大学の上野健爾氏との呼び掛けによって,TFの前身であるワークショップ「高校および大学初年級の数学教育」が東京大学駒場の大学院数理科学研究科の会議室で,1997年10月4--5日に行われた。 高校の教師の出席が延べ14名,大学に所属するもの延べ19名,その他の関係者が3名という参加者の間で,活発な議論と意見交換がなされた。
 このような懇談会では,最初はお互いの理解が不十分であり,意志を統一するまでに時間がかかる。 それが,何でも話ができる間柄になると,数学教育の諸問題を,そこに出席していない第三者の責任,たとえば指導要領が悪いとか,文部省が悪いとか,に転嫁するだけで終わってしまいがちである。 この懇談会でも,第1日目の終わり頃にはそのような雰囲気が現れて来た。 そこで福井大学の黒木哲徳氏が『大学教育を見通した高校数学教育の問題点 --- 数学離れと高校数学カリキュラム ---』[3]という基調報告を行った。 現在の教育環境や状況を要領良くまとめたものになっていて,議論が一旦締まったものになり,第2日目の前半もその続きと意見交換が活発になった。 しかし,矢張り,時間のないこともあるし,あまりに立場の違う者が集まったこともあってか,全体の意思は形成し得ないまま散会の時間になった。
 会の始まる前は,このような意見のカオス的な混合状態をそのまま世に問うことをも考えていたようだが,あまりの纏まりのなさに公表することは見送ることになった。 しかしこのままにするのは惜しい。 そこで次回,という話になる。 実はこの日程は,日本数学会の秋季総合分科会,いわゆる秋の学会の最終日とその翌日であった。 次回は次の春の学会のときに,そして学会のたびに何か行うことだけを決めて,散会したのである。
 翌年,1998年春の日本数学会の年会は,名古屋市の名城大学で行われた。 その最終日翌日の3月30日に,名古屋大学大学院多元数理科学研究科の教室を借りて,第2回のワークショップが行われた。 数学会の出席者は若干の顔ぶれが変わっただけであるが,高等学校の側は東海三県を中心に集まっていだくことになった。 高校の教師8名,大学の教師14名であった。 中央ではあまり議論されにくい指導困難校の話題が懇談され,特徴のある会になった。
 ワークショップは日本数学会の大会の機会に行なうことにしたため,大学側はともかく高等学校の先生達の出席者は会ごとに異なる。 その結果多くの人が参加できる,という利点もあるが,会が同じことの繰り返しに終わるという危険性も否定できない。 そこで懇談会ごとにテーマを設定するなどの工夫はしてはいるが,もっと明確な目的意識を設定しないと,これまでの懇談会と同じことを再確認するだけで終ってしまう。 何種類ものこうした懇談会が開かれるたびに同じような顔ぶれの似たような人たちが集まり,それで何が出来,何が得られたというのか。 その思いが第2回ワークショップの終わりの頃吹き出し,会に名前を付けもっと具体的活動を目指そうということになった。 タスク・フォースとは,横浜国大の根上生也氏の提案であり,その語感が出席者に受け入れられたのである。
 1998年秋の学会は大阪大学で行われる。 その際のワークショップとして,単なる懇談会でなくもっと直接的な行動を目標とするものが望ましい。 活動方針の議論が行われた時期に,ちょうど新指導要領の中間まとめが公表された。 参加者の思いが,「この指導要領で数学教育は可能か」という公開討論会という形を選ばせた。 一般の聴衆を期待したいが,大阪の目抜きの場所に会場を借りることも困難である。 いっそ京都大学の方が,参加者にとっては大阪大学よりアクセスが簡単だろうということになり,学会最終日の翌日10月4日に,京都大学理学部共同大講義室で,数学教育TF公開セミナーが開かれた。
 参加者は高校教師17名,大学教師10名,その他が7名であった。 始めて公開にし,これまでの参加者に通知をしたかった所為で参加者の内訳が異なる。 広報は数学セミナーのメモコアに載せただけになってしまったので,予期したより多かったというべきか,少なかったというべきか分からない。 新聞記者も取材に来ていたので,ニュース性というか,今日的な課題としての意味が確認された,というところかもしれない。
 今後,数学教育TF活動のコアと広がりの組織をどう考えていくのかが,運動として考える際の大きな問題点である。 この運動に向かう我々自身のスタンスを確かめるために,二人はこの論文を書くという共同作業を行ったのであり,今後に残された課題はもちろん多い。

5.数学教育TFの目指すもの

 数学の研究を仕事としている数学者は数千人のオーダーでいる。 しかし,数学を使って仕事をして,科学技術の発展に関わっている人の数は数十万にもなる。 数千人の視点からだけでなく少なくとも数十万人の視点から数学教育を考えようというのが,我々の立場である。 さらに中学校は中学校だけで,高等学校は高等学校だけで,大学は大学だけで,数学教育をそれぞれ個別に考えるのではなく,理科系基礎教育としての数学を一貫性を持った観点から組み立てなおそうという作業に取り掛かることが,当面の我々の目的である。
 そのために,大学の教師と高等学校の教師が具体的な共同作業を通して数学教育のあり方を追求することから始めたい。 数学教育TFが当面目指すところを明らかにして,この小論をひとまず終わりにしたい。

<参考文献>

  1. 岡本和夫『数学とは何か』一橋論叢,{\bf 87}-4(1983), p.119-135.
  2. 蟹江幸博『数学教育における数学者の役割−試み−』三重大学教育学部研究紀要,第45巻,教育科学,(1994),15-30.
  3. 蟹江幸博+黒木哲徳『大学教育を見通した高校数学の問題点--数学離れと高校数学カリキュラム--』三重大学教育実践センター紀要18(1998),69-79.
  4. 蟹江 幸博『教育論壇−旗は揚げているのだが− 』数学セミナー別冊「数学の愉しみ」第4巻,日本評論社(1997.12),86-93.
  5. 木村英紀『工学部システム系の数学教育について』科学研究費補助金(A)「大学数学基礎教育の現状と課題 II」ワークショップ(1998.8.7.東大工学部にて)アブストラクト.

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