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天才は創り出せるのか

マルクス・ジョルジュ「異星人伝説」の書評

(数学セミナー8月号(2002.9.1), p.84.)

,  第2次大戦の頃だったか,アメリカで火星人との戦争というパニックが起こったことがある.それは,ラジオの音楽番組の中で火星人襲来の臨時ニュースが流れるという臨場感あふれる設定のドラマのせいだったが, 火星人が実際にアメリカに隠れ住んでいるという,冗談とも本気ともつかない話がささやかれてもいた.
 第2次大戦を経て,アメリカは科学・技術・経済・文化のあらゆる面で世界のリーダーになって行く. 今ではこれこそアメリカ的と思われる多くのものが,実はヨーロッパの政治的社会的状況のためにアメリカに流れこんで来た人たちによって創始され,発展されたのである. たとえば,原爆,水爆,核抑止力を基軸の世界戦略,コンピュータ,生命科学,株式市場,映画産業. そこにはいつもハンガリーからきたユダヤ人がいた. 特に,スィラード,ウィグナーフォン・ノイマンテラーの4人の活躍は凄まじく, ハンガリー人を自称する火星人という話が創られたという. 実はこれは有名な話である. 本書の大部分は20人のそうした異星人の列伝である.
 彼らがほとんど同じ時期に,ブダペストのある狭い地域で生まれ育ち,多くが3つのギムナジウムの出身者であることも有名な話である.本書以外に 『フォン・ノイマンの生涯』(朝日選書)にも英才教育の様子は書かれている. 一人の天才が生まれるには,多くの偶然と必然の\ruby{綯}{な}い混ぜが必要で,伝記はその妙に重点をおき,読者は憧れのヒーローたちに酔う. それも本書の読み方である.
 現在世界的に高等教育のあり方が問題になっている. 著者はハンガリーの原子物理学者で物理教育にも関心が深く,なぜ一時期のハンガリーに世界に通用する大量の人材が生まれ得たのかについて,多くの状況証拠を挙げて考えている.一言で言えば,国を挙げての,実学重視,論理思考重視の,少数精鋭の早期英才教育である.数学コンテストで才能を若いうちに発見したら,カリキュラムにはこだわらず,その個人を集中的に教育する.しかも大学はヨーロッパ各地の(複数の)大学に送り出す.
 昔(?),日本はこの制度を取り入れたのだ.ただ,少数精鋭ではなく,大衆化に向いた英才教育の制度を.それで日本は世界に追いついた.今は逆に,大衆化にこの理念が押されている.その度も過ぎれば危ない.そういう訳者の思いが本書の日本語版を生んだ.
 同じ学校を出ても,多くは天才になれない.しかし,なれなかった人にとって,その教育が無意味だったわけではなく, むしろ,そのような多くの人がいたからこそ,一人の天才が生まれ,天才が生み出した成果を社会の進歩のために生かし得たのだと考えられないだろうか.
 列伝の中には,アプリコットジャムを満たした熱いシュークリームをアイスクリームで包むデザートの作り方や,滝の近くの空気にマイナス・イオンが含まれる理由が20世紀の始めに解明されていたなどの雑学も散りばめられていて嬉しい. それもまた本書の読み方だろう.

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