Preface to Science with grandchildren: Numbers MyBookのホーム『数って不思議!!...∞』.

『数って不思議!!...∞』 エピローグ



  これは本書の物語としてのエピローグではない.ここまで読んでいただいた読者と著者との間だけの話,いわば一般開放された数学の研究所のティータイムの雑談のようなものである.
 お読みいただき,どうだったでしょうか,というのが著者の側からの第一声である.「はじめに」に掲げたようなものになっていたかどうかを振り返りながら,楽屋話を交えた言い訳のようなことをしてみることにしよう.
 一般に,本の読み方は人それぞれであるし,本書もまたさまざまな読み方がされてよい. しかし,本書は普通に見かけるだろう数学の解説書や啓蒙書のような書き方はされていない.そういう書物にはあからさまに書かれなくとも,当然にどう読まれるだろうかということについて,著者と読者の間に暗黙の申し合わせがあるものである.読み方が指定されているといってよい.本書でももちろん,前から順に読んでもらうのが一番分かりやすいと思う.そうなるように,章建てを工夫して書いたつもりである.気楽に寝転がりながら,またいろんなことを妄想しながら,気になるところでは紙に自分なりのメモを書いたりして,勉強じゃないのだから,つまり,テストされるわけじゃないのだから,別に分かっても分からなくてもいいが,分かれば少し嬉うれしいかな,というくらいの気持ちで読んでもらえるように書いたつもりである.
 著者としてはそう書いたつもりである.自分で読み返してみると,これが実に面白い.気楽で面白い.落語みたいな話だなあ,名人の高座とまではいかなくても,こなれた前座の芸くらいのものにはなっているなあ,くらいに思っていた.もちろん,今でも自分ではそう思っている.
 しかしどうも,それが世間には通用しないようである.落語でも,長屋の大家やご隠居が八つぁん相手に垂れる無駄な講釈を笑って鑑賞できるのは,ご隠居が言うことくらいは先刻ご承知であるという,相互の了解があってのことである.ある程度の江戸時代などの背景が分かっていない観客には通じない話も少なくない.背景の分かる客ばかりでないとなれば,落語家もちゃんと枕を振る.
 著者としては,高校までちゃんと数学の授業について行けていたような読者なら,十分に笑って許してもらえるように書いた. 実は,本書の原稿はもう何年も前にできていた.自分では面白いのに,なぜか評判が悪い.高校時代からの友人に読ませてみたら,最初のうちは分かるし面白いんだけど,後ろのほうが難しすぎる.それに,この子供が賢すぎるよ,と言われる.
 本書は笑いながらでも丹念に順に読んでいってもらえば,それほど飛躍しているようにも,理解困難なようにも書いてはいない.書いていないつもりである. なのになぜ,そのような非難を受けるのだろうか,それをずっと考えていた.
 最近になってようやくあることに気がついた.最初のうちは面白いと思って読んでくれていた友人たちは,面白いと思って読んではくれても,そこに真剣に考えるべきこと,じっくり考えないと分からないことがあるとは思わなかったようだ. もちろん,そういう読み方をしてもいいのだけれど,そういう読み方をすると自分の中で何かが積み上がっていかない.本書に登場する子供はそれほど利口なように設定はしていない.しかし,一歩一歩だが,そこを積み上げていくという設定にはしてある. 着実な努力をするカメに,気楽に寝転んでいるウサギが追い越されるのである. だから,子供が賢すぎるという感想が出るのかもしれない.
 少し弁解をさせていただく.何の専門家でも同じだろうが, われわれ数学者は大学の学生時代に,修行とでもいうべき厳しい訓練を受ける.その初期段階には,日本語であれ,英語やフランス語やドイツ語や,まあ何語であれ,テキストや論文を読むことになる.そういうとき,その内容を理解して人前で解説するのだが,これが苦行なのである. 自分でしっかり分かって話さなければ,聞いている人に伝わらない.分かっているつもりで話しても,論文や書籍には当然紙数の制約があるので書かなくても分かるだろうということは省略されているので,(常に)議論にはギャップがある.ゼミで話す前にギャップは埋めておかねばならない.分かったつもりで話していて,質問されて初めてギャップに気づくことも少なくない.そのときとっさにギャップが埋められるだけの準備をしておくべきなのだが,気づいてなければ準備もできない.まれに,そういう時にも,とっさにギャップを埋めてしまえるようなゼミ仲間もいる.そこでふるい落とされるか,次こそはと頑張って生き残るか,そういう二者択一が繰り返される.
 さらに,質問されるのが単なる論理のギャップではなく,問題となっている事実の意味や価値の話になったとき,一段高いステップに立って議論できないといけない. このための準備もしておかねばならない.立ち往生が一番いけない.それを何度か繰り返せば,数学者の世界で生きてはいけなくなると覚悟しなければならない.
 ているか,そして,書かれていない暗黙の了解事項はあるのか,そういうことを考えるのが普通のことになっている.もちろん,何に対してもそんなことはできないし,しているわけでもないが,何か問題があるなと,センサーが感知すれば,自動的にそういうモードに入るのである.
 そういうことを世間の人がやってはいないことも知っているし,それをしなくても日常生活には何の支障もないことも分かっている.分かっているが,ことが数学に関わるとそういうモードの第1レベルにはなる.数学について語り合うとなれば,レベルはさらに上がっていく.その認識が欠けていたらしい. 本書を書いている間,著者は実に楽しかったのだ.読んだ人が,それほど楽しんでくれないのを知ると,当惑してしまう.面白くないのかな? 問うてみれば面白いと言ってくれる.著者が自然に入ってしまうモードに,普通の人は入っていない.だからなのか,と気づいたわけである.
 困った.一歩一歩でいいから積み上げてくれなければ,先へは進めない.といって,本当にあらゆることを書き込んだのでは大部な本になって,今度は誰も手に取ってくれないことになる.1+1=2を理解するくらいのことにこんなに分厚い本を読まないといけないのか,という感想を持つのは至極まっとうなことである.
 繰り返しになるが,本書だって,順に読むように書かれている. 少なくとも著者は順に読んでもらうときに最大の効果が上がるように書いたつもりである.
 それでも,主題の1+1=2の謎というものだけに興味があって,しかもその数学的説明だけに興味があるなら,謎解きの3日目のペアノの公理の辺りからだけ読めばいいようになっている. そこにはペアノの公理の集合論的言い換えがあって,それから自然数のあらゆる性質を導く手続きが具体的な例と一緒に説明してある. 1+1=2という式が出てくる前に,何を1と呼び,2と呼ぶかが書かれ,+という演算を定義した瞬間に1+1=2は既に謎でも何でもなくなってしまっている.
 しかしそれはあくまでも「数学」という世界の中での話である. 数学の中では1が何か,2が何か,+とは何か,=とは何かということは,議論の余地もなく定まっている. 数学にだけ関心のある読者はそこだけ読めば納得してくれるだろうし,こんなことだったかとがっかりするかもしれない.また人によってはさらに進んだ数学理論を学ぼうとしてくれるかもしれない. そうであるなら,それはそれで本書は1つの役割を果たしたと言ってもよいだろう.
 しかし読者の多くは,残念ながら,それほど数学に親しみを感じていないだろうし,数学を信頼してくれてもいないだろう. 数学では当り前だから問題はないと言っても,嘘だとは思わないかもしれないが,納得してはくれないだろうし,数学に対する不信感すら持つようになるかもしれない.
 上で「残念ながら」と書いたが,この「残念ながら」はいわばお約束であって,実は本当に残念であるというわけではない. なぜなら,本書はむしろそういう読者,つまりそうであろう多くの日本人に向けて書かれているのである. ごく少数の例外を除いて,日本人は学校で何年も「数学」という教科を学んでいる. なぜそれほども数学を学ぶことが日本人の標準になっているのかを説明することはできるし,説明したほうがよいのかもしれないが,本書ではそういうことはしない.
 ただ,そんなにも長く数学を学んで,数学が好きでないのはもったいないだろうと思う. 役に立たないものだとは思っていないとは思うが,役に立つことを知らないのなら役に立たないものだと思われても仕方がない. 役に立たないものを何年も学んだというのでは時間の無駄,能力の浪費というものである.
 数学は役に立つのである.ただ,役に立つところを「実見」するにはかなり以上の数学の知識と識見が必要になる. だから,多くの人は数学が役に立たないものとは思わないまでも,自分の生活には無関係であると思っているのではないだろうか. また直接的に読者の生活に役に立っているように見えなくても,実は長い期間「数学」を学んだことは役に立っているのである. いわば無意識に役に立っているのだが,もしかすると役に立っていることを意識するともっと役に立つかも知れない. 本書をじっくり読み終わった頃には,それが意識できるようになっているかもしれない.
 本書の読者として想定しているのは,かなりの程度の数学の学習はしたが,数学の効用などは実感したことはなく,それでも数学をもう少し勉強したら役に立ったのではないだろうかという思いを多少なりとも持っている,多くの健全なる精神の持ち主である.
 さて,そういう人にとっての$1$は数学の世界での$1$ではなく,$2$も$+$も$=$も数学の世界のそれではない. しかし1+1=2自体は多分疑ったことはないだろう. 疑ったことはなくとも,いつでも1+1=2が成り立つわけではないと思ったことはあるだろう. だが,数学は「いつでも,どこでも」成り立つ真理だったのではないか? 学校で学んだ数学は実生活では役に立たないのか.そう言いたくなるだろう.
 「数学は常に正しい」ということは間違っていない. それは「数学の世界の命題は常に仮言命題である」からである. つまり,「これこれが成り立てば,これこれが成り立つ」という形をしている. だから,1と2と+と=が数学の世界で定義されたものならば,1+1=2は常に正しいのである. 1+1=2が成り立つわけではないと言ったなら,そのときの1と2と+1と=のどれか1つが,もしかするとそのすべてが数学の世界のものに対応していないのである.
 では,「1+1=2が数学の世界でしか成り立たないのであれば,現実世界では使い物にならないのか」と言えば,そんなことはない.大いに役に立つのである. 数学の世界で成り立つことが現実の世界でも「成り立つ」からこそ,数学は役に立つのである.
 1の数学での定義を知らないのであれば,あなたの1は数学の1ではない. ではあなたの1は何なのだろうか?
 1という数学の概念が成立するためには,実はとても長い歴史がある. 何種類もの1の源概念がある.原概念と言ったほうがいいかもしれない. あなたの1はそれらの原概念のいくつかを継承したものと,小学校以来(幼稚園や保育園かもしれないし,それ以前の家庭学習かもしれないが)の教育の中で教えられたり,そこでの何らかの共通理解によって培われてきたものが混ざったものである. 人によっては,数学の1そのものであることもあるだろうし,かなり近いものも,まあかなり遠いものもあるだろう. いろいろな状態の1があるのだろうと思う.
 1+1=2に謎があるとして,それを解こうというのなら,それなりに多くの人が納得できるようなものとして1を提示しないといけない. そのようなものとしての1は今となっては数学の1しかあり得ないのだ. それには異論のある人も多くいる可能性がある. 数学を目的地としては指定しないでおいて,広く受け入れられる1とは何かを,いろんな立場から議論していき,自然に数学の1に行き着いてしまう.
 そういう物語を書きたかったのである. そういう物語の例として著者が最初に思いつくのは,ガリレオ・ガリレイの『天文対話』である.そこでは, 伝統的学問に通じた人と新しい学問を作り出そうとする人と,健全な精神を持つ新しい時代を担う常識人との三人が交わす会話によって,伝統的学問の問題点と新しい学問が必要な理由が示されていく.
 1+1=2が問題だとすればいったい何が問題なのか.本書の中ではその問題をめぐって,世間知を知りつくしたような老人と,瑞々みずみずしい感性と理解力を備えた若者と,数十年を数学の世界に生きてきた老人とが語り合うのである. 何日もの語らいを経て数学の入り口にたどりつく,それが本書の筋書きである. だから,一日が終っても,数学が大切だ,などいう話にはならない.2日目が終ってもまだ霧の中である. 派生的な謎がいくつか解明されながら,謎が謎を呼び,拡大し,拡散していく.
 個人的な人の営みが広がりを持つ,空間的にも時間的にも. そのとき,人々の思いは収束することもあれば発散することもあるだろう. 収束したものだけが,その共同体の認識として伝えられ,文化となる.
 そういう文化が形成されていく過程が最初の2日で語られる. 最後の3日目は,そういう自然の熟成を俟つのにくたびれて,数学をほんの少し導入することで,すべてにとりあえずの決着を付けるという構成になっている. これ以上膨らむと爆発して収拾がつかなくなるところまで膨らんで,謎が一気に解かれて平明な世界が来る. そういうように感じてもらえれば,戯曲としては成功だろう.
 理科系の学問といえど,人の営みである以上,文化である. 文化を正しく次の世代に伝えていくことは老人の責務である. そのために,今老人こそ正しく文化を学ばねばならない. 学んだ上で,それを孫の世代に伝える努力をする.そのお手伝いをしようというのが,この「孫と一緒にサイエンス」というシリーズの理念である.
 1冊の書物には適正な分量というものがあるらしい. これ以上長いと読者が疲れるだろうという長さだろうか.だから,3日目の決着の付け方は少し早足になっている. 急ぎすぎで,もっと丁寧に書けという感想を持つような読者は,著者にとって最高レベルの読者だと言える. そういう方が多ければ,この話の続編を書く機会が著者に与えられることになる. 出版社への圧力としてというのではなく,この本を書いたことに対して天から降る嘉言かげんであるということである. 大いに奮起して頑張る気持ちになれるというものである.
 
 さてもう一度,1+1=2の話に戻ろう.数学の世界での話ならば一瞬で終わる話だが,日常で納得するためには数学の世界に行って戻ってという,議論が必要になるので,本書の長さになってしまった,と書いた.もちろん,それはその通りである.しかし,数学の世界といっても,またさまざまなのである.
 本書の中でも登場したバートランド・ラッセルは,19世紀末から20世紀初めの数学の基礎の反省の時代に集合論におけるラッセルのパラドクスを見つけてしまい,それを克服するための努力をした.その成果がアルフレッド・ホワイトヘッドとの共著である,『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』である.明示された公理群と推論規則とだけから数学的真理のすべてを得るための試みである.集合論の基礎的部分と実数論はカバーされている.その第2版は3巻に分かれており,各巻は本文だけでそれぞれ,674ページ,742ページ,491ページもある. もちろん文章は英語だが,その記述はほとんどが論理式の羅列であって,専門家以外には理解することは難しい.また,算術の和が定義されているのは第2巻の中頃になってからであり,当然,1+1=2の証明はそのあとであり,1はあるものの,2という数字は出て来もしない.
 だから,普通の数学者にとって,1+1=2の証明は,集合論の基礎的部分を前提とすれば一瞬で分かることだが,集合論の基礎を吟味しないといけないとなれば,手を出すこともためらわれるようなものなのである.
 数学の基礎ともいうべき数理論理学は,その後,完全性や無矛盾性などの諸問題に大きな成果を挙げてはいるものの,一般の数学者に十分な安心感を与えてくれてはいない. そこに人類の知恵の\ruby{殆}{あやう}さを思うこともできるが,今は,数学が与えてくれる基盤の上に人類の英知を築いていくしかないのかもしれない.



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