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『代数学とは何か』 訳者まえがき



 まず目次を眺めてほしい. それから著者のまえがきと日本語版へよせた言葉と,本文の第1節を読んでほしい. 言葉を更え,繰り返し語る著者の言葉を,じっくりと読んでみてほしい. 著者が代数学に持っているイメージが,そして世界のすべての人に向けたその思いが伝わってくるだろう. 世界を理解するために,人には視座が必要であり,ワイルの言うように対象を「座標化」することが必要になる. そのための道具が代数学である. 対象が多様になり複雑になっていけば,座標化に用いる道具も単なる「数」というわけにはいかなくなる. どんな道具があるのか,そしてどんな対象のどんな現象を理解することに用いられるのか,それが本書で語られている.
 この本を手に取った読者は,ある種の違和感を感じるかも知れない. 教科書のようでも,(日本の数学の教科書のイメージからいえば)教科書とは言えない. お話しだけの啓蒙書かといえば,とてもそんな水準ではない. 日本人の数学者が書こうとしてもおそらく本にすることは難しかっただろう (日本人の数学者に書くだけの能力がないといっているのでない). 証明がついているものもあればそうでないものもある. しかし,それだけの本ならいくらもある. 問題はそういうことではない. 証明しないのではなく,する必要などない. そう感じさせるように話が進んでいく. 定義を述べずにどんどん例を挙げていく. 講義録なのかと言えば,むしろそれより,お茶でも飲みながら,世間話でも語るように数学を語るという風情である.
 少し違うが,訳者は学生時代に聴いた永田雅宜先生の代数学の講義を思い出した. 日本の大学のことだから,きちんと定義も与えられ,定理を述べられ,証明もされるのだが,証明のポイントのあたりでふいと振り向かれて笑顔を見せられ,学生を見渡して誰かの目を見てこくっとうなずかれる. 先生が歩いておられる数学の世界についてきているかなという確認の振り返りであろう. 数学世界のハイキングの引率者のようだった. そのとき,誰かが1人うなずけば先生の証明は終りである. 誰もうなずかないときだけ,別の言い方に変えて話が続く. その誰かが,特定の1人の学生なら,その学生だけはわかっている訳で,後からその学生に聴けばいいのだが,不幸なことにうなづくものは1人ではない. 当時は5, 6人くらいが交代でうなずいていた. そのときにすべてわかったものは,多分1人もいなかっただろう.
 先生の直ぐ後を歩いて,先生の見ておられるものを見ているという気持ちがするときは,確かにわかるのだ. しかし,少し後を歩くと,先生の体に隠れて見えるべきものが見えない. すると,全くと言ってよいほどわからない. 誰もうなずかないときは,ほらという感じで皆の前にその何かを見せて下さる. じっくりと見せていただいたときには,確かに証明(言葉)などいらない,明らかなものであることがわかる. そんなことを思い出した..
  シャファレヴィッチの周りには天才秀才がひしめいているに違いない. 彼らに対して,多分非常に気持ちよく,自分の見ている世界を語っているのだろう. だから,ことさらな証明などは不必要なのだろう.
  訳者も本書を訳しながら,最初はかなり不満だった. 定義もしないものをどんどん使うし,定理もなぜきちんと証明せず,中途半端な記述なんだろうか. もちろんこれだけの内容に,すべて証明をつけていたら,何倍もの分量になるだろうが,それなら内容を削ればいい. そう感じていた. それがあるとき気がついたのだ. これは,単なる教科書なのではない. これはとんでもないものだ. 豊かで深く,広く伸びやかに,数学の,そして代数学の命を描いた,そう「語り」そのものではないかと.
 日本の文化で近いものを強いて挙げれば,講談のようなものかも知れない. 難しい言葉が氾濫しているが,どの言葉も説明するわけではない. それでも調子に合わせて,気持ちよく聴いていると,だんだん意味がわかってくる. 少なくともわかった気持ちになってくる. そういう気持ちで本書に向かうと,とても気持ちがよくなってくる. 高く低く調子が整えられ,ときおり張扇の音が聞こてくる. こういう数学があってもよいではないか.
 証明は,気になるなら読者が自分でつければよい. 必要なヒントは十分に述べられている. そのとき証明ができなくても,先の語りを聴けばよい. いつか自分で証明がつけられるようになるまで,何度も何度も聴けばよい. 定義してない言葉もそのうちわかるようになる. 「読書百遍,意自ずから通ず」であり,そうして身についたものだけが後で役に立つ.
 名人シャファレヴィッチの数学講談,始まり始まり,という訳で,おしゃべりな訳者も口をつぐんで,今回は黒子に徹する所存.

 数学に慣れない人のために老婆心からの注意を1つ. 証明はほとんど付いていないが,著者が必要と感じた証明がついていることもある. いろいろな主張や定理に,「容易にわかる」「容易に確かめられる」「容易に示される」「容易に証明できる」と書いてあることがある. 大抵はこの順に証明が難しくなる. 「容易に」の代わりに「・・・は難しくない」と書いてあることもあるが,これはもう初心者には不可能な位に難しい. さらに,それらの形容もなく,単に「証明することができる」とか「・・・の証明が存在する」となったら,ことによると何10ページにもなる証明が必要になるかも知れない. (言葉の流れのため,必ずしもそうなっていないこともあるのだが.)
 だから,証明を考えてわからなくても,あきらめたり,元気をなくしたり,嫌になったりしないでほしい. そういうときはしばらく証明のことは忘れて,先に進むなり,自分の知っている例で確かめるなりしてほしい. 特に,例で確かめることは重要である. 優れた数学者は自分にとって慣れ親しんだ領域というか,例をたくさん持っていて,大抵はそれで事情を調べるということをしている. 訳者はかって,モスクワでI.M.ゲリファントのセミナーの後ろに座り続けていたことがあるが,彼は新しい概念や事実に出会うと,それをいつも SL2(2次の特殊線形群)で確かめさせていたものである.

 数学の本に慣れた人のための注意も1つ. 本書の中の定理や命題などは,ロシア語版(原著)では単に $\lhd$△を左に90度回転させ,先端が左向きになった記号と$\rhd$△を右に90度回転させ,先端が右向きになった記号で囲んであるだけで,分かち書きされてもいなければ「定理」とも書いていない. 番号も後で引用する場合にだけ,通し番号があるだけである. それに対して,例は大切にされていて,例には必ず,「例1.」と字体を変えて見出しがついていて,多くの場合タイトルまでついている. 日本の読者にはその形式はあまりにも慣れないだろうから,英語版でそうなっているように「定理I.」と見出しをつけ,前後に1行の空白を入れた. それ自身は見やすくはなったのだが,本書の別の箇所でこの部分を引用するときに少し問題が起きる. 本書では例が主役なのである. だから,たとえば「ある節の例4でこれこれのことを述べた」と書いてある場合,例5の直前に書いてあることもある. しかも,例4の見出しからその箇所までの間にいくつもの定理があることもあるのである. 注意が必要とされるだろう.
 本書を英語版で知ったこともあり,英語版から訳し始めた. 明らかな間違い(ミスプリントと思われるもの)だけは断らずに直したが,内容や表現形式にときどき違和感を感じることがあった. 半分ほど訳したときにロシア語の原著の第2版を入手した. ロシア語の原書と英語版とは記号の使い方,用語の選択,主張の強弱,また表現のニュアンスが異なる部分があり, さらに英語版出版後の第2版なので,いくつかの追加・修正が施されている. ロシア語による数学の表現形式が,日本人の,少なくとも訳者の感覚に親しむ\ruby{所為}{せい}でか,違和感が極端になくなった. そこで,基本的にはロシア語第2版に準拠しながら, 日本の読者にとって理解しやすいことを念頭に両者を取捨選択しながら,内容や形式を決めて行くことにした.
 そうではあっても,原書にも当然のミスプリントがあり,英語版にもそれゆえの間違いもある. 訳者が熟知しない話題も多く,ときには式の形から違和感を覚えて計算することでミスプリントを発見することがある. そういう計算のいくつかは訳註として付して読者の参考にしたが,すべての式と事実を確かめる余裕と能力が不足していて,原書の誤りのすべてを修正できたという自信はない. また,訳者に責任のある新しいエラーも生まれている可能性があるが,ホームページ(奥付参照)に修正箇所を挙げるほか,刷りを改める都度改定していく予定である. 誤りに気づいた読者は,訳者に知らせてほしい.

 ところで,すべてを一読で理解するのには,かなりの量の予備知識が必要である. 数学の専門家であっても,さらには代数の専門家であっても,すべてを持っている人は少ないのではないだろうか. しかし,それはむしろ,著者が読者に予備知識をあまり要求していないということである. 数学のおもちゃ箱であるかのように,これでもかこれでもかと,代数学の遊び道具を繰り広げてみせてくれる. 本書はまさに,実験数学の素材というか,代数学遊びのブロック・ピースの集まりである. 遊び方の分からないゲームが混じっていても,おもちゃ箱自体の罪ではない. 遊べるものだけで遊んでいるうち,気が向いたら別のゲームにも取り組めばよい.
 そうは言っても,わからぬことばかりでは辛いと感じる読者もいるだろう. そのために,ときどき訳註をつけた. 訳註は初心者ないし非専門家のため,とは言うものの,もとは辛いと感じた訳者自身のためでもある. 訳註などはつけないまま,理解して頂くのが一番である. 訳註がくどいときは訳者の無能さの現れであり,建前としてさえ完璧を期すなどできない. 本来,翻訳書は初心者ないし非専門家のためのものである. この分野にまだ興味を持っていない人のために,興味を持ってもらうのが目的である. 専門家は原書を読めばよいし,その方が当然,原著者の意図を理解しやすい.
  訳語が確定していない場合は,できる限り,岩波数学辞典第3版に準拠した.
 ロシアとの間の通信事情もあり,著者が入院しておられた時期であったということもあり,頻繁に連絡をとることはできなかったが,著者から送られてくる電子メールでの返事からは,とても親切でとても若々しい感性が感じられた. 狭い専門性にとらわれず,広く高い視野で,世界を考え,数学を愛し,代数を語っている本書の著者の人となりには,敬愛の念を抱くばかりである.
最後に,いつものことのことながら,翻訳原稿を通読し貴重なコメントを頂いた佐波学氏(鳥羽商船高専)に感謝の意を表わしておきたい.

2001年6月,桑名にて

蟹江 幸博



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