Translator's Preface to Glimpses of Algebra and Geometry MyBookのホーム『数学名所案内』ホーム

『数学名所案内』 訳者まえがき


 本書の成立の経緯は「著者まえがき」に詳しく, 日本語版のタイトルが, ``数学名所案内"であることとの間に違和感を感じる読者もいるだろう. 本来のタイトルは,副題``代数と幾何のきらめき"に近い.
 どんな分野でも,学問が進展していく中で, 新たにその研究に参入する人たちのための基礎教育をどのようにすべきかということは, いつも難しい問題となる. 特に,アカデミックな要請とは別の原理から初等教育のカリキュラムが軽量化される時代においては, その乖離が深刻になる. 数学の場合でも,教育システムにおいて達成される量と質が, 研究者養成のための大学院教育に直結しているとは言えない現状にある. 原著者トスの始めたグリンプス・プロジェクトは,それに対するある意味では対症療法の処方箋である.
 トスも嘆いているように,研究を始める大学院生が狭い専門分野以外のことをほとんど知らず, 専門分野自体の研究にも支障が生じている. そのため,大学卒業時までに示して置く必要があると考えられる, 現在の数学全体の鳥瞰図の1つが,本書である. とかく鳥瞰図は,眺める鳥の視座によって形を変える. だから,人によっては数学全体を表わしていないと思うだろう. しかし,それはある意味で当然のことなのだ. その人が鳥になって,別の鳥瞰図を描けばよい. ともかく,大いなる試みの第一歩なのだと訳者は考えている.
 そういう意味で,現在の数学の全体像を得るために, 色々な分野をちらっと見ては(グリンプスしては)次の分野に移るという方法をとった本書は, いわば現代数学を旅するためのガイドブックにもなっている. 大学院に入って数学の研究をするわけではない読者にとっても, 数学の名所を旅することは興味ある体験となるだろう. 数学という言葉だけで敬遠し勝ちな読者にも,数学の世界を旅して貰いたいと思い, あえて``数学名所案内"というタイトルを選んだ. ガイドブックに載る場所のすべてを行く旅人がいないように,本書もすべてを読みこなす必要はない. まずはどこでも1ヶ所,旅すればよい(どこか1節,読めばよい). 旅の後でまた旅に出たくなるように,いつかまた別の1節を読めばよい. そういう読み方もできるということである.

 本書は,紙数のこともあり,すべてが網羅されているわけではないが, 主要な地方(分野)にはすべて触れ,概括をしたと思うと,穴場を紹介して, 行間に想像力を喚起させるという書き方がしてある. 予備知識が必要な解析学はできるだけ避けて,代数と幾何の世界の紹介をし, さらに景色がよく視覚に訴える幾何に比重を掛けるという方針をとっている.
 しかし,数学は対象であると同時に道具であり,道具としての解析学まで封じると, 複雑で精巧な別な道具を作る必要がおき,却って叙述も煩雑になることがある. そこで何ヶ所かでは最低限の解析学が道具として使われているが, ヒマラヤでトレッキングをするのにも,その国までは飛行機を使わないわけにはいかないようなもので, それが現代のよさでもある.
 本書の描く世界は広大で,ガイドブックの読み方のガイドが必要かも知れない. 目次を見ながら読んで欲しい.
 幾何的にざっと言うなら,§1から§4までは1次元の,§5から§9までは2次元の, §10から§17までは3次元の,§20から§22までは4次元以上の一般な図形, §23は4次元に固有な図形のさまざまな話題が扱われている. §18と§19はオプション・ツアーで,回り道をする. §18では多面体のオイラーの定理との関係でオイラー−ポアンカレ標数による曲面の分類を述べて, 代数的トポロジーへの入り口を紹介し, §19ではケーニヒスベルグの橋から始まるグラフ理論の入り口と4色問題が, 歴史とともに語られている.
 この縦糸に代数が絡まって,華麗な世界が編み上がっていく. §1から§6までは,自然数から複素数までのお定まりの導入ながら, 代数と幾何の絡み合った史跡巡りを楽しめるようになっている. たとえば,§1の自然数の節では平方数の和で表わされる数の話題が, §2では e や π の無理数性の証明がある. §3では整数辺の直角三角形を円周上の有理点と見ることの拡張として, 楕円曲線の有理点集合上の群構造と,フェルマーの最終定理に触れている. §4の代数的数と超越数の節では,Q に代数的数を添加して有限次拡大体を作り, また無限個の超越数の級数表示を与えている. §5の複素数の節では,3次と4次の代数方程式を解き,2次方程式を作図で解いてみせる. §6は複素平面と極表示というやや地味な節だが,フェルマーの最終定理と素因数分解との関りや, 作図可能性といった色づけがされている.
 これで数の導入は1段落だが,2次元や3次元の図形の解析に向かう前に,復習と予習を兼ねた2つの節が置かれている. §7の立体射影は平面と(穴を1つ開けた)球面との対応で,§8の代数学の基本定理(FTA)の証明のための主要な道具として導入したものだが,曲面に複素数を利用する道を与え,後のメビウス幾何やフックス群,さらには一般の曲面へも導いている. §8にはFTAの5通りの証明が示されていて,それぞれ代数と幾何の深い関りが実感されるようになっている.
 §9から図形の解析が始まるが,正多角形の対称性を通して,有限群を平面の変換群として導入する. §10では離散群に拡張し,壁紙や欄間の模様のパターンを論じる. §11のメビウス幾何では,立体射影を通して,球面の変換を拡張平面の変換に写した幾何を作り,§12でその変換を複素数の変換(関数)の言葉で言い換え,§13で非ユークリッド幾何のモデルとして双曲幾何を展開している. §14では双曲幾何での合同変換(等長変換)の作る離散群の,分類に近いほど多くの例を作ってみせている.
 これまでの節では,代数と幾何が絡み合いながら, 古代の問題から発した流れが作った美しい草木の鑑賞をしてきた. 下巻では,旅人が丘に登り森全体を俯瞰するように,個別の図ではなく,曲面とは何かを考える.
 §15では,球面などの単純な2次元図形を,色々な変換群で割って, リーマン面を描いてみせ,§16ではそこから一般の曲面の有り様を思索しつつ,射影平面を具体的に描こうとする. §17は一転,正多面体の分類である. 正多面体が5種類しかないことは,比較的簡単な議論で示されるが, それらが存在することを厳密に示すことには,思わぬ複雑さと深さのあることが提示される. 正多面体の存在は実際に模型を作ってみせれば十分という扱いがされていて, 作られた模型が真に正多面体であることを示さないのが普通である. 存在証明が離散群の深い議論を必要とするが, 数多くの図によって直観的に理解できるように配慮されている. この節の取り扱いは類書に見ないものである.
 §20は高次元空間に代数構造を入れるための試みで,一般に直交乗法を調べ, §21では4次元空間を体にして,その四元数体 H の構造を使って,3次元球面をクリフォード分解する. §22では純四元数部分 H0を3次元空間と見て,正多面体の具体的実現と,正多面体群の2重被覆群を与えている. §23では, H をフルに使って4次元の世界を記述し,射影平面や正多面体を4次元空間の部分多様体として実現している.
 1つの大学の数学科のカリキュラムでは網羅することが難しいほど広い内容だが, それでもここにある(もちろんここにないものも含め)すべての数学が互いに関係し合い, 切り離すことができないことは感じられるだろう. 旅した後に地図に経路を書き込むように,読んだ話題を白紙の上に書き込み, 相互の関りを矢印や道で表わしてみるとよい. 本書の話題をすべて書き込んだら,されに今までに学んだ数学のすべての話題を書き込んでみる. そこには,読者1人1人の数学ワールドの地図が浮かび上がってくる. たとえば1冊の本を読み終えたとき,たとえば長い休みを迎えるとき, たとえば勉強(研究)する方向性を見失ったとき,地図を(同じものでもよいから)書き直してみるとよいだろう.

 予備知識のための著者による附録A〜Dは,一応知っている人が思い出すための簡単なメモといった感じのもので, つけるのならもう少し丁寧な方がよいように思われる. 「著者まえがき」にも紹介されているJ.W.ミルナーの『微分トポロジー講義』の拙訳でも, 予備知識を補うための附録をつけた. 本書とは多少言葉遣いの違う所もあるが,本書を読む際に参照できれば便利だろう.
 上巻の訳者による附録EとFでは, §3と§8の中で簡単に触れられている合同数の解説と $\RR^3$ が体になれないことの証明を与えておいた.

 コンピュータで描いた図が本書の中にも多く掲載されているが, それ以外にも多くの美しいカラーの図が, 「著者まえがき」の中にアドレスのあるグリンプスのサイトにあるので,ご覧になることをお勧めする.
 また,数学に関するウェブ・サイトもずいぶんと増え,各節末には関連するものがリストされている. しかし,まだまだサイトの管理者のボランティアで行われていることが多く, このようなリストには絶え間ないバージョンアップが必要で, そうでなければすぐに古くなってしまう. あえてリストアップしたのは著者の英断であろう. しかし本訳書の出版までの短い期間にも,移動したもの, 構造を変えたもの,消滅をしたものがある. できるだけ追跡して,アクセス可能なものに改めた. 出版時点では,すべて訳者が存在することを確かめたものである. コメントは,読者の便宜のために訳者がつけたもので, その際,関連したサイトを追加した場合も掲載してある. 本書出版後の変更については, 訳者のホームページの中の本書のページ(http://www.com.mie-u.ac.jp/~kanie/tosm/glimps/)にリンクのページを作り,更新する予定でいる. 掲載サイトの変更点や間違いに気がついたり, 関連したよいサイトをご存知の読者は,訳者に知らせて欲しい.
 普及し多機能になったコンピュータを高度な教育に活用することに,いつまでも及び腰ではいられない状況がある. 本書はそれに対する試みの1つでもある. 数学の教科書の有り様が変わって行く分岐点を示しているかも知れない.

 本書の中で引用される文献の日本語訳が出版されている場合,原題と内容的なズレがあっても,日本語版のタイトルを採用することにした. 文献では感じないだろうが,本文中では多少の違和感を感じるかも知れない.
 人名索引では略歴を掲載したが,紙数にも制限があり, データ及び記述に疎密があることについては, [訳者より]の欄に事情を述べた. 不適切な箇所があればその責はすべて訳者が負うべきものであるので, 出版社を通じてお知らせ頂ければ幸いである.
 最後に,翻訳原稿を通読し貴重なコメントを頂いた佐波学氏(鳥羽商船高専)と,いくつかの疑問を考えていただいた伊吹和彦氏(神戸商科大学)に感謝の意を表わしておきたい. また,本訳書に誤まりがあれば,訳者の責任であり,再版の都度訂正していきたいと思っている. 訳者のホームページ(奥付参照)では,出版後見つかった修正箇所をはじめ補完情報を掲載する予定である.

 

1999年11月29日                     蟹江 幸博



トップ