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『数の体系ー解析の基礎』 著者序文


学生への序文 教師への序文

 学生への序文

1. 教師への序文はどうか読まないでください.

2. 君に必要なものは,文章を読み,論理的に考える能力だけであり,高校数学[訳註]ドイツ語原文では「学校数学」である.ドイツの学校制度はアメリカとも日本とも,もちろん現在の日本とは異なるので,「高校数学」といってしまうと問題がないわけではないが,おおむね高校までの数学というくらいの意味だと思えばよいだろう.も,もちろん高等数学も必要はありません.

 議論の予防のために[訳註]何も知らない状態で「数」を定義しようとするのに,それを述べる段階で数の知識を使っているのは論理矛盾ではないかとか,論点先取の虚偽ではないかというような疑問を思い浮かべるかもしれない読者のための注意として書かれている.ある数とか,どんな数も・・・でないとか,2つの場合とか,与えられた総体のすべての,とかいうのは完全にあいまいさのない語句です. 「定理1」,「定理2」,... 「定理301」[訳註]本書には301の定理がある.(公理,定義,章,節の場合でも同様)や,場合を区別するための「1)」や「2)」というのは単に,さまざまな定理,公理,定義,章,節,場合などを区別するためのラベルであって,たとえば「定理ライトブルー」とか「定理ダークブルー」などというよりも引用するときに便利なのです. 実際問題として,「301」までという言い方は,いわゆる正の整数を導入するときには問題になるでしょう. 最初の問題は,第1章で,正の整数
     1, ..... 
全体を考えるときに出てきます. ここのコンマの後にある点の列「...」(第1章では自然数とよんでいるもの)は,はっきりとはわかりにくいものです. これらの数に対する算術的な演算を定義したり,関連する定理を証明するときに出てきます.

 各章であつかう事柄を順にいうと, 第1章では自然数,第2章では正の分数と正の有理数,第3章では正の数(有理数と無理数),第4章では実数(正数,負数,零),第5章では複素数となります. つまり,君が高校までにすでに習ったような数のことしか話しません.

3. 学校で学んだことは忘れてください.学んでいなかったことにするのです. しかし学校で,対応する課題でやったことは忘れないでください.実際に忘れてなどいないのでしょうし.

4. 掛け算の九九の表はこの本には出てきません.
    2・ 2 =4
でさえ出ては来ません. しかし,第1章§4に関係した演習問題として
     2 = 1+1,
     4 =  (((1+1)+1)+1)
と定義をして,上の定理 2・2 =4 の証明をやってみることをお勧めします.

5. 「du」とか「dir」という言葉を使っていることを許してください[訳註]原著はドイツ語であり,この序文の中での読者へのよびかけには,2人称単数duやその変化形を使っている.ドイツ語では,親しい間とか年下の相手に使う習慣になっている.. 私がそうした理由の1つは,本書が部分的には「デルフィン[訳註]デルフィンというのはフランス王太子の称号である.ルイ14世の息子のためにフランスの大学者たちが作った叢書にデルフィン・クラシックというものがあり,それと同じようにこの本を書いたという著者の気持ちを表したものであろう.の使用のために」に書かれたものであり,もう1つは,著者というものは読者が目の前にいて,「読んで」とか「見て」というように言うものだからです. というのは,よく知られているように(E.ランダウ「数論入門(Vorlesungen \"uber Zahlentheorie)」第1巻5ページ参照), 私の娘たちはすでに何学期も大学で(化学を)学んでいて,共通教育で微積分学を学んだと思うのですが,それでも彼女らはなぜ
      x・y = y・x
が成り立つかがわかっていないのです.

1929年12月28日,ベルリンにて

エドムント・ランダウ


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 教師への序文

  この小著は,以下の問題について,私の考え方とは違う意見を持つ同僚たち(不幸なことに大半がそうなのだが)へ歩み寄ったものである.

  もちろん初等数学の厳密で完全な説明を高校までに期待することはできないけれど,大学での数学の授業では学生に数学の主題の材料や結果を教えるだけでなく,その証明の方法にも精通させるべきである. 主に物理学やほかの科学のために数学を学び,したがってしばしば自分のために必要な数学の定理を発見するに違いないような人であってさえ, 歩き方を学ばなかったとすれば,つまり,正しいことと間違っていることを,推測と証明(もしくは,ある人が見事にも言ったように,厳密でない証明と厳密な証明)とを区別することができるようにならなければ, 彼が選んだ道に沿って確実な歩みを進め続けることはできないだろう.

 したがって,そこから数学解析が展開される公理として受け入れらるような基本的な事実が何なのか,そしてこの展開がどのように進められるのかを,学生は大学での最初の学期においても知っておくべきだということが正しい. 私の先生や同僚の何人かや,私の助けになったものを書いた著者の何人か,また私のほとんどの学生と同じように, 私もそう考えている. よく知られているように,これらの公理を選ぶにはさまざまなやり方があり,算術の多くの通常の規則と本書での定理(定理205,デデキントの定理)を実数の公理として仮定したとしても,それが正しくないとも,私の立場とはほとんど真反対であるとも言うつもりはない. 確かに,5つのペアノの公理の無矛盾性を証明しないが(ここではそれは出来ないから),それぞれの公理はその前に述べられるものとは明らかに独立である. 一方,上に述べたように多くの公理を採用するのなら,学生の脳裏にはすぐにある疑問が浮かぶだろう. つまり,そのいくつは残りのものを使って証明することができないだろうか(鋭い人なら,反証できないか,という疑問を追加するだろうが)ということである. 何十年もの間にこれらのすべての付加的な公理を証明することができることが知られてきたので, 大学での勉学を始める際に学生自身が証明もともに本当に精通しておいた方がよいだろう.特にそれらはすべてとても易しいことだからでもある.

  デデキントの基本定理(または,基本列を使って実数を展開する同値な定理)でさえも基本事項には含まれていない, それゆえ,微分法の平均値の定理, ある区間での導関数が 0 であるような関数がその区間で定数であるという内容の平均値の定理の系,または,例えば, 有界な単調減少数列は極限を持つといった事項がどんな証明もなく与えられる,またはもっと悪いことに,実際にはまったく証明になっていないような証明もどきとともにそれらの事項が与えられている. こういった事実についてこれ以上長々と繰り返すことは控えることにする. 正反対のこのような極端な立場を支持する人の数は単調に減りつつあるだけでなく,上に述べた定理に従ってこの数が収束する極限は 0 になるのかもしれないと,私には思えるのである.

  しかしながら,自然数の基礎を出発点に取ることは稀である. 私自身,実数の(デデキント)理論をしないで済ましたことは決してないものの,以前の講義では整数や有理数の性質を仮定していたことを認めねばならない. しかし,最近の3回の講義では整数から始めることにした. 次の春学期では(以前1回やったように)私の講義を同時進行の2つの講義に分け,その1つの題名を「解析学の基礎(Grundlagen der Analysis)」とした. これは,数の概念の完全な説明を,最初の学期では(また恐らくはまったく)学びたくないという聴衆への譲歩である. 解析学の基礎の講義では自然数に対するペアノの公理から始め,実数論そして複素数論へと進む. ちなみに,複素数は最初の学期の学生には必要ないのだが,その導入は極めて単純で,難しいことではない.

  現在,文献全体の中でも,上の意味で,数の演算に対する基礎をおくことだけを目的とする適度な教科書はない. その仕事を序章で行おうとするもっと大部な著書では(意識的にしろ無意識的にしろ),その完成のためにかなりなことを読者に委ねている.

  教育を重視する立場の同僚(したがって基礎に踏み込んでいかない人たち)の誰にとっても,本書を適当なものと考えるなら,彼が述べずに済ました事項が,そしてそうした事項だけが完全に扱われている出典に彼の学生たちの注意を向けさせるような機会を,少なくともそういう機会を与えるものに本書はなるだろう. 抽象的な内容の最初の4,5ページさえ過ぎれば,読んでいくことは極めて容易になるだろう.もちろん,実際にそうだろうように,高校で習ったことがわかっていればではあるのだが.

  この小著を出版することにためらいがなかった訳ではない. (カルマー氏から口頭で知らせてもらったこと以外に)私には何も新しく言うべきことのない分野での出版ということになるからであるが, ある意味かなり退屈なこの労力をほかの誰が費やしてくれるだろうかということもある.

  しかし,出版することに踏み切った直接の原因はあるできごとのせいである.

  反対の立場の人々は,どのみちこれらの事柄は,学生が学んでいく中で講義やら書物からいつかは身につけるようになるだろう,と信じたがるのである. そして,これらの尊敬すべき友人や反対する人も,必要なことはすべて,例えば私の講義群の中にあるということを,誰も疑わないだろう. 私もそれを信じていた. そしてそのとき,以下のような恐ろしいできごとが起こった. 当時私の助手で親しい同僚の私講師であるグランジョット博士(現在はチリのサンチャゴ大学教授)が,解析学の基礎に関する講義を,私のノートを基にして行っていた. 彼は,先に進むためにはペアノの公理にいくつか公理を追加する必要があるという注意書きをつけて,私の原稿を返しに来たのである. 私が取っていた標準的な手続きがある点で不完全になってしまうからだというのである. 詳しい話をする前にまずは次の3つのことを述べておきたい.
  1. グランジョットの異議は正しい.
  2. 後に出てくる概念に依存しているので一番最初に挙げることができない公理があるのは,大変残念なことである.
  3. グランジョットの公理は(デデキントから学んだように)すべて証明することができるので,あらゆることはペアノの公理に基づいていることは変わらない(本書のすべてを参照).
 異議があった箇所は次の3点である.
  1. 自然数に対する x+yの定義.
  2. 自然数に対する x・y の定義.
  3. ある範囲の数に対して x+y と x・y がすでに定義された後で行う,Σn=1m xn と Πn=1m xnの定義.
  この3つの場合の状況は類似なものなので,ここでは自然数 x,y に対する x+y の場合についてだけ述べることにする. 自然数に関するある定理を,たとえば整数論の講義の中で,最初に 1 に対して確かめ,それから x に対して成り立つことから x+1 に対して成り立つことを導くときに,ときどき,x に対する主張を私が証明していないという異議を唱える学生がいることがある. この異議は正当なものではないが,無理もないことである.つまり,この学生は帰納法の公理を聞いたことがなかったのである. グランジョットの異議は似ているように聞こえるが正当化されるべき違いがあるので,弁解しておかねばならないだろう. ペアノは,5つの公理に基づいて,固定された x とすべての y に対して x+y を
     x+1 = x'
     x+y'=(x+y)'
というように後継者を使って定義し,x+y が一般に定義されていると考える. というのは,x+y が定義される y の集合は 1 を含み,y を含めば y' も含むのだから.

  しかし,x+y は定義されてはいなかった

  もしも「数 ≦ y」という概念があり,z ≦ y に対して,
     f(1)=x', 
     f(z')=(f(z))'   (z<y に対して)
という性質をもつような f(z) が定義されるような y が作る集合のことを語ることができるのならすべてうまくいくのだが,ペアノの方法では順序が加法の後になって導入されているから,これができないのである. デデキントの論証はこの線に沿ったものである. プリンストンで同僚のフォン・ノイマンが親切に助けてくれて,本書のために,順序を先に導入することに基づいた手続きを作ることができた. これはかなり面倒なもので,本書の読者には向かないものだった. しかし,出版のぎりぎりになって,セゲド大学のカルマー博士からはるかに単純な証明を教えてもらった. 今や物事は簡明になり,証明が第1章のほかの証明に似たものになったので,専門家でさえ私が上で詳細に罪と罰を告白したこの点に気づかないかもしれない. x・y については同じ簡明なタイプの証明がある. しかしながら,Σn=1m xn と Πn=1m xnデデキントの手続きでしか可能でない. しかし,第I章§3から,とにもかくにも x ≦ y の作る集合ができる.

  読者にとって可能な限り簡明になるようにするために,多くの章で,または時にはすべての章で,(それほど長くはない)ある文句を繰り返した. 専門家に対してなら,もちろん,たとえば定理16と17の証明の中で,一度だけ言えばそれで十分だろう. この論証は,記号 < と = が定義され,それ以前に述べられている性質を持つような,あらゆるクラスの数に対して成り立つ. そのような繰り返しの演繹的な論証は,それらの定理があとで使われるために関係するすべての章で与えられねばならない定理に関係して現れる. しかし,それ以前のタイプの数に適用するのだから, Σn=1m xn と Πn=1m xn を導入するには十分である. したがって,それらの導入を複素数の章まで延期し,引き算や割り算についての定理も同じようにした. 前者が自然数について成り立つのは,例えば,被減数が減数よりも大きいときにだけだし, 後者が自然数について成り立つのは,割り算に余りがないときだけである.

  本書は,そのような容易な題材に適した,定型的な電報スタイル(「公理」,「定義」,「定理」,「証明」,ときに「予備的な注意」と,稀にこの5種類のものには属さないような言葉)で,書かれている.

  私は10年以上の準備のもとで,平均的な学生にも2日で読めるように,本書を書いたつもりである. そしてそれから(小学校の時から形式的な規則はすでに知っているのだから),読者は帰納法の公理とデデキントの基本定理を除いて,内容を忘れても良い.

  しかしながら,別の意見の同僚がものごとをあまりにも簡明であると考え,初心者向けの講義の中で(以下のような方法でもほかの方法でもだが)この内容を提示したとすれば,それは望外の成果が得られたということになるだろう.

  ベルリン,1929年12月28日

エドムント・ランダウ



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