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県総合教育センター講演
「高校生を数学に取り戻す」・序文



はじめに(学力の低下は数学離れなのか)

 いつも表題を書いてから中身とのギャップを感じて自分でも嫌になるのだが、そのギャップはしようとすることと現実に出来ることとの違いなのかも知れない。 三重県総合教育センターで高校の先生相手に話を頼まれるのはこれで2度目で、その度に何の話をしていいか悩むことになります。
 前回は少し数学でも良いということだったので、楕円積分の入り口の話をしました(\cite{kan96-2}に記録がある)。 多分難しすぎただろうと思います。 それで良いと言ってくれる人もいましたが、中身が分かったからというより、たまにはこんな話で気分が変わるという感じだったのではないでしょうか。 ある種のカタルシスがあって、数学に対する感性が少し刺激されたとしたらそれで良い、と僕も思っていました。
 去年は4月の初めから、美杉セミナーとセットでずっと話すことを考えていて、だから結構準備もしたのです。 しかし、今年は忙しくてほとんど準備が出来ませんでした。
 ご存じの方も多いと思いますが、現場の教育(高校だけでなく)に対して何かしらのお手伝いをしようと、4年ほど前からTOSM(Teaching of School Mathematics)というグループを作って、活動を続けています。
 他の二人のメンバーである福井大学の黒木哲徳氏と、岐阜大学の中馬悟朗氏はそれ以前からも数学教育に関わって来られていました。 TOSM発足の年の秋、名古屋大学で数学会の集まりがありました。 その会場のあちこちで、何人かの数学者に数学教育の現場に対する数学者の責任の問題を個別に議論しあいました。 話す人を選んでいることもあり、あらかたは賛同して貰えるのですが、現実に何か行動を起こすとなると、なかなか難しいものがあります。 しかし、始めなければ何も出来ません。賛同を得た人の中からともかくやれる人でと、始めることにしました。
 しかし、何しろ素人(僕は特に)のこととて、何をすることが出来、何をすることが望まれているのかについて全く分かっていませんでしたし、それを知る手段もありませんでした。何をすべきなのか、ということばかり考えていたようです。そして、これまでは暗闇の中で手探りに進んできたような気がしています。
 TOSM発足の1年前、旧知の四方さんから、数学コンクールの設立に加わるようにという電話を貰いました。その設立の会議で、松原さんを始めとする三重県高数研の方々と知り合うようになったのです。 忙しい現場の教師の方々が意志を持った組織体として数学教育に関わっておられるとは、もちろんそれが職業だとはいえ、実は思ってもいなかったことでした。 何度か話し合ううち、僕が現場に対して持っていない絆をこの会を通して持つこと出来ると思い、会の方でも利用価値を認めていただいたようで、今日までの付き合いが始まったのです。
 それでもこの間は、僕の方から主体的に取り組む場合の対象の不透明感にいらだつことが多かったようです。誰に語れば良いのかということですね。
 始めの頃の試行錯誤の様子とTOSMの現況については、8月10日に岐阜大学で開催した第2回TOSMシンポジウムの資料の序文を見てください。 現実的に唯一の活動であったTOSMポストについては3年前の高数研の総会でその趣旨や状況を説明し、それ以降寄せられた質問の回答を毎年の会誌に書かせて貰っています。 シンポジウム資料にTOSMポストの4回までの質問と5回目の質問を暫定的な答えと共に掲載しましたので、ここでも、それ以降に寄せられた質問を含めたものを含めて、再掲しておきます(§2,3参照)
 そんなわけで、始めはしたものの自分でも満足の出来ない状況にあったし、さらに去年はメンバーの一人である黒木氏が1年間外国へ出張することになり、TOSM活動も結局は自分一人で出来ることに限定されることになりました。 そして、彼が帰国してまだ集まりをもてていない今年の2月に、ある出来事が起こりました。
 志賀浩二氏と上野健爾氏(京大)の呼びかけで熱海で、数学教育の現状に対して数学者が果たすべき役割について議論するシンポジウムが開かれました。 彼らが数学会の中でこのことに関心を持ち打開すべき能力と責任を持っていると思った2,30人の数学者を集めて、この問題を掲げ、現況と各自の取り組みを話し合い、今後の問題点を討議するというシンポジウムでした。
 討論の大半は大学における数学の講義の水準や内容などが問題になりはしたのですが、 普段から持っていた不満を互いにぶつけ合いかなりの激論が戦わされました。 こうした議論は散発的には色々な所で、いろいろな形でなされていましたが、こうした議論をしそうな数学者を一同に集めての会議は初めてだったのではないでしょうか。 しかも2泊の会議だったので、毎夜夜中まで話し合って、(共通の)結論めいたものは何一つ得られはしませんでしたが、皆それぞれに決意を新たにし、決意表明までせざるをえない状況が生まれたのです。
 熱海シンポジウムから2カ月後の新潟大学での学会で、志賀浩二と上野健爾の両氏から紹介されて、シュプリンガー社の本の翻訳をすることになりました。 E.ハイラーG.ワナー著の Analysis by Its History という本です。 熱海シンポジウムの発言のせいで、引き受けざるを得ないような状況だったし、学会の会場に出展している本屋のブースでこの本をパラパラと眺めた所、 訳す価値のある本だと思ったので引き受けることになりました。
 実は、世界大戦が終わった頃に成立した大学の微積分のカリキュラム(それが僕らの世代の受けたカリキュラムなのですが)を実際に行うことが、今、日本ばかりでなく世界中の先進国でそのまま実施することが困難になってきています。 そのため、ハイラーとワナーは何年もの講義の経験の集大成としてこの本を書いたのです。 347ページの本文は4章に分けられ、前の2つの章は解析学の生い立ちから成立までをその時代の厳密さにしたがって述べ、後半の2章は19世紀末の数学の基礎の反省の上に立って現代数学として再構築し直す、という書き方がしてあります。
 ふんだんに原文の引用(多くはラテン語なので参っているのですが)がされ、数学そのものがいかに育ってきたかが体感できる内容になっています。 日本人には決して書けそうにない本ですし、 こういう文化を日本に移し替えるためにこの本の翻訳を引き受けることにしました。
 これが忙しさの一つ。
 また、後出の資料序文でも述べたようにTOSM三重のホームページを開設しました。 ページの中身を脹ませていくうち、新しい教育の可能性についてひしひしと実感するようになってきました。 質問が減ってきたTOSMポストのための掲示板を作り、直接質問を受けることが出来るようにもしました。少しずつ、これまでとは違った形の質問が入るようになってきています。 ポストとは別に掲示板を用意し、直接に現場の方々との交流が出来るようにもなっています。
 確かにまだまだインターネットは普及していませんが、去年までのことを考えれば急速に普及しつつあるのも確かです。 100校プロジェクト以外は、全国的にも国立大学の付属学校以外には、特に積極的な私立学校位にしかホームページはなかったものです。 それが、今年になって県下でもかなりの高校がホームページを持つようになりました。個別に色々な事情があるにしても普及のスピードはこれから増していくだろうと思われます。
 これらの学校でも、実際にどのような内容のページにし、どのような利用をするのかという点については試行錯誤の域を出ていないものが多いようです。 ホームページを開かなくとしても、ホームページを見に行くことが出来るようにすることは容易しいことです。 ほとんどの大学はホームページを持っており、大学自体が自分自身の情報を発信しています。これを進路指導に生かさない手はありません。 ということだけでも、ホームページを見ることのできるコンピュータを何台か、生徒に「自由に」使えるようになっていけば、教育のあり方はさらに変化していく可能性があります。
 このセンターでもすでにすべてのスタッフが電子メールのアドレスを持つようになったと聞きました。ホームページ開設も間近でしょう。県内の遠隔地の教育が、それほど地域の不利を感じないで済むような時代が、すぐそこに来ています。
 そうした時代では、教師個人個人の能力と主体性・思想性が問題とされるようになるでしょう。 生徒に何を伝えたいのか、それを持たないでいると、インターネットの向こう側の教師たちと比較されることも起こりえます。
 生徒に何を伝えるかを問題にしようとするとき、教師それぞれが自分の中に伝えるべき何物かを持っているかどうかを自問しなくてはならなくなります。 人間性もいいでしょう、生徒の面倒を見ることでの信頼感も大切でしょう、しかし、数学の教師は内なる数学をこそまず、豊かにしておくべきではないでしょうか。 目まぐるしく変わる指導要領に振り回されないためにも、もしかすると来るかもしれない指導要領なしの時代に対応するためにも。
 ホームページ作りは、面白いことも多いけれど、手間も時間もかかってなりません。これも忙しさの一つ。
 さらに、直接に教師の方々との接触を持つべく、TOSMの月例会を始めました。 県内の初等・中等教育での算数・数学教授者のためのTOSMマンスリー・セミナーの第1回は7月で、8月からは月1回、原則として第1土曜日に、三重大学教育学部4階の数学講究室で開いています。
 実は明日の10月5日(土)にも、第4回の月例会があります。 興味を持たれた方は、是非参加してください。 高数研の基礎教育部会の方から、翻訳中の本について話が聞きたいという要請があったことが切っ掛けになったものです。 前半は数学に浸り、後半は教育の諸問題を討論するということにしています。
 そんなこんなで忙しく、講演を準備している時間がありません。 そこで、翻訳中の本の一部から話題を拾ってお話しすることにしました。

 数学教育の問題で、僕らに分かっていることは大学に入ってくる学生の数学の学力が極端に低下しているということです。 多分、高校でも同じでしょう。そして中学でも。 小学校はそれほどでもないようなのですが。
 これは何の所為でしょうか。 受験制度の所為でしょうか? 指導要領の所為でしょうか。 社会の変化の所為でしょうか?
 理科離れや数学離れは、時代の流れなのでしょうか?
 数学がこの社会に必要でなくなったのでしょうか?
 社会にとって必要でも、これからの社会を担う人々にとって学ぶ必要のないものになったのでしょうか?
 いえ、益々科学技術が進み、それなくしては文明の維持ばかりでなく、人口問題も環境問題も解決することは出来ず、そしてそれを支える数学は必須なものになっています。
 この社会から疎まれなければならないような、どんな悪いことを数学はしたのでしょうか?
 理科離れや数学離れは、本当にあるのでしょうか?
 あるとしたら、放置しておいて良いのでしょうか? 放置しておくことが出来ないのなら、何をすることが出来るのでしょうか?
 数学でも色々な試みがなされていないわけではありませんが、ほとんど成功していません。 実は数学よりも物理の方が問題は深刻だという話もあります。 しかも物理の方ではずっと前からこういう問題を考えてきています。
 例えばワインバーグというノーベル賞物理学者の書いた『電子と原子核の発見』\cite{Wein}という本があります。 ハーバード大学での講義を本にしたものですが、その序文を少し見てみましょう。大学の講義でさえ悩んでいる様子が分かります。
「科学の歴史に関する書物の多くは、科学的知識の不十分な読者を対象に書かれているために、歴史の記述が概説的で浅いものになっている。 逆に科学の知識を十分に持った読者を対象としている本は、一般の読者にとっては、とっつきにくい内容となっている。.....」
「.....多くの科学者と同様、私も科学上の発見が二十世紀の文化の中で最もすばらしいものであると思っている。 それにもかかわらず、科学以外では十分教養のある人たちが、科学の基礎知識が不足しているために、文化のこの偉大な部分から切り捨てられているということは、一種の悲劇でさえあると思う。
しかし、よく考えると、これは当然なのかもしれない。というのは、物理学の教養を身につけようとしている人に対して、専門の科学者が受けるのと同じ昔ながらのたった一つの決まりきったコースしか用意されていないからである。 .....これは物理学者になろうとする学生には理想的かもしれないが、 一般の人たちには渡り切ることのできない広大な砂漠のように見えるのではないかと思われる。
.....私たち物理学者は奇妙な人種であって、標準的な物理学のコースで学んだ知識をもとに、いろいろな現象を計算することに非常な喜びを感じるのである。 .....ピアニストになるわけではない人に、単純な音階練習を楽しめと期待するようなものだからである。科学者になるわけではない人たちを対象に、物理学の基礎についての本を書くとき、このことが最大の障害になるのではないかと私には思われる。
この問題を解決するために.....この本では長ったらしい古典物理学の紹介から始めるかわりに、直ちに、読者を二十世紀の物理学のトピックスへと招待することにした。そして、それぞれのトピックスを、それを理解するために必要な古典物理学の概念や方法への導入部であると位置づけたのである。
.....この本では、素粒子物理学の原理を説明する順序にしても、物理学者がおなじみの論理的な順序になってはいない。 .....このような並べ替えは必ずしも欠点であるとは思わない。 私の経験から言えば、物理学や数学について私が知っていることの大部分は、それがどうしても必要になったときとか、研究をやっていくために学ばねばならない時に勉強したものである。 .....この本の書き方は、科学を専攻する学生を対象に企画された多くの本や講義のやり方より、「研究中の科学者が実際の知識を修得する方法」により近いといえるかもしれない。」
 長い引用になりましたが、「物理」とあるのを「数学」と書き替えれば、ここでの問題点はそのまま数学の教育法に対する問題点になっています。
 この種の非難に正面から応えようとする努力は、数学においてもなかったわけではありませんが、成功している例があるとは言えません。
 ここで提案されている「現代の成果を直接述べて、それに必要な事項への導入にする」という解決法は、数学ではあまり有効ではないのです。 数学を学ぶうえで重要なのは、事実を沢山知ることよりも、その事実を得るためにどのようなプロセスが可能で必要なのかということだからです。 ここで避けるべきだといったそのことこそが、数学を学ぶことの核心だからです。
「事実」が、現実に我々を取りまく世界の「事実」である以上、どんな難しい「事実」でも「事実」であるだけで面白いし、「事実」の提示だけで人を引きつけることが出来る自然科学と違って、数学の「事実」は我々を取りまく環境の「事実」とは思って貰えないという弱みがあります。 「数学的自然」に分け行ったものでなければ、数学の「事実」の面白さを感じることも出来ない。数学には馬の前にぶら下げる人参がありません。
 数学の重要性を認識することも、数学の面白さを感じることも、一定程度の数学の勉強の上でしか実現しません。
 「広大な砂漠」の中にはオアシスもあり、「砂漠」の向こうに豊かな大地があることをどう納得させ、ラクダも連れていない旅人に「砂漠」に足を踏み入れさせることが出来るでしょうか?
 高校生を数学へ取り戻すことは、かくも難しいことなのです。
 高校生が教師を信じられるかを決めるのは、教師がラクダになれるのか、教師自身が「砂漠」を越えてきたことを信じさせられるのか?ということではないでしょうか。
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