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『黄金分割』 訳者まえがき



 数学は山に喩えられることがあります. 数学を学ぶことは山に登ることと同じで, 遠くから仰ぎ見れば美しいが,麓からは山頂は見えず,一歩一歩自分の足で登って行くしかない. 低いところには木や草が生い茂り,それはそれで美しく楽しい. 高度が増して行くと,突然下界が見えるようになり,自分の位置が少しわかって嬉しくなる. さらに登って,振り返るたび,視界が開けていき,自分が登ってきた道もわかってくる. 苦しく長い道のりを踏破して,山頂に着けば,言葉に尽くせない喜びが生まれる. 視界は素晴らしく,歩いてきた道の概要もわかり,それ以外の道の様子もわかって,思いがけない方面とのつながりも見えてくる. 数学を学ぶ喜びや効用がとてもわかりやすい喩えです.
  山に登る前に,山行の計画を立てる.どの山に登ろうかと考える.これがまた,実際の山行に劣らず楽しい時間です. 数学の場合なら,内容というより,数学の様相,意義,歴史,また面白さなどに重点をおいた啓蒙書を読んだり,講演を聞いたりして,数学の世界に憧れたり創造したりすることに当たるでしょう. 確かに,これは楽しい. 「涙なしの数学」といったコピーで提供されているものは大抵はこういったものです. 楽しくても,それは数学そのものではありません. 山のガイドブックをいくら読んでも山を登ったことにはなりません. コースタイムも自分がその道を登ってみて,初めて自分にとってのコースタイムになる. ガイドブックにないちょっととした道のコブ,道の上に張り出した木の枝,そんなものが重大な事故を起こすこともあります. 数学の学習でもそうしたちょっとしたことが大きな障害になることも多いのです. ですが,やはりそれはちょっとしたことなのです. 気をつけていれば迂回したりして簡単に回避することができるのです. そういうときに先生がいて注意してくれると助かりますね. それが先生の,山の先達の役目なのです. もっとも,自分で痛い思いをしなければ,本当に注意するようにはならないかも知れませんが.
  数学の学習で恐いのは,たとえば別れ道に気づかず違う尾根に入り込んだようなときでも,そのこと自体に気がつきにくいということです. しかし,山と違うのは,間違ったと気づいたとき,正しいと確認できる地点に一気に戻ることができる点です. そういう場合,山の中だと戻ると決心するのはとても勇気のいるものです. 数学の場合も,少しは勇気が要りますが,ずっとやさしいのです. 間違ったとわかったら引き返す勇気をもちましょう. 無駄だと思わず,何度でも. そのうち,目的とは違うたとえば道端の花を見つけることもあるでしょう. それで良いのではないでしょうか.
  山から見える景観も楽しむ.川のせせらぎ,滝の水しぶき,フィトンチッドを含む空気を楽しむ. 花も樹も苔も,鳥も虫も楽しむ.登るための苦しさも,筋肉の痛さも楽しむ. そういうように数学を楽しむことができます. さて,本書は黄金比を巡るさまざまな話題を取り上げています. 日本では高校生になっていれば十分理解できる部分がほとんどです. 中学生でも理解し楽しめる部分が沢山含まれています. 適切な指導者がいればかなりの部分は楽しめるでしょう.
  黄金比は,誰もが登ってみたいと見上げる高い山ではありません. むしろ,いくつもの登り口の一合目あたりに小さな祠があって,同じ神様が祭ってあるようなものだと,著者は言います. どんなに山登りがしんどくても一合目位には登れます. 見晴らしはあまり期待できなくても,きれいな花が咲いていたり,かわいらしい木立の中の池なんかはありそうです. また,熟練の登山家でも,山頂から登ったのとは違う道で下りてきて見慣れたものに出逢うことがある. これはまた嬉しいものです.
  この本はそういう嬉しさに溢れ,また実際にすることのできる手作業の楽しさに溢れています. また,社会で活躍されている方にとっても, 昔数学を勉強したことに懐かしさを覚えるそんなときに,教科書や受験参考書を読む気にはなれないでしょうが,昔身につけて使わないうちにいつしか忘れていた技術が本当にいろんなことに応用できる,そういう楽しい時間を与えてくれると思います.
  昔ながらの幾何の道,新時代の象徴のようなフラクタルの道,勉強という気分の強かった代数や数列の道,空間と宇宙と立体の道,折ったり切ったり本当は日本製だぞ折り紙の道,数のゲームや確率や極値やなんかおもちゃ箱の裏の道, いろんな登り口の一合目にある黄金比神社にどうぞお参りしてください.
  それで止めても構いません. もっと勉強したくなったら,それはとても素敵なことです. そのために練習問題が一杯あります. 原書についている解答はある程度以上の数学の知識がある読者を想定しているようです. が,日本語で出すこの本はいろんな人に読んで欲しいと思います. 不必要な人も多いでしょうが,知識の少ない人や,頑張り続ける時間のない人のために訳補註を付けました. ただ,必要でないと思う人には邪魔なものですから,別のページにまとめておきました.
  中学校で記号を使うことを学んだことがあって2次方程式の解法が理解でき,また,幾何では3角形の合同・相似条件が理解できているような人になら,そして,理解したいと強く思っている人になら誰にも読むことができるし,楽しんで読んで貰えるようなものになっていると思います. 最後の章で最大最小問題を扱うときだけは多少の微分の知識があると良いし,また等比級数の和の公式が必要な場所も所々にあります. そういう場所では,その種の知識のない人は,できれば勉強して欲しいけれど,そうしたくなければ読み飛ばせばよいのです. いつかその種の知識を身につけたときに,読み直してみればよいのです. もしかすると,そういう知識がなくても解けてしまうかも知れません. 解答や訳補註で述べた解法よりエレガントな解答があったら訳者にお知らせください. 奥付きにあるホームページに,この本用のページを作っておきますから,そこの読者のページから電子メールを送って下さい.編集部気付で郵便でも結構です.
  本書の記述は大体は易しく,予備知識がほとんど要りません. しかし,扱う内容が多岐にわたっているので,ときどきまわりの予備知識の水準より高くなっても,そのことにわざと触れないで,淡々と述べているところがあります. 日本語訳では,そういう場合,ある意味で最低レベルの予備知識に合わせるように訳註を付けました. しかし,ある程度以上の知識を持った読者にはその箇所に一々コメントが入るのは わずらわしいことでしょうから,まとまった量のコメントが必要な場合は「訳補註」の方に載せてあります. そういうものには,ユークリッドの黄金比の定義の図,黄金比 τ, ρ に関する公式集の例,カセットテープの問題,リッツの方法, 2ρ の連分数展開,フィボナッチ数とルーカス数があります. 本書の中で問題となり得る箇所にはすべて答か解説を付けてしまい(第3章末の問題を除いて), せっかく一合目からさらに上に登ろうという意欲を持った読者には失礼なことになったかも知れないと思います. そこで,一ヶ所だけオープンな所を作るという気持ちで,フィボナッチ数とルーカス数の解説には,あえて,解答を付けないで,いろんなレベルの問題を付けておきました. それがまた,いろいろな形で黄金比に関係してきます. この問題のリストだけで,楽しもうと思えば何年も楽しむことが出来るでしょう. だからあせらずに,他の本を見て解法を探さず,楽しんでください.
 
  最後に文献について述べておきましょう.
  巻末に著者の挙げている文献は当然のことながら,原著の出版元であるドイツや著者の住むスイスの読者にとって入手し易いことを念頭に選んであります. しかし,日本語訳のあるもの以外は,本書の読者には入手しにくく,また程度が高い(予備知識が必要ということ)か,原語で読む必要のあるほどの内容ではないかなのです. ただし,[Ch1,2]は茶谷正洋氏が彰国社から出しておられる一連の「折り紙建築」に関する本の内容を取捨選択してスイスで編集したもので,日本の読者は直接茶谷氏の著書を手にとった方が良いでしょう. 折り紙の本家である日本に住む恩恵ですね. そういうことで言えば,幾何学的な観点から折り紙を扱った日本語の良書は多く,そういうものも込めて,少し文献を挙げておきます.

  [1] 伏見康治+伏見満枝『折り紙の幾何学』日本評論社(1979), 増補新版(1984)

  [2] 川村みゆき『多面体の折り紙−正多面体・準正多面体およびその双対−』日本評論社(1995)

  [3] 芳賀和夫『オリガミクス【幾何図形折り紙】I, II』日本評論社(1999, 2002)

  [4] ロベルト・ゲレトシュレーガー『折紙の数学−ユークリッドの作図法を超えて−』(深川英俊訳)森北出版(2002)

  [5] 一松信 『正多面体を解く』東海科学選書、東海大学出版会(1983)

  [6] マグナス・J・ウェニンガー 『多面体の模型−その作り方と鑑賞−』(茂木勇+横手一郎訳)教育出版(1979).

  [7] P.R.クロムウェル『多面体』(下川航也,平澤美可三,松本三郎,丸本嘉彦,村上斉訳)シュプリンガー・フェアラーク東京(2001).

  [8] G.トス『数学名所案内:代数と幾何のきらめき 上下』(蟹江幸博訳)シュプリンガー・フェアラーク東京(1999, 2000)

  [9] 関口次郎『多面体の数理とグラフィックス−ザルガラー多面体とMathematica−』牧野書店(1996)

  [10] H.M.Cundy \& A.P.Rollet: Mathematical Models, Oxford Univ. Press, 初版(1951), 修正版(1954),第2版(1961).第3版(1981), Tarquin Publ.

  [11] Thomas Koshy: Fibonacci and Lucas Numbers with Applications, Pure and Applied Mathematics, John Wiley \& Sons, Inc. (2001).

    [1]は,折り紙を科学的態度で取り扱った最初の一般書です. [3]は平面図形,特に正多角形を,[2]は正多面体とその仲間を中心に立体図形を折り紙で実現するという試みです. 最近出版された[4]は定木とコンパスによる作図というユークリッドの呪縛を逃れ,折り紙で実現される作図とは何かを正面から取り上げた意欲作です. 読みやすいとは言えませんが,ユークリッド幾何に物足りなさを感じたことのある読者にはお薦めできます.
  第6章の正多面体や準正多面体に関しては,日本のカリキュラムの中では簡単にしか触れられてないことが多く,読者には馴染みが少ないかも知れません. しかし,何冊か良書が出版されています. [5]はもっとも入門的で予備知識なく読めます. [6]は具体的に多面体を作るマニュアルとしても使え,教育学部数学教室や意欲的な高校の数学教室には,本書を見て作った模型がきっといくつかあるでしょう. 今はむしろ[2]で作る方が優勢かも知れません. ごく最近出版された[7]は多面体についての歴史も含めた包括的な読み物で,数式はあまり使っていません. [9]では数式処理言語のMathematica を使って多面体を作っています. 手先に自信はないがコンピュータは得意という読者にはお薦めです.
  ところで,正多面体が5種類しかないことは,オイラーの公式を使った証明が一般的でよく知られていますが, 実際にその5種類の正多面体が存在することを,厳密に証明したものはあまり見ません. [8]の第17節にはその証明が載っています. それを読んだとき,存在証明が必要なんだと,ハッとした憶えがあります. [8]には数学的な予備知識が多少必要ですが,面白い話題で一杯で,是非挑戦してみてください.
  [10]は数学教育でモデルを作ることの重要性を指摘したおそらく最初の書物だと思います. 作図の仕方,模型の作り方が詳しく,この種の事柄の辞書のようにも使うことができます. 初版には,引く線によって使うべきペン先の形まで挙げてあって,ともかく親切です. 現在のように計算機の能力が上がって,必要ならば何でも画面上に実現できる時代には古めかしく感じられるかも知れませんが,自分で工夫する教師にとっては必携の虎の巻と言えるかもしれません. 最近第3版も出て,現在でも手に入るようです.
  [11]はフィボナッチ数列に関する専門書です. 訳補註にあげた問題はほとんどここから拾ったものです. 母関数を定義してよければ,さらに面白い事実が山のようにあるのですが.

  表紙についても一言述べておきましょう. ドイツ語版の表紙には図46の黄金フラクタルが描かれています. 英語版は表紙前面がレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザで,そこに3つの黄金長方形が書き込まれています. 美術の本を思わせる体裁です. 日本語版の表紙はぜひ浮世絵で行きたいと編集部にお願いしました. 版権の問題とか,実際に使ったときの本の表紙としてのデザインとかの問題で, 何を使うか,結局一番最後まで決まりませんでした.
  扉裏の写真の説明をしましょう. 今年の冬に岐阜県大野郡朝日村の朝日中学にお話をしに行きました. 当時,第6章の組みモデルのことが気になっていました.立方体の組みモデルは,食事の後にでも3つの箸袋から簡単に作れるのですが,たとえばその次の菱形12面体の組みモデルを著者の言うように無色と3原色のOHPシートで組むための時間がとれなかったのです. 僕の話を聞いてくださったクラスの担任の永田俊雄先生は自ら永田工務店を自称なさっているほど器用な方だと聞き,製作をお願いしました. その後,永田先生から,いろいろ作っては見たが色がキレイに出ないという返事が来て,またその後,いろいろな色の色紙で作った菱形12面体がたくさん送られてきました. 子どもたちの作品です.それを扉裏に掲載しました.
  図形ファイルを著者から送って貰う交渉や若干の書き直し,表紙のデザインなど訳者の無理を聞いて尽力してくださった編集部と,忙しい中訳文を通読し有益なコメントしてくれた鳥羽商船高等専門学校の佐波学氏に感謝します.また今は鹿児島の国分に赴任中の永田先生と3月までの教え子だった朝日中学の生徒の皆さんにも感謝します.
  では,この本を心行くまでお楽しみください.

2002年7月
暑い盛りの桑名にて

蟹江 幸博



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