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『微分トポロジー講義』 訳者まえがき



 J.W.ミルナーは,トポロジーという数学の分野では,伝説の若き英雄の名前である。 7次元の球面には8次元のユークリッド空間の単位球面と異なる微分構造が入るという彼の結果は,トポロジーが数学文化に与えた大きな衝撃であった。 29歳の若さでプリンストン大学教授になったミルナーは,31歳で数学のノーベル賞に比されるフィールズ賞を,1962年のストックホルムにおける国際数学者会議(ICM)で受賞した。
「著者まえがき」にもあるように,本書はその翌年の12月にヴァージニア大学で行われた講義の記録である. 最初1965年にヴァージニア大学出版会から出版され、長く読み継がれてきたが,1997年にプリンストン大学出版会から再刊された.
 ミルナーのこの講義はすでに古典になっているが,そのまま現代に生きる名講義でもある. 原題をTopology from the Differentiable Viewpointとするこの講義でミルナーは, 微分可能多様体のトポロジー的な性質を調べることによって,いくつかの古典的な結果と(当時としては新しい)トポロジーの結果を鮮やかに証明してみせている. トポロジーという分野がまだ若く,アメーバが分裂して増えていくように,手法と対象によって分裂を始めていた頃に行われた講義である. そして,微積分の技術がトポロジー的対象にも有効であることを鮮やかに示し,微分トポロジーという分野が,大学での数学のカリキュラムに入れることができるほどに熟していると高らかに主張している. ほとんどのトポロジー研究者は読んでいるだろうし, 訳者も学生のとき本書を読んで,数学の専門書には珍しいこの軽やかさに浮き浮きとして,すっかりトポロジーが好きになってしまったものだ.

 本書の内容を簡単に述べておこう. 第1章の多様体の定義から始まって第7章のポントリャーギン構成まで,トポロジーのまったくの初心者を当時の最先端まで一気に引き上げてくれる. 前菜は,代数学の基本定理とブラウエルの不動点定理という古典的な結果の明晰な証明である. さらに,テーマを写像の次数にとり,サードの定理,多様体の向きづけ,ホモトピーにイソトピー,ベクトル場の指数とオイラー数,枠つき多様体に枠つきコボルディズムといった盛り沢山のメイン・ディッシュに,デザートには1次元多様体の分類(附録A)までがついているというフルコースになっている. 腹ごなしに素敵なエクササイズ(第8章)もセットされて,この薄さによくもこれだけといった内容である. しかもこのレストランに入る資格は,若干の微積分の知識と数学科の学生なら大学2年までに学習する数学的素養だけである.
 著者の著した第1章から附録Bの文献表までは,1965年当時のトポロジーが瞬間冷凍され,新鮮さを保った姿である. しかし1998年になり,想定する読者も数学者の卵だけではない. そのために,本来ならば有らずもがなの補足を訳者がつけることになった. 多くの訳註と,附録 C, D, E がそれである.
 翻訳原稿は1年近く前にできていたのだが,出版社に無理を言ってしばらく待ってもらった. 本書の原稿を用いて,三重大学教育学部数学科の学生向けに講義をし,今に通じる形を探してみたかったのである. その講義の中で補充しなければならないことのあまりの多さに,訳註だけでは対応できないので,必要最低限の予備知識を巻末にまとめておくことにした(附録D). これは,その講義の中で彼らのために行った,大学1,2年レベルの内容の復習をまとめたものと言ってよい. 本文中の項目に があるのは,附録Dに説明があることを意味している. があるのを煩わしいと感じられる方は,印刷の汚れと思って無視して頂きたい. この予備知識の章はできるだけコンパクトにまとめたつもりだが,分量が思ったより多くなってしまった. 専門家を目指さない多くの人にも本書を楽しんでもらうためのものだが,分量があまり増えないように1つ1つは随分そっけない書き方になってしまった. 本文を理解するのに必要なだけしか書いてないので,項目の偏りに対する不満は残るだろう. 分量の多さといい,むしろわからぬ講義を理解しようとした学生たちの努力の跡だと許して頂きたい.
 第8章の演習問題はなかなか初読では解けないだろう. 本文とは無関係に見える問題もある. しかし,何度か本文を読み返していると,ふとミルナーの世界の中にいることに気づく. そう感じたときには,問題を解くための道具が手中にあり, 問題は自然に解けてしまっているだろう. そのように時間をかけて自分で考えるのが一番よい.
 解答をつけないのが本当は親切だとは思いながら,附録Eに解答例をつけておいた. 本書の精神と考え方に沿った形の解答にしようと努力したが,そうした上でさらに軽やかな記述にすることは訳者の力量を越えるものだった. あえて図を補うことはしなかったが,読者は図を描きながら解答を考えて欲しい.トポロジーは何といっても幾何なのだから.
 附録Cのブック・ガイドには,原書が出版されてから30年以上経っていることから,その後の進展に関わる文献をあげることにした. その際,想定した読者の性格上,現在の日本の読者に手に入りやすい日本語の文献だけに限ることにした. 予備知識に関する教科書もあげておいた.いずれも一読の価値はある.

 本書は,訳者としては2度は通読していただきたいと思っている. 最初は細かいところを余り気にせず,ぐんぐんと読み進み, 風切る音が聞こえるほどのスピード感を味わって欲しい. そして,トポロジーって,数学って面白いなと思って欲しい. いくぶんかの予備知識があると,かえって気になって先に進めないということがあるかもしれないが,概略をつかめれば先に進んだ方がよい. 先入観を持たず,素直にJ.ミルナーの講義に出席して欲しい. そして2度目以降は,図を描き,証明を補いながらじっくりと味わう。 何度も読んでいるうちに,ミルナーの創る世界に馴染んでくるだろう. 速読を楽しみ,精読を味わう.そういう読み方ができる本である.
 訳者が学生の頃だったら,本書は何らかの意味で数学のプロになろうとする人しか読まなかっただろう. だから日本語に訳す必要はなかった. いま,日本語に訳すということは,もっと広い層の読者に数学の豊かさ,美しさ,力強さを味わってもらうためであるだろう. 数学離れが広汎に進んでいるというこの時代にも,本物の数学を求める人は大勢いるものと信じている. そういう人たちに,手にすることの可能な本物の数学を提供する. それが本書を翻訳する基本的なスタンスであった.
 数学を愛するすべての人に,この本をささげたい. 受験勉強に飽きて大学での数学に好奇心を抱く高校生に. 無味乾燥にみえる微積分や線形代数の講義を聴いて知識に対する瑞々しい感性を失いかけている大学生に. 難しいばかりに思える数学の講義を聴いて情熱を失いかけている数学科の学生に. 数学に何とはなしの愛着と関心を持ってはいるものの,適度な数学書が見当たらなくて不満を抱いている,文化としての数学を愛する人に.
 扉の写真は最近のもので,髭の白さが少し年齢を感じさせるが,訳者が交換研究員としてモスクワ大学にいた1982年に,おりからゲリファント・セミナーを訪れたミルナーの講演は颯爽としたものであった. すらっとして都会的なミルナーが少し話すと,ロシア民話に出てきそうな大男のD.B.フックスが汗を拭きふき通訳していたことを思い出す.
 ここで,翻訳原稿を作る際にお世話になった方々に感謝しておきたい. 忙しい中,松本尭生(広島大学),阿部孝順(信州大学),福井和彦(京都産業大学),伊吹和彦(神戸商科大学)の各氏,とりわけ佐波学氏(鳥羽商船高専)にはご面倒をおかけした.その貢献は訳註や解答の一部に結実している. また,本訳書に誤まりがあれば,再版の都度訂正していきたいと思っている. 訳者のホームページ(奥付参照)では,出版後見つかった修正箇所をはじめ補完情報を掲載する予定である.
 訳者が京都大学の学生時代,トポロジーに夢を描いたときも,学問をすることに悩んで行方を見失っていたときも,足立正久先生は解答を与えるのではなく一緒になって考えて下さった.懐かしいあの優しい笑顔を思い出す. 先生との楽しい碁が打てなくなって,最近は碁を打つことが少なくなった. 今は亡き足立正久先生の想い出にも,本書をささげたいと思う.

1998年9月                     蟹江 幸博



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