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『数学,それは宇宙の言葉』 訳者あとがき

イギリス的な,あまりにイギリス的な



 イギリスを代表する(らしい)コメディアンの軽妙洒脱のまえがきから始まり,50もの笑いあり涙ありの講演を聞いた後では,付けたりのような訳者のあとがきなどなくても,読者の皆さんは満足してもらえていると思うのだが.
 笑いはあったが涙はなかったような,と思われる方も多いでしょう.ですが,いくつかの話の裏側にはバケツで受けるほどの涙があるのです.それを見せないようにしてあるのです. 血と涙の結晶のような話もあるのですが,どれがそうだか分りましたか?
 しかし,どの話にも何かなしのユーモアがありますが,どうも日本人にはわかりにくいようです. イギリス人のユーモアは日本人だけじゃなく,ヨ-ロッパ大陸の国やアメリカの人にもどこか分かりにくい点があります. イギリスには独特の文化があるようです. それをうまく伝えられたでしょうか?
 高く広い文化があれば,それを担う人々の素養の広がりも大きくなります.この講演は論文ではなく,文章も語りの文体になっています.つまり,50+2人のそれぞれの言葉のニュアンスが微妙に異なっており,それに慣れるのに時間がかかって,多少慣れたかと思えるころには終わってしまって,次に話に移らないといけない.
 右上の訳者の(?)シルエットは,悠然と語りを楽しんでいるように見えるかもしれませんが,内心では実に疲れているのです. 1つの講演に接するとき,前の講演の人々の感性がその講演を理解するのにかぶさってきて,いわば理解を阻害するのです.意味が取れない方言というほどのものはないのですが. それらを何とか理解しやすい日本語にする努力をしたので,内容は分かってもらえるようになったのではないかと思います. しかし,語り手の微妙なニュアンスは失われてしまったかもしれません.
 イギリスのIMA(数学と応用研究所)の50周年記念事業として企画されただけあって,非常に幅広い内容になっています. 中には,これが数学なのかと思わせるようなものもあります. 本文より先にあとがきを読んでいるような読者には伝わらないかと思いますが,せめて目次を眺めてみてください.
 日本で数学の勉強をしていて,好きになる人も,嫌いになる人もあるでしょうが,本書を読んで,これが数学だということなら,勉強してもいいかなと思う人が増えるかもしれません. しかし,これらはすべてきっかけにすぎません.深く知りたいというのならば,各章の参考文献や訳註の中の文献から辿っていただくしかないでしょう. 日本の教育システムで大学初年級まで数学を学んだとしても関連したものは少ないでしょう.
 数学は厳密な科学で,学ぶのは難しいと思っている人も多いでしょう. そうしたものとして思い出されるのは,200年以上前からのユークリッド幾何学と,100年ほど経った微積分学とその基礎のε-δ論法ですね. 堅牢で揺るぎない大建築物のようで,圧倒される感があります.
 しかし,これらは学ぶものを圧倒するためではなく,どんなに攻撃されても倒れないことを目的としており,さらにはそのまま学んでいければ非常に効率的でもあるのです.
 微積分はイギリスのニュートンが作りましたが,揺るぎない形に作り上げたのは,ライプニッツベルヌーイオイラーをはじめとする大陸の数学者でした.体系だった微積分の大部の教科書を書くのもコーシーをはじめとしたピカールグールサのフランス人でしたし,それらが現在の微積分の教科書の根幹になっています.
 数学の特徴は普遍性と多様性であると思っています.堅牢な構造を持つことが普遍性を目指し,それは古代ギリシャの哲学と誕生ともかかわり,近代合理主義の思想家たちの数学への憧憬が,現在に至っているのでしょう.
 しかし,数学の始まりがギリシャ哲学を待たねばならなかったわけではありません.古代メソポタミアには高度な天文学・暦学との関りから,古代エジプトでは国家経営,ピラミッドなどの土木・建築,暦などに関係した個別の深い工夫があり,中国にも古代から優れた数学書があり多くの現実的な問題を処理できるようになっていました. 古くから日本にも伝わり,江戸時代には独自の発展を遂げ和算と呼ばれるようになったのですが,もろもろの現実的な問題とかかわりながら発展してきました.
 イギリスの数学が理論的でないといっているわけではありません.大建築物を作るよりも具体的な問題を好む傾向があります. ニュートンも,関数の性質を根底的にとらえたいから微積分を作ったわけではなく,惑星の運動を基本的な法則から導き出したく,そのための手法として作り上げたのです. 日本人の多くに純粋数学の権化のように思われているG.H.ハーディですら,集団遺伝学の基本法則を発見しています.
 本書の中で扱われているテーマの多彩さには驚かされます. 競馬などの賭け,サッカーボールの形,バーコードの成り立ち,ビンの中の球の詰め込み,十種競技の点数のつけ方,肥満問題,高速道路の自然渋滞のわけなどのテーマに熱心に取り組んだりします. 第2次世界大戦で連合国側が勝った理由の一つには,イギリスで大量に数学者を集めて,暗号解読などに従事させたことがあり,それからまた新しい分野が生まれたりもしています.
 数学が役に立つのはなぜか,また数学の論法に潜む罠についても語られているし,数学マニアならよく知っている事実がこんなことにも使えるのかと驚かされることもあります. 種々のインフルエンザが世界的な流行を引き起こしたことがあり,その中の豚インフルエンザが,イギリスでどのように伝播していったのかを解析した話もあります.
 数学の在り方もイギリス的ですが,その語り方もイギリス的です.古く,少し孤立した文化を持つ日本とどこか通じるところもあるようです. 例えば,第5話のブリストルの橋は,有名なケーニスベルクの橋の問題でのオイラーの解法を,実際に42にもの通行可能な橋のあるブリストルで,歩いてみようというわけです.ときどき,休憩しての独り言で,オイラーの解法の神髄を解き明かしていきます. 今はネットで世界中の地図を表示することができ,道路の各地点からまわりの風景の写真も見られます.カラー写真で見る橋は美しいものです.
 その際,説明をせずに,橋の名前を次々を挙げていくところがあります.訳者は,古今亭志ん生が落語「黄金餅」の中で,下谷山崎町の長屋から麻布絶口釜無村の寺までの道のりを,テンポ良く述べていく件くだりを思い出しましたが,皆さんはどうでしょうか.
 読み飛ばしたところを読み返せば,より深く,より広く味わうことができるでしょう.このイギリス的な,あまりにイギリス的なエッセイ集をご堪能ください.

2020年7月


蟹江 幸博



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