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『数理解析のパイオニアたち』
 訳者あとがき



 本書の原表題は,4人の主人公の名を連ねた『ホイヘンスバローニュートンフック』というものであり,副題「伸開線から準結晶まで,数理解析とカタストロフ理論のパイオニアたち」の一部を日本語版の表題として採用した.
 本書には,実に様々なテーマが盛り込まれている.簡単に内容を述べておこう. 第1章では,近代数学と理論物理学の幕を開いたニュートンの『プリンキピア』が何のために書かれ,そこでニュートンは何をし,何をしなかったか.また,彼の先行者たち,同時代の競争者と協力者が何をしたのかが語られている. 特に,ニュートンとフックとの間に起こった出来事が,従来あまり触れられることのなかった視点で語られている.
 第2章では,解析学(微分積分学)がいつ,何のために創られたのか.解析学の基本的なアイデアがどこからきたのか,どのように発展してきたのかが語られる. 19世紀末の解析の基礎の議論が瑣末に見えるダイナミックな語り口で,直接にニュートンの衣鉢を引き継ぐアーノルドならではと思わせるものになっている. 特に,引用されるブルバキの(おそらくはヴェイユの)見方との対照が面白い.
 第3章は,この本流に隠れていた感のあるホイヘンスを祖とする,1つの数学が語られる. 数学としての内容が,時代の定式化(枠組み)を越えていて,現代に, シンプレクティック幾何学,変分法,最適制御,特異点理論,カタストロフ理論などの現代数学の分野として開花している.
 第4章は,解析学を用意して宇宙の神秘に分け入ったニュートンの力学理論が,後世どのように発展し,その力を実証してきたかが語られる. ハリー彗星の回帰の予言,海王星や冥王星の存在の予言,土星の環のすき間の理由,太陽系の安定性,三体問題の厳密解が予言した木星軌道上の小惑星のトロヤ群,太陽観測に適した宇宙ステーションの位置など,理論が現実に応用されるさまが生き生きと語られている.
 第5章と附録2では,ヒルベルトの第16問題である,代数曲線のトポロジーの問題が,『プリンキピア』の中に,ケプラーの第2法則と関係して議論されていたことが発掘されている.
 アーノルドは,これらのすべてに基本的な貢献をし多くの研究者を指導してきている,現在最大級の数学者である. アーノルドは,それらに関する自分の業績をあからさまには述べていないが,ある意味で本書は,アーノルドとアーノルド学派の業績の意味とルーツを語るものになっているとも言える.
 本書は単なるエピソード集ではなく,数学自体の成長を記録するアルバムでもあって,力学や数学に関する用語が自然に用いられている. 最低限の註はつけたが,本当に理解しようとするなら,これまで日本語に訳されているアーノルドの著書を参照するとよい. また,解析学の誕生時の数学的情況に詳しい,ハイラー--ワナー 『解析教程・上下』(シュプリンガー・フェアラーク東京)も折りに触れて参照するとよいだろう.

著者のフルネームは,ヴラディーミル・イーゴレヴィッチ・アーノルド(Vladimir Igorevich Arnol'd)で,1937年12月6日,旧ソ連のオデッサに生まれた. モスクワ大学を卒業するのは1959年だが,在学中の1957年に,ヒルベルトの第13問題を(否定的に)解決したことで一躍有名になった. 恩師のコルモゴロフのプログラムに沿って,太陽系の安定性を導く摂動理論を確立し,1965年に師とともにレーニン賞を受賞し,物理・数学博士となっている. またその年,モスクワ大学教授になっている. 現在は,半年はモスクワのスチェクロフ研究所,半年はパリ大学ドーフィン校CEREMADE(Centre de Recherches en Mathematiques de la Decision,決定数学研究センター)で働いている.
 著書も多く,本書出版時に日本語に訳されているものは,
  1. A.アヴェ(Avez)との共著『古典力学のエルゴード問題』(Problemes ergodiques de la mecanique classique, Gauthier-Villars, 1967),吉田耕作訳,吉岡書店(1972)
  2. 『古典力学の数学的方法』(Matematicheskie Metody Klassicheskoi Mekhaniki, Nauka, 1974}),安藤韶一,蟹江幸博,丹羽敏雄訳,岩波書店(1981)
  3. 『常微分方程式』(Obyknovennye Differentsial'nye Uravneniya, Nauka, 1975}),足立正久,今西英器訳,現代数学社(1981)
  4. 『カタストロフ理論』(Teoriya Katastrof, Nauka, 1981}),蟹江幸博訳,現代数学社(1985)
である.これらすべてに続編というべき著書があり,シンプレクティック幾何,特異点理論,分岐理論,微分可能写像の特異点に関する著書もあり,ほとんど英語に訳され,Springer-Verlag社と Birkhauser社から出版されている. いくつかは近い将来,日本語に訳されるだろう.
 日本語版に著者のコメントを貰おうとアーノルドに連絡をとった直後,出版社経由でとんでもない知らせが飛び込んできた. アーノルドが交通事故で人事不省の重体だというのである. その後断片的に入ってくる知らせでも,病院を替わったことくらいしかわからない. 少しでも早い完全な回復を願うばかりである.

 さて,本書について少し述べておこう. 著者の前書きにあるように,何回かの講演記録を基にしたもので,初版は1989年にロシア語で出版され,1990年にBirkhauser社から英語版(E.J.F.プリムローズ訳)が出版されていて,基本的には英語版から翻訳したものである.
 本来はロシア語原著を基にして翻訳すべきであると思ったが,アーノルドの事故のこともあり,原著が手に入らなかった. かっての私の先生でもある友人の安藤韶一氏(現在,京都女子大学)の手元にあった原著をお借りできたのが,原稿入稿の5日前のことであった. この2つの版の間には若干の異動がある. 「はじめに」と附録2は,基本的にロシア語版によった. 引用文献のロシア語タイトルも補っておいた. 全テキストを比較する時間がとれなかったことは残念である. 幸いにして,本書が多くの読者に受入れられて,増刷することで,できればその都度,修正を施して行く予定である. アーノルドが十分に回復して,日本の読者への言葉を寄せて貰えればそれも掲載したい.
 また,肖像と人名索引と年表は原著にはないものだが,日本の読者の便宜のために作製した. 存在しないフックの肖像画についても,ボゴリューボフの本にあるモンタージュを是非掲載したいと思っている. 初刷りには間に合わなかったが,それができるほど,版を重ねることができるように願っている.
 最後に,原稿を通読してコメントしてくれた佐波学君に感謝する. 修士の頃アーノルドの論文を読んで以来,『古典力学の数学的方法』を訳し,モスクワで彼に手渡された『カタストロフ理論』を訳し,今度また本書を訳すことになったことに,深い因縁を感じずにはいられない. 訳しながら久し振りに彼の声を聞く思いがして,懐かしく感じた.

1999年6月10日

蟹江 幸博



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