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『本格数学練習帳』 はじめに


 はじめに


2000年以上もの間,あらゆる教養ある人間にとって,数学に
ある程度親しんでいることは,欠くことのできない知的な資質
の要素と見なされてきた. ところが今日,教育における数学
の伝統的な地位が重大な危機にさらされている.       



 古典的な書物『数学とは何か』初版の序文のこの書き出しは,1941年にリチャード・クーラントによって書かれたものである. 現代に特有だと思われがちな問題が,65年前にも(そしておそらくはもっと古くから)同じように深刻な問題だったことがわかると,少し肩の力も抜ける思いがする. 地平線上に雲の一つもなくなるとまでは言えないが,私たち著者は本書によって数学文化の継続にほどほどの貢献ができればと希望している.
 私たちの数学ヒーローの一人であるヴラジーミル・アーノルドが12歳のときに読んだ最初の数学の本は,ハンス・ラーデマッヘルオットー・テプリッツの『数と図形』 [訳註]1930年に出版されたドイツ語の本で,山崎三郎と鹿野健による日本語訳が,1989年に日本評論社から出版されている.であった. 1990年に出版された雑誌『クヴァント』[原註]ロシア語だが,バックナンバーはサイト http://kvant.meccme.ru/ で見ることができる. へのインタヴューで,1日に数ページというゆっくりしたペースでこの本を勉強したと,アーノルドは回想している. 私たちの本が,誰か未来の傑出した数学者の数学的進歩において,同じような役割を果たしてくれることを願わずにはいられない.
 この本が,高校生から熟練した研究者までの,数学を愛するすべての人の興味を惹くようになることを望んでいる. 易しい道程であることは約束しない. 結果の多くには証明をつけた.議論の細部まで追及するには,読者はかなりの努力が要るだろう. 努力の見返りとして,少なくとも時には, 読者はテーマの調和に対する畏敬の念に満たされることになるだろう(このことを感じるから,多くの数学者は研究に駆り立てられるのである!). G.H.ハーディの『一数学者の弁明』[訳註]1940年に出版された英語の本で,柳生孝明による日本語訳『ある数学者の生涯と弁明』が,1994年にシュプリンガー・ジャパンから出版されている.から引用しよう.

          数学者の規範は,画家や詩人がそうであるように,である.
         アイデアは,色や言葉と同じように,調和良く組み合っていなければならない.
         美が第一の試金石である.世界には,醜い数学に恒久的な居場所はないのである.

  私たちにとっても,美は研究テーマを選ぶ際の第1の試金石である. 通俗的な記事や講演のテーマを選ぶ際もそうだったし,その結果,本書の題材を選ぶ際もそうであった. どんな特定の分野(たとえば,数論や幾何)にも限定することはしなかった. 強調したかったのは,数学が多様であり,一体であるということである. もし本書を読んだ後で,読者が特定の領域についてもっと体系的な解説に興味を持ったなら,巻末の文献表は良い情報源になるだろう.
 副題について述べておこう. 「古典的(クラシック)」という言葉は,辞書的には「長い期間,その分野で最高の質を持ち,傑出していると判断される」と定義される. この厳格な基準を満たす数学を選ぶよう努めた. 本書で読者が出会うのは,アイザック・ニュートンレオンハルト・オイラーオーギュスタン・ルイ・コーシーカール・グスタフ・ヤーコブ・ヤコビミシェル・シャールパフヌートゥイ・チェビシェフマックス・デーンジェイムズ・アレクサンダー,その他の過去の偉大な数学者たちの定理である. ローバート・コネリージョン・コンウェイヴラジーミル・アーノルドといった,卓越した現代数学者の最近の結果については何度も触れている.
 本書には400ほどの図がある. 百聞は一見に如かずという格言は,本当にその通りだと思う. 本書の図は数学的に正確である. だから,3次曲線はある3次方程式を満たす点の軌跡としてコンピュータで描いてある. 特に,幾何の研究における実験道具として,精確な描画の重要性を示している図が第29講義の2つの例である. 最近1970年代になって正確な描画によって発見されたマネー=クーツの定理と,ポンスレのグリッドについてのリチャード・シュワルツがごく最近の定理である. シュワルツはコンピュータ実験によってこの定理を発見した. コンピュータを実験道具として使ったもう一つの例が第3講にある(「特権的な指数」の議論を参照).
 私たちは,各講義の長さや難しさのレベルを均一にしようとはしなかった. 極めて長く入り組んだものもあれば,かなり短くて軽めなものもある. 「カスプ」の講義はもっとも特徴的である. この講義には証明はなく,多くの例があるだけで.それが豊富な図で説明されている.これらの例の多くは他の講義で厳密に扱われている. 講義はそれぞれ互いに独立であるが,いくつかのテーマは本書のあちこちに出没している. 予備知識についてはあまり仮定してはいない. 標準的な微積分はほとんどの場合に用いているが,その計算さえ必要としないことも多い(このように壁がかなり低くなっていて,数学が好きならば高校生の挑戦も拒んではいないのである). また,どんなに教育のある読者にも,ほとんどすべての講義の中で驚きを感じてもらえるものと信じている.

 本書には200ほどの演習問題がある. その多くには解法と解答を与えてある. 演習問題は,講義の中で述べた話題をさらに発展させたものである. 多くの場合,より高度な数学を含んでいる(その場合には,解法の代わりに,文献表にある文献を引用する). 難しい演習問題には,難度に応じて星印を1つまたは2つ付した.
 本書は,私たちがロシアの『クヴァント』誌に1970年から1990年までに書いたかなり多くの記事と,旧ソビエト連邦やアメリカ合衆国(1990年以降ここに住んでいる)において,ざまざまな聴衆に対して行った多くの講演をもとにしている. その聴衆の中には, 2001年と2002年のカナダおよびアメリカ合同の数学キャンプに参加した理数系の高校生や, 2000年から2006年にかけてペンシルヴァニア州立大学におけるMASS[訳註]Mathmatics Advanced Study Semester(高度数学学習学期)に出席した大学生,カリフォルニア大学バークレイ校で行われた湾岸地域数学サークル に,教師や父兄と一緒に出席した高校生が含まれる.
  本書は,大学生用の優秀数学セミナー (通年のコースには十分すぎる題材があるが)や,さまざまな題材のコース ,高校や大学での数学クラブで使用することができる. パラパラめくってみるだけでも楽めるようにもなっているし,紙と鉛筆を持ってたくさんある魅力的な問題に挑戦すれば,数学する楽しみが味わえるようにもなっている.
この序文を引用で始めたので,お終いにもう1つ引用することにしよう. その定理が本書に一度ならず登場するマックス・デーンは,1928年の記事[22]で次のように数学を特徴づけている. その言葉は本書の主題にも適用できると私たちは思っている.

         ときに,数学者は,詩人や征服者の情熱を持つ.その議論の厳密さは
        責任ある政治家の議論,もしくはより単純に言えば,教育熱心な父親の議論
        の厳格さである.その寛容さと諦念は古(いにしえ)の賢人のそれである.
        数学者は革命的であり,保守的であり,懐疑的であり,そしてあくまでも楽天的である.

 謝辞. 本書を,彼の70歳の誕生日の機会に,V.I.アーノルドに捧げる.
 彼の数学研究と解説のスタイルは長年にわたって私たちに大きな影響を与えてくれた.
 私たちは,2005年と2006年の2年間,オーベルヴォルファッハ数学研究所(MFO)の「2人研究」 プログラムに参加した. 私たちはこの数学者のパラダイスに非常に感謝している. ここでは,管理人と料理人と自然が協力して,研究者の創造性を高めてくれる. MFOでの滞在がなかったなら,このプロジェクトの完成はかなり先のことになっていただろう.
  著者Tは,ボンのマックス・プランク研究所のいつも変わらぬもてなしにも感謝している.
 ジョン・ダンカン,セルゲイ・ゲリファント,ギュンター・ツィーグラーに多くの感謝を捧げたい. 彼らは原稿を最初から最後まで読み通してくれ,彼らの詳細なコメントや批判(しかもほとんど重ならないものだった!)のおかげで,大いに本書の説明を改善してくれた.
 著者T は,全米科学財団(NSF)によって部分的に支援を受けたことに感謝する.


             カリフォルニア州立大学デーヴィス校とペンシルヴァニア州立カレッジにて
            2006年12月  


 

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