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比例の記号の変遷--TOSMポスト風信--
(数学セミナー1月号(2000.1.1), 2-5.ページ.)


 昼下がり,わが輩と先生は,今日も縁側の下と上で居眠りをしていた. そこへ,お客さんですよと,奥さんの声. すぐに起きて行かないと,眠っていたことがわかってしまう. 先生,やれやれ,と重い腰をあげる.行ってみると,来客ではなくて,手紙だった.

 「「家庭電器」に関する通信教育を長年事業として進めております。 「∝」という記号の正式の用語名称をお教えください。また,記号の出典は,何でしょうか?」
 「なんだ,ポストか.フニャフニャの記号 〜 ねえ... 」

 先生,どうも寝ぼけているようだ. 先生つねづね,算数や数学を教えることに困った時には何でもお訊きと言っていて,時々見も知らぬ人から質問される. 知ってる人だと,適当にごまかしているようだが,先生,見かけによらず気が弱くて,人見知りする質(たち)なのだ. ぶつぶつ言いながら,調べものを始めたようだ. 相手をしてもらえそうもないので,わが輩は縁側の下で,居眠りの続きをすることにした.
 気がつくと,わが輩の頭の上でがさがさと音がする. 書き上げた返事が,風で庭まで飛んで来たらしい. 先生はと見れば,机に寄り掛かって御眠りだ. どれどれ・・・

TOSM先生の返事を覗いてみると

 用語の正式名称というものがあるかどうかは分かりませんが,「比例記号」ということでいいと思います。
 英語で考えてみても, 数学史で有名なF.カジョリが,A History of Mathematical Notations という本[1]の中で,この記号について書いていますが,その節の見出しは Signs of Proportion となっています。
 ちなみに A ∝ B という式は A is proportional to B (A は B に比例する)という文章を表現したものです。
 さて,「比例」することを表現する記号が確立していくのにも長い歴史があったようです。 カジョリの本を参考にして少し述べてみましょう。
 記号による式の表示が確立する以前にも,比例を文章で表現することからの脱皮を試みた長い歴史がありますが,印刷以前の歴史は煩雑で今は手におえません。 印刷されたものの最初のものはルドルフの教科書 Coss1525年ストラスブールで出版した(ドイツ初の)代数学の教科書. のようで,シュティーフェル(1553)による再版には,
| 1 | | 1
100 | -  z | 100 z | Facit - zz
| 6 | | 6
というように,垂直の線で区切って,現在の記号での
1 1
100 : -  z = 100 z :- zz
6 6
を表わしているのが見つかります。 しかし,例えば,タルターリアは数を扱った本(ヴェネツィア,1556)の中で
Se   L   3   //   val   β   4   //  che valeranno L 28
と書いているように,文章の多い表現も混在します。 その後,クラヴィウスグレゴリオ暦を作った人で,当時の指導的学者が『実用算術』(ローマ, 1583)の中で

9   .   126   .   5   .   ?   fiunt   70   .
と,
9 : 126 = 5 : 70

のことを書いています。 また,1699年にコラチャンが算術の教科書の中で,比例式を
A . B . C . D .
5 . 7 . 15 . 21 .
と,
5 : 7 = 15 : 21

のことを2段に書いています。そのほか,シュヴェンター(1623)は 68 − 51 − 85 と書いて,51× 85/ 68 ,つまり,比例式の第4項を求めよという問題を提示していたり,ガリレオ(1635)も同様の問題を,具体的に積み上げ式に計算しています。 ガリレオはまた別の本で,数を区分けするのに横線 − でなく,点 .や空白 を用いたりしています。
 これとは少し別の流れとして,例えば,オランダのヨハン・シュタンピオーエン(1639)は記号を使って,
a   ,,   b    gel  :   b   ,,   c

と書いています。今の記号では a:b = b:c のことです。 1601年にランスベルギウス
ut   5  ad  10 ; ita  10   ad  20
と書いたのも, 5:10=10:20 のことを意味しています。これらは等比数列の一部という意識か,比例中項を求めるという意識かだろうと思われますが,前後の記述がないので分かりません。 また,イタリヤ人のミケランジェロ・リッチが,幾何の演習書(1668)の中で
esto   AC   ad   CB,  ut   9  ad   6
と書いてもいます。第4項が欠けていたり,第2項と第3項が同じであったりはしますが,式としてのちゃんとした表示まで後一歩です。

 17世紀前半に活躍したイギリスのオートレッドは,数式の表示や記号について大きな貢献をした人ですが,『数学の鍵』(ロンドン,1631)で, 5 . 10 :: 6 . 12 (現在の記号では 5:10=6:12)という書き方を導入し,これ以降の著書でもこの記法を採用していて,以降イギリスではこの記法が広く使われるようになります。
 しかし,点「.」は色々な意味を持つことがあり,これはこれで不便なこともあります。例えば,小数点に「.」を使うことができません。
 そのためイギリスでもこれを少し修正した記法が提案されます。 すでに1651年にヴィンセント・ウィングが『天界の調和』 (ロンドン, 1651)という天文書で A . B::C . D という記法とともに A:B::C:D という記法も使っています。 この本ではもしかすると,タイプするときの間違いであった可能性があるというのですが,これ以降の著書でははっきりと A:B::C:D という記法に統一しています。
 これ以降,オートレッドの記法とウィングの記法が優劣を競うことになり, 少しずつウィングの記法が優位に立つようになります。 中にはスイス人のジョン・アレキサンダーの『代数』(ロンドン,1709)のようにオートレッド式の a . b :: c . X  を使ったり,
_ _
・・b:c・・X
を使ったりしている例もあります。 またこの本には,
_ |ad
・・a : d|−
| b
という書き方もあります。
 例えばニュートンですら,1676年の手紙ではオートレッドの記法を,後の論文ではウィングの記法を用いたりしています。
 一方ヨーロッパ大陸では,縦線を使ったものやタルターリア風の書き方に似たものが使われていましたが, 一般的になりませんでした。
ルネ・デカルトは,1619-21年には a|b||c|d という書き方をしており, 1638年の手紙では a|b|c|d と書いています。 縦線で等比級数の各項を区分していく例は,スルジウスホイヘンスへの手紙(1668-69)とか,ジャック・ド・ビリーの幾何の本(1643)に見受けられます。 18世紀の初めの頃のデカルト主義者たちは a|b||c|d の形を採用しており,ディドロの百科全書(1754)でも採られています。 1701年にラ・イールが aa||xx||ab と書いているのは,a2:x2=x2:ab の意味で,等比数列の3項を区切っている例と見ることも出来ます。
 変わった書き方もいろいろあって,パリのピエール・エリゴーン(1644)は「hg π ga  2|2  hb π bd は,HG が GA に対するのは HB が BD に対するのと同じであることを意味する」と書いています。 今の記号では hg : ga = hb : bd となり,相似比が等しいことを表しているようです。 2|2 が「等しい」ことを,π が「比」を表しているのも面白いですね。
 また,1659年のボローニャのピエトロ・メンゴーリは, a:r=a2:ar のことを「a;r:a2;ar」という書き方をしています。
 ルーアンのA.ド・メルカテルの『算術』(1733)では, 2 ,, 3 ;; 8 ,, 12 とあり,スペインのザラゴザの『算術』(ヴァレンシア,1669)では 4 .3 : 12 .9  とあり, ハンガリーのクレサの『球面三角法』(プラハ,1720)では
rr
x ... r :: r ...
や AE .. EF :: AD .. DG という記号も見受けらます。
 オランダのド・グラーフの本(アムステルダム,1694)では,2−4=6−12 と比例式を表し,ヨークは『算術』(ロンドン,1687)では 125−429−10−? と書いているが,後の本では 33600 7 :: 153600  32 と書いていて,オートレッドとウィングの記号の争点である 「.」と「:」を使わず,空白に代えています。
 また,比と商とを区別する目的で,ジークは『算術』(ロンドン,1696)の中で,3−2 と書く代わりに
・・
と表しています。
 オートレッドの . :: . という記法は大陸でもゆっくりと広まっていき,17世紀後半以降多くの人に用いられるようになります。
 ド・ラ・カイユが『基礎数学講義』のラテン語版(ヴェニス,1762)で,3.12 :: 2.8  と 3:12::2:8 と 3:12=2:8 と 3|12 || 2|8 という4つの記法が一般に使われているが, 3:12::2:8 を用いると述べています。 以降,イギリスとアメリカでは : :: : が20世紀の始め頃まで一般に用いられ,今でも使われることがあるようです。 なお,19世紀末までは,スペイン,ポルトガル,南米などでは,この記法が一般的でした。
 ライプニッツですらオートレッドの記法を用いていたのですが,彼はじっくりと記号について考えることになります。 その前駆として,シュタンピオーエンの『代数学』(1639)では, A,,B=C,,D という記号も用いられていました。 問題は = を等号として用いるということ,比として等しいということに = を使うということですが,普及はしませんでした。 イギリスでも,1668年にジェームズ・グレゴリーがパドゥアで出した幾何の本では比が等しいことに = を使っていますが,それに続く人はありませんでした。
 1693年にライプニッツは比や比例に特別な記号を使うのはおかしいと述べています。 比には商の記号で十分だし,比例に対しても比の等しさを表わすのなら,(漸く認められるようになってきた)等号=を用いない理由はない。 比と商は同じ意味を持っているのだから同じ記号を用い,それが等しいという意味で, a:b=c:d とか
ac
bd
と書くべきだ,というのがライプニッツの主張です。 1708年の『学術論叢』Acta Eruditorum Lipsiensium「ライプツィッヒ学術論叢」ないし「ライプツィッヒ学報」と訳すべきもの。1409年に設立されたライプツィッヒ大学(ラテン名ウニヴェルシタース・リプシエンシウム)のオットー・メンケが,1681年の春ライプニッツに学術研究雑誌の創刊を相談し,翌1682年に創刊されたもの。第1号にライプニッツの論文が掲載されている。は,a:b=c:d というライプニッツの記号が用いられた最初の印刷物ですが,その号に,それ以降の『学術論叢』の編集方針として,代数的な記号はライプニッツのものを使うと明言してあります。
 ドイツのクリスチャン・ウルフはこれを採用し,1710年の教科書(マルデブルグ,1710)ではまだオートレッドの記号と併用していますが,1713年以降は一貫してライプニッツの記号を用いています。 フランスではクレローの『代数学』(パリ,1746),サブリアンの『数物辞書』(パリ,1753),また1765年のパリ・アカデミーの出版物にも見受けられます。 1727年の早さでオイラーがペトログラード・アカデミーの雑誌でも用いています。
 1743年にはスイスで,1763年と1775年にオランダでこの記号を含む教科書が出版されています。 もちろん,折衷の記号もあって,1768年のオランダの代数の教科書には . = . という記号の出てくる例もありますが,消えてしまいます。
 1751年創刊の数物雑誌『スイス論集』の最初の巻にライプニッツの記号が使われています。 アイルランドでは1770年,イギリスではやっと1812年にジョン・コールの『立体測角術』に採用されていますが,一般に普及するにはさらに1世紀の時が掛かります。
 ヨーロッパ大陸では19世紀には一般に採用されていますが,アメリカの19世紀は : :: : が主流で,ライプニッツの記号が一般に普及するのは20世紀に入ってからのことです。
 日本の場合,明治時代,主にドイツから学問を輸入したので,最初からライプニッツの記号を用いていたようです。
 比例式の記法にこんなにも長い歴史があったのですが,イギリスやアメリカで,変量の比例について使われることもあった記号が ∝ だったのです。 最初に用いられたのは18世紀末のことで,W.エマーソン『流率論』W. Emerson, Doctorine of Fluxions, ロンドン,1768)によるものです。 彼は「既にある共通の代数記号に,私は一般的な比例を表わすこの ∝ という記号を付け加えたい。つまり,
 B
A ∝ − D
 C
は,A が
B
− D
C
と定数の比を持つことを意味する」と書いています。 比例式の第4項が変量になっているという感じでしょうか。 変量の間の比例関係を表わすときに,固定した数量間の等式というイメージを避けるために作ったのでしょうか。 この後イギリスで少しずつ普及していき,20世紀以降広く認知されるようになったようです。
 ところで, ∝ の左右を反対にした形の記号(〔ブラウザーには字体がないので以下の引用では∝'と仮に書くことにする〕) がデカルト『幾何学』(『方法序説』, パリ,1637の付録)の中に見ることができます。デカルトの
z ∝' b, z2 ∝' az+bb, z3 ∝' az2+bbz−c3

などは方程式を表わしており,従って等式を表わしています。 大陸では広く用いられたようで,ヤコブ・ベルヌーイも『推測術』(死後出版,バーゼル,1713)で等式にこの記号を使っていることは,ハイラーG.ワナー[3]の第I章第1節最後の図版でも確認できます。
 元々は,等式は等しいという意味の言葉
aequales,  aequantur,  esgale,   faciunt,   ghelijck,   gleich

やその略語を用いており,多くの場合 aeq または ae という略号が使われていました。 2重母音 ae は \ae と書かれることも多く,これを図案化したものではないかと思われます。
 エマーソンの頃,既に等式にはリコードの記号=Robert Recorde『才知の砥石』(Whetstone of Witte, ロンドン,1557)において最初に印刷されている。が使われることが確定しており(イギリスでもあったからか),デカルトの記号 ∝' は使われておらず,廃物利用したいと思ったが,そのまま使うのではさすがに問題なので,左右をひっくり返したのだったのかもしれません。 最後の部分は個人的な思い付きなので,あまり人には言わないで下さい。
 この等号=についても,また,最初質問を受けたときに僕が勘違いした相似の記号 ∽ についても面白い歴史がありますが,今回はこれくらいにしておきます。
 なお,人名が沢山出てきて読みにくかったかも知れませんが,インターネットに簡単な紹介をしてありますのでご覧ください.アドレスは http://kanielabo.org/mybook/humanind/jinmei.htm ですが,出来れば,ホームの http://kanielabo.org/ から入って欲しい・・・のですが,それはまあ,どっちでもいいかと・・・

先生はまだ眠っている

どうもえらく熱の入った返事だ.質問の答えはたったの数行で,その他は好きなことを書いている.
 そう言えば,TOSMポストの質問はホームページの掲示板で受けていた筈だったが,掲示板の具合が悪いことがあると手紙や電話でもくるらしい. 電話で訊かれても困るんだ,すぐに答えられるような質問は僕も面白くないし,せめてメールにしてくれとボヤいていたことがある.
 たまにわが輩の散歩に連れていってやると,先生,神さんには内緒だぞと言っては,ボヤくのだ.
 ポストも最近は面白い質問が少なくってな. 他の大学の学生がレポートの答えを教えてくれというのがあって,あれはショックだったな. 俺は,真面目に算数や数学を教えている教師が,現場で起こってきた数学的な疑問を,解決できなかったり,子供たちへの伝え方がわからないなんて場合に,お手伝いしようというだけなんだ. ボランティアなんだぞ.実際,けしからん.
 わが輩にしか愚痴が言えないのは,そぞろ哀れを催すというものだ. そういうときには,顔を舐めてやることにしている. それで機嫌が直るのだから,先生も悪い人間ではない.
 直方体の展開図の種類を小学校の先生に訊ねられて以来のポストだが,色々な質問がくるようだ. 幾何の問題,有理数の問題,論理の問題,組合わせの問題,教え方の問題,歴史の問題,数学ゲームの問題・・・・ ハノイの塔が4本だったらどうなるか?なんて質問には,嬉しそうに何ヶ月か考えていた. 答えられたんだったか,どうか.役にも立たぬことを考えるのが,好きなようだ. だから,ただ答えが欲しいだけという質問が嫌なんだろう. 本を見れば載ってることをどうして俺に訊くんだって・・・, ありゃあ怒っていたのか,拗ねていたのか.
 まだ,寝ている. 先生,近ごろお疲れで,わが輩と散歩に行くことも少なくなった.
 TOSMだTOSMだ,これからは直接現場の教師の支援活動をするんだと騒いでいた頃は,毎月のように岐阜だ福井だなんて出掛けていたが, 御仲間もそれぞれ偉くなって,大学の仕事も学会の仕事も忙しくて相手にしてもらえないみたいだし.
 それで暇になったかと言えば,ますます忙しくしている. あれはどういうものなのだろうか.
 春と秋の数学会のたびに,数学教育TFとか言って,開催地のまわりの高等学校の数学の先生との懇談会に参加している. と思ったら,最近は会のセットをしているようだ. これも教師の支援活動だと思ってもいるようだが,援ける方も援けられる方ももう一つ,何がしたいやらして欲しいやら分からぬという風情だ. 「援ける」,「援けられる」というのがいけないんで,一緒に何かをなすべきだ!!と言ってたこともあったが,それもその「何か」が何なのか模索中らしい.
 模索しているうちに時が経ち,世の中が変っていく. みな,忙しない. 夕焼けの色だって,胸に沁みることがなくなってきた. 川の土手で,たまたま出会う友犬の飼い主と先生が,川に映る夕映えを見ながらの立ち話などという図も,最近とんとお目にかからぬ.
 先生,激しい躁鬱症で,躁の時の散歩と鬱のときの散歩とでは,歩くスピードが違うのだ.連れて歩くわが輩の身にもなってほしいものだ. ちょっと前の躁の時には, TOSMとTFを発展的に解消して,日本でも数学会以外の数学の学会を作った方がいいとが叫んだりしていた. MAAの向うを張ればMAJだ,マジシャンか! 数学会は数学者の相互扶助組織で,MAJは数学の普及と発展と地位の向上だな.
 わが輩との会話では,兎角説明抜きのスローガンになりやすい. MAAというのは,アメリカの数学の団体だそうだ. 昔はアメリカの数学会と喧嘩していたようだが,今では仲直りして,両方の会長を歴任した人もいるそうだ. 日本は,アメリカものの輸入でないと,新しいものは育ち難いから,それもいい方法だなと,失礼なことを言っていた.
 わが輩はれっきとした,日本伝来の柴犬である. 町では舶来の同族たちはヘアサロンやホテルを利用しているらしい. 興味はないわけではないが,ヘルスセンターで運動するより,先生を引き連れて土の上を走った方が好みである. 鬱の先生を治療するのはこれが一番だ. 犬はみな,何かしら社会に貢献しなければいけない.
 おっ,先生お目ざめだ.「おい,犬,散歩に行くぞ!」 久し振りだ,付き合ってやるとするか. ポストのおかげで,少し躁らしい. 今日の散歩じゃ,何を喚くのだろうか?
 近ごろやってる,総合学習の学会の話かも知れん. 嫌だ嫌だと言いながら,やらねばならんと鼻息の荒いときもある. 数学のために始めたらしいのだが,行動をそれ自体を目的としてしまうことがある. わが輩の占いとしては・・・,さて,どっちの気分のときに顔を舐めてやることにしようか.
 では,出かけるか. えっ,わが輩に名前がないって? 失敬なことを言うもんじゃない. わが輩には血統書があって,立派な長い名前もある. 先生に覚えられないだけなのだ.

参考文献

[1] Florian Cajori: A History of Mathematical Notations, Dover (1993). Originally published by Open Court Publ., La Salle, Illinois, in 1928 and 1929.

[2] 蟹江幸博『教育論壇−旗は揚げているのだが− 』 数学セミナー別冊「数学の愉しみ」4号 (1997.12), 86-93.

[3] E.ハイラー,G.ワナー『解析教程 上下』(蟹江幸博訳)シュプリンガー・フェアラーク東京(1997年),Analysis by Its History, Springer Verlag(1996), by E.Hairer & G.Wanner.